金日成主席『回顧録 世紀とともに』

3 地陽渓での軍民交歓集会


 普天堡を襲撃して帰路についた部隊が口隅水谷に着いたとき、隊員たちは指揮官を通じて、1日の休息をわたしに提言した。それまでの抗日戦争の路程で、隊員が司令部に休息を求めた例はほとんどなかったと思う。それほど、彼らは疲労困憊していたのであろう。実際、そのころは、隊員も指揮官も1日としてゆっくり休むことができなかった。坤長徳では丸1日を過ごしたが、みな興奮して一睡もしなかった。それでも疲労を覚えなかったのに、戦いが一段落ついたので、全隊の緊張がゆるんだのであろう。隊員も指揮官もいっときの休息をとりたいと望んでいた。わたし自身も疲労と睡眠不足を覚えていた。それに、口隅水谷の村民まで、指揮官たちに休んでいくようにとすすめた。餅をつき、豚もつぶしたから、村民の誠意を無にしないでほしいと言うのである。空腹をかかえていた隊員たちは、餅と豚肉と聞いて気がそそられた。こうして、連隊政治委員たちまで加わって、口隅水谷村民の誠意を受け入れようと申し出たのである。

 けれども、わたしは、休息命令をくだすことができなかった。こういうときこそ、指揮官は警戒心を高めなければならないのである。国境を越えたからといって気をゆるめれば、大きな災厄に見舞われかねなかった。国境一帯の守備隊に非常動員令がくだり、たいへんな騒動が起こっていることは目に見えており、その兵力がいつ、我々に戦いを挑むか知れなかった。敵が、我々を追撃してくるのは前例からしても間違いなかった。敵が、我々の後方と側面にいつ押し寄せ、前方にあらわれるのはいつだろうか。ざっと推算してみても、口隅水谷に半時間以上とどまるのは許されないと思われた。戸数がいくらにもならない小さな村で、数百名の軍隊と荷を運ぶ人たちに短時間内に食事をとらせるのは難しかった。

 わたしは、戦利品の一部を村民に分け与え、各隊員の背のうに握り飯を入れるよう指示し、普天堡から荷を運んできた人たちの一部を送り帰した。そして、全隊員と残った荷運びの人たちを引き連れて口隅水山に登った。わたしはなぜか、この山が戦場になりそうな予感がした。口隅水山は傾斜が60度に達する岩山で、重い荷を背負って登るのは容易でなかった。先に登る者が不注意で石ころ一つ転がしても、それが連鎖反応を起こして恐ろしい石なだれにならないともかぎらなかった。それで、伝令の白鶴林を送って、石を転がさないよう再三注意を与えた。みんなが前の人の足を支えて押しあげながら、用心深くよじ登っていった。

 部隊が頂上に着くと、汗をぬぐうひまもなく戦闘配置をした。地形の特性を考慮して石を落とす作戦を組み合わせることにし、全員で要所要所に石を集めるようにした。そのあと、握り飯で簡単な朝食をとらせた。頂から見おろすと、我々がとったコースをたどって早くも敵兵が群れをなして登ってきていた。それは、国境特設警備隊で、隊長は大川修一であった。敵は気負い立って接近してきた。彼らが陣地から30メートルほどまで近づいたとき、わたしは射撃の号令をかけた。高地では、小銃と機関銃がいっせいに火をふいた。わたしも小銃で敵兵を狙い撃ちにした。敵兵は、岩のすき間を伝って死にもの狂いで這い上がってきた。こんなときは、銃を撃っても効果がないので、石を転がすよう命じた。隊員たちは石を転がしはじめた。小汪清防衛戦のときトンガリ山で石を落として戦った経験があり、口隅水山でまたやってみたが、その威力はたいへんなものだった。

