金日成主席『回顧録 世紀とともに』

7 遊撃隊のオモニ


 白頭山で長年苦楽をともにした戦友のなかに、「オモニ(母)」と呼ばれた女性遊撃隊員がいた。司令部付き炊事隊員の張哲九(チャンチョルグ)である。隊内には、女性隊員が数十名もいたし、炊事隊員も少なくなかったが、「オモニ」と呼ばれたのは張哲九1人であった。年は、わたしより10歳余り上だった。10歳程度の違いなら「姉さん」とか「トンム(同輩にたいする呼称)」と呼んでもおかしくないのだが、わたしもふだんは彼女を「トンム」と呼ばず、「哲九オモニ」と呼んでいた。張哲九よりずっと年上の「パイプじいさん」までもが「哲九オモニ」「哲九オモニ」と呼んでは微苦笑をさそったものである。

 彼女が司令部付き炊事隊員になったのは、1936年春、馬鞍山でわたしが、民生団の調書包みを焼き払った直後のことだった。わたしは、金洪範から渡された民生団嫌疑者の大きな調書包みを一件一件調べていたとき、張哲九という名前をはじめて知った。なぜか、彼女の調書は赤インクで書かれてあった。調書には、延吉県で党活動にたずさわっていた夫が民生団員だとされ、2年前に処刑されたことと、張哲九自身についても、延吉県王隅溝で婦女会主任を務めていたとき、軍糧を故意に地中に隠し、隊員を飢餓に陥れるなどの破壊策動をおこなったという、いくつかの「罪状」が記されていた。赤インクで書かれた調書、男のような名前の中年女性、こうしたことが、まずわたしの注意を引いた。彼女は、外見もまた、かなりきわだっていた。女性隊員のなかで背がいちばん低く、眉も非常に薄かった。眉がないのでは、と思われるほどだった。

 彼女は、夫への愛情から革命の道を踏み出すようになった。夫を深く慕うあまり、夫の活動をも愛するようになったのである。夫に言われたとおり、ビラも張れば、レポも務め、革命家もかくまい、読み書きも習い、秘密の会合にも参加した。そうした過程で革命の道へ踏み出すようになったのである。ところが、杖とも柱とも頼んできた夫が、民生団の冤罪を着せられて処刑され、彼女自身も王隅溝で活動中に逮捕され、民生団嫌疑者を収容する獄につながれたのである。いつか、彼女の家で夫と差し向かいで温かいヒエ飯にカラシナ漬けの食事をごちそうになった「王同志」が、彼女を棍棒で打ち、頭髪をつかんで振りまわした。しかし、遊撃隊員や革命大衆は、審判場で彼女の処刑に反対した。彼女は、処刑をまぬがれはしたものの、民生団嫌疑者の汚名をそそぐことはできなかった。

 わたしは、神聖な革命を冒涜し、罪なき人たちを惨殺しようとする者たちによって人びとにかけられた民生団嫌疑の首かせをはずしてやったとき、彼女を司令部付き炊事隊員に任命した。張哲九が、炊事を担当すると、我々の食膳にはおかずの品数が増えた。彼女は、味噌やしょう油、キムチの即製が上手だった。おそらくいまの人たちは、1日か2日でしょう油や味噌がつくれるといえば、信じようとしないであろう。大豆を焦げない程度にいって熱湯につけると、水が赤くなる。これに塩を入れて煮つめると、しょう油のようになるのである。また、煮た大豆を壷に入れて熱い所に置くと、白っぽく発酵する。これに塩をふってわかしたものが納豆味噌で、味は、メンタイの味噌汁にそっくりである。彼女がつくった即製の納豆味噌やミツバヒカゲゼリの漬け物は、隊員に祝日のごちそうのように喜ばれる高級料理であった。

 彼女はまた、トウモロコシの胚芽をいって油を搾った。いつだったか、伝令の白鶴林が重病を患って寝込んだことがあった。ふだんなら、樹皮のようなものでも食べるほどの彼が、やわらかいトウモロコシがゆさえも吐き気がするといって食べようとしなかった。張哲九は、雪のなかから、ひからびた山菜を摘んできてあくを抜き、それをゆでてからトウモロコシの胚芽油でいためた。これを食べて、白鶴林は食欲をとりもどした。

