金日成主席『回顧録 世紀とともに』

3 農民を備えさせた日々


 
 信念と意志の化身−李仁模に会う金日成主席と金正日総書記(1993年7月)


 中日戦争勃発後の新たな情勢は、全民抗争の準備を切実に求めた。我々はあらかじめ力をつちかい、時機が到来すれば朝鮮人民革命軍の軍事作戦に全民抗争を結合して祖国の解放を達成する構想を徐々に練りあげていった。

 農民が人口の絶対多数を占めていたわが国において、彼らの参加なしには全民抗争は不可能であった。一部の人は、農民は労働者と違って組織性と意識性が弱いため、革命の主力にはなれないとしていたが、わたしは見解を異にしていた。正しい指導が保障され組織的に結束しさえすれば、農民大衆も強大な革命勢力になりうることを、わたしはすでに1931年の秋収(秋の取り入れ)闘争のときに体験していたのである。わたしは実際の体験を通して、農民大衆を革命的にしっかり備えさせれば、強大な抗争勢力になると確信していた。

 我々の先祖は、子孫に貧弱な農業を引き継がせた。他国が、耕耘、播種、収穫などの農作業を機械化していたとき、わが国の農民は原始的な手作業で農地を手入れし5穀をつくっていた。彼らは代々、封建的なくびきによって地主階級と封建支配層から過酷に搾取され、あらゆる蔑視と迫害を受けてきた。

 農民の生活境遇は、日本帝国主義の朝鮮占領後いっそう悪化した。日本帝国主義の「土地調査令」「産米増殖計画」「鮮農移満政策」など、強盗さながらの略奪政策によって朝鮮の農村と農業は、荒廃し、農民の貧窮化過程はさらに促進された。日本帝国主義は、朝鮮占領初期に「土地調査令」の名目で農民から数十万ヘクタールに及ぶ土地を略奪したが、その土地は、朝鮮総督府と「東拓」「不二興業株式会社」などの植民地拓殖会社と日本本土から流れ込んでくる移住民に分配された。その後、日本が「産米増殖計画」を発表し、それを悪辣におし進めたのも、自国の食糧危機を打開する一方、朝鮮農村への資本輸出を大々的におこなって莫大な利潤を得ることが基本目的であった。

 日本帝国主義が公布した「朝鮮民事令」には、「…小作人は不可抗力により収益で欠損をこうむった場合であっても、小作料の免除、または減額を請求することができない」という条項がある。これは、処遇改善を求める朝鮮農民の闘争をあらかじめ法律的に禁止する布告令にひとしいものであった。小作人は、餓死の境涯にいたっても口を閉じておとなしくしていろということである。このように朝鮮総督府は、農民にたいする日本人農場主と地主の略奪を最初から制度的にしっかり保障していた。小作農が農民全体の過半数を占めていた朝鮮農村の実状を考えるとき、この「民事令」に束縛されていた朝鮮農民の境遇がどんなものであったかは、察して余りあるであろう。1俵の米でも余計に奪おうとする日本帝国主義と地主階級の強盗さながらの搾取ぶりは、じつに、獣(けもの)さえ顔を赤らめるほど暴悪かつ貪欲なものであった。「東拓」は、地方と農場単位に駐在員や管理人をおき、その下に農監なるものを配置して小作人をきびしく監視、統制させた。小作料を滞納したり営農を「怠慢」し、農場主に反抗する気配が少しでもあると即刻、小作契約を取り消し、小作地を取り上げた。日本人農場主は、私設留置場まで設け、農場側に不平を言ったり、生存の権利を要求する小作農があらわれると、容赦なくそこにぶちこんだ。わたしは彰徳学校に通っていたころ、中原農場で小銃を手にした日本人が野良仕事をする朝鮮農民を監視し、ぐずぐずすると撃ち殺すと威嚇しているという新聞記事を読み、憤激のあまり眠れなかったことがある。

 日本帝国主義者は、朝鮮農民の血と汗によって生産された米を毎年700万〜1000万石も本土へ運び去った。そして、朝鮮人には、満州産の粟や豆かすを運び込んで食べさせた。粘り気のある真っ白な米はすべて日本人に奪われ、腐敗した粟で食いつながなければならなかった朝鮮人の心はどんなであったろうか。総督府に庇護された朝鮮人地主も農民の膏血をしぼろうと競い合い、それに差配や高利貸しまで一枚加わる有様だった。

