金日成主席『回顧録 世紀とともに』

5 間三峰戦闘


 軍民交歓集会後、我々は、崔賢部隊と合同で八盤道の集団部落をたたいてから別れることにした。八盤道は、間三峰の近くにあり、300余名の満州国軍「討伐隊」が駐屯していた。

 国内進攻作戦が計画どおりに遂行され、3つの大部隊が集まって軍民交歓集会も盛大におこなったので、隊員と指揮官たちの士気は、天をも衝く勢いであった。なかには大部隊が集結した機会に、国内に再進攻するか、長白市街のようなところを攻撃して、人民革命軍の気概をいま一度誇示しようと正式に提起する者もいた。だが、軍事行動の見地からして、普天堡をたたいた直後、国内進攻作戦を繰り返すのは合理的でなかった。恵山方面の空気がただならぬ状況のもとで、長白市街を攻撃するのも、一考を要する問題だった。血気や欲望だけでは、戦いで勝利できるものではない。それで、わたしは攻撃対象地として八盤道を選んだのである。

 我々に八盤道の情報を提供してくれたのは、第2師の戦友たちだった。彼らは、我々の密営に滞在していたとき、その土地の実情を詳細に語ってくれた。その後、我々は八盤道に地下組織をつくっておいた。その地下組織メンバーのなかに劉という姓の満州国軍兵士がいた。彼は自尊心が強すぎたため指揮官たちに憎まれ、上官から理不尽な迫害を受けたのを機に我々の部隊に寝返り、分隊長を務めていた。彼からも満州国軍大隊内の実情をくわしく聞くことができた。

 一般的に遊撃部隊は、敵が集中している軍事要衝を攻撃したあとは、すばやく抜け出す戦術を用いて遠くへ移動するのがつねである。しかし、普天堡を攻撃したあと、我々はそうしなかった。敵も遊撃隊の戦法に通じているだけに、その点を考慮して対策を立てるに違いないからだった。実際に、関東軍は我々が撫松方面に抜け出してくるものと見て、道路の要所要所に大部隊を密集配置していた。そのことを予見した我々は、すばやく抜け出す戦術ではなく、敵のすぐ近くに居座る戦法を用いたのである。

 我々が国境の近くから遠く離れなかったいま一つの理由は、その一帯の祖国光復会組織の活動を助けながら、国内の実情をより具体的につかみ、上昇期にある国内の革命を積極的におし進めるところにもあった。我々は、八盤道方面にゆっくり移動しながら行く先々で工作員たちを呼び、地下工作の状況を聞いて新たな課題を与える一方、地元組織の責任者に会って活動方法の手ほどきもした。

 そんなとき、情報工作任務を受けて恵山におもむいていた李勲から通報が届いた。桃泉里の韓秉乙老が持ってきた李勲の通報には、咸興第74連隊が数十台のトラックに分乗し、急遽恵山に出動したことが記されていた。敵はすでに新坡方面から鴨緑江を渡河しはじめており、「討伐」責任者は金錫源という悪質な朝鮮人将校だという。一部には、そのとき咸興第74連隊を率いて「討伐」に向かった日本軍側指揮官が金仁旭という朝鮮人であったという資料もある。しかし、当時、国内と長白の地下組織から我々に寄せられた通報はいずれも、「討伐隊」を率いて咸興を出発した敵将の名を金錫源だとしていた。

 後で知ったことだが、金錫源は、日本帝国主義が咸興駅でおこなった仰々しい壮行式で、「武運長久」と血書した旗をおし立てて天皇に忠誠を誓い、金日成部隊をせん滅せずにはおかないと息巻いたという。彼は、自分が上司の信任を得て「討伐」に発つことになったのは、共産軍の戦術に精通しているからである、遠からず第74連隊の本領が知れわたるであろう、皇軍の威力の前に共産軍は秋風落葉の運命をまぬがれないと豪語したという。金錫源の咸興第74連隊が、恵山、新坡を発つときにも壮行式が挙行された。日本帝国主義の手先が、民家をまわって人びとを駆り出した。警官、日本人有志、官吏、在郷軍人たちは、通りに出て歌をうたい、日章旗を振って騒ぎ立てた。「討伐隊」は大兵力だったので、新坡の渡し場から30〜40名乗りの木船で一日中、川を渡ったという。

