金日成主席『回顧録 世紀とともに』

2 金 周 賢


 金周賢は、抗日遊撃隊のもっとも代表的な給養担当幹部として、朝鮮人民のあいだに広く知られている。しかし、彼は、給養関係の活動でのみ腕をふるったのではない。彼は、すぐれた軍事指揮官であり、有能な政治工作員でもあった。遊撃隊に入隊する前までは、地下組織活動にも多く関与していた。

 わたしが金周賢を知ったのは、抗日遊撃隊を組織する前のことである。1931年、わたしが興隆村で武装闘争の準備を進めていたころ、金周賢は、大沙河の高登廠という村で、農民協会と反日同盟組織の責任者として地下活動にたずさわっていた。彼をわたしにはじめて紹介したのは、小沙河区党組織責任者の金正竜である。対面して話し合ってみると、たいへん謙虚で率直な人だった。

 ある日、金周賢が独立軍出身者を反日同盟から全員除名しようとしていることを金正竜から聞かされ、わたしは彼を訪ねていった。偏狭な人たちから独立軍の悪口ばかり聞かされていた彼は、独立軍出身者を闘争対象と見ていた。わたしは、革命における統一戦線の意義を述べ、反日愛国思想をもつ独立軍出身者にたいする偏見を正すよう長時間、説いた。翌日、金周賢は、除名対象にしていた独立軍出身の有志たちを訪ねまわって謝罪した。有志たちは、金周賢をわきまえのある人だとほめそやした。

 そんなことがあってから、金周賢は、活動の過程で困難な問題にぶつかると、よくわたしに相談に来た。わたしもときどき彼の家を訪ねた。8歳もの年齢の開きにもかかわらず、我々は気のおけない友となった。1931年といえば、まだわたしは抗日遊撃隊の隊長ではなかったが、彼はわたしの意見をいつも素直に受け入れた。わたしは、彼の謙虚な人柄に魅せられた。彼もわたしにたいへん好意を寄せた。彼は、わたしの言うことなすことを文句なしに支持した。

 ところで、彼の一家は、金周賢を手におえない強情っぱりだとみなしていた。彼が結婚し家庭をもつまでのいきさつを聞くと、なるほどとうなずけないでもなかった。

 金周賢一家の故郷は咸鏡北道の明川だったが、暮らしに困り中国東北地方の和竜に移住したという。彼は、幼年時代を過ごした故郷をいつもなつかしがっていた。書堂(漢文を教える私塾)での課程を終えると国内の漁大津に移り、漁業労働をしながら成長した。彼の兄は、妻帯すべき年ごろになっても帰ろうとしない弟を強引に大沙河へ連れもどし、あらかじめ目星をつけていた隣村の娘との縁談を強引にまとめた。本人の意向にかまわず親たちが勝手にまとめた婚約だったので、金周賢は相手の顔も知らなかった。彼は、親同士が婚約をまとめたことなどは意に介さず、沿海州帰りだという邱山学校の教師の家に入りびたり、ロシア革命の話に夢中になった。彼の家では婚礼の支度におおわらわだったが、彼は、父親に、見も知らぬ娘と一緒になる気など毛頭ないと言い放った。父親は、息子が照れかくしにそんなことを言ったのだろうと思い、笑ってとりあおうとしなかった。ところが式を数日後にひかえて、新郎たるべき彼が突然、行方知れずになってしまったのである。親たちはたいへんなことになったと青くなり、娘の家のほうでも大騒ぎになった。金周賢の兄は弟を探し出すために、家事をなげうって冬中、間島各地を捜し歩き、やっと邱山学校の教師から、弟がロシアヘ行ったということを聞き出した。彼は、苦労の末にロシアまで行って弟を連れもどした。金周賢は、結婚を拒むわけにはいかなくなった。彼が帰るとすぐ、結婚式は大急ぎでとりおこなわれた。金周賢は、妻をめとってからも野良仕事はそっちのけでいつも出歩いた。考えあぐねた父親は、彼に家を一軒建ててやった。かまどを分ければ、妻子を養うためにも家庭に落ち着き、農事に打ちこむだろうと早合点したのである。しかし、そうした処置は、かえって彼の革命熱に油をそそぐ結果になった。別に家を持つと、もう両親の統制を受けずにすむので、わが家を本拠にして組織の結成や大衆啓蒙など思いのままに行動した。はては、家のなかに地下室をつくり、新妻まで革命活動に引き入れた。金周賢の父親は「あいつの強情には勝てん」とすっかりあきらめた。

