金日成主席『回顧録 世紀とともに』

6 銃をとった少年たち


 人民革命軍の白頭山地区進出の余波のうちで特筆に価するいま一つの出来事は、青少年の入隊熱だった。鴨緑江沿岸の森林や谷間で銃声がこだまするたびに、我々の密営には、入隊を志願する青年がひっきりなしにやってきた。入隊志願者の増加につれて、興味深い出来事もいろいろと起きた。

 あるとき、顔が浅黒く、びしょぬれのズボンをはいた蓬髪の少年がわたしを訪ね、兄の仇を討ちたいから入隊させてくれとせがんだ。上豊徳の少年だった。村で青少年の夜学教師をしていた長兄は、遊撃隊に食事を提供したことが発覚して警官に虐殺され、次兄は普天堡戦闘直前に将軍の部隊に入隊している、それで、自分も革命軍を訪ねてきたと言うのである。少年の名は全文燮(チョンムンソプ)といった。

 わたしは彼に、きちんと乾いた服を着てくる青年もみな入隊させることができないでいるのに、濡れた服を着てくるような腕白小僧を入隊させることはできんと冗談めかして言った。すると全文燮は、濡れたズボンをはいてきたのは母のせいだと言うのである。全文燮が上豊徳に来た遊撃隊についていくと言うと、母親は、おまえはまだ小さいから駄目だとはねつけ、彼が眠っているあいだにズボンをたらいにつけてしまった。着たきりのズボンを濡らしておけば、着替えがないので遊撃隊についていけないだろうと思ったのである。全文燮はあわてた。彼の革命軍入隊は、少年会組織で決まっていた。革命軍に入隊できるなら裸のままでも白頭山へ一気に駆けていきたい思いだった全文燮は、早朝、たらいのズボンをざっと絞ってはき、家を発とうとした。それで、母親も息子の遊撃隊への入隊を許したという。

 これは、鴨緑江沿岸を中心に、朝鮮の北部国境一帯と西間島の広い地域で高まっていた入隊運動がどれほど過熱していたかを示す一つの例であった。全文燮の例が示すように、この運動には20代、30代の青年ばかりでなく、10代の少年も参加した。最初、隊列補充担当の指揮官たちは、そんな少年が来ると取り合おうともせず、頭からはねつけて追い返した。当時我々の部隊の兵士や指揮官は、14、5歳の少年が銃をとって武装隊伍に加わっても、ともに戦えるとは思っていなかった。子ども好きの金平ですら、そんな少年が志願してくるとかぶりを振ったものである。

 部隊が地陽渓台地にとどまっていた1937年夏のある日、小銃の丈にも及ばない小さな子どもたちが20名ほどやってきて、入隊させてくれとせがんだので、彼は当惑してわたしにどうしたものかと尋ねてきた。

 「もう少し大きくなってから来るようにと、いくら言って聞かせても駄目なのです。しまいには、将軍に会わせてくれ、将軍に会うまでは帰らないとまで言い出すしまつです」

 わたしは少年たちのところへ行き、彼らと話をした。みんなを倒木に座らせて、名前や年齢、父親の職業から居住地まで一人ひとりに尋ねた。一言質問するたびに、彼らは、はじかれたように勢いよく立ち上がって答え、その誰もが自分を大人っぽく見せようとりきんだ。彼らは、いずれも敵の「討伐」で親兄弟や近い親類が虐殺される惨劇を目撃し、復讐を誓って銃をとろうとした少年たちだった。うちとけて語り合ってみると、どうしてなかなか芯が強く大人びていた。世間が険しいと、子どももませてくるというのは本当だった。目にするのは不幸、体験するのは生活苦ばかりなので、朝鮮の子どもたちは年はいかなくても世情に通じていた。革命はたぐいない力と速度で人間をゆさぶり、覚醒させるのである。革命は新しいものを産む学校だと言ったある著名人の言葉には、深い真理が宿っているとみるべきである。

 あのとき入隊を夢見て我々の宿営地へ訪ねてきた20余名の少年はいずれも、波瀾に富むわが民族史の1ページを体現した、もっとも悲惨な受難者たちであった。そんな少年たちが社会改造の重任をみずから担い、大人でも苦しい武装闘争に参加したいと切々と訴えるのを聞いて、わたしは深く感動した。その日、わたしが会った少年のなかには、李乙雪、金益顕、金鉄万、趙明善もいたと記憶している。いまでこそ彼らは、朝鮮人民軍の次帥、大将、上将といった将官になっているが、あのときは、銃をとる資格があるかどうかをはかる検閲台に立たされた少年にすぎなかった。この少年たちをいかにすべきか、こわいもの知らずの幼いタカたちをどうなだめて家に帰したものか、わたしは困りはてた。屈強な若者でさえ力に余り、不断の訓練と修養を積まなければ落伍しかねないのが革命軍生活なのである。

  わたしは、子どもたちにこう言い聞かせた。

 「おまえたちが、親兄弟の仇を討とうと銃をとる決心をしたのは感心なことだ。それは愛国心のあらわれだ。だが、おまえたちは、まだ小さいから革命軍に入隊するのはむずかしいと思う。遊撃隊の兄さんや姉さんたちがどんなに苦労しているか、おまえたちにはとてもわからないだろう。革命軍は、真冬にも山の中で雪を寝床にして寝なければならない。何日も雨にうたれながら行軍するときもある。食べる物がなくなったら草の根や木の皮を煮て食べたり、水を飲んで我慢するのが革命軍の生活だ。わたしの見るところでは、おまえたちはそんな苦労を辛抱できそうにない。家に帰ってもう少し大きくなってから銃をとるのがよいと思うが、どうだろうか」

 それでも、彼らは聞き入れなかった。彼らは、どんな苦労もいとわない、大人たちが雪の上で寝るんだったら自分たちも雪の上で寝る、大人たちが戦うときは自分たちも戦うと言って、あくまでも遊撃隊への入隊をせがんだ。

 わたしはこのときほど、我々に軍事学校のないことを残念に思ったことはない。

 (この可愛い子どもたちをみな軍事学校に入れて訓練し、鍛えることができればどんなにすばらしいだろう。独立軍もいっとき満州各地に軍事教育を目的に士官学校を設けたではないか)

