金日成主席『回顧録 世紀とともに』

4 独立旅団のころの崔春国


 中日戦争が勃発した1937年の夏、朝鮮人民革命軍主力部隊は主に、長白、臨江地区で活動しながら、北満州を出発した独立旅団の到着を待っていた。この独立旅団は、遊撃隊の創建初期からわたしと苦楽をともにした同志たちが根幹となって編成された部隊であった。

 1935年春の腰営口会議の決定にもとづき、東満州地方の人民革命軍各部隊が南北満州の広い地域に進出し、中国人部隊との共同作戦を活発にくりひろげたことについては前に述べた。我々も北満州で第5軍部隊との連合作戦をおこなった。その間、わたしは、汪清連隊と琿春連隊の一部の隊員を金策、崔庸健の活動していた三江地区に派遣した。

 北満州の戦友を訪ねて遠い道程を行軍しているうちに、その兵力は増強されて大部隊に成長した。そして1937年の春、独立旅団は、西間島へ進出することになった。この旅団の党委員会書記兼第1連隊政治委員を務めたのが崔春国であった。独立旅団の朝鮮人隊員は、北満州の中国人部隊と中国人民を誠心誠意援助した。崔春国は、汪清で戦ったころも中国人民や反日部隊との活動をりっぱにおこなって、彼らから深く愛され尊敬された。

 西崗会議後、わたしは北満州に残しておいた隊員たちを西間島へ呼んだ。しかし、一日千秋の思いで待っていた独立旅団は、普天堡戦闘が終わり、7.7事変勃発後かなりの時間が経過してから臨江地区に到着した。彼らの身なりを見て、我々は驚いた。軍服はぼろぼろで地下たびもすっかり破れ、足を布で包み、紐や縄で縛っていた。わたしは、そんな崔春国の背中をなでながら、汪清時代から今日まで、いつもむずかしい任務を与え苦労をさせてすまないとねぎらった。崔春国は、到着が遅れたうえ、途中で崔仁俊中隊長や朴竜山小隊長などりっぱな戦友たちを少なからず失って面目がないと言い、涙を流した。5月初旬に北満州を出発したというから、遠征行軍は数か月もかかったことになる。彼らが出発したという依蘭から鴨緑江沿岸までは4000キロほどある。その遠く険しい道を踏破してきたのだから、その間いろいろな出来事があったであろうことは想像にかたくない。

 林春秋は、17のころから宝物のように持ち歩いていた鍼箱をなくしてしまったとたいへん残念がった。鍼箱のなかには、多くの患者を治療してすっかり細くなった金製の高価な鍼も2本あったという。

 「じつに苦しい行軍でした。ここにずらりとテントが並んでいるのを見ると、別世界に来たような気がします」

 林春秋は、ほんとうにテントで寝たことがあったのだろうか思い出せないくらいだと言った。わたしはさっそく給養担当官を呼び、彼らがゆっくり休めるようテントを提供し、全員に新しい軍服を支給するよう指示した。しかし、崔春国ら指揮官たちは、夕食を終えるとすぐわたしのところへやってきた。ぐっすり眠って旅の疲れをほぐすようにとすすめたが、久しぶりに司令官のもとに帰ったので横になっても眠れそうにないと言って、せきこむように中日戦争のニュースを尋ねた。何か月も血みどろの行軍をつづけた彼らは、中日戦争が起こったことも知らず、ずっとあとになって、はじめてそれを耳にしたと言うのであった。わたしは情勢を説明した。

 ――9.18事変は日本の満州占領をもって終結したが、7.7事変はそうはいかないだろう。いま中国人民は、日本帝国主義侵略軍にたいし挙国一致の抗戦をくりひろげている。もはや、蒋介石も抗日に背を向けることができなくなった。中国共産党のイニシアチブで国民党との抗日民族統一戦線が結成された。それにもとづいて西北地方の紅軍主力は、朱徳を総司令とする国民革命軍八路軍に改編された。紅軍と国民党軍が合同して長期戦をおこなえば、国力と兵力が限られている日本は持ちこたえることがむずかしいだろう。いま日本軍は威をふるい破竹の勢いで進撃しているが、彼らの日章旗には、すでに滅亡の兆しがあらわれている。中日戦争に対処して、我々は、すでにたびたび会議を開き、必要な決議も採択している。会議の方針に従って、敵背攪乱作戦を猛烈におこない、国内革命勢力をさらに拡大強化しながら全民抗争の準備をととのえるのが、我々の課題である。敵背攪乱作戦の主な戦略地帯は、鴨緑江沿岸一帯と南満州地区である。中日戦争の基本戦線は北支戦線であり、したがって、日本軍がそこへ軍需物資を送るには鴨緑江沿岸と南満州地区を通過しなければならない。それで、我々は鴨緑江沿岸で活動している。同志たちもこれから鴨緑江沿岸か南満州地区で活動することになるだろう。