 わたしはこんな話を聞いて、金周賢がなかなか芯のある男だと思った。誰がなんと言おうと、自分の意思と決心によって選択した道をあくまで突き進むその気骨に、わたしは、すっかりほれこんだ。我々が安図で抗日遊撃隊を組織して間もなく、金周賢は、そのような頑強さと進取の気性をもって和竜で遊撃隊を組織し、指揮官となって活躍した。

 それ以来、何年か別々に活動していた我々が再会し、同じ部隊で活動するようになったのは、馬鞍山で新師団を編成したころからだった。朝鮮人民革命軍の主力部隊が新たに編成されると聞いて、真っ先に馬鞍山にやってきたのが金周賢の小部隊だった。幹部不足に悩まされていたときだけに、彼の出現はオアシスに出会ったようにありがたかった。当時、部隊には、給養担当の適任者がおらず、連隊政治委員の金山虎がその仕事を兼任していたので、部隊の編成にさいし、わたしは金周賢を司令部付き給養担当官に任命した。彼は、部隊の給養活動を強力におし進めた。これといって、せわしなく立ちまわったり、配下の隊員を強く督励しているふうでもなかったが、食糧や衣類も難なく手に入れ、部隊の生活を潤いあるものにした。

 有能な給養担当官としての金周賢の本領は、部隊が白頭山地区に進出して活動したころ遺憾なく発揮された。彼が一度工作に出かけると、たちまち援護物資をかついだ支援者の列がぞくぞくと密営にやってくるのである。いったんその気になりさえすれば、なんでも必ず手に入れてきた。

 抗日武装闘争の全期間を通して、1937年の元日ほどみちたりた正月はそうなかったと思う。それも、白頭山に来てはじめての正月だから粗末に過ごすわけにはいかないと金周賢が準備に力を入れたおかげである。普天堡戦闘をひかえてととのえた600余着の軍服と軍帽、脚絆、弾帯、背のう、テント用の布地、そのうえ、人数分の靴、大量の食糧なども彼が担当し呉仲洽と協力して入手したものであった。父親は、妻1人まともに養えないだろうと心配したが、彼は素手のほか、なにもない白頭山で、数百名の大家族を養う重責を担って労をいとわなかったのである。わたしがその労をねぎらい給養活動の成果をたたえると彼は、西間島の住民がよい人たちだから、すべてがスムーズに運ぶのだと答えたものである。

 部隊を養うために、唇がひび割れ、充血した眼を休める暇もなく奔走する金周賢の涙ぐましい努力に感動した人民は、知恵をつくして彼を助けた。彼は、人民のなかに入るといつも彼らとうちとけ、その労苦を思いやり、やわらげる人民の息子となり、部隊にもどっては、思いやりの深い母親となった。西間島の人たちは、彼を「うちの金担当官」とも呼んでいた。

 金周賢は、かたく閉ざされた心の扉も難なく開かせる特殊な手腕と特異な親和力をもっていた。いつも真実を語り、真情をもって人に接し、良心的でつつましく謙虚なその人となりが人びとの心を引きつけたのである。金周賢が給養活動だけでなく、政治工作でつねにりっぱな成果をあげたのも、それに負うところが大きかったのではなかろうか。

 金周賢の給養活動で独特なところは、なにをするにも政治的な方法で処理したことであったといえる。例えば、軍服づくりの任務が与えられると、彼は配下の隊員たちに司令部の指示をおうむ返しに伝えるのではなく、任務の緊急性や遂行方途を懇切丁寧に説明するのである。

