金日成主席『回顧録 世紀とともに』

5 権 永 璧


 権永璧(クォンヨンビョク)は寡黙な人だった。宣伝活動家といえば能弁家と思われがちだが、彼は、師団宣伝課長を務めていたころも口数が少なかった。必要なことを筋道立てて数言述べるだけで、長広舌をふるったり、一度言ったことを繰り返したりするようなことはなかった。表情を見るだけでは、その考えや感情をおしはかることがむずかしかった。権永璧は、虚言や虚勢をもっとも嫌った。彼はいったん言い出したことは、是が非でもやりぬく性格だった。言行一致は、彼の人となりを一言で言いあらわしうる特徴であり、人間的な魅力でもあった。我々が白頭山と西間島を主な活動地帯にして戦っていたころ、権永璧に長白県党委員会責任者の重責をゆだねたのも、その人間的魅力を重視したからである。

 長白県党責任者というポストがいかに重要であったかは、いろいろな面から説明できよう。長白県党は、我々が、白頭山密営で人民革命軍党委員会を開き、なにかの路線や緊急課題を提起すると、それを真っ先に受けとめて実行する中枢的な党組織の一つであった。我々の路線や課題は、そのほとんどが、長白県党と国内党工作委員会、東満党工作委員会を通して西間島と北間島、国内に伝達され、その実行の結果もたいていはこのルートを通して人民革命軍党委員会に報告された。長白県党のこうした地位と役割は、我々が白頭山密営に活動拠点を設けた状況のもとで、西間島をいま一つの足がかりにして国内と満州に革命を拡大発展させていかなければならなかった事情、そして、朝鮮共産党の解散後まだ新しい型の党がつくられていない実情のもとで、人民革命軍党委員会が、国内党工作委員会と東満党工作委員会、長白県党委員会などを通して党組織建設と抗日革命全般を指導しなければならなかった事情とかかわっていた。

 1930年代の前半期、我々が東満州に遊撃根拠地を設けて戦ったとき、小汪清が抗日革命の中心地となったように、後半期には西間島を含む白頭山根拠地が抗日革命の中心地となった。白頭山密営は、その中心の核であり、白頭山周辺の国内の広い地域とともに、長白地方はその核をとりかこむ果肉にひとしかった。長白地方には、我々が建設した密営が多かった。それらの密営を守り保持するには、長白地方を我々の天下に変え、長白地方の人民を革命化しなければならなかった。

 長白における祖国光復会の組織建設運動を展開するためには、敵とのするどい対決が避けられなかった。満州国の統治はずさんだったが、長白にある日本の情報陣や日満軍警の「討伐」兵力はあなどりがたいものだった。我々が国内に進出するときは必ず長白を経由したように、敵も我々を攻撃するためには長白を経由しなければならなかった。長白は、彼我ともに重視する軍事戦略上の要衝だった。

 こうした事情から、我々は、長白県党責任者の選抜基準を高く定めた。長白県党責任者の重責を果たすには、胆力、扇動力、包容力、組織力、活動力にすぐれていなければならなかった。地下戦線を指導するだけに、正確な判断力と緻密さ、臨機応変の知略をそなえ、とくに視野が広くなければならなかった。

 こうした基準にかなう人物を選ぶにあたって、真っ先に頭に浮かんだのが、ほかならぬ権永璧だった。金平も彼を推薦した。わたしと権永璧とは、同窓でも同郷でもなく、遊撃区時代から同じ釜の飯を食べながら苦楽をともにしたという仲でもなかった。1930年代の前半期、遊撃区の勢いがさかんなころ、わたしは汪清にいたが、権永璧は延吉にいた。彼は、蛟河遠征に参加し、1936年10月に白頭山密営に来て主力部隊に編入された。

 権永璧は、すでに中学時代から反日運動に参加していた。「不穏学生」と目され退学処分を受けると、わたしのように職業革命家になった。わたしは、東満州地区で活動していたころ、呉仲和だか朴永純だかに、権永璧にまつわる逸話を聞かされたことがある。それは、亡父の葬儀の日、彼が体験した惨劇とそのとき発揮した並々ならぬ自制力についての話だった。

 ある日、工作地で父親の訃報に接した権永璧は、夕闇にまぎれて家に駆けつけた。彼が喪服をまとって柩の前に立とうとしたとき、いつ探知したのか、騎馬憲兵が葬儀場になだれこみ、家族たちを外に引きずり出した。そして、権永璧に向かっておまえが権昌郁かとただした。昌郁は彼の幼名だった。彼は憲兵たちのなかに自分を知る者がいないことを見てとり、弟の昌郁は、かなり前に家を出たあと行方がわからず、父親の死を知らせることすらできなかったと腰を低くして答えた。そのとき、兄の相郁は、葬具小屋に行っていたので、兄になりすましたのである。憲兵たちは、権永璧を逮捕できなかった腹いせに、柩が置いてある家に放火し、全焼するのを見届けてから引き揚げた。権永璧は、父親の遺骸が焼かれる惨状を目のあたりにしながらも、唇を噛んで悲憤に堪えた。工作地にもどった彼は、同志たちがついでくれる酒も飲むことができなかった。唇を噛んだときの傷があまりにもひどく、数日のあいだかゆもすすれなかった。