 日本帝国主義の反動的な農業政策は、朝鮮農村の階級分化を促した。農村での離農現象が激増し、火田民という新しい階層が生まれたのは、階級分化がもたらした植民地特有の悲しい情景だといえよう。これ以上故郷で暮らせなくなった農民たちは、深い山中や人跡まれな僻地に入って焼き畑農業を営んだ。そうでもしなければ、糊口(ここう)をしのぐことができなかった。しかし、そんな焼き畑農業も安全ではなかった。総督府が、「山林保護」「山火事防止」の口実で「火田民追放運動」を起こしたからである。わたしは西間島で活動していたころ、焼き畑農業から追放された農民に何回も出会ったことがある。朝鮮農民の大々的な海外流出は必然的なものであった。

 日本帝国主義者は、朝鮮人を海外に追い出しながら、人口過剰と食糧不足で難渋する本土から移住民を大々的に引き入れた。彼らは、「産米増殖計画」の第1期とした15年間だけでも、400万の日本農民を朝鮮に移住させようと企てた。田中義一は1925年9月に、日本憲政研究会を前面に立てて「日本人1000万名朝鮮移殖計画」なるものを発表させたことがある。彼は、内閣総理大臣に就任すると拓務省を新設し、その移殖計画の実行に着手した。1000万の過剰人口がそのまま流れ込むとなれば、朝鮮はいったいどうなるだろう。朝鮮民族は、日本人のなだれの下敷きになって、まともに息をつくこともできなくなってしまうではないか。日本帝国主義の反動的な農業政策は、わが国の農民生活を零落させ、民族的・社会的・階級的矛盾を激化させた。

 農民大衆は、生存権を要求して立ち上がった。3.1人民蜂起以来、わが国では、小作人組合、小作相助会、農友会、作人同盟などの農民団体が出現しはじめた。農民の権益を代弁する初期の代表的な団体は、小作人組合であった。日本帝国主義支配下の朝鮮農民運動で主流をなしたのは小作争議であった。1920年代の小作争議は、おおかた小作権の確保と小作料の削減など経済的スローガンをかかげておこなわれた。この争議を主宰したのが小作人組合だった。農民組合は、解放前の朝鮮農民運動でもっとも一般的で主導的な組織形態であった。この組織は、客観的情勢発展の要請に応じて、農民運動に生存のための経済的スローガンとともに政治的要求を反映したスローガンも同時に提起した。

 わが国で全国的性格をおびて出現した最初の大衆組織は、朝鮮労働共済会である。この労働共済会には、農民部あるいは小作人部をおき、多数の小作農を結集して農民運動の発展に大きな役割を果たした。

 初期の農民運動は、幾多の紆余曲折をへた。農民の小作争議がしだいに激烈になってくると、日本帝国主義は警察を動員して銃剣で弾圧し、先頭に立った農民運動の先覚者たちを手当たりしだいに逮捕した。一方、「朝鮮農会」傘下の御用組合を通して農民を懐柔し、農民勢力を分裂させようと悪辣に策動した。

 初期の農民運動が紆余曲折をへなければならなかったのは、民族改良主義者と初期共産主義運動家が及ぼした悪影響とも少なからず関連している。当時、農民運動を組織し指導したおおかたのリーダーは純粋の農民ではなかった。彼らのなかには、小ブルジョア知識人と民族改良主義者が少なくなかった。それは、当時の社会的・歴史的条件では避けがたいことでもあった。

 農民運動の指導層にいた民族改良主義者たちは、純真な農民に「無抵抗運動論」を吹き込んだ。彼らは、小作人と地主はいたずらに争うのではなく、互いに理解し合って仲よくすごすべきだと説いた。そうすれば、小作人と地主の紛争は、春の雪解けのように一朝にして解決するというのである。

 農民運動の指導層には、初期の共産主義運動家もかなり入っていた。農民運動に高揚の兆しが見えはじめると、彼らは農民団体を自派の影響下におこうと派閥争いに熱をあげた。農民の利益より自派勢力の拡張に目がくらんだ彼らの派閥争いによって、農民運動は大きな被害をこうむった。農民団体相互間、あるいは同じ団体内に甚だしい反目と対立が生じ、多くの農民団体がその役割を果たせなくなった。しかし、そうした陣痛のなかでも農民は闘争をつづけた。農民は、敵の反革命的な暴力に革命的な暴力をもってこたえたのである。1920年代末の竜川不二農場の農民の大衆的な進出と端川、永興(金野)地方の農民の大規模な暴動はその代表的な例である。竜川不二農場で起こった小作争議は、竜川地区に派遣されていた「トゥ・ドゥ」系列の新しい世代の共産主義者との連係のもとに発生した大衆的な暴力闘争であった。

