金日成主席『回顧録 世紀とともに』

5 9月アピール


 1937年9月、我々は、中日戦争に対処して全朝鮮同胞に送るアピールを発表し、多数の政治工作員を国内に派遣した。わたし自身も国内に入ろうと決心した。労働者の大集団が集結している地域に入って、全民抗争準備の突破口を開くためであった。第1の目的地は咸鏡南道新興地区、第2の目的地は豊山地区で、同行人員は10余名であった。

 祖国の全土が危険きわまる敵地となっていた当時、わずかの警護隊員を連れて国内深くに入るというのは、実際容易ならぬことだった。軍・政幹部たちは、わたしの国内潜行を再考してほしいと重ねて懇願した。洋服姿のわたしを見た「パイプじいさん」は、「司令官が、そんな身なりで咸興近くまで行くと言うのですか。敵の警備が普通でないと聞いていますが」と言ってしきりに引き止めた。しかし、わたしは決心をかえなかった。そのころのわたしには、金周賢小部隊の国内工作失敗の損失を挽回しようというはげしい心のもだえがあった。わたしは、9月アピールの要求を自分自身にたいする要求として受けとめていたのである。わたしが国内深くに入ると言ったとき、いちばん気まずそうな顔をしたのは金周賢とその小部隊のメンバーだった。金周賢は、自分たちの小部隊がとんだ失敗をしでかしたので、司令官が、みずから国内工作に出かけようとしているのではなかろうかとさえ思ったようである。もっとも、そんなきらいがまったくなかったわけではない。

 発表されたのが9月であることから、9月アピールと称されたこの文書で我々がとくに意義づけたのは、およそ二つの問題であった。その一つは、中日戦争と朝鮮革命の相関性について正しい認識を与えることにより、朝鮮人民が信念を失わず、反日運動を強めていくようにすることであった。

 当時、新聞に目を通している市井の人のなかには、中日戦争がつづき日本軍の戦果が拡大されるにつれ、朝鮮の独立は不可能になるとする悲観論者が少なくなかった。その年の8月初から、崔南善、尹致昊、崔麟などのいわゆる著名人士は、内外の新聞に日本帝国主義との妥協を説く文をあいついで発表した。それらの文章は、わたしも読んだ。

 崔南善は、日本の存在とその勃興は、すなわちアジアの気運、東方の光であるとし、東方諸民族は日本を盟主として大同団結すべきだと説いた。3.1独立宣言文の起草者の1人である崔南善は、かつて、白頭山は、東方万物の最大依支、東方文化の最要核心、東方意識の最高淵源、東方大衆の原籍であり、その活動の主軸をなすとし、東方の風雲にして、その気流の動源およそ白頭山に発せざるものなしと言った。そして、いつどこにあっても、頬をなでるのは白頭山の風であり、のどをうるおすのは白頭山の泉であり、豊かな実りをもたらすのは白頭山の土であるとも言った。そういう人間が、前言をひるがえし、日本の存在をアジアの気運、東方の光とたたえるにいたっては驚かざるをえなかった。

 崔麟は、内鮮一体によって「国民的赤誠」を発揮すべきだと力説した。3.1独立運動発起人33人グループの一員にしては、あまりにも背信的かつ売国的な言動であった。

 尹致昊は、朝鮮人と日本人は同じ船に相乗りした運命共同体だと主張した。朝鮮の近代史に明るい人なら、旧韓国時代の高官であった尹致昊をよく知っているはずである。彼は高い官職についていたが、「韓日併合」に断固として反対した。そのため獄にもつながれた。7.7事変当時、彼は70を越す高齢の身であった。そんな彼が、栄達をはかったり、命を惜しんでことさら日本帝国主義に追従したとは考えられない。祖国が解放され、世間に顔向けができなくなった尹致昊は、80を越した身で自害して果てたという。自決をもって恥辱をすすごうとしたのを見ると、彼に良心があったことは確かである。そんな人物が日本帝国主義に転向するようになったのは、日本を過大評価したうえに情勢推移の判断を誤ったからだと思う。

