金日成主席『回顧録 世紀とともに』

6 こだわったこと


 撫松遠征を終え、部隊を率いて再び長白に帰り、新興村付近で祖国進軍の準備を進めていた1937年5月下旬のことだった。ある日、わたしは伝令を伴い、新興村からほど遠くない吉城村を訪れた。吉城村は、我々が白頭山地区へ進出した年の冬以来のなじみの村であった。

 わたしは、長白に来てからも大衆工作に力を入れた。援護物資を持って密営を訪ねてくる人たちにも会い、中間連絡地点やさまざまの秘密の場所に人を呼びもし、住民地区へじかに出かけて大衆と接触もした。このような活動を通して民心を知り、敵の動静を探り、大衆の啓蒙にも努めた。

 わたしは、長白地方の多くの農村をまわってみた。はじめて吉城村を訪れたとき、わたしは、そこに3日間滞在した。農家が10戸足らずのむつまじい村で、わずか3日間で全村民と顔見知りになれた。我々は、ここで大衆政治活動をおこなう一方、国内工作員とも会った。猟師を装ってこの村にあらわれた田中という日本人密偵を摘発し、処刑したのもそのときのことだった。彼は、専門の特務機関で訓練を受け、長白地区に派遣されていた老獪な密偵だった。朝鮮生まれの彼は、この土地の者に劣らず朝鮮語を自由に操った。朝鮮の風習や作法にも明るく、十九道溝と二十道溝の人たちは、彼が何か月も猟銃をかついで長白地方を歩きまわるのを見ていながらも、日本人だとは気づかなかった。田中の正体を見破ったのは、吉城村の地下組織であった。

 わたしは、吉城村では張という老人の家に泊まった。その家は、部屋が広く、暮らしも他の家に比べてゆとりがあった。村の老人たちは、わたしがこの家にいるとき、毎日のように遊びに来た。背に長いキセルを差してやってきては、夜遅くまで昔話をしたり、南次郎がどうの、満州国がどうのと時局を論じたりした。教育というものをほとんど受けていない年寄りたちだったが、情勢の分析だけは確かなものだった。国権を奪われた人民にとって、なによりも早く成長するのは政治意識なのであろう。

 ある日の夕方、30歳前後の丸刈りの農夫が、老人たちと一緒に張老人の家にやってきた。ちょっとした相撲取りを思わせる容貌や体つきとはうらはらに、驚くほど純朴でおとなしい若者だった。30ともなれば、もう世事を知りつくしたような口を利くころである。農村のたまり場などに行けば、30代の若者たちの声がいちばん高かった。10代や20代の者がなにかを主張すると、乳臭いことを言うなと鼻で笑い、50代や60代の老人がなにか説教めいたことを言うと封建臭がすると決めつけるのも、血気盛んな30代の若者たちだった。ところが、この青年はみんなの後ろにかしこまって、わたしの話を黙って聞くだけだった。年寄りたちがわたしの質問に答えて村の実情を話すときも、口をさしはさもうとしなかった。また年寄りたちが、白頭山にいる金隊長の軍隊はどれくらいなのか、パルチザンには速射砲もあるというが、本当か、日本はだいたい何年ぐらいで敗亡するか、金隊長のご尊父はなにをしておられる方か、などと思い思いに質問をするときも、彼はただ笑顔で聞いているだけだった。そして、わたしと目が合うと、首をすくめて前の人の背中に顔を隠すのだった。なにか聞きたそうな表情を見せることもあったが、おずおずして、すぐあきらめるのを見て、もしや言語障害者ではないかと思ったほどである。そんなぎこちない物腰を見ていると、なぜかわたしまでがぎこちなくなる思いがした。わたしは、年寄りたちに暮らし向きのことをなにかと聞き、その青年にも何度か質問をしたが、それでも口を開こうとしなかった。年寄りたちは、もどかしげに若者を振り返った。彼に代わって老人の1人がこう言った。

 「将軍、あれは作男です。いまだに独り身で、親類とていません。金月容という名で、南道(南部朝鮮)で生まれたと言いますが、故郷も親の顔も覚えていない気の毒な男です。年も30そこらというだけで、確かなことはわからないのです」