 彼らは、普天堡戦闘と間三峰戦闘に参加できなかったことを口惜しがった。崔春国は、北満州で抗日連軍部隊内の多くの朝鮮人と会ったが、彼らはみな白頭山に思いをはせていたと言った。そして、依蘭県城戦闘のときに、崔庸健と会ったときのことをくわしく語った。

 崔庸健は崔春国を抱擁し、きみは金司令のところから来たそうだね、うれしい、金司令に会ったような思いだ、金司令がわたしと金策に会おうと北満州まで来て、意を果たせずに白頭山へ向かったそうだが残念でならないと言い涙ぐんでいたという。

 解放後、崔庸健も依蘭県城戦闘のとき崔春国に会ったことを折にふれて話題にした。その戦闘は、崔庸健をはじめ、北満州の各部隊と東満州の部隊が共同でおこなった規模の大きい戦闘だった。北満州各地で戦っていた各部隊が馬で80キロから120キロ行軍し、敵に夜襲をかけて夜明け前にいちはやく撤収したという。夜の闇を恐れていた敵は、兵営周辺や土城のあちこちに、あかあかと電灯をともしていたが、崔春国所属部隊の隊員たちがつぎつぎにそれを撃ち落としてしまった。その銃声と閃光に敵兵は度胆を抜かれ、あえて手向かおうともしなかったという。

 その後、新たに編成された独立旅団は、西間島方面へ来るようにというわたしの指示を受けた。その指示は大きな反応をもたらしたという。西間島方面へ来ることになった独立旅団の隊員たちは一日中食事もせずはしゃぎまわったが、姜健、朴吉松ら北満州に残留する戦友たちは落胆のあまり食事もとらなかったという。

 独立旅団の南下行軍は、波瀾に富んでいた。指示を受けた崔春国は、その日のうちに各所に分散していた部隊にレポを飛ばす一方、隊員たちに満州国軍の軍服を着せ、大胆に平地に出て大道路行軍を決行した。数回の戦闘で手痛い打撃を受けた敵が、遊撃隊「討伐」のために山を捜索しているときだったので、平地はがらあきに違いないと推測したのである。一行は大道路を行軍したおかげで、一度も戦闘を交えずに1週間目に東京城近くにたどり着いた。行軍のスタートは順調だったが、その後、多くの部隊が集まり、旅団長方振声が行軍隊伍の指揮をとるようになってから混乱が生じた。林春秋、池炳学、金洪坡、金竜根など行軍参加者の話によれば、旅団長の方振声と旅団党書記の崔春国のあいだに、用兵戦術上まったく相容れない意見の食い違いがあったためだった。

 東京城を通過してから行軍隊伍が、敵の大部隊としばしば遭遇する局面が生じたので、崔春国は交戦を避け犠牲を出さないようにするため、旅団を小部隊に分けて行軍しようと主張した。それは、遊撃戦の要求にかなった正しい主張であった。しかし方振声は、隊伍を分散すれば収拾がつかなくなり、旅団の戦闘力が弱まる、旅団は一緒にいてこそ旅団であって、分散すれば旅団ではないと言って崔春国の案をいれず、大部隊行軍に固執した。その結果、敵とひんぴんと遭遇して犠牲者が増え、部隊の活動はいろいろ制約されるようになった。そうした苦労をつづけながらも、隊員たちはみな祖国進軍の日を待望していた。重傷を負った一少年隊員は崔春国の膝の上で息を引き取りながら、自分をぜひ祖国の地に埋めてくれと遺言したという。当時の状況では、とうていかなえられない遺言だった。崔春国は彼の遺体を火葬に付し、その一握りの灰を紙に包んで事務長の背のうに保管させた。一握りなりとも祖国の地に埋めてやりたかったのである。

 崔春国は戦友たちの犠牲を少なくするため、草原で草をはんでいる100余頭の軍馬を奪い、それに乗っていこうと提案した。

 ――我々は、敵に発見された。分散行軍してこそ行方を隠せるのだったが、あなたの反対で我々は禍をまねき、多くの戦友を失った。こんなことでは、さらに多くの損害をこうむるだろう。包囲される前に迅速に抜け出さなければならない。敵が我々を追撃するのではなく、我々に引きずられるようにすることだ。騎馬行軍をすれば、我々は能動的に敵を引きまわして撃滅することができる。いまのように受け身であがいていては、部隊は全滅をまぬがれない。