 この戦闘で隊員たちは、いま一度その腕のほどを示した。普天堡を襲撃したときは敵に反攻のすきを与えなかったので、戦闘は我々の一方的な攻撃であっけなく終わってしまった。しかし、口隅水山戦闘は、そういうわけにはいかなかった。敵の攻撃は執拗をきわめ、それだけに戦いがいがあった。突撃ラッパが鳴り響くと、呉白竜は猛虎のように駆けおりて、真っ先に敵の機関銃手を倒した。そして、ぶんどった機関銃をわたしのほうに向けて力強く振ってみせた。金雲信は、大男の敵兵とはげしく渡りあい、ついに擲弾筒を奪い取った。

 西側から遅ればせに押し寄せた満州国軍は、我々の猛烈な攻撃ぶりに恐れをなし、遠くから何発か撃っては高見の見物をするだけだった。わたしは機関銃手たちに、そっちへ向けて少しばかり撃てと命じた。満州国軍が近くでうろうろするとき、空へ向けて撃つのは間島時代からの一つの慣例だった。満州国軍が、それを要請していた。我々がそうしてやれば、彼らも革命軍にたいする「討伐」をせず、しばらく撃つような真似をするだけで引き揚げたものである。

 この日、防御隊も栗田大尉が率いる恵山守備隊の攻撃を撃退した。

 普天堡から荷を運んできた人たちは、口隅水山戦闘をはじめから終わりまで見て、人民革命軍の威力に大いに感嘆した。彼らは、敵の敗亡ぶりもしっかり見届けた。そのとき彼らが体験したさまざまなことがらは無言の教材となった。荷運びの人たちは口隅水山戦闘まで目撃して、人民革命軍の戦闘的威力を再確認し、日本軍は「天下無敵」を豪語しているが、実際に天下無敵なのは日本軍ではなく朝鮮人民革命軍であることを新たに認識したのである。普天堡戦闘と口隅水山戦闘における人民革命軍の戦いぶりについては、高木健夫も激賞している。

 後日、朴達はわたしに、あのとき口隅水山戦闘で生き残った敵兵はすっかり度胆を抜かれ、しばらくはどこへも出撃できなかったと言った。口隅水山戦闘で危うく命拾いした「討伐隊」のなかに、朴達と知り合いの朝鮮人巡査がいたが、よほど抜け目のない男だったらしい。その巡査は、口隅水山に登りながら遊撃隊員の足跡を見つけ、山頂には間違いなく伏兵がいると直感した。それで、ゲートルを巻き直すふりをしながら日本人巡査たちをやりすごした。日本人巡査たちが山頂にほとんど近づいたとき、機関銃の音と手榴弾の炸裂音が山をゆるがし、悲鳴があがった。彼は山の下へ逃げ、戦闘が終わるまで川のふちに隠れていた。彼は、こうしてうまく頭を働かせたので生きて帰れたと、朴達に自慢した。

 口隅水山戦闘で奇跡的に生き残った国境特設警備隊長の大川修一は、数年前まで日本で平凡な市民生活を送っていたらしい。彼は晩年、その敗け戦を回想して文章を書いた。わたしは、それを読んではじめて、大川が口隅水山で重傷を負ったことを知った。人民革命軍の銃弾が彼の舌を射ぬいたという。負傷にしては、それこそいまわしい傷を負ったものである。彼は長いあいだ入院治療を受けたが、傷は思うように治らなかったようだ。癒えない銃創の痕を出して見せている大川の写真はわたしも見た。大川もまた、旧日本のあまたの軍警と同様、悪名高い「皇道精神」のいけにえになったのである。

 口隅水山戦闘での勝利は、その後の間三峰における戦果とともに普天堡戦闘の成果をかため、朝鮮人民革命軍の戦闘的威力と不敗性をいま一度誇示するものだった。国境一帯の敵は、恐怖におののいた。敵側の文書では、口隅水山戦闘で彼らが「多数の敵」を掃滅したとしているが、それはまったくの捏造である。わが方には1名の戦死者もいなかった。敵は、死体を運び出すために口隅水山近辺の村々から人民を強制的に駆り出し、戸板や布団を手当たり次第に徴発した。結局我々は、恵山へ渡ってたたこうとした敵を口隅水山で撃滅したわけである。結果的には、最初、恵山進攻作戦によって達成しようとした目的が口隅水山戦闘によって十分に達成されたのである。