 張哲九は、文字どおり遊撃隊の「オモニ」であった。部隊が出陣するときなどは、少年隊員のポケットにそっとおこげを入れてやったりもした。崔金山や白鶴林など少年伝令はもとより、呉仲洽や李東学のような古参の隊員も、張哲九には腹が減ったと遠慮なく言うのであった。

 彼女が誰よりも可愛がったのは、部隊の末っ子である「おこげ大将」の李五松だった。張哲九は、彼が遠くに姿を見せただけでも、おこげをチマに隠して走り寄り、彼のポケットに押し込んでやったものである。すると、李五松は、それを同じ年ごろの仲間と分けあって食べるのである。

 わたしはそんな光景を目にするたびに、なぜ、女のほうが男よりもずっと子どもたちによくなじみ、わけへだてのない仲になるのだろうかと考えてみたものだった。男より女のほうが子どもにとって一生のあいだにより親しい肉親になるのは、衣食をはじめ子どもたちの面倒をみるのが主に母親だからだと思う。子どもたちの面倒をみるのは、母親の務めである。だから「オモニ」という言葉の真意は、子を養い育てるもっとも慈しみ深い保護者だということなのであろう。

 この保護者の使命を誠実に果たした張哲九は、我々のもっとも親しみ深い「オモニ」となった。我々がぐっすり寝入っている深夜にも、彼女は、山菜を手入れし、臼をひき、箕で穀物をふるうなど、翌日の食事の支度に余念がなかった。夜中に臼をひくときは、はげしい吹雪の夜でも、戸外でそれをした。彼女は、いつも火の前で働くので、衣服も人一倍早く破れた。

 ある日、密営で娯楽会が催され、彼女が指名された。戦友たちは、誰もが彼女の歌を聞きたがった。料理の腕は確かなものだが、のどのほうはどうだろうかと期待をかけて拍手を送った。ところが、張哲九はいきなり立ち上がると、森のなかへ駆け込んでしまった。その唐突な行為に、みんなあっけにとられた。わたしは、彼女を弁護した。

 「哲九オモニが歌をうたわなかったからといって、気を悪くすることはない。オモニがみんなの前に立てなかったのは、衣服のためだったのだろう。みんなも知っているように、哲九オモニはつぎのあたった服を着ている。つぎはぎしたところは10か所以上にもなるだろう。そんな格好でみんなの前に立たされるオモニの気持ちを考えてみたまえ」

 わたしの言葉にみな共感した。張哲九自身ものちに、あのとき自分が逃げたのは衣装のためだったと語った。

 その後、わたしは小部隊を率いて戦いに出た折に、張哲九のために上等な服地を1着分買い求めた。1人の隊員に、値段のことは心配せずにいちばんよいものを選んで買ってくるようにと命じたところ、中年の女性に似合いそうなグレーの綿セルを手に入れてきた。生地については、それなりに明るい女性隊員が代わるがわる手に取ってみて、良質の服地だと請け合ったので、わたしも安心した。

 わたしは、生前の母に1着の服もつくってあげられなかった。小沙河のアシ原のみすぼらしいわらぶき屋に病身の母を残して南満州遠征に向かうとき、見舞いに持っていった1斗のアワも同志たちが準備してくれたものだった。わたしが母のためにしたことがあるとすれば、たった1回、八道溝にいたころ、ゴム靴を1足買ってあげたことだけである。しかし、その金もじつは、運動靴代にと母からもらったもので、わたしが工面したものではなかった。母は、息子の誠意をただの一度も受けることなく世を去った。生前、一度としてわが子のおかげをこうむったことがなかった母は、没後も息子からひとくれの土もかけられず、1粒の涙もそそがれることなく、小沙河の岸辺にさびしく埋葬されたのである。哲九オモニのために服地を買って帰るとき、わたしの胸中には、生前も没後も息子のおかげを、なに一つこうむることのなかった母への憐憫の情も宿っていた。

 ところが戦闘を終えて密営に帰ってみると、わたしのいないあいだに、張哲九が金周賢の指示で後方病院に転属させられていた。彼女が、なぜ司令部付き炊事隊から閑散な後方密営に移されたのか、その理由を知る者は誰もいなかった。帰隊した隊員たちはみな残念がった。わたしも気持ちがうつろになるのをどうすることもできなかった。

