金日成主席『回顧録 世紀とともに』

4 写真と追憶


朝鮮人民革命軍の隊員と一緒にいる金日成大元帥(2列目中央)


 抗日武装闘争を開始してから、わたしがはじめて写真を撮ったのは、長白県の地陽渓台地であったと記憶している。軍民交歓集会が終わりかけたころ、多くの戦友たちが、3つの部隊が集まった記念に写真を撮ろうと言い出した。第4師に写真機があったのである。それで、各部隊の機関銃を集めて前列にずらりと並べ、写真を撮った。みんな表彰でもされたかのように満悦の体だった。

 しかし、少年隊員たちは1回きりの撮影では満足できず、個人や分隊別の写真も撮り、久しぶりに会った他部隊の親友たちとも記念撮影をしたいと希望した。警護隊員のなかには、わたしと一緒に2人で撮りたいとせがむ者まであらわれた。ところが、無愛想な写真師は、三脚をたたんでさっさと退散してしまった。もっとも、彼の立場も苦しかったに違いない。希望者は多く、乾板の枚数は限られているのだから、誰を撮り、誰を撮らないというわけにもいかなかったのである。少年隊員たちは、膨れっ面をしていた。わたしは写真師を呼びもどそうかと思ったが、そうする時間のゆとりもなかったのであきらめた。希望どおり写真が撮れず残念がる少年隊員たちの心情は理解できた。その年ごろなら誰しも写真を撮りたがるものだ。わたしにしても例外ではなかった。

 わたしは小さいころ写真をそれほど撮っていない。ひき割りがゆさえ満足にすすれない貧しさでは、写真など思いもよらぬことだった。当時、万景台のあたりには、写真館というものがなかった。写真を撮るには、3里も先の平壌城内かペンテ通りに行かなければならなかった。まれに、城内の写真師が三脚をかついで郊外へ稼ぎに来ることもあったが、万景台のような僻地にまでは足をのばさず、七谷あたりまでがせいぜいだった。

 わたしが幼いころ、祖父から5銭玉の小遣いをもらったことがあった。生まれてはじめてお金を手にしたわたしは、3里の道を歩いて平壌城内へ行った。街のにぎやかな風景にわたしは気をのまれた。道の両側に並ぶ商店や市場には、珍しいものがいっぱいあった。大道商人の「いらっしゃい、いらっしゃい」という叫び声は耳をろうするほどだった。けれども、わたしはひたすら写真館に向かって歩いた。なによりも写真が撮りたかったのである。しかし、5銭で写真を撮ろうとしたのは、あまりにも無邪気すぎた。洋服姿の紳士淑女が、窓口の前で手の切れるような紙幣を出しているのを見てはじめて、ここは自分の来るところではないと悟った。わたしは、あわてて写真館を飛び出した。5銭玉一つで文明の味を見るなど思いもよらぬ妄想だった。その日、写真館を後にしながら感じたことは、世界が金に押しつぶされているような幻覚だった。わたし自身もその重圧のため息苦しくなるような思いだった。それからは、城内へ行っても写真館には足を向けなかった。

 吉林時代にも、およそ写真とは疎遠になっていた。映画館には入っても写真館は遠ざけた。吉林毓文中学校には、財産家の子弟が多かった。彼らは、遊興街や飲食店、公園などを遊びまわっていた。飲食や遊興に惜しげもなく散財するそのぜいたくさには唖然とせざるをえなかった。母がこつこつとためては、送ってくれる学費で月謝を払うのがせいいっぱいのわたしにとってなによりもつらかったのは、彼らから写真館や食堂へ誘われることだった。そんなときは、いつもなんとか口実をつくって断ったものである。

 あるとき、母から郵便為替と一緒に手紙が届いた。

 「お金をちょっと余分に送りますから、誕生祝いに写真を撮って送っておくれ。おまえが見たいときに写真でも1枚あったら、どんなにいいか知れない」

 母の意に背くことはできなかった。弟の哲柱の話では、母がわたしを見たいときは、わたしの古い肌着に顔を埋めて涙ぐんでいるというではないか。どんなにわたしが見たくて、学費に写真代までそえて送ってよこしたのか。