 我々は口隅水山戦闘後、敵の包囲を無事抜け出して帰った崔賢部隊と感激的な再会をした。崔賢の履き物や衣服は、見るにたえないほどであった。彼はわたしに会うと、普天堡と口隅水山での我々の戦果を口をきわめてほめそやした。そして、こんなことを言うのだった。

 「わたしらは枕峰の付近で敵の包囲に陥ったが、彼らはにわかに包囲を解いて逃げてしまった。将軍、これはいったいどうしたわけなんだろう」

 わたしは崔賢の第4師を救出するため、普天堡を襲撃することにしたその間のいきさつを手短に話した。崔賢は、それを聞いて豪快に笑った。

 「きゃつらが引き揚げるのを見て天の助けと思ったが、結局は将軍のおかげだったんですな。いや、まったく大したものだ」

 彼は「きゃつら」という代名詞をさかんに使ったが、それは、彼が日本軍警をののしるときによく口にする卑称だった。

 わたしは彼に、第4師の戦友たちに会ってみたいから案内してほしいと言った。すると、彼は苦い顔をして、いまはそうするわけにいかないと言うのだった。なぜかと問いただすと、隊員たちの格好があまりにも無様だからだと答えた。わたしは金海山を呼んで、第4師の隊員たちに軍服を支給するよう指示した。それは、国内進攻を前にしてつくった600着のうち、崔賢部隊の分としてとっておいたものである。崔賢が言ったとおり、第4師の戦友たちの身なりは見るにたえなかった。ぼろぼろの衣服と日に焼けた赤銅色の顔は、彼らが踏み分けてきた苦難の道のりをそのまま物語っていた。崔賢は、新しい服に着替え、ひげをそってから、わたしのところに来て正式にその間の活動状況を報告した。戦果はなみなみならぬものであった。

 我々は地陽渓で、第1軍第2師の戦友たちとも会った。第2師も任務をりっぱに遂行した。わたしは第4師と第2師の戦友たちに、主力部隊の国内進攻作戦を側面と後方から支援し、協力してくれたことに謝意を表した。西崗会議の決定に従って3つの方面に進出した革命軍の各部隊は、このように集結場に内定していた地陽渓の台地に集まり、戦闘的な友誼を分かちあった。新緑のしみる台地は、祝日のような雰囲気につつまれ、痛快な武勲談が交わされた。

 西崗会議の方針を貫くなかでおさめた革命軍各部隊の戦果は、それらを目撃した白頭山地区の人民に格別大きな喜びを与えた。朴達の組織ルートから入った通報によると、甲山、豊山、三水一帯の人びとは老いも若きも、革命軍が自分たちの地域を解放してくれる日が近づいたと語りあい、熱気にあふれているとのことだった。

 崔賢の報告のなかで特異だったのは、上興慶水里の第7土場を襲撃したときに捕らえた河島という日本人についての話だった。この木材所は、恵山に本所をもつ一つの作業支所で、河島はその現場責任者であった。第4師の戦友たちが彼を地陽渓まで連行してきたのは、彼が朝鮮語に堪能で、朝鮮の女性を妻にしている興味ある人物だということもあり、彼を人質にして軍資金を手に入れようという考えもあってのことだったという。

 崔賢は、河島の運命を決める問題で全光や朴得範らと口論した、彼らは河島を処刑せよと強圧を加えてくるが、将軍はどう思うかと聞いた。わたしは、処刑などとんでもないことだと言下に反対した。