 しかし、それは日本帝国主義者の満州占領以前のことである。日本帝国主義が大兵力を展開した1930年代後半期の満州は、我々に独立軍がしたように軍事学校を設けるゆとりを与えなかった。密営に養成所のようなものを設けて軍事訓練をほどこせないだろうかとも考えてみたが、それも実情にあわなかった。世界のあらゆる「バロメーター」は、日本帝国主義者が新たな発火点を見出して、中国でいま一つの9.18事変を引き起こすであろうことを予告していた。我々は、これに対処し大機動戦を準備していた。こんなとき、10代の少年たちを武装隊伍に受け入れるのは、困難な行軍をひかえて背のうをもう一つ背負いこむようなものだった。だからといって、不利な点ばかりを列挙して頭ごなしに家に帰れとは言えなかった。正直に言って、その少年たちは1人残らずわたしの気に入った。階級的自覚のほどをみても大人に劣らなかった。大人たちがすき腹を我慢するなら自分たちも我慢できるという少年たちの言葉に、わたしはとくに強い印象を受けた。

 口先だけの憂国の志士や、人生朝露のごとしと、無為に歳月を送る革命の裏切り者や堕落分子に比べて、入隊希望がかなえられなければ家には帰らないと頑張るこの子たちは、なんと高潔な精神をもつ熱烈な愛国者であろうか。幼い彼らの入隊志願は、その可否を決する前に花束を贈ってしかるべきことであった。

 わたしは、この闘志にあふれた少年たちを闘士に育てあげたかった。すぐには戦闘隊伍に加えられないだろうが、方途さえ見つければ1、2年内に頼もしい後続隊に育てることができそうだった。1年か2年のあいだに、この少年たちがみな古参の隊員にひけをとらない戦闘員に成長するならば、それこそたいへんな収穫である。睡眠や食事を少し減らすことがあっても、古参の隊員がその気になって取り組めば、少年たちは短時日のうちに屈強な戦士に育つに違いない。わたしは少年たちだけの中隊を編成して、状況が許せば密営で訓練をし、部隊が機動するときは一緒に連れて歩きながら実戦を通して教育し鍛えようと考えた。いわば、軍事学校ないし軍・政幹部養成所の使命を果たしながら、それに実戦教育を結合する特殊中隊を編成しようということだった。わたしは少年たちを入隊させることにして、彼らに宣誓書を書くようにと言った。おまえたちが本当に遊撃隊に入りたいなら、今夜中に宣誓書を書いて出すのだ、なぜ革命軍に入って銃をとろうとするのか、入隊したらどのように生活し戦うつもりかを書くのだ、それを読んでみて決定する、と。

 金平ら大部分の指揮官は、わたしの話を聞いて困惑した。馬鞍山から連れてきた子どもたちだけでもかなりの負担なのに、この子たちまで入隊させたら、それこそ、たいへんなことになると言うのだった。

 翌日、少年たちが提出した宣誓書をみると、決意はみな上々だった。読み書きができず他の子に書いてもらったものもいたが、わたしはそれを問題にしなかった。学校に行けず読み書きを習えなかったのは欠点ではない。みんな宣誓書をりっぱに書いたとほめると少年たちは歓声をあげた。

 わたしは中隊政治指導員以上の指揮官を司令部に集めて、馬鞍山出身の児童団員と今度、西間島から来た子どもたちで少年中隊を編成すると正式に告げた。少年中隊の中隊長には呉日男を、事務長には女性隊員の全姫を任命した。呉日男は、司令部直属の機関銃小隊長を務め、射撃が上手で隊伍の管理にもそつがなかった。彼は、たぐいない忍耐力と闘志の持ち主だった。彼の忍耐力の強さは、口隅水山戦闘のときの逸話がよく物語っている。彼は戦闘中に銃創を負った。しかし、そのことを素振りにも見せなかったので誰も気づかなかった。地陽渓に到着したとき軍服ににじんだ血を見て、みんなが重傷ではないかと騒ぎだした。上着を脱がせてみると、体に銃弾が突きささり、その端がわずかにのぞいていた。それでも、彼は笑っていた。軍医がいないので力の強い姜渭竜に彼の体を押さえさせ、わたしがピンセットで弾丸を摘出したが、思うようにいかなくて脂汗を流した。麻酔もない手術だったが、呉日男はうめき声一つ立てなかった。筋肉にささった弾丸をやっと抜き出し、銃器清掃用のワセリンを塗ったあと後送を命じると、彼は「これくらいの傷がどうしたというのです。もうすぐ敵が追撃してくるというのに、機関銃小隊長が隊伍を離れるなんてとんでもないことです」と言って、とうとう発たなかった。わたしは、呉日男のこうした闘志が少年隊員たちに好ましい影響を与えるに違いないと信じた。

 事務長の全姫も闘志にかけては人後に落ちなかった。年齢は少年中隊員と大差がなかったが、なかなか気丈な女性だった。全姫の家庭事情にくわしい金戊Mは、彼女が10歳のとき祖父の針箱をぶちこわしてしまったほどのきかん気の娘だと話した。 全姫は、10歳のとき母を亡くした。祖父は鍼術に通じ村人たちの治療をよくしたが、嫁の病気は治せなかった。幼い全姫は、母を救えなかった責任が祖父の針箱にあると思い込み、石で針箱を叩きこわしてしまった。祖父が「このあまっ子、このあまっ子めが」と怒鳴ると、彼女は「母ちゃんの病気も治せない針箱なんかいらない」と言っておいおいと泣いた。それで、祖父も全姫を抱きしめてすすり泣いた。翌年、全姫は兄も亡くした。遊撃隊員だった兄は、敵中工作中、2人の同僚とともに逮捕された。敵は、彼らを局子街の裏山で処刑した。3名の闘士は、血が噴き出し骨がくだけるむごい仕打ちを受けながらも、敵の罪状を告発し「革命万歳!」を叫んで雄々しく最期を遂げた。

 幼い全姫も村人たちにまじってその光景を目撃した。兄の英雄的な最期は彼女を感動させた。敵は群衆に向かって、「見ろ、日本に盾突くやつらは、みなこんなざまになる。それでも革命をやるつもりか」と怒鳴った。群衆は口を閉ざしていた。ところが、幼い全姫の口から「革命万歳!」というかん高い叫び声があがった。驚いた敵は、彼女にとびかかり、袋叩きにした。その後、全姫が遊撃区に入ったとき、大人たちが「あのとき、どんなつもりで万歳を叫んだんだい」と尋ねると、彼女は「わたしも兄さんのように死にたかったの。どうせ死ぬんだったら『革命万歳!』と叫んで死にたかったの」と答えた。この短い言葉には早くも、自分の生命よりも革命を先に考える胆力が宿っていた。