 当時、部隊では、炊事隊や裁縫隊、病院、兵器廠のような兵站部は、すべて給養担当官が管轄することになっていた。だから、給養担当官の金周賢が炊事隊員を他へ移したとしても、異とするにはあたらなかった。問題は、司令部付きの炊事隊で全隊員から尊敬され愛されている、任務に忠実な張哲九がどんな理由で後方密営に移されたのかということだった。張哲九と一緒に密営に残っていた金正淑に聞いてみたが、彼女も知らなかった。

 「後方病院のほうで哲九オモニをほしがったか、それともなにかやむをえない事情があったのではないでしょうか。哲九オモニは泣きながら密営を去りました。とてもつらそうなので、わたしのほうがかえって申しわけなく思うくらいでした」

 金正淑は、張哲九が後方病院へ向かったときの様子を話しながら、そっと目がしらをぬぐった。彼女が涙をこぼすのをみても、張哲九との別れが炊事隊員たちに痛ましい思いを残したのは疑いようもなかった。わたしも、いましがた別れたかのような胸のうずきを覚えた。後方病院に送るにしても、わたしが帰ってからにすればよかったのだ、そうすれば彼女に服をつくってやることもできたではないか、と怨めしい思いさえした。ところが、わたしが本気で怒ったのは、金周賢から張哲九の転属理由を聞かされたときだった。

 「わたしは、手斧事件以来、司令官同志の身辺は後ろ暗い点のない人たちだけでかためるべきだと考えたのです」

 金周賢の言う張哲九の転属理由であった。彼が手斧事件で大きな衝撃を受け、司令部の護衛に万全を期すべく決心したのはうなずけることだった。司令部の安全を気遣う点では、金周賢は全隊の手本といえた。だからこそ、わたしも彼を格別に信頼し、愛したのである。

 西間島全体が入隊熱で沸いていた1936年秋、我々は志願者を集め補充中隊をいくつか編成して教官を送り、黒瞎子溝密営で速成訓練をおこなうことにした。ところが、この補充中隊の新入隊員のなかに、手斧と毒薬の袋を隠し持ち、わたしの殺害をはかる敵のまわし者がもぐりこんでいた。出身からすれば、敵に吸収されるはずのない純朴な農村青年であったが、敵の権謀術数にはまって密偵に転落したらしかった。ある日、人民革命軍の服装をした敵兵が、彼の家へ押し入り、「匪賊」のように振舞った。病身の母親の薬代に当てようと柴刈りをして得た金や食糧、ニワトリなどを手当たり次第に奪っていった。そのあと、宣撫工作班の男があらわれ、彼の不幸を「慰める」一方、自分らの要求を聞き入れるまで執拗に反共宣伝と脅迫を繰り返した。こうして、彼は不本意ながら反革命の手先になり、我々の隊内に潜入したのである。しかし、彼が買収された密偵であることは、誰も気づかなかった。密営にやってきたとき、腰に差してきた手斧を司令部の近くに隠してしまったので、彼が疑われるようなところはなにもなかった。あるとき、わたしは、黒瞎子溝密営を訪れ、補充中隊の新入隊員たちが何日も乾葉のかゆで飢えをしのいでいることを知った。苦労を覚悟で遊撃隊に入った人たちだとはいえ、わが家を離れてまだ幾月もたっておらず、苦難に慣れてもいない新入隊員たちなので、十分な事前教育をほどこさないと弱気になり、動揺しないともかぎらなかった。それで、わたしはその夜、新入隊員たちを集めて、こんな話をした。

 ――諸君は父母妻子のいる心地よいわが家をあとにし、野外で寒さにふるえながら乾葉で飢えをしのがなければならないのだから、心の動揺が起きないともかぎらない。しかし、国を取りもどそうと出で立った青年たちが大志を貫くためには、こんな苦労も我慢して耐え抜かなければならない。我々はいまは苦しい境遇にあるが、祖国を解放したあかつきには、こうして戦ったことに誇りをいだくようになるだろう。我々は祖国を解放したのち、三千里の国土に住みよい人民の国を建てようとしている。搾取する人間も、抑圧される人間もいない、誰もが平等な権利をもってひとしく豊かに暮らせる人民の楽園をつくろうというのだ。工場も土地も人民の所有とし、すべての人の生活を保障し、教育と治療も国が責任をもっておこなう民衆第一の国を建てようというのだ。そのときには、世界の人びとがわが国に来てみてうらやむことだろう。

