金日成主席『回顧録 世紀とともに』

1 新たな情勢に対応して


 我々が蘆溝橋事件にかんする衝撃的なニュースに接したのは、間三峰戦闘後の1937年7月中旬ごろだった。わたしはかなり前から、9.18事変が新たな「9.18」を生み、日本帝国主義の満州占領が数百万平方キロに及ぶ中国全土への全面的な侵攻につながるものと見越していた。だが、実際に蘆溝橋事件を導火線として中日間に戦争が起こったというニュースを聞いては、いささか興奮せざるをえなかった。人民革命軍の隊員と指揮官のあいだでは、情勢の進展をめぐって多くの論議が交わされた。論点は言うまでもなく、この戦争が今後の世界情勢と朝鮮革命の発展にいかなる影響を及ぼし、この新たな情勢を朝鮮革命にどう有効に利用するかということであった。

 中日戦争が勃発するときまで、我々のなかには、蘆溝橋という橋があるということを知る人がほとんどいなかった。この橋で真夜中に鳴り響いた銃声がほぼ3000日間も中国領土を血の海に浸し、世界を大戦の渦中に巻き込む前奏曲になろうとは誰一人考えなかった。1939年9月、ファシズム・ドイツのポーランド侵攻を第2次世界大戦の開始とみるのが公認された一般的な見解となっているが、それより2年前の日本帝国主義者による蘆溝橋事件を第2次世界大戦の発火点とみなす見解もないわけではない。

 中日戦争は9.18事変と同様に、日本帝国主義者が執拗に追求し完成させてきた対アジア政策の所産であった。日本帝国主義が満州を席巻したとき、すでに世界の公正な世論は、彼らが遠からず中国関内へ侵攻するであろうことを示唆していた。実際に日本帝国主義は、東北3省を占領した後、中国本土への侵略の準備に全力をそそいだ。1933年1月の山海関攻略と華北地区への侵入、熱河作戦による省都――承徳の占領、秦皇島上陸、河北省東部地区への進撃など、これらの軍事作戦は、日本軍が満州事変を起こした後の数年のあいだの出来事であり、やがて強行される中国本土への侵略の下準備の一側面であった。

 蒋介石国民党政府は、日本帝国主義の華北侵攻に抗戦をもってこたえるのでなく、人民の決死の反対にもかかわらず、売国的かつ反民族的な「塘沽協定」の締結によって、万里の長城以北の広大な領土を事実上、日本帝国主義の占領地にかえ、華北を日本帝国主義の監視と支配下におく結果をまねいた。こうした宥和政策は結局、日本帝国主義の侵略的野望と戦争騒動をあおりたてることになった。日本帝国主義者の差し金のもとに、華北の親日勢力は、「華北5省自治運動」なるものを展開した。いわゆる「独立」を要求するこのような売国運動の結果として、親日的な「冀東防共自治政府」がつくりあげられた。このようなエスカレートの方法で満州全域と華北の命脈を完全に掌握した日本帝国主義は、1936年初、排日運動の厳重取締りと、中国、満州、日本の経済合作、共同防共などを骨子とする「対中国外交方針」なるものをうちだし、中国関内への侵略準備を露骨化した。日独「防共協定」の締結は、新たな戦争の準備を促し、助長する外部的要因となった。蒋介石国民党政府の屈辱的な対日姿勢と売国的かつ反民族的な政策は、日本帝国主義者に中国本土への侵略を意のままに拡大できるようにした。日本帝国主義の中国本土侵略がますます加速化し、国と民族が存亡の瀬戸際に立たされたそのときにも、蒋介石は、対内的には紅軍を包囲攻撃し、人民の抗日救国運動を弾圧し、対外的には外部勢力に屈服する「安内攘外」政策を追求して対日妥協路線を維持した。蒋介石の卑屈な対日協力政策は、日本の中国関内への侵略を黙認し、蘆溝橋事件のような重大事件の画策へと日本を誘導する結果をまねいた。