 我々が新興地区へ進出するとき、三水近くから道案内をしてくれた張海友も中日戦争の展望について非常に知りたがっていた。わたしは彼に、中日戦争を近視眼的に見ては絶望しかねない、中日戦争は貪欲な日本軍国主義をしておのずと広大な地域に兵力を分散せざるをえなくし、兵力難、物資難、補給難、原料難にあえがせる結果をまねくであろう、したがって、中日戦争は朝鮮人民の独立戦争に絶望ではなく明るい展望を開いている、いわば、目的達成の絶好の機会を与えている、それゆえ我々は、日本帝国主義との決戦をくりひろげる民族あげての全民抗争の準備をおし進めるべきだと話した。

 9月アピールで提起したいま一つの重要な問題は、全民抗争準備の戦略的方途を示すことであった。それで我々は、アピールにつぎのような内容をもりこんだ。

 ――中日事変は、ますます緊張の度を加えている。最終的勝利が中国側にあることは疑う余地もない。これより有利な機会はまたとないであろうから、我々は一朝有事のさいに断固たる行動に出なければならない。後方における武装暴動と破壊工作のための前衛的な実行組織として生産遊撃隊と労働者突撃隊を組織するのは、とくに、重要かつ緊切な問題である。生産遊撃隊と労働者突撃隊は、そのメンバーを動員して武装暴動を起こし、後方で破壊工作をくりひろげ、軍需工場とその他重要な企業所を放火、破壊し、…全民抗争の時期が到来すれば、朝鮮人民革命軍の軍事行動に合流しなければならない。そうすることによって日本軍を完全な敗北へ追い込むべきである。こうしてこそ、我々の課題、すなわち朝鮮の独立を達成することができる。

 我々は9月アピールで、生産遊撃隊と労働者突撃隊を中心に全民抗争の準備を拡大していくことを戦略的方針として示した。

 9月アピールの発表後、我々が国内進出の最初の目的地として新興地区を選択したのは、この地区が、咸興、興南などわが国の労働者がもっとも多く集結している大工業都市をかかえているからだった。赴戦嶺山脈の南裾に位置した新興地区のうっそうとした樹林のなかには、我々の政治工作員によってすでにいくつかの密営が設けられ、小部隊の活動拠点となっていた。その密営群の一点に、興南地区をはじめ、東海岸の各地で活動する政治工作員と労組、農組の中核メンバーが集結することになっていた。

 我々が第2の目的地として豊山地区を選んだのは、その地区に水力発電所工事場の労働者と、祖国光復会の組織に結集した天道教徒が多く住んでいたからである。新興をへて豊山までの路程は、図上の直線距離にして320キロ以上もあった。

 我々は謄写版刷りの9月アピールを金鳳錫の背のうに入れて出かけたが、それをいちばん最初に張海友に見せた。一行が三水付近の青山嶺の山腹で休止するあいだに9月アピールを繰り返し通読した張海友は、生産遊撃隊と労働者突撃隊の組織を重要な問題として提起しているのがとくに気に入った、元山ゼネストを見ても労働者階級の団結力はじつにすばらしいものだと言った。彼の言うとおり、1929年の元山ゼネストで特記すべき点は、労働者階級の団結力と戦闘力であり、連帯、協力の精神であった。元山ゼネストがあった翌年、新興炭鉱の労働者が暴動を起こし、その後も朝鮮各地で労働者のストライキは毎年続発した。しかし、それらの大衆的ストライキは、ほとんど要求条件を貫徹することができず、中途で挫折してしまった。

 我々は9月アピールを作成するさい、過去の労働運動の経験から長所を生かし弱点を克服する方法で労働運動の新しい航路を切り開き、以後は苦い失敗を繰り返さないようにしようとした。

 朝鮮に近代的な産業労働が発生したのは、19世紀末、開放政策の時流に乗って外国資本が流入しはじめたときからである。わが国における産業労働の起こりを18世紀と見る人たちもいるが、そのころの近代産業は、まだ萌芽的形態であったといえる。封建王朝が門戸を開放して以来、外国資本がなだれこんでくるなかで港湾が建設され、鉄道が敷設され、工場が操業し、鉱山が開発され、港湾労働者、鉱山労働者、鉄道労働者、土木建設労働者など産業労働者の数が急激に増大しはじめた。