 死を恐れない全姫の大胆で勇敢な性格は、少年中隊員たちのよき手本となりえた。わたしは、全姫も呉日男と同様、責任をもって少年中隊員の面倒をみる適任者だと確信した。事務長というのは、いまでいえば人民軍の下士官長のような任務を遂行する職責である。
 わたしが少年中隊の編成を発表したあとも、少なからぬ指揮官は司令部の措置に当惑していた。あの子たちは、我々の足手まといになり、我々の活動に支障をきたすのではなかろうか、あのちびっこたちが果たして、大人でさえ堪えがたい試練にうちかてるだろうかと考えてのことだった。わたしが司令官の権限を発動して少年中隊を編成したのは、少年たちの願いをすみやかに解決するためだった。少年たちの革命への強いあこがれ、親兄弟の仇を討とうという炎のような敵愾心が、なによりもわたしを感動させたといえる。少年たちに会って、遊撃隊の後続隊の育成問題に関心を向ける必要性を感じ、少年たちで特殊な軍事組織をつくれば、それが後続隊の育成問題を解決する一つの方法になるのではなかろうかと考えたのである。わたしは、彼ら少年中隊員と同じ年ごろで遊撃隊に入隊した曹曰男、李成林、崔金山、金沢万、白鶴林など、それまでの伝令が成長した経緯からみて、14〜17歳なら十分、大人と同じ働きができると確信した。

 我々は少年中隊を編成するとすぐ、彼らに軍服を着せ武器を授与した。武器はほとんどが、子どもたちの背丈にあう38式騎兵銃だった。新しい軍服に武器までもらって小躍りしていた少年中隊員の姿を思い出すと、いまでもほほえましくなる。

 わたしは呉日男と全姫に、少年たちを当分のあいだ地陽渓の台地で訓練したあと、七道溝の富厚水密営で集中的に訓練をおこなうよう任務を与えた。遊撃隊生活に必要な基礎知識と基礎動作を1、2か月間で習得させるための速成訓練要綱は、わたしがじかに作成して呉日男に与えた。彼はそれを見て、こんな強度の訓練を子どもたちがこなしきれるか疑問だが、やってみると言った。

 少年中隊は、翌日から地陽渓台地で訓練に入った。そのころ、わたしは中日戦争に対処する方針を構想しながら緊張した日々を送っていたが、時間を割いてしばしば少年中隊の訓練を指導した。訓練場に出向いて模範動作をしてみせたり、早く軍人らしくなるためには歩調教練を熱心にやらなければならない、照準練習のときには標的を敵の胸板とみなければならないなどと訓示したりした。

 地陽渓で少年中隊の訓練が2週間ほどおこなわれたとき、わたしは会議を開くため小白水密営へ向かった。出発に先立って、わたしは呉日男に、少年中隊員を富厚水密営に連れていって訓練をつづけるよう命じた。いざ少年たちを行軍隊伍に立たせるとなると、気がかりな点もなくはなかった。実際、当時の行軍は容易ではなく、苦労のなかで育った子どもたちだとはいえ、安心できなかったのである。富厚水密営は、比較的安全な後方密営で、訓練基地としてはうってつけの場所だった。そこには、少年中隊員が2、3か月は過ごせるほど食糧が十分に貯蔵されていた。わたしはあらかじめ、富厚水に密営を設営し、食糧を準備する任務を金平に与えておいた。少年中隊は、そのおかげを十分にこうむったわけである。わたしが富厚水近くの六道溝密営で敵の背後打撃戦を指揮していたとき、少年中隊員は富厚水密営で猛訓練をおこなった。初水灘と小白水で会議を終えたあと、そこへ行って彼らの訓練を見たわたしは、地陽渓にいたときとは見違えるほど進歩していることにすぐ気づいた。少年中隊を編成した措置が正しかったことは、その訓練を見るだけでも実感できた。驚くほどの成長ぶりにわたしは喜びを禁じえなかった。

 そうしたある日、全姫が司令部にやってきて、だしぬけに「将軍、困ったことになりました。いったいどうすればいいんでしょう」と切りだした。少年中隊でいちばん小さい子が毎晩、家を恋しがって泣くというのである。泣くと聞いて、わたしは驚いた。遊撃隊員といえども家庭を持つ人間である以上、少年中隊員が家を恋しがるのはあたりまえのことだといえたが、そのことで泣いたりするというのでは捨てておけなかった。

 全姫の話によると、その少年は、中隊が八道溝河を過ぎるとめそめそしはじめたという。なぜ泣くのかと聞くと、だんだん家が遠くなるので心細くなってきたと答えた。入隊するときは部隊が家の近くで活動するものと思ったのに、行軍距離が遠くなるので弱気になってきたらしい。

 わたしは全姫に、可愛い子は棒で育てよと言うではないか、少し強く言い聞かせるべきだと言った。全姫は、彼を前に立たせてきつく叱った。ところが、その叱責が反作用を起こした。彼はすっかりむくれて、家に帰してくれと言いだした。わたしは、彼を司令部に呼び、本当に家に帰りたいのかと聞いた。彼はなにも言わず、わたしの顔を見つめるだけだった。それで、わたしはこう言った。

 「どうしてもというなら、家へ帰りなさい。だが、ここから十九道溝までは何十里にもなる。それでも行けるかい」

 「来た道をたどって行けば帰れます」

 答え方からして、だだをこねているのではなく、自分なりにいろいろと考えたうえでのことらしい。わたしは全姫に、少年中隊用の非常米が何升か入っている背のうを持ってこさせ、それを彼に与えた。

 「じゃ、好きなようにしなさい。家まで行くには食べ物がなくてはならないから、これを持って行くんだ」

 それが中隊の非常米であることを知っている彼は目を丸くした。

 「いやです。これを持っていったら、中隊はなにを食べるんですか。ぼくはひとりだから、どうにでも食べていけます。トウモロコシ畑に入って、実をもいで食べればいいんですから」

 「それは、泥棒をするようなものじゃないか。そんなことをしてはいけないから、この米を持っていけというのだ。遊撃隊で何日か生活したのだから、それくらいのことはわきまえなくてはいけない。そうじゃないかね。この背のうを持っていくのだ」

 「みんなの腹をすかせて、ひとりで食べるなんてことはできません」

 彼は、わたしが肩にかけてやろうとする背のうをかたくなにおろした。

 「そんなことを知っているおまえが、血を流して戦う仲間を山中に残し、ひとり家に帰るのが恥だということはわからないのか。おまえはしっかりした子だと思っていたのに、そうじゃなかったんだな」

 ことがここまで及ぶと、少年は泣きだした。この子たちは実際、まだ親の保護を受ける年ごろだった。ここにも日本帝国主義による民族受難の一端をかいまみるような思いがした。だが、ここで彼が家へ帰ればどういうことになるだろうか。少年中隊員のあいだに動揺が起きるだろう。わたしは彼が入隊するときに提出した宣誓書の内容を思い出させて、いま一度言い聞かせた。