 こういう具体的な資料を専門の情報員でもない李勲が入手したというのは驚くべきことだった。わたしから恵山市内の敵情偵察の任務を受けた李勲は、木材商とふれこんで工作地に潜入することにした。彼は、十九道溝管内の祖国光復会分会長たちにはからって、数日内に数百本の木を切り出し、それで筏を組んだ。木材商の身分証明書も手に入れた。李勲は以前、8年間も筏師として働いたことがあった。彼はもう1人の組織メンバーと一緒に筏を操って恵山に向かったが、運よく川岸で崔警部の親戚にあたる老人に会った。崔警部は、「恵山事件」のとき、多数の愛国者を投獄した悪質な警官で、朴達を逮捕したのも彼であった。崔警部の叔父は、筏に組んだ数百本の丸太を見て、何本か売ってくれと言った。李勲は、崔警部の叔父さんなのに代金をとるなどとんでもないことだと言って、丸太を2本ただで与えた。喜んだ老人は、李勲に市内の木材商を紹介した。その木材商の婿も自分の甥と同じく恵山警察署に勤めていると言うのである。李勲は木材商と初対面の挨拶をしたあと、長白は「匪賊」がはびこって暮らしにくい、木材を売って一儲けしたら恵山に出て暮らしたいが、力添えを頼むと言った。彼は木材商に市価の半値で丸太を売り払い、その家で数日間過ごした。その間、彼の婿の金巡査にも紹介してもらい、1杯おごるということで酒席ももうけた。李勲が、金巡査と木材商を最初に料理屋に招いた日のことだったという。ほろ酔い機嫌になった金巡査は、何日何時に金錫源部隊が恵山に到着するという秘密をもらした。彼は、「普天堡事件で地に落ちた帝国の権威、軍部の権威を取りもどそうと金錫源を派遣したようだが、なかなかの猛者だそうだ。彼は、金日成部隊を討って西間島を平定すると請け合ったという。結果はやがて知れようが、いずれにせよ、共産軍側も金錫源部隊と戦えば苦戦はまぬがれないだろう」と語ったという。

 咸興第74連隊が恵山市を通過する日、李勲は背広にスプリング・コートというりゅうとした身なりで歓送者の群れにまぎれこみ、「討伐隊」の兵員と火砲、機関銃の数をかぞえた。そして、壮行式が終わるとさっそく鴨緑江を渡り、我々に連絡を送った。それが司令部に届いたのとほとんど時を同じくして、張海友と金正淑から送られた連絡員も司令部に到着して、さらにくわしい情報をもたらした。連絡員は、鴨緑江を渡った敵の部隊が十三道溝で行方知れずになったが、組織のメンバーが探索中だと言った。李勲の情報と桃泉里、新坡の組織の情報は符合した。地元組織からの資料を総合すると、「討伐」兵力はおよそ2000名と推定された。

 敵が朝鮮駐屯軍のなかでも精鋭を誇る咸興第74連隊を「討伐」に繰り出したのをみれば、朝鮮総督の憤怒といらだちはひととおりでなかったらしい。普天堡戦闘、それと前後して国境一帯で連続打撃を受けた敵は心理的なパニックに陥ったらしい。中国本土にたいする侵攻が間近に迫っていたときなので、日本帝国主義は後方の安全にかなり神経をとがらせていた。そんなときに「銅牆鉄壁」を豪語した朝満国境一帯が戦乱の巷と化したのだから、総督が激怒するのも当然のことといえた。

 情勢は、我々が西崗で作戦方針を作成するとき、国内進撃後、3つの方面に進出した部隊が1か所に集結する方針をとったことが先見の明ある措置であったことを示していた。2000という敵兵の数は、我々にはるかにまさっていた。こうした状況のもとでは、戦闘を避けるのが常識である。しかし、わたしはあえて朝鮮から出動した日本軍大部隊と正面からぶつかる決心をした。敵の大部隊による攻撃には、すばやく分散して機動作戦をとるのが遊撃戦の一般的戦術であるが、今度は慣例を破り、大部隊を大部隊で撃破することにしたのである。

 八盤道方面へ移動していた我々は、ひとまず行軍を停止し、戦場を選ぶことにした。わたしは、老馬家西方の山に登って地形を確かめた。そこは、四方に視界が開けている間三峰だった。間三峰は、十三道溝から八道溝にいたる40余キロの広い台地に横たわる西崗高原の北にある3つの峰である。間三峰の北側は、原始林の樹海が果てしなくつづき、その先に四登房山脈の連峰が浮かんでいた。毛杜徳基とも呼ばれる土地だった。間三峰の南側も東西40キロを越える樹海で、西崗高原と呼ばれるその台地に八盤道や老局所などの村落が点在していた。間三峰は、太古然とした原始林の樹海のただなかに島のように突起した峰であった。敵がここまで来るには、十三道溝から西崗城に登る山角や峰々を通過しなければならないので、戦場としては間三峰がうってつけだった。