 産業労働の生成発展は、労働団体の結成をもたらした。1890年代の末、いち早く李圭順によって港湾労働組合が組織されたが、それを労働組合の先駆けと見る人もいる。

 初期の労働団体は、義兄弟や扶助契の形で組織されたが、それは、しだいに労働契や組合の形に発展した。「乙巳保護条約」の後には、鎮南浦労働組合、平壌新倉里労働組合、群山の共同労働組合をはじめ、近代的な労働組合が全国各地に結成された。もちろん、当時の労働組合は、ほとんど自然発生的に組織された工場別の組合であったが、それらの労組団体の発足とともに階級の利益のための労働者の集団的闘争が起こりはじめたのは確かである。1910年代に入って、労働争議は全国各地で起こった。1920年代にいたり、全国的な合法的労働団体として労働公済会、労働大会、労働聯盟会などが組織されて以来、労働者の闘争はたんなる労働条件改善のための争議にとどまらず、日本帝国主義の侵略に抗する愛国的な政治運動に発展した。日本帝国主義は「治安維持法」を公布し、大衆的な労働団体への弾圧を強化しはじめた。労働争議を起こす労働者を検挙、投獄し、労働団体を解散させ、集会を厳禁した。そのため、わが国の労働運動は大きな打撃を受けた。そうした状況のもとで1930年9月、プロフィンテルン執行局は、「9月テーゼ」と呼ばれる「朝鮮の革命的労働組合運動の任務にかんするテーゼ」という決議を採択し、労働組合を産業別に組織して、そこに工場委員会や労働者相談室などを設けて組合の強固な下部組織を築くよう強調した。また1931年10月、汎太平洋労働組合書記部は、朝鮮における労働運動の実態を分析し、非合法の赤色労組を結成するという当面の任務を提示した。

 共産主義的国際労組運動の支援のもとに、わが国では1931年から平壌、興南、元山、清津、ソウル、釜山、新義州などの産業都市で赤色労組を組織するための闘争が猛烈に展開された。それらの赤色労組は、労働者大衆のあいだにマルクス主義を普及し、彼らを階級的に自覚させるうえで大きな役割を果たしたが、分派分子の策動と敵のきびしい弾圧によって盛況期を迎えることなく、わずかにして、その存在にピリオドを打たざるをえない運命に瀕した。我々が9月アピールを持って新興地区へ向かった当時、大部分の労組リーダーは、投獄されるか変質または隠遁している状態で、労組は有名無実のものであった。

 波乱にみちた朝鮮労働運動史の深刻な教訓もやはり、革命大衆を正しく指導できなかったところにあった。我々は、従来の労働運動を冷静に歴史の鏡に照らし、まず労働者階級のなかに入って労組をすみやかに再建し、労働者大衆の力と知恵に依拠してのみ、全民抗争の準備を正しく推進することができると考えた。そういう意味で、9月アピールの発表は、最悪の沈滞状態にあった労組、農組運動を中日戦争の勃発という状況に即応して復活させ、路線転換を遂げるうえで一つの転機となった。

 わたしは、張海友とともに青山嶺を登る道々で、労組のことをしきりに話題にした。
 独立運動をこころざし、朝鮮各地と中国、ソ連の沿海州一帯を転々としながらあらゆる辛苦をなめつくした張海友は、咸興、興南地区で活動していたかつての太平洋労組の関係者についてもよく知っていた。彼の話によれば、プロフィンテルン傘下の太平洋労組ウラジオストック朝鮮支部の責任者は金鎬盤であり、彼の指導のもとに1931年2月、咸興労働者連盟を赤色化した咸興委員会がはじめて組織されたという。わたしは張海友の話を通して咸興地区赤色労組の幹部の名を少なからず知ったが、そのなかには馬場正男という日本人労働者もいた。金鎬盤は、太平洋労組ウラジオストック支部から提供された1200円の労組資金を持参し、夫人同伴で咸興、平壌、ソウルなどで活動中、1931年の夏、警察に逮捕されたという。太平洋労組傘下の咸興地区日本人労組のメンバーも、1932年か1933年に全員逮捕された。