 日本帝国主義が中国にたいする本格的な侵攻を断行するにいたったのは、中国をめぐる帝国主義列強間の矛盾の当然の帰結でもあった。1937年、アメリカからはじまった新たな経済恐慌の波は、再び世界を巻き込みはじめた。帝国主義列強は、新たな市場の開拓に血眼になった。市場争奪戦は、列強間の矛盾を激化させた。この矛盾のなかで、もっとも代表的なものの一つが、まさに中国における利権をめぐる米・英帝国主義者と日本帝国主義者間の軋轢と対立であった。日本帝国主義は、欧米列強との対決で優位を占める方途を中国との全面戦争に見出した。彼らは、この戦争のみが、中国にたいする日本の独占的支配を可能にし、この地域から米・英勢力を駆逐して日本をアジアの盟主たらしめるだろうと考えた。これにたいする米、英の態度は、二面主義的なものであった。彼らは、一方では日本帝国主義の無分別な侵略的暴挙を制御しようとしながらも、また一方では、中国の利益を犠牲にして、日本帝国主義の侵略を助長した。そして、日本をそそのかして反ソの方向へ向かわせた。米、英はこういう方法で、中国における自国の従来の利権を維持しようとはかった。

 華北事変後、日本帝国主義は、軍備拡張と戦争準備の政策をおし進めながら、東アジア大陸での優位を確保すると同時に、南洋進出の方針を基本的国策として確定した。これは、中国とソ連にたいする戦争政策をそのままおし進めながら、同時に時機をうかがって東南アジア方面へ南下しようとする戦略的方案であった。

 近衛内閣は、米、英、仏などの帝国主義列強の「不干渉」政策を巧みに利用しつつ、中国内部にまだ抗日民族統一戦線が確固と結成されていない有利な状況をとらえ、ついに中国にたいする全面戦争を開始した。1937年7月7日、日本軍は軍事演習中に兵士1名が失踪したという口実で宛平県城にたいする捜査を頭ごなしに要求した。それが発端となって衝突が起きた。宋哲元の第29軍が抵抗すると、日本軍は、蘆溝橋を占領し北京を包囲した。蘆溝橋事件は偶発的な小さな衝突で、現地交渉によっても十分解決できるものであった。それにもかかわらず、戦争挑発の口実を探し求めていた軍部の圧力により、近衛内閣は7月11日、日本駐屯師団の中国派遣を閣議で決定し、口では軍事的衝突の不拡大を唱えながらも、実際にはこの些細な事件を中日戦争拡大の口実に利用した。8月13日、日本軍は早くも上海を攻撃するにいたった。蘆溝橋に響いた銃声は、ついに中日間の大戦争にエスカレートした。

 中日戦争の勃発は、朝鮮共産主義者にいくつもの新たな課題を提起した。我々は激変する情勢の要請に即応して、主動的かつ積極的な戦略戦術を立てざるをえなくなった。中日戦争勃発のニュースを聞いたのち、わたしは数日間、この戦争の展望と朝鮮革命に及ぼす影響、これにたいする我々の態度と対応策について考えつづけた。