 夕方、指揮官たちが集まって戦闘方案を討議した。わたしは、敵の正規戦法に引きずりこまれずに遊撃戦法を能動的に活用すべきことを強調した。そのためには、我々が先に尾根を占め、敵を谷間に誘引しなければならなかった。部隊の配置においても、ありきたりの方法を踏襲してはいけなかった。敵が我々のからめ手だとみなしそうなところに兵力を多く配置する一方、樹林を利用して左右に迅速に機動しながら臨機応変に戦えるようにした。わたしは、第4師と第2師の指揮官たちを集めて作戦を練ったあと、明け方、権永璧、金在水、鄭東哲をはじめ、間三峰に呼んだ国内と長白地方の政治工作員たちと席をともにして、革命組織の活動方向と任務について討議した。

 敵が間三峰に押し寄せてきたのは、ちょうどその日の朝だった。早朝からこぬか雨が降り、霧が立ちこめていた。崔賢部隊が占めた山頂の監視所で、まず合図の銃声が鳴った。わたしは、すぐ尾根の指揮所にあがった。崔賢は歩哨隊が敵の包囲に陥る恐れがあるとみて、1個中隊を率いて前方へ突っ込んだ。敵は、たちまち彼の中隊を包囲してしまった。戦闘は緒戦の成り行きによって士気が左右されるだけに、なんとしても事態を収拾しなければならなかった。わたしは李東学に、警護中隊を率いて崔賢中隊を早く救出するよう命じた。日本軍は満州国軍を弾除けにして猛攻を加えてきたが、崔賢中隊と李東学中隊が内と外から猛火を浴びせて挟撃したので、敵の包囲陣が崩れた。激しい白兵戦の末、中隊は救出された。事態を逆転させた我々は、敵を何度も峡谷に追い込んで終日、痛撃を加えた。

 しかし、日本軍は、野獣のように猛り狂った。日本軍の突撃は、執拗をきわめた。彼らは、同僚の屍を踏み越え、喉が張り裂けんばかりに喊声をあげながら、つぎからつぎへと波状攻撃をかけてきた。小汪清防衛戦闘のとき、朝鮮から出動した日本軍間島派遣隊の突撃を経験し、なんとしぶといことかと思ったものだが、咸興第74連隊の突撃はそれ以上に猛烈だった。わが方は10余挺の機関銃をすえて弾幕を張りめぐらしたが、敵はそれにもひるまず群れをなして攻めよせた。こんな攻撃が一日中つづいた。そのため、我々はかなり苦戦した。一部の地点では、敵がわが方の陣地に突入したので、白兵戦をくりひろげなければならなかった。そのうえ、雨が降りつづいて戦場は凄惨をきわめた。そのとき考えさせられたのは、いかにして軍国主義は人間をこれほど執念深く分別のない野獣のような存在にしえたのだろうかということだった。

 日本軍国主義者の言う「大和魂」は、不正義を正義とはきちがえ、悪を善と思い込む白痴、火に飛び入る夏の虫さながらに銃口の前に飛び込んで犬死にしながらも、それを武士道だと自負する盲目、他民族の死骸の山を前にして祝杯をあげ記念写真を撮る野蛮人、自分が死ねば天照大神が照覧し、天皇が冥福を祈り、国民が永遠に記憶してくれると妄想する精神障害者を輩出した。日本の軍閥や大臣は、そうして死んでいった将兵を短く咲いて散るサクラになぞらえて「皇軍の精神」だなどと賞揚した。日本軍兵士は、自分たちの死が日本帝国繁栄のいしずえになると信じたが、それは途方もない妄想だった。「皇道精神」は、日本を興隆に導くどころか、滅亡に追い込んだ。

 遊撃隊の指揮官と兵士はこういう観点で日本軍を評価していたので、彼らがいかに狂暴に立ち向かってきても、革命家の自負心、愛国者の自負心をもってそれを見くだした。

 我々は、状況を巧みに利用しながら日が暮れるまで敵を痛撃した。女性隊員たちが戦闘中にうたった『アリラン』の歌が、全隊に広がった。激戦場で歌をうたうのは、強者だけがなしうることである。間三峰の戦場に響いた『アリラン』は、革命軍の精神的な豊かさを示し、楽天主義を誇示した。『アリラン』を聞いた敵の心理状態を推察するのはむずかしくないであろう。あとで捕虜たちから聞いた告白によれば、その歌を聞いて最初は呆然とし、つぎは恐怖に駆られ、はては人生のはかなさを感じたという。負傷者のなかにはわが身を嘆いて涙を流す者もおり、他方では脱走兵まで出たという。