 1920年代末と1930年代初、プロフィンテルン(赤色労働組合インタナショナル)とその傘下組織である汎太平洋労働組合の書記部が数回にわたって、太平洋沿岸の国ぐにに赤色労組と赤色農組を組織する問題を提起して以来、朝鮮では革命的な労働組合と農民組合を設立するための具体的な措置が講じられた。その結果、1930年代初からわが国では赤色農組が組織され、従来の農組も赤色農組に改編された。「赤色」「左翼」という言葉は、改良主義と区別するために使われた表現である。当時、共産主義運動圏では、この「赤色」という言葉がいたるところに氾濫していた。

 赤色農組の圧倒的多数は、北部朝鮮一帯に集中していた。1920年代まで、わが国の農民団体の過半数は南部にあった。小作争議の件数も北部より南部のほうが多かった。それは、湖南平野をかかえている朝鮮の南部地方の農家数が北部地方よりはるかに多かったからである。しかし、1930年代に入ってからは、事情が変わった。農民運動の基本戦線は、南部から北部に移った。革命的な農民団体の数も農民の激烈な闘争件数も北部がもっと多かった。農民運動の中心が南部朝鮮から北部朝鮮へ移った基本的な原因は、白頭山が朝鮮革命の策源地となり、またその一帯が、地理的に間島やソ連に近かったからだといえる。赤色農組は、北部朝鮮一帯だけでなく、三南地方(忠清南北道、全羅南北道、慶尚南北道の総称)を中心とする南部朝鮮一帯にも組織された。

 中国東北地方と北部国境地帯での朝鮮共産主義者による抗日武装闘争は、赤色農組の盛況をもたらす有力な要因となった。事実、抗日武装闘争がはじまってから北部朝鮮に組織された農民組織はすべて、国内の人民が我々と連係をもって反日闘争を展開する過程で生まれたものであって、自然発生的に生まれたものではなかった。当時、明川農組事件の咸興地裁公判記録に記載されている農組決議文にはつぎのようなくだりがある。

 「その闘争の結果、延吉県庁の事務室焼却、日本領事館分署焼却、日本軍と交戦、日本軍退却、金日成総指揮下に革命闘争に進出す」

 これは当時、北部朝鮮一帯の農組が抗日武装闘争の影響のもとに活動したことを示す端的な例である。

 しかし、赤色農組が主宰した農民運動には、左翼日和見主義者と民族改良主義者の有害な策動による大きな欠点があった。左翼日和見主義者は、農組に「赤色」という衣をまとわせて垣根を高くし、関門主義に走った。彼らは、小作農と貧農、雇農以外の農民はすべて敵対階級か動揺する階層と決めつけ、農組に近づけないようにした。そのため、愛国的な中農や反日感情の強い地主が赤色農組の門へ入るのは及びもつかないことであった。赤色農組員の利用する井戸と非農組員の利用する井戸が別々になっていた村もあったくらいだから、そのころの関門主義がどれほどのものであったかは容易に想像できると思う。赤色農組の関門主義は、非農組員の愛国熱に水をかけ、彼らに農組のすべての活動に敵意をいだかせ、その子どもたちまでも農組側と非農組側に分けさせてしまったのである。

 赤色農組の活動にあらわれたいま一つの欠陥は、「打倒式」の活動方法だった。赤色農組のメンバーは、なにをするにしても過激に振舞ってこそ革命性があるものと思い込んでいた。例えば、農組の上層から迷信を打破せよと言われると、彼らは礼拝堂の近くに行き、石を投げて窓ガラスを割ったり、礼拝堂の尖塔の十字架を倒したりした。そして、祠堂を破壊し供え物を踏み散らした。はては、礼拝堂に出入する信者の聖書を取りあげては、衆人環視のなかでそれを破ったりもした。早婚に反対せよと言われると、馬に乗って新婦を迎えに行く新郎の行列を襲って馬を押収したり、新郎を抑留したりして結婚式をぶちこわすこともあった。こういうとき、若年の新郎は、度胆をぬかれて家に逃げ帰ったり、恐怖にかられ声をあげて泣いたりした。農組が民族解放や階級解放のために実情にかなった有益なことをいろいろとしながらも、部分的な活動で荒々しい振舞いをしたため、一部の人は農組のすることであれば、はなからかぶりを振る始末だった。