 わたしは母の言いつけどおり、写真を撮って撫松へ送った。それがいま、たった1枚残っている吉林毓文中学校時代の写真である。その写真を数十年間、大事にとっておいて、わが国の革命戦跡地踏査団が中国東北地方へ行ったときに差し出してくれたのが、わたしとは撫松時代から親交のあった婦女会員蔡周善である。彼女は長い年月、敵のきびしい監視のなかで危険をおかしながら写真を大事にとっておいた。そういうことは、誰にでもできることではない。

 その後もなにかの機会に何枚か写真を撮ったが、ほとんど消失してしまった。残っているのは、大布衫を着て高在竜と一緒に撮ったものだけである。それは数年前に見つかって、この回顧録の第一巻に紹介されている。

 ところが、吉林時代に撮ったわたしの写真が、どんないきさつからか敵の手に渡り、警察の捜査作戦に利用された。あるとき、密偵がわたしの写真を持って卡倫にまで現れ、村の見張りにあたっていた少年探検隊員に、こんな人を見たことがないかと聞いた。子どもたちがいちはやく密偵が現れたと知らせてくれたので、わたしは危難をまぬがれることができた。そして、わたしに危害を加えようとした密偵は、朝鮮革命軍隊員の手で処刑された。それ以来、わたしはしばらく写真を撮ることをひかえた。

 だからといって、写真への未練がまったくなくなったわけではない。時を選ばぬ出会いと別れ、祝い事…、そんなときには、写真を撮って追憶の種にしたいと思ったものである。わたしの地下活動と遊撃隊生活には、写真に残しておくだけの劇的な場面が多かった。遊撃区時代にも印象深い光景が少なくなかった。けれども、それらは、どれ一つ写真に残せなかった。事情が許さなかったのである。当時、我々は誰もが、将来のためになにかの記念や象徴となる証拠の品のようなものを残そうなどとは思わなかった。たたかいがきびしいうえに、急を要する重要課題がつぎからつぎへともちあがるので、別のことに気をつかうゆとりがなかった。

 しかし、絶海の孤島にとり残された人にもそれなりの生活があるように、遊撃隊生活だからといって、年中、潤いのない生活しかできないという法はないではないか。少年隊員たちがしきりに写真を撮りたがるのを見て、わたしは大いに感ずるところがあった。第4師には写真機があるのに、わたしの率いる部隊にはそれがないのである。わたしは、みずからをかえりみざるをえなかった。いつも山中で過ごし、革命ひとすじに生きる隊員たちが世間一般の人間と同じように写真にあこがれ、しかも、その思いがなみなみならぬものであることを知り、写真と縁を切って久しかったわたしは、大きな衝撃を受けたのである。

 その日、わたしは宿所に帰ると何人かの指揮官に、少年隊員たちが写真を撮ってもらおうと第4師の写真師につきまとい、その手伝いまでしていた、それを見て、我々にも写真機があればいいと思ったと言った。なにげなく言ったことだったが、それが驚くべき効果をあらわした。

 我々が長白を後にし、臨江県六道溝密営にとどまっていた1937年夏のことだった。ある日、長白で地下工作にあたっていた池泰環が密営にやってきて活動報告をしたさい、写真機を手に入れてきたと言ったのである。それは望外の喜びであった。彼が持ってきた写真機は、第4師のものと同じキャビネ判の三脚つきだった。彼は、中年の写真師も連れてきていた。わたしがなにげなく言ったあのときの言葉を忘れずにいたに違いない。

 池泰環は、金一が地方工作中に見つけだし、鍛えあげて我々の部隊に送ってよこした人だった。金一と同様、口が重く、手堅い性格だった。任務を受けると、篤農のように黙々とそれをなし遂げた。金一と池泰環は性格から働きぶり、動作まで不思議なほど似通っていた。