 人間は、自己喪失をすると意思表示も思うようにできないものらしい。どれほどむごい扱いを受けて、聞かれたことにも答えられない哀れな人生を送っているのだろうか。

 彼のそばに座り、手を取ってみると、まるで熊手のようにごつごつしていた。どんなに苦労して、手がこんなにまでなったのだろうか。腰は弓のように曲がり、衣服もひどいものだった。彼が年寄りたちの後ろに隠れるようにして座っていたのも、そんな身なりのせいだったのかも知れない。他人の質問に一言も答えられないような性格にもかかわらず、遊撃隊司令官のいる家にやってきたのは、それなりに自意識があり、思慮もあってのことだろうと思うと、それがうれしかった。いつから下男暮らしをしているのか、と聞くと、「小さいころから…」とやっと一言答えるだけだった。言葉つきからして全羅道の人と思われた。西間島を含む東北地方には、全羅道の出身が多かった。日本帝国主義者は、満州の土地を大々的に略奪するため、悪名高い「鮮農移満政策」にもとづき、「集団開拓民」という名のもとに数万の朝鮮農民を中国東北地方に強制移住させたのである。

 人びとが帰ったあと、わたしは主の張老人に尋ねた。

 「ご老人、あの青年はどうしてまだ独身なのですか」

 「小さいときから下男暮らしをしたので、30過ぎのいまも嫁をもらえず、さびしく暮らしていますんじゃ。健気な若者じゃが、嫁のきてがいません。娘をやろうという者がいないもんでね。独り身で苦労しているのをみると、まったく哀れというほかない。ほら、あんな小坊主も嫁をもらって大人扱いされているというのに…」

 わたしは、張老人が指差す戸外に目を向けた。学習ノートほどのガラス窓のある障子戸の外に、12、3歳の少年がチェギ蹴り(銅銭などを紙や布で包んで羽根をつけ、足で蹴上げる遊び)をしていた。あんな年端もゆかぬ少年が嫁をもらっているというのである。早婚のうえに、強制婚、売買婚まで盛行する時代ではあったが、舌打ちせずにはいられなかった。

 やや後の話ではあるが、我々の部隊にもその少年に劣らぬ「ちびっこ新郎」が何人かいたものである。長白出身の遊撃隊員金洪洙も実際、10歳になるかならずで結婚した「ちびっこ新郎」だった。彼は、そんな呼び名がぴったりのきわだって小柄の隊員だった。30前後の老チョンガーと10そこそこの「ちびっこ新郎」! この笑えぬ対照に、わたしはうっ憤と悲しみを禁じえなかった。老チョンガーも「ちびっこ新郎」も時代の受難者という点では、似た者同士である。けれどもわたしは、30になっても妻帯できずにいる老チョンガーのほうにより深い同情を覚えた。早婚の犠牲者だとはいえ、「ちびっこ新郎」には、それでも妻があり、生活があるではないか。

 その夜は、金月容のことを思って眠れなかった。1人の人間が歩んだ悲惨な半生を思い描いて、気持ちが落ち着かなかった。金月容の存在は、そのまま受難にみちた茨の道を歩む祖国の姿であり、その浮き草のような人生は、亡国朝鮮が涙でつづる歴史の縮図であった。

 わたしはその夜、彼に配偶者を決めてやらなければという衝動を覚えた。男1人に家庭も持たせてやれないようでは、奪われた祖国をどう取りもどせようかと思ったのである。人民革命軍にももちろん、婚期を逸した老チョンガーが多かった。それは、彼らがいつ勝利するとも知れない長期の武装闘争の道を選んだからにほかならない。遊撃戦は、あらゆる形の闘争のなかで、もっとも苦しく、犠牲を伴う戦いである。機動が激しく、行動半径の大きい反面、生活条件はきわめて悪かった。こんな戦いをしながら家庭を築くなど、普通の人間には想像することも実行することもむずかしいことである。少なからぬ女性隊員が入隊するさい、子どもたちをしゅうとにあずけたり、養子、養女にやったりしたのもそのためだった。夫婦がともに遊撃隊に入隊した例もままあったが、その夫婦生活は名ばかりのものだった。我々は、外部勢力によってこのような異常な生活を強いられていたのである。