 方振声は、その提案もはねつけた。騎馬行軍は、自殺行為だというのである。言葉をつくして説得したが、頑として受け入れなかった。崔春国の提案は、とうとう旅団党委員会にまでもちこまれた。党委員会の全委員が崔春国の戦術的方案を支持した。こうして、ろ獲した100余頭の軍馬に負傷兵と虚弱者を乗せて部隊は南下行軍をつづけた。徒歩の者は、軍馬に荷を積み、身軽になって歩いたので、いきおい行軍速度が速くなった。追撃していた敵は、崔春国が予想したとおりはるか遠くに引き離され、あたふたとあとを追ってくる羽目になった。旅団は、官地付近で、追いすがる敵を掃討した。その後、軍馬は屠殺して食料にあてた。

 騎馬行軍によって部隊はしばらく息をつくことができたが、敦化――哈爾巴嶺鉄道沿線でまたも難関にぶつかった。鉄道沿線に敵軍が所狭しと群がっていたのである。旅団長は、退くほかないと言って退却を主張した。崔春国は、いまは鴨緑江に向かって1歩でも前進すべきであって後退してはならない、退路で敵に遭遇したら危険はさらに大きくなる、敵は間違いなく我々の背後に増援部隊を派遣しているはずだと言って彼の意見に反対した。すると旅団長は、こんな状況のもとで前進をするなどもってのほかだとかんしゃくを起こした。

 彼らが議論を交わしているとき、近くの大道路を満州国軍の一個部隊が行軍していた。その行軍縦隊を見た崔春国は、満州国軍のあとからついていくのが上策だと言った。旅団長は敵のあとからついていくとはなにごとかと目を丸くした。崔春国は説明した。

 ――あの満州国軍はいま大砲を引いていくのが精一杯で、周囲に気を配るゆとりがない。たとえ、あとにつづく我々を見たとしても味方と思うはずで、まさか白昼公然と遊撃隊が自分たちのあとについてこようとは夢にも思わないだろう。だから、敵のあとからついていき、鉄道沿線地帯を通過してしまえば、いちはやく山に入ろう。

 旅団長もその意見には反対できなかった。崔春国の提案に従ったおかげで、旅団は鉄道境域を無事に通過することができた。しかし、敵の大小「討伐隊」との遭遇と交戦はその後もつづいた。漂河付近では500余の敵兵と遭遇し、2日間も血戦をくりひろげた。その戦闘で多くの隊員が背のうを失ったが、祖国の地に埋めてくれと遺言した少年隊員の遺骨を入れた事務長の背のうもそこでなくしたという。

 崔春国は、刻一刻と狭まる敵の包囲から旅団を救出する唯一の突破口は、小部隊分散行軍しかないと再び強く主張した。だが、旅団長は今度も、そうすれば1、2個中隊は助かるかも知れぬが旅団は全滅する、自分だけ助かろうとてんでに逃げ出そうというのか、生きても一緒に生き、死んでも一緒に死ぬべきだと強弁した。旅団党委員会は、再び2人の主張を真剣に討議した。旅団長の優柔不断な態度に憤激した崔春国は、拳で自分の胸をたたきながら言った。

 ――この場に自分1人助かろうとする者がどこにいるというのか。死を恐れる者は1人もいない。しかし、目的地に行き着く前に犬死にすることはできない。あれほど祖国の地にあこがれている隊員たちを中途でみな失ってしまったら、我々指揮官はその罪をどうつぐなうというのだ。1、2の指揮官の愚かな行為によって隊員を失い、我々自身も死んでしまえば抗日大戦は誰がおこない、革命は誰が進めるというのか。旅団兵力を保持して西間島に行くためには分散行軍に移るほかはない。

 会議に参加した大多数の指揮官は、大部隊行軍に固執する旅団長を冒険主義者として指弾し批判した。同志愛のベールをかぶった卑怯分子だと決めつける指揮官もいたという。後日、方振声が敵に帰順したのをみれば、卑怯分子と断じたのもあながち根拠のないことではなかったようである。もちろん方振声は、自発的にではなく、敵に逮捕され脅迫と懐柔に屈して帰順したのであるが、そのいきさつはともかく、投降と変節の兆しは、彼の日ごろの生活のふしぶしに見られた信念と意志の薄弱さと小心さからして、かなり前から芽生えていたのだと思う。方振声は、旅団が分散して戦闘力の強い部隊と有能な指揮官が離れていけば自分の身辺が危くなると考え、臆病風に吹かれていたに違いない。