 中日戦争は、日本帝国主義が華北を占領するくらいでとどまる局地戦ではなかった。また、満州事変のように、数か月のあいだに速戦即決するという性格の戦争でもなかった。この戦争そのものが長期戦に移行しうる火種をかかえており、地域戦争、ひいては世界大戦へと拡大する可能性をはらんでいた。中日交戦双方のほかに第3諸国を引き込む可能性もなきにしもあらずだった。確定的なのは、日ソの衝突が不可避であるということであった。歴史的に考察すれば、朝鮮と満州は日露角逐戦の重要な場であった。それは、今世紀初の日露戦争勃発の主な原因となった。ソ連の成立後にも、日本の大陸侵略野望のため、日ソ関係は依然としてするどい対峙状態にあった。中日戦争の前夜にも、ソ連と日本は、アムール川の中間にある2つの島の領有権問題をめぐってきわどい対決ぶりを見せた。それは、一触即発の戦争の危険をはらんだ対決であった。モスクワでの直接的な外交交渉によって紛争はいったん解決されたが、日本はその後も日満共同防衛という名分のもとにきわめて強硬な姿勢でソ連と対峙した。世界の大多数の世論が、日ソ間のこの紛争が大戦争の火の元になるであろうと示唆したのも、あながち根拠のないことではなかった。日本帝国主義が満州を占領したのち中国本土を侵略し、ひいてはモンゴルとソ連の極東地域を占拠する野望をいだいていることは秘密ではなかったが、日本はソ連との全面戦争を時期尚早と見ているようだった。彼らは、日増しに強まるソ連の国力と国防力をそれとなく恐れていた。日本が中国との戦争状態のままソ連とも戦争をはじめることになれば、それ以上危険かつ愚かなことはないに違いなかった。日本には2つの大国を向こうにまわして、同時に戦争ができるほどの国力も備わっていなかった。

 人民革命軍の少なからぬ隊員と指揮官は、戦争が拡大すればするほど朝鮮革命に不利な影響を及ぼすと思っていた。わたしは、中日戦争の勃発に対処する戦略的方針を早急にうち立て、明確な目標をもってたたかわなければならないという緊迫感に迫られた。1937年7月中旬、白頭山密営で開かれた朝鮮人民革命軍主力部隊の指揮官会議と、同年8月初に長白県初水灘で招集された朝鮮人民革命軍軍・政幹部会議は、この方略を策定した会議であった。わたしはこの会議で、急変する情勢に主動的に対処して抗日武装闘争を強化し、朝鮮革命全般を新たな高揚へと導く戦略的方針を示した。白頭山密営で開かれた会議には、馬東熙、李悌淳など白頭山地区と国内で活動していた政治工作員と地下組織の責任者たちも参加した。

 この会議で論議された中心的な問題は、中日戦争に対処して革命の主体的力量をうちかため、敵背攪乱作戦を強化し、全民抗争の準備を促進することであった。我々は、この課題を遂行する重要な方途の一つとして、白頭山西南部一帯と国内により多くの地下組織をつくる問題と、朝鮮人民革命軍の政治工作グループが狼林山脈を利用して革命根拠地を築き、国内各地に生産遊撃隊と労働者突撃隊を組織する問題を真摯に討議し、新坡、長白県下崗区一帯における党組織建設と祖国光復会の下部組織建設状況、大衆政治工作と遊撃隊援護活動の状況を調べ、その経験を一般化する対策も同時に討議した。

 当時、日本帝国主義は、自国を世界5大強国の一つ、3大海軍国の一つと自称していた。列強も日本をそのようにみていた。しかし我々は、彼らが遠からずして恐ろしい落とし穴に落ち込むものと思った。日本帝国主義は、初期には中国の抗戦勢力に生じた空白に乗じて一時的に優勢を占めるとしても、最終的には滅亡するだろうと確信していた。不正義の戦争はつねに内部矛盾をともなうものである。自国内における戦争勢力と反戦勢力間の矛盾と、利権争奪のための帝国主義列強間の矛盾は、日本の戦争遂行に歯止めをかける無視できない要因であった。日本帝国主義者は、国際的にも孤立していた。彼らは、ヨーロッパにドイツ、イタリアといった同盟国をもってはいたが、それら同盟国からの実質的な援助は期待できない状態にあった。日本帝国主義が中日戦争を拡大し「南方進出」を断行すれば、それは不可避的に帝国主義列強間の矛盾と対立を激化させる結果をもたらすほかはなかった。あくなき貪欲と膨張欲にとりつかれた日本帝国主義者は満州を侵略した後、それをまだ消化できないまま、強欲にも中国本土まで併呑しようと襲いかかったが、それは、猫が牛頭をあずかるようなものだった。日本が消化不良を起こさないという保証はなにもなかった。