 日本帝国主義者は、一握りの親日派や民族反逆者を除く全朝鮮民族を正常な生活軌道から仮借なくはじきだした。国権の喪失とともに、民族の風土に培われた固有の生活は破壊された。人間が人間らしく生きるために必要な初歩的な自由と権利、生存条件、伝統的な風習は跡形もなく踏みにじられた。日本帝国主義は、朝鮮人民が豊かに暮らし、人間らしく生きることを望まず、犬や豚、牛馬のような存在に蹴落とそうとした。それで「愚民化」という言葉も生まれたのである。学齢児童が学校に通えず、浮浪者やルンペンが街をさまよい、生活苦のため青年男女が婚期を逸し、夫婦が同じ屋根の下で暮らせず山中で苦労していたが、彼らは朝鮮人などどうなろうとかまわなかったのである。ところが、彼らが背を向けるそのすべてが、我々にとっては最大の関心事であった。我々が家庭を持てないのはやむをえないとしても、金月容のような老チョンガーがどうして嫁をもらえないのか。国が滅んだからといって、家庭すら持てないというわけはないではないか。

 わたしは20代になる前、青年学生運動や地下活動にたずさわりながら、他人の縁談に何度か関与したことがある。その一例が、この回顧録の第2巻でちょっと触れた孫貞道牧師の長女の孫真実の縁談である。わたしが彼女の縁組にかかわったのは、まったく偶然ないきさつからであった。ところが、それが一時、吉林の同胞社会でうわさの種となった。学期休みに撫松のわが家に帰ると、母も吉林の学友たちと同じように、「仲人はうまくいけばお酒3杯、失敗すればびんた3つ」という先人の言葉をもってわたしをたしなめた。わたしは母の戒めを心にとめた。

 当時、わたしの友人のなかには、恋愛や結婚をプチブル的感傷主義に由来する瑣末事だとし、革命と学習、労働を離れた想念はすべて雑念だと決めつける風潮があった。国を丸ごと奪われ亡国の民となった我々に、惚れたはれたの遊惰な生活が許されてよいのか、国権も回復できずに恋愛などをしてなにになり、異性を愛してなにが楽しいのか、というのである。もちろん、そのような立場や態度には極端な側面があったが、一部の民族主義者や旧世代の共産主義者たちが恋愛や家庭の問題でさまざまな不祥事を引き起こし、なかには革命の隊伍から脱落する者さえあらわれるのを見て、そのような考えが強まり、ひいては家庭を持つ少なからぬ学友が学業をおろそかにし、家庭の雑事に埋もれる弊害を目のあたりにして、それが定見としてかたまるまでになったのである。

 しかし、国が滅んだからといって、愛もなくなったとはいえないであろう。滅びた国のなかでも、生活はつづき、愛は花を開かせるものである。年ごろになれば、青年男女のあいだには愛が芽生え、恋愛もすれば結婚もするようになり、子沢山にでもなると、子なしが果報者だなどと愚痴の一つもこぼしながら生きるのが人生である。

 わたしは、志を同じくする「トゥ・ドゥ」のメンバーが愛の問題で悩みもし喜びも味わい、離別もすれば結ばれもするのをいろいろと見てきた。金赫は革命に熱中しながらも承少玉を愛し、柳鳳和は李済宇を慕って革命活動に身を投じた。申永根は、共青活動の過程で反帝青年同盟員の安信英と結ばれた。崔孝一夫婦は武装闘争の準備に役立てようと、十数挺の銃器を盗んで日本人武器商店を飛び出し、孤楡樹のわたしを訪ねてきた。車光秀は、小説『アブ』に登場するジェンマーのような女性にあこがれていた。

 愛は革命活動の妨げになったのではなく、むしろ、それを励まし、促す推進力となった。崔昌傑が家庭を持っていたことは、南満州遠征を回顧したときに触れた。彼は柳河県に残してきた妻子を思っては、いつも勇気を奮い起こしたものである。承少玉の清楚な姿は、熱血漢の金赫に詩や音楽を生み出させる泉となった。全京淑は、金利甲が大連監獄につながれると家出して大連に移り、9年ものあいだ差し入れをつづけた。差し入れというただ一つの目的で、大連紡織工場の女工になったのである。敬虔なクリスチャンを両親にもつ全京淑をこのように世に広く知られる烈女にしたのも、ほかならぬ愛であった。こうしたなかで同志たちは、次第に愛と結婚、家庭についての考え方を変えていった。家庭を築いても革命活動はりっぱにつづけられる、家庭と革命は分立しているのではなく密接に結びついている、家庭は、愛国心と革命精神の泉であり、原点であると認識し、それを一つの家庭観としたのである。