 権永璧は、東満州の共産主義者のあいだで、並々ならぬ自制力をもつ青年闘士として知られるようになった。革命家が敵を打ち負かして大義を成就するには、権永璧のように一時的な衝動や苦痛を堪え忍べるようでなくてはならないというのであった。しかし、葬儀の日の出来事を聞いて、誰もがみな権永璧を称賛したわけではない。父の遺骸が冒涜されるのを見ながら反抗しなかったのは理解に苦しむ、子の道に背くものだ、なんとしてでも柩への放火を阻止すべきだったという非難もあった。権永璧の支持者たちは、そんなとき一般人なら当然、反抗すべきだろうが、彼は敵に正体を見破られてはならない人間だ、あのときもし反抗したとしたら、その場で銃殺されるか軽くても監獄行きだったろう、そうなれば革命運動が駄目になってしまうではないかと反論した。

 権永璧は、革命運動に身を投じて家を発つとき、夫人にこう言ったという。

 「わたしは生きては帰れないだろう。たとえ生きて帰るにしても、革命が10年後に成功するか、20年後に成功するかわからない。だからわたしを待たずに、自分の生きる道を求めるのだ。わたしがこの世にいないと思って、再婚してもとがめない。ただ頼みたいのは、子どもが大きくなったら、父親の跡を継ぐようりっぱに育ててもらいたいということだ」

 この別れの言葉も論難の的となった。妻への別れの言葉にしては酷だ、女性を侮辱するものではないか、同じことなら勝利して帰る、それまで待ってくれ、となぜ言えないのか、妻を心から愛しているなら当然そう言うべきではないか、朝鮮の女性には国が独立するまで革命に身を投じた夫を待つ節操も義理もないというのか、女性を見くだすにもほどがあると。

 権永璧が夫人に言った言葉を額面どおり解釈するならば、それ以上の非難を受けてしかるべきであろう。しかしわたしは、革命のために欣然と命を投げ出す覚悟のできた人、心から妻を慈しみ愛する人だけがそういうことを言えるのではなかろうかと思った。いったんはじめた革命運動に身も心もささげて最後までたたかいぬく心構えができている闘士でなくては、これほど率直で悲壮な言い方はできないものだ。わたしは権永璧のその言葉から、かえって真の人間像を見る思いがした。

 数年後の1935年春、わたしは腰営口ではじめて権永璧と会った。当時、そこでは東満州各地の遊撃部隊と革命組織から送られてきた活動家を対象に、軍・政幹部を養成する短期の軍・政講習会をおこなっていたが、その受講者のなかに彼がいた。そのころは狂気じみた反民生団闘争で多くの愛国青年が異国の土と化していたころだったので、講習会で彼と会ったわたしは、なつかしい旧友に会ったような喜びを感じた。我々は、自己紹介をして語り合った。初対面にしては、かなり真摯な対話だったと記憶している。夫人と別れたときの話も出た。

 「奥さんにもう少し親切な言葉を残して発つべきでした。そうすれば奥さんの悲しみも少しはやわらいだでしょうに」

 わたしが残念そうに言うと、権永璧はかぶりを振った。

 「いつかは覚える痛みを、先にのばす必要はないではありませんか」

 「それでは、いまでも生きては奥さんのもとに帰れないと思っているのですか」

 権永璧はその問いにも泰然として答えた。

 「生きて祖国の解放を迎え、故郷にも帰りたいとは思いますが、わたしはそんな幸運に恵まれそうもありません。わたしは、敵との決戦に臨んで人の後に立つ考えはありません。父の恨みを晴らすためにも、つねに先陣を譲らないつもりです。先陣で戦うべき者が、どうして生き残ることを考えられるでしょうか。そんな運などは望みません」

 彼の言葉には、真実がこもっていた。権永璧のその後の行跡が示しているように、彼は実際、血戦の場でも地下戦線でも、つねにもっとも熾烈で危険な先陣に立った。第2連隊が蛟河遠征に参加したとき、権永璧は第2中隊党支部の書記だった。遠征隊が敵の包囲に陥って全滅の危機にさらされたことが何度もあったが、そのたびに呉仲洽などの戦友とともに連隊を救出した。水も漏らさぬ国境警備網をかいくぐって鴨緑江を渡り、朴達にわたしの手紙をはじめて伝えたのも彼だった。