 日本帝国主義は中日戦争の勃発を機に、朝鮮における植民地支配機構をいっそう強化し完備した。各種のファッショ悪法が新たにつくられ、人民の思想と身体をがんじがらめに縛りあげた。1913年から実施してきた「軍機保護法」も戦時の状況にあわせて改悪された。敵は、「戦時兵站基地としての朝鮮の特殊な使命」だの、「大陸政策遂行において朝鮮がになった任務」だのといって、すべてを戦争遂行に服従させた。朝鮮にたいする日本帝国主義の略奪は、経済的領域にとどまらず、人的資源にも及んだ。青壮年を徴発して戦場に駆り出し、膨大な労働力を軍需工場と軍事施設の建設工事場に強制的に動員した。

 中日戦争の勃発とともに、かつてない激しさと悪辣さをました日本帝国主義のファッショ的弾圧と経済的略奪は、朝鮮民族の境遇を耐えがたいどん底に突き落とした。しかしわたしは、たとえ、このように不利な点があるとしても、中日戦争によって生じた複雑な情勢を巧みに利用すれば、禍を転じて福となすことができるとみなした。初水灘での軍・政幹部会議でも、情勢をこのような視点から評価し、それに対応することを強調した。白頭山密営での会議では、朝鮮革命の主体を強化するための課題が組織建設の側面から多く論議されたが、初水灘会議では敵背攪乱作戦の方針を実行するための課題が抗日連軍部隊との共同作戦問題を中心に軍事的側面から多く協議された。わたしはこの会議でもやはり、豆満江、鴨緑江沿岸一帯をはじめ、広大な地域で敵背攪乱作戦を強化し、国内に小部隊と政治工作員をより多く派遣して反日民族統一戦線運動をひきつづき拡大強化することについて強調した。

 我々は、敵背攪乱作戦をおよそ2つの方向で展開することにした。その一つは、狼林山脈に依拠して密営網を設け、国内各所に生産遊撃隊と労働者突撃隊を組織して全民抗争の軍事的基盤を築き、国内で各種形態の大衆闘争を通じて日本帝国主義の後頭部を痛撃することであり、いま一つは、遊撃戦によって日本侵略軍の中国関内への機動を阻み、彼らの戦略作戦を破綻させることであった。

 初水灘会議では、新たな戦略的方針にもとづいて朝鮮人民革命軍の各部隊を部分的に改編し、各部隊の活動地域を実情にあわせて分担した。国内に派遣する武装グループと政治工作グループの問題も協議した。

 敵は中日戦争を起こした後、我々の動きをするどく注視した。どう探り出したのか、日本軍警の頭目たちは、我々が新たな活動方針をうちだして部隊を改編し、活動地域を分担したうえ、8月29日の国恥日を契機に満州の主要都市を攻撃し、国内へいっせいに攻め込むことを協議したとし、その対応策を講じるために上を下への大騒ぎをした。後でわかったことだが、敵の機密文書にこのような事実が詳細に記されていた。

 初水灘会議を終えたあと、長白――臨江県境への再進出に先立って、わたしは東北抗日連軍部隊との連合作戦と敵背攪乱作戦の問題を協議するため魏拯民に会った。当時、彼は漫江上流の樺皮河べりの東漫江密営で静養していた。その日、我々一行を東漫江密営に案内したのは、中隊政治指導員の朱在日だった。彼は、東漫江一帯の地形にくわしかった。朱在日は、江原道の出身だったが、幼いころ和竜地方へ行って暮らし、漁郎村で遊撃隊に入隊した。遊撃区が解散したとき、和竜に住んでいた6所帯が初水灘へ転居したのだが、そのうちの1所帯が朱在日の家族であった。反日部隊で活動していた彼は、1937年3月に妻と一緒に司令部を訪ねてきた。わたしは、彼を反日部隊出身の中国人兵士の多い中隊の政治指導員に任命した。彼が、中国語に堪能で、中国の風習もよく知っていたからである。のちに、彼は警護中隊の政治指導員を務め、連隊政治委員にまで昇進した。