 新入隊員のなかには、敵から密偵の任務を受けた例の青年もいた。彼は、わたしの話を聞いて、自分が敵にだまされ、りっぱな人を害しようとしていたことに気づいた。そして、たとえ厳罰に処せられようとも、いさぎよく自首しようと考えた。彼は決心どおり、わたしの前に手斧と毒薬の袋を差し出して自分の正体を明かした。その素直な告白を聞いて、我々は寛大に彼を許した。

 この出来事に衝撃を受けた指揮官たちは、それぞれ自分なりの教訓を引き出した。司令部の護衛にもっと力を入れなくてはならないと考える者、入隊審査を厳格にして、偶然分子や異分子の潜入を防ごうと考える者、さらには、西間島全域で敵の手先や悪質な反動分子を一掃する闘争を大衆的にくりひろげ、1人のスパイや密偵も密営に近づけないようにしようと考える者もいた。

 金周賢の考えはそれら以上に複雑であった。

 「わたしはそのとき、司令部の護衛に万全を期するためには司令部の内外に深い注意をめぐらすべきだと考えました。敵は外におり、内部にはいないなどとは断言できませんし、外部の敵がカモフラージュして、我々の内部にひそんでいる反動分子や動揺分子と連係をつけないともかぎらないではありませんか。経歴の複雑な人たちを司令部のまわりに置くべきではないとわたしが考えたのはそのためです」

 彼の言葉によると、結局、張哲九のような民生団の嫌疑者は、司令部付き炊事隊員の資格がないということになる。わたしは口惜しさと憤りをおさえることができなかった。ひたすら誠実に革命につくしている純朴で実直な彼女を、どうしてそのように冷たく扱うことができたのだろうか。あれほどおおらかで思慮深い金周賢がこんな途方もない失策をしでかしたと思うと、よけい腹にすえかねた。わたしは、語気を荒だてて言った。

 「きみがわたしの安全をはかり、いつも気をつかってくれることには感謝している。しかし、きょうはきみに少し痛い忠告をしようと思う。張哲九オモニにたいしては、きみも、実直で勤勉な人情深い女性だとたびたびほめてきた。それなのに、どうして彼女への信頼がそれほどもろく崩れたのか。彼女は我々みんなの母がわり、姉がわりとなってきた。我々に三度三度欠かさず温かいご飯、温かい汁をつくってくれたのは誰だったのか。哲九オモニだった。もし彼女が悪い女だったとしたら、我々はとっくにこの世の人ではなくなっているはずだ。我々を殺害する機会はいくらでもあったではないか。しかし、我々は、哲九オモニがつくるご飯を数百回も食べていながら、みな無事でいる。これは、哲九オモニが疑いをかけられるいわれが少しもない堅実な女性であり、以前、彼女にかけられた民生団の疑いがまったく不当なものであることを証明して余りある」

 金周賢は後日わたしに、あのときのように冷や汗をかいたことはなかったと述懐した。実際、わたしは金周賢が、そんなとんでもない失策をするとは夢にも思わなかった。彼は、革命経歴の古い老練な軍・政幹部であった。我々はいつも同じ釜の飯を食って過ごし、一つの机に向かいあって活動について討議し、心を一つにしてきた。わたしの路線や意図を誰よりも熟知しているはずの金周賢が、共産主義者としての信義や道徳に背いて、人の運命をこれほど非人情に扱ったとは、どうにも理解できないことだった。わたしは批判をつづけた。

 「我々が、馬鞍山で民生団の調書包みを焼き払ってからもう半年が過ぎた。人びとの心のしこりもほとんどなくなっている。ところが、きみはなんのために、そのしこりをいまさらほじくりだすのだ。いまからでも張哲九は山をおりれば、再婚をし、暖かい部屋でご飯を食べながら安らかに暮らせるのだ。しかし、彼女はそういう道を選ばず、我々と一緒に苦しい山の生活を送っている。革命を志し、我々を信頼しているからではないか。ところがきみは、彼女を司令部から追い出し、彼女にたいするわたしの信頼まで偽りのものにしてしまった。いったい我々は、ふだんは信頼していると見せかけて包容し、ことあるときは平気で追い出すような卑劣な人間だったというのか。信頼には偽りというものはありえないのだ」