 「河島が日本人だから処刑すべきだというのは理不尽だ。彼が在郷軍人で木材所の現場責任者だとはいえ、朝鮮人民に罪業を働いていないというなら、なんのために処刑するのか。人間の運命にかかわる問題は慎重に扱うべきだ」

 崔賢は、わたしの意見に同感だと言った。その日、わたしは河島に会ってみた。一言、二言話してみたが、予想以上に朝鮮語が上手だった。革命軍が怖くないかと聞くと、最初は不安だったが、いまはそうでないとのことだった。彼は、日本当局は遊撃隊を「匪賊」だと言っている、ところが今度革命軍について歩いてみると、そんな宣伝が嘘だとわかった、匪賊なら他人の財産を奪うはずだが、そういうことは一度も目撃できなかった、遊撃隊はただ朝鮮の独立に努めているだけだ、何日も空腹に苦しみながらも主人のいない畑には入ろうとしない、どうにかして食べ物がいくらか手に入っても仲間に譲っている、こんな軍隊をどうして匪賊だといえようかと言うのである。

 わたしは、崔賢、全光、朴得範に、河島は別に罪を犯しているわけではないし、ものの見方もしっかりしている、だからよく説諭して無事に送り帰すべきだと話した。

 後日、組織ルートからの通報によれば、河島は木材所に帰ると、「朝鮮遊撃隊は、匪賊ではなく、綱紀のすぐれた革命軍」だ、日本軍に滅ぼされるような弱兵ではないと宣伝したという。彼は警察に連行されても、自分の目で見たことだと言って、同じことを繰り返した。警察当局は、彼に「赤色分子」というレッテルを張って日本へ追いかえした。河島が人民革命軍について語った話の要旨は当時、国内の新聞にも掲載された。

 崔賢はその新聞記事を読んで、「河島は遊撃隊で食べた飯代をきちんと払った。将軍がなぜ彼を釈放しろと言ったのか、いまになっては納得がいく」と大笑した。

 わたしは河島の例を通して、たとえ日本人であっても、みながみな悪いと見るべきではなく、彼らの現在の行為と思想傾向によって慎重に処理すべきであることを改めて確信するようになった。

 部隊が地陽渓に到着した日、十九道溝の区長李勲がわたしを訪ねてきた。彼は、普天堡と口隅水山での戦勝を祝って、村民が粗末なものだが食べ物を少しばかり用意しているから、軍民が一緒に食事をしてはどうだろうかと言った。李勲の口ぶりから察すると、いつものように簡単に昼食をもてなそうというのではなく、村をあげての祝宴を張りたいという意向のようだった。遊撃隊員の数は数百名にもなる。その彼らに一膳飯を出すとしても、十九道溝の人たちには大きな負担になる。彼らにそんな迷惑をかけることはできなかった。それで、食事の準備はしないでほしいと断った。

 ところが、わたしの言葉であればいつも従順に従った李勲が、今度ばかりは聞き入れようとせず、人民の気持をくんでほしい、いまとなってはどうしようもないと懇願するのである。

 「将軍、これはわたし一個人のお願いではありません。十九道溝の民心です。これだけはどうか受けてください。わたしが将軍から断られて帰れば、村の女性たちまで、わたしを大馬鹿者だといって石を投げつけないともかぎりません。それはまあ、わたしが我慢するとしても、全村が落胆するのは目に見えています。これをどうすればいいのですか」

 こうまで言われると、区長の要請を拒みきれなくなった。人民の誠意をむげに退けて地陽渓を急に発ってしまえば、村民はどんなにがっかりし、遊撃隊員たちはまたなんと残念がることだろうか。