 そうした政治活動の手腕を高く評価したわたしは、骨のおれる複雑な政治工作課題がもちあがると、よく彼を呼んだものである。白頭山根拠地を築くため先遣隊を送るときも、金周賢を責任者に任命した。先遣隊の任務は、たんに白頭山密営の候補地を選び、部隊の移動通路を開き、国境地帯の敵情と人民の動向を探るだけでなく、反日地下革命組織の結成に必要な政治勢力を見出し、その準備をさせることにもあった。それだけに、政治工作をどうしても並行させなければならなかったのである。

 金周賢は、その政治工作任務をりっぱに果たした。彼が先遣隊として白頭山地区で積んだ業績は、記録に残して大いに誇れるものだった。小白水谷、熊山、獅子峰、仙五山、黒瞎子溝、地陽渓谷、徳水谷をはじめ、白頭山地区の密営侯補地はすべて、金周賢の先遣隊が見つけだしたものである。彼は、地陽渓、小徳水、新昌洞、官道巨里、宗理院村、坪崗徳、上豊徳、桃泉里、三水谷など西間島の村々をめぐって、党組織建設と統一戦線運動に献身しうる多くの人材を見つけ、革命軍の予備源も少なからずととのえた。彼らは、祖国光復会の10大綱領と創立宣言にもられた我々の革命路線を、国内と西間島の広い地域に伝播するうえでも大きな役割を果たした。金周賢先遣隊がおさめた成果は、抗日武装闘争をいちだんと飛躍させる一つの跳躍台となった。

 困難な課題がもちあがるたびに、まず呼ばれる人物、金周賢は我々の部隊でそういう存在だったのである。彼は、誰からも重んじられ愛される部隊の宝であった。革命任務にたいする強い責任感と高い政治的能力、すぐれた組織的手腕、老練な活動方法は、すべての指揮官が手本とすべきものだった。一言でいって、金周賢は、文武両道の人物であった。

 金周賢の業績と活動能力を大いに買っていたわたしは、1937年8月中旬、彼を国内派遣小部隊の責任者に任命した。中日戦争が勃発した直後のことである。先にも触れたように、この戦争が勃発すると、我々は、国内で政治・軍事活動を大々的に進め、敵の背後を猛烈に攪乱し、情勢の要請に即応して抗日革命闘争をいちだんと高揚させる計画を立てた。この計画を実現するためになによりも重要なことは、政治的、軍事的に鍛えられた有能な隊員を選抜して小部隊を組み、国内の必要な地域に先遣隊として送り込み、我々の構想を実現する活動を展開させることであった。国内の革命組織は、さまざまなルートを通じて、城津、吉州、明川、端川など咸鏡北道南部と咸鏡南道北部の海岸地帯に沿って山中に多くの人が集まり、朝鮮人民革命軍との連係をもとうと苦心していることを我々に知らせてきた。小部隊の基本的任務は、それらの愛国青年を見つけだして遊撃隊を組織し訓練する一方、武装闘争への参加が無理な虚弱者は、適切な講習をおこなって地下革命組織のメンバーに育てあげることであった。それとあわせて、住民のあいだで地下組織と武装隊伍を拡大するための大衆政治活動と人材の発掘も予定されていた。さらにわたしは、小部隊に白頭の山なみと摩天嶺山脈、赴戦嶺山脈に武装闘争の拠点となる密営候補地を選定する課題も与えた。

 この使命の重要性からして、筋金入りの隊員たちで小部隊を編成した。そこには、朴寿万、鄭日権(甕声拉子のちびっこ)、馬東煕、金赫哲ら政治工作ですでに顕著な実績を示していたメンバーが加わっていた。老練な指揮官を隊長とし、豊かな闘争経験を積んだ隊員をもって組まれたこの小部隊に、わたしは大きな信頼と期待を寄せ、彼らの意気込みと決意もまたたいへんなものだった。わたしは、彼らが任務をりっぱに果たして帰るものと信じて疑わなかった。