 金周賢は、その日のうちに後方病院から張哲九を連れもどし、翌日は、裁縫隊員たちに督促して、彼女の衣服をつくってきた。しかし、張哲九は、金周賢の指示をいつも忠実に果たしながらも彼を敬遠した。たまに、密営の小道や食堂で2人が会うような機会があっても、敬礼をするだけで、自分から言葉をかけようとはしなかった。指示を求めるときは、他の炊事隊員を彼のもとへ送った。

 張哲九が、後方病院で過ごした日数は一瞬にすぎないといえる。しかし、その数日のことが忘れられず、彼女は長いあいだ心の傷をいやせなかった。不信が人間関係に及ぼす破壊力ははかり知れないほど大きいものである。ちりほどの不信が一生の恨みを買い、10年来の友情にも瞬時にひびが入るのである。

 張哲九が司令部付き炊事隊にもどってから、密営は活気を取りもどした。食べ物の味もたちまち変わった。同じトウモロコシがゆでも、以前に比べてずっとおいしくなるのだから不思議である。それは、彼女のつくるものにまごころがこもっているからである。じつのところ、張哲九は腕利きの調理師というわけではなかった。だが、彼女は前にもまして一生懸命に働いた。わたしの好むものであれば10里の道もいとわず求めてきた。ある日、わたしは十九道溝を通りかかったとき、李勲の家で食事をもてなされ、オニタイミンガサの葉で飯を包んで食べた。はじめて食べるその味は、チシャの葉以上であった。密営に帰って閑談中、そのことを話すと、張哲九は、さっそく数里も先の十九道溝へ行き、オニタイミンガサをどっさりかかえてきた。その後、白頭山密営地でオニタイミンガサの生えているところを見つけ出しさえした。

 張哲九は、湿気の多い炊事場の近くで木の枝や枯れ葉を敷き、体を丸めて寝るのがつねだった。そうした無理がたたって、右腕が次第に麻痺してきた。そのうえ熱病にまでかかった。わたしは、彼女を安図県五道揚岔の谷間に送り、治療させた。「看護兵」の任務をおびて同行したのは、朴正淑と白鶴林であった。のちには、金正淑が彼女の看護を担当した。彼らは、張哲九の介護のためずいぶん苦労をした。わたしも池鳳孫伝達長を伴って、五道揚岔にあった彼女の小屋を一度訪ねたことがある。

 張哲九は数十日後、熱病から立ち直ったが、右腕の麻痺は治せなかった。そのため、炊事はもちろん、銃の操作もままならなかった。自分が部隊の重荷になったと思い、張哲九は毎日、苦悩にもだえた。そして、自分が部隊に残っていては、戦友たちに負担をかけるだけだと思うようになった。1940年代の初、隊内の身障者や老弱者をソ連に送ることにしたとき、彼女は同行を申し出た。別離を前に、張哲九は、いつもはめていた銀の指輪を金正淑に贈り、朝鮮が独立したらまた会おうと約束した。しかし、その約束は果たされなかった。張哲九は、金正淑の死を遠い異境で聞いたのである。金正淑に贈られた銀の指輪はいま、朝鮮革命博物館に保存されている。張哲九と一緒に司令部の炊事を担当していた人のなかには、連合東という名の中国人隊員もいた。彼は、中国料理が上手だった。張哲九が誠実な炊事係であったとすれば、連合東は腕利きの調理師であった。彼が、我々の部隊に入隊したのは1936年冬のことである。彼は入隊後、しばらく張哲九から遊撃隊の調理法を学び、張哲九は彼から中国料理のつくりかたを教わった。そうするうちに2人は、たいへん親密な間柄になった。張哲九がソ連へ向かうとき、連合東は非常にさびしがり、中国料理を一包みつくって哲九オモニの背のうにつめこんだ。張哲九も、彼と別れるのをとても名残惜しがった。

 連合東の入隊は、思いがけない邂逅劇とかかわっていた。その主人公は、吉林で戒律を破り酒と豚肉を好んで飲食していた例のイスラム教徒馬金斗である。馬金斗は、わたしとは、吉林毓文中学校時代の同窓であるばかりでなく、八道溝小学校時代の校友でもあった。