 朱在日は目的地まで我々を無事に案内した。魏拯民は、中日戦争が拡大している現在、もっとも重要な問題の一つは朝中両国人民と共産主義者の相互協力を強めることだと言った。

 「我々は、朝鮮の同志と朝鮮人民の協力に大きな期待をかけています。あなたがたは、これまで私心を去って中国革命に誠心誠意助力してくれました。わたしはプロレタリア国際主義という言葉を耳にするたびに、まず朝鮮の同志たちを思い浮かべます。いままで我々が同じ塹壕で苦楽をともにしてきた日々は、両国の歴史だけでなく国際共産主義運動史にも永久に残るものと思います。金司令、朝鮮民族がなめている試練を今日は中華民族がなめさせられているのです。この試練の時期に、朝鮮人民が我々の側に確固と立つものと確信します」

 魏拯民の言葉には、切々たるものがあった。第2軍の政治委員兼南満省党委書記の重責をになう彼は、真実を語る率直な人であった。反民生団闘争の極左的な誤りを是正する闘争の過程がよく示しているように、魏拯民は、誰よりも朝鮮共産主義者の苦悩と苦痛を理解しようと心から努力した。わたしは、彼が朝鮮人民に同情し、朝鮮共産主義者の闘争を各面から援助してくれたことに相応の敬意を表してきた。彼も終始一貫、格別な愛情と親近感をもってわたしに接してくれた。魏拯民は、東北地方の抗日武装闘争における朝鮮共産主義者と朝鮮人民革命軍の役割をいつも高く評価していた。

 その日、魏拯民は、中日戦争勃発後の中国の内外情勢と中国共産党の対日戦争方針について詳細に通報してくれた。そのなかで、とくにきわだっていたのは、新たな国共合作と抗日民族統一戦線の実現をめざす中国の共産主義者と進歩的愛国人士の動きであった。

 7.7事変と呼ばれる蘆溝橋事件が起こった翌日、中国共産党は中華民族がこぞって決起する抗日戦争のみが唯一の救国の道であることを明らかにし、「民族統一戦線の強固な長城を築いて日本帝国主義の侵略に抵抗しよう」と全国にアピールし、7月15日には「国共合作を提唱する中国共産党の宣言」を国民党中央に送った。中国共産党が国民党側に内戦の中止と国共合作を提唱し積極的におし進めたのは、もちろん、これがはじめてではなかった。日本帝国主義が満州を占領し、関内へ侵略のほこ先を向けていたにもかかわらず、蒋介石の国民党は共産党に反対し労農紅軍の「討伐」にのみ熱をあげ、積極的な抗戦対策を講じなかった。蒋介石は、膨大な軍事力を動員して瑞金にあった中央ソビエトを抹殺しようと、5回にもわたって大規模な「討伐」作戦をおこなった。国民党は、外敵よりもむしろ共産党をいっそう敵視したのである。

 中国共産党としても、当時までは抗日に主力をそそぐことができなかった。共産党の主要課題は、土地革命と国民党との戦いであった。外敵が侵略してきたときには、内戦を一時中止し、国民が力を合わせて抗戦しなければならない。しかし中国では、第2次国内革命戦争として知られた内戦と内紛を終息させることができず、1930年代の中期に入っていた。その後、中国共産党は、大勢に従って抗日第一主義の新たな戦略をうちだした。中国共産主義者は、「北上抗日」のスローガンのもとに歴史的な2万5000里の長征を断行し、陝甘寧辺区に新たな根拠地を設けた。その後、彼らは「東征抗日」のスローガンのもとに、日本帝国主義侵略者との直接的な対決に入った。中国共産党はその後、「反蒋抗日」から「連蒋抗日」へとスローガンをかえ、国共合作を実現するため忍耐づよく努力した。中国共産主義者のこうした努力は、「西安事件」を契機に深化し、中日戦争勃発後に盧山でおこなわれた蒋介石と周恩来との会談によって、ついに二度目の結実をみるにいたった。