 わたしは五家子で活動していたとき、辺達煥の縁組をとりもったことがある。彼は当時、五家子農民同盟の責任者を務め、多忙な日々を送っていた。野良仕事の余暇に社会活動をするので、いつも忙しく走りまわっていた。父と子が、ともにわびしいやもめ暮らしをしていたのである。辺達煥は、年齢では李寛麟と同じ世代に属していた。わたしの父と同世代ともいえる人が、米をとぐ器の前にしゃがみこんで、ごつごつした手で石粒を選り出し、たらいや水がめを持って台所を出たり入ったりしている姿を見ると、そぞろ哀れを催したものである。いまは30を過ぎても結婚など考えず、悠然と過ごしている青年が少なくない。むしろ、まわりの人たちがやきもきして、早く結婚しろとすすめても、なにもあわてることはありませんよと答えるのが普通だという。しかし、わたしが青年学生運動をしていたころは、30と聞いただけで女性は、相手を中年扱いし、目もくれなかった。

 辺達煥はなかなかの美男子で、人間的にもまれにみる好人物だった。ふれまわりさえすれば、未婚の娘とでも再婚できたであろうが、もどかしいことに本人自身が再婚など考えてもいなかったのである。本人がそうなら父親がなんとかすべきなのだが、その辺大愚にも策がなかった。それで、わたしが気だてのよい女性を選んで、仲をとりもったのである。わたしが思いきって仲人役を買って出たのは、ほかでもなく同情心のためだった。辺達煥は後添いを得たのち、農民同盟の仕事にいっそう情熱をそそぎこんだ。辺大愚ら五家子の有志たちは、吉林の若者たちは革命活動もりっぱにやるが、人情にも厚い、と賛辞を惜しまなかった。辺達煥の家庭問題を解決したことで、結局、我々はいろいろと利益を得たわけである。結婚は決して革命とは無縁ではなかった。それでわたしは、他人の恋愛や友情の問題を漫然と見すごすようなことはしなかった。

 我々が、汪清地方で遊撃区生活をしていたときのことである。ある日、わたしは、呉白竜中隊を率いて小汪清から呀河方面に向けて行軍していた。中隊が峠を越えていたとき、前方から見知らぬ娘がうつむきながら歩いてきた。我々の部隊に気づくと、彼女は立ち止まり、微笑を浮かべてこちらを眺めた。だが、部隊が近づくと目を伏せ、そそくさと通りすぎてしまった。田舎の娘にしては、容姿も物腰もかなりあか抜けていた。中隊は、そのまま行軍をつづけた。ところで、しんがりにいた隊員が彼女のほうを振り返ったと思うと顔を伏せ、なにか物思いにふけるような様子で足を運ぶのであった。隊列が100メートルほど進んだとき、彼はまた後ろを振り返った。その目にはものさびしげな憂いと懐しさがただよっていた。わたしは彼を隊列の外へ呼び、小声で聞いた。

 「なにをそんなに考え込んでいるのだ。さっきすれ違った娘を知っているのではないか」

 彼は急に目を輝かせ、口もとをほころばせた。彼はたいへん正直で気さくな性分だった。

 「あの娘は、わたしの許嫁です。入隊後1度も会っていませんが、顔もあげずにすっと通りすぎてしまったのですから、どうにもやりきれません。顔をあげていたら、軍服姿のわたしが見えたでしょうに」

 彼はこう言うとまた、娘の去ったほうに目を向けた。わたしは、彼の力になってやろうという気になった。

 「それなら、早く行ってその娘さんに会ってきたまえ。きみの軍服姿を見せ、積もる話も交わすのだ。そうすれば、彼女もどんなに喜ぶことだろう。時間は十分にあげるから、話したいことはすっかり話してくるんだ。我々は、きみがもどって来るまでつぎの村で休むことにする」

 彼の目がうるんだように思えた。彼は、すみませんと一言いうと、一目散に走っていった。わたしは約束したとおり、近くの村で中隊に休止命令をくだした。30分ほどして、許嫁に会った隊員がもどり、わたしに経過報告をはじめた。わたしが、そんなことは報告しなくてもよいと遮ったが、彼はかまわず話した。