 池泰環から写真機を手に入れたいきさつを聞くと、冒険小説のようだった。彼は、金学喆という遊撃隊員と一緒に十九道溝区長の李勲を訪ね、写真機の問題について立ち入った相談をした。区長は、さっそく地元の祖国光復会の会員とその入手方法を考えあった。そんなある日、李勲は、池泰環のところへやってきて、いま住民たちの居民証と住民登録用の写真を撮るために二十道溝警察分署に写真機が1台持ち込まれているという情報をもたらした。それを奪えば遊撃隊の役に立つばかりか、住民登録も遅延させることができるから一石二鳥だというのである。日本帝国主義は、東満州で実施してきた集団部落制と中世的な「保甲制度」を西間島でも強行しようとしていた。それで戸口調査をおこなう一方、証明書用の写真を撮っていたのである。彼らは、そのほかにも通行(滞留)許可証や物品購買許可証なども発行して、人民をがんじがらめにしようとしていた。15歳から65歳までの住民は、居民証と通行許可証がなければ居住も通行も許されず、物品購買許可証なしには食糧や布類、地下たびのたぐいを買うこともできなかった。許可証なしに商品を買ったことがわかると、「通匪分子」と断定されてひっくくられた。

 だが、警戒厳重な警察分署から写真機をどう奪い取るかが問題だった。池泰環と李勲は長時間、額を集めて相談した。翌日、李勲は、さも困りきった顔をして二十道溝警察分署長の前にあらわれ、こんなに手を焼かされては区長を務めようがないとぼやいた。百姓どもは、まったく無知な輩で、警察分署へ行けば写真を撮ってもらえるといくら言い聞かせても誰ひとり信じようとせず、区長があらわれると捕吏にでも出会ったように恐れるのだからまったくやりきれないとこぼした。分署長は苦々しそうに舌打ちした。

 「有志たちは有志たちでまた、すっかりむくれています。十九道溝10里の谷あいに住む数百所帯の農民を二十道溝に連れ出して写真を撮るとなれば、秋が過ぎてしまう、取り入れをそっちのけにして写真ばかり撮っていて口に入るものができるのかと言って食ってかかるんですから、どうしてよいのかわかりません」

 李勲は、こう言って椅子にぐったりと腰をおろした。

 「区長も困ったものだ。そんなことを分署へ訴えて、わしにどうしろと言うのだ。対策は区長が立てるべきじゃないか。なんとか方法はないのか」

 李勲が待ち構えていたのは、分署長のその最後の言葉だった。彼はしばらく考え込むようなふりをしたあと、こう言った。

 「この警察分署は百姓どもがおっかながっているし、十九道溝からも遠すぎます。いっそのこと十九道溝の李宗述の家で撮ることにしてはどうでしょうか。あそこの庭は、広くて写真を撮るにはあつらえ向きです」

 李宗述は、敵の手先だった。警官や官吏が行くと酒肴をよくもてなすので、みななにかと口実をもうけては彼の家へ行こうとした。分署長は、それは名案だと李勲の案に同意した。こうして写真機は、警備のきびしい二十道溝警察分署から李宗述の家の庭に移され、十九道溝の住民が呼び集められた。分署長は、巡査たちを引き連れて李宗述の家へ向かった。李宗述が、彼らのために一席もうけたのは言うまでもない。分署長は、巡査を1人庭に立たせて酒席についた。しばらくすると、見張りの巡査まで宴席に加わった。一同に酔いがまわり気炎をあげているとき、村の地下組織のメンバーが部屋に飛び込んできて、「匪賊が写真機を奪っていく」と叫んだ。そして、「匪賊」が前の山にも後ろの山にも群がっている、とおろおろ声で言った。青ざめた分署長は、拳銃を引き抜いていまにも外へ飛び出しかねない様子を見せた。それは酔った勢いの蛮勇といえた。李勲は分署長を引きとめた。
 「匪賊は大勢いるのに、1人で立ち向かってどうするつもりです。命を大事にすべきです。死せる獅子より生ける犬という言葉もあるではありませんか」

 彼は、分署長を裏庭へ引っ張っていき、うむを言わせず豚小屋に押し込んでわらをかぶせた。ほかの巡査たちもわれ先に隠れ場所を見つけて身をひそめた。そんなとき、遊撃隊員たちがあらわれ、写真を撮りに集まった住民たちの前で演説し、写真機を持って悠々と引き揚げた。

