金日成主席『回顧録 世紀とともに』

2 イタチとりの老人


 我々が馬塘溝密営で軍事・政治学習をしていた期間にも、敵は朝鮮人民革命軍司令部の行方をつきとめようと血眼になっていました。人民革命軍の主力が白頭山地区を離れて濛江地区へ進出したことを遅ればせながら探知した日本の諜報・謀略機関は、朝鮮革命の首脳部を陥れる陰謀を企んでいました。

 その時期の教訓的な話を一つすることにしましょう。

 ある日、金周賢が小部隊工作から帰ってきて言うには、かつて独立軍で活動したことがあり、いまは濛江に住みつきイタチの罠を仕掛けて歩きまわっているという老人に出会ったので宣伝工作をしたのだが、傾向がよかったということでした。わたしは、そのイタチとりの老人に好奇心を抱きました。まず、独立軍の出身であるということに気がそそられました。当時の世相といえば、中日戦争勃発以来、日本軍が中国本土に侵攻して北京を陥落した、上海を占領したと物情騒然としていたため、芯の弱い人たちは、ほとんど革命を放棄し、風の立たない奥の間や路地裏に身をひそめているときでした。一人の愛国志士でも懐かしく思われ、かつて、多少なりとも独立運動に参与したという人に出会いさえすれば、ともども手を取って喜び合うという時節でした。まして、その独立軍出身の老人と接触したのが濛江であったというからには、その老人を通して沈竜俊の行方がわかるかもしれないという期待を抱くようにもなったのです。沈竜俊は、満州で正義府、新民府、参議府という独立軍の3府が勢力争いをしていたころ、参議府で大物として活躍した人物です。その沈竜俊が、参議府時代に輝南、樺甸、濛江一帯で活動し、3府が国民府に統合された後は濛江のどこかに住んでいると、風の便りに聞いたことがあったのです。

 わたしが沈竜俊を知ったのは、彼がわたしの父の知友であったからです。中学時代には、吉林の尚儀街にあった復興泰精米所や三豊旅館で彼をよく見かけました。当時、満州地方の独立運動家や独立軍の指導者は、三人一党、五人一派、八団九会の乱立状態を解消し、各党、各派、各界勢力の結集を目的とする3府統合を模索していましたが、ほかならぬその会合の中心地が吉林でした。正義府と新民府、参議府を一つの組織に統合する代表者会議のとき、沈竜俊は参議府の代表として参加しました。

 わたしは金周賢に、イタチとりの老人についてもう少し調べ、彼が沈竜俊を知っているのか、知っていれば、いまどこでどう過ごしているのかを聞いてくるようにと言いました。任務を果たして帰ってきた金周賢の話によれば、老人は独立運動から手を引きはしたが、愛国心は失っておらず、沈竜俊の居所と生活についてもよく知っているとのことでした。老人は、沈竜俊は独立軍から退いた後、妻帯して濛江に移り住んだが、以前と少しも変わらず、志は持しているということまで自信ありげに保証したそうです。

 金周賢の話を聞いたわたしは、沈竜俊が高齢の身でも独立運動に投じたときの初志をひるがえしていないとすれば、彼のつてを頼って濛江一帯に祖国光復会の組織を広げることができるのではないかと考えました。主義主張は異なっても、彼が愛国心を胸に秘めている以上、我々の統一戦線に必ず合流するに違いないという気がしました。わたしが沈竜俊という人物をそれほど重視し、接触の方途を積極的に探し求めたのは、他にもわけがありました。当時我々は、日本軍が中日戦争の泥沼に深くのめりこんでいる実情にかんがみ、一方では中国の反日勢力との共同戦線を強化し、他方では臨時政府系統の反日勢力との統一戦線のために努力していました。臨時政府系統の反日勢力と手を結ぶためには、我々と臨時政府とのあいだに渡りをつけてくれる人物を見つけだす必要がありました。沈竜俊は、その適任者でした。


