金日成主席『回顧録 世紀とともに』

6 「恵山事件」の教訓


 
 ソウル市に突入する朝鮮人民軍柳京守戦車連合部隊(1950年6月28日)


 1937年は、抗日革命の全盛期であった。主力部隊による白頭山地区進出の波に乗って、歴史的な転換の時代に入った朝鮮民族解放闘争と朝鮮共産主義運動は、かつてない幅と深さで高揚の一路をたどっていた。

 万事が我々の意図と意志どおり順調に進んでいたそのころ、朝鮮革命は容易ならぬ挑戦にぶつかった。我々が、白頭山地区を発って撫松、濛江県一帯で活動しているあいだに、敵はいわゆる「恵山事件」なるものをでっちあげ、革命勢力にたいする大々的な弾圧旋風をまき起こしたのである。彼らは、我々が白頭山地区に進出して以来、1年余にわたって築きあげた地下組織を手当たりしだいに破壊し、我々の指導と路線に忠実な革命家を大量検挙し処刑した。数回にわたる検挙旋風を通じて、敵は数百数千の愛国者を検挙、投獄した。拷問によって獄死した人だけでも数えきれないほどである。この事件のため、朝鮮革命は、甚大な打撃を受けた。国内党工作委員会の積極的な活動によって一瀉千里にはかどっていた党組織建設活動と祖国光復会組織建設活動は莫大な損失をこうむった。

 わたしは濛江県大甲拉子密営で、金平と金在水から「恵山事件」についての詳報をはじめて聞いた。そのときの痛憤たるや、どう表現してよいかわからないくらいだった。それは、幾多の無念な犠牲を出した民生団騒ぎ以来はじめて体験する大きな喪失感であった。

 わたしは「恵山事件」を体験して、革命家の信念と意志について深く考えさせられた。「恵山事件」は、個々人の革命にたいする忠実性と信念と意志の強さを検証する一大試練であったといえる。いわば、この事件は、真の革命家とえせ革命家を区別する一つのきびしい点検の過程であった。信念と意志の強い人は、革命家としての節操を守って敵との対決で勝利し、反面、信念と意志の薄弱な人は、革命家としての尊厳をすてて背信と屈従の道に転落した。

 事件当初、拷問に耐えかねて敵に隊内の秘密をそっくり売り渡した変節漢のなかには、吉恵線と白茂線の鉄道工事場に派遣されて活動していた地下工作員もいた。我々は、彼らを通して鉄道工事場の労働者のなかに革命組織を扶植しようとした。ところが、彼らは警察署へ連行され、棍棒でいくつか殴られると、すぐさま敵に投降してしまった。彼らには、命を投げだしても組織の秘密を守り、革命の利益を守ろうというかたい覚悟と不屈の闘争精神が足りなかった。彼らが秘密をもらさなかったなら、長白一帯の革命組織は無事であったはずである。我々は、すでに1回目の検挙で権永璧、李悌淳、朴寅鎮、徐応珍、朴禄金など数多くの指導中核と組織のメンバーを失うという惨禍をこうむらなければならなかった。

 信念と意志は、革命家がそなえるべき基礎的資質である。この資質をそなえていない人は、革命家とはいえない。真の人間の表徴を論ずるとき、我々は当然ながら、その人間がどんな思想と信念をどう身につけているかを重視する。なぜなら、思想と信念の強い人間であるほど生きる目標が明確で、その目標を達成するため誠実に努力するからである。

 したがって、我々は、革命家の育成にあたって、すべての人に共産主義的信念をもたせることに特別な努力を傾けた。我々が信念を革命家の重要な表徴とし、その培養に格別な努力と精力を傾けているのは、民族解放、階級解放、人間解放の旗のもとに進められる社会主義・共産主義の建設過程が、人類の遂行するすべての革命のうちでもっとも困難かつ長期の変革運動であるからである。鉄の信念と意志がなければ、自然と社会のあらゆる束縛と挑戦から人間の自主性を擁護し実現する困難な変革運動を最後まで勝利へ導くことはできない。信念を信念たらしめる強力な同伴者、保護者は、まさに意志である。

 信念と意志は、不変のものではない。環境と条件によっていっそう強くもなれば弱くもなり、変質をきたすこともあるのが、信念と意志である。革命家の信念と意志に変質が生じれば、その革命ははかり知れない代償を払わざるをえなくなる。そういう理由で、我々は、信念を植えつける教育を共産主義的人間育成の必須の工程とみなしているのである。

 信念と意志は、革命的な組織生活と実践活動を通じてのみ練磨され、不断の教育と自己修養の過程をへてのみ堅固で確実なものになる。このような工程を踏まない信念や意志は、砂上の楼閣にひとしい。恵山警察署の取り調べ室で革命家の信念を守りとおせなかった人たちの場合がそうであった。彼らは、革命的な組織生活と実践過程を通じて心身を十分に鍛えられなかった人たちであった。彼らの思想・意識は、嵐のなかで鍛えられなかったのである。彼らはみな抗日革命の全盛期に入隊し、勝ち戦だけを体験した人たちであった。革命が上昇期にあるときには、その時流に乗ってこのように隊列内に思想的に堅実でない偶然分子がまぎれこむのである。

 「恵山事件」についての報告を受けたわたしは、ただちに、朝鮮人民革命軍党委員会非常会議を開き、危機に瀕した革命組織を保護し、党組織と祖国光復会組織の建設をいっそう活発に展開する対策を討議した。

 1回目の検挙で長白一帯の指導中核をほとんど逮捕、投獄した敵は、捜査の幅を広げ、西間島全域と鴨緑江対岸の甲山一帯に触手をのばしていた。敵は、朝鮮革命の命脈を寸断してしまおうと、いくらかの実績におごって気勢をあげていたが、我々が苦労して建設した地下組織がすべて破壊されたわけではなかった。長白と甲山一帯には、敵の捜査網から逃れて他の地域に脱出したり、深い山奥に隠れている人が少なくなかった。長白県党と長白県祖国光復会組織の指導部は、権永璧、李悌淳、徐応珍、朴寅鎮らの逮捕によって解体状態にいたったが、朴達、金鉄億、李竜述らを中心とする朝鮮民族解放同盟指導部は、無事に活動をつづけていた。わたしはまず、張曽烈と馬東熙を国内に派遣し、身を潜めている朝鮮民族解放同盟の指導メンバーを探し出し、彼らを通して組織の被害状況を調べ、破壊された組織の再建対策を立てることにした。我々の総体的志向と意図は、敵の弾圧による損失を最小限に食い止め、禍を転じて福となすことであった。