 写真機の奪取に参加した隊員がおもしろおかしく話すので、わたしは涙が出るほど笑いこけた。

 「対岸匪賊状況に関する件」と「恵山事件判決書」という日本帝国主義の秘密文書には、つぎのような内容の記録がある。

 「小葡萄溝ニ至リ部民100名ヲ集メ撮影中ニ、1時30分頃、拳銃携帯ノ金日成一味ト認メラルル人等現ハレ写真師ニ対シ『何ノ目的ヲ以テ写真ヲ撮ルカ』、『汝ハ写真師トシテ生活スルモノナル故、助ケテクレレバ遣ル代リ写真機ヲ出セ』トシテ写真機及種板一打ヲ強奪逃走シタリ」

 種板とは、いまのフィルムと同じようなものだが、旧式の写真機はフィルムではなく、ガラスの乾板を使っていた。

 池泰環は金学喆と李勲の力を借りて、わたしの願いをりっぱにかなえてくれたわけである。池泰環が敵地から連れてきた写真師の本名は韓啓三といい、遊撃隊では李仁煥と呼ばれた。年は40近いが、背が高く大の力持ちで、遊撃隊生活にはうってつけだった。

 わたしは写真術を学んで、必要なときには、じかに隊員の写真を撮ってやろうと思った。それで、写真師に手ほどきをしてもらった。わたしが熱心に聞くので、彼は、なぜこんなつまらぬことに時間を割くのかとたずねた。彼は、芸術的な構図のとり方やシャッターを切るこつなどを懇切丁寧に教えてくれた。李仁煥は、わたしが誰かを知ると、自分の心のうちをすっかりうち明けた。そのなかでいまも印象深く残っているのは、「キノコ刺し」の話である。彼は、我々の部隊に来るとさっそく「キノコ刺し」を探したという。「キノコ刺し」とはなにかと聞くと「耳をそいで乾かしたもの」だと言う。敵は、革命軍は人を捕まえると耳をそぎ、それをキノコのように数珠つなぎにして乾かしていると宣伝している、また、日本帝国主義は傘下に各種の分課をもつ「宣撫班」という謀略団体を使って、遊撃隊は顔が真っ赤で角を生やしている人食い人種だと宣伝している、自分もそれを真に受けていたと言うのだった。

 「李宗述の家の庭に遊撃隊があらわれたとき、わたしはすっかり縮みあがってシェードをひっかぶり、ぶるぶる震えていました。これで、おだ仏だと観念して、耳をしっかりおさえていたのです。ところが、実際に遊撃隊を見ると、みないい人たちばかりではありませんか」

 わたしは、彼に子どもが多いと聞いて、家へ帰るようにすすめた。ところが、彼は言うことをきかず、子どもは妻が育てるだろうから、どうか自分を追い返さないでほしいと懇願するのだった。それが真剣そのもので、てこでも動かない様子なので、わたしは彼の入隊を許した。新しい軍服に着替えて喜ぶさまを見ると、わたしもうれしかった。

 六棵松戦闘と信子戦闘のあと多くの労働者が入隊し、いくつかの分隊が編成されたが、そのとき李仁煥は分隊長に任命された。彼は入隊後、遊撃隊員の写真をたくさん撮った。現像液をいつも持ち歩き、写真を撮るとすぐに現像した。彼は戦いでも勇敢だったので、隊員たちから尊敬され慕われた。

 あるとき、彼は悪性の感冒にかかって寝込んでしまった。我々は彼を誠意をつくして看護した。彼が寝るときは、みなすすんで綿入れの上着を脱ぎ、幾重にもかけてやった。わたしも毛布で彼の頭のまわりをかこい、枕もとに座って、読書をしながら夜を明かした。彼は目をさますと、わたしの手を握り、自分のような取り柄のない者のためにどうしてこれほどつくしてくれるのか、この恩をどう返せばよいのかと言って涙を流した。彼は、我々と生活をともにするようになって、はじめて人間らしい扱いを受け、真の人生がどういうものかを知った、日本侵略者の下僕になって飯にありつくより、遊撃隊でたとえ草の根をはみ1日を生きても、胸を張って人間らしく生きるほうがよいと言うのだった。