 我々が赤色農組の活動で最大の弱点とみなしたのは、自己の組織を守る明確な戦略戦術的対策を講じなかったことである。そのため、敵の弾圧と分派分子、民族改良主義者の有害な作用を食い止めることができなかった。少なからぬ農組は、あれこれの機会に組織を露呈した。農組員と非農組員の利用する井戸が別々であれば、組織大衆が露見しうるということを考えるべきなのに、農組のリーダーたちはそれを無視した。そのため、敵のまわし者は家の中にいても、窓越しに農組の井戸を利用するのがどの家なのかをすぐに見分けることができた。一部の農組は、今日の政権党の外郭団体のように会員名簿や会費台帳までそろえていたが、これもやはり、組織を露呈する原因となった。警官はアジトを襲撃するたびに会員名簿を押収し、それを見て農組員を残らず摘発した。それも1度に200〜300名という大量逮捕だった。

 こうしたいくつかの例は、農組が組織の秘密や安全のため、厳に戒めるべき事柄であったにもかかわらず、それを無視して無分別な露出症にかかり、丸裸同様の状態で敵と対決してきたことを意味する。この露出症は、敵に農組を全面的に破壊する可能性を与えた。農組は、農民団体相互の連帯と統一行動のための活動体系も確立していなかった。

 これらの欠陥は、農組にたいする正しい共産主義的指導が欠如していた朝鮮農民運動の指導上の弱点と未熟さに起因していた。農民運動を指導していた上層部には、運動を発展させる科学的な計画と正しい戦略戦術がなかった。

 しかし赤色農組運動は、このような弱点と制約性を内包していたにもかかわらず、朝鮮農民運動の発展に無視できない貢献をした。堅実な農組リーダーたちと、農組に加わっていた多数の農民大衆は、自分たちの政治的・経済的要求を実現するため、日本帝国主義のたび重なる検挙旋風にも屈することなく反日・反地主闘争をねばり強く展開した。我々は、農組運動の過程で発揮された農民大衆のこうした勇敢さと大衆性、堅忍不抜さを非常に重視した。我々が労働者階級とともに農民大衆を全民抗争勢力の柱とみなしたのは、きわめて正当なことであった。

 中日戦争の開始は、我々に全民抗争の準備を加速化できる可能性をもたらした。この準備作業で、わが国の人口の8割以上を占める農民大衆をいかに意識化、組織化するかということは、きわめて重要な意味をもっていた。労働者階級とともに国内の農民大衆を革命化することは、抗日革命の遂行で我々が第一に掌握していくべき生命線ともいえた。

 わたしは、農民を全民抗争勢力として備えさせるうえでもっとも効果的な方法の一つは、国内の既存農民組織を祖国光復会の下部組織に再編することだと考えた。しかし、少なからぬ軍・政幹部は、国内の既存組織に、あれは左翼だ、これは右翼だとレッテルを張りつけ、あたまから排斥する態度をとった。従来の農組はなかったことにし、新たな農組を組織すべきだというのが彼らの見解であった。従来の農民団体や農民運動は、すべてとるに足らぬものであって、復活もしくは再編するに値しないとするのは虚無主義であった。そういう虚無主義的見解は、共産主義運動そのものの要求と祖国光復会創立宣言の趣旨にも合わないばかりか、既存の農民運動が築きあげた土台と成果をみずから抹消することであり、農民を結束するうえでも百害あって一利もないことであった。

 我々の構想は、その組織が、反日を志向し、反帝反封建を志向するものであれば、名称や功労の大小を問わず、すべて反日民族統一戦線の旗のもとに結集しようというものであった。問題は、祖国光復会の10大綱領と創立宣言の趣旨に即して、解体寸前にあった従来の農組をいかに再組織し、再編するかにあった。

 我々は全民抗争の準備と関連した指揮官会議で、国内のすべての労組と農組を祖国光復会の下部組織に再編するか、その影響下におくという方針を採択した。これは、国内の革命運動にたいする我々の直接的な指導を実現することを意味した。我々はこうした観点に立って、国内に派遣する政治工作員を選抜した。

 当時、革命隊伍内には、金永国、安徳勲ら国内の農組活動に関与した人物が少なくなかった。我々の活動地域であった西間島にも、かつて国内での独立運動や農組運動にたずさわっていた人物が多かった。

 国内農民運動にたいする我々の指導は、複数のルートを通して実現された。農組運動にたいする我々の指導を保障するうえで中軸の役割を果たしたのは、我々の主力部隊から選抜された政治工作員と西間島地方の祖国光復会の各組織で育成された地下組織のメンバーであった。国内農民運動の変革にあたって彼らがあげた業績を知るには、咸鏡北道の南部地方に派遣された政治工作員たちの活動内容を見るだけでも十分であろう。