 「男子の一言金鉄のごとしという言葉がある。ところが、おまえは、自分自身の誓いを道ばたの石ころのように踏みつけにしようとした。人間はそんないい加減な約束をするものでない。いったん銃をとったからには最後まで戦い、勝って家に帰らなくてはいけない。それでこそ両親にも喜んでもらえるはずだ」

 こうして彼は、家へ帰ろうなどという考えは二度と起こさないと誓った。

 こんないきさつがあったためといおうか、わたしはその後、彼にとくに目をかけた。わたしは、彼の長所が同志愛にあると思った。自分は飢えても中隊の非常米には手をつけられないというその友愛心こそ、白雪やユリの花のように清く美しい同志愛でなくてなんであろう。

 わたしは、同志愛を革命家の資質を検証する試金石と見ている。同志愛は、共産主義者をこの世でもっともりっぱな人間たらしめる人格の核心であり、道徳的基礎であり、共産主義者を他の人間と区別する一つの明白な基準である。もしも、人間に同志愛というものがなければ、その人生は砂上の楼閣のようにもろく崩れてしまうであろう。同志愛の強い人間にはたとえ欠点があっても、それを容易に直す力がある。わたしが十九道溝出身のその少年から発見したのは、この点だった。

 全部隊が、少年中隊員を実弟のようにいたわり親切に面倒をみた。古参の隊員は、彼らを1人ずつ受け持って熱心に教育した。少年中隊員たちに頼もしい後援者が1人ずつついたのである。

 もっとも誠実で積極的な後援者はなんといっても中隊の責任者呉日男だった。彼は、少年のなかに落伍者があってはといつも気をつかった。いつだったか、上豊徳で入隊した「ちびっこ新郎」金洪洙に包足巾を巻いてやっているのを見て、わたしは深く感動した。そのとき、呉日男は金洪洙に「洪洙、おまえは嫁をもらうことではおれの先輩だが、包足巾を巻くことでは後輩だ。だから恥ずかしいと思わないですなおに教わるのだ。だが、おれが嫁をもらうときはそうはいかん。そのときは、おまえがおれの先生になるのだ」と話していた。「ちびっこ新郎」の金洪洙は呉日男に足をまかせて、中隊長の手の動きを注意深く見守っていた。呉日男が格別に金洪洙の世話をしたのは、妻帯者の彼がとやかく人の口の端にのぼらないようにという気遣いからであったに違いない。

 女性隊員たちも、少年中隊員を格別可愛がってなにくれと気を配った。彼女たちも少年中隊員を2、3名ずつ受け持って世話をした。そして、背のうの整頓の仕方から飯の炊き方、焚き火の起こし方、縫い物の仕方、足の裏の水ぶくれの治し方など、生活上のこまごまとしたことを一つひとつ教え、世話をやいた。

 中隊長につぐ熱心な世話人は金雲信だった。彼は、党組織から李乙雪を担当するよう任務を受けたらしい。暇さえあれば李乙雪に付き添って照準練習をさせる彼の熱心な指導ぶりは、他の古参隊員にも好ましい影響を与えた。そのおかげで、李乙雪は名射手に育った。後日、李乙雪が共産党に入党するとき、金雲信はその推薦人になった。

 古参の隊員は、行軍のときも少年中隊員たちをリードした。夜間行軍のときは前の人にぴったりついて歩き、周囲の状況に気を配り、異常があればそのつど指揮官に報告し、休止後の出発にさいしては紙くず一つ残してはいけないなどという常識は、古参の隊員たちが行軍中に彼らに教えたものである。

 わたしも少年中隊に深く気を配った。急流を渡るときは、いつも少年中隊のちびっこたちを背負って渡ったものである。「ちびっこ新郎」金洪洙もわたしにおぶさって川を渡ったことがある。嫁をもらった男が、子どもみたいになんたるざまだと冷やかされても、この天真爛漫な新郎はちっとも気にしなかった。わたしは、少年中隊員と行軍するときは「前方に木があるから気をつけろ」「水溜まりがあるから飛び越えろ」「気をつけて川を渡れ」などとこまかく注意を与えた。

 少年中隊員は、いつもひもじい思いをした。遊撃隊の食事が家庭のそれにまさるはずがなかった。いつだったか、彼らと一緒に長白から臨江に向かって行軍したとき、食糧が足りず、かゆをすすることが多かった。かゆをすすった日は、なお元気がなかった。炊事隊員はいつもわたしの食事を別に運んできたが、わたしはそのたびにかゆの器をもって少年中隊員の食卓に割り込み、かゆを分けてやったりした。きちょうめんな性格の事務長全姫は、ある日わたしのところへやってきて、どうかそういうことをしないでほしい、いつもかゆを分けてやっていたら司令官同志の健康はどうなるのか、どうしてもそうするというなら、自分たちも食事をしないと泣き顔で言った。わたしはこう言って彼女をなだめた。

 「全姫、あまり心配することはない。ちょっと腹をすかしたからといって、どうということはない。しかし少年中隊員の場合は違う。まだ鍛練が足りないのでひどくこたえるのだ。食べざかりの年にかゆばかりすすっているのだから、どんなにひもじい思いをしていることだろう。こんなとき、我々が面倒をみてやらなければ、誰がみるというのだ」

 少年中隊員の成長のために、わたしがもっとも関心を払ったのは思想教育だった。わたしは、暇さえあれば彼らの講師になった。まず、読み書きのできない少年に文字を教えた。少年たちは偉人伝にたいへん興味をもった。それで、偉人伝をよく話して聞かせた。そのあと、朝鮮の亡国史を講義した。彼らのなかには、安重根、尹奉吉、李奉昌のように拳銃や手榴弾をもって歩き、天皇や朝鮮総督を爆殺しようと夢想する空想家もいた。そんな子らには、テロでは国の独立は達成できない、武装闘争を軸にして全民抗争をしてはじめて祖国を解放することができるのだと教えた。そんな少年に我々の革命路線を認識させるには、ねばり強い努力を要した。

 長白から臨江に向かって行軍したとき、我々は数十回も戦闘を交えた。しかし、わたしは少年中隊員を一度も戦闘に参加させず、遠くから古参隊員たちの戦闘を観戦させた。いつだったか、ある少年中隊員が戦場で流れ弾に当たって負傷したことがあった。傷がうずくと、少年は「お父さん、お父さん」と泣きべそをかいた。わたしはそんな様子を見て、あの子の親が息子の銃創を見たらどんなに心を痛めるだろうかと思った。それで呉日男に、少年中隊員は革命偉業を継承すべき宝だから、大事にして面倒をよくみなければいけないと言った。我々は、少年中隊員を掌中の玉のようにいつくしんだ。だからといって、彼らを貴公子のように甘やかしてばかりいたのではない。過ちを犯せばきびしく批判し、古参の隊員たちと生活をともにさせて鍛えもした。