 朝鮮民族解放同盟のメンバーを探して甲山郡一帯の山村を訪ねまわっていた馬東熙と張曽烈は、南興洞で産農指導区の書記を務めていた金泰善の密告で逮捕された。金泰善は、馬東熙の同郷の友であった。2人は、甲山に来てからも深い友情を交わして青少年時代を過ごした。長白県に渡ってある講習所に通っていた金泰善が学費難で学業をつづけられなくなったとき、彼に仕送りをしてやったのはほかならぬ馬東熙であった。金泰善が講習所を中退しなければならなくなったとき、馬東熙は書堂の運営費を5円も融通して彼が勉学をつづけられるようにした。その後も彼は、草取りの賃仕事やしば刈り、代書などをして稼いだ金をせっせと親友に送りつづけた。講習所を卒業して産農指導区書記の職についた金泰善は、馬東熙の母親である張吉富を訪ねて「オモニ、わたしが学を修めて口すぎができるようになったのは、東熙が親身になってわたしを助けてくれたおかげです。わたしの目の黒いうちは一生、東照の友情を忘れません」と言った。馬東熙が、朝鮮民族解放同盟指導部との連係を結ぶ任務を受けて甲山へ行ったとき、南興洞の金泰善の家をアジトにしたのは、そういう友情をかたく信じていたからであった。ところがその間、敵の忠実な従僕に変わってしまった金泰善は、馬東熙と張曽烈がやってきて寝食の世話を請うと、さも親切に食事や寝床を提供しながら、金日成の部下2人が自分の家に来たと密告した。金泰善という男は陰険きわまりない輩であった。

 馬東熙と張曽烈は、敵に逮捕されてから、互いに異なる運命をたどった。

 馬東熙がどのように拷問に耐え、どう秘密を守りとおしたかということは、抗日闘士の回想記や文芸作品を通して広く知られていると思う。馬東熙はどんな人物かと問えば、人民学校(小学校)の児童でも組織の秘密を守るため、みずから舌を噛み切った人だと答える。自分の舌を噛み切るというのは誰にでもできることではない。そういう覚悟は、生きて逆賊になるより死んで忠臣になることを望む真の人間でなくてはできないものである。人間、いったん死を覚悟すれば何事でもなしうる。馬東熙の勇気と犠牲的精神は、信念の強さに根ざすものであった。その勇気と犠牲的精神は、いかなる拷問や脅迫によってもくじくことができない鉄の意志の発現であった。馬東熙は、自分が秘密を守れば組織は無事であり、自分が死んでも革命は勝利すると信じていたのである。

 馬東煕を信念の強い人間につくりあげたのは、革命的実践であった。彼は、白岩地方に住んでいたとき反日会を組織し、教鞭をとって火田民の子どもたちの愛国主義教育にも努めた。人民革命軍に入隊した後は、古参の隊員とともに苦難にみちた撫松遠征を体験し、警護中隊の学習講師として、隊員の政治的・文化的資質を高める啓蒙活動もおこなった。その過程で、人間は亡国の民になれば喪家の狗にも劣る身の上になり、民族が生きる道は闘争にあり、革命に参じてこそ生きる道が開かれ、革命をしなければ子々孫々、牛馬にも劣る奴隷生活を強いられるということを真理として受けとめ、それを確固たる信念とした。

 馬東熙は幼いころから、そういう信念の持ち主になる気質をそなえていた。彼は、不公平なこと、破廉恥なこと、非良心的なことには、いささかの妥協もしなかった。相手が下劣な人間であると見抜けば、それが担任の教師であっても断固として決別した。小学校時代の彼の担任の教師だった趙某は、教育者としての良心など露ほどもない俗物であった。彼は、学業成績を実力によってでなく、ひいき筋かどうかによって不公平に評価した。そでの下を使う家や金持ち、権勢家の子どもらには、実力とは関係なく点数を上げた。そして、自分がひいきする生徒を立てるためなら、他の優等生の点数を削ってしまうという不正もあえてした。馬東熙が最高学年のときにも、趙はそのくせを直していなかった。彼は、賄賂をどっさりくれたある権勢家の息子を首席に押し上げるため、全課目最優等生の馬東熙の歴史試験の成績を、故意に「甲」から「乙」にしてしまった。この不正行為に不満をいだいた馬東熙は、ためらうことなく担任教師を訪ね、自分の答案紙を見せてほしいと要求した。教師は答案紙を見せるのではなく、無礼なやつだとびんたをくらわせた。教師の行為は、馬東熙の怒りをほとばしらせた。彼は、みずから退学を宣言し、教員の面前で通信簿を破って家に帰ってしまった。

 馬東熙の父親馬虎竜は、1人息子が幼い年で学校をやめて生業につくことを望まなかった。それで昼間、市場で買ってきた小学生の帽子を息子の前に出し、おまえが帽子もなしで出歩くのを見かねて、いましがた帽子を買ってきたばかりなのに、学校をやめて野良仕事をするとはいったいなにごとか、教員が金持ちの息子をひいきしたり、権勢家の顔色をうかがうのはありふれたことなのに、そんなことで先生に文句をつけてどうしようというのだ、早く担任の先生のところへ行って謝れと言った。しかし、馬東熙は、最後まで妥協を拒んだ。そして、父が、担任の先生を訪ねていこうとするのも必死になって引き止めた。

 その後、馬東熙と担任教師の趙は敵対関係になり、それぞれの道を歩むようになった。馬東熙は時代の反逆児となって愛国戦線に参じたが、趙は教壇をすてて売国反逆の道に立った。彼は、巡査をふりだしに刑事に昇進し、愛国者の摘発に血眼になった。彼が目を光らせて真っ先に監視したのは馬東熙であった。彼は、馬東熙の一挙一動を細大もらさず注視した。確実な証拠がなければ、事件をでっちあげてでも刑場へ引き立てるかまえであった。趙が本格的に馬東熙を尾行しはじめたのは、彼が長白地方を行き来しながら人民革命軍の影響を受けはじめたころからだった。ある日、馬東熙は、長白へ行って遊撃隊代表の金周賢に会い入隊承認を受けて帰ってくる途中、鴨緑江の橋のたもとで待ちかまえていた趙刑事に出くわした。趙刑事はするどい目で馬東熙をにらんでいた。馬東熙は、橋のたもとの雰囲気がただならぬことにすぐ気づいたが、何食わぬ顔で家に帰り、出発の支度をした。その日、馬東熙の母親は、白頭山へ向かう息子に別れの食膳をととのえた。しかし、馬東熙はその食膳につくこともできないまま、早々に家を発たねばならなかった。趙が、彼を捕らえようと巡査たちを連れて庭にあらわれたのである。馬東熙は裏戸から家を抜け出し、無事に鴨緑江を渡った。