 八道溝時代の知己のなかには、印象深い人たちが多かった。八道溝警察署長の息子黎賢章もわたしとは浅からぬ因縁があった。彼も八道溝小学校の同窓で、父親はわたしの父の治療を受けていた患者の1人だった。それで、恩返しにと祝祭日には欠かさず贈り物を持ってわが家を訪れたものである。わたしは、西間島地域で遊撃活動をおこなっていたころ、黎賢章の紹介で八道溝警察署長とも連係をつけた。そのときの署長は黎賢章の父親ではなく、ほかの人であったが、彼もまた良心的な人間だった。彼は我々と戦わないことを約束してからは、革命軍に送る人民の援護物資にはいっさい手をつけずに通過させた。それで、我々は、長白県内の他の地区はすべてたたきながらも、八道溝だけは一度も攻撃しなかった。

 馬金斗は性格が特異であったが、私生活も並外れたところがあった。早くも中学校時代に結婚をしたが、それも同時に2人の女性を妻に迎えたのである。2人の妻は姉妹であった。最初は姉と愛しあい婚約したのだったが、姉の使いをしていた妹が彼に思いを寄せ、恋の病にかかったので、やむをえず両親は娘を2人とも彼にやったのである。金にこと欠かなかった馬金斗は、妻にも恵まれたわけである。

 わたしは出獄して吉林を去って以来、馬金斗の消息についてはなにも聞いていなかった。ところが、運命のいたずらといおうか、彼とは銃口を向け合う敵同士となっていた。我々が、白頭山に進出した年の冬のことだった。馬金斗は、二道崗の満州国警察「討伐隊」の隊長を務めていた。二道崗は、黒瞎子溝密営からもっとも近い敵の主要「討伐」拠点で、満州国警察「討伐隊」のほかに、咸興第74連隊から派遣された数百名の日本軍「討伐隊」が駐屯していた。わたしは最初、馬金斗が満州国警察「討伐隊」の隊長をしていることを知らなかった。その年の秋、2度目か度目の二道崗襲撃戦闘のさい、隊員たちが逃亡した満州国警察「討伐隊」の隊長宅を捜索中、拳銃を手にして隠れている隊長の妻と調理師を見つけて引っ立ててきた。ところがなんと、その隊長の妻というのが馬金斗に嫁いだ妹のほうだったのである。

 馬金斗の吉林での結婚式には、わたしも招待されて参加したので、すぐに彼女だとわかった。彼女もわたしを覚えていた。じつに劇的な出会いであった。彼女の話によると、馬金斗は、早くも4人の子をもつ父親だった。自分は男の子を2人、姉のほうは女の子を2人もうけたという。彼女は、夫はいまも吉林時代のことが話題にのぼると金成柱先生のことを回顧している、その先生がどうして「金日成共匪」の群れに加わっているのかと聞くのだった。彼女は、吉林時代の金成柱が金日成だとは知らなかったのである。

 わたしは彼女に語った。

 ――あなたたちが、「共匪隊長」だと言っている金日成とはわたしのことだ。我々は、共匪ではなく、朝中人民の敵日本帝国主義に抗して戦っている革命軍だ。主人が帰ったら、わたしの挨拶を伝えてほしい。以前の友情にかけて、同窓生として心から勧告する。ここで勝ち目のない戦いなどしようとせず、こっそり避けるようにと言ってもらいたい。避けることが困難なら、「討伐」に駆り出されても、戦う真似だけをするようにと言ってほしい。我々は悪どく抵抗する満州国軍はたたくが、そうでない満州国軍は寛大に扱う。わたしは、馬金斗が、日本侵略軍の弾除けになることも、革命軍の銃弾にあたって死ぬことも望まない。彼は、我々の友となるべき人であって、敵となるべき人ではない。

 馬金斗の妻は、「金日成共匪団」が満州国軍にやたらに発砲しないことは夫も承知していると言った。黒瞎子溝入口での戦闘のとき、人民革命軍の夜間襲撃班は敵の宿営地を奇襲したが、日本軍のテントを狙い撃ちにし、満州国軍のテントには射撃を加えなかった。これを知った日本軍「討伐隊」の頭目たちは、その腹いせに、戦闘現場にいた満州国軍将校を1人残らず銃殺してしまった。馬金斗がからくもそのおぞましい惨殺をまぬがれたのは、風邪を理由に「討伐」に加わらなかったからだったという。馬金斗は、おそらくこの出来事を通して、我々の対敵方針をある程度理解したようである。