 ある日の夜、宿営地を見まわっていたわたしは、少年中隊員が靴を脱いで寝ているのを発見した。それは規律違反だった。我々は宿営規定をつくるとき、戦闘員が靴を脱いで就寝することを禁ずる条項を加えた。随時、敵の奇襲を受ける遊撃隊生活において、一時の不自由に負けて靴や衣服を脱いで寝るのは自殺行為にひとしかった。それで、指揮官と兵士たちは、宿営地でいつも軍服を着、靴をはいたまま、銃を抱いて寝たものである。事ある時にいちはやく行動を起こせるよう、背のうは枕にして寝た。その夜、わたしは全姫をきびしく批判した。

 「そんな安っぽい人情をもってしては、少年たちを闘士に育てることができない。もし、この瞬間に敵襲があったら、靴を脱いで寝ているあの少年たちはどうなるのだ。足が傷つきもすれば、凍傷にかかる恐れもある。あの少年たちの親は、息子たちを我々にまかせたのだ。だから我々は親兄弟のつもりで、あの子たちの世話をやかなければならない。いまは、胸が痛み、むごいと思えても、将来を思って少年たちを原則的に育てなければならないのだ」

 その夜、わたしの批判に大きなショックを受けた全姫は、数十年後、人民軍副総参謀長の重責を負った趙明善に会った席でこう話したという。

 「あのとき、あなたの足のことでわたしが批判を受けたことを覚えていらっしゃる?」

 趙明善は、かつての事務長が言わんとすることをすぐ悟って感慨深げに答えた。

 「覚えていますとも。わたしが宿営地で靴を脱いで寝たばかりに、全姫同志が…。革命活動の第一歩を踏み出した少年中隊のころでしたね。苦労は多かったが、あのころがなつかしい」

 誰でも幼いころの苦労や他人から受けた愛の思い出は一生忘れられないものである。その追憶は消えることのない灯火となって、ほのぼのと人生を照らしてくれるものである。半世紀を越える年月が過ぎ、当時14、5歳だった少年もいつしか70の峠を越しているが、彼らは実弟のようにいたわり可愛がってくれた同志たちを忘れられないのである。

 古参隊員のあたたかい援助と配慮のなかで、少年中隊員は急速に成長した。彼らは、古参隊員と一緒に戦闘に参加させてほしいと言いだした。少年中隊員が、はじめて参加した戦いは新房子戦闘だった。それ以来、彼らは、古参の隊員と肩を並べて数々の激戦を体験した。その過程でいろいろなことがあった。わたしがいくら強く念を押し、くどいほど注意を与えても、いざ戦闘がはじまると、少年中隊員たちは、大人には想像もつかない突飛なことをしでかしてはらはらさせたり、笑いを呼んだりした。平素はたいそう落ち着いてみえる少年も、戦闘がはじまるとのぼせあがり前後を忘れて行動した。ある少年は遮蔽物に頼るのが面倒になり、上半身をのりだして射撃をし、古参隊員に引き倒されるような場面もあった。焚き火で新しい軍帽を焦がし、しばらく無帽で過ごしたある少年中隊員は、帽子ほしさのあまり、敵兵とぶつかったとき相手を撃ち倒すより帽子を先に奪おうとして、あやうく命を落とすところだった。立哨中にノロ鹿を見つけて我慢しきれず発砲し、全隊を非常呼集させた少年中隊員もいた。

 苦しい戦いの日々に、少年中隊員たちは数々の戦功も立てた。遊撃隊生活の非常状況は、彼らに普通の生活では想像もつかない非凡な知恵と勇気を発揮させた。あるとき、全文燮、李斗益、金益顕は、連絡任務を受けて目的地に向かう途中、満州国軍の小部隊と遭遇した。互いに同時に相手を発見したので、先手を打たなければ敵に包囲され全員捕虜になる恐れもあった。危機一髪の瞬間、少年中隊員たちは、やぶの中に伏せ大人の声色を使って、「第1中隊は左、第2中隊は右に展開!」と叫び、敵を狙い撃ちにした。とたんに敵は戦意を失い、あわてて逃走してしまった。少年中隊員たちは、連絡任務を無事に果たして帰隊した。ところが、彼らはそんな戦功を立てながらも別に大したことではないと思っていたのである。それで、彼らの戦功はすぐには部隊に知られなかった。わたしも呉日男中隊長から聞いてはじめて、3名の少年たちの感嘆すべき行為を知ったのである。

 少年中隊員たちは、思想・意志の面でも、道徳の面でも見違えるほど成長した。彼らは万事を自力でおこない、できるだけ古参の隊員に負担をかけまいと努力した。少年中隊が編成された年の秋のある日、金益顕は、焚き火のそばで寝て、ふくらはぎに火傷をした。それに眼病まで患って苦労をした。古参隊員たちは、目のよく見えない彼を助け、行軍中は体を支えて歩いた。金益顕はふくらはぎがひどくうずいたが、わたしや古参の隊員に心配をかけまいと、そんな素振りを見せなかった。わたしは彼が足の火傷で苦労しているに違いないと思い、薬を送ってやった。金益顕の火傷を見て、わたしは彼の意志と忍耐力にいたく感心したものである。

 抗日戦争の全期間、少年中隊員は、年齢や体力の制約を克服して古参の隊員に劣らずりっぱに戦い、武装闘争に多大の寄与をした。日本軍警は、少年中隊上がりの遊撃隊員とは口もきくな、と言ったという。少年中隊出身には対抗するなということである。

 金一の手引きで少年時代に入隊した金成国の例をあげよう。金一は長いあいだ間三峰のふもとの村落で、当地の祖国光復会会員金相賢の援助を受けながら地下工作をおこなった。金相賢は、金一を自分の農作業小屋に3か月間もかくまい、誠意をもって工作の手助けをした。金相賢は、やもめ暮らしをしていた。妻に先立たれ残った3人の子どもが手にあまり、みな下男奉公に出した。その長男が金成国である。金一はこの気の毒な一家をなんとか助けたかったがままならず、考えあぐねた末、金成国を遊撃隊に送ることにした。ある日、彼は畑で草取りをしていた金成国に会い、わたしあての紹介状を渡して訪ねていくようにと言った。こうして、少年金成国は手ぐわを放りだし、粗麻の衣服を着たままわたしを訪ねてきて遊撃隊に入った。