 わたしが権永璧を長白県党の責任者に内定したいま一つの理由は、彼が1930年代前半期の間島での活動期間に、地下工作の経験をある程度積んでいたことだった。権永璧の最大の長所は、対人活動がきわめて巧みであることだった。彼は、人びとを引きつけ、りっぱに統率できる活動家だった。

 黄南筍(黄貞烈)は、権永璧が甕声拉子で、村いちばんの長老の心を巧みにつかんだことをいまでも感慨深く回想している。その老人の気性のはげしさは普通ではなかったらしい。工作員が村の革命化をはかって甕声拉子村にたびたび入り込んだが、その老人のために足がかりをつくることができず、いつも追い返されたという。村人たちとうちとける前に、せっかちに思想から注入しようとしたからだった。とくに、工作員たちは、その老人への働きかけをおろそかにした。封建思想が強いといって遠ざけるばかりで、獲得しようとしなかった。甕声拉子の老人は、五家子の「辺トロツキー」老くらい頑固一徹であったらしい。権永璧は、自分なりのやり方で老人に働きかけた。老人が礼儀作法をわきまえない者はいっさい相手にしないことを知り、初対面のとき、居ずまいを正して挨拶した。老人を訪ね、朝鮮の礼儀作法どおりにひざまずいて自己紹介をしたのである。

 「ご老人、わたしは日雇い労働で口すぎをしている者です。ここは、人情の厚い村だと聞いてやってまいりました。なにとぞよろしくお願いいたします」

 権永璧の丁重な態度と人柄を見て上機嫌になった老人は、「若いもんが礼儀をよくわきまえておる。誰の子孫かは知らんが、感心な若者じゃ。この村は人情がそう薄くはないから、村人たちと仲よく暮らすがよい」と言い、昼食までふるまった。甕声拉子でこの老人を獲得するのは、戦場で一つの高地を占領するほどむずかしいこととされていた。ところが、権永璧は朝鮮式に一度うやうやしく礼をしただけで、その高地をいとも簡単に占領したのである。それで村の革命化もスムーズにいったという。

 わたしは、権永璧を長白県党の責任者に内定したあと、彼に県内を一巡させた。実情を把握させるためだった。権永璧は、1か月ほど現地を見てまわってから密営に帰ってきた。

 1937年2月、わたしは、横山密営で権永璧ら幾名かの地下工作員とともに会議を開き、長白県党委員会を組織した。この会議の決定によって、権永璧は正式に県党責任者の職務を遂行することになった。県党の副責任者には、李悌淳が推薦された。会議はまた、傘下の区党と党グループを拡大することを決定した。

 その日、わたしは権永璧に、活動範囲を広げて党組織と祖国光復会の組織を国内深くに拡大するよう強調し、入隊志願者を人民革命軍に推薦する問題、敵機関で働く者を獲得して組織に引き入れる問題、組織のメンバーによる軍事偵察問題など長白県党の諸課題を提起した。

 その後すぐ、わたしは彼を敵地に派遣した。そのさい、黄南筍を彼の助手につけた。権永璧と黄南筍は、工作上の必要から表向き夫婦に見せかけた。それは、身辺の安全のための適切な偽装方法だった。黄南筍は、早くから地下工作の経験を積んでいた。彼女は15のとき、石人溝池蔵谷という村で地下工作に従事したことがあった。ある日、村のある農家で仕事を手伝っていた彼女は、台所にある釜を見てびっくりした。符岩村遊撃区の自分の家で使っていた釜だったのである。

 (遊撃区にあった釜が、どうしてこの家の台所にあるのだろうか。この家の主人が「討伐隊」についていって、そこでもらってきたのではないだろうか)

 彼女は、幾晩もこんなことを考えて眠れなかった。池蔵谷の地下組織のメンバーはそれを聞いて、敵のまわし者に違いないからその一家を村から追い出そうと言った。しかし、彼女は忍耐強く主人一家の素性をつきとめようとした。その結果、この釜は「討伐隊」が符岩村遊撃区を襲って民家に放火し、家財道具を外へ投げ捨てたときのもので、「討伐隊」に強制的に駆り出されて符岩村に行ったこの家の主人が焼け落ちた家のそばでそれを拾い、荷車にのせて帰ったということが判明した。敵のまわし者とみられて追放されるところだった当家の人たちは、その後、間もなく反日会と婦女会に加入した。

 ところが、黄南筍と一緒に池蔵谷に派遣された林水山は、地下工作に失敗した。理論水準が高く風采もよかったが、大衆にとけこめず食客扱いをされた。彼は、反日会員の家に構え込み、その家の食糧を食い減らしながら、家の主人にああしろこうしろと指図ばかりした。たまに外出をしても、手を後ろに組んで詮索するような質問を村人に浴びせ、相手はもとより、まわりの人にも不快感を与えた。林水山は、とうとう村人のなかに足がかりをつくれず、遊撃区に引き揚げざるをえなかった。