 「彼女は軍服姿のわたしを見て、見違えるようだと言うのです。そして、遊撃隊員の妻らしく一生懸命に働くと言うではありませんか。それで、わたしはこう言いました。わかったね、ぼくは朝鮮が独立するまで革命に身をささげることにした人間だ。きみは革命軍の妻になる人だし、革命軍の妻らしく生きるつもりなら、きみも組織に入り革命活動をすることだ…」

 許嫁に会った隊員はその後、勇敢に戦い、彼女も地元の革命組織に入ってりっぱに活動した。愛は確かに情熱の泉、創造の原動力であり、生活を美しく彩る染色素である。

 わたしは吉城村を発つとき、張老人にこう頼んだ。

 「ご老人、ひとつ厄介なお願いをしたいと思います。わたしは昨夜、金月容という人のことを思って眠れませんでした。村のお年寄りたちと相談して、よいお嫁さんを見つけ、式も挙げてやっていただけないでしょうか」

 張老人は狼狽した。

 「将軍に、そんなご心配までかけて申しわけありません。わたしらが相談してきっとそうしますから、どうかご安心ください」

 吉城村の年寄りたちは、約束を誠実に果たした。祖国光復会組織は、金月容がりっぱな嫁をもらい一家を構えたことを知らせてきた。彼に娘をやったのは、十八道溝の寺谷に住む金老人だった。わたしが吉城村である老チョンガーのことを気遣ったという話が、二十道溝を越えて十八道溝にまで知られたらしい。金老人はその話を聞くと、金将軍が目をかけたという人なら自分の娘をやろうと言い、吉城村にやってきて張老人と縁談をまとめた。このように、金月容の結婚問題はすらすらと解決した。実際、金老人のような人はざらにはいないであろう。金老人は山裾の畑地を命の綱と頼む貧しい農民だったが、両家で別々におこなうのが風習の婚儀を、自分たちのほうでまとめてとりおこなうと申し入れたという。しかし、新郎側の世話人たちが頑として聞き入れず、結局、式は吉城村の張老人の家でおこなうことになった。わたしは給養担当官の金海山に、戦利品のなかから最上の織物と食品類を選んで、吉城村へ送るよう指示した。

 ところが、どうしたわけか、金海山は承服しがたい表情だった。そして、そうすると答えながらも、部屋から出ていこうとしなかった。

 「将軍、その結婚式にどうしても贈り物をしなければならないのですか」

 思いがけない質問だった。

 「もちろんだ。気に入らないのか」

 「戦友たちはこれまで、一膳の飯を前に置いて式を挙げたものです。そんなことを思うと、贈り物をする気になれません。一生に一度の婚礼を一膳の飯で挙げただけで、戦いの途上で倒れた同志たちがたくさんいたではありませんか」

 わたしは、彼の気持ちがよくわかった。戦友の婚礼は一膳の飯ですませながら、見も知らぬ人の婚儀に贈り物をしろと言われたのだから、不機嫌になるのも無理ではなかった。

 「そういうことを考えると、わたしも胸が痛む。しかし、我々が一膳の飯で式を挙げるからといって、人民もそうすべきだという法はないだろう。もっとも、朝鮮人民のなかにはそんなふうにしか式を挙げられない人が少なくないという。きみはそれが口惜しくないのか。もちろん、密営の倉庫にある戦利品で朝鮮民族をすべて救済することはできない。しかし、民族の再生をめざして銃をとった朝鮮の若者たちが、金月容1人の結婚式くらいこれみよがしに祝ってやれないというのか」

 金海山は、その日のうちに贈り物をととのえ、隊員1人を伴って吉城村へ向かった。彼が、布団の皮や米、缶詰などを持って密営を発つとき、わたしはふところの金をすっかりはたいて渡した。彼がにこにこして帰ってきたのを見て、結婚式が順調にいき、彼自身も十分なもてなしを受けたようだと思った。彼は、新郎が贈り物を受け取っておいおい泣き出したこと、村人たちは非常に人情の厚い人たちだったと告げただけで、ほかのことは報告しなかった。ただ、最後に意味深長なことを一言いった。

 「将軍、西間島の青年の結婚式の贈り物は、みな我々が引き受けることにしましょう」

 後日、同行した隊員から聞いたことだが、金海山は式場で新郎と杯を合わせるとき、ぽろぽろ涙を流していたという。わたしは、そのわけについてはあえて聞こうとしなかった。きっと、当時の朝鮮人一般に共通な民族的悲憤がむらむらとこみあげたのであろう。