 幼いころから人一倍苦労した金成国は、物覚えが速いうえに胆力があり頑張り屋で、日ならずして射撃術や遊撃隊の行動規範に通じ、数か月後には機関銃手呉白竜の副射手に選抜されるまでに成長した。金一は、深い愛情をそそいで日ごろから彼の面倒をみた。松花江のほとりできびしい冬を過ごしたときのことである。そのころ金成国は、しばらく防御隊の任務についていた。あるとき、焚き火にあたっていたが、足の裏が熱くなったので靴を脱いだ。ところが折悪しく敵の奇襲を受けた。それに射手の呉白竜もその場にいなかった。金成国は、指揮官の命令ですばやく、凍りついた松花江の氷上に出て機関銃を据え敵に猛射撃を加えた。彼は、自分が裸足で戦場に飛び込んだことに気がつかなかった。彼が射撃に熱中していたとき、誰かが後ろで彼の足を引っ張った。かっとなって振り返ると、金一が肌着を引き裂いて自分の足を包んでくれているではないか。金成国は、自分が裸足で戦闘に参加したことに気づいた。敵の退却後、金一は「なんということだ、足を切断したいのか」と叱った。戦闘後、金一がわたしに言うには、金成国は機関銃をかついで松花江の氷の上を走っていたが、足が氷上から離れるたびにピチッ、ピチッと音がしたという。厳冬に裸足で氷上に機関銃を据えて猛火を浴びせる金成国もただ者ではないが、弾雨をついてそれを追い、肌着を裂いて足を包んでやった金一もまた普通の人ではなかった。あのとき金一がそうしなかったなら、金成国は、きっと足にひどい凍傷を負い、翼のない鳥になってしまったであろう。のちに金成国は、わたしと金一の推薦で共産党に入党した。

 彼がいかに革命に忠実な闘士であったかは、小部隊活動のころの数々の逸話がよく物語っている。1940年代の前半期は、遊撃隊員一人ひとりの革命精神が点検される試練の時期であった。このきびしい時期に、金成国はいささかも動揺することなくりっぱに戦った。彼は地下工作任務を受けて国内へ往き来していたが、あるとき単身で羅津市内へ行き、ちょっとした不注意で警官に不審尋問された。通りで、にわか雨にあい商店に入って傘を買ったのだが、それがなんと女物の日傘だった。佳在水の山村で幼いころから苦役にさいなまれてきた金成国には、雨傘と日傘の区別がつかなかったのである。商店から日傘をさして通りに出ると、たちまち人目を引いた。不審に思った通りすがりの警官が、その日傘をどこで盗んだのかとただした。金成国は、ありのままに商店で買ったと答えた。なぜ女物を買ったのかという問いに、隣の奥さんに頼まれて買っていくところだと言いつくろった。しかし警官は、金成国を駐在所に連行してしつこく尋問した。彼は警官を椅子で殴り倒して逃げようかとも思ったが、自制した。そんなことをすれば、市内で地下工作をつづけることができず、他の工作員がまた死線を越えて羅津に来なければならないのである。金成国を連行してきた警官が市内の巡察に出かけると、かわって他の警官が彼を尋問した。尋問中に机の引き出しをあけた警官は、さっきの警官が彼から押収しておいた数百円の工作費を発見した。金を見て欲がわいた警官は彼をすぐ釈放した。

 翌年の夏にも、金成国は、小部隊に加わって工作中、あやうく危機を脱した。工作任務を遂行して基地へ帰る途中、敵と遭遇し射ち合いをした彼は、数か所に傷を負ったが谷間の草むらに隠れ、敵の捜索をかわした。わたしは、任哲を責任者とするグループを派遣して彼を捜させた。彼らは、谷間で瀕死の金成国を発見した。数か所に傷を負った彼が死ななかったのは奇跡といえた。彼は意識を失うまで草をもいで食べたという。

 金成国が訓練基地に帰ると、わたしは関係機関を通して彼をソ連の野戦病院に送った。彼は、そこで1年間治療を受け、健康を取りもどした。病院の医療従事者や患者たちは彼を親切に介護した。とくに、担当看護婦は、彼を朝鮮パルチザンの不死鳥だと言って献血までしながら、昼夜を分かたず献身的に看護した。彼女は、ドイツ人だった。反ファッショ闘士の父親がヒトラー一味に銃殺されたあと、母親とともにソ連に亡命したという。彼女は、金成国を東方弱小民族の闘士として尊敬し、誠意のかぎりをつくした。彼の治療のためには、どんな苦労もいとわなかった。トイレの出入り、洗面、食事などのいっさいを世話し、回復期に入ると食欲がわくようにと家のニワトリをつぶし、口に合いそうな料理をこしらえてきた。退院の日、娘の母親が病院を訪れ、彼を自宅に招待した。患者は退院後も療養をつづける必要があるから、自分の家で何日か過ごし元気をつけてから行くようにとすすめた。金成国は、喜んで承諾した。娘の母親は、その街の美術学校の教師だった。彼女は、シベリアのきびしい気候のもとでも数十羽のニワトリを飼い、多年生のトウガラシも栽培していた。母と娘は、毎日ニワトリを1 羽ずつつぶし、いろいろな料理をこしらえて食卓にのせた。彼女たちは、暇さえあれば朝鮮パルチザンの闘争談を聞かせてくれとせがんだ。彼女たちをもっとも感動させたのは、10代の幼い身で革命の嵐に身を投じた少年たちの話だった。少年たちが、遊撃闘争に参加していることをたいへん不思議がった。母親は朝鮮の英雄闘士をヨーロッパに紹介したいと、しばしばカンバスに彼の顔を描いた。彼の療養期間、娘は彼を通して朝鮮を知り、朝鮮の歴史、朝鮮の革命家と人民を理解した。彼を知ってから、娘は朝鮮を愛するようになった。

 「少年隊員の話を聞いただけでも、あなたの国が日本との戦いで勝つと確信できます。あなたたちはきっと日本をうちまかすでしょう」

 娘は何度もこう言った。

 金成国が部隊に帰る日、彼女たちはソ連の医師たちと一緒に別れを惜しんで、彼を遠くまで見送った。そして、餞別として彼に記載額の多い貯金通帳を贈ろうとした。しかし、彼はその好意を固辞した。娘の母親は別れるとき、こんなことを言った。

 「あなたはもっと療養しなければならない。でもわたしたちは、これ以上あなたを引き止めない。いくら引き止めても、あなたは、わたしの家にじっとしていないでしょう。あなたのような闘士たちのいる朝鮮革命は必ず勝利するでしょう」

 わたしは金成国の帰還談を聞いて、彼につくしたドイツ人親娘の国際主義的行為に深く感動した。それで、彼にお金と豚肉を持たせ、朝鮮人民革命軍の名で謝意を表しに行かせた。