 馬金斗の妻は、金日成部隊がどうして満州国軍にはそれほど寛大なのかがよくわかった、成柱先生が、学窓時代にも朝中親善をつねに強調し、中国人の学友たちと親しく交わっていたことを自分たちもよく知っている、そのことについては、夫もしばしば語っていた、成柱先生が中国人をこれほど尊重し、満州国軍を寛大に扱ってくれていることについては感謝のほかない、夫を説得して二度と革命軍に銃口を向けることがないようにする、夫も金日成隊長が、金成柱先生だと知ったら深く自省するだろうと話した。わたしは彼女に、歴史に汚名を残す逆賊にならないよう、主人をよく説得してほしいと、重ねて言い含めたあと、彼女と調理師を送り帰し二道崗から引き揚げた。

 ところが、調理師は、馬金斗の妻にはついて帰らず、わたしのところにやってきて入隊を申し出た。この調理師が、ほかならぬ連合東だったのである。彼は、馬金斗の2人の妻が1人の夫をはさんでいがみあっているので、ほとほと閉口した、革命軍に入れてほしいと言うのだった。

 「わたしは、馬金斗隊長から金成柱先生のことをいろいろと聞いています。その金成柱先生が、ほかならぬ金日成将軍だと知っては、もう将軍のそばを離れたくありません。将軍の部隊で戦えれば死んでも本望です」

 わたしは、彼の入隊を許した。そのころ、魏拯民が横山後方密営で治療を受けていたので、彼に中国料理をつくってやれる調理師ができたのがうれしかった。隊内には彼の口に合う中国料理をつくれるほどの人がいなかったので、わたしだけでなく、金周賢もたいへんつらい思いをしていた矢先であった。わたしは、連合東をしばらくのあいだ魏拯民のもとへ送って、彼の面倒をみさせた。魏拯民は、彼が一流の料理店で働いても遜色のない調理師だと言って、ことさら大事にした。連合東はそれ以来、日本帝国主義が敗亡し、1945年9月に我々が祖国に帰るまで、ずっとわたしのもとで炊事隊員を務めた。彼は同じ材料を使っても多種多様な料理がつくれる、特殊な才能の持ち主だった。彼は飯は大釜で炊くにかぎると言って、いつも大釜を背負って歩いたものである。

 1940年代の前半期、ソ満国境地帯の訓練基地にいたころ、我々は中国の同志たちとともに、ソ連軍とも連合軍を編成してたびたび合同演習をしたものだが、そのたびに連合東の料理の腕が広く知れ渡り、中国側の指揮官はもとより、ソ連側の指揮官たちも我々の野戦食堂へよくやってきたものである。ある日、連合東がつくった中国料理を味わった周保中は、彼を譲ってくれないかと冗談まじりに言った。すると安吉が、それは結構な話だと請け合った。これが、まじめなやりとりと勘違いされて、連合東の耳にまで入った。泣き顔になってわたしのところへやってきた彼は、自分を中国人部隊に移すというのは本当かとただした。

 「どの部隊へ移ることになるかはわからないが、きみを欲しがる人が多くて困っている。ソ連の同志たちもきみを欲しいと言っている。ソ連の同志たちが、どうしてもと言えば、そちらへ行くほかないかも知れない」

 わたしの返答を聞いて、彼は飛び上がらんばかりに驚いた。そして、自分は中国人部隊にもソ連軍部隊にも決して行かないといちずなまなざしで言った。

 彼の言ったことが本心であったことを、わたしは日本の敗亡直後いっそうはっきりと知った。解放された祖国に来るとき、わたしは、彼を呼び、10年近くの労をねぎらったあと、彼を周保中部隊に編入させることにした党組織の決定を伝えた。周保中は、連合東が自分の部隊へ来れば、連隊長に任命すると約束していた。連合東はそう言われると、ぜひとも朝鮮へ連れていってほしいと懇願した。

 「いまはもう将軍のそばを離れては生きていけません。わたしが中国人だからといって、必ず中国で暮らさなければならないという法はないでしょう。連隊長だろうとなんだろうとみな願い下げです。わたしを将軍のそばにいられるようにだけしてください。日本軍の銃剣も満州の風も引き裂けなかった情誼ではありませんか。国籍が違うからといって、その情誼をむりやりに断ち切る必要がどこにありましょうか」