 漂河での旅団党委員会の会議後、独立旅団は分散行軍に移行してやっと敵の封鎖を突破することができた。ところが、方振声は、同志たちの忠告を最後まで受け入れることができず、崔春国に反感をいだいた。方振声は、正規の軍事教育を受けた旧東北軍の将校出身で、職級のうえでも旅団の指揮権を握っていた。彼とは対照的に、崔春国は初等教育すら受けていない最下層出身だった。彼は遊撃隊に入隊してはじめて読み書きを習い、軍事を習得しながら成長した指揮官だった。しかし、人材や人物の優劣がたんに学歴によって決まるものでないことを方振声は知らなかった。方振声がみずからを反省したのは、数日後の松花江渡河戦闘のときだったという。分散行軍をしていた旅団は、そのころすでに隊伍を再集結し大部隊で行軍していた。隊列は、夕闇が迫るころ那爾轟付近の松花江に着いた。長雨で水かさが増し、海のように広くなった松花江が波を立てて流れていた。敵があらわれる前にすみやかに渡河を終えなければならなかったが、5、6名がやっと乗れる小舟1艘しかなかった。そのため、かなりの人員は夜が明けはじめるまで渡りきれなかった。川を渡った者も渡れなかった者も、のろのろと進む小舟と白みはじめた空に不安げな視線を向けていた。そんなとき敵があらわれた。崔春国は、10余人の敏捷な隊員を選び、自分たちが敵を誘導するから早く川を渡って柳樹河子付近の森のなかで待機するようにと言い、敵を迎え撃った。彼が敵を誘導したおかげで、渡し場に残っていた隊員たちは無事に川を渡ることができた。旅団は柳樹河子付近で数日間、崔春国の決死隊を待った。崔春国は、4日目に決死隊員全員を率いてあらわれた。どこで手に入れたのか、全員が食糧までかついでいた。そのときにはじめて、方振声は崔春国の肩を抱いて謝罪した。

 独立旅団の北満州地区における活動と南下行軍路での話を聞いて、わたしがなによりもうれしく思ったのは、旅団の全隊員がわたしの期待に背かず任務をりっぱに遂行したことと、彼らがわたしと別れたときに比べ著しく成長したことだった。その手本を示したのが崔春国だった。もちろん、彼はわたしのそばにいたときも遊撃戦術に通じた軍事指揮官だったし、非の打ちどころのない政治活動家でもあった。ところが、独立旅団の北満州での活動と南下行軍の過程で、彼の軍事的才能と指揮能力はいっそう円熟したのである。

 小さいときから下男奉公をし、鉄道工事場で働きながら成長した崔春国は、のみこみが早く、遊撃隊に入隊すると射撃動作や制式動作などもすぐに習得した。品性と能力がともにすぐれていたので、わたしは彼を中隊政治指導員に任命した。すると、崔春国は泣き顔になって、まだなにかと未熟な自分には他人を指導する政治指導員は務まらない、自信があるのは日本帝国主義者とその手先を撃ち倒すことだけだから、平隊員でいさせてほしいと頼むのだった。わたしは彼に、国を愛し日本帝国主義者を憎むきみのその精神を隊員の胸に植えつけるのだ、そうすれば政治指導員としての任務をりっぱに果たすことになると説得した。そして、手帳を1冊取り出し、最初のページに「地面に字を書いてでも勉強をしなければならない」と書いて渡した。

 その後、崔春国は人一倍学習と訓練に励んだ。彼は、朝鮮語の読み書きだけでなく、漢文も自習した。彼が性急に漢文にまで欲を出したのには、それなりのいきさつがあった。ある日、崔春国は「以整化零」という言葉の意味がわからず、わたしを訪ねてきた。わたしが、その音訓を教え意味を説明すると、彼は「ほう、漢文というのは、妙な味がありますね。書堂に通えなかったのが悔やまれます」とつぶやくように言うのだった。

 崔春国は、いつも背のうに漢字の辞典を入れて持ち歩いた。小汪清防衛戦闘が90日以上もつづいた苦しい戦いであったことは前にも触れた。ところが崔春国は、その90日のあいだにも漢文の勉強を怠らなかった。

 あるとき、わたしは崔春国の中隊が駐屯している三の島へ行き、彼に、政治指導員は、踊りもおどり、歌も上手にうたえなくては中隊を活気あふれる楽天的な部隊にできないだろうと言った。すると崔春国は、毎晩、外で人知れず踊りの稽古をした。ある日、夜明け前の薄暗がりのなかで稽古に熱中している彼の姿をたまたま目撃した中隊炊事隊員の高賢淑は、中隊長のところへ駆けつけ、政治指導員同志は気がふれたようだとおびえた声で言った。中隊長は腹をかかえて笑った。これは後日、三の島の有名な逸話になった。