 <沈竜俊はひところ、上海臨時政府に出入りしていた人物である。彼の属していた参議府は、陸軍駐満参議府という名称をもつ臨時政府直属の団体で、大半の幹部は臨時政府から直接派遣された人たちであった。金日成同志は、沈竜俊と独立軍運動をともにして中国関内に入っていた人は、いずれにせよ臨時政府と関係があるはずであり、中国国民党とも気脈を通じていたはずだと述べている>


 そのころすでに、我々の部隊には、王徳林の特使が来ていました。我々は彼に、職制にはない警護中隊の教官という職務をまかせていました。それで、隊員たちは、彼を李教官、李教官と呼んでいました。彼は中国将棋が上手だったので、わたしはたびたび彼と勝敗を競ったものです。

 王徳林は中日戦争勃発直後、革命軍事委員会別働隊第2路軍の指揮を務めて蒋介石とつながっており、蒋介石もまた臨時政府と内通していたので、王徳林との手づるをつかみさえすれば臨時政府との合作を成功させるルートを十分開拓することができました。そういうときに、王徳林が関内から李教官を特使として派遣してくれたことは望外の幸運でした。李教官の話によれば、王徳林は、還暦に手の届く年になっているにもかかわらず引退せず、依然として抗日の第一線に立っているとのことでした。陳翰章もわたしに王徳林の消息を伝えてくれました。陳翰章は救国軍部隊にいたとき、呉義成の命を受け、天津へ行って王徳林に会ったそうです。そのとき王徳林は、自分が以前、東北地方を離れて関内に入ったのは、蒋介石か張学良の援助を受けて反日闘争をさらに拡大するためであったと陳翰章に話したそうです。そのとき、おそらく陳翰章は、朝鮮共産主義者の武装闘争の実態を王徳林に詳しく話したものと思います。

 沈竜俊と接触するためには、イタチとりの老人をさらに実検してみる必要がありました。そこで、老人に何回か任務を与えてみました。彼は任務を与えるたびに、それを着実に遂行しました。我々は数回の実検を通じて、彼を信頼できる人だと判断しました。

 こうして、つぎは、沈竜俊にたいする工作に移りました。まずイタチとりの老人を通して彼にわたしの手紙と一緒に祖国光復会の10大綱領と創立宣言を送りました。沈竜俊に会ったイタチとりの老人の話では、わたしの手紙を手にした沈竜俊が呆然としていたとのことでした。それで、何か反応はなかったかと問うと、追って返書を送ると言ったそうです。金周賢からそういう報告を受けたわたしは、沈竜俊について深く考えてみざるをえなくなりました。彼がわたしの手紙を手にして呆然としていたというのは、わたしにとって少々期待はずれの感じがしました。沈竜俊が手紙を受け取れば、即座に密営に訪ねてはこられないとしても、それなりの反応を示すのではなかろうかと思ったのですが、なんとなく冷淡さが感じられました。第一線で銃を手にして駆けめぐり、国権回復のために奮闘した末、家庭に閉じこもった人であるだけに、往年のように再び反日戦線に立ってくれという我々の呼びかけに接して、少々とまどいがあったのかもしれません。反日戦線に立ってくれというのは、以前のように独立運動に身を投じてくれということなのですから、運動を中途でやめた人がそういう提言を受けて思案に暮れるのは当然のことだとみるべきでしょう。しかし、沈竜俊が祖国光復会の10大綱領と創立宣言を見てなんの意思表示もしなかったというのは、理解できないことでした。革命を中途でやめた人が再び革命の道に立ち返るとなれば、もちろん即座に決心がつかず、まごつくこともありうるでしょう。沈竜俊が返答しないのは、それなりの事情があってのことだろうと考えました。ともかく、手紙を送った以上、返事を待つよりほかはありませんでした。返答をもらわずには、沈竜俊の気持ちを知ることができず、それに適した方策を講ずることもできませんでした。