 咸興、興南地区の労組運動に生じた空白を埋め、運動に新たな活力を吹き込むために、わたしはすでに、朴金俊、金錫淵など地下工作の経験をもつ政治工作員をこの一帯に派遣していた。しかし彼らも、この地区の労働運動を根だやしにしようとする日本帝国主義者の魔手を逃れることはできなかった。朴金俊をはじめ、幾名もの労組リーダーは、多くの仕事を残したまま監獄や留置場につながれてしまった。こうした実情を考慮して、我々は1937年の春から興南地区へ、西間島で育てた政治工作員を数名派遣したのである。

 我々一行が青山嶺の頂に登ったとき、新興地区の秘密根拠地で活動していた小部隊責任者の韓初男が突然、我々の前にあらわれた。密営で待機するようにと指示しておいたのになぜ来たのかと問うと、赴戦に野口(遵=のぐち・したがう)の別荘があり敵の警備もいつもよりきびしいので、気がかりで駆けつけてきたと言うのだった。それで張海友を新坡に帰らせ、以後の道案内は韓初男にさせた。しばらく行くと、広々とした碧い湖があらわれた。それは赴戦湖2号ダムで、湖畔にそって左側に登って行くと1号ダムが見えるが、その近くに警察官駐在所があり、そこからさらに1.5キロほど登ると野口の別荘があるとのことだった。

 日本の新興財閥野口は、朝鮮に軍需工業を創設し、電気・化学工業を独占するため水力発電所を建設し、興南に朝鮮窒素肥料株式会社と軍需工業会社も設立した。そして、赴戦と虚川に建設される水力発電所の監督に便利な地点に別荘も建てた。数々の悲話を秘めた赴戦湖の沿革をたどってみても、野口が朝鮮人をどれほど残酷に搾取したかがうかがえる。1925年、赴戦高原を視察した野口は、斎藤(実)朝鮮総督に手紙を送り、ここは水力資源と森林資源に恵まれているうえに安い労働力も無尽蔵なので発電所を建設したいと具申した。手紙を受けた斎藤は、安い労働力をいくらでも雇って水力発電所の工事に着手せよ、大日本帝国の憲法がそれを保証するであろうから、安心して工事を進めてもよいと奨励したという。

 赴戦湖のダム工事は1920年代中期からはじまり、水路工事にあたってはなんの安全対策も立てなかったため、各種の事故で生命を失った朝鮮人労働者はなんと3000人に達したとのことである。ダムが完工したときには、用水を早く溜めようと周辺の農家を立ち退かせないまま水門をおろしたので、600余戸の農民が人為的な水害をこうむって悲嘆に暮れる惨状を呈したという。また、通水式のときには、処女をいけにえにささげれば水の神に守護されるとし、朝鮮の少女を水中に投げ込む蛮行まで働いたという。野口は口さえ開けば、朝鮮人労働者を牛馬と思えと言い放った。ダム工事のときの彼の言動があまりにもひどかったので、日本人でさえも「野口が通った跡には草も生えない」と非難したほどである。