 盧山会談のとき周恩来が、満州と華北、そして、朝鮮での共産主義者の抗日運動を積極化する問題を蒋介石と論議したという魏拯民の話は、わたしの耳に快くひびいた。それは、中国共産党中央が、抗日戦争遂行における朝鮮共産主義者の地位を正当に評価しており、朝鮮共産主義者の指導する武装闘争に大きな期待をかけ、積極的な支持、協力を熱望していることを意味するからだった。1937年初、毛沢東はソ連の国際政治雑誌『太平洋』に寄稿した「全中国の救国会メンバーに送る手紙」で、日本帝国主義に反対する積極的な闘争、抗日主義が可能であることを証明する実例として、東北地方での抗日遊撃隊の活動をあげた。彼は、東北地方の抗日遊撃隊が、数年間の闘争で10万以上の敵兵員を掃滅し、数億円に達する損失を与え、中国本土への日本帝国主義の侵攻を牽制し遅延させたと書いた。東北抗日遊撃隊にたいするこうした評価には、朝鮮共産主義者の業績も含まれていた。魏拯民とわたしは、日本帝国主義がシベリアより中国本土を先に併呑しようとしている状況にあって、敵背攪乱作戦では、北満州の抗日連軍部隊よりも、東満州や南満州の抗日遊撃部隊がより多くの任務を担うべきだという点で見解が一致していた。

 魏拯民は対話の過程で、孔憲永の部下が南京政府密使という肩書きでソ連をへて第2軍の指揮官たちを訪ねて来たが、会ってみてはどうかと言った。南京政府の密使が満州に来たというのは、国民党の南京政府が東北抗日勢力との合作を各面から模索していることを示していた。孔憲永は王徳林の救国軍で副司令を務めていたときから、わたしとも親しく付き合っていた人物である。彼はかつて、我々とともに人民革命軍を創建するときにも相応の役割を果たした。孔憲永は、ソ連極東軍司令部の連絡を受けて一部の人員とともにソ連へ行き、関内に移った。関内での彼の活動は注目に値した。彼は、李杜、王徳林などとともに南京政府との連係を保ち、張学良の旧東北軍とも連帯しながら、満州における抗日闘争に深い関心を払った。東北義勇軍総司令に任命された後は、南京国民党政府との連携のもとに、東北地方の抗日運動にたいする外周からの支援をしばしばおこなってきた。孔憲永が南京政府の名義で我々に密使を派遣したのは、彼が満州地方の抗日武装闘争に依然として大きな関心をいだいている証であった。

 密使に会ってみると、彼も孔憲永と同じく東満州で反日闘争に参加した経歴の持ち主だった。密使は、関内での闘争と東北地方での闘争を一つに結合する必要を強調し、関内で国共合作が実現し、中国共産党指導下の労農紅軍が国民革命軍の所属部隊に改編され、蒋介石の統一的な指揮下に入るようになったのだから、東北地方の抗日武装部隊の活動も南京政府の総体的な作戦構想下に包括されるべきではないかという趣旨の説明をした。わたしは彼に、関内と東北地方の具体的な実情の違いと東北地方における抗日武装闘争の相対的独自性をあげ、彼の提案に疑問を呈した。密使は、我々の見解の妥当性を認め、提案を取り下げた。しかし関内と東北地方の不可分の関係については、忘れることなく密接な連係を保って、支持、協力してくれるよう再三強調した。わたしは、関内の闘争を助ける意味で、東北3省と朝鮮で日本帝国主義の背後を徹底的にたたくことを公約した。密使は、自分がソ連を経由してくるとき、中日戦争の過程で生じる負傷兵の治療問題についてそこの関係者と協議し、助力を受けられるようにはからってきたから、傷病者が出れば必要に応じて約束ずみのルートから後送するようにと言った。我々には、すでにソ連に老弱者を送った前例もあり、また独自のルートもあったが、密使の好意をありがたく受けとり、以後、そのルートも同時に利用させてもらうと答えた。