 祖国光復会が創立された後、我々は、趙政哲、柳京守、崔景和、趙明植など信頼できる政治工作員をこの地区に派遣した。彼らは、国内に入って農組の中核分子を掌握し、そのなかからしっかりした人を選抜して我々のところに送り、各地方の農組にも派遣した。城津農組のリーダーの1人であった許聖鎮も、農組出身の政治工作員である李炳璇の紹介で我々の系列につながるようになった。彼は、わたしに呼ばれて西間島まで訪ねてきた。仲坪鉱山襲撃事件の影響でわたしには会えなかったが、甲山で朴達を通して国内革命運動にたいする我々の路線は伝え聞くことができた。故郷にもどった許聖鎮は、1937年9月に開かれた咸鏡北道南部3郡の亡命者の会合で、国内革命運動にたいする我々の方針を伝達した。この会合をきっかけに、統一戦線戦略をはじめ、我々の革命路線は咸鏡北道一帯に伝播した。

 政治工作員たちは、国内革命家と農組の積極分子のなかに深く入り、全民抗争と反日民族統一戦線についての我々の思想で彼らを武装させ、農組を祖国光復会の下部組織に再編したり、その影響下におくための組織建設活動に不眠不休の努力をかたむけた。朝鮮人民革命軍の政治工作員と堅実な農組リーダーの共同の努力によって、国内の農民運動には大きな変化が起きた。

 国内農組の動向で注目すべきことは、抗日遊撃隊への熱烈な憧憬であった。1936年秋、明川で開かれた婦女親睦大会の国際国内情勢にかんする報告のなかで「…十九道溝労農ソビエトの樹立、金日成は宣伝隊を組み朝鮮に渡ってきて宣伝扇動活動をおこなっている。…同志たちよ、これから朝鮮に金日成が渡ってくるのは確かである」と指摘していることや、これとほぼ同じ時期にその地方の農組が作成したある決議文で「長白県! ソビエトの樹立にあたり、十九道溝戦闘の結果、木材3000トン焼却、営林事務所焼却、日本領事館焼却、走狗8名拉致、日本軍と交戦、日本軍退却、金日成総指揮下に以上のような闘争が革命的に進められた」としたことや、吉州農組の新聞『プルグンチュモ(赤い追慕)』が10月革命記念特集で「金日成部隊を積極的に支援しよう!」というスローガンをかかげたことなどは、経済問題を主な争点としてきた従来の農民運動に比べ、赤色農組時代の農民運動がどれほど政治的色彩を強め、飛躍的に発展したかを明白に示している。

 赤色農組をはじめ、国内の革命組織が人民革命軍の活動に驚きの目を見張るようになったのは、国内革命運動にたいする我々の指導を保障するうえで有利な条件となった。我々の指導が及びはじめてから、国内の農民運動には画期的な路線上の変化が起こった。

 国内の赤色農組はまず、階級闘争一点張りの従来の方式から脱皮し、攻撃の主たるほこ先を日本帝国主義者に向けた。農組の一部の文書に「農組〇〇に提起される任務は、日本にたいする大衆の不平不満を革命的積極性に導くことである」というくだりが見られるのは、こういう実態の反映だと見るべきであろう。

 国内の堅実な農民運動のリーダーたちは、農組に結束させる対象の幅もかつてなく広げた。ある地方の先覚者懇談会の内容を記した文書を見ると、当時の農民運動のリーダーたちは、農組の基層組織に貧農だけでなく、中農と富農を含めた各階層の積極分子をも参加させることを要求し、それを実践に移していたことがわかる。規律と秘密を守ることができ闘争意欲のある人であれば、階層にかかわりなく組織に加入させるというのが農組建設の一般的な要求となったのは、祖国光復会の創立宣言と10大綱領の趣旨にも合致するものであった。ある赤色農組などは、その傘下に小市民委員会と学生委員会まで設け、それに雑貨商、店員、飲食店経営者、仲介商人、商業資本家、自由労働者と普通学校の生徒まで参加させた。国内の一部の農組は、良心的な地主まで反日闘争に参加させる積極的な措置を講じた。ある農組の場合は、道路新設工事に反対する闘争を指導するさい、地主まで宣伝隊に参加させた。また、自衛団をはじめ、日本帝国主義の末端統治機関と御用団体に組織のメンバーを潜入させ、それらの団体をしだいに「赤化」する方法で合法闘争と非合法闘争を巧みに結合した。彼らが発行したパンフレットでは、合法的可能性を拒む理論は、左翼日和見主義的なものであると指摘し、あらゆる合法的可能性を十分に、そして巧みに結合するよう勧告している。少なからぬ農組は、活動における独自性を保障しながらも、それぞれの地方が相互に一定の連係を保ち、実情の通報から闘争方法の選択と闘争目標の設定にいたるまで、すべての面で共同歩調をとった。