 数日後、濛江県へ出かけた小部隊のメンバーが、イタチとりの老人を通して沈竜俊の返書を受け取ってきました。沈竜俊は手紙の書き出しで、山中での苦労が思いやられると簡単な挨拶を述べてから、金亨稷先生の子息がいまは司令官になり、幾多の軍勢を率いて祖国と民族のためにりっぱに戦っていると知って心強く思うと書いていました。そして、我々の抗日武装闘争路線はきわめて正当であるとし、自分がその間、独立運動を放棄していたことに良心の呵責を感じる、手紙をもらって独立運動に立ち返る決心をしたから、なにとぞ援助してもらいたいと望みました。

 手紙をもらって、わたしはどんなにうれしかったかしれません。沈竜俊は、年からすればわたしの父と同世代の人でした。1937年といえば、その世代の独立運動家は少なからず故人となったり、海外に亡命したり、獄につながれているころでした。一部の人は、戦列から退いてきこりとなり、農夫となり、物売りともなりました。わたしの知る独立運動家のなかには、知名の人物が少なくありませんでしたが、彼らはすでに1920年代末期か30年代の初期に吉林一帯から姿を消していました。そういう人のなかには、中国関内に活動舞台を移した人も少なくありません。わたしが武装闘争をはじめる前に、吉林で最後に会った父の知友は、孫貞道牧師であったと記憶しています。武装闘争のために間島に移ってからは、撫松時代や吉林時代によく見かけた3府所属の独立軍指導者には一度も会ったことができませんでした。けれども、わたしはどこへ行っても彼らを忘れませんでした。物故した父が思い出されるときには、父とともに人生を論じ、塗炭の苦しみに陥った民族の運命を案じた愛国志士の顔も思い浮かべたものです。ところが、その多くの志士がみなどこに消え去ったのか、わたしにはその行方すらわかりませんでした。そんなときに、濛江で沈竜俊を探しだしたうえに、彼との連係がついて、再出発を誓う手紙まで受け取ったのですから、うれしくてたまりませんでした。

 当時、我々は、祖国光復会の組織網を各地域に拡大する方針を示し、その実現方途を真剣に討議しました。討議内容の一部は、隊内の新聞にも載せました。濛江地方に祖国光復会の組織を拡大するということは、とりもなおさず、白頭山根拠地の威力と影響力をこの一帯にまで拡大することを意味し、それを足がかりに革命勢力を各方面にさらに拡大することを意味しました。

 わたしはイタチとりの老人を通して沈竜俊に金を送り、『東亜日報』や『朝鮮日報』などの定期刊行物を購入させました。沈竜俊は、数日内にわたしが頼んだ新聞や雑誌を送ってよこしました。我々と沈竜俊のあいだには、手紙も何回となく交わされ、金や物品もたびたび受け渡しされました。

 こうして数か月間、沈竜俊との接触をつづける過程で、我々は彼を地下組織活動に早く引き入れるべきだと考えるようになりました。司令部党委員会は会議を開き、沈竜俊への働きかけをさらに積極化しよう、そして彼を足がかりに、濛江一帯に祖国光復会をはじめ、革命組織を広めようと討議しました。わたしは会議で、もう沈竜俊に任務を与えてもよさそうだ、濛江に祖国光復会の組織を一つ結成させてみよう、そして、負傷者の治療に必要な薬剤も頼んでみよう、これは彼にたいする最終的な実検になり、彼が政治生命を取りもどす絶好の機会にもなるだろうと言いました。参会者たちも、わたしの意見に賛同しました。会議では、沈竜俊の顧問役として活動する政治工作員として誰を派遣するかという問題も討議しました。沈竜俊はいっとき参議府の大物として活躍したとはいえ、組織建設の経験はありませんでした。あるとすれば3府統合に参加したことだけですが、そんな程度の経験では非合法の地下組織の建設は不可能でした。我々は有能な政治幹部を一人派遣して、沈竜俊を陰で援助することにしました。その適任者として、政治活動経験の豊富な金一が選ばれました。