 自分が人民に君臨する特殊な存在と思いあがるようになれば、結局、大衆に見放される哀れな存在になるほかない。水に浮いた油のように人びとのなかにとけこめず、上っ面をなでまわすだけでは大衆の好感を得られず、彼らを獲得することもできないのである。

 権永璧と黄南筍を長白に派遣するとき、我々の密営には長白県で活動している地下工作員が大勢来ていた。その日、権永璧は、彼らとともにわたしから敵中工作任務を受けた。彼は任務を喜んで受け入れたが、わたしは心が重かった。彼に過重な任務を与えたような気がしたのである。長白地区は七道溝から二十五道溝までの広大な地域を包括しているので、じつは合法的な党活動をするとしても負担が重くなる地域だった。しかも彼は、長白県党の指導だけでなく、国内の運動にも深く関与しなければならなかったのである。

 長白に向かう地下工作員たちと別れるときのことでいまも忘れられないのは、地陽溪の農民たちが旧正月用に贈ってくれたイモ飴を割って食べたことである。食糧事情の苦しいときで、ごちそうを出すことができず、飴を少しずつ分けて食べたのだったが、なぜかそれがかえって感慨深かった。

 ――わたしは、きみに長白をまかせる。長白と西間島を掌握してはじめて、我々は人民の支援を受け、革命軍の後続隊も確保できるのだ。西間島を掌握せずには、大部隊で鴨緑江を渡っての国内作戦を進めることができない。我々はなんとしてでも、今年の春か夏から国内進出を断行するつもりだ。きみは、これから敵地で民衆との活動をりっぱにおこなってほしい。きみの任務は、党の組織建設を進める一方、民衆を祖国光復会の組織に結集することだ。民衆を獲得するのはむずかしいことだが、それはきみの努力いかんにかかっている。わたしはきみを信ずる。

 これは、わたしが権永璧を見送るときに言ったことである。我々は権永璧一行が工作地に向かう日の午前、敵と一戦を交えたので、彼らは、あわただしく出発しなければならなかった。

 権永璧は十七道溝の「タスポ」の家と二十道溝の李悌淳の家に寄ったあと、司令部が工作拠点に指定した十七道溝土器店村に無事に入り込んだ。王という中国人地主が権勢をふるっているということで一名王家溝ともいわれる十七道溝は、長白県の中心部にあり、鴨緑江を渡れば、好仁、恵山などをへて国内深くへも行ける有利な地点にあった。王家洞は、王家溝の村落の一つだった。権永璧は、吉恵線鉄道敷設工事場で日雇い労働をしていて失職した徐応珍の母方の甥というふれこみで、土器店村に落ち着いた。徐応珍は延吉地方で中学卒業後、反日組織に加わって革命活動をしていたが、それが発覚して西間島に移ってきた老練な地下工作員だった。徐応珍、崔景和など十七道溝の革命組織のメンバーは、権永璧が敵に疑われることなく王家洞に足がかりがつくれるよう住家を手に入れ、いくらかの畑地も分け与えたうえ、王家洞を管轄する警察署長にアヘンをつかませて居住承認まで受けた。そのときから権永璧は権洙南、黄南筍は黄貞烈とそれぞれ変名し、組織のメンバーが提供した小さな家で見せかけの夫婦生活をはじめた。後日、権永璧は、彼女に「同志」と呼びかけてははっとしたことがたびたびあったとうち明けた。

 援護物資工作班を率いて十七道溝へ行ってきた金周賢は、王家洞の住民のなかで新しく住みついた「夫婦」のうけがたいへんよかったとわたしに言った。それは、彼らが村に入った日から、骨身を惜しまず村人たちを助けたからであった。権永璧は工作上の必要で方々の家を訪ねたが、そこで男手が必要なときには薪を割り、飼い葉を刻みもし、庭も掃いた。冠婚葬祭でとりこんでいる家では、餅をついたり豚をつぶしたりもした。彼が豚の皮をはぎ、ばらして臓物を処理する手並みを見て、村人たちは、屠殺業者も顔負けだと感心した。それで王家洞の人たちは、牛や豚をつぶすときは権永璧に頼むようになったという。

 2人の工作員はそのまじめな、しっかりした仕事ぶりで村人たちの心をとらえた。2人は他人の手助けはかたくなに辞退したが、他人を助けるのは当然のこととした。権永璧は、地下工作員が他人に迷惑をかけるようでは工作は失敗したようなものだという自分なりの見解をもって、篤農並みに農事に精を出した。