 敵はおびただしい死傷者を出しながらも、豪雨をついて日が暮れるまで攻撃を中断しなかった。わたしは八盤道方面の偵察任務を遂行して帰隊する朴成哲小部隊と食糧工作班に伝令を送って、敵の背後をつかせた。金錫源は、前面と背後から挟撃される危険にさらされ、日も暮れたので、わずか200名ほど残った敗残兵を集めて逃走した。

 間三峰戦闘は、数々の逸話を残した。崔賢のラッパ手金慈麟は、擲弾筒を大腿部で支えて発射し、その衝撃で大腿骨が骨盤からはずれてしまった。崔賢は金慈麟を怒鳴りつけ、擲弾筒を2、3発発射して砲陣地に群がる敵兵をなぎ倒した。そして、脱臼した金慈麟の足を両手でぐいと引っ張り、すぐにはめ込んだ。その日、わが軍の擲弾筒にあたって金錫源が負傷したという話も伝えられたが、真偽のほどは定かでない。咸興第74連隊の「討伐」は完敗に終わった。

 間三峰戦闘の敗残兵のなかには、咸興に帰隊せず脱走した者たちもいた。例えば、堺という兵卒は、金錫源について行かず清津へ逃亡して日本帝国主義が敗退する日まで居酒屋を営んだという資料もある。彼は、間三峰の激戦で生き延びたことがよほどうれしかったらしく、客によくその話をしていたという。彼は、自分は日本人だが朝鮮語を知っていたおかげで命拾いをしたと話した。あのとき将校は、たとえ亡霊になっても山頂に登れと兵士たちを督励した。彼はぶるぶる震えながら山の中腹まで登っていった。日本軍が山頂近くにいたったとき、革命軍が一斉射撃を加えてきた。皇軍はあっという間に数十名の死傷者を出した。堺は無我夢中で山の下へ駆けおりたが、その途中、山頂から「朝鮮人は伏せろ!」という叫び声が聞こえた。朝鮮語を知っていた彼は、とっさに武器を放りだして同僚の死体の横に伏せた。夕方、遊撃隊員たちが、銃と弾帯を集めるために戦場を捜索した。彼らは、堺が死んだものと思ってそのまま通りすぎた。心臓の鼓動が止まるような恐怖と強い厭戦気分にとらわれた彼は、闇にまぎれて山を這いおり集団部落にたどり着いた。

 「この堺が、朝鮮語を少しばかり知っていたのがもっけの幸いだった。結局、朝鮮語がおれを助けてくれたわけだ。それでいまでも朝鮮語を熱心に習っている」

 これは、彼が酒を飲みながらよく言ったことだという。堺の口コミで清津市内とその周辺一帯では間三峰戦闘にまつわる逸話とともに、わたしについてのうわさが広く伝わった。脱走して小市民になった侵略軍の一兵士の告白は、朝鮮人民の士気を大いに高める結果をもたらしたのである。

 間三峰戦闘後間もなく、隊員たちは、戦場周辺の村落で敵の敗北ぶりをくわしく聞いてきた。戦闘があった翌日から、敵は、恵山、新坡、そして間三峰付近の村から担架や牛車、馬車、トラックなどを徴発して死体を運搬した。地元農民の話では、戦闘直後、間三峰とその一帯の村落には、日本軍の死体が枕を並べていたという。敵は、死体を白い木綿で覆って民間人の接近を取り締まった。彼らがもっとも恐れたのは、自分たちの惨敗ぶりが世間に知れることだった。新聞も間三峰戦闘で死傷者数がいくらも出なかったかのように偽った。

 金錫源が我々を追って新坡から鴨緑江を渡るときは1日がかりの渡河だったが、帰りは半時間ちょっとしかかからなかったという。死傷者があまりにも多かったので、彼らは死人の首を切って麻袋や木箱に入れ、牛車や馬車でトラックが待機しているところまで運び出した。黒い幌をかけたトラックがその麻袋と木箱を載せて鴨緑江を渡った。残された死体は火葬にされたが、その煙と臭いのために間三峰地区の農民は何日ものあいだ息をするのも苦しいくらいだったという。