 わたしは李勲に、こうなったからには、民家に分かれて食事をするより軍民がひとところに集まり、心ゆくまで楽しんではどうだろうか、端午も間近いのだから、軍民交歓集会と名づけて、その日は地陽渓の台地で白昼これ見よがしに盛大な祝賀集会を催そう、軍民が一つにとけあって互いに励まし、情誼を分かちあえるようにしよう、天地をどよもすほどの娯楽会や運動会も開いて、みんながいっさいの憂さを振り払い、楽しく端午を過ごそうと話した。

 この案には、第4師と第2師の指揮官たちも賛成した。願いがかない、李勲は相好をくずして喜んだ。遊撃区の解散後、軍民合同の行事を試みたのは、このときがはじめてであった。

 軍民交歓集会の会場に内定した徳富洞は、李悌淳、金雲信、馬東煕、金周賢、池泰環、金一らが切り開いた革命村で、県都から数里も離れた台地にあり、巡査や区長もたまにしかやってこなかった。敵の統治機関もかなり遠くにあった。徳富洞からいちばん近い隅勒洞駐在所にしても、山道で遠く離れていた。我々が徳富洞を集会の場に選んだのは、こうした点を十分に考慮したうえでのことだった。徳富洞からはその後、多くの青年が遊撃隊に入隊した。

 わたしは50数名の兵士、指揮官と一緒に、祖国光復会支会長の安徳勲の家で旅装を解いた。李悌淳が、十九道溝で最初に手を結んだのが李勲と安徳勲だった。我々は、普天堡戦闘の前にもこの家に寄り、その後も立ち寄ってはなにかと世話になった。安徳勲一家は、遊撃隊の援護に熱心だった。弟の安徳洙も堅実な人だった。彼は、我々の活動を献身的に助けてくれた。

 徳富洞には、宋という姓の財産家がいた。国はどうなろうと、自分ひとり豊かに暮らせればそれでいいという親日傾向の強い地主だった。彼が金持ちだと知った工作員たちが、ある日、安徳勲の家へ宋と李勲を呼んで、遊撃隊を援護してほしいと頼んだ。そこへ地下組織メンバーの李勲まで呼んだのは、それなりの思惑があってのことだった。李勲が先にどれほど出すと言えば、宋も黙ってはいられないはずだった。それに、工作員が李勲に乱暴な言葉づかいをすれば、地下組織のメンバーである彼の正体もより巧みに偽装できるはずだった。事は思いどおりに運んだ。李勲が先に村を代表していくらを出すと言うと、宋は工作員の要求を拒めず、150元出すと答えた。あとのたたりを恐れて、しぶしぶ出したのである。宋は、工作員に150元も提供したことが口惜しくてならず、その腹いせに、安徳勲の家に遊撃隊の工作員が大勢出入りしていると駐在所に勤める義弟に告げ口をした。そのことを知った李勲は、工作員と相談して安徳勲を遊撃隊に入隊させ、家族は朝鮮国内へ移す措置をとった。そういう緊急策を講じなかったなら、安徳勲一家はきっと皆殺しにされたであろう。1937年の夏か秋だったか、敵は「赤の村」ということで徳富洞を焼き払ってしまった。

 わたしは、安徳勲の家で十九道溝の有志と第2師、第4師の指揮官とともに、軍民交歓集会の細かいプランを組んだ。村の青年たちはそのとき、製麺器を50余りもつくった。軍民は、家々に集まり、夜が更けるのも忘れて歌をうたい、昔話に興じた。千鳳順の普天堡偵察談は、毎回爆笑をさそった。