 わたしは金海山の報告を聞いて、いつか暇を見つけて彼らの新家庭を訪ねてみようと思った。新婚夫婦の暮らしぶりを知り、門出を祝ってやりたかったのである。国内進攻準備で多忙をきわめていたとき、部隊を宿営地に残し、伝令たちを伴ってわざわざ吉城村を訪ねようと思ったのもそのためだった。

 人間の情というのは、なんとも不思議なものである。わたしが金月容に会ったのはたった一度きりであり、交わした言葉も数言にすぎない。口をかたく閉ざし、意思の疎通もままならなかったうえに、表情もほとんど変えなかった、あのもどかしいほど純朴な彼が、どうしてわたしの気持ちをそんなにも引きつけたのだろうか、われながら不可解だった。彼は、とくに魅力のある人間でもなかった。あるとすれば、この世のいかなるものにも汚されず白雪のように純真無垢な性格だとでもいおうか。それにもかかわらず、わたしは彼に会わずにはいられない強い衝動に駆られたのである。

 その日、わたしを金月容の家に案内したのは張老人だった。家とはいっても、誰かの使い古した納屋をざっと手入れしたものだった。ところが、あいにく新郎は山へ柴刈りに行って留守だった。そのかわり、寺谷の金老人の娘だという新婦がいそいそとわたしを迎え入れた。美人ではないが、本家の総領の嫁といった感じのおっとりした女性だった。性格もたいへん明るく、夫もすぐ同化させてしまいそうに思えた。

 「月容君と一生をともにする決心をしていただいて、感謝のほかありません。実家のお父さんにもわたしの挨拶を伝えてください」

 わたしがこう言うと、彼女は深々と頭をさげた。

 「感謝はわたしたちのほうこそ… 夫を助けてりっぱに暮らしを立てていきます」

 「子をたくさんもうけて、末永く幸せに暮らしてください」

 わたしが彼女と話しているあいだに、伝令たちは庭で薪を割ってうずたかく積みあげた。

 金月容の妻に会ってみると、うっとうしい胸のうちがすっかり晴れるような思いがした。そして、2人がいつまでもオシドリのようにむつまじく暮らすであろうという確信をいだいて村をあとにした。その日の吉城村訪問は、我々が普天堡を襲撃するため坤長徳に登ったときまで、心に長く余韻を残していた。

 わたしが作男の縁談をとりもち、贈り物までしたといううわさは西間島一帯に広まった。それ以来、人民革命軍への大衆の信頼と期待はいちだんと大きくなった。密営に運びこまれる援護物資の種類や量も増える一方だった。

 十三道溝の城門の外に住むある老人は、息子の結婚式用にたくわえておいたヒエを送ってくれたが、それにもまして驚いたのは、挙式を2日後にひかえた息子が兄と一緒にそのヒエをかついで遊撃隊を訪ねてきたことである。わたしは、そればかりは受け取れないと固辞したが、彼らは頑として聞き入れなかった。家へ持って帰れば父親に追い出される、是非とも受け取ってほしいと懇願するのである。わたしは、彼らの誠意を拒みきれなかった。金光雲というその青年が、結婚式をどのようにしたかはわからない。式に使う米を工面するのにずいぶん苦労したことであろう。富厚水の台地で彼らと別れるとき、なんの餞別もできなかったことがいまもって悔やまれる。

 わたしは西間島を離れて以来、ついに金月容と会う機会に恵まれなかった。吉林をあとにしてからは、孫真実とも会っていない。彼女がアメリカに留学しているとは風の便りに聞いたが、結婚後の暮らしについては知るところがなかった。ただ彼女の幸せをひそかに祈るだけだった。

 わたしはいまもって、孫真実、辺達煥、金月容のことを忘れることができない。おそらく人間というものは自分が愛情をそそいだだけ、かつての知己や友人、同志、弟子たちへの思いが残るのであろう。

 孫真実は、アメリカで客死した。訃に接し孫元泰先生に弔電を送ったが、生前に一度会って懐旧の情を分かちあい、病気の見舞いでもできたら、どんなにかよかっただろうと思った。

 金月容も丈夫なほうだったから、長生きしたであろう。



 


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