 権永璧らが王家洞に住みついたばかりのころ、村の祖国光復会員たちは地下活動に多忙な彼らを助けようと、しば刈りを買って出た。しかし、彼はその好意をどうしても受け入れなかった。

 「みなさんの好意はありがたいが、それは困ります。ただの農民の分際でしば刈りまで手伝ってもらっては、すぐ敵に疑われます。ですから、手伝いたくてもひかえてください。それが本当にわたしを助けることになるのです」

 地下組織のメンバーは、他の方法を考え出した。刈ってきたしばを権永璧の家まで運ばず、彼の麦畑のふちにそっと置いておくのである。ところが、権永璧はそれさえも差し止めた。彼は、自分の手でしばを刈り、堆肥も運んだ。王家洞での活動のあいだ、権永璧は、いつも夜遅く床につき、朝早く起きた。彼は他の工作地へ行っても1日3、4時間しか眠らなかったという。権永璧は古びたふろしき包みを持ってよく出歩いていたが、事情を知らない者は、夫婦仲が悪くてしょっちゅう外泊しているのかも知れないと思ったという。下崗区の七道溝から上崗区の二十五道溝まで数十里の道を権永璧はひと月に何度も足しげく歩きまわった。長白県の村落という村落に、ほとんどもれなく足を運んでいた。彼が人並みに眠れなかったのは当然であった。いつか、密営に活動報告をしに来たとき、彼の目は真っ赤に充血していた。体に気をつけたまえ、革命活動を1年、2年でやめるつもりか、と軽くたしなめたところ、組織をつくる楽しみがこたえられないと言うのであった。

 権永璧とその戦友たちの精力的な活動によって、1937年初春までに長白県の主だったほとんどの村落に地下党組織がつくられた。権永璧の傘下に多くの党グループ、祖国光復会の支会、分会が誕生し、その勢力は急速に拡大されていった。生産遊撃隊も党組織の保護と指導のもとにめざましく活動した。夜間に長白地方を闊歩し民心を思いどおり動かしたのは、満州国の役人ではなく、権永璧の影響下にある人たちだった。

 権永璧は、以前にもまして多忙な日々を送らなければならなかった。彼が育成した何人もの有能な工作員が国内に送り込まれた。十七道溝の地下革命組織は、地下工作担当者を養成する原種場ともいえた。権永璧は、半軍事組織の生産遊撃隊を通しても青年を教育し、鍛練した。生産遊撃隊に参加した青壮年は、昼は農作をし、夜は地下革命組織の防衛にあたるかたわら、有事にそなえて武装闘争の準備をおし進めた。権永璧は、組織のメンバーである村長たちと相談し、自衛団の夜間巡察隊を生産遊撃隊員で組んだ。生産遊撃隊は夜間巡察隊という合法的な名で、敵のためではなく地下組織を保護するための巡察をしたのである。

 多くの生産遊撃隊員が、権永璧の指導を受けて闘士に成長した。崔景和もやはり彼の指導のもとに王家洞支会の青年部責任者および特殊会員責任者、王家洞党支部の組織担当責任者に成長した。彼の長男も児童団で闘士に成長した。権永壁は、以前から入隊を熱望していた崔景和の意をくんで、彼をわたしのところに推薦して寄こした。

 私生活のうえでは、いつも潔癖で良心的で、生まじめな権永璧であったが、地下戦線の重責をになってからは、ときと場合に応じて巧みな偽装策を用いて敵を欺き、自分自身と同志と組織をしっかり守った。組織の中核分子を敵機関に潜入させて重要な地位につかせたのも一種の偽装策だった。

 権永璧は、地下党組織や祖国光復会組織のメンバーである村長たちが、敵に信頼され、安全に遊撃隊援護活動を進められるよう、彼らに朝鮮人民革命軍軍需官名義の手紙を渡し、警察署に届け出るようにした。手紙には、何月何日までにしかじかの援護物資を調達せよという要求とともに、警察に告発すればただではすまないという脅し文句が書きそえてあった。警察署では、そんな手紙を届け出る村長にたいしては忠実だとほめた。ところが、ひとり王家洞の村長だけは、権永璧の筋書きに従って手紙を届け出なかった。それは当然、敵の注意を引いた。ある日、半截溝警察署長は村長を呼びつけ、おまえは「共匪」と内通しているんだろう、証拠があるのだから、正直に白状しろと脅しつけた。王家洞村長は落ち着きはらって、証拠があれば見せてくれ、わたしは革命軍の「赤い弾」に撃たれるのを覚悟のうえで、お上のために村長を務めているというのに、「通匪分子」などと言われるのは残念だ、と答えた。署長は引き出しから人民革命軍軍需官の手紙を出して見せながら、村長は正直でない、正直な村長なら当然こんなものは届け出るはずだ、ほかの村長はみな届けているのになぜ知らぬ顔をしているのかと迫った。すると、王家洞村長はふところから手紙を取り出し、わたしももちろん警告文を受け取った、人民革命軍がわたしだからといって物資を要求しないはずがあろうか、さあ、これがその警告文だ、だが、わたしは、あなたがたのためを思って届け出なかった、あなたがたがこの手紙を見ればなんらかの対策を講じなければならなくなるだろうが、対策があるのか、名うての「討伐隊」でも数百名の兵力をくり出して人民革命軍に惨敗しているというのに、こんな小さな警察署になんの妙策があるというのか、こんな手紙を差し出せばかえって署長さんたちを困らせることになるではないか、人民革命軍は適当にあしらうのが上策だ、わたしがうまく処理するから、署長は知らぬふりをしていてほしいと言った。警察署長は感動し、それ以来、村長を格別信頼するようになった。権永璧の筋書きは効果てきめんであった。