 教師が教え子を捕らえようとたちまわる世紀末的な現象は、日本帝国主義支配層の強要する反人倫的な風潮がまねいた悲劇であった。解放後、張吉富女史は、わたしに会うたびに、この話を昔話のように語ったものである。

 馬東熙は口隅水山戦闘後、戦場付近で遊撃隊の「討伐」に参加し九死に一生を得て逃げ出す趙刑事に出くわした。彼は、馬東熙を見るやいなや銃を乱射した。馬東熙は、祖国も民族も教え子も眼中にない、この厚顔無恥な親日反動分子を即座に射殺してしまった。

 この話からも馬東熙の人間像を知ることができ、彼の信念がどんな土壌に根をおいていたのかがうかがえる。

 わたしが馬東熙と行をともにしたのは1年半ほどにすぎない。彼は誰からも愛される忠実な遊撃隊員であったが、遊撃隊で過ごした期間に人びとの記憶に残るほどの事件や逸話は、これといって残していない。しかし、彼にまつわる一つの逸話だけは忘れられない。我々が、撫松遠征を終えて東崗密営で軍・政学習をおこなうため、食糧工作をしていたときのことである。そのころ、馬東煕の属する第7連隊第3中隊も毎日のように食糧工作に動員された。ある日の夜、中隊長は食糧工作に出かけるとき、足に凍傷を負った馬東煕と新入隊員たちに、密営に残って翌日の朝食の準備に粒トウモロコシを挽く任務を与えた。馬東煕は、中隊長の命令どおり挽きうすでトウモロコシを挽きはじめた。一日中苦しい雪上行軍をしたうえに食困症(食後眠気をもよおす症状)まで重なり、耐えきれないほどの疲労を感じた。しかし、馬東煕は、顔に雪をこすりつけながら眠気をこらえた。ところが他の隊員たちは、自分たちは食べなくてもいいから横になっていると言った。馬東煕が1人でうすを挽いているとき、彼らはなにもせずに寝ていたが、トウモロコシを全部挽き終えると、どうお返しをしたものかと顔を見合わせて心配した。新入隊員のなかには、ときとして、彼らのように挙動のしっかりしない者もまじっていた。馬東煕はあきれ、彼らをきびしく叱りつけた。わたしが密営に到着すると、馬東煕はこのいきさつから話すのだった。同志愛もなく、わきまえもないあんな者たちを連れて、どうして革命ができるのかと嘆いた。彼がひどく気を落としているようなので、わたしは、いまは組織的鍛練が足りないからそうであって、しっかり教育すれば、彼らもりっぱな隊員になれると話した。その新入隊員たちはもちろん、その後、仕事でも戦闘でもすばらしい真の強兵に育った。

 馬東煕は入隊後、短期間のうちにりっぱな戦闘員に成長した。彼は、普天堡市街の偵察も首尾よく遂行した。任務の遂行にあたって発揮した献身性と積極性にたいする高い評価として、普天堡戦闘の勝利を祝う軍民交歓集会場で人民代表団から我々に祝旗が贈られたとき、わたしは朝鮮人民革命軍兵士を代表してそれを受ける栄誉を彼に担わせた。その後の生活が証明しているように、馬東煕は、確かに朝鮮人民革命軍全兵士の堂々たる代表となりうるすぐれた革命戦士であった。一言でいって、彼は共産主義者のモデルと言える人物であった。

 馬東煕は、誰よりも司令部の位置を正確に知っていた。しかし、彼が秘密を吐かなかったので、我々は無事でありえた。

 馬東煕が最期を遂げた翌日、牛車に棺を乗せて恵山に来た馬虎竜は、息子の遺骸を引き取って警察署の前を通りかかったとき崔警部に出くわした。彼は馬虎竜にこう言った。

 「じいさん、死んだ息子を運ぶ感想はどうかね」

 同族殺しの役を果たしている崔警部を日ごろから憎んできた馬虎竜は、あふれる涙を拭いながら憤然として答えた。

 「わしの息子は、朝鮮の独立のためにたたかって死んだ。娘も嫁もそうして死んだ。日本人の品物を盗んで死んだんじゃない。わしは、父親として誇らしく思っている」

 馬東煕の父親はこの一言のため、のちに逮捕される羽目になった。しかし、咸興刑務所で獄死する最期の瞬間まで、革命闘士の父、愛国者としての節操を少しもまげず堂々と刑吏に立ち向かってたたかった。

 馬東煕とは対照的に、張曽烈は棍棒がいくつかふりおろされるが早く、自分の知っている密営や地下組織を全部吐いてしまった。馬東煕は舌を噛み切りながらも革命家の節操をまっとうしたのに、張曽烈はどうして革命の前に立てた誓いを弊履のごとく捨てて、いまわしい背信の道を選んだのであろうか。学歴や理論水準、活動能力からすれば、彼は馬東煕に少しも劣らぬ人間であった。遊撃隊生活の期間からすれば、むしろ馬東煕の先輩格にあたる。賢くて人づき合いのいい張曽烈は入隊早々、隊員たちから「幹部候補」とうわさされていた。司令部でもやはり、「幹部候補」として目星をつけていた。彼は入隊後、普通の人のように段階式にではなく、一挙に師団青年課長の地位にまで躍進した人物であった。師団青年課長ともなれば、権永璧や金平に劣らず信頼を得ていたことを意味する。我々が張曽烈をどれほど信頼していたかということは、長白県党が組織されたとき、彼をその委員に選出したことをみただけでも十分察せられるであろう。一言でいって、我々は、張曽烈に与えうるものをすべて与えたのである。

 彼は、我々とともに腹を空かし、手足を凍らせ夜を明かしもした。彼は、困難を前にして悲観したり自信を失ったりすることがなかった。我々とともに、ただ黙々と苦難に耐え抜いた。しかし、彼は、鉄窓につながれるやいなや降伏してしまった。ありとあらゆる困難に耐えながらも、刑場での拷問には耐えられず、ちり紙を捨てるがごとく革命家としての体面と節操を簡単に投げだしたのである。

 張曽烈の裏切りについての報告を受け、わたしは鉄窓の外での人生観と鉄窓の中での人生観には違いがありうるという真実を痛感させられた。鉄窓の外での張曽烈の世界観が共産主義的なものであったとすれば、鉄窓の中での彼の世界観はユダのそれにひとしかった。彼は、自分1人の肉体と、革命の利益を交換する商売人に転落したわけである。

 張曽烈は、敵に多くの秘密を売り渡した。自分が関与した組織をすべて公開し、長白県の上崗区と中崗区管下で自分と連係を結んでいた革命組織の指導中核のメンバーを全部教え、司令部の位置と密営の位置まで知っているものはすべてばらした。それに、警官たちを案内し、十九道溝アジトにまで来て池泰環と曹開九を逮捕させた。