 「朗報を待っている」

 わたしは小部隊を送り出すとき、金周賢にそれ以外のことは言わなかった。彼はくどくど説明しなくても、わたしの意図を十分にくみ取れる人だった。わたしが一言いえば十を察するのが金周賢の特徴だった。それで、彼に任務を与えるときは長い説明をしないことにしていた。実際、金周賢にたいするわたしの信頼はそれほど絶対的だった。

 早くて4、5か月、遅くても5、6か月で小部隊がりっぱな成果をあげて帰るだろうというのが、我々一同の期待だった。ところが驚いたことに、小部隊は出発後1か月余りで、だしぬけに部隊に帰ってきたのである。まったく予想外の深刻な事態だった。わたしは金周賢の顔色を見て、国内工作が失敗したことを即座に読みとった。彼の報告は、わたしを唖然とさせた。小部隊は、愛国青年が集まっているという城津地方には行き着けず、甲山で立ち往生したあげく引き揚げてきたのである。

 李悌淳の新興村ルートをへて国内に入った小部隊は、朴達の組織の線をたどって恵山方向へ向かう途中、地元の組織から日本の産金業者が本国へ運搬していく金塊を仲坪鉱山に保管していると知らされた。この通報を受けた金周賢は、鉱山を襲撃して金塊を奪うことにした。給養担当官という職業的な本性が知らぬ間に彼をつき動かしたのである。実際、金塊がいくつか手に入れば、部隊の給養活動にとって思いがけないもうけものといえた。鉱山を襲った小部隊は、いくらかの金塊を得た。しかし、その代償が大きかった。仲坪鉱山での銃声に動転した敵は、数十名ずつ隊を組んで小部隊を追跡しだしたのである。小部隊は鉱山を脱け出し徳山洞の裏山に登ったが、四面包囲の危機に陥り進退きわまった。金周賢は、通告状を一枚書き、風に乗せて敵に送った。

 「まぬけ者どもめ、神出鬼没の革命軍をまだ知らぬのか。我々は鴨緑江を渡るぞ!」

 通告状を読んだ敵は、大挙して鴨緑江へ向かった。そのすきに小部隊は、敵の包囲を脱することができた。幸い包囲網を抜け出しはしたものの、国内深くへ進出することは不可能だった。咸鏡南北道の山岳地帯と遊撃隊工作員の通路と思われる道々にはすでに敵兵が群がっていたからである。金周賢は、後日再び機会をみて国内に入り、工作任務を果たすことにして、いったん帰隊することにした。普天堡戦闘を機に最高潮に達した朝鮮人民の独立への熱望と青年たちの入隊熱に乗じて国内に抗争武力を組織し、武装闘争の炎を東海岸一帯にまで広げようとした我々の計画は、金周賢小部隊の無益な冒険とゆゆしい自由行動によって棚上げにせざるをえなくなった。摩天嶺山脈の約束の場所で小部隊を待っていた国内の愛国青年たちは、革命軍の使者に会えなかった満たされぬ思いをいだき、失望して四散した。

 小部隊が工作地へ行けずにもどってきたという知らせは、遊撃隊員たちの心にも暗い影を投じた。あれほど地下工作に長けていた金周賢が、工作地まで行けず途中で引き返してきたのをみると、国内の空気はよほど殺伐としているに違いないと語り合い、みな沈うつな表情になった。ややもすれば、武装闘争の国内への拡大は当分不可能ではなかろうかという悲観的な考えが生じかねなかった。金周賢の失策は、このように収拾しがたいものだった。

 わたしは、金周賢の失策がどうしても信じられなかった。いくつかの金塊のために小部隊の活動を破綻させたその過ちは、我々の構想を実現するうえで取り返しのつかない重大な結果をまねいた。彼の勝手な行動によって、人民革命軍の敵背攪乱作戦と国内進攻作戦には大きな空白が生じたのである。わたしはいまも、彼があのとき東海岸方面にまっすぐに進出して愛国青年たちに会っていたとしたら、我々の武装闘争史はいま少し豊富になっていたのではなかろうかと、残念な思いにかられるときがある。それほど当時のわたしの失望と挫折感は大きかった。わたしの憤りも度を越すほどのものだった。けれども不思議なのは、はげしくたかぶる感情の渦に巻き込まれながらも、頭を垂れて処分を待つ金周賢に一言の追及も叱責もできなかったことである。怒りや失望が極限に達すると、声も出なくなるものらしい。わたしはなにも言えず、じっと彼の顔を見つめるだけだった。