 我々の影響のもとに赤色農組運動で起こったこのような変化は、従来の農民組織を革命的に再編するのに有利な条件をつくりだした。政治工作員たちは、国内の同志たちと手を取り合って、農組を革命的に再編する活動に積極的に取り組んだ。こうして、従来の農組を基礎とする祖国光復会の組織が、咸鏡北道と咸鏡南道の多くの地域に生まれ、新義州支会など数多くの祖国光復会の下部組織が鴨緑江中流地帯の農民にまでその影響力を広めた。そのころ政治工作員たちは、平壌、南浦、鉄原、ソウル、仁川、大邱、釜山、全州、光州などの祖国光復会の組織を拠点に、中部および南部朝鮮の農民のあいだにもそれぞれの名称をもつ革命組織を結成した。

 我々の工作員と国内の同志たちは、農民大衆を組織的に結集する活動とともに、彼らを意識化する活動に力点をおき、朝鮮人民自身の力で祖国の解放を達成すべきだという自主独立の精神で農民を武装させた。これと関連して、当時の農民組織の出版物は、「祖国光復会10大綱領」の解説文を大々的に掲載した。このような教宣活動は、農民の歴史的使命感を高めさせた。そして、農民に日本帝国主義の植民地支配に反対する思想を植えつけるとともに、国際国内情勢と社会発展の合法則性、朝鮮革命の前途、朝鮮人民革命軍のめざましい闘争ニュースなどを広く宣伝して、彼らに必勝の信念をいだかせた。九月山と碧城地区に出向いた工作員たちは、国内で活動していた閔徳元を通して碧城地区の農組を革命的に再編した。彼は、碧城地区の中核分子と船で仁川地区に渡り、その地区の労組と農組のメンバーを意識化する活動を精力的に進めた。金正淑も豊山地区をへて1937年7月中旬に端川、利原地方に出向いた。そのとき彼女は、豊山郡把撥里で李仁模に会い、赤色読書会の関係者を中核に祖国光復会の組織拡大問題について真剣に討議した。李仁模は、朝鮮革命軍の国内工作グループが把撥里内中警察官駐在所を襲撃し、「クマンバチ」というあだ名の悪質巡査部長を射殺したとき、それを目撃した1人である。この事件に刺激された豊山地方の先覚者たちは、赤色読書会を組織し、反日闘争をはじめた。李仁模もその読書会に加わって活動し、1932年と33年の2回にわたって約1年間獄につながれた。

 最近、李仁模に会って確かめたところによると、彼は、我々との連係をもつため、朝鮮人民革命軍の重要作戦区域であった二道崗に2回も足を運んだという。南満州部隊の小部隊が東興鎮を襲撃したときには、そこまで足をのばしたほど彼の参軍志望は熱烈なものだった。それほど積極的に努力したにもかかわらず組織の線が見つからず、我々に会えなかったのは残念なことだと言わざるをえない。もし、あのとき李仁模が我々と会うことに成功していたなら、彼の人生行路は大きく変わっていたであろう。李仁模は2度も投獄されたが、闘争は中断しなかった。彼は豊山地区革命委員会のメンバーとして、把撥里分会と黄水院ダム労働者突撃隊、安山厚峙嶺生産遊撃隊などの組織で精力的に活動した。

 金正淑は1938年9月下旬、再び豊山で李仁模と豊山地区革命委員会に加わっていた彼の同僚らに会い、組織を拡大強化し敵地での活動を縦横に展開する対策を協議した。李仁模は、金正淑に会ったのち、祖国光復会の下部組織を拡大するため大いに努力した。彼の活動範囲は、我々が国内共産主義運動にたいする指導を実現するにあたり、必要な対象の一つと目していたソウルコミュニスト・グループにまで及んでいた。これは、李仁模の活動でもっともきわだった点であった。彼は、朱炳譜とともにこのグループに我々の祖国解放路線を伝え、ソウルの運動圏に我々の影響を広めたのである。金三竜に我々の路線をじかに伝えた豊山赤色読書会時代の李仁模の上級にいた朱炳譜は、竜井の東興中学校在学中から反日学生運動に参加した人物である。彼は、1937年からソウルの某学校に籍をおき、豊山にたびたび往き来しながら、我々の影響下にあった共産主義者たちと緊密な連係を保っていた。その過程で豊山地方に派遣されていた金正淑とも連係がつき、国内革命にたいする我々の路線と戦略戦術を比較的正しくつかむことができた。金正淑は朱炳譜とともに、ソウルを中心とする中部朝鮮一帯の国内共産主義者を我々の反日民族統一戦線運動に結集する問題を論議した。李仁模の回想によると、そのとき金三竜は、我々の統一戦線路線を伝え聞いて非常に喜んだという。朱炳譜と李仁模は、ソウル地区の金属、紡織、繊維、印刷、染色、被服など各部門の労働者のなかに深く入り、労働者階級の先進分子で労組を組織して全民抗争準備のための基礎作業を進める一方、国内革命組織にたいする我々の指導を実現するため地道に努力した。