 曹開九も張曽烈と同様に変節した。彼は、裁縫隊が位置していた干把河子密営に警官たちを案内し、裁縫隊員全員を犠牲にした。干把河子で戦死した女性隊員のなかには、馬東煕の妻金容金もいた。

 どうして張曽烈は、このように汚らわしく醜悪な人間に変わったのであろうか。平素彼がいだいていた共産主義的信念は、たんなる形骸にすぎなかったのであろうか。もちろん、彼も信念について多くのことを論じた。しかし、彼の信念は、強固な土台をもたない見せかけのものであった。彼は刑場のものものしい光景と警官の毒気を含んだ姿を見て、たぶん大日本帝国の威容に恐れをなし、抗日革命によってその帝国を打倒するというのは実現不可能なたわいない空想にすぎないのではないかという懐疑主義に陥ったのであろう。

 強固な土台に支えられた信念とは、どういうものであろうか。それは、自分の貴ぶ理念にたいする絶対的な信頼であり、その理念のためであれば、餓死、凍死、殴死の覚悟までしている、そういう信念である。言いかえれば、自己の偉業の正当性と自分の階級、自国人民の力にたいする確信であり、みずからの主体的な力で万難を克服し、革命を最後まで完遂していこうとする覚悟を意味する。しかし、張曽烈には、殴り殺される覚悟ができていなかった。自分が殴り殺されても革命の利益を守らなければならないという覚悟をもつべきであったが、彼はそれとは反対に、革命はどうなろうと自分さえ無事であればそれまでだと考えたのである。

 張曽烈は革命を売り渡した代償として肉体的生命を救うことができたが、その代わりそれよりも高貴な政治的生命は失ってしまった。人びとが、馬東煕を記憶しながらも、張曽烈を記憶していない理由は、ここにあるのだと思う。

 馬東煕と張曽烈という2人の人間が歩んだ対照的な行路をかえりみるたびに、わたしは金赫と張小峰を思い出さざるをえない。彼らも同じ時代に同じ地点で、同じ軌道に乗って革命にのりだしたが、その終着点は、南極と北極のように違っていた。この格差の出発点もやはり、2人の人間がいだいていた信念と意志の質的な違いに求めるべきだと思う。

 金赫は組織生活と革命的実践に忠実な人間であったが、張小峰は理論に明るく頭脳明晰である代わりに実践がともなわず、うぬぼれの強い人間であった。この世の辛酸をなめつくした金赫は、いかなる苦労も恐れなかった。しかし張小峰は、肉体を酷使するような仕事には身を入れなかった。1人は水火もいとわぬ熱血漢であり、他の1人はにわか雨のときにもズボンの裾をまくりあげ、ぬかるみの中の石を選んで踏み、靴に泥をつけまいと気をつかう冷めた計算ずくの男だった。

 わたしが卡倫や孤楡樹などへ行き来したころ、僚友たちは、金赫を才子と認めながらも、彼が革命のために一役果たすものとは思わなかった。詩を書き作曲をする青白きインテリが革命をしたところで知れたものだという先入観にとらわれていたのであろう。ギターを肩にして何回か街を出歩くだけでも辻楽士扱いされた時代だったので、事情を知らない人が金赫をそういう目で見るのはさして不思議なことではなかった。

 しかし、張小峰にたいしては、誰もがかなりの期待をかけていた。後に裏切りはしたが、彼は名物男であった。彼は仮名で多くの文を書いて発表した。雑誌『ボルシェビキ』にいちばん多く寄稿したのも張小峰だった。彼は、車光秀と肩を並べられるひとかどの理論家であり、アジテーターでもあった。彼の理論水準はすこぶる高かったので、火曜派の巨頭であった金燦でさえ彼と論争すると、いつも守勢に立たされしどろもどろの体だった。わたしは卡倫会議のときも張小峰の家に宿をとった。わたしと僚友たちは、彼が幾年か後に留置場で転向文を書いて日本帝国主義の忠犬となり、我々にたいする「帰順」工作に参加するとは夢にも思っていなかった。

 このように肉体的生命のほかに、人間のもついま一つの生命といえる政治的生命の年限は、信念の有無と強弱によって決まるのである。信念と意志の強い人間ほど、政治的生命の維持では長寿者になる。早々と信念をすてた人間の政治的生命は、非命に夭折してしまう。

 我々の主力部隊の参謀長を務め敵に投降した林水山は、李鍾洛や張小峰よりもさらに嘆かわしい反逆行為を働いた。彼は、「討伐隊」の隊長となり、かつての戦友たちを殺害しようと狂奔した。敵は、彼を密偵として利用し、役に立たなくなるとあっさり見放した。それ以来、彼は荷車を引き酒を売り歩いた。師団参謀長から酒売りへの転落、それは、信念を失った彼にもたらされた哀れむべき運命の帰結であった。

 解放直後、彼は、荷車に酒樽を積んで安図から三池淵をへて恵山に来る途中、柳京守の率いる小部隊に出くわした。その日、柳京守一行はわたしの命令で、白頭山周辺に出没する日本軍の敗残兵を掃討するため現場へ向かう途中だった。林水山は、かつて自分の配下にあった隊員たちを見るや、ばつが悪そうに、「きみたちも、とうとう山から降りてきたんだね。金日成将軍はまだ山にいるのか。なぜ将軍と一緒に来ないで、きみたちだけで降りてきたのか」と言った。そのとき、柳京守、李斗益をはじめ、敗残兵掃討作戦に向かう抗日闘士たちはみな日本の軍服を着ていたので、林水山は彼らもてっきり自分のように日本人に帰順したものとばかり思ったのである。いかに情勢にうとかったのか、日本が敗北したことも知らなかったという。人間が信念を失い節操を守らなければ、こうした羽目に陥ってしまうものである。

 武器を手に取り、我々とともに険しい抗日革命の道を歩んできた人の絶対多数が、信念も意志も強い不撓不屈の闘士であったことは言うまでもない。彼らは、最悪の逆境に陥った瞬間でも革命家の節操をすてず、祖国解放の信念を汚さなかった。我々の戦友と戦士たちは、異国の荒野に朽ち果てながらも「未来を愛せよ!」と言い残し、「共産主義は青春!」と叫んだ。信念をもつ強者だけが、このように最後を飾ることができるのである。こういう信念がなかったなら、抗日遊撃隊員たちは満州のあの酷寒と飢餓に耐えられなかったであろう。