 それほど崔春国がまじめで生一本な性分だったので、わたしは東満州の遊撃区で戦ったときも、困難な任務はいつも彼の中隊に与えたものである。5000余の敵と90余日にわたって熾烈な戦いをくりひろげた馬村作戦のときも、崔春国の第2中隊が基幹的な中隊として戦った。わたしが敵の背後を攻撃するため根拠地を離れるときは、決まって崔春国に根拠地防衛の任務を与えたし、彼は必ずその任務をりっぱに果たした。そのように信頼していたので、いきおい、わたしのいない場所には崔春国を残しておくようになり、なにかの都合でわたしが行けない重要な地点には彼を派遣するのが、いつしか一つのならわしとなっていた。わたしと崔春国が人間的にたいへん親しい間柄だったにもかかわらず、いつも遠く離れているようになったのはそのためだった。

 わたしは崔春国の成長ぶりを目のあたりにして、抗日大戦の嵐のなかでぬきんでた軍事的才能を発揮している戦友たちの姿をまぶたに描いてみた。

 崔賢、安吉、金策、崔庸健、李学万、許亨植、姜健…

 敵が懸賞金をかけていた抗日の名将のなかには、黄埔軍官学校の教員まで務めたことのある崔庸健を除いては、正規の軍事教育を受けた人物は1人もいなかった。軍事教育はおろか、数年前まで軍人になるなどとは考えたこともない人たちだった。そうした人たちが、なんと有能な軍事指揮官に、すぐれた政治幹部に成長したことか!

 わたしは硝煙にくすんだ崔春国の頼もしい姿を見ながら考えた。

 (すでに、我々には、一つの戦略的地帯をまかせうる頼もしい人材が十分にととのっている。やがて時機が到来すれば彼らに部隊をまかせ、きみは咸鏡北道へ、きみは狼林山脈へ、きみは太白山方面へというふうに、祖国解放作戦の任務を与えることができるだろう。国内各地へ進出した部隊に呼応し、各地で生産遊撃隊と人民が決起するならば、日本帝国主義を敗亡させ、最後の勝利をかちとることができるであろう)

 独立旅団が到着した日の夜、わたしは汪清時代に三の島の第2中隊に行ったときのように、久しぶりにテントのなかで崔春国と並んで横になった。感慨深い寝所だった。我々は、夜通し積もる話を交わした。その夜、崔春国はこんなことを言った。

 「白頭山のほうへ行くのだという考えがなかったら、わたしたちはおそらく中途で倒れてしまったでしょう。ぜひ生きて祖国の地を踏まなければならないと思うと、死地に陥っても活路が見え、くたくたになって倒れても起き上がる力がわきました。汪清で戦ったころ、故郷の穏城に何度か行ったあとは、ここ数年、祖国へは行けませんでした。祖国の土の匂いをかぎたいものです」

 わたしは胸に熱いものがこみあげて彼の手を強く握り、そんなに祖国をなつかしがるきみに、祖国の地を踏む機会をすぐには与えられそうにないと言った。結局、わたしは1日か2日後に話そうとしたことをその夜、話さざるをえなくなった。

 当時、東満州と南満州で活動していた抗日連軍部隊では、軍・政幹部の不足に悩んでいた。敵の「討伐」によって南満州部隊は、破局的な損害を受けていた。敵が「南満州の共匪は一掃され、治安が確保された」と広言したほど、第1軍の遊撃闘争は難関にぶつかっていた。中日戦争の勃発にともなって戦略的に重要度を増した南満州で遊撃闘争を拡大強化するには、まず有能な軍・政幹部を補強しなければならなかった。ことに、南満州部隊では曹国安師長が戦死したあと、指揮官の警護を強化する特別措置をとることが懸案となっていた。軍団や師団の親衛隊、中核部隊となるべき警護部隊には、もっとも有能な軍・政幹部とえりぬきの戦闘員を配置すべきだというのが、指揮官たちの共通した見解だった。そうした実状を考慮した魏拯民は、春以来、崔春国の旅団が到着したら、そっくり自分たちにまわしてくれと要請していた。南満州部隊の苦境や南満州遊撃闘争の戦略的意義、そして魏拯民の苦衷を先刻承知しているわたしとしては、彼の切実な要望をむげに断ることができなかった。

 崔春国は、わたしが望みをかなえてやれなくてすまないと言うと、かえって、わたしを慰め、「革命の要請とあればまた発ちましょう。そのことであまり気をつかわないでください。いまにそばにいられる日がくるでしょうし、祖国の地を踏む日もくるでしょう」と言うのだった。

 「そう思ってくれればありがたい。汪清時代から一緒だった人たちだけでもそばにいてもらいたいのだが、老魏(魏拯民)は、そんな人たちを余計欲しがるものでね」

 独立旅団が到着したことを知った魏拯民は翌日、早速わたしを訪ね、慎重な面持ちで切り出した。

 「独立旅団の将兵たちの話を聞いてショックを受けました。部隊の興亡は、やはり指揮官にかかっています。指揮官がしっかりしていないと部隊が滅びます。方振声は、旅団長の資格がありません。彼に警護連隊をまかせるつもりだったが、その計画を取り消さなくてはならないようです。ソ連では国内戦争のとき、ツアー軍出身将校の力にあずかるところが大きかったというが、我々はそんな幸運にもあずかれなかった。警護連隊を統率する軍・政幹部を1人見つけるのもむずかしくなったのだから、まったく困ったものです」