 李仁模は国内革命運動のためにも多くの活動をしたが、日本に祖国光復会の組織を拡大する活動でも少なからぬ功績を残した。1940年の夏、彼は、朱炳譜の指令で『祖国光復会10大綱領』をたずさえて東京へ渡り、豊山出身の苦学生で組織されていた豊友東京苦学生親睦会を革命的な組織に再編している。これでわかるように、李仁模は天から降ってきた人間ではない。彼を世界に知られる信念と意志の化身にしたのは、祖国光復会の組織であり、その組織の種を三千里津々浦々に播きつけるため千辛万苦した白頭山の闘士であった。

 豊山での工作を終えた金正淑は、東海岸の端川地区へ向かった。端川地方の先覚者のうち、我々がとくに目星をつけていたのは、かつて新幹会に関与した端川農組の指導メンバーの1人である李周淵であった。彼は、1930年の端川農民暴動にも関与した人物である。金正淑は、地元の祖国光復会会員に案内されて李周淵に会った。端川農民暴動事件で7年間の獄中生活をした彼は、そのころ山中の寺で病気を治療していた。金正淑は、監獄で苦労をし病身になった李周淵をあたたかく慰めた。そして、我々の反日民族統一戦線路線と全民抗争方針を伝達し、農民大衆を意識化、組織化して、全民抗争の準備をおし進めることについて話した。李周淵は、かつて自分はひとかどの運動家気取りで四六時中走りまわったものだが、いま振り返ってみると、あたかも羅針盤のこわれた老朽船に身をゆだねて大海を漂流するようなものだったが、いまは新しい船に乗ったような気分だといって、革命に忠実であることを誓った。

 李周淵にたいする工作を終えた金正淑は、利原の遮湖海岸で李繧ノ会った。彼は、ハーグ密使事件の主人公である愛国烈士李儁の息子である。彼は北青農組事件で逮捕され、釈放後は反日会を組織し指導していた。李儁がハーグで憤死した後、李繧ヘ「おまえの身は必ず国のためにささげよ」という父親の遺訓を守り、しばらくのあいだ独立軍運動に身を投じていた。しかし、間もなく運動への熱意がさめてしまった。独立軍運動の看板そのものはいかめしかったが、正しい指導を受けられないかぎり大事はなしえないことを悟ったからである。彼は一時、共産主義運動にも少なからず関与した。しかし、水に浮いた油のように大衆から離れた派閥が互いに野望をみたそうと争っているのを目にしては、そこから離れた。その後、彼が深く関与した農組の村でもやはり、いざこざが絶えなかった。マルクスを真似た長髪のえせ運動家たちが農組の上座でふんぞり返り、農民に頭ごなしに指図していた。これを見かねた李繧ヘある日、上座の長髪の男を指弾した。するとその男は、「おまえはどうしてそうも傲慢なのだ。李儁の息子だからというのか。千里も向こうの毛唐の前で血をふりまいて訴えたからといって、誰かが独立をもたらしてくれるとでもいうのか」と彼を面責するのであった。李繧ヘ、胸をたたいて慟哭した。自分が侮辱されるのは我慢するとしても、父の愛国の魂が侮辱されたのだと思うと口惜しくてならなかった。そのときの心の痛みは、数年が過ぎても癒されなかった。李繧ェ、独立軍運動と初期共産主義運動、農組運動にまで参加して得た結論は、いくら有力な大衆であっても、指導者に恵まれなければ力を発揮できないということだった。