 革命家の信念と意志について論ずるとき、わたしはいつも、その序列の先頭に柳京守のような人を立てている。自己の領袖や指導者の思想を信念とし、その信念を固守して生涯をまっすぐに歩むうえで、柳京守は万人が学ぶべき模範を示した。

 わたしと柳京守が初めて対面したのは、1933年9月、東寧県城戦闘の直後であった。戦闘を終えて小汪清にもどり、隊員たちを休ませているとき、崔賢の率いる延吉遊撃隊の隊員たちがわたしを訪ねてきた。そのなかに、崔賢に影のようにつきまとう若い隊員が1人いたが、それがほかならぬ柳京守であった。彼は、連絡員の不手際で延吉遊撃隊が東寧県城戦闘に参加できなかったことをたいへん残念がっていた。彼は、戦闘に参加できず「遅刻生」の羽目になった腹いせを崔賢にぶちまけた。

 「中隊長同志、小汪清まで来てご飯だけご馳走になって、このまま帰れるのですか。どこでもいいから金隊長の指揮のもとに一度敵をやっつけてから帰りましょう」

 その一言によっても、柳京守がただ者でないことがすぐにわかった。そのとき彼の年は18歳だったが、革命隊伍に加わったのは16歳のときであった。

 「金隊長、あの三孫は、年が若くてもれっきとした闘士です。馬鹿にできませんよ」

 三孫とは、柳京守の本名である。これが、彼にたいする崔賢の総評であった。わたしはその一言で、崔賢が柳京守にとりわけ目をかけていることがわかった。

 18歳というこの若い隊員の短い人生行路には、亡国のため太陽や月さえ光を失った祖国の悲しい姿が投影されていた。柳京守の経歴できわだっている点は、幼いときから下男奉公をしたことと、10代で春慌(春の端境期)暴動に参加して軍閥当局に逮捕され、竜井監獄でひどい拷問を受けたことである。間島地方には革命家が多かったが、幼い年で監獄で水拷問やトウガラシ粉の拷問を受けた人は多くない。張曽烈や李鍾洛のような人間とは違って、柳京守は敢然とその試練に耐えぬいた。何気なく柳京守の手を握ってみると掌がタコだらけで、まるで鉄板のようだった。

 わたしは、柳京守が幼いころ耳学問をしたという話を聞いて同情を覚えた。耳学問とは他人が勉強するときそのかたわらで目と耳で文字を覚え、その理を解して知識を修得する学習方法をいう。彼は薪を背負って市場に行ってくるたびに、私立学校の窓ぎわにかがみ、教員が黒板に書く文字を見ては、それを棒切れで熱心に地面に書いた。そうして、朝鮮文字と九九を完全に覚えた。そのうち、柳京守の耳学問は全校に知れ渡り、同情を買うようになった。その向学心に感動した教員の郭燦永(郭池山)は、彼を学校に入学させ、学費も自分が負担した。耳学問で学ぶ薪売りの少年も普通ではなかったが、見ず知らずの子どもを入学させて学費まで負担する教師もまた並の教育者ではなかった。しかし、柳京守は、家庭の事情で学校を卒業することができなかった。彼は学校を中退し、地主の家で下男奉公を強いられた。彼の学校中退に大きな衝撃を受けた郭燦永は、教職を退いて労働者、農民のあいだで革命的な啓蒙活動をはじめた。そして、後には抗日遊撃隊に入隊し、指揮官として活動した。

 柳京守は、下男暮らしをしながらも、ひきつづき郭燦永の指導を受けた。教え子にたいする郭先生の愛情と関心は並々ならぬものがあった。ところが、郭先生は、いわれもなく民生団の嫌疑をかけられ、審判台に立たされる羽目になった。左翼排他主義者は、なんの理由もなしに彼を中隊長の地位からはずした。彼の一挙一動は、監視兵の監視のもとにおかれた。郭燦永が大衆審判の場に引き出されたとき、柳京守は命を賭けて彼の保証に立った。彼が審判の場で恩師の保証に立ったことは、万人に称賛されてしかるべき大勇断であった。そのころ、柳京守自身も民生団嫌疑者の名簿に登録されていた。民生団の嫌疑者が民生団のレッテルを張られた「被告」をかばったり同情するというのは、銃口に身をさらして自分を殺してくれと請願するにひとしい自殺行為であった。しかし、柳京守は身をもって恩師の無罪を証明した。その「罪」で、彼は民生団の獄舎につながれた。柳京守の勇敢な行為は、教え子が恩師につくす最高の信義であった。彼は終生、師の恩を忘れず、教え子としての信義をつくそうと努めた。

 彼がこのように信義に厚かったのは、信念が強かったからである。信念の強い人間は、道徳と信義もりっぱに守るものである。革命家は、正義を擁護し、不正を憎み、真理のみを語るべきであり、同志と人民にたいする信義をりっぱに守るためには、命までも投げだす覚悟ができていなければならないというのが彼の信条であった。彼は、左翼排他主義者と分派・事大主義者に、民生団と断定された人たちの絶対多数はなんの罪もない人たちであり、革命に忠実な人を民生団と決めつけむやみに処刑するのは犯罪であると糾弾した。そして、いまは反民生団闘争が極左的に展開され革命隊伍内に混乱が生じているが、いつかは必ず収拾される日が来るに違いないということをかたく信じて、民生団の汚名を着せられた堅実な革命家と愛国的人民を断固として擁護したのである。

 命を的に、審判場で恩師を救った柳京守の勇敢な行動は、東満州の革命家と人民を強く感動させた。わたしも大荒崴でその話を聞き、小汪清での彼との対面を感慨深く思い起こした。

 わたしは馬村で延吉遊撃隊の戦友たちを見送るとき、崔賢にこんな冗談を言った。

 「あの三孫を見ると、のどから手が出るほど欲しくなりますね。我々の出会いの記念に、あの子を譲ってくれませんか」

 崔賢は、冗談まじりにわたしの話をまぜっ返した。

 「いまは駄目ですな。あの子は戦闘ではなかなかの腕前ですが、物の考え方は、まだ頼りないもんですよ。3年くらい仕込んで金隊長に差し上げますから、それまで待ってもらいましょう」

 柳京守が、わたしの身近に来て、中隊長として活動しはじめたのは小哈爾巴嶺会議以後からであった。小汪清での初対面のときから10年近い歳月、彼は、崔賢部隊で機関銃手を務めた。そのため彼と会う機会はそれほどなかったし、こまやかに面倒をみてやることもできなかった。わたしが柳京守のためにしてやったことがあるとすれば、「幼い革命家」という称号を与えたことだけだった。しかし、柳京守は、その称号を自分への表彰として受けとめた。そして、わたしを心の柱とし、革命のために一生をささげようと決心した。