 司令部党委員会は、会議を開いて金周賢の問題をとりあげた。同志たちは口ぐちに、彼の犯した過ちの重大さを辛辣に論難した。激昂のあまり、拳で床をはげしく叩く者もいた。おそらく金周賢は、生まれてはじめてそんな批判を受けたに違いない。彼は観念したかのように、肩を落として座っていた。

 その日の会議で多くの同志たちが正しく分析したように、金周賢が極端な行動をあえてした根本的原因は、彼が、小才におぼれ、高慢になり、問題を近視眼的に見たことにあった。彼は、小部隊の任務を戦略的な高みからとらえていなかった。だから金塊という言葉を聞いて、つい理性を失ってしまったのである。彼は鉱山を襲うさい、後難については考えなかった。彼が告白したとおり、これもあれもと欲を出したのである。つまり、鉱山を襲って金塊を手に入れ、青年たちに会って武装部隊も組織しようと欲張ったのである。

 もちろん、その告白は、正直なものだったと思う。そこには、いささかの偽りもなかった。わたしは金周賢がどれほど正直で潔白な人間であるかを、よく知っていた。しかし、意図はどうであれ、小部隊が工作地へ行けずに引き返してきたのだから、彼らの行為にみんなが憤激するのは当然だった。わたしは彼を許したかったが、それを口にすることはできなかった。司令官が親しい隊員とそうでない隊員を差別するとか、原則に背くようなことは許されなかった。情にほだされて目をつぶれば、それは、どう見ても百害あって一利なしというものであろう。わたしが彼のためにしてやれる最大の援助は、過ちを是正する機会を与えることだった。

 司令部党委員会は、金周賢を給養担当官の職責から解任することを決定した。わたしももちろん、それに賛成した。だが処罰を受け、うなだれて司令部を去る金周賢の後ろ姿を見ながら、彼が過ちを犯さないよう事前に十分なアドバイスができなかった自分自身をひそかに責めた。小部隊を派遣するとき、まわりでどんなことが起こっても、それにかまわず国内の同志が待っているところへ直行するよう一言でも注意していたなら、こんな事態にはならなかったであろう。正直な話、給養担当官であれば金塊といったようなものに心を奪われ、活動コースを変えかねないという異常な状況までは予想できなかったのである。

 金周賢は解任後、思想鍛練をりっぱにおこなった。今日では、そのような思想鍛練を革命化といっている。炊事隊員になった彼は、配属されたその日から釜を背負って歩いた。きのうまで部下であった隊員にまじって釜を背負って歩くというのは、口で言うほどやさしいことではない。そういう境遇に立たされれば、ほかへ移してくれと願い出るのが普通である。しかし、金周賢は炊事隊員として働くことを少しもいとわず、恥ずかしがりもしなかった。むしろ、そばの隊員たちが気がねするほど黙々と熱心に働いた。表情も明るく、いつも快活に振舞っていた。

 ある日、わたしは金周賢の生活ぶりが気になって、第8連隊の食堂へ行った。金周賢は、額に汗をにじませながら隊員たちの給仕をしていた。そのとき1人の隊員が、自分の汁をまたたく間にたいらげ、さじで食器を叩きながら声高に金周賢を呼んだ。

 「おい、炊事隊、汁のお代わりだ」

 やんわりと、お代わりを求める普通の声ではなく、明らかに人を小馬鹿にした口調だった。だが、金周賢は顔色一つ変えず「はい、ただいま」と答えると、しゃもじで汁を汲み急いでその隊員のところへ行った。

 その夜、わたしは金周賢にぞんざいなものの言い方をした隊員を呼び、過ちを犯して降格された者だからといって呼び捨てにしたり、見くだしてはならないと言い聞かせた。過ちを犯した人であるほど、よそよそしくしたり、猜疑の目を向けたり、さげすんだりすべきではなく、いっそうあたたかく接し、心から力になってやるべきだと諭した。隊員は自分の態度を反省した。