 沈竜俊からも、自分を援助する人を派遣してほしいという要望がありました。金将軍の願いどおり祖国光復会の組織を直ちに結成したいのだが、方策が見つからないとして、わたしとの面談まで求めていました。わたしは、その2つの要望を好意的に受けとめました。しかし、わたしが濛江へ行くことについては、司令部のメンバー全員が反対しました。冒険だというのです。だからといって、わたしより倍も年の多い沈竜俊を密営に呼ぶわけにもいきませんでした。沈竜俊との対話を実現させるには、濛江市内でもなく密営でもない、第三の地点を選択する必要がありました。わたしは、これを最善の案とみなし、小部隊を派遣して適当な場所を選ばせることにしました。場所さえ決まれば、そこへ金一を送って沈竜俊と対話させる考えでした。

 こういう作戦まで練ってから、イタチとりの老人を密営に連れてくるよう金周賢の小部隊に命じました。頭道松花江方面から司令部の位置する密営まで来るには、いくつもの地点を経なければなりませんでした。氷結した谷川をつたってきてから崖をよじ登り、第7連隊、第8連隊、警護中隊の各密営を順次経て司令部に至るのでした。誰であれ、司令部に来るには必ずこのコースを経なければなりませんでした。これは、秘密保持のために司令部が定めた厳格な密営の出入秩序でした。密営を出入りするとき氷結した川面を渡れば足跡が残らないので好都合でした。氷上の雪に足跡が印されても、心配はありませんでした。風が氷結した川面の雪を全部吹き払ってしまうからです。風のないときは、靴を何回か雪にこすりつけて氷結した川面を渡れば足跡が残りません。これは、我々が発見した冬季行軍法の一つです。我々は、馬塘溝密営に入るときもこの行軍法を用い、白石灘密営に入るときにもこの方法を用いました。

 我々が、濛江県清江甸子から馬塘溝へ向かう日、その年の初雪が降ったと記憶しています。密営付近の崖岩の前まで来ると、氷結した川面の真ん中から水が湧きあがっているのが見えました。それを見て、頭道松花江の真ん中に温泉があるのかもしれないと言いだす隊員もいました。馬塘溝の関門にそそり立つ崖は急勾配で険しいものでした。全部隊が、この崖岩のために難儀しました。隊員は、汗みずくになり、木の枝や草の根をつかんで一歩一歩よじ登りました。眉毛に霧氷がこびりつく厳しい冬のさなかに、頭道松花江の氷上に泉のように湧きあがる水を見ると、なんとも不思議な気がしました。頭道松花江は、妙な川です。

 イタチとりの老人も、我々が馬塘溝に入るときに切り開いた秘密の通路を利用しました。彼が小部隊に案内されて第7連隊の歩哨の前を通過するときでした。歩哨が、このごろ密営に連れてくるのはスパイしかいないのに、あのじいさんの格好はどう見てもおかしい、あれがスパイとわかったら腕試しにおれが撃たせてもらおうと冗談を言いました。聞くともなくそれを耳にした老人は、恐怖の念にかられました。その年の冬は、部外者を絶対に密営に立ち入りさせませんでした。会わなければならない人でも密営の外で会い、密営には呼びませんでした。ただし、何か罪状を取り調べて処理する必要のある者に限って密営に連れてきました。そういう状況だったので、歩哨はイタチとりの老人をスパイと見たのでした。歩哨がそんなことを言ったのは、彼らがその老人を中国人と思ったからです。その日の老人の服は、朝鮮服ではなく中国服だったのです。彼が、なぜ朝鮮服ではなく中国服を着てきたのかはわかりませんでした。ところが、この偶然の事が、歩哨に老人を中国人と見誤らせ、老人の耳に入ってはならないことを口走らせてしまったのです。もし、イタチととりの老人が罪のない人であったなら、そんなことを耳にしても意に介さなかったはずです。ところが、彼は歩哨の一言ですっかり顔色をかえてしまいました。遊撃隊が、自分の裏をすべて知っていて、そう言ったのだと思ったからでした。我々が沈竜俊との対話を準備していたとき、イタチとりの老人は日本人の強迫に負けて、司令部を陥れる任務を受け入れたのでした。小部隊に従って密営に来る日、彼は、わたしに危害を加えるときの凶器まで携帯していました。ですから、安穏な気持ちでいられるはずはありません。