 わたしはいまも、我々が茂山地区戦闘を成功裏に終結し、天宝山一帯へ進出していたときのことが忘れられない。我々の行方を探知した敵は、天宝山とその周辺に「討伐」兵力を集結し、人民革命軍への大々的な掃討戦を展開しようと画策した。崔賢部隊は、我々に集中する敵の兵力を最大限に弱化させるため、天宝山市街を攻撃した。その市街戦がいかに熾烈をきわめたかは、敵が婦女子まで駆りだして手榴弾を投げさせたことからも察することができる。城市の敵は、ほとんど掃滅された。しかし、崔賢はそれに満足しなかった。彼は、より多くの「討伐」兵力を掃滅する誘引戦を展開しようと決心し、50名余りの隊員たちで戦闘班を組み、天宝山市街から8キロほど離れた森林の中に伏兵の陣を張った。その戦闘班に柳京守が含まれていた。柳京守の小部隊は、敵をおびきだすため「討伐隊」の宿営地を連続的に奇襲した。ある夜は同じ宿営地を2回も襲撃し、またある夜は「討伐隊」の作戦地図まで奪い取り、敵が業を煮やして人民革命軍を追撃せざるをえなくした。柳京守はそのとき、まる3日間、水もろくに飲まず、もっとも危険で重要な戦闘を一手に引き受けた。この作戦で柳京守が立てた手柄について、崔賢は解放後も折にふれ生き生きと回想したものである。

 崔賢部隊は、峠を7つも越え、敵に息つく暇も与えず連続攻撃を加えた。敵は沼沢地でも数百名の死傷者を出した。崔賢部隊のおかげで、主力部隊は敵の抵抗をそれほど受けることなく、無事に天宝山一帯へ進出することができた。我々は、そこで最初計画していた崔賢部隊とは会えず、そのかわり崔春国の部隊に出会った。我々が崔春国の部隊に会っていたころ、崔賢部隊は逆に天宝山から数里離れた地点でつぎの誘引戦を準備していた。崔賢の話によると、そのとき第4師のすべての遊撃隊員は、我々に会えないのを非常に残念がったそうだ。

 わたしにたいする柳京守の信義の深さは、じつにはかり知れないものがあった。それが、いかに高潔で真実なものであるかを、わたしは、小部隊活動の時期にいっそう胸に熱く体験した。革命家としての柳京守の人となりは、司令官の命令、指示にたいする無条件的な実行精神に集中的にあらわれた。彼は司令官の命令実行にあたってそれらしき誓いや約束はしなかったが、いったん立てた誓いや約束は間違いなく履行するりっぱな品性をそなえていた。

 ――我々の頼るべきところは、司令官同志のふところしかない。司令官同志に忠実につくしてこそ、我々は祖国の解放を遂げ、自分自身の運命も切り開いてゆくことができる。司令官同志の意図どおりに戦いさえすれば、我々は勝利する。

 これがまさに、柳京守が日ごろからいだいていた信念であった。こういう信念をいだいていたからこそ、彼はいかなる悪条件のもとでも、わたしの命令や指示をりっぱに実行することができたのである。

 1941年の初春、わたしは満州各地と国内での小部隊活動を指導するため、柳京守の中隊を率いてソ連極東の訓練基地を出発し、白頭山一帯に進出したことがある。そのとき柳京守は中隊のメンバーとともに、わたしの仕事をなにかと助けてくれた。わたしは寒葱溝に司令部の居所を定め、各地へグループを派遣した。柳京守も、わたしの命令で何回となく連絡任務を遂行した。彼は司令部を発つたびに、自分たちに与えられた食糧を警護隊員に渡し、将軍の食事をよくととのえるようにと頼んだ。また、わたしに禍が及ばないように、しばしば陽動作戦を展開して敵の注意を他にそらしたりした。

 司令部が寒葱溝に位置していたとき、わたしは柳京守に、樺甸県老金廠の連絡地点へ行って魏拯民に会ってくるよう指示したことがある。それは、数十もの敵の検問所と封鎖区域を突破しなければならないむずかしい任務だった。それで司令部では、彼に10名ほどの人員をつけてやった。しかし、柳京守は、司令部の護衛を気遣い、2人だけを連れて老金廠へ向かった。彼は、3人分の食糧としてわたしが割り当てた一袋の米まで、そっと全文燮に渡し、5、6升を携帯しただけだった。柳京守が任務を遂行してもどってきたとき、寒葱溝は、あたり一帯が「討伐隊」のかがり火に覆われていた。司令部のテントが張られていたあたりにも、かがり火がいくつも燃えていた。指定された帰隊時間はわずかしか残っていなかった。幼い2名の隊員は、わたしの生死を案じて涙ぐんだ。事実、その夜の寒葱溝に現出した火の海を見ては、司令部が無事であると思った人はいなかったであろう。しかし、柳京守はいささかの動揺もなく落ち着いて、「もう時間は30分しか残っていない。この30分以内にあのかがり火の司令部の位置まで行き着けなければ、司令官同志の命令をたがえることになる。司令官同志はこの危険のなかでも、我々3人を最後まで待っているはずだ」と言って2人の隊員をなだめた。そして2人を山頂に残し、司令部のテントがあった場所をめざしておりてきた。そして、その付近で、わたしが残留させた隊員に出会った。柳京守が任務を終えて帰ってくれば間違いなく司令部の場所を探すであろうというわたしの確信と、状況がどう変わろうと、司令官はグループを派遣した出発地点で任務を終えて帰隊する部下を待っているはずだという柳京守の判断は、寸分の狂いもなく一致したのである。

 わたしが定めた日時と場所を寸分の狂いもなく守ろうとする柳京守のゆるぎない姿勢と徹底した実行精神は、司令官はいかなる状況にあっても隊員を見捨てないという確固たる信念と、司令官の信頼と愛情にこたえるためには、どんな犠牲や苦痛も覚悟すべきだという真の道義心に根ざすものであった。

 柳京守は、こういう信念と道義心をもって、解放後、鉄道警備隊を組織し、戦車部隊を建設し、戦争の各段階における最高司令部の作戦方針の実行においても大きな貢献をした。

 それで、わたしは、いまも人民武力省の指導的幹部に会うたびに、軍人を育てるからには、いかなる情勢の変化や逆境にあっても屈することを知らず、信念と意志をかたく守りとおす剛直な闘士、忠臣に育てあげるべきだと話している。

 歴史的経験は、革命が上昇一路をたどり情勢が有利なときには、隊伍内に動揺分子や変節漢は出ないが、内外の情勢が複雑に変化し、革命の途上に難関が立ちはだかるときには、隊伍内に思想的混乱と動揺が生じ、投降分子、落伍分子があらわれて、はかり知れない弊害を及ぼすことを示している。