 少年中隊が、いかにりっぱな思想鍛練の溶鉱炉であり、有用な軍事・政治学校であったかは、金鉄万の例をみてもわかる。彼は、地陽渓一帯で小部隊工作をした「パイプじいさん」に連れられ少年中隊に入隊した。最初、彼がわたしの前にあらわれたとき、わたしは「パイプじいさん」をとがめた。「小銃よりも小さい子どもを部隊に連れてきて、その始末をどうしろというのですか」と苦情を言うと、李東伯は心外だと言わんばかりに「小さい子だなんてとんでもない。あれでも17歳ですよ。体は小さくてもやることなすことはすっかり大人です」と言って金鉄万をかばった。わたしはそのとき、彼が「パイプじいさん」に年齢を偽ったのだろうと思った。わたしの目には、彼がせいぜい12、3歳にしか見えなかったのである。それで彼に、登れない木は仰ぎ見るなと言って、家に帰るよう説得した。しかし、彼はにやにや笑って「将軍、小さいといって馬鹿にしないでください。これでも、わたしはどんな野良仕事でもやってきました」と言って腕を振りまわした。たしかに彼の腕は他の少年たちに比べて強そうに見えた。

 彼は少年中隊に入隊後、なにをしても他にひけをとらなかった。少年中隊の解散後は、第7連隊で呉仲洽連隊長の伝令になり、任務をりっぱに果たした。呉仲洽が戦死したとき、涙をいちばん多く流したのは金鉄万だった。彼は、呉仲洽の後任として連隊長になった呉白竜の護衛に格別気をつかった。金鉄万は、小部隊活動期間もずっと呉白竜のグループに属してソ満国境や豆満江を足しげく渡り歩き、反日抗争勢力の結集をはかる政治工作や敵の軍事要衝の偵察活動を果敢に展開した。抗日の火の海のなかで鍛えられた軍事指揮官としての金鉄万の胆力と才能は、反米大戦のときに遺憾なく発揮された。彼は第1次南進のときにもよく戦ったが、敵背での闘争もりっぱにおこなった。彼の指揮する連隊は、楊口、春川、加平、通川、浦項、青松、軍威など江原道と慶尚北道一帯100余里の広い地域で縦横無尽に転戦し、敵の背後をあいついでたたいた。彼我のあいだに一進一退の激戦がつづくなかで、楊口地方の農民は秋の取り入れもできずにいた。それで、金鉄万は楊口を解放すると、郡内の幹部を全員呼び集めて悠然と取り入れの手配をした。楊口郡の郡民は、彼の連隊の協力を得て数日のうちに畑の穀物をすっかり刈り入れた。

 金鉄万は折にふれ、自分が党から信頼され愛される軍・政幹部に成長することができたのは、ひとえに金日成主席のおかげだ、主席が自分を少年中隊に入れ、親身になって育て面倒をみてくれなかったなら、自分は名もないきこりか農夫になっていたことだろうと言っているそうである。わたしは、彼のその言葉に誇張はないと思う。

 少年中隊には加わらなかったが、彼らと同じ年ごろに武器をとり遊撃隊で戦った少年隊員たちも抗日戦争の勝利に大きくつくした。

 トンネル工事場で働いていた金炳植は15のとき、ひとりで遊撃隊を訪ねてきて入隊した特異な少年だった。入隊後しばらく文朋尚と崔春国の伝令を務めたが、指揮官たちは彼をきびきびした兵士だと言ってたいそう可愛がった。金炳植は、たびたび敵中工作に派遣されて多くの功を立てた。彼は、警戒のきびしい豆満江を口笛を吹きながら思うままに渡り、雄基(先鋒)、羅津、会寧など朝鮮の北部国境都市を隣村へでも行くように出入りした。彼が生命を賭して国内に潜入し収集してきた敵情資料は、祖国解放作戦の準備に大いに役立った。解放前夜、彼は不幸にも敵に逮捕された。日本の刑吏たちは、彼の活動が日本帝国の足もとに時限爆弾をしかけるようなゆゆしい行為であったと知り、死刑を宣告した。死刑は、のちに無期懲役に減刑された。敵も彼が未成年者であることを考慮したらしい。金炳植は、西大門刑務所で最年少の「囚人」となった。彼は雑役に従事しながら、その獄舎に収監されていた権永璧、李悌淳、李東傑、池泰環、朴達、徐応珍などの監房に出入りしながら連絡員の役目を果たした。敵は彼を帰順させようと拷問もし、威嚇、懐柔もしたが、どれも効を奏しなかった。彼は節義のかたい闘士だった。

 抗日革命闘士のうち最年少の入隊者は、李宗山と李五松であった。李宗山は、11のとき抗日連軍第3軍に入隊して遊撃隊員となった。李宗山が革命軍を訪ねたとき、その入隊を審査したのは第3軍政治主任の馮仲雲だった。彼ははじめ、李宗山に、小さくて入隊できないから家へ帰るようにとすすめた。11歳で軍人生活をするというのは実際上、常識はずれなことだった。それに彼は背も低かった。年は1、2歳偽れても背丈をごまかすことはできない。しかし、李宗山は執拗にねばりつづけ、とうとう馮仲雲の承諾をとりつけた。李宗山は入隊後、人びとの期待にそむかぬよう軍務に励んだ。部隊の指揮官や隊員たちは、物覚えが速く動作がきびきびし、骨惜しみをしない彼を実の弟のように可愛がり、いたわった。彼は第3軍で主に伝令を務め、一時、金策と朴吉松の伝令になったこともあった。

 金策が、りっぱな副官になりそうだといって、李宗山をわたしに譲ってくれたのは1943 年ごろだったと思う。そのときから李宗山は、わたしのそばで多年間過ごした。いまでも忘れられないのは、金策がなにかの機会に話してくれた李宗山の出生のことだった。彼の家族はもと平壌の八洞橋に住んでいたが、わたしが彰徳学校に通っていたころ満州に移住したという。臨月の母親が、瀋陽行きの列車内で産み落としたのが李宗山だった。産婦には、赤子のおくるみも、おむつもなかった。それで、乗客たちが小銭を集めてくれた。李宗山の母親は、その金でやっと赤子の産着を買うことができた。

 解放後、李宗山は孫宗俊らとともに、長年わたしの副官を務めた。彼は副官に任命されるや、ぷつりとタバコをやめた。わたしの健康をおもんばかってのことだった。10余年も身にしみついた習慣を一朝一夕に改めるというのは言うほどやさしいことではない。

 我々が青溝子で第3軍に軍・政幹部を派遣するとき、そのメンバーのなかには、汪清遊撃隊で分隊長を務めていた呉仲洽の弟呉仲善(呉世英)もいた。彼は第3軍で大隊政治委員を務めていたとき、ある戦闘で右手の人差し指を失ってしまった。それで、彼が手巻きのタバコを吸うときは、李宗山が代わってタバコを巻いてやり、他の隊員のところへ行って火をつけてきた。火をつけるには相手のタバコに自分のタバコを近づけて一口吸い込まなければならず、そうしているうちにいつしか愛煙家になってしまったという。わたしがたまにタバコをすすめても、李宗山は受け取らなかった。彼が禁煙をつづけるのには、わたしもすっかり感心していた。