 首の運搬にあたっていた日本軍兵士に、ある農民がそしらぬ顔をして、「兵隊さん、この車に積んでいるのはなんですか」と聞くと、とぼけ顔で「カボチャ」だと答えた。農民はにこにこして「カボチャの大豊作ですね。汁の実にすればおいしいから、たんとめしあがれ」と皮肉った。それ以来、「カボチャの頭」という言葉が流行した。人びとは、日本軍の死体を見ると「カボチャの頭」と当てこすったものである。

 金錫源ら敗残兵は、繁華な恵山を避けて、新坡と豊山をへてひそかに咸興に帰った。出動するときは壮行式でにぎわった咸興駅が、帰るときは喪家のような光景を呈した。駅頭に出迎えたのは、留守をあずかっていた兵卒たちだけであった。その彼らは負傷兵だらけの帰営軍人を囲むようにして、すごすごと市街地を抜けた。市民の目を欺き、敗北を隠すために、そんな窮余の策をとったのであろう。

 咸興の武徳亭といえば、日本軍人が剣道を修練する練武場として知られていた。しかし間三峰戦闘のあと、しばらくのあいだ彼らは、そこで打ち合いをすることがなかった。新坡の通りでは、間三峰戦闘後、夜警の声も聞かれなくなったという。

 間三峰での敗戦は、日本のサムライたちにとってそそぐにそそげぬ恥辱となり、金錫源という名はその恥辱の代名詞となった。結局、普天堡戦闘とそれにつづく間三峰戦闘によって、朝鮮総督南次郎と関東軍司令官植田謙吉が「図們会談」で朝鮮人民革命軍の完全掃滅をはかって作成した「画期的な戦略」は水の泡となった。

 こうして1937年初、我々が計画した大部隊による国内進攻作戦は成功裏に終結した。間三峰戦闘は、我々の抗日武装闘争史で一つのピークをなす意義深い戦いだった。この戦闘は、口隅水山戦闘とともに、普天堡戦闘の成果を強固なものにした。口隅水山戦闘と間三峰における激戦によって、普天堡戦闘の勝利はいちだんと光彩を放った。たとえて言えば、間三峰戦闘と口隅水山戦闘は、普天堡戦闘のこだまといえた。我々は、この戦いを通して「無敵皇軍」の神話を完膚なきまでに打ち破り、朝鮮人民革命軍の威力をいま一度天下に誇示した。間三峰戦闘は、朝鮮人民革命軍の白頭山地区進出後、抗日革命の全盛期をもたらすうえでエポックを画する重要な戦いであった。

 運命のたわむれといおうか、我々の宿敵金錫源は解放後、38度線をはさんで再び崔賢と対峙した。崔賢は、そこで警備旅団を指揮していた。李承晩が金錫源を38度線付近に送り出したのは、間三峰での惨敗の恥をすすぐ機会を与えようとしたのかも知れない。

 北への義挙を断行した「国軍」兵士の話によると、金錫源は38度線を守っているとき共産主義者を口汚くののしっていたという。崔賢も彼とぶつかったら目に物見せてやると待ち構えていた。朝鮮戦争前夜、金錫源は、不意に38度線を越えて大々的な奇襲をかけてきた。こうして松岳山で戦いがはじまった。おそらく彼は、崔賢をさんざんに痛めつけ、あわよくば亡き者にするつもりだったらしい。激怒した崔賢は、38度線を越えた「国軍」をせん滅し、少数の敗残兵を開城まで追撃した。彼は、こうなったからには、金錫源をソウルまで追いかけて捕らえると言い出した。わたしは、崔賢に即時撤収せよと厳命した。金錫源が、以前は日本帝国主義者の忠犬になりさがり、戦いを挑んできたが、いまはアメリカの主人の手のうちにある、まかり間違えば同胞同士が血で血を洗うことになり、全面戦争にまで拡大しかねない、金錫源も朝鮮人だから、いつかは反省するようになるだろうと説いた。

 いまは、崔賢も金錫源もこの世にない。彼らに代わって今日では、亡国の悲しみというものを知らぬ新しい世代が、北と南で、銃口を向けあって軍事境界線を守っている。わたしは北と南のすべての新しい世代が、民族の血筋を断った人為的な障壁を一日も早く取り除き、自主的な統一祖国でむつまじく暮らすことを願うものである。金錫源も晩年にはそうした念願をいだいたことだろう。



 


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