 日本帝国主義の満州占領や中国本土侵攻といった国際的大事変は、わが国の民族解放闘争や共産主義運動の隊伍内に大きな政治的刺激と思想的混乱をまねく一つの契機となった。堅実な共産主義者は、9.18事変以後、日本帝国主義にたいする全面的な抗日武装闘争を展開すべき歴史的時期が到来したとみなし、朝鮮革命を新たな高揚へと導いたが、一部の民族主義運動家や革命的信念の弱い共産主義運動家は、満州まで占領した日本帝国主義にはもうかなわないと速断して闘争を放棄するにいたった。

 日本帝国主義の中国本土侵攻についても同じことがいえる。当時、我々は、日本帝国主義の大挙中国侵攻は必然的に兵力の分散と消耗をまねくことになるため、中国東北地方における抗日武装闘争の発展に有利な情勢をもたらすものと判断した。もちろん、こうした判断をくだすさいに、我々は中日戦争が招来する新たな政治的・軍事的難関を予測しなかったり無視したりしたわけではない。我々は、中日戦争によって急変する情勢の有利な側面を重視し、不利な局面を有利に変えるために主動的な努力をおこなった。革命家にとって大切なのは、まさに難局を果敢に突破するこういう不撓不屈の闘志と信念なのである。

 ところがこのときも、抗日運動隊伍にまぎれこんだ偶然分子や一時的な同伴者のなかには、収拾しがたい思想的混乱が生じた。彼らは、日本帝国主義が中国本土に攻め込み、武漢三鎮まで占領するのを見て、すでに大勢は傾いたものと見、これを逆転させる力はこの世にはないと考えたのである。こうした思想的変質の過程は、つまるところ敗北主義を生み、それが温床となって少なからぬ革命の脱落分子や市井の俗物、背信者が出てくるようになった。

 そのうえ、日本帝国主義者は、中国領土の大部分を占領し、太平洋戦争の準備に取りかかる一方、満州における抗日運動を最終的に抹殺しようと連続的な大「討伐」攻勢をあえてかけた。そのため、南北満州の各地であれほど活躍していた反日部隊はほとんど消滅し、熱河遠征のあおりで南満州の楊靖宇部隊までが甚大な被害をこうむった。

 熱河遠征の失敗によって東北抗日連軍の少なからぬ部隊が試練をなめていたそのころ、中国人のなかからも投降分子、逃亡者が出ていた。1938年の夏、楊靖宇麾下の第1軍部隊は、熱河への再度の遠征を開始するやいなや、敵の大包囲網に陥り、言い知れない苦汁をなめさせられた。そのころは、敵が軍事的攻勢とあわせて抗日遊撃隊員にたいする帰順工作を執拗に展開している時期でもあった。投降した者を処刑せず帰順者として受け入れるという満州国皇帝の「恩赦の大詔」なるものが公布され、革命を放棄した者や卑怯者、意志薄弱な者たちを誘惑した。抗日武装部隊にたいする「討伐」作戦が悪辣かつ執拗に展開されるなかで、遊撃隊と人民の離間をはかる「匪民分離」策動も強化された。革命軍は、人民の支援を受けようにも受けられない窮地に陥った。住みなれた生まれ故郷にひとしい遊撃根拠地を離れ、熱河方面への勝算のない遠征の途についた抗日連軍部隊は、なじみのない土地でこれといった人民の支援も受けられず、敵の重なる「討伐」でさんざん痛めつけられた。

 こんなときに、楊靖宇の右腕ともいわれ、南満州の抗日猛将として名声を博していた第1軍第1師の師長程斌が、遼寧省本渓で投降に反対する政治幹部を射殺し、部隊を率いて敵軍に投ずる背信行為を働いた。そのため、第1軍は、容易ならぬ難局に直面した。東北抗日連軍第1軍の指揮メンバーの活動ルートと所属部隊の番号、密営地点などの秘密事項を知りつくしていた程斌の裏切りは、第1軍にとって致命的な打撃であった。彼の帰順によって第1軍の西征計画は完全に破綻してしまった。その後、程斌は、通化省警務庁長岸谷の手先となり、楊靖宇捕殺作戦の先頭に立った。彼の案内する「討伐隊」との激戦で、南満州で名声をはせた抗日の勇将楊靖宇は惜しくも戦死した。岸谷が熱河省の副省長に転任すると、程斌は彼に従い、「熱河一心隊」という警察「討伐隊」を組織してその隊長におさまった。

 程斌や全光のごとき輩の例によってもわかることだが、職責の高い人間であればあるほど、その裏切りはいっそう悪辣で禍も大きいものである。

 程斌の投降を知らされたとき、わたしには、それがなかなか信じられなかった。彼が、敵に寝返るほどの特別な理由が考えられなかったからである。彼には、地位にたいする不満もなかった。だとすれば、投降の理由はなんであったのだろうか。わたしの判断では、彼の裏切り行為は、革命の勝利への信念を失ったことに起因している。7.7事変後、連日戦果を拡大していた日本軍の威勢に恐れをなし、革命の前途に絶望を感じたのである。いつ成功するかわからない革命のために苦労するくらいなら、むしろ逆賊呼ばわりされても安楽に暮らせる道を選ぼう――これが、程斌を敵に寝返らせた思想的動機であったに違いない。

 程斌は名をはせた勇将ではあったが、察するところ思想修養をおろそかにしたようである。わたしの言う思想修養とは、主に信念の培養、楽観主義の培養を意味する。思想鍛練に励まない人間は逆境に立たされると、すぐ困難に屈してしまうものである。そういう意味で、わたしはいまも思想優先論を主張する。

 程斌の飼い主であった岸谷は、敗戦後、家族ともども自決した。しかし、程斌はその汚らわしい命をつなぎとめようと、多くの日本軍捕虜を自分の手で射殺し、身分を偽って八路軍にまぎれこみ、指揮官の地位にまでのぼりつめた。しかし、そんな幸運が長続きするはずはない。程斌はカモフラージュして愛国者になりすましたが、裏切り者の正体を隠しつづけることはできなかった。解放後、数年たったある日のことである。彼が雨の降る瀋陽の街を傘をさして歩いているとき、雨をよけて彼の傘に入ってくる男がいた。その男もやはり程斌のように身分を偽って暮らしていた反逆者だった。彼は、程斌が何者かをよく知っていた。なんのはずみでか、彼らはそれぞれ当局に出向いて、互いに相手を裏切り者だと告発した。そうこうしているうちに、程斌が投降分子であることがあばきだされた。信念をすてて敵のふところに転げ込み、革命にはかり知れない損失をこうむらせたこの唾棄すべき人間に、人民裁判は相応の判決をくだした。程斌の運命は、信念をすてて同志を裏切る人間の末路がいかなるものであるかを示す生々しい実例である。