 野口別荘周辺の警備がきびしかったので、我々はそこを避けて遠回りし、数日後に基本目的地である新興の東奥谷密営にたどり着いた。途中、日本帝国主義の目を避けて山中にこもっていた20名ほどの青年たちに出会ったが、彼らが山に入った経緯はまちまちだった。赴戦江発電所の工事場で悪質監督を石で撲殺した者がいるかと思うと、工事用のダイナマイトを盗みだそうとして発覚し、逃げだした者もおり、咸興の街から興南に行く途中、「日本帝国主義を打倒せよ!」「野口は、我々の血を搾り取って肥料をつくっている」というビラを拾って警察に検問され逃げだした者もいた。「面長の崔」と呼ばれる背の高い高原出身の青年は、自分を「官制共産主義者」だと紹介した。「面長」というのは、官職ではなく、面がずいぶん長いからと友達がつけたあだ名であり、「共産主義者」は、みずからつけたあだ名であった。ソウルに出て中学校に通っていた彼は、家からの仕送りが切れて中退し、高原に帰ってからはしばらく職にもありつけず街をうろついていた。そのうち、近くのある工場で赤色労組事件が起こった。警察はそれに関与した者ばかりでなく、あやしいと思われる者も全員検挙し、「面長の崔」にも累が及んだ。審問がはじまると、彼はなにも知らないと事実を話したが、嘘だといってひどい拷問を加えられた。はては、鼻にトウガラシ粉を解いた水までそそぎ込まれた。耐え切れなくなった彼は、労組運動に参加したと偽りの自白をした。そのため特高は、「面長の崔」に一つひとつ教えながら、彼を共産主義者につくりあげたのである。「おまえはどうして共産主義を信奉するようになったのか、その動機を話せ。おまえはそれも知らないと言うだろう。共産主義者はみなこの世から搾取と抑圧をなくし、労働者、農民の政権をうち立てようと主張している。おまえもそのために共産主義に同調したのだろう。白状しろ」と刑事が言うと、彼は「はい、そのとおりです」と答えた。こういうふうに3か月間にわたる予審の過程で、彼は共産主義についての初歩的な知識を身につけるようになった。そして、1年間服役して出獄すると、彼はれっきとした「共産主義者」になった。その後も、日本の警官は尾行をつづけた。高原警察署の特高がつくりだした「共産主義者――面長の崔」は、本物の共産主義運動のルートを求めて山づたいに北へ向かう途中、同僚たちに会って一緒に山中生活をするようになったのである。

 彼はわたしに、ここに集まっている者はみな日本帝国主義とたたかう覚悟ができている、これから共産主義運動に参加したいと言った。彼の話を聞いていちばん笑いこけたのは金平だった。金平は、マルクスやエンゲルスもこの話を聞いたら爆笑するだろう、マルクスは、ブルジョアジーが自分たちに利潤をもたらす商品だけでなく、自分たちを葬るプロレタリアートもつくりだしていると言ったが、そうしてみると、日本の警察は、自分たちを葬る共産主義者をつくりだしたわけだと言うのだった。それでわたしも隊員たちに、見たまえ、我々が祖国に来なかったなら、このような現実はわからなかったであろう、祖国の青年はみなこのように日本帝国主義とたたかう覚悟で、我々を探しもとめて山中をさまよっているのだと話した。わたしは彼らに9月アピールを配り、赴戦嶺秘密根拠地の小部隊と連係をつけるようはからった。

 赴戦嶺山脈に沿って南下する道すがら、いくつかの密営を見てまわり地形を調べてみると、この一帯は今後の全民抗争のための武装闘争根拠地にうってつけの地域であった。この山脈は白頭山脈ともつながっていた。

 我々が赤松の生い茂った東奥谷密営に到着すると、そこには、赴戦嶺山脈ぞいの東海岸地区から来た30名ほどの政治工作員、革命組織の責任者、労組、農組の中核分子が待機していた。金在水、金正淑の指導のもとに興南地区の地下組織を開拓した魏仁燦が金赫哲の道案内で東奥谷密営にあらわれた。彼の体からは、生臭い魚の臭いがした。敵の目をあざむくために行商を装い、サバを1かご、かついできたからだった。彼ら2人は幼いころから桃泉里で一緒に育った竹馬の友で、少年時代には社会主義国ソ連にあこがれ、沿海州へ行こうと金公洙と一緒に親にも内緒で冒険旅行をしたこともあった。彼らの両親と親類縁者はみな思想的傾向がよかった。

 魏仁燦が桃泉里の祖国光復会組織から工作任務を受けて興南地区に潜入したのは、1937年6月ごろだった。そのあとすぐ、金公洙をはじめ数名の工作員が興南地区に増派された。時を同じくして元山には、許錫先、新興炭鉱には李孝俊、昌城には康炳善が派遣され、清津では朴于賢が祖国光復会組織との連係のもとに活動をはじめていた。

 祖国光復会興南地区委員会が結成されたのはその年の8月だというのに、すでに多数の労働者がそれに吸収され、組織の運営も活発になされているとのことだった。地区委員会責任者の魏仁燦は、母親に労働者向きの簡易食堂を営業させ、そこを連絡場所にして活動状況を随時、金正淑、金在水に報告した。彼らが興南地区へ行ってはじめて組織を結成したときの話はきわめて教訓的だった。