 魏拯民との談話を通じて、わたしは中日戦争にたいする戦略において、我々と中国共産党の見解が基本的に一致していることを確認し、敵背攪乱作戦でも大きな成果をあげることができるという自信をもつようになった。

 魏拯民と別れたのち、我々は、長白――臨江県境のあるなだらかな山の背で朝鮮人民革命軍指揮官・兵士大会を開いた。会議の場所の近くに井戸のような垂直の洞穴があったことが思い出される。いたずら好きの隊員がその洞穴に石を転がすと、しばらくして、どぼんという音が返ってきた。高い稜線の岩間にどうしてこんな洞穴が生じたのか不思議でならなかった。

 この会議では、中日戦争と関連する朝鮮人民革命軍の戦略的課題が提示され、それを実行するための指揮官・兵士たちの決意がそれぞれ披瀝された。今日の決起大会のような会議だったといおうか、白頭山密営と初水灘での会議の決定を実行するための決起大会であったと言ってもよいであろう。

 この大会については、革命歴史の専門家や著述家たちがいろいろな文章を書いており、会議に参加した闘士たちも折にふれて回想しているので、これ以上詳述しないことにする。白頭山会議と初水灘会議、指揮官・兵士大会はいずれも、中日戦争に対処する我々の政治的・軍事的方策を示したというところに意義がある。

 我々は、中日戦争の初期から国内進攻作戦の勝利を強固にしつつ、敵背攪乱作戦を果敢に展開した。朝鮮人民革命軍主力部隊は、蘆溝橋事件直後に、長白県十九道溝の馬順溝付近戦闘と長白県十三道溝の西崗城襲撃戦闘、それに竜川里劉家洞付近戦闘など数々の戦闘を遂行した。当時、民族革命党の機関紙『前途』は、我々の敵背攪乱作戦について「これは、確かに朝中両国民族の偉大な連合戦線の斉一性」だと書いている。

 そのころ、敵背攪乱作戦のため長白を出発した崔賢部隊も、臨江、通化、柳河、濛江と転戦しながら連続戦果をあげた。安吉と朴長春も姜健部隊と連合して、敵を痛快にたたきのめした。金策、許亨植などの海倫遠征部隊と瀋陽鉄道沿線まで進出した南満州部隊も、敵の背後に痛撃を加えた。我々の武装小部隊と政治工作グループは、国内深くに潜入し、いたるところで敵の手足を縛りあげた。朝鮮と満州で朝中共産主義者が展開した政治・軍事活動と熾烈な敵背攪乱作戦は、中国の抗日陣営を大いに励ました。中国を一気に占拠しようとした日本帝国主義の甘い夢は、北部中国と上海境域での中国人民の闘争と、朝鮮人民革命軍と中国東北地方の抗日連軍部隊の積極的な敵背攪乱作戦によって完全に破綻した。

 「一撃論」「短期終戦論」を唱えていた日本が長期戦に移行するにともない、我々の敵背攪乱作戦も新たな段階に移った。中日戦争の長期化に対応して、我々は臨江県新台子密営でそれまでの敵背攪乱作戦状況を総括し、朝鮮国内での背後攪乱と敵の軍事輸送系統、とくに、兵器と弾薬の輸送を破綻させる問題を討議した。その時期におこなわれた代表的な戦闘が、輝南県城戦闘である。輝南県城は、交通の発達した平地の城市なので、襲撃するには非常に不利だった。近くには、吉海線が走っていた。輝南付近の各所には、「討伐隊」の拠点が構築されていたので、城市攻撃に成功するとしてもすばやく撤収できなければ、敵増援部隊の追撃を受ける恐れがあった。輝南県城進攻はいろいろな面で難点があったが、それを承知のうえで、我々はこの戦闘に朝鮮人民革命軍主力部隊の第7連隊を派遣し、新たに編制された李東学、崔春国の警護連隊と第4師の一部を参加させた。それは、この県城が敵背攪乱作戦の打撃目標として格好の対象だったからである。輝南県城は敵の主要「討伐」拠点の一つであるばかりか、その周辺一帯の各県に派遣されていた満州国軍部隊の兵站基地でもあり、城内には2つの大きな軍需品倉庫もあった。