 地下工作の過程でわたし自身も体験したことだが、敵地で自分自身と同志と組織を偽装し保護するのは、最大の知恵と創意を要するむずかしいことである。権永璧は、その重責を危なげなく遂行した。

 わたしは、1937年春、国内進攻作戦をひかえて、軍民共同による普天堡市街地の偵察を各面から手配した。普天堡偵察の任務は、長白県党組織にも与えられた。国内進攻作戦の重要さを誰にもましてよく知っていた権永璧は、その偵察任務をみずから引き受け、出発準備を急いだ。

 ところで、家を空ける口実をつくるのが問題だった。偵察のためには何日も家を留守にしなければならないが、もっともらしい理由がなければ敵から疑われ、尾行されるおそれさえあった。農民が農繁期に何日も出歩くというのはただごとではなかった。権永璧は、今度も誰にも納得がいく妙案を考え出した。それは、組織のメンバーの1人を長白市内の郵便局へ行かせ、父親の死亡電報を打たせることであった。電報は、その日のうちに権永璧に配達された。郵便配達夫が、王家洞に来てそのことを人びとに知らせたので、彼の「不幸」は村人たちだけでなく、敵の耳にも入った。香典を持って権永璧の家へやって来た年寄りたちは、父親が亡くなったのになぜ早く行かないのかと気遣った。権永璧は、小作人の自分がこの農繁期に何日も畑を空けるのが心配で決心しかねていると答えた。すると彼らは、父親の葬儀より大事なことがどこにある、畑仕事は自分たちにまかせて早く発つようにと促した。こうして彼は、誰からも疑われずに王家洞を発って偵察任務を果たし、わたしに偵察の結果を報告することができたのである。

 彼の懇請で、わたしは、彼を普天堡戦闘にも参加させた。戦闘後、権永璧が十七道溝に帰ると、組織のメンバーは彼が「喪主」の務めをとどこおりなく果たせるよう、いっさいの準備をととのえていた。彼は、父親の葬儀を終えて帰った息子のように、喪服を着て村人の弔問を受けた。偽装のためとはいえ、善良な年寄りたちまで欺かなければならなかった彼の心中はどんなものであったろうか。

 権永璧は司令部の基本路線にもとづき、上級に報告すべきことは報告して処理し、みずから決心できることはそのつど決心して処理し、細心かつ巧みに地下工作を進めた。電話機や無線機のような通信手段がなく、レポを通して司令部との連絡をとるしかなかった当時のことで、工作員は上級に報告することなく自分の判断と決心にもとづいてことを処理する場合が多かった。権永璧は、わたしの結論を要する重要な路線上の問題だけを司令部に報告し、大部分の問題は現場で組織のメンバーと協議して即決処理し、その経緯と結果を報告してきた。工作地は密営から遠く離れており、また、わたしがいつも密営にいるわけでもないので、すべてを司令部に報告し、指示を受けて処理するのはまず不可能なことだった。権永璧はそれを誰よりもよく知っていたので、司令部に負担をかけるようなことは決してしなかったし、負担になるような問題は提起しようともしなかった。

 ところがただ一度、敵の集団部落建設にどう対処すべきかについては、わたしに結論を求めてきた。敵は、東満州でのように、西間島でも「匪民分離」を目的とする集団部落の建設を強制的に進めた。しかし、長白地方の住民はほとんどが集団部落に入るのを嫌がった。権永璧の気持ちも同じだった。集団部落に入れば農民の生活上の苦痛を加重し、地下活動や遊撃隊援護活動にも大きな支障をきたすはずだった。だからといって、集団部落の建設にむやみに反対することもできなかった。敵は集団部落に入るのを拒む家に放火し、力ずくで撤去させた。反抗すれば発砲した。どうすればよいのか、県党委員会を開いて討議したが、結論が出なかったという。わたしは権永璧に、集団部落建設に反対するのは無謀なことだ、禍を転じて福となすため、みんなそこに入るようにと助言した。集団部落に入れば、我々の活動がかなりの制約を受けるのは確かだ、しかし、鉄条網が川の流れを遮れず、城壁が風をすべて防げないように、遊撃隊と人民のあいだに川のように流れ、風のようにゆきかう軍民の情と遊撃隊援護の大河は絶対に阻めない、心配せず集団部落に入るようにと言ったのである。