 案にたがわず、彼の口の端には、我々朝鮮人側から連隊長と連隊政治委員の適任者を出してほしいという気持ちがうかがえた。

 その日の独立旅団行軍総括では、旅団の行軍を巧みに指揮した崔春国の功労が高く評価され、行軍で模範を示した戦闘員たちが表彰された。反面、方振声と彼に追従した指揮官たちはしかるべき批判を受けた。わたしは会合を締めくくりながら、我々が数のうえで優勢な敵と戦うにあたって、遊撃戦術を縦横に活用することがいかに重要であるかを強調した。

 ――我々が遊撃戦を捨てて正規戦に頼るのは、ツバメが空を飛ばず地を踏んで餌を求めるにひとしい愚かなことだ。古い兵法にも、戦うべきか戦わざるべきかを知る者が勝者になり、敵が勝てないようにし、敵に勝つ機会をうかがう者が、戦に長けた者だとしている。我々はどこでどんな敵に出会っても、巧みな遊撃戦術を用い、勝ち戦をしなければならない。

 その日の行軍総括には魏拯民など中国人指揮官や隊員たちも参加したので、わたしは朝鮮語と中国語の両方を使って演説した。

 行軍総括後、我々は、警護連隊を新たに編成した。連隊長には我々の部隊の警護中隊長であった李東学を、政治委員には崔春国を任命した。林春秋も魏拯民につきそわせ、その治療にあたらせることにした。独立旅団所属の他の兵員も全員そこに配属した。結局、魏拯民は希望どおり、もっとも有能な朝鮮人軍・政幹部と精強な戦闘員で編成された警護連隊をもつことになった。魏拯民は喜色満面だったが、警護連隊に移った者のなかには、わたしのそばにいられなくなって残念がる者が少なくなかった。林春秋までが、国内に派遣された政治工作グループに自分を送ってくれと懇願するほどだった。

 数日後、新編成の警護連隊は、魏拯民とともに南満州の輝南地区に向けて出発した。出発前夜、崔春国は別れの挨拶にやってきた。中秋がすぎて間もない月夜だった。我々は、司令部のテント横の草原に座って別れを惜しんだ。

 「きみは北満州での疲れも癒せずに、また、南満州に発つことになった。一息つく暇も与えず、また遠くへ送り出すことになってすまない」

 「とんでもありません。わたしをそれほど信頼してくださって、力がわきます」

 「輝南は、敵の警戒のきびしいところだというから、くれぐれも体を大事にしてほしい。穏城で渡し場の派出所を襲撃したときのように向こう見ずなことをしたり、せっかちに行動したりすることのないように気をつけたまえ」

 穏城渡し場の警官派出所襲撃事件とは、1935年初、崔春国が中隊の隊員たちを率いて豆満江を渡り、長徳渡し場を襲った戦闘のことである。それは、わたしがかなり前から構想していた国内進攻作戦のさきがけとしておこなった戦闘だった。渡し場の派出所は、主に豆満江を渡る通行人を取り締まっていたが、そのきびしさは目にあまるものがあり、穏城から援護物資を運ぶ地下組織のメンバーは、渡し場でいつも冷や汗をかかされ、統制物資を取り上げられることもよくあった。穏城の地下革命組織では、この派出所の警官たちを一度こっぴどい目にあわせてくれと言ってきた。それでわたしは、崔春国の中隊に襲撃任務を与えたのである。日の出前に戦闘員たちと一緒に凍りついた豆満江をひそかに渡った崔春国は、隊員を派出所の周辺に待機させ、ひとりで派出所に入っていった。当直警官が1人いるだけだったので、銃声を響かせずとも目的を果たせる状況だった。ところが、ストーブを早く焚かなかったと警官が給仕の少年を蹴るのを目撃した崔春国は、つい自制心を失い、警官に向かって発砲した。そのために、渡江登録をしに派出所の前庭に集まっていた群衆に一言のアジ演説をすることもできず、そうそうと引き揚げることになった。

 警官1人を撃ち倒しただけの小さい戦いだったが、その波紋は大きかった。少人数の遊撃隊が多くの人たちの面前で国境哨所を襲ったのだから、この先どんな出来事がもちあがるかわからないと人びとはうわさしあった。それは、その後、活発に展開された鴨緑江、豆満江対岸の敵を掃討する作戦の前ぶれであった。