 桃泉里から派遣された工作員たちが最初、足がかりにした本宮化学工場の建設労働者のなかに、14歳の少年がいた。彼の仕事は、焼いた鋲を運んで、高所で作業するリベット工に投げ渡すことだった。ところがある日、その少年が一瞬にして死体に変わる惨事が発生した。少年が放り上げた熱い鋲が運悪く上から落ちてくる鉄片とぶつかって、もろにカーバイド槽に落ち込んだのである。瞬間カーバイド槽が爆発し、少年は全身に火傷を負って倒れた。労働者たちが駆けつけたとき、少年はすでに絶命していた。ところが日本人監督は、少年の死体を病院に運ぼうとせいた。それは、少しでも手当てをして死亡したことにすれば、安全対策が講じられていないことにたいする労働者の不満をおさえることができるばかりでなく、慰謝料をやらなくてもすむからだった。工作員たちが監督の見えすいた下心をあばくと、労働者たちは憤激して騒ぎを起こした。恐れをなした監督は、少年の死体に手をつけることができなかった。労働者たちは、少年の葬儀をとりおこない、彼の両親に慰謝料を支払うよう、工場側に圧力をかけた。

 この事件がきっかけとなって興南の工作員たちは、労働者の信望を得、工場内に初の組織を結成することができた。彼らは「協助契」という合法的な名称で組織を運営した。ところがある日、ただならぬことが起きた。ある中年の男が「協助契」にあらわれ、だしぬけに「わたしはプロフィンテルンだ」と名乗った。プロフィンテルンは、赤色労組インターナショナルの略称である。彼は太平洋労組に関与したことがあったようで、思わせぶりに自分をプロフィンテルンと称し、「きみたちに警告するが、自重したまえ。このごろ日本人は、中日戦争で荒れぎみだから彼らに逆らわないほうがいい。慰謝料だのなんだのと出過ぎたことはすべきでない。きみたちのために要注意人物のわたしが迷惑する」と言い残し、そそくさと立ち去った。それ以来、興南の工作員たちは、労組関係者たちが極左から極右に転向したとみなし、彼らを警戒しはじめた。西湖地区の労組のなかに党組織を拡大する任務をおびて派遣された金錫淵も、以前の労組関係者のなかには日本帝国主義の弾圧に恐れをなし、日本の「白色労組」やヨーロッパのサンジカリストのように妥協的傾向に走る者が少なくないと嘆いた。

 張海友の話によれば、興南地区の赤色労組は発足当初、反日闘争にきわめて積極的だったという。1930年の初期、興南労働組合は、工場の近くに秘密文書を保管する地下室までつくり、活動を猛烈に展開した。組合のメンバーは、その地下室で檄文を刷り、夜になると街に出て反日スローガンをはりだした。あれほど勇敢だった往年の赤色労組はいったいどこへ消えてしまったのだろうか。

 わたしは、興南の工作員たちに、太平洋労組の関係者を放任しておいたのはたいへんな誤りだ、彼らを革命的に教育すれば、労組関係者がサンジカリズムに走るようなことはなくなると説き、今後の闘争方向を示した。

 ――我々はまず、東海岸地区の都市、農村、漁村、鉱山、炭鉱に祖国光復会の下部組織をより多くつくり、隠れている労組、農組の関係者をすべて捜し出し、少なくとも数年内に新興、興南、咸興、元山一帯に数万の抗争勢力を確保しなければならない。赴戦嶺山脈を中心に秘密遊撃根拠地を設け、さしあたっては数百名単位の武装部隊をいくつか常時確保していなければならない。労働者のなかには突撃隊を、農民のなかには生産遊撃隊を組織し、それらの組織は、いずれも目につかない秘密組織にすべきだ。9月アピールが、地下水のように大衆のなかに深くしみこむようにしなければならない。抗日革命の初期には人数に比べて武器が少なかったが、いまはかえって武器は多いが人が足りない。余分の武器で国内のすべての青年を武装させ、決定的な時期に全民抗争に決起できるようにすべきだ。