 地位というものは、固定不変ではない。それは、下がることもあれば上がることもあるものなのだから、真の同志的関係を保つためには、地位ではなく人間を見るべきである。隣人が苦境に陥ったときは、ふだんよりもっと親身になって助けるべきである。抗日革命闘士たちは、戦友が過ちを犯し職責を解かれても、冷たく扱ったり排斥したりするようなことなく、過ちをきれいにそそぐよういろいろと援助したものである。

 金周賢が炊事隊員になって1週間ほどしたある日の行軍中、わたしは彼のそばに寄って、背のうを寄こすようにと言った。銃と背のうのほかに釜までかつぎ、重い足どりで歩く姿がなんとなく気の毒に思えたのである。しかし、彼は重くないと言って断った。わたしが背のうの肩ひもに手をかけると、彼はかたくなにわたしの手を押しのけて、隊列のあとに従った。そんな姿を見ると、なんとなくわびしい気持になった。もしや、党会議で解職処分を受けたことを不満に思っているのではないかとさえ思った。なにげなくその顔を見ると、涙が頬を伝っていた。わたしの胸は押しつぶされるように重苦しくなった。あの剛毅な男が、なぜ涙を流すのだろう。

 金周賢は、個人的に見れば大きな悲しみと不幸を背負っていた。妻は、地方工作中に敵の「討伐」にあって殺害され、娘も病死していた。ただ1人残った息子は、彼が遊撃隊に入隊するとき他人にやってしまった。それ以来、彼はひたすら革命ひとすじに生きてきたのである。

 その夜、隊員たちが寝静まったあと、わたしは金周賢に会うつもりで第8連隊の宿営地に足を向けた。ところが、炊事場まで行って思いがけない光景にぶつかった。寝床で眠れぬ夜を過ごしているに違いないと思った彼が、なんと小川のほとりにしゃがみこみ、へちまで釜を磨いているのである。わたしは彼に、あすから兵器廠で働くようにと言った。そこへ行けば静かな環境で働けるし、自尊心を傷つけられるようなこともないから気が休まるだろうとすすめたのである。すると彼は、目に露を宿して、自分は処罰を受けても司令官のそばで受けたい、司令官のそばにいてこそ心が休まると答えるのだった。

 「昼に、きみがひと知れず泣いているのを見た。それで、そのことをわたしなりに解釈し、炊事隊にいるのが心苦しいようだから、兵器廠に移そうと考えたのだ」

 こう言うと金周賢は微笑を浮かべ、わたしの手を取った。

 「そうではありません。わたしは、わたしを処罰して胸を痛めている司令官同志に申しわけなく思い、それに自分の恩知らずな行為が心苦しくて、つい涙をこぼしたのです。司令部党会議でわたしの問題がもちだされたとき、わたしがいちばん恐れたのはなんだと思いますか。それは、わたしを隊伍から除き、どこか遠くへ追いやるのではないかということでした。わたしは、死んでもここで死にたかったのです。革命の隊伍を離れて、どこに生きがいがありましょうか。わたしを捨てずに炊事隊で働けるようにしてくださっただけでも、ありがたいことです」

 わたしは彼の話を聞いて、夜遅くまで小川のほとりにしゃがんで釜を磨いている彼の心情が理解できた。彼は自分の身はどうなろうと、わたしのそばにさえいられればよいと思っていたのである。そばにさえいられれば、自分が指揮官になっても炊事隊員になってもよく、批判され処罰を加えられても、ただ革命隊伍からはずされさえしなければよいとするところに、金周賢の真面目があった。

 こういう気質の人は、同志から加えられる批判や処罰を信頼と愛情として受けとめるものである。金周賢は、自分の誤った行為が革命にどれほど大きな損失を与えたかを深く考えたのである。