 「あれは若気の至りというものです。あわてず沈着にやれば、大衆の前で胸のすくようなアジ演説ができたのですが… せっかちに行動したばかりに、基本の目的を果たせなかったのです」

 崔春国は、そのとき大衆政治工作をやれずに帰ったことを残念がった。

 「大胆に行動するのはよいが、指揮官は万事に用意周到でなければならない。これからは、連隊ばかりでなく、軍団司令部の運命にも責任を負うことになったのだから、なにごとにも慎重を期さなければならない。無益な冒険は禁物であることを銘記すべきだ。きみは、祖国解放の大業のためにも必ず生きて我々のもとに帰ってこなくてはならない。祖国解放作戦を展開するときは、きっときみたちを呼びもどす。普天堡戦闘に参加させられなかった借りをそのとき何倍にもして払おう」

 この言葉が効を奏したのか、崔春国は北満州に派遣されたときとは違って、笑顔でわたしのそばを離れた。彼は南満州に行ってからも、わたしと緊密な連係を保ち革命任務をりっぱに果たした。わたしは崔春国を南満州に送るとき、桓仁、集安、通化を中心に鴨緑江沿岸一帯で活動している独立軍を包容する工作任務を与えたが、彼はその工作でもりっぱな実績をあげた。魏拯民は、わたしに通信を寄こすたびに、警護連隊の活躍を誇らしげに通報してきた。そうした消息のなかでいまでも忘れられないのは、崔春国が一通の手紙で数百名の満州国軍を意のままに動かしたことである。

 連隊を率いて敵のある軍事要衝付近を通過していた彼は、偵察を通して、そこには数百名の満州国軍と警官だけがいることを知り、満州国軍部隊長に次のような内容の手紙を送った。

 ――我々は、中国人を敵とみなしておらず、敵にまわしたくもない。貴方と戦うつもりはないから、貴方も我々に手出しをするな。我々には、いま休息が必要だ。富爾河に立ち寄り、貴方の土城内に入ってしばらく休んでいきたいが、妨害しないよう警告する。

 これは、遊撃隊とはできるだけ交戦を避けようとしている満州国軍の動向を十分に参酌したうえでの手紙だった。満州国軍側は連絡兵を寄こし、革命軍の要求をすべてのむから30分間だけ待ってくれと言ってきた。革命軍が30分間待つあいだに、満州国軍部隊は、城市をあけて裏山に退避した。城市にとどまったまま遊撃隊を入城させて、後日、日本軍に追及されたら、言い逃れるすべがないからである。崔春国連隊は城内に入って休息をとるかたわら、大衆政治工作をおこなった。日が暮れると、裏山の満州国軍は焦燥にかられてしきりに口笛を吹いた。日本軍があらわれたらことだし、そうかといって遊撃隊に立ち退けとも言えない苦しい立場をわかってほしいという合図だった。

 崔春国は部隊に出発命令をくだし、満州国軍部隊長に簡単な挨拶の手紙を残した。

 ――ゆっくり休ませてくれて感謝する。今後とも我々を友と思い、援助してほしい。朝中人民の共通の敵日本帝国主義は必ず敗北し、朝中人民は必ず勝利するであろう。

 崔春国はこうしたやり方で多くの満州国軍を意のままに操り、彼らを反日に向かわせた。驚くべきことは、満州国軍部隊長たちに送ったそのような中国語の手紙のほとんどが彼の直筆になるものであったということである。

 彼は1930年代後半の初期から末期まで、南北満州の広野で縦横無尽に活躍し、抗日連軍の中国人遊撃部隊の活動を極力支援した。それで、中国の人民や革命同志たちから国際主義戦士として尊敬された。行く先々で中国の友人たちは、プロレタリア国際主義と朝中親善のためにつくした彼の功績を深い愛情と尊敬の念をもってたたえた。

 それでは、いかにして彼が南北満州全域に名を知られた当代の抗日猛将になりえたのだろうか。抗日革命時代の一瞬一瞬はふだんの1日、1か月、はては10年に匹敵するほど人びとを大きく変化させた。ズク鉄が炎のなかで鋼鉄に鍛えられるように、かつての非識字者や貧民が革命という巨大な奔流のなかで、闘士、英雄、先覚者に成長し、社会を改造し新時代を創造する主人公となった。崔春国は、まさにこの革命に全身全霊をささげ、闘争のなかでみずからをたえず鍛えたのである。

 ここで崔春国の人間味を語る興味ある逸話を一つ紹介しよう。1945年の解放後、崔春国が新婚生活をはじめたばかりのとき、彼の家庭を訪問した林春秋が夫人に、夫が気に入ったかと冗談まじりに聞いた。夫人は、恥じらいを含んだ笑いを浮かべ、夫が遊撃闘争をしたというのは本当ですかと問い返した。そして、数日前、崔春国の部隊で運動会をしたときの出来事を話した。