 権永璧は工作地に帰ると、官道巨里の集団部落建設場に真っ先に出かけた。すると頑固派もあとにつづき、家を建て土城を築く作業に熱心に参加した。権永璧の指令にもとづいて、地下組織のメンバーは敵の施策を「忠実」に実行した。こうして、官道巨里の集団部落は、県警察当局から、真っ先に「安民村」という評価を受けた。第十七道溝の地下組織のメンバーは、官道巨里集団部落の主な役職をすベて占めた。徐応珍は自衛団の団長、宋泰順は副団長、田南淳は村長、権永璧は学校長という具合だった。他の集団部落でも状況は同じだった。

 権永璧の地下戦線は、長白の範囲を越え、咸鏡南北道と平安北道を含む国内深くにまで延びていた。彼は軍事活動でも多くの功労を立てたが、人民大衆を意識化する地下戦線の緊張したたたかいでも大きな功績を立てた。1937年夏、彼が連絡員に託してわたしに送ってきた手紙にはこんな内容が記されていた。

 「司令官同志、率直に申しあげて、わたしは部隊を発つとき残念でなりませんでした。第1線から第2線に押しやられたと思ったのです。あのときのさびしさをどう言いあらわしてよいかわかりません。人民を祖国光復会組織に結集することが抗日革命の勝利を早める近道だという言葉は、耳が痛くなるほど聞いていましたが、別れの握手を求めた司令官同志のそばを離れるわたしの足どりは軽くありませんでした。しかし、ここに来て活動しているうちに考えが変わりました。いまでは、地下戦線を第2線だと見る観点から大きく脱却しました。この戦線は第2線ではなく、明らかに第1線です。日ごと組織が拡大し、人びとが成長するのを見るにつけ、わたしは生きがいを感じています。この肥沃な土壌の主人に任じてくださった司令官同志に謝意を表する次第です」

 人民を意識化し、組織化することに生きがいを感じるという彼の言葉には、深い真理がこもっていた。人民を組織し動員することは、革命家がいっときもゆるがせにしてはならない恒久的な活動だといえる。人民をたえず意識化し組織化するところに、革命の生命があり、勝利があり、永久性があるのだ。革命家が、この活動を度外視し、または軽視するならば、その政治的生理には変質現象が生じ、革命家としての生命を失うのである。

 権永璧はこの原理をよくわきまえていたので、人民を組織し動員する活動に心血をそそぎ、その勇敢なたたかいの途上で、敵に逮捕されたのだった。獄中で彼がもっとも心を痛めたのは、自分と同志たちが苦心惨憺して育てあげた多くの組織が一挙に破壊されることだった。彼は自分にできる最善の策は、1人でも多くの同志を救い、組織を守ることだと思った。権永璧は、おのれを投げ出して革命組織の被害を最小限にとどめようと努めた。彼はまず李悌淳にこんな白字の紙片を送った。白字とはペンや鉛筆ではなく手の爪で書いた文字のことである。

 「いっさいをわたしに押しつけること!」

 権永璧の意図と決意を知った李悌淳は、さっそく返事を寄こした。

 「われらは一心同体!」

 この電文のような文句がなにを意味するかを権永璧は理解した。権永璧と李悌淳は、別々に収監されていたので、紙片のやりとりもそれ以上できなかったが、2人の戦友の心は一つに通いあっていた。彼らは、まさに一心同体となって、組織を守るための決死の救出作戦を進めた。

 「道正が白頭山に行かれたこととその後のことは、わたしと道正と将軍の3人しか知りません。ですから道正が口をつぐんでいれば、なんの罪もかぶらずにすむでしょう」

 これは恵山警察署で取り調べを受けていた権永璧が、朴寅鎮道正に耳打ちした言葉である。権永璧がそう耳打ちをしていたとき、李悌淳も李柱翼に同じように念を押した。

 権永璧と李悌淳の自己犠牲的な救出作戦のおかげで、朴寅鎮、李柱翼をはじめ、多くの検束者が起訴をまぬがれて釈放され、あるいは、予想より軽い刑に服して祖国解放の日を迎えることができた。長白と国内の地方組織にたいする権永璧の縦のつながりと指導内容は、裏切り者にも知られることなく永遠の秘密に付されていたので、それらの組織と所属メンバーは、そっくり生き残り、ひそかに活動をつづけることができた。しかし、組織と同志を守った権永璧は、李悌淳、李東傑、池泰環、馬東熙などの闘士たちとともに決然と死の道を選んだのである。