 楊靖宇部隊が壊滅したのち、「討伐」の砲火は我々に集中した。敵は、金日成部隊さえ掃討すれば満州と朝鮮の抗日運動は幕になるとし、四方八方から我々を包囲し、必死になって襲いかかってきた。我々の前には、じつにはかり知れない難関が立ちはだかった。事態がこうなると、打倒帝国主義同盟のころから革命闘争に参加してきた者のなかからも、卑怯者、投降分子があらわれはじめた。東北抗日連軍のもとで指揮官を務めていた方振声、朴得範らが、敵に投降したのもこのころだった。

 ソ連と日本が中立条約を締結したときにも、我々の隊伍には逃亡者があらわれた。我々の隊員のなかには、ソ連への依存心、今様に言えば事大主義が少なからずあった。一部の指揮官が民族自主意識を培養する教育に力を入れず、ソ連擁護、ソ連重視、ソ連第一の思想を一面的に強調したので、ソ連に頼りさえすればすべてが解決されると考える弊害が生じた。いわば、ソ連の支持と援助なくしては、朝鮮の独立も不可能だと考えるようになったのである。

 このときほど、民族自主意識こそが、革命家の信念を左右する決定的要因であるという真理を痛感させられたことはなかったといえる。革命は自国人民の力に依拠して自主的に遂行すべきであるという自力独立の観点を確固とうち立てていた人のなかからは、逃亡者や裏切り者が出なかった。しかし、自分自身や自国人民の力を見くびり、大国に頼って祖国と民族の運命を開こうと試みた人のなかからは落伍者や投降分子があらわれた。

 自国人民の力を信じようとしない人間は、困難な環境にぶつかると、例外なく敗北主義に陥り、敗北主義に陥ればたちどころに革命勝利の信念を失い、闘争を放棄するか、中途半端に終えてしまうのである。こういう類いの人間は、大国が革命の途上で紆余曲折をへるようになると、自国の革命も破局にいたったものと考える。革命は国際的性格をおびるものであるから、国際反帝勢力との団結をめざす共産主義者が他国の共産主義者の失敗に同情したり、彼らの悲しみを自分の悲しみとするのはもちろんよいことである。また、大国の革命の失敗が自国の革命に一定の影響を及ぼすこともある。しかし、大国の革命が一時的に挫折したとしても、それによって小国の革命も破局を迎えるかのように考え旗を下ろすならば、それは大きな誤りである。革命は、国際的性格をおびる前に、まず民族的性格をおびるものである。革命は民族国家別に進められるのであるから、個々の国の共産主義者が自力で革命を遂行しようという確固たる決心と信念をもち、自国人民の力に依拠して頑強にたたかっていけば、いかに険しい高地でも十分に占領できるというのが、わたしの終始一貫した主張であり持論でもある。

 わたしの体験によれば、革命をやさしいものと考えて武装隊伍に加わった者、信念が不透明で意志薄弱な者、分派根性から脱しきれず他人を見下げ遠ざける者、敗北主義者は、内外情勢が複雑になり革命に試練が迫ると、例外なく背信の道に転げ落ちる。

 林水山など一部の者が我々を裏切って以来、わたしは戦友たちにたびたびこんなことを話したものである。

 ――情勢はきびしく、たたかいはますます困難になってくる。我々の革命偉業が実を結び、国の独立が必ず達成されるであろうことは、誰もが信じていることだが、その日がいつなのかは誰にもわからない。だから、最後までわたしについてくる自信のない人は気にせずに家へ帰れ。逃亡するのは卑劣な行為だが、申し出て行くのはとがめない。我々が10年以上も革命の道をともに歩んできたのに、挨拶もせずに別れるという法はないではないか。家へ帰りたいという人がいれば見送ってやる。そして、闘争を中途でやめたことを問題にしない。力が足りず、信念が弱くて隊伍を離れるのは仕方がないではないか。行きたい人は行ってもよい。

 こんなふうに直截に話して、革命勝利の信念をかためるよう隊員たちを教育した。

 わたしはこう宣言したが、戦友を捨てて家に帰る隊員はいなかった。朝鮮の真の共産主義者は、いかに情勢が複雑で難関が折り重なっても、信念を失わず断固として抗争をつづけ、ついに日本帝国主義を打ち倒し、祖国解放の大業をりっぱになし遂げたのである。

 我々は「恵山事件」によって甚大な打撃をこうむったが、直ちに収拾策を講じ、その損失を埋め合わせるための闘争を力強くくりひろげた。朝鮮共産主義者の不撓不屈のたたかいによって、党組織の建設と祖国光復会組織の拡大をめざす活動は、中断されることなく活発におし進められた。

 抗日戦争が生んだ英雄たちのあとを継ぎ、いまは困難な持ち場でいかなる逆境にも屈することのない不屈の闘士が続々と輩出している。金正日時代の壮大な革命闘争の過程は、とりもなおさず信念と意志の闘士を生みだす温床であり、地盤である。金正日同志が信念と意志の化身として高く評価している李仁模の実例は、我々にいかに多くのことを語りかけていることか。全国の党員と勤労者が、金正日同志の提唱で李仁模に学ぶ運動をおこなっているが、わたしはそれをたいへんよいことだと思っている。

 1990年代は、信念と意志が黄金にもまして価値あるものと評価される時代である。現代は、全人民が信念と意志をうちかためることはもとより、党と国家が社会主義・共産主義への鉄石の信念をもって、帝国主義連合勢力の執拗な封じ込め政策と反動的な思想攻勢から我々の信念と体制を固守し、金剛石のようにかたい意志をもって直面した難局を打開していくことを要請している。

 革命烈士たちが血潮をもって守りぬいてきた信念をすて、その信念の創造物である社会主義をすてた少なからぬ国では、民生が窮乏に陥り、あらゆる社会悪と不倫背徳がまかり通っているのが現状である。歴史は、信念をすてた者たちに相応の代償を払わせるものである。

 わが国がいかなる逆風にも揺るがない強国になったのは、わが党の信念が強く、人民の信念が強いからである。信念の強い党は変質せず、信念の強い国家は崩壊せず、信念の強い人民はくじけないのである。

 我々はこれまでも苦難の道を歩んできたが、これからはさらに困難な道を歩まなければならないかも知れない。しかし、朝鮮人民は、それを少しも恐れない。信念の歌を高らかにうたい、ひたすら前進する人民であってこそ、自主時代の高峰をきわめることができるのである。



 


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