 わたしは以上のようなことを、そのとき強調した。

 翌日、わたしは、警察の監視がそれほどではない新興炭鉱に足を向けた。新興炭鉱の代表としてきていた李孝俊がわたしを案内してくれた。そこには、数百所帯の炭鉱夫家族が軒を連ねたみすぼらしいバラックで青息吐息の生活をしていた。この地区では、疾病と労働災害で毎年、数十名もの生命が奪われていた。わたしは、ここに来た組織のメンバーと労組の中核分子を蔘畑山の秘密の場所に集め、9月アピールを解説し、当面の任務を与えた。そのとき炭鉱組織のメンバーの1人が訪ねてきて、赤色労組の幹部を務めていた従兄が名前をかえて自分の家に身を寄せていると言うのだった。聞いてみると、その人物は、労組員にたいする検挙旋風が起こったとき新興に来た人だった。労組がストライキの指導を誤ったため、多くの人が獄につながれ、なかには日本帝国主義の手先になりさがって組織の秘密を売り渡す者もいた。彼は労組のリーダーたちが警察に逮捕されているとき、かろうじて難を逃れ新興炭鉱に来たのだが、組合の同志たちに合わせる顔がなくて家に閉じこもっていたのである。

 わたしは、新興炭鉱を発つ前に彼に会った。わたしが革命の道をともに歩もうと言うと、彼は、地下から出てひどく破壊された労組を立て直し、9月アピールの要求実現に全力をつくすと誓った。彼は労組員の名簿をそっくり保管していて、興南地区の労組関係者をほとんど知っていた。彼と興南地区の組織のメンバーとの連係をつけたわたしは、軽い足どりで豊山へ向かった。赤蟻嶺の密営で一泊した我々は、まっすぐに黄水院ダムの工事場へ足をのばした。荒涼とした嶺北の地で風雨にさらされ、ダム工事に駆り出されている人夫の惨状は、苦役と疾病にさいなまれる新興の炭鉱夫と少しも変わるところがなかった。豊山では、天道教出身で我々の政治工作員になった「金歯」がりゅうとした洋服にステッキという姿で我々を案内した。

 黄水院ダムの工事場をへて豊山郡所在地を通り過ぎた我々は、ある火田民村の片隅にある狩人の家で朴寅鎮に会った。火鉢でジャガイモを焼いて食べながら、国と民族の運命について語り合った火田民村でのその夜のことを、わたしはいまも忘れられない。そのとき、朴寅鎮は、崔麟を無類の売国奴だとなじった。彼がいちばん憎悪したのは、「3大愛国者」と自任する崔麟、崔南善、李光洙であった。朴寅鎮は、この3人をことさらに憎むのは、彼らがあたまから朝鮮民族を未開民族と見くびっているからだと言った。

 「自民族をさげすむ人間で、正しい道を歩んだ者は見たことがありません」

 朴寅鎮の言葉は正しかった。革命は信念があっておこなうものであり、その信念は政治的理念への信頼である前に、自国人民にたいする信頼と誇りなのである。自民族、自国人民への信頼と誇りがなければ、愛国心など生まれるはずがないのである。

 朴寅鎮と別れて暗い夜道を歩きながら、わたしはしきりにそんな考えにとらわれた。わたしは豊山地区の政治工作員に9月アピールの内容を説明するときにも、朴寅鎮の言葉を引用した。我々は、朝鮮人民、朝鮮の労働者階級を信頼して全民抗争を準備する以外に他の道はないと力説した。

 祖国の山野に秋色が深まっていた時季に、祖国解放の大綱をたずさえて遠く険しい道をひそかに巡り歩いた我々の祖国遍歴は無駄ではなかった。我々が、新興、豊山地区を一巡して以来、赴戦、咸興、興南、元山、端川、豊山、新興など、国内各地では全民抗争勢力が急速に成長した。黄水院ダムの工事場に労働者突撃隊が組織されると、それについで厚峙嶺生産遊撃隊が組織されたという知らせがあいついで伝えられた。各工場でストライキが続発し、工事場では人夫の集団的な脱走事件が発生した。咸興――新興地区の各工場、炭鉱でも労働者突撃隊が組織され、各所でサボタージュや手抜き工事、爆発事故などが頻発した。咸興万歳橋の欄干と東興山の九千閣に9月アピールの主旨をもりこんだビラが張り出されたのもそのころであり、金日成が咸興市街の理髪店で散髪をしていったといううわさが立ったのも、そのころのことである。さらには、金日成が日本陸軍病院に入院したといううわさまで広がったという。