 1937年5月末、千鳳順は、隅勒洞出身の遊撃隊員金雲信から、普天堡の敵の武装装備と兵力配置状態を探るようにというわたしの指示を受けた。彼は普天堡の街に住む親類を通して、警察官駐在所には巡査が7名おり、軽機関銃も1挺あるということ、山林保護区事務所には日本人が5名いるが、主任は間もなく転勤するということ、民家は200戸ほどだということなどを知った。けれども、それを自分で確かめずには、信じるわけにいかなかった。ある日、普天堡の街に入った千鳳順は、飲食店で酒を飲み、千鳥足で駐在所前の雑貨店に入った。彼は酒にひどく酔ったふりをして、1円札があったはずだがどこへいったのだろうとつぶやきながら、ふるえる手でポケットをまさぐった。そして、5円札を1枚取り出し、「うん、1円札がここにあったわい」と言って、「マコー」というタバコを1箱買った。当時「マコー」は、1箱5銭だった。5円を出したのだから、おつりは4円95銭になるはずだった。ところが、ずるがしこい女主人は、千鳳順が酔っぱらって5円札と1円札の区別がつかないのだろうと思い、95銭渡した。千鳳順の思惑どおりになったのである。彼は、女主人に、5円札を出したのになんで95銭しかくれないのか、4円をもっと出せと言った。女主人は、いかさま師め、1円をくれておいて5円を出したなんて、よくもそんなずうずうしいことが言えたもんだ、さっさと失せろとののしった。こうして、口論がはじまった。5円だ、1円だと言い争った末、女のほうが、駐在所の味を知らないからそんな言いがかりをつけるんだろうと脅かすと、千鳳順が、それじゃお巡りさんのところへ行って黒白をつけてもらおうと言った。女主人は、駐在所が自分の肩を持つだろうと思ったのか、彼の言葉に応じた。2人は駐在所でも口ぎたなく言い争った。どちらも自分のほうが正しいと言い張るので、駐在所側も是非の判断がつかず口論を傍観するだけだった。千鳳順はそのあいだに、巡査の人数、機関銃や小銃の数などを確かめた。そして、巡査に向かって、それじゃ一緒に店へ行ってみましょう、わたしが出した5円札は破れてまんなかに紙がはってある、それがあればわたしが白だし、なければこの女が白ですと言って当直の巡査を店へ連れ出した。千鳳順の言葉どおり、金庫のなかには、まんなかに紙をはった5円札があった。しかし女主人は、それは、朝ほかの客が出したものだと言い張った。結局、このもめごとでは、女主人に軍配があがった。千鳳順は、彼女に「おかみさん、ずるがしこく立ちまわって、どっさり金でももうけるんだな」と捨てぜりふを残して店を出た。店主は不正直な女だったが、ありがたかった。彼女でなかったら、駐在所に入り込む口実が見つからなかったからである。

 徳富洞の地下組織メンバーは、千鳳順の偵察談を聞いて勇気がわき、誇らしくなった。人民革命軍の国内進攻作戦に村の地下組織メンバーが一役買ったのだから、大きな自慢の種になったのである。

 全村が交歓集会の準備におおわらわになっていたとき、興をそぐ偵察情報が入った。満州国軍混成旅団長が、人民革命軍を「討伐」するため長白を発ち、韓家溝方面に軍を出動させたというのである。我々は、崔賢部隊と組んで正面から戦いを挑み、敵を一撃のもとに撃滅した。旅団の敗残兵たちは、革命軍の猛攻ぶりに仰天し、大勢の同僚を失ったその戦場への道を「狼牙道」と呼んだ。「狼牙道」とは、文字どおり「狼の牙のような道」という意味である。

 この戦闘によって、革命軍の権威はさらに高まった。戦利品のなかには、交歓集会をうるおす食品も多かった。

 晴れ渡った端午の日、地陽渓の台地では、軍民交歓集会が開かれた。3つの部隊が一か所に集まったので、広い台地はすっかり軍人で埋まった。祖国光復会の会員だけでも数百名も集まった。朝鮮民族解放同盟からも代表が送られてきた。各村の区長が秘密保持のため敵の手先を巧みによそへ誘導したので、集会は終始、自由な雰囲気のなかで進められた。この日は軍人と人民が別々に席を定めず、互いに入り交じって座をとった。年寄りたちが大勢参加したのがなによりもうれしかった。食べ物を囲んで車座をつくり、みなが存分に楽しみあった。村人たちが用意した食べ物のなかでいちばん人気があったのは、ヨモギ餅とヤマボクチの餅だった。