 李繧ヘ同志たちを組織に結束する一方、白頭山につながるルートを見つけようと八方手をつくした。金正淑は、厚峙嶺以南一帯の農民大衆を結集して全民抗争勢力をととのえるというわたしの構想を彼に伝えた。李繧ヘ、わたしの意を体して祖国解放の聖業に一命をささげる決意をかためた。金正淑と別れるとき、彼は、将軍がいればこそ朝鮮が生きているのだと言い、わたしを指して朝鮮国の「正統領」と呼んだという。何年度だったか、わたしは北部朝鮮一帯の革命組織が教育資料に利用した『金蘭之契伝』を見たことがある。出所を調べてみると、北青の人たちがつくったものであった。北青郡青興里には、うっそうとした松林がある。そこは、風光に恵まれた閑静なところなので、昔から地元の有志たちが遊興の場とし、折にふれ集まっては風流韻事にふけったところだった。反日意識の強い北青地方の中核分子は、警察の目を避けるため有志たちを前面に立てて「金蘭契」を結んだのである。金蘭契とは、心を合わせれば鋭さは鋼鉄のようで、かぐわしさは蘭のようだという意味で、僚友間のあつい情誼をさす言葉である。近しい親友同士が結んだ契という意味に解される。北青の中核分子は、おおかた「金蘭契」のメンバーであった。彼らは、有志たちを前面に立ててたびたび松林に集まり、風流を楽しむふりをして精神修養に努めた。そうしているうちに、契のメンバーのなかでもっとも見聞が広く博識で、人びとから学者として尊敬されている長老の会員が『金蘭之契伝』を書くことになった。そこに「正統領」という言葉が出てくるのである。

 李繧ヘ、同年9月、北青地区党グループを組織し、その責任者となった。党グループの初期のメンバーは、遮湖反日会の中核分子たちだった。彼は、党グループを動かして遮湖反日会と付近の農組、労組を祖国光復会のまわりに結集するとともに、厚峙嶺以南の東海岸一帯を中心に全民抗争勢力を築いていった。

 白頭山との連係がついた後、李周淵の生活にも大きな変化が生じた。新たな闘争任務を受けた彼は、家に帰ると妻に約束した日に闘争の道に発った。7年ものあいだ、ひたすら夫への差し入れにつくしてきた貞淑な妻を残して、故郷を後にする彼の心中には切ない憐憫の情がわき起こった。しかし私情を押し殺し、寺にやってきた妻ときっぱりと別れた。それ以来、解放される日までの8年間、彼は水入らずの夫婦生活を知らず、独り身で敵の監視の目をくぐってたえず居場所を移し、行く先々で同志たちとともに労働者や農民に反日闘争精神を植えつけるため知恵と情熱をそそいだ。李周淵と李繧ヘ、白頭山を仰ぎ見ながらたたかったときのように、解放後も変わることなくりっぱに活動した。

 「祖国光復会10大綱領」の旗をかかげ、統一戦線運動と全民抗争の準備のために奮闘した国内農組のリーダーのなかには李元渉という人物もいた。彼は、農組を祖国光復会の下部組織に再編した吉州地区反日地下組織の責任者である。1932年、彼は汪清で戦友たちと創建されたばかりの抗日遊撃隊の武器を獲得するため、大坎子公安局襲撃戦闘にも参加した。その後、組織の委任により国内に派遣され地下工作に専念した。彼の指導する組織のメンバーは、革命軍を援護することであれば水火もいとわなかった。彼は、吉州パルプ工場から用紙を抜きとって白頭山に送りつづけた。当時、東海岸一帯の各農民組織では、革命軍に送る各種の必需品を新坡、恵山まで公然とトラックで運搬したものである。

 農組の活動家たちは、農民大衆のあいだで我々の武装闘争に呼応して全民抗争に立ち上がることを呼びかける宣伝扇動活動も活発に展開した。定平農組のメンバーは投獄されても、獄中で我々の闘争について大いに宣伝し、明川一帯の農組活動家も彼らに劣らず我々のことを宣伝し、反日闘争に立ち上がるよう呼びかけた。

 全民抗争を準備した日々、国内で我々の路線に従い犠牲を払ってたたかった愛国烈士は、幾千、万と数えきれない。それら有名無名の革命家は、我々の工作員たちとともに全国各地で数十数百万の農民大衆を祖国光復会の傘下に結集した。

 農組が革命的な組織に再編されてから、朝鮮農民運動は抗日武装闘争と密着するようになった。これは、農民運動の発展を加速化する有利な条件となった。全国の農民団体は、「祖国光復会10大綱領」の実現をめざす闘争を通して、反日民族統一戦線の強化と全民抗争の準備促進に大きく寄与した。だが、その過程で国内革命は、多くの農組活動家と愛国的な農組員を失った。

 農民運動は、労働運動とともに、抗日武装闘争を主軸とするわが国の反日民族解放闘争史に堂々たる位置を占めている。我々は、銃剣をふりかざす日本帝国主義のファッショ的な虐政のもとで、民族自主権の回復と農民の階級的解放のために命をも投げだしてたたかった革命の先達を忘れてはならない。



 


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