 (自分は革命家になりきったつもりだったが、こうしてみるとまだまだだ。司令官同志の信任を得ていたから隊にいられたのであって、こんな未熟な革命家がどこにいるだろうか。同志たちの批判は、みな合っている。これを機会に思想鍛練に励んで、筋金入りの遊撃隊員になろう)

 こう考えて、彼はいっそう自己改造に励んだという。

 金周賢は、釜を背負っていた日々、学習にも打ち込んだ。彼が処罰を受けた年の11月、司令部書記処がわたしの論文『朝鮮共産主義者の任務』を小冊子で出版すると、それを真っ先に手に入れて熟読したのは彼だった。体に障ることも考えず学習に打ち込むさまを見て、炊事隊員たちは、自分たちが慕い尊敬していた以前の上官がもしや倒れはしないかと心配した。そして、金周賢の背のうから小冊子をこっそり取り出し、テントの後ろの石の下に隠した。金周賢は、それを探そうと何日か苦労し、そのせいかげっそりと頬がこけてしまった。小冊子を失って食欲までなくしてしまう有様だった。あわてた炊事隊員たちは、隠しておいた小冊子をそっと背のうにもどした。そして、「周賢同志、もう一度よく捜してみてはどうですか。背のうのなかの物がどこへいくというのですか」と言った。金周賢は、背のうをさぐって小冊子を見つけると「いや、不思議なこともあるものだ」と言って、子どものように喜んだ。

 彼は、思想鍛練をりっぱにおこなった。さすがに労働者あがりの古参の革命家だけあった。彼が自己改造に努める様子は、感動なしには見られないほどだった。それで、わたしはいまも、幹部たちがみずからを革命化しようとするなら金周賢のようにすべきだと話している。

 金周賢が給養担当官の任を解かれて6か月目に、わたしは、彼を第7連隊長に任命した。もとの位置に復職させず連隊長に任命したのは、彼がつねに銃声の響く戦場に立つことを願っていたからである。連隊長になった金周賢は勇敢に戦った。長白県の佳在水および十二道溝の戦闘をはじめ、臨江県六道溝戦闘、双山子戦闘、呉家営戦闘、賈家営戦闘、新台子戦闘など、朝鮮人民革命軍主力部隊がおこなった1938年の春季攻勢とその後の大小の戦闘で、老練かつ大胆な軍事指揮官としての実力を遺憾なく発揮した。その年の夏は、新台子から濛江、柳河、金川地方にまで進出して、敵の背後をたたく戦闘をりっぱに指揮した。彼に率いられた第7連隊は、人民のあいだでの政治宣伝もたいへん活発におこなった。村落に入れば、連隊長自身が率先して対人活動に熱心に取り組んだ。

 金周賢は1938年10月、濛江県南牌子の密林で、金沢環、金永国と一緒に後方病院の患者のために蜂蜜を取っていたところを「討伐隊」に奇襲され戦死した。彼は連隊長になってからも、隊員の面倒をみるために奔走した給養担当官のころのように、戦友たちの生活上の問題を片時も忘れなかったのである。

 戦死後、戦友たちは、彼の遺品となった背のうを開けてみた。中身は、なにもなかった。誰にもあるべきはずの予備の履き物すらないのである。彼の伝令に尋ねると、前日、靴を履き古した隊員に与えたという。金周賢が残した背のうを抱きしめると、涙がどっとあふれ出た。彼が給養担当官を務めて以来、革命軍のために工作した糧秣や軍服地、履き物をすべて合わせれば、山をなすであろう。履き物だけでも数千足になる。けれども、彼は自分の予備にとっておいた、たった一足の靴まで隊員に与えたのである。

 そのからっぽの背のうを見て、わたしは革命家の財産と人生観とはどんなものであるかを深く考えさせられた。幸せを願うのは、人間の本性である。この世には、拝金主義者が多い。そのような人の目から見れば、金周賢は財産のかけらもない無産者だったといえよう。しかし、わたしは金周賢こそ、まごうことなき富豪だったと思う。なぜなら、彼は生の最期の瞬間まで、億万の黄金にも替えがたい高潔な思想と精神を身につけていたからである。



 


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