 イタチとりの老人が司令部にあらわれたとき、わたしは王徳林の特使と将棋をさしていました。いざ会ってみると、なぜか老人の顔色がさえませんでした。後日、当人も告白したことですが、その日、歩哨の話を耳にした彼は、「金日成将軍は、3か月先の天気まで読むとは聞いていたが、どうもわたしらが企んだことを全部知っているようだ。ただでは引っ張ってきそうもないところにわたしを引っ張り込んだのを見ると、わたしはもう終わりだ」と早合点したとのことです。任務を受けてびくついていたやさき、哨所でそんな話まで聞いたのですから、内心おだやかであろうはずはありません。イタチとりの老人の顔色がよくないのを見て、わたしは彼に同情しました。国を奪われ、濛江のような僻地に追われてイタチとりで暮らしを立てているというのだから、さぞつらい思いをしているだろうと考え、心のこもったもてなしをしました。隊員たちにはコウリャン飯の給食をしながらも、彼にはキビのご飯を食べさせました。ときには、部隊を見学させ、娯楽会や講演会、学習討論会なども見せたりしました。こうして何日か訓練したり啓蒙したりしたのち、金一と一緒に沈竜俊との対話が予定されていた第三の地点へ送るつもりでした。我々はこのように、いろいろと老人に十分影響を与えようと努めましたが、うまくゆきませんでした。警護隊員の話では、老人はキビのご飯を炊いてやっても口にしようとせず、嘆息ばかりついて、密営からいつ出られるのかと、そのことばかり気にしているとのことでした。わたしが、老人と金一を第三の地点にすぐさま送らなかったのは、敵が馬塘溝一帯を包囲していることを知っていたからであって、他に理由はありませんでした。そのころ我々は、要所要所に監視班を配置し、高地や高木の棺から望遠鏡で周囲を監視させていました。監視班は、密営付近の山中から煙が立ち上ったり、処々に敵が集結しているのを発見していました。それで我々は、日中は煙を立てず、夜間にだけ少しずつ火を焚いて食事をととのえさせていました。

 ある日、わたしは、話をするつもりでイタチとりの老人を司令部に呼びました。しばらく話を交わしているとき、小部隊工作に出ていた隊員たちが活動報告に来ました。彼らは活動報告を簡単にすませたあとで、工作地から帰隊する途中、スパイ2名をとらえたことをつけ加えました。一人は正体を素直に自白したので、諭してその場で放免し、もう一人は、確証をつきつけても自分の任務と罪過を明かさず反抗するので処分したとのことでした。小部隊責任者の報告を聞いたわたしは、正体を隠しつづけた者を処分したのも正しく、正直に自白した者を放免したのも正しかったと評価しました。すると、どうでしょう。突然、イタチとりの老人が地べたにひざまずき、だしぬけに、「将軍さま、どうかわたしをお許しください!」と泣きつきました。わたしも小部隊の責任者もわけがわからず、老人の挙動を見守るのみでした。許しをこうからには、きっとわけがあるに達いないとは思いながらも、それがなんであるかは見当がつきませんでした。わたしは、どんなわけがあるのか落ち着いて話すよう老人に言いました。老人は、わたしの言葉に勇気づけられたようでした。彼は「ちょっと待ってください」と言うと、外に出て白樺の木の根元に隠してあった手斧を持ってきました。そして、自分の罪を告白するのでした。彼は、自分の第一の罪は、日本人から司令部に危害を加える任務を受け、密営に来ては貴賓のもてなしを受けながらも反省して自首せず手斧を隠したことであり、第二の罪は、沈竜俊が変節したことを知りながら、それを司令部に告げなかったことだと言いました。