 この戦闘には、抗日連軍部隊とともに反日部隊も参加した。わが連合部隊は、不意に城内に攻め入り、敵の軍需品倉庫から大量の布地と綿、食糧を奪取して主動的に撤収した。県城襲撃戦闘後、各部隊は、海竜、磐石、濛江などの各方面から押し寄せる日本軍と満州国軍の増援部隊にいま一度こっぴどい打撃を加えた。輝南県城戦闘に先がけて我々の主力部隊がおこなった撫松――西崗伏兵戦も、敵背攪乱作戦のうえで重要な意義を有するものだった。

 敵背攪乱作戦の日々、我々は、李達京、金永煥、全哲山など貴い戦友を失った。金永煥は、汪清で共青活動にたずさわり、その後遊撃隊に入隊した。遊撃区活動のころ、わたしは、彼を延吉遊撃隊の中隊政治指導員として派遣した。1937年12月、金永煥は延吉で壮烈な戦死をとげた。全哲山は、琿春遊撃隊の出身であった。わたしが、彼にはじめて会ったのは老黒山戦闘のときだった。その後、彼は汪清第4中隊の政治指導員に任命された。彼については、呉振宇がよく知っている。全哲山は、1937年9月に額穆で戦死した。

 この時期、我々は南満州で祖国光復会の代表として活動していた李東光も失った。有能な政治幹部であり、勇敢な遊撃隊指揮官であった彼の死を悼み、楊靖宇はわたしにこんな話を聞かせてくれた。敵の南満州「討伐」作戦たけなわのころ、李東光は通化中心県党委が破壊されたという報告を受け、敵の「討伐」司令部がかまえている孤山子を経由して柳河方面へ行かなければならなかった。彼は薬商人を装い、2名の護衛だけを連れて白昼、敵のたむろする孤山子の街に入った。路地という路地には李東光を指名手配した布告が張り出され、つぎのようなことが書かれていた。

 「南満特委、共産匪賊頭目李東光、年齢30歳前後、長身、頭髪半縮れ毛、目が特に大きい。右の者を告発もしくは逮捕せる者は厚く褒賞し、かくまう者は極刑に処す」

 李東光は、自分を指名手配した布告が張り出されている掲示板の真向かいに立ち、それを全部読んでから悠然と街を後にしたという。

 李東光、李達京、金沢環、金永煥、全哲山の生涯は、祖国と人民への限りない愛と献身的奉仕のりっぱな模範であり、敵背攪乱作戦にのりだした朝鮮共産主義者の意志と魂を熱い血で歴史に記した貴い道のりであった。

 わたしの生涯を通じての志向は、防御ではなく攻撃だったといえる。わたしは革命に身を投じたその日から今日にいたるまで、敢然として立ち向かう攻撃戦術をもって人生を生きぬいてきた。前進途上に難関が立ちはだかるたびに、わたしはその前でためらったり動揺したりしなかったし、迂回したり避けたりすることもなかった。困難なときほど信念を失わず、不退転の意志とねばり強い努力によってそれをのりきってきた。革命発展の各段階において、我々が主に敢然として立ち向かう攻撃戦術を用いたのは、わたし個人の好みや性格のためではなく、複雑で試練にみちた朝鮮革命の要請であった。

 中日戦争の勃発後、世界をゆさぶる複雑な政局の渦中にあって、我々が、もし防御や後退、迂回の方法にのみすがっていたならば、我々の前に立ちはだかる難局を打開することはできなかったであろう。だから、わたしはいまも、あのとき我々が逆境に立ち向かい、それを順境にかえた革命的戦略が至極正しいものであったと考えている。



 


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