 咸興、興南地区の工作員たちは、9月アピールに接して以来、対労組活動でも革新を起こした。彼らは、身をひそめていた労組関係者を100人以上捜し出し、全員を祖国光復会の組織に吸収した。興南地区労組は、労働者突撃隊のプールとなった。もし「恵山事件」が起こらなかったなら、興南地区の組織のメンバーはもっと多くのことをなし遂げたであろう。この事件のあおりで、魏仁燦、金公洙、金応鼎らが逮捕され、咸興刑務所に収監された。

 元山、文川、川内里地区でも、我々の組織はさかんに活動した。川内里セメント工場の組織のメンバーは、9月アピールが発表されたその年の秋に、1000余名の労働者をストライキに立ち上がらせ、敵を狼狽させた。元副首相の鄭一竜は文川製錬所の出身だが、彼は解放前にそこに地下組織のメンバーが多かったと自慢していた。自分も彼らの影響のもとに日本人の現場監督との闘争によく参加したが、当時は陰で自分を指導したのが地下組織のメンバーであることには気がつかなかったと述懐している。

 解放後、わたしが平壌で凱旋演説をしたちょうどその日、文川製錬所では初の溶鉱をとった。それも、そこで地下活動をしていた祖国光復会組織のメンバーの愛国的発起によるものであった。

 政治工作員と組織のメンバーは、獄中でも9月アピールを宣伝し、闘争をつづけた。

 我々が発表した9月アピールの影響力は大なるものがあって、それは、国内の革命運動を白頭山に結びつけるうえで決定的な役割を果たした。水豊発電所労働者出身の元建設相の崔在廈も、生前、1930年代末から中部朝鮮以北の大きな工場や建設場の労働者は、ほとんど白頭山とつながる組織の影響のもとにあったようだと言っていた。彼自身も同僚たちに同調してストライキやサボタージュに何回も参加したことがあるという。彼が言ったとおり、当時、朝鮮の産業地帯にはどこにも祖国光復会の組織が根をおろし、その組織の影響下で労働者階級のたたかいが力強く展開された。これは、中日戦争を引き起こし朝鮮人民にたいする弾圧と略奪に狂奔していた日本帝国主義者への抵抗の証であった。反日救国の初志をまげて日本帝国主義に屈伏した連中がいくら口をそろえて反共と親日を宣伝しても、朝鮮の労働者階級は動揺することなく愛国の志操を守ってたたかいつづけたのである。

 9月アピールが発表されてから5、6年後のある日、新聞紙上には、朝鮮の青年学生に学徒兵志願を勧誘する曹晩植の文章が載った。それが本当に曹晩植の手によるものであったか、それとも日本帝国主義がでっちあげたものであったかは定かでないが、ともかく世人を驚愕させたのは事実である。おそらく当時の人びとは、曹晩植まで転向するくらいなら、わが国の民族運動の指導者のうち転向しない人物など1人もいないだろうと考えたに違いない。

 しかし、労働者階級は動揺することなく、我々が示した全民抗争の準備をおし進めた。特殊兵器を開発していた興南地区のある秘密軍需工場では、世間を騒がせる大爆発事故が起こったが、敵の調査によればそれは偶発ではなく、意識的な破壊工作によるものであった。革命組織のメンバーは、蟻のはいでるすき間もないという敵の巣窟にまで潜入して、彼らに打撃を与えるたたかいをくりひろげたのである。このように労働者階級は、9月アピールを積極的に実行に移した。

 9月アピールは、抗日武装闘争を展開していた我々共産主義者が、中日戦争によって変化した情勢の要請に即応して勤労者大衆のなかに深く入り、彼らを目覚めさせ決起させることによって、祖国解放の大業をいっそう成功裏に遂行できるようにする強力な武器となった。



 


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