 沈竜俊が変節したと知って、わたしは唖然としました。イタチとりの老人が日本人から任務を受けたことは、さほど驚くべきことではありませんでした。そういうことは、白頭山密営にいたころにも何回か体験していたので、いまさらのことではありませんでした。しかし、かつての参議府の大物沈竜俊が変節して日本帝国主義者の手先になったというのには、まったく驚かざるをえませんでした。3府時代の沈竜俊は、名望家で、民衆の期待も大なるものがありました。彼は、反日扇動の気鋭のこもった言辞も大いに吐きました。そういう人物が、日本帝国主義の犬になるとは嘆かわしいことではありませんか。

 わたしはイタチとりの老人に、沈竜俊が変節したことをどうしてわかったのかと間いました。彼は、沈竜俊が日本人と謀議しているのを見たと言うのでした。どんな謀議をしたのかと聞くと、司令部をおびきだす方法を謀議したとのことでした。遊撃隊の代表が沈竜俊を訪ねてくれは、まずその代表を抑留して強迫し、司令官と某地点で会おうという内容の手紙を司令部に送らせ、司令官が約束の地点にあらわれれば、包囲してとらえるというのが、沈竜俊と日本人による司令部誘引作戦の筋書きでした。イタチとりの老人の自白によれば、沈竜俊が我々に送ってよこした手紙は、すべて日本人と相談して書いたものだったそうです。沈竜俊は我々から何か頼まれるたびに、必ず日本人のところに行って、革命軍にしかじかのことを頼まれたと報告し、彼らの指令どおりに動いたのでした。イタチとりの老人はまた、沈竜俊は、日本人に投降し、変節して以来、長春に通いつめて「討伐隊」も何回となく引き込んだと言うのでした。そのとき、イタチとりの老人が事前に自白したから助かったものの、そうでなかったなら金一はもちろん、わたしもやられ、すべてしてやられるところでした。

 人に信頼を寄せるということは、ときには、こういうすれすれの危険もともなうものです。しかし、わたしは禍をこうむりませんでした。これもやはり信頼というもののおかげだったといえます。なんの疑いも抱かず密営に引き入れ、部隊生活をあるがままに自由に見学させたので、老人の邪心が人間本然の良心に立ち返ったのです。人間心理の弁証法というものはじつに妙なものです。

 金正日同志の言葉のなかに、「信頼は忠臣を生み、疑心は逆臣を生む」というのがありますが、これは名言です。不信によって得られるものはなくても、信頼によっては多くのものを得ることができます。だからといって、彼我を区別せず、心の臓まであずけてしまえというのではありません。人間は、信頼するとして、実践を通じて点検すべきです。

 老人は自分が知っている限りの情報を提供しましたが、戦友たちは彼を許してはならないと主張しました。けれども、わたしは老人を寛大に許してやりました。自分の罪過を素直に反省する人には、雅量をもってこたえるべきです。自分が犯した罪を良心的に告白する人にたいしては、その過去を問うべきではありません。

 この事件を体験したわたしは、革命家にとって人への幻想は禁物であるという深刻な教訓を得ました。革命が困難な局面を経るときこそ、人への幻想は徹底的に排撃すべきです。人を信頼し愛するのはよいことですが、幻想をもって接するのはよくありません。思想というものは、固定不変のものではありません。昨日、今日、明日と変わりうるのが人の心です。沈竜俊の実例がそれを証明しています。

 人は、その利害関係によって革命を促しもすれば、妨げもするものです。人民の利益を第一としてたたかう人の思想はダイヤモンドのように変わることがありませんが、革命の利益や人民の利益など眼中になく、一個人の安泰と享楽のみを追求する人の思想はたやすく変質してしまいます。困難な時期に革命をいとも簡単に裏切るのが、ほかならぬ個人主義と利己主義に毒された人間です。わたしは沈竜俊の実例によって、人間の大本を忘れ自己保身の殻に閉じこもるようになれば、どれほど重大な背信の奈落の底に落ちることになるかを深く悟りました。自分のためにのみ生きる人は、親友も、同志も、隣人も、民族も、国もためらわず売るものです。



 


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