 わたしは崔賢と一緒に、李勲、安徳勲の案内を受け年寄りたち一人ひとりと挨拶を交わした。ついで、青壮年や女性たちの前を歩きながらみんなに挨拶した。彼らはみな、人民革命軍の国内進攻作戦を誠意をもって援助してくれたありがたい人たちだった。

 チマ・チョゴリ姿で集会場にあらわれた女性隊員もいた。昼も夜も脱ぐことのできなかった軍服をしばし脱いで、故郷の娘時代にかえった彼女たちの姿は、まるで天女のようにあでやかだった。彼女たちは、村の娘たちと対になって2人乗りのブランコ遊戯もした。森のなかには歌声が響き、踊りの輪がくりひろげられた。水を入れた真鍮のたらいに伏せたパガジ(ひさごの容器)を叩きながら歌の拍子をとる女たちもいた。

 はじめて会った人たちがどうして、長い別れのあとに再会した肉親のようにこうも厚い情を交わすことができるのだろうか。わたしはその日、軍民が一緒になって花の園をつくった地陽渓台地の情景を見ながら、こんな考えにひたった。敵は我々を孤立無援の存在だとうそぶいたが、我々は、献身的な愛と支援が波うつ人民の大海原に浮かんでいた。地陽渓台地にくりひろげられた軍民合同祝賀集会は、遊撃隊が人民に愛され、人民は遊撃隊に守られながら険しい歴史のいばらを踏み分けてきた抗日革命の縮図であった。

 わたしはその日、人民革命軍を代表して演説した。軍隊と人民は離れては生きていけない一心同体であるがために、革命軍は健在であり百戦百勝するのだという内容の短い即席の演説だった。そのなかで、国内進攻作戦についても簡単に触れたと記憶している。

 国内からやってきた組織の代表も演説をした。各界人士の演説が終わると、隅勒洞からきたという老人が、長白県祖国光復会組織を代表して我々に祝旗を伝達した。普天堡戦闘をひかえ偵察任務をりっぱに果たした馬東煕が、委任によって祝旗を受け取った。赤い緞子に黄色い絹文字を縫い取ったその小さい祝旗は、新興村の婦女会員と朴緑金がジャガイモの穴蔵にこもってつくったものだという。密偵や軍警がいつあらわれるか知れないので、外に見張りを立て一針一針縫いとったというが、朴緑金のような女性工作員にそんな刺繍ができるというのは驚きだった。

 軍民交歓集会は、盛大な閲兵式をもって幕をおろした。それは、抗日戦争開始以来、我々が挙行した多くの閲兵式のなかでも、かなり規模の大きいものだった。1948年の閲兵式と戦勝(朝鮮戦争勝利)閲兵式のとき、わたしはその壇上で、地陽渓台地での閲兵式を感慨深く思い起こしたものである。

 地陽渓軍民交歓集会は、軍民の偉大な政治的団結力をあまねく誇示した集会だった。この交歓集会に参加した人たちは、1940年代前半期、革命軍が完全に掃滅されたという日本帝国主義の宣伝を誰一人として信じなかったという。それは、地陽渓軍民交歓集会が人びとの胸にどれほど大きな印象を残したかを証明している。抗日遊撃隊員たちもまた、人民が自分たちへの愛情と信頼を捨てないものと確信し、その後も苦境に陥るたびに人民のなかへ入っていったものである。

 ところで、その日、金戊Mら第4師の何人かの隊員は、食糧が切れて行軍が遅れ、この盛大な交歓集会に参加できなかった。彼女らが、集会に間にあわなかったのが残念でならなかった。

 年がたち、解放された祖国で端午を祝うことになったとき、わたしは金正淑にはからって彼女ら全員をわが家に招いたものである。



 


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