 彼は恵山警察署から咸興へ移送される列車の中でも、同志たちへのあたたかい心遣いを忘れなかった。そのとき、彼のふところには7円があった。彼は、その最後の7円も同志たちのために使おうと思い、護送警官に言った。

 「このお金で果物とお菓子を買ってほしい。あんたらが手錠をかけたんだから、いやでも日本当局を代表して面倒をみてもらいたい」

 他の同志たちもそれに応じ、さらに30余円の金が集まった。護送警官は、思いのほか従順にその頼みを聞き入れた。

 権永璧は、護送警官が買ってきた果物と菓子を同志たちに分け与えた。100余名の闘士たちは走る列車の中でそれを食べながら、無言のまなざしと微笑でうなずき合った。それは、共産主義者ならではの精神的な饗宴であった。護送警官は、家族同士のようなその親密な雰囲気に驚かざるをえなかった。

 「きみら共産主義者は、なんとも不思議な人たちだ。刑罰を受けに行くというのに、人情を分かち合うというのか。言ってみろ、そうするのが共産主義なのか」

 「そうだ。共産主義者は、こういうふうに生きるのだ。日本帝国主義を打倒したら、我々は全人民が兄弟になる、そういう国を建設するのだ」

 「だが、権永璧氏、当局はあんたにそんな国をつくる自由は与えんだろう。遅かれ早かれ、あんたは絞首台にのぼらねばならんからな」

 「わたしは死んでも、戦友たちが必ずそういう理想郷をつくるだろう」

 権永璧は、そうした見解を法廷でもあらためて披瀝した。

 「わたしは罪人ではない。我々は、祖国の領土から強盗日本帝国主義を追い出し、わが民族が自由で幸せに暮らせるようにするため抗日大戦に決起した朝鮮の愛国闘士であり、この国の堂々たる主人だ。誰が誰を裁くと言うのだ。裁判を受けるべき真犯人はおまえたちではないか。他国を占領し、他国人を思いのままに虐殺し、他国の財貨を勝手に略奪するおまえたちこそ、希代の強盗、殺人犯だ。歴史が公正な審判をくだし、我々を民族の守護者としておしたて、おまえたちを葬り去る日は必ず来るだろう」

 ソ連軍が東欧の弱小諸国を解放しつつ西へと進撃し、米軍の空爆で東京の市街地が火の海と化し、朝鮮人民革命軍が白頭山地区と極東の訓練基地で祖国解放の日を迎える対日作戦準備に拍車をかけていたとき、権永璧はソウル西大門刑務所の絞首台で革命万歳を叫んで最期を遂げた。彼がこの世に残していった一粒だねの息子は、そのころ15、6歳になり、清津市内で肥やし車を引いていた。

 偉大な祖国解放戦争が勃発した1950年の夏、わたしはソウルにしばらくとどまって南朝鮮の解放区の諸般の仕事を指導した。ソウルがはじめてだったわたしにとって、訪ねてみたいところは2、3にとどまらなかった。けれども、わたしはなによりもまず西大門刑務所へ行ってみた。わたしの知己や戦友のなかには、この刑務所とは血まみれの因縁がある人たちが少なくなかった。人民軍の勇士たちは、ソウルに入城すると真っ先に、戦車で刑務所の正門を押しつぶし、囚人を解放した。

 西大門刑務所は、日本帝国主義者が朝鮮で犯した罪悪と犯行の恥ずべき代名詞であった。この悪名高い刑務所で、権永璧、李悌淳、李東傑、池泰環をはじめ、日本帝国主義者に果敢に抵抗した朝鮮民族のすぐれた息子や娘が貴い命を失い、一片の土と化した。亨権叔父も麻浦刑務所で獄死した。わたしは山中で戦っていたとき、国が解放されたらソウルヘ行ってせめて彼らの墓参りでもしたいと思っていた。その願いが解放後、5年にもなってようやくかなったのは、祖国を両断した38度線のせいだった。墓標すらない墓で、探しあてるすべもなかったが、彼らの血潮と息吹のこもる刑務所の屋根や壁だけでも眺めることができ、多少気が休まった。解放後、5年の歳月が流れていたが、戦友たちの弔問すら受けられなかったその同志たちの霊前で、わたしは長らくこらえてきた涙を流した、

 「わたしは、息子ひとりを残していく。わたしの願いといえば、息子が大きくなって、わたしの仕事を継いでくれることだ」

 権永璧は西大門刑務所で、戦友たちにこう言い残した。

 刑務所を見まわってから街に出ると、その言葉がことