金日成主席『回顧録 世紀とともに』

7 革命的信義を思う標題


 西間島と白頭山地区における抗日革命の貴い成果は、その一つひとつがみな血みどろの闘争によってもたらされたものであった。革命の進展に伴い、それを破壊しようとする敵の攻勢もかつてなく苛烈になった。中日戦争を引き起こした日本帝国主義は、その重荷にあえぎながらも、現代軍事科学の最新成果と、数十年にわたる暴圧政治と領土拡張の過程で磨きをかけたファッショ的弾圧手段を総動員して朝鮮革命を圧殺しようと狂奔した。しかし、いかなる計略や術策をもってしても、我々の前進運動をおしとどめることはできなかった。

 敵が力をもって革命の圧殺をはかるたびに、我々は、巧みな戦法と妙計の力、同志的団結と革命的信義の力によってそれを打破した。そして、敵が弾圧に狂奔すればするほど人民との連係をいっそう強め、我々の内部を思想的に瓦解させようとすればするほど隊伍の思想・意志の統一と道徳的・信義的結束をさらにうちかためた。

 信義は、人間本然の道徳的観念である。旧社会においても真の人間は、信義を重んじ、それを人間の基本的表徴としてきた。しかし、旧社会の道徳規範では、ある一方が他方を束縛し、他方はその一方に無条件服従すべしとする不平等が説かれ、人間の自主性と創造性を抑制する歯止めがかけられていた。旧社会の道徳規範は、愛民や為民といった進歩的な要求をかかげることができなかった。

 我々は、革命闘争の過程で旧社会から引き継がされたさまざまな封建的人間関係と道徳規範を打破し、新たな共産主義的人間関係と道徳規範をつくりだし、それを一つの財富として新しい世代に受け継がせた。

 抗日遊撃隊の上下関係、同志関係、軍民関係に貫かれていたのは、愛と信頼にもとづく共産主義的信義であった。この世には、幾千幾万もの法がある。しかし、千差万別の人間の際限ない実践活動を法のみによって統制し操作できると考えるなら、それは早計にすぎる。法は、この世を動かす万能の武器ではない。人間の思考や行動には、法によっては規制できない分野もある。愛や友情を法によって規制することができるだろうか。もし、司法機関が法を発動し、今日から誰が誰を愛し、誰を友とし、誰を妻にせよと強要するなら、そのような法を誰が受け入れるだろうか。法の力だけで万事を取り仕切ることはできない。法の不可とするところを代わって果たすのがほかならぬ信義と道徳なのである。

 我々は同志の獲得から革命をはじめ、同志的信義と結束を強め、深く人民のなかに入って彼らとの血縁的な結びつきを強める方法で革命をたえず深化させてきた。いまもそうであるが、以前も同志愛は、朝鮮革命の勝敗を左右する生命線であった。朝鮮共産主義者の歩んできた幾十星霜の栄えある闘争の道程は、同志愛と同志的信義の発展の歴史であったといえる。

 我々の隊伍は、蓄財や投機目当てに寄り集まった烏合の衆ではなく、祖国の自由と独立という同一の志向と目的をもって結束した革命家の集団であった。思想と理念の共通性は、我々に最初から生死をともにさせた。したがって、我々の隊伍には、同床異夢や面従腹背の輩が居座る場はなかった。

 同志愛と同志的信義を重んじるのは、集団主義を生命とする我々の隊伍の存在方式であり、同時に本来の要求でもあった。抗日遊撃隊は、1挺の銃、1俵の米、1足の履き物を手に入れるためにも、力を合わせ知恵を集めた。その過程で彼らは「千万べん倒れようとも敵を討とう!」という革命的信念とともに、「死ぬも生きるもともに!」というもっとも気高い共産主義的倫理をつくりだし、団結すなわち勝利という一つの真理を引き出したのである。

 抗日革命は、人類がいまだ体験したことのない前人未踏の革命であった。それは、困苦と熾烈の面で、どの時代の革命とも比べられない波乱にみちたものであった。我々が延々と歩んできた曲折多い道程には、今後幾世代にわたっても体験しえないであろうあらゆる苦難が凝縮されている。抗日遊撃隊員は、難関と試練がおり重なるほど、同志的団結のスローガンを高くかかげた。そして、同志愛の力によって、それらの難関と試練を乗り越えた。我々を孤立させ、圧殺しようとする敵の戦略には、革命的信義と団結の戦略をもって対抗した。

 抗日革命時代の信義のなかできわだった地位を占めるのは、指導者と大衆との信義である。我々は、朝鮮革命における統一団結の中心が形成されてから今日にいたるまで、終始一貫、指導者と大衆とのつながりを強めることに格別の関心を払い、指導者と大衆の渾然一体と道徳的・信義的結合に最善の努力を傾けた。

 わたしが強調する指導者と大衆の関係は、先人の説いた「君臣有義」の義理ではない。君臣有義とは、君主と臣下のあいだには義理がなくてはならないという意味である。朝鮮の共産主義者にとって指導者と大衆の相互関係は、一言でいって一心一体と表現することができる。指導者は大衆に奉仕し、大衆は指導者に忠誠をつくすのが、ほかならぬ指導者と大衆のあいだに通う我々流の共産主義的信義である。

 新しい世代の青年共産主義者は、わたしを統一団結の中心とし、指導者と戦士が、一心同体となって民族の運命を開くために献身する新しい歴史を創造した。新しい世代の青年共産主義者と抗日革命闘士が体現した共産主義的信義で核心をなすのは、ほかでもなく自分の指導者、自分の司令官への忠実性であったといえる。新しい世代の共産主義者は、派閥争いや権力争いというものを知らなかった。いったん指導の中心をおし立ててからは脇目をふらず、指導者にもっぱら運命をゆだねた。ここに、彼らの共産主義的信義の純潔さがあったのである。

 金赫、車光秀などの新しい世代の青年共産主義者をはじめ、想像を絶する困難な抗日革命戦争の時代にわたしとともに戦った数多くの抗日遊撃隊員は、いずれ劣らず純潔な信義の体現者、気高く美しい道徳の創造者であった。

 抗日革命闘士の信義について語るとき、真っ先に思い浮かぶのが金一の顔である。金一は、50年近い歳月、風雪に耐えてきた人間である。彼は、わたしとともに抗日戦争を戦い、新しい祖国の建設と反米戦争、それに社会主義建設もおこなった。

 抗日革命時代の金一は、活動経験の多い老練な政治幹部として広く知られていた。彼は、安図と和竜地方を中心に、間島一帯で地下党活動と反日部隊の工作を多くおこなった。その過程で数多くの革命家を育てあげた。金一は白頭山で活動したころ、杜義順、孫長祥、銭永林などの頭領の率いる反日部隊を訪ねまわって工作し、大きな成果をあげた。彼の工作手腕は並々ならぬもので、安図の銭永林は、自分の部隊を人民革命軍に編入させて我々とともに戦おうと決心したくらいである。

 金一は最初、彼らを撫松へ連れて行った。我々の部隊が、撫松方面に進出したという知らせを受けたからだった。ところが、あいにく彼が部隊を案内して撫松地区に着いたとき、我々は漫江を離れて長白地方へ行っていた。こうなると、反日部隊の隊員らは、金一にだまされたといって動揺しはじめた。そのうえ、食糧難まで重なり、金一はまったく苦しい立場に立たされた。隊長以下、全隊員が3日間も飲まず食わずの行軍をつづけているとき、幾人かの隊員がとある山中で薬用人参畑を発見した。飢え死にしかねない状態だった隊員たちは、隊長の顔色をうかがおうともせず、われ先に人参を掘って食べはじめた。人民革命軍の指揮官である金一としては想像もできないことだった。彼は、畑の主人の許しも得ず勝手に人参を掘り出すのは、人民の利益を侵す行為だとたしなめ、両手を広げて制止した。理性を失った反日部隊の隊員たちは、銭永林のところへ行って、朴徳山(金一の本名)は、正体のあやしい人間だ、彼は最初、金日成部隊が撫松にいると言ったが、来てみるといなかったではないか、こんなとんでもないうそにだまされて、いつまでも朴徳山について行くことはないではないか、今度は金将軍の部隊が長白へ行ったと言っているが、それも信用できない、朴徳山は我々が人参を食べるのも邪魔している、これは我々を飢え死にさせようという魂胆に違いない、いつまでもあいつについて行ってはどんな目にあうか知れたものではない、あいつをかたづけて安図へ帰ろうと言いたてた。

 金一は、反日部隊の隊員らに殺されるかも知れないと思ったが、それを覚悟のうえで、むしろ、淡々とした口調で彼らを説得した。

 「よし、わたしを殺す気なら殺してもよい。だが一つ頼みがある。わたしが人参畑の主人に会って謝ってくるから、それまで待ってもらおう。人参には、これ以上手をつけないでくれ。これ以上手をつけては人参代を払いきれない」

 これに感じいった銭永林は、即座に金一の保証に立った。そして、人参畑に手をつける者は銃殺すると言い放ち、金一を人参畑の主人を捜しに行かせた。畑の主人を連れてもどってきた金一は、主人の好意で背のうに入れてきたまんじゅうを隊員たちに分けてやり、主人にはアヘンの塊を差し出して、自分にはこれしかないが、まんじゅうと人参の代として受け取ってほしいと頼んだ。そのアヘンは、急場しのぎにと王徳泰からもらったものだった。主人はかたくなに辞退したが、金一は無理にそれを彼の手に握らせた。感動した畑の主人は、山に貯蔵してあった越冬用の食糧をそっくり提供し、銭永林部隊を漫江まで案内した。漫江にたどり着いた反日部隊の隊員たちは、金一のところへきて非を認め謝った。わたしは、反日部隊を連れて白頭山地区に来た金一と紅頭山密営で会い、銭永林部隊を我々の主力部隊に編入させた。

 金一は、歯がゆい思いがするほど口数の少ない人だった。密営で話を交わした最初の日、革命にはいつ参加し、どんな闘争をしたのかと聞くと、革命に参加したのは1930年代の初期からだが、これといった闘争歴はないと一言答えただけだった。何度聞いても答えは同じだった。初対面ではあったが、あまりにも口数が少なく、付き合いの下手な人という印象だった。これは金一の長所でもあり欠点でもあった。金一の性格上の長所は、飾り気がなく生真面目なことであり、いかなる風波にも動揺せず、ひたすら忠実につくす点であった。彼は生涯、泣き言めいたことを言ったためしがなく、終始黙々と仕事に打ち込むばかりだった。わたしの命令、指示であれば、それを上級にたいする下級の義務としてだけではなく、指導者にたいする戦士の信義として実行する真の革命家であった。彼はどんな任務であれ、道義心をもって実行したので、その遂行においては中正を失うことがなかった。

 馬塘溝密営で、金一を第8連隊第1中隊の政治指導員に任命したときのことがいまも忘れられない。その職責は容易ならぬものであった。連隊長の銭永林は、前年に輝南県城戦闘で戦死し、連隊政治委員も適任者がいなくて空席となっていたので、第1中隊政治指導員が臨時に連隊政治委員の任務まで兼任しなければならなかった。そのうえ、中隊長も熱意は高いわりに能力が欠けていた。わたしは、そういう実態をありのままに説明し、きみがどんな位置で活動しなければならないのかわかるかと尋ねた。慎重な面持ちで考えていた金一は、しばらくして「わかりました!」と一言答えてはまた口をつぐんでしまった。任務を受けるときの彼の態度はいつもそうだった。任務の軽重にかかわりなく、毎回「わかりました!」という決まりの文句で受けとめては、それ以上なにも言わなかった。

 翌日、金一にアドバイスするつもりで第1中隊を訪ねると、彼はいなかった。たまたま居合わせた中隊長の話では、金一は新しい職務につくが早く、第1小隊の駐屯地である撫松県北崗屯へ向かったという。前日、金一を中隊政治指導員に任命するとき、わたしが撫松の第1小隊の消息が絶えているとなにげなく口にしたことを心にとめ、現地へ行って第1小隊の実態を調べようと考えたらしい。

 翌日の早朝、金一は、かなりの食糧と武器を手にして中隊に帰ってきた。それを聞いて、わたしは自分の耳を疑った。馬塘溝から北崗屯まではたっぷり40キロはある。彼が帰ってきたのが確かなら、一昼夜のうちに往復80キロ以上を強行軍したことになる。金一は、背のうを肩にしたままわたしのところへ来て、第1小隊は全員無事で任務もりっぱに遂行している、第1小隊との連係が途絶えたのは連絡員が途中で道を間違えたからだ、北崗屯から持ち帰った食糧と武器は第1小隊が敵を討って手に入れたものと、人民からの援護物資を合わせたものだ、地元の青年たちが入隊させてくれと懇願するので、司令部の承認も得ずに連れてきたと簡単に報告した。

 金一を宿所に帰したのち、彼が連れてきた入隊志願者と面接する過程で、金一が第1小隊を率いて金竜屯の警察署と悪質地主の家を襲撃し、大量の武器と食糧を獲得した事実を知った。

 金一は、2つの目的で敵の巣窟を襲撃した。その一つは、地主と警察を懲罰して人民の恨みを晴らすことであり、いま一つは、わたしがいちばん心配していた食糧問題を解決することであった。当時、我々は食糧不足のため難儀していた。1か所の密営に数百名も集まって何か月間も軍・政学習をしていたので、給養係が工作してくる食糧だけではとうていまかないきれなかったのである。戦闘をせずには、1俵の食糧も手に入れることができない状況だった。そんなときに、予期しなかった大量の食糧を金一が手に入れてきたので、全部隊がそのおかげをこうむることになった。わたしとしては、まったくありがたいかぎりだった。その後、金竜屯の住民は、革命軍への恩返しだといって、4、5回も援護物資をかついで馬塘溝密営を訪ねてきた。

 部隊の食糧が切れると、金一はいつも率先して隊員たちを率い食糧工作に出かけた。また彼は、敵地での地下工作を終えて帰るたびに、袋に米をつめてかついできた。自分は食を抜いたり粒トウモロコシを食べながらも、わたしには、いつも米の飯を食べさせようと、たいへん気をつかった。金一の背のうがいつも人一倍大きく重かったのは、食糧の予備を入れていたからだった。

 金一はいかなる場合にも、自分のことより同志と隣人のこと、党と革命の利益を先に考えた。彼は長いあいだ党と国家の高位にあったが、特典や特恵、特待がほどこされるのを望まなかった。下部の者が特別待遇をしようとすると、絶対に許さなかった。

 金一は解放後も、抗日革命闘争のころのように、忠実にわたしを補佐してくれた。彼は、わたしの望むことであれば、どんなことでも骨身を惜しまなかった。党活動、軍建設、経済指導と持ち場や分野を選ばず、複雑な国事に黙々と専心した。

 どの年だったか、金一は党中央委員会政治委員会で、自分を清川江火力発電所の建設現場へ全権代表として派遣してほしいと要請した。当時、清川江火力発電所は、国家的な投資と関心が集中していた重要なプロジェクトだった。それだけにわたしも、工事の指揮を担当できる人物をそれとなく物色している最中だった。しかしわたしは、彼の要望を慎重に考慮せざるをえなかった。かなり健康を損なっていたからである。彼が以前のように自分の体を顧みず、仕事に熱中しては、どんなことが起こるかわからなかった。ところが、金一があまりにも強く要望するので、聞き入れざるをえなくなった。その代わり、工事現場に行っては顧問役として督励する程度にし、絶対に無理してはならないという条件をつけた。現場に着いた金一は、すぐさま仮設バラックに事務室をかまえ、7、8階のビルに相当する高い階段を毎日数十回も上り下りしながら、建設を急ピッチでおし進めた。彼は大晦日まで現場にとどまって昼夜兼行の奮闘をつづけ、1号ボイラーに点火されるのを見届けてから平壌にもどり、わたしにその間の活動報告をした。

 金一は、こういう人間だったのである。彼が物故する3日前まで執務室で仕事をし、所属の党細胞で党生活を総括し、党中央委員会の責任幹部を呼んで、金正日同志を忠実に補佐するようにと頼んだことは、全国が知る有名な話である。

 金一が終生わたしを心から敬い慕ったように、わたしもまた最後まで彼を肉親のように大切にし愛情をそそいだ。山中での遊撃戦のころの苦労がたたってか、金一は、その大柄な体躯に似合わず、たびたび病魔におそわれた。一時、医師たちは、彼に胃癌という恐ろしい診断までくだしたことがあった。それを聞いたわたしは、心痛のあまり、予定してもいなかった平安南道温泉地方への現地指導に出かけた。平壌にいては、仕事が手につかず、食事もとる気にならず、心をしずめるすべがなかったからである。

 金一までこの世の人でなくなったら、わたしのそばで話し相手になってくれる人はいくらも残らなくなる。ところが多くの医師がひとしく、金一の病を不治の病だと言うのだから、まったく救われない気持ちだった。癌でないと主張する医師は1人しかいなかった。多数の意見に従うのがつねであったわたしも、その日ばかりはなぜか、その医師の診断にすがりつきたい気持ちだった。わたしは、途中で車を止め、外相に電話をかけ、癌分野の権威者だというソ連の名医を至急招請するよう指示した。外相の電報を受けたソ連当局は、我々が指名した医師をすぐ派遣してくれた。金一を診察したソ連の医師は、癌ではなさそうだという結論をくだした。彼らは、金一をソ連に連れて行って他の名医にも診察させたが、その医師もやはり癌でないと診断した。もしあのとき、癌だという最初の診断にしたがって胃を切除してしまったなら、金一は命を長らえることができずに終わっていたであろう。

 金一が病気にかかったと知らされるたびに、わたしは彼に会い、きみはわたしのためにいなくてはならない存在だ、いまはもうわたしと抗日革命をともにした老闘士が幾人も残っていないのに、きみまでいなくなったら、さびしくて我慢できないではないか、あまり無理をせず、体に気をつけてほしいと頼んだものである。しかし、金一は重病にかかり杖に頼って歩くような状態になっても、執務室や生産現場を離れず、党と革命のために一つでも多く仕事をしておこうと情熱を燃やした。そうして不治の病にかかったのである。いつか、彼はなにを思ったのか、病気が治ったら来年の4月15日には万景台へ行って、ローラーコースターに乗ってみたいと言うのだった。それを聞いて、わたしはなんとなく胸騒ぎがした。平素口数の少ない人が、そんな心の内までうち明けるのをみると、もしや自分の余命がいくばくもないことを予感しているのではなかろうかという思いがした。案にたがわず、金一はその年の大晦日の、子どもたちの迎春公演も観覧できなかった。それでその夜、わたしは金一の家を訪ねた。

 「毎年、きみと一緒に迎春公演を観覧したのに、今夜はきみがいないので、涙がこぼれてどうにもしかたがなかった。それで訪ねてきたのだ」

 ベッドに横たわっている金一にこんなことを言って腰をあげると、逆に彼が玄関まで付き添ってきて、「お願いですから過労は避けてください。絶対に無理をしてはいけません」と重ね重ね頼むのだった。その夜、わたしは金一の体に障るのではないかと、新年の祝杯もあげることができなかった。それが、いまなお心残りでならない。わたしが帰ったあと、金一もやはり、わたしと祝杯をあげなかったことを後悔したという。祝杯をあげたからといって、彼の病気が治るわけでもなく、また、わたしの気持ちが晴れるわけでもない。けれども金一を思い出すたびに、いつも、このことが、わたしの心をうずかせるのである。

 金一はわたしに対するときと同じように金正日同志に対し、わたしへの信義を守るのと同様に、金正日同志への信義を守った。金正日同志への金一のひとかたならぬ敬慕の情に、わたしが感服させられたのは一度や二度ではない。金正日同志が中国訪問を終えて帰ってきたとき、杖をつきながら駅頭まで迎えに出た金一の姿を見て、指導者にたいする彼の真摯な態度に強く心をうたれた。

 金正日同志も、金一を革命の先輩として格別に尊敬し愛した。金正日同志はつねに、金一副主席同志は、抗日武装闘争当時から、わが党の強化発展と革命勝利のために誰よりも敢然としてたたかってきた共産主義的革命闘士の模範だとしておし立て、あたたかく見守った。わたしが金一をわたしの右腕としたように、金正日同志もまた彼をわたしの右腕とみなしていた。金一が死去したとき、金正日同志がいちばん悲しんだのもそのためだったと思う。

 抗日革命闘士は、指導者への信義を守るうえでのみでなく、革命同志への信義を守るうえでも最高の境地を開いた。愛には愛をもってこたえ、信頼には信頼をもってこたえ、恩恵には恩恵をもって報いるのが抗日遊撃隊員の信義であった。

 黄順姫と金戊Mの友情は、抗日遊撃隊員のあいだで発揚されていた共産主義的信義のモデルともいえる。わたしは黄順姫を見るたびに、あんなに小さくて繊弱な女性が白頭山の寒風のなかで、どうして10年間も武装闘争をつづけることができたのだろうかと考えたりする。解放後、平壌に帰り、国内の人士に、黄順姫を10年間も遊撃闘争に参加した女性だと紹介すると、なかには信じられないと言う人もいた。朝鮮人民革命軍部隊には、黄順姫のように小柄な女性隊員はあまりいなかった。それでも彼女は、不屈の闘志で革命に参加した。体躯が堂々としているからといって必ずしも革命に忠実で、信義をよく守るわけではない。林水山は黄順姫に比べれば体が2倍以上の大男だったが、困難に耐えきれず節を曲げ、同志への信義も裏切ったのである。これに反し、黄順姫は祖国が解放される日まで、革命活動をいっときも中断しなかった。信義と信念に徹していれば、平凡な女性でも革命にのりだし、金今順のような少女も節操を守って断頭台をも恐れないのである。黄順姫があれほど小さな体で最後まで革命をつづけることができたのは、信念が強く信義に徹していたからである。

 わたしが軍服姿の黄順姫をはじめて見たのは、迷魂陣密営だった。女性隊員の兵舎は以前、山林部隊(中国人反日部隊)が使っていた中国式のもので、炕(かん=オンドル)の床がたいへん高かった。そこに腰をおろして見おろすと、見覚えのない小さな娘が、廊下に立って物言いたげにわたしを見つめていた。ほかならぬそれが、1週間もねばって入隊を許され、部隊のしんがりについて迷魂陣までやってきた黄順姫だった。正直な話、そのとき、わたしは彼女が児童団員だと思ったのだが、遊撃隊員だと自己紹介されてびっくりしてしまった。

 「まだ背も小さいのに、どうして遊撃隊に入ったんだい」

 わたしがこう尋ねると、黄順姫は、日本帝国主義者に虐殺された父親と戦場で倒れた姉の仇を討つためだと答えた。黄順姫の兄の黄泰雲も崔賢部隊の中隊長を務め、寒葱溝戦闘で戦死した。

 入隊初期の黄順姫は、部隊の重荷になった。しかし、やがて彼女は、戦友たちに愛される革命軍の華となった。負けずぎらいで分別があり、原則を通しながらも人情味があり、信義に厚かったからである。

 金戊Mは生前、黄順姫の犠牲的な努力で死地を脱した1940年春の出来事を折にふれ回想したものである。ある日、黄順姫は、崔賢連隊長から、後方密営へ行ってしばらくのあいだ負傷兵と老弱者の面倒をみる任務を受け、一行とともに富爾河方面へ向かった。一行の大部分は負傷兵だった。それにもまして、いちばん困ったのは、臨月の身だった金戊Mが行軍途上でお産をしたことだった。ところが、産婦には生まれる子のための支度がなにもできていなかった。おむつはおろか、赤子を包む一片の布もなかった。黄順姫は、自分の綿入れを脱いで赤子を包んでやった。そうしているうちに、「討伐隊」が発砲しながら一行を追いつめてきた。戦友たちを見まわしていた金戊Mは、どうせ生かせそうにない子なのだから捨てていくと黄順姫に言った。そう言いながらも、赤子を抱いたまま起き上がろうとしなかった。それを見た黄順姫は、なんということを言うのだ、わたしたちがこうして苦労をしているのは、なんのためなのか、すべて次の世代のためではないか、子どもを捨ててわが身の無事を願うくらいなら生きてなんになるのかと叱りつけ、産婦の腕からやにわに赤子を抱きとった。そして山の背に駆け上がり、人目につかない小松の茂みに隠した。それで、産婦も銃を手にして黄順姫の後に従った。

 しばらくして、黄順姫が山の下へ荷物を取りに行ってもどってくると、金戊Mが空を見上げて涙ぐんでいた。どうしたのか、赤子は見えなかった。黄順姫がわけを聞こうと彼女に近づいたとき、間近でまた銃声が響いた。2人は一行とともに応戦しながら山から山へ、谷間から谷間へと追跡する敵をかわして2日間も走りつづけた。こうして、「討伐隊」の追撃を完全に振り切ったとき、金戊Mは失神してどっと倒れてしまった。黄順姫はほうろうの器で湯を沸かし、それを彼女に飲ませようとしたが、どうしても口が開かなかった。仕方なしに、さじを歯のあいだに差し込み、やっとのことで湯を口にふくませた。金戊Mは生き返った。そのとき黄順姫は、赤子はどうしたのかと尋ねた。ある草むらのなかに置いてきたことがわかり、彼女は遠い道を取って返し、「討伐隊」と戦火を交えた山へ行った。だが、あわれにも、赤子はすでに冷たくなっていた。自分の赤子のために、ひとえの上衣のままで遠くへ行ってきた黄順姫を見て、金戊Mは、せいぜい1、2時間しか生きられないと知りながらも、その子を包んだ綿入れをもってくることができなかったと詫びた。

 「お姉さん、わたしたち大人には綿入れなんかどうでもかまいませんわ。名も無いまま死んでいったあの子に、寒い思いをさせなければそれでいいのです」

 空腹と寒さのために体をわななかせながらも、黄順姫はこう言って彼女を慰めた。

 金戊Mは、そのときの黄順姫の友情を終生忘れなかった。臨終をまぎわにしたある日、彼女は病床を見舞った黄順姫に、こう言った。

 「順姫、わたしはもう駄目だわ。わたしは、あなたのおかげで富爾河で死なずに一生、金日成主席の恩顧をたまわって生きてこられたわ…。パルチザン当時のように、あなたと一緒に寄りそって寝てみたいわ」

 その日、2人は迷魂陣でのように、寝床をともにして夜通しパルチザン時代の思い出を語り合った。

 「苦難の行軍」のとき、長白で入隊した新入隊員が夜、焚き火のそばに寝て軍服を焦がしたことがあった。焦げ方がひどくて素肌の半分もかくせない有様だった。彼は、そんな格好で行軍の初日から体を震わせながら隊伍に従った。戦友たちはみな同情し心配もしたが、助けようがなかった。誰もが着たきりだったからである。

 あつい同志愛の持ち主だった李乙雪は、その姿を見かねて、ある日、自分が着ていた軍服の上衣を脱いでその隊員に差し出した。新入隊員はびっくりして彼を見つめた。

 「あなたは、なにを着るつもりで…」

 「おれは遊撃隊の生活に慣れているから、ちょっとやそっとの寒さではまいらないよ」

 「いや、わたしの不注意で服を焦がしたのに、あなたの服を着ては面目ない」

 新入隊員は、なかなか彼の好意を受けようとしなかった。口だけでは意地をはる相手をどうしようもないと思った李乙雪は、力ずくで彼の服をはぎとり自分の上衣を着せた。彼にこんなことができたのは、新入隊員を助けるのが先輩隊員としての当然の道義だと考えたからである。

 戦友たちはみな、李乙雪がその冬を耐えぬけないだろうと思った。警護中隊のなかでも若年で、体質も弱いほうだったからである。満州地方に1、2年でも住んだことのある人なら、その冬のきびしさがどんなものかは知っているはずである。寒い日は、頭髪に霧氷がこびりつき、手でそっと触れると、つららのようにぽきりと折れる。そういう厳寒のさなかに、おおまかに繕った穴だらけの夏服で幾日も行軍をつづけるというのは、奇跡にひとしかった。けれども、李乙雪は寒いという言葉を一度も口にせず、行軍のたびに先頭に立って雪をかき分けた。宿営地ではいつも彼が真っ先に薪を集め、テントを張った。そして、機関銃班の仕事を終え、戦友たちが焚き火を囲んで座るのを見てから、自分の靴を焚き火にあてるのだった。

 李乙雪の強靱な意志と同志的信義は、天性のものなのではない。彼は、民族がなめている受難と苦痛を生活のなかで体験するうちに、搾取され抑圧される人びとへの同情心をいだくようになり、人民を愛し、同志を愛し、隣人を愛することを学びとったのである。

 李乙雪は南牌子会議以後、警護中隊の機関銃班に配属されて機関銃副射手を務めた。それ以来、彼は司令部の護衛にすべてをつくした。彼は一生銃を手離さず、いついかなる時にも変わることのない姿勢でわたしを護衛してきた警護隊員だった。わたしは、北大頂子会議で「苦難の行軍」を総括するとき、李乙雪を同志愛の模範とし、その品性と同志的信義を高く評価した。『鉄血』の編集チームも、その創刊号で彼の模範を称賛した。

 朝鮮人民革命軍が強かったのはなぜかと問われるたびに、わたしは、信義によって結束した集団だったからだと答えてきた。我々の団結が道徳と信義にもとづかず、ただ思想・意志の共通性によるものだけであったなら、我々はこれほど強くはなかったであろう。正規軍の支援もなく、国家的後方もない最悪の状態で、日本帝国主義のような強敵を相手にした長期にわたる革命戦争で我々が勝者になりえたのは、決して兵力が多かったり武器がすぐれていたからではない。数百万の正規軍を擁する敵に比べれば、我々の兵力は物の数ではなかった。彼我の武装には、比べるまでもない大きな差があった。ひとえに、忠誠と信義によって結合した思想・意志の結束があったからこそ、我々は強敵を打ち倒すことができたのである。

 幹部と党員たちは、革命にたいする林春秋の忠実性と信義に見習う必要があると思う。彼は、党と領袖への信義を高い境地で具現した闘士であった。わたしが林春秋とはじめて知り合ったのは、1930年の秋、彼が朝陽川で逢春堂薬局の主人という看板を使って間島地区党および共青書記処の連絡任務を果たしていたころだったが、これについてはすでに簡単に触れた。それ以来、彼は延々60年近い年月をひたすら革命にささげてきた。「永遠なる同行者、忠実な援助者、りっぱな助言者」という名句は、金正日同志がインテリに与えた評言であるが、これは林春秋のような人にぴったりの言葉である。

 林春秋は、知識をもって朝鮮革命に大きく貢献した人物である。彼は、知識を元手に、党建設活動や軍医活動、それに著述活動もした。彼の生涯は、そうした活動に終始した。林春秋の才能のうちできわだっていたのは、独学で修得した医術だった。彼が18歳で医師の免許状を得て「開業」したといえば、いぶかしく思う人もいるだろう。しかし、それはまぎれもない事実なのである。彼は医師の肩書きで大衆を啓蒙し、連絡任務や革命家の育成にもあたった。彼が八道溝付近の竜水坪村へ行っていたときも、多くの人を推薦して遊撃隊に送ったというから、彼の医術がどんな性格のものであったかは推測するにかたくないと思う。

 林春秋が遊撃区に来たとき、革命組織は彼を軍医に任命した。軍医として活動するあいだ、彼は多くの戦傷者や病人を治療した。14、5歳のころから農作のかたわら独学で修得した医術だというのに、臨床成績は上々だった。彼に1、2度治療してもらった人たちは、口をそろえて彼を名医だとほめた。林春秋を名医だといっていちばん引き立てたのは崔春国だった。崔春国が重傷を負ったとき、その手術を担当したのが、ほかならぬ林春秋だったのである。満州国軍に遭遇して、不幸にも敵弾を受けて大腿骨が砕けた崔春国の傷口を見た人たちは、異口同音に足を切断しなくては命が危ないと言った。だが、林春秋はそれに同意しなかった。足を切断してしまえば、遊撃隊指揮官としての責務を果たせなくなるのはもちろん、一個人としても不自由な体になるからである。彼は、崔春国が1万の敵兵にも替えがたい有能な軍事指揮官であり、わたしがもっとも大事にしていた革命軍の猛将であることをなによりも重視した。彼は、崔春国の大腿部の切開を最小限にとどめ、砕けた大腿骨のかけらをコッヘルで摘み出す方法で手術をした。こうして崔春国は、1年後に大地を闊歩できるようになった。手術した方の足が短くなって多少引きずりはしたが、それでも行軍に加わり、戦闘の指揮にもあたった。林春秋の大胆な手術が大いに効を奏したわけである。

 わたしも第1次北満州遠征を終えて三道湾能芝営にあった東満党書記処を訪ねたとき、林春秋にいろいろと世話になった。彼は毎日のように効能のある薬草や滋養物をもってきては、誠意をつくしてわたしを介護してくれた。崔賢、呉振宇、曹亜範、曹道彦などの傷も彼の手当てを受けて全治した。

 1937年の秋から翌年秋までの丸1年、林春秋は、金川県と臨江県、濛江県竜泉鎮の大森林地帯に点在する人民革命軍の密営を巡り歩き、戦傷者たちの治療にあたった。往診に出かけることが多かったが、その半径はたいてい数里に及んだ。いまでは医師が往診や衛生宣伝に出かけるときは救急車や乗用車などを利用しているが、抗日戦争当時の軍医にはそんなぜいたくはできなかった。往診に出歩いて、「討伐」にでもあわなければ幸いだといえた。

 いつだったか、林春秋は、敵の「討伐」にあって九死に一生を得たことがある。黄溝嶺戦闘の戦利品のなかから崔賢がくれた綿入れの軍服1着を背のうの後ろに結いつけて峠を登っていたが、不意の機銃掃射に見舞われた。「討伐隊」の難を逃れたあとで背のうを開いてみると、なんと弾丸が7発も突きささっていたという。背のうに綿入れがなかったら、間違いなく命を落としていたことだろう。

 抗日戦争当時の林春秋は、党活動家としての対人活動やオルグとしての活動、それに著述活動も積極的におこない軍・民教育に大いに寄与した。わたしは林春秋とたびたび接触しているうちに、彼に政治活動家の資質があることを知った。事実、彼は入隊以前に延吉地方で大衆団体の活動家として、大衆を教育し指導した経験をもっていた。その点を考慮に入れ、わたしは彼に軍医の仕事とともに党活動もまかせた。彼は、朝鮮人民革命軍党委員会委員、警護連隊党書記を務め、東満党工作委員会の活動にもたずさわった。

 東満党工作委員会は発足後、わたしの期待どおりには活動していなかった。それで、わたしは南牌子会議の後、林春秋を東満党工作委員会の責任ある地位につけた。この工作委員会は、間島地方の党組織と大衆団体を拡大して人民の組織的結束をはかり、武装闘争の基盤を強化する一方、党創立の基礎をうちかためることを使命としていた。東満党工作委員会は、長白県党委員会や国内党工作委員会と同じような使命を果たした。東満党工作委員会の主な活動舞台は、間島と咸鏡北道一帯であった。遊撃根拠地の解散後、間島地方の党組織はいずれも東満党工作委員会の傘下に入っていた。

 林春秋はわたしとの連係のもとに、茂山、延社一帯と東満州地方に多くの政治工作員を派遣し、党組織と大衆団体を拡大していった。小哈爾巴嶺会議以後、汪清、延吉、敦化、琿春、安図、和竜一帯での小部隊活動のころ、我々は東満党工作委員会によって結成された革命組織の援助を少なからず受けた。それらの組織が基本となって、我々の活動を各面からよく支援してくれた。

 林春秋は、抗日革命当時の党活動経験を生かし、解放後の党建設活動でも大きな足跡を残した。最初は平安南道党委員会の第2書記を務め、のちには江原道党委員会の委員長を務めた。彼が江原道党委員長を務めているあいだ、境界沿線での活動には万事遺漏がなかった。解放直後、わたしは抗日革命闘士たちに、できるだけ高い地位を与えないことにしていた。ほとんどの高位職は、国内の人士と海外で革命活動にたずさわって帰国した人たちに与えた。わたしと一緒に武装闘争の試練をへてきた人たちに、有能な人材が少なかったからではない。各階層の人士をすべて結集する統一戦線の政治のためには、そういう措置が必要だったのである。にもかかわらず、北朝鮮に5つの道党しか存在しなかった当時、林春秋に限って江原道党委員長の職責をまかせたのは、彼の党活動経験を重くみたからである。

 林春秋の活動のうち、わたしがことさら感懐を新たにするのは、彼の著述活動である。彼は、多くの書物を著して次の世代に残した。『抗日武装闘争のころを回想して』をはじめ、彼が残した著書のなかには、国宝としての価値を有するものが少なくない。林春秋が本格的な文筆活動をはじめたのは、『3.1月刊』の名誉記者になってからのことである。彼の文章は、朝鮮人民革命軍の隊内機関紙・誌にたびたび掲載された。『3.1月刊』に載った「満身創痍の日本経済」という文章は問題作と評された。林春秋は、戦闘、行軍、治療と息つく暇もない困難な環境のなかでも、寸暇を惜しんで毎日のように我々の活動内容をそのつど記録した。紙がなくなると、白樺の樹皮を手に入れてでも、朝鮮人民革命軍の闘争日誌を整理した。その日誌が、『抗日武装闘争のころを回想して』の基礎資料になったということは、林春秋自身もかねがね述懐している。

 魏拯民は生前、林春秋に朝鮮人民革命軍の活動史を書くよう何度もすすめたという。党活動も、軍医の仕事も、名誉記者の活動もやるべきだということは言うまでもない、しかし、それに劣らず果たすべき重要な使命は、朝鮮パルチザンの活動史を書くことだ、これを肝に銘じるべきだ、たとえ他の隊員たちが決戦にのぞんで全員討ち死にするとしても、きみは生き残ってこの使命を果たし、自分の司令官の業績と自軍の闘争史を後世に必ず伝えなければならないと力説したという。

 林春秋は警護連隊の党書記の時期に、魏拯民のもとに長くとどまって彼の活動を補佐し、病気の治療にもあたった。それで魏拯民は、彼と一緒にいることを喜び、いつもそばにいてくれるよう頼むのだった。林春秋は、わたしと魏拯民の連係を保ち、朝鮮人と中国人の友好を強め、両国武力の共同戦線を強化するうえできわめて重要な役割を果たした。

 林春秋が著した『抗日武装闘争のころを回想して』をわたしがはじめて手にしたのは、1950年代の末ごろだった。当時は、まだ朝鮮人の頭に事大主義の影響がかなり残っていた。そのうえ革命伝統教育が不十分で、人民と青少年のあいだには、我々の武装闘争の歴史がほとんど知らされていなかった。少なからぬ幹部は『ソ連邦共産党略史』については、『イスクラ』がどうの、ブハーリンがどうのと、そらんじるほどだったが、南湖頭でどんな会議が開かれたのかと問うと、はっきり答えられない有様だった。こういうときに『抗日武装闘争のころを回想して』が出版され、人民の面前にはじめて抗日革命の輪郭を描き出してみせたのである。それ以来、この著書は、抗日革命史の研究になくてはならない原典となった。林春秋は、この書物を著すことによって、抗日革命に参加したすべての共産主義者と愛国的人民にたいする信義と義務を果たそうとしたのである。彼は、自分自身を顕示したり、自分の功をひけらかすためにではなく、朝鮮人民の万年大計の財富となる革命伝統を次代によりりっぱに継承させ、完成させようという気高い目的をもってこの書をものしたのである。

 林春秋は、金正淑、金哲柱の活動を基本内容とする回想記をはじめ、わが党の革命伝統と関連する多くの図書と教育資料を書いた。そして、多くの資料を考証し体系づけ、わが党の歴史に輝く偉勲を立てた。彼は、青年共産主義者をモデルにした『青年前衛』という多部作の長編小説まで書いた。

 わが党はいま林春秋を、我々が切り開き、勝利に導いてきた抗日戦の輝かしい革命史の権威ある立証者、有力な保証者と評価している。この評価は、正確かつ正当なものだと思う。

 正直なところ、林春秋は、困難な抗日革命に参加せずとも、医術だけで十分生計を立てられる人だった。けれども、彼は数十数百回もの死線をくぐりぬけながらも、革命の道から一歩たりとも退いたことがなく、領袖と同志たちへの信義に一度も背いたことがなかった。彼は竜井監獄にとらわれていたとき、自分は死んでも革命は勝利すると考え、自分一個人は死ぬことがあっても、革命組織と同志たちはなんとしてでも保護しなければならないという観点から野蛮な拷問に耐えぬいた。しかし、革命を裏切った者たちは、自分が死んでしまえば革命も無意味だと考え、組織と同志たちに累を及ぼしてでも自分は生きなければならないとして拷問に屈した。これが、真の革命家とえせ革命家の違いなのである。

 わたしは、林春秋が信義に忠実な人間であるということを解放後、いろいろな事実を通じていっそう深く知ることができた。彼が延辺朝鮮族自治州の成立準備のため中国東北地方へ全権代表として派遣されていくとき、東満州へ行ったら抗日革命烈士の子女たちを1人でも多く探し出して祖国に帰すよう頼んだ。林春秋は、中国人民が苦しい国内戦争を進めているとき、前線援護と政権機関の組織、教育事業の基礎づくり、各階層人士との活動など多忙な日々を送りながらも、抗日革命烈士の子女を残らず探し出して祖国に帰した。さらには、符岩洞時代の知己であり革命戦友でもある金正淑の兄弟を探そうとして新聞広告まで出した。幹部協議会を開くときは必ず、祖国に革命家遺児学院が設立されることを知らせ、1人でも多くの遺児を探そうと、みずから遠出の身支度をととのえ、間島に散らばる村落を足が棒になるほど訪ね歩いた。

 ぼろをまとった見すぼらしい姿の子どもたちが広告を見てやってくるたびに、林春秋はその子らをしかと抱きとめ、「おまえは誰それの息子だったな。おまえは誰それの娘だね。金日成将軍が、どんなにおまえたちを探しているかわからないだろう」と言って、子どもたちに頬ずりをしたという。そうして、1人また1人と探し出した遺児が数十名になったとき、彼は喜びを隠しきれず、「将軍、第1次として、探し出した遺児たちを連れてただちに祖国にもどります」と打電してきた。わたしはその短い電文から、革命戦友への信義を守った林春秋の心の高ぶりと喜びを感じとることができた。

 林春秋は多数の遺児と革命烈士の遺族を探し出し、祖国のふところに抱かせた。そのとき学院に入学した子どもたちが、いまは党中央委員会政治局委員になり、道党委員会責任書記や人民軍の将官にもなって、各自の任務をりっぱに果たしている。

 祖国解放戦争の時期、林春秋はひところ地方で活動したことがあるが、保健省主管の会議に出席するため平壌に来るたびに牡舟峰に登り、抗日烈士の眠る墓地の芝生に白い布を敷いて仮寝の夜を過ごしたという。市内の旅館などには、最初から泊まろうとさえしなかった。当時の牡丹峰には、金策、安吉、崔春国、金正淑らの墓があった。野天で、それも前後左右に戦友たちの眠る丘の上で、白布1枚に体を横たえる露宿なのだから、眠れるはずがない。それでも林春秋は、平壌に来ると決まって牡丹峰へ登り、戦友たちの横に寝床をとるのだった。そして、後日彼から聞いたことだが、「戦友たちよ、祖国がきみたちをもっとも必要としているときに、どうして、ここに眠っているのだ。将軍はいま、朝鮮の運命を双肩にになって孤軍奮闘している。それがわからないのか」と、墓場の戦友たちとこもごも語り合ったという。

 祖国と人民の運命を決する瀬戸際にあったときなので、牡丹峰の草木の陰に抗日烈士の霊が眠っていることに気をとめる市民はそれほどいなかった。まして、大柄ないかつい男がときおり、その霊を抱いて夜を過ごし、明け方、牡丹峰の丘をおりてくるのを知る人はいなかった。

 わたしはそんな話を聞いて、林春秋こそは、信義に厚い真実の人間であり、闘士であると思った。これが、わたしの言わんとする抗日遊撃隊式の信義である。この世には、人間の信義と愛にまつわる美談がいくらでもある。しかし、抗日革命闘士たちのそれをしのぐ崇高かつ真実で美しい信義をわたしはいまだに知らない。

 林春秋はいつも、自分を金正日同志の老いたる弟子と称し、その指導を受けようと意識的に努力した。金正日同志もまた、林春秋を心から愛し尊敬した。金正日同志はいつも、林春秋同志が無事でいてくれるだけでも、わが党と国家にとっては貴重な宝になるとして、彼を手厚くいたわり、見守った。林春秋への金正日同志の格別な関心と配慮には、老革命家にたいする指導者の高潔な信義が反映されている。それは、白頭山ではぐくまれた抗日遊撃隊式の信義である。しかし、すべての人が、革命的信義と節操を守りとおしたのではなかった。部分的ではあったが、我々の隊伍からは裏切り者や落伍者も出た。

 口を開けば革命を唱えていた者が変節したという話を聞かされると、隊員たちはみな失望したものである。昨日まで『インターナショナル』を口ずさみ、革命の勝利を言いたてていた者が、にわかに敵の手先になりさがるとき、兵士、指揮官たちが味わう苦痛と挫折感はなんとも表現しがたいものだった。

 しかし、幾人かの裏切り者が出たからといって、10年かけて築いた城壁が崩れ去るものではない。我々は、隊伍の思想・意志の統一と道徳的・信義的結束の強化をもって敵の白色テロにこたえた。我々には、それ以外に勝つ道がなかったのである。



 


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