 我々とともに抗日革命の険しい峠を数知れず踏み越えてきた幼い遊撃隊員のなかには、1936年の春、女性小隊を率いて迷魂陣に来た太炳烈がいる。彼が朝鮮人民革命軍に入隊してはじめて銃をとったのは15か16のときだったという。彼はよく「小粒トウガラシ」というニックネームで呼ばれた。背が低く小柄ながらも芯がしっかりしていたからである。太炳烈は、戦場では勇猛、生活では規律正しかった。彼は、抗日遊撃隊に入隊後、廟嶺戦闘、金倉戦闘、間三峰戦闘、木箕河戦闘、大蒲柴河戦闘、大沙河――大醤缸戦闘、額穆県城戦闘など多くの戦闘に参加して古参兵にひけをとらない誇らしい戦功を立てた。彼の百発百中の射撃術は、そうした武勲を立てる日々、実戦のなかで練磨されたものである。彼が李竜雲連隊長と一緒に敦化県のある集団部落に入って、30余名の満州国軍をあっという間に撃滅した武勲談は、いまでも抗日闘士のあいだで興味深いエピソードとして語られている。彼がなかなかの猛者だったので、いっぱしの古参兵も彼を若輩扱いして軽んずるようなことはしなかった。

 抗日戦争の日々に太炳烈は、主に安吉、全東奎、李竜雲など軍・政幹部の伝令として活躍した。多くの軍・政幹部が、のみこみが速くて責任感が強く、仕事熱心な彼を自分の配下におきたがったものである。彼は伝令を務めながら、指揮官の身辺の安全に特別な関心を払った。指揮官が危険なところへ飛び込もうとすると、彼は両腕を広げてたちはだかった。冒険をつつしめというのは将軍の指示だ、その指示に背いていいのかと早口に責めたてた。大沙河――大醤缸戦闘のとき、全東奎連隊長が戦死したのは、彼の制止をふりきって弾雨に身をさらす冒険を犯したからだった。安吉は、太炳烈が自分の軍服をつかんで冒険しないでくれと懇願したとき、それに従ったからよかったものの、そうでなかったら自分も全東奎のように死んだだろうと話していた。

 小哈爾巴嶺会議後、小部隊活動に参加した太炳烈は、汪清県のある密林で敵の大部隊と不意に遭遇して激戦を交え、太股に重傷を負った。骨のあいだに弾丸が突きささり抜き取ることができなかった。出血がひどく、ときどき意識を失った。傷口にはウジがわいてぞっとするほどだった。早く手当てをしないと、腸や膀胱まで化膿する危険な症状だった。ところが、看護兵の任務を受けて密林に残った王という隊員は、手術はおろか、なんの医学知識ももちあわせていなかった。太炳烈は、石で小刀をとぎ、自分の手で銃傷を手術した。傷口に小刀を刺し込んで力いっぱいえぐると、黄土色の膿汁とともに腐乱した筋肉と骨のあいだにささった弾丸が出てきた。そんな胆力のおかげで彼は一命を取りとめたのである。

 翌年、汪清の工作地でわたしに会った太炳烈の戦友たちは、彼がみずから自分の足を手術したいきさつを語りながら「あれはなんともしぶとい男です」と言った。しぶといと言ったのは、意志が強いということだろう。戦友たちが、そう評したのも無理はないとわたしは思った。自分の傷を自分の手で治療するというのは誰にもできることではない。それは、大きな胆力と勇気を要する行為である。長年、彼と一緒に過ごしたわたしは、彼が本当にしぶとく胆の太い人間であり、革命の利益のためとあれば猛虎のごとくたたかう忠実で決断力があり、原則に徹した人間であることを知った。彼は、どこでどんなことをしても決して原則を曲げるようなことがなく、不正と妥協しなかった。彼がもっとも憎んだのは、分派分子と軍閥主義者だった。そのため、金昌鳳のような軍閥主義者でさえ、気骨があり党性の強い彼には勝手な指図ができなかった。

 太炳烈は抗日戦争中もりっぱに戦ったが、祖国解放戦争のときにも多くの軍功を立てた。戦後は副官としてわたしの仕事を誠実に助けてくれた。

 若いときの苦労は買ってでもせよという言葉もあるが、太炳烈がこのようにあらゆる艱難辛苦にうちかつ革命家に成長することができたのは、少年時代に銃をとったからにほかならない。少年のころから武装闘争をすれば、筋金入りの革命家、水火をいとわぬ鋼鉄のような人間になるものである。

 半年のあいだに、少年中隊員は、古参の隊員に劣らぬ戦闘員に成長した。彼らの成長ぶりは驚くほどだった。彼らが軍人らしい風格をそなえるようになったので、1937年の末ごろ、わたしは少年中隊を解散し他の各中隊に配属した。この措置によって少年中隊員は予備隊員から基本部隊の戦闘員になった。

 少年中隊出身の遊撃隊員からは、裏切り者や落伍者が1人も出なかった。これは、彼らが党と革命、祖国と人民にいかに忠実であったかを実証するものである。地球の東方と西方でファシズムが最後のあがきをしていた解放前夜のあのきびしい歳月にも、彼らはわたしとともに小部隊活動を忠実に推進した。新しい朝鮮を建設する日々には、彼らは師団長や連隊長になり、革命の先輩とともに国の武力を建設し、アメリカの将軍たちや戦車を陥穽に追い込んでせん滅した。

 人民軍の初代総参謀長だった姜健も16歳のときに革命軍に参加している。彼は30歳で総参謀長になった。姜健が1948年末にソ連を訪問したとき、彼を空港に出迎えたソ連の大将、元帥クラスの高位軍事幹部たちは、朝鮮人民軍総参謀長がたいへん若いのを見て目を見張った。姜健が帰国してその話をしたとき、わたしは笑って言った。

 「わたしがその場に居あわせていたら、きみが少年のころすでに有名な軍人だったと言ってやったのに」

 わたしは少年中隊を編成して以来、人間の肉体的年齢と精神的年齢をまったく区別して見るようになった。そして両者のうち、基本は精神的年齢だと思った。青少年期の精神的年齢は1年に2、3歳、さらには5歳も成長しうるのである。

 青少年教育は、国の運命開拓においていま一つの天下の大本である。少年中隊の経験が示しているように、革命の継承者、後続隊の準備は早いほどよく、りっぱにおこなうほどよいのである。



 


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