 ある日、彼はわたしの前に三脚を立て、軍服をきちんと直してくれながら言った。

 「きょうは、わたしの願いを聞き入れてください。将軍の肖像写真を撮りたいのです」

 彼は、わたしの写真を国内へ持ち込んで、同胞たちに見せるというのである。それで、気持ちはありがたいが、写真を撮って世間に公開するのは部隊の規律に背くことだ、だから革命が勝利した日、存分に撮ろう、解放を迎えたら最初の肖像写真をあなたに撮ってもらおうと言った。すると、彼は泣き笑いをした。わたしは、そんな微妙な笑いをはじめて見た。その表情がいまもありありと目に浮かぶ。

 小哈爾巴嶺会議後、大部隊活動から小部隊活動に移ることになったとき、わたしは李仁煥に家へ帰るよういま一度すすめた。しかし、彼は部隊に残って戦いつづけ、惜しくも戦死した。

 わたしはいまでも写真を撮るとき、李仁煥が旧式の写真機をかついできて、1枚撮りましょう、とわたしに焦点を合わせているような錯覚によくとらわれる。李仁煥は死んだが、彼が撮った写真のうち何枚かは奇跡的に歴史に残された。臨江県五道溝密営で撮ったわたしの写真と、烏口江流域での女性隊員たちの写真はいずれも彼の手になるものである。五道溝密営のほうの集団写真は、国内工作にあたっていた金周賢小部隊の帰還を記念して撮影したものだった。じつは、その日の写真は、わたしがシャッターを切るつもりだった。ところが警護隊員たちが、わたしと一緒に撮ろうとせがみ、李仁煥も自分がシャッターを切るからとわたしの背中を押した。それで、わたしは仕方なく、変装用の黒ぶちメガネをかけたまま彼らと並んで撮ったのである。

 わたしと李仁煥が撮った写真は、残念ながらほとんどなくしてしまった。敵は写真を入手すると、それを我々の指名手配に利用した。わたしと警護隊員たちが保管していた写真は、林水山の「討伐隊」に黄溝嶺密営を襲われたときに遺失した。

 数十年の歳月が流れたあと、それらの写真の一部が、満州国の幹部警察官だった加藤豊隆という日本人の手に入っていたことを知った。彼はわたしの写真を3枚持っていたが、1枚は紛失し、2枚が残っているとして公開したのである。加藤は、「満州国警察重要写真、文献資料集成」という文書に「神秘な抗日英雄金日成」と題してこう書いている。

 「…金日成及び中国共産党幹部に対する『手配写真』は、まさに現物で、今日的意義を十分にもつきわめて重要かつ希少なものである…」

 彼は、当時「討伐」隊員が、写真の裏に「金日成匪本部員一同」と書き残したものまで写真に添えて紹介した。そのおかげで、歴史の真実が生々しい画幅として世にあらわれた。そこには、悪魔や野人のように怪異な「匪賊」ではなく、隊員も指揮官もまったく同じ軍服に身をかためた革命軍の風貌が躍如としている。

 我々の隊員や指揮官のなかには、1枚の写真も残さずに戦死したものが数えきれないほど多い。いまは事情が変わった。戦死者が出ればその軍功に応じて表彰し、故郷には訃報を送って社会的な関心を集めている。しかし、抗日戦争当時は、犠牲者を出しても訃報はおろか、姓名を刻んだ墓碑を立てることすらできなかった。敵が随時襲いかかる状況のもとで、雪や石で死体を覆い、それもできず松の葉をかぶせるだけでそうそうに立ち去らなければならないときもあったのである。戦死した隊員を葬るときは、その燃えるような青春を荒野に葬るのが痛恨きわまりなく、一握りの土くれがいわおのように重く感じられたものである。1枚の写真も残さず、そのように世を去った烈士がいかに多かったことか。戦友との死別も悲しいが、生き別れもつらいものだった。そんなときに写真を撮って、お互いに交換していたらどんなによかったろう。