 連合東の言葉にわたしは感動した。そこには、革命の途上で同志のために血も涙も流し、あらゆる艱難をなめた人ならではの人生観が集約されていた。彼の言葉どおり、人間は、山河に引きつけられて生きるのではなく、人情に引きつけられて生きるのだといえる。白頭の密林と満州の広野で抗日闘士たちを一つの大家庭に結びつけたのもやはり情誼であり、愛であった。人間の住むところに情誼がなく愛がなければ、山河も光を失うものである。連合東が我々と行動をともにしたいと強く願ったのは、国際主義精神の崇高なあらわれでもあった。

 わたしも本当は彼を手放したくなかったが、こう言って諭した。

 ――どうしてもと言うなら好きなようにするがよい。わたしもきみとは別れたくない。国籍などどうでもよい。ただ、きみの立場が苦しくなりはしないかと、それが心配なだけだ。きみも承知のとおり、中国はいま内戦前夜にある。わたしは、中国革命を支援するため姜健をはじめ、多くの朝鮮人軍・政幹部と闘士たちを送ることを周保中に約束した。朝鮮人が中国革命を支援しようとしているとき、中国人のきみが自国の革命に顔をそむけて朝鮮へ行くとしたら、誰でもおかしく思うだろう。きみ自身も決して穏やかな気持ちではいられないのではないか。

 連合東は、中国への道を選んだ。彼は、中国革命が勝利したら朝鮮へ行くから、そのときは平壌美人を妻に選んでほしいと冗談まで言った。けれども、わたしは、彼の望みをかなえてやることができなかった。彼は、連隊長になって蒋介石国民党軍と勇敢に戦い、戦死したのである。その悲しい知らせを聞いて、わたしは彼を朝鮮に連れてこなかったことを悔やんだ。しかし、連合東は、新中国の創建をめざす革命戦争に貴い生命をささげ、中国人民の心にいつまでも生きつづけることになった。

 連合東は朝鮮に来られなかったが、そのかわり遠い中央アジア地方へ行っていた張哲九が朝鮮戦争後我々を訪ねてきた。彼女が帰国して間もなく、白頭山時代の戦友たちが一堂に会した。彼女は、わたしに電話をくれた。

 「将軍、白頭山時代の同志たちがみな集まりました。時間をつくって参加していただけませんか。20年ぶりにつくったトウモロコシがゆを、将軍にも味わっていただきたいのです。遠い他国から手ぶらで帰ったものですから、将軍に差し上げられるものはトウモロコシがゆしかありません」

 わたしはぜひとも参加したかったが、事情が許さなかった。

 「ありがたいことだが、わたしはこれから地方へ出かけるところです。人民と約束したことなので、取り消すことができません。またの機会にしてもらいましょう」

 その日、戦友たちは、白頭山でのように焚き火で炊いたトウモロコシがゆで舌づつみを打ったという。それ以来、わたしは、白頭山時代がなつかしく思い出されると、張哲九にトウモロコシがゆをつくってくれるように頼んだものである。

 張哲九は、わたしの家の向かいの高台に住居を定めて暮らした。彼女は、わたしの家を足しげく訪れた。わたしも暇を見つけては、彼女の家を訪問したものである。

 祖国に帰ってから彼女がしたことは主に、若い人たちに白頭山でともに戦った戦友たちの話を語って聞かせることだった。

 張哲九は、1982年に死去した。彼女の死は、わたしに大きな衝撃を与えた。彼女が息を引き取ったとき、わたしは生みの親を失ったような悲しみにとらわれた。彼女は、まごころをつくして、わたしを実の弟のようにいたわってくれた。それは、実母の愛に劣らぬものだった。

 我々は、革命武力の建設で大きな功労を立てた闘士と同じように、彼女を国葬に付した。その平凡な女性を後の世の人たちもいつまでも忘れないよう、大城山の革命烈士陵には胸像を立て、彼女をモデルにした劇映画『しゃくなげ』もつくった。

 わたしが平壌商業大学に彼女の名を冠したところ、人民はみな喜んだ。平壌商業大学に平凡な炊事隊員の名を冠したのは、職業の貴賎を問うことなく人民の生活上の便宜と食・衣・住の向上をはかって献身的に働く、サービス部門関係者や隠れた英雄を高く評価する朝鮮式社会主義制度のもとでのみ見られることだとして、感動したのである。

 平壌商業大学を張哲九大学と命名するとき、わたしは、新しい世代が彼女のように革命の任務に忠実な働き手になることを願ってやまなかった。



 


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