 その日、軍務者の家族も招かれて運動会の見物に出かけた。崔春国の夫人も晴れ着姿でそれに参加した。夕方、家に帰ってきた崔春国は、さも不機嫌な表情でこう言った。

 「きみには、それほど着る物がないのか。部隊中の人が集まったところに、なにも麻の服を着て来ることはないだろう」

 夫人は、「麻」の服と言われて吹き出してしまった。カラムシを粗末な麻と見間違えたのである。

 「あれは、麻ではなくて、カラムシです。夏向きの生地では最高のものですよ」

 「そうだったのか」

 春国は、顔を赤らめ、しどろもどろに妻に謝ったという。夫人は話し終えてから、あんなに純真な人がどうやって日本帝国主義と戦えたんでしょうかと首をかしげた。林春秋は大笑いしてから、真顔になって言った。

 「ご主人をよく見ました。崔春国君は、それこそ善良で純真な人間です。穏城渡し場の派出所を襲撃したとき、巡査に殴られて鼻血を流していた小さい給仕を介抱してやれなかったことを、いつまでも苦にしているような男なんですよ。しかし、ご主人はまたとても強い人なのです。彼の左足を注意してごらんなさい。傷跡があるはずです。銃弾で足の骨が砕けたのを、わたしが麻酔剤もなしに手術して縫合したのですが、うめき声ひとつ出さずに恐ろしい苦痛に耐えたのです。人民や同志たちの前では羊のようにおとなしく、敵には虎のように恐ろしく、難関には鉄のようになってあたるのがご主人です。これから長年暮らしていくうちに、どんなに強い男かわかるでしょう」

 林春秋の言葉を裏切って、末永い幸せが約束されているかに思われた彼らの夫婦生活は長くつづかなかった。偉大な祖国解放戦争が起こって1か月余が過ぎた1950年7月30日、第12歩兵師団の安東解放戦闘を指揮していた師団長崔春国は、安東市街を間近にして致命傷を負った。参謀長の池炳学が駆けつけたとき、彼は道ばたの乗用車のなかに横たわっていた。すでに臨終が迫っていた。池炳学がしきりに声をかけると、かすかに目をあけた崔春国は、軍医に自分の命を5分間だけ延ばしてほしいと言った。その最後の5分間に、師団長は渾身の力をふりしぼって、安東の敵を完全に包囲せん滅する自分の作戦的意図を参謀長にくわしく説明した。

 「わたしの代わりに、きみが最高司令官同志の命令をきっと完遂してくれ」

 これが、池炳学の手を取って言った崔春国の最期の言葉だった。

 崔春国が戦死したという悲報を受けたその日、わたしのまぶたには、左足を引きずり気味に歩く彼の姿が鮮やかによみがえり、彼の戦死がどうしても信じられなかった。彼の左足は、抗日の戦場で骨が砕け、少し短くなっていた。しかし、彼はその不自由な足で数千キロの道を踏破した。解放直後は、保安幹部訓練所分所長の重責を担い、訓練生と一緒に渡河訓練もすれば、険しい崖をよじのぼる山岳訓練もしながら、国の軍事力の強化のために献身した。

 若いころ崔春国がひんぴんと渡って敵に恐怖を与えた豆満江、そのほとりにある彼の故郷穏城の通りには、いま抗日革命時代の軍服姿の彼の銅像が立っている。

 銅像製作者たちは、崔春国の容貌と性格を正しく知ろうと、彼の夫人を訪ねた。

 「崔春国同志の思い出のなかで、もっとも印象的だったのはどんなことでしょうか」
 夫人に投げた最初の質問だった。

 「とくに印象的だったといえるようなことはありません。あるとすれば、口数が少なかったことでしょうか。何年かの夫婦生活のあいだに主人が言ったことは、みんな合わせても、100にもならないでしょう。いっそのこと気性が荒くて、平手打ちの一つでもくらわせてくれていたなら、印象に残ったでしょうに…」

 崔春国夫人は、記憶に刻まれるほどの夫婦生活の細やかな出来事のないことをさびしがった。そして、こんな意味深長なことを付け加えた。

 「うちの次男に一度会ってみてください。この子は、父親にそっくりで、おとなしい子です。もっとよく似るには強いところもあってほしいのですけど、それは、まだわかりません。でも、これからきっと、そのように育てたいと思っています」

 結婚当初とは違って、夫人は自分の夫がどれほどりっぱな人間であるかをよく知っていたのである。そうなのだ。どこまでもやさしく、あくまでも強い人間、それが抗日の勇将崔春国なのである。



 


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