 なによりも堪えがたかったのは、女性隊員がその花のような容姿を1枚の写真にも残せず倒れたことだった。彼女たちがあけに染まって倒れたのを見ると、わたしの胸は張り裂けるように痛んだ。彼女たちが残したものは背のう一つしかなかった。しかも、そこにあるのは。朝鮮地図にムクゲを縫い取った小さな刺繍だけである。その刺繍を遺骸の上に置いて、土を一握り、二握りとふりかけるとき、剛毅なつわものたちの手も震えざるをえなかった。

 歳月はあまりにも多くのものをうちこわし、抹消して忘却のかなたへ追いやってしまう。喜びも悲しみも、日がたち月が変わり年が過ぎるにつれ、しだいに薄れ遠ざかってしまうという。しかし、わたしの場合は、必ずしもそうだとはいえない。倒れた戦友の一人ひとりがどうしても忘れられないのである。去った者も送った者も、骨身にしみる恨みをいだいていたためだろうか。わたしの記憶には、彼らの姿が、数百、数千枚の鮮明な青写真のように刻みつけられている。年月がたてば写真も色あせ記憶も薄れるものだが、彼らの姿だけはなぜか、年とともにいっそう生き生きとよみがえり、心をとらえて離さないのである。

 大城山に革命烈士陵をつくるとき、ある人たちは大きな記念碑を建て、そこに闘士たちの名を刻もうと言った。しかしわたしは、烈士たちの像を建てたかった。抗日英雄の個性的な姿を再現させて後世の人たちに見せてやりたかった。ところが、闘士たちは、ほとんどが1枚の写真も残さずに世を去ったのである。それで、わたしが彫刻家に、その闘士たちの容貌を克明に説明して再現させたのである。

 日本帝国主義が扱った「恵山事件」の資料集には、多くの闘士たちの写真が載っていた。貧しい人の写真は、法を犯したときにだけ新聞に載るものだと言ったのはゴーリキーだったと思うが、我々の闘士たちも手錠をはめられることによって、最初にして最後の写真を残したのである。

 わたしが抗日革命闘争時代の姿を何枚か写真に残せたのは、池泰環が写真機を手に入れてくれたおかげである。ところが、池泰環自身は、写真機の前に立ったことがなかった。不屈で有能な地下政治工作員であった彼は、「恵山事件」で逮捕されてはじめて、敵側の文書に写真を残したのだった。それは捕繩をかけられたままの写真で、憤りにみちて顔をそむけ、するどい視線を床に向けていた。人一倍自尊心が強かった彼の心はいかに恨みにたぎっていたことだろうか。死刑を言い渡された彼は、泰然として「おれは、日本帝国主義者に存分に血の償いをさせた。もう死んでも心残りはない」と言い放ち、声をあげて笑ったという。

 わたしには、眠れぬ夜が多い。仕事に忙殺されているときもそうだが、遺品一つ、写真1枚残すことなく去った烈士の姿がまぶたに浮かぶ夜は、しばし、まどろむことすらできないのである。そのためか、わたしは年とともに、写真を撮ることをおろそかにしないようになった。工場や農村に出かければ、勤労者や婦人、子どもたちとも撮り、軍営を訪れれば人民軍の軍人たちとも撮っている。いつだったか、延豊高等中学校へ行ったときは、半日近い時間をかけて子どもたちの写真を撮ってやったこともある。

 いまは、りっぱな制度のもとで、人間と職業に貴賎の別がなく、誰でも功績があれば栄誉にあずかり、万人の喝采も浴びる。そして、どこでも多様で豊かな文化生活が楽しめる。労働のなかで生まれた踊りと歌が、祝日の広場や祝典の舞台に移され、不夜城をなす夜の街や公園には、そぞろ歩く幸福な人たちの姿があとをたたない。

 50年ほど前までは、それは月世界のような幻想にすぎなかった。抗日闘士たちの大半は、このような生活を見ることなく世を去った。しかし、彼らが生命をささげ、血潮をもって切り開いた歴史の道がなかったなら、我々の世代の今日と明日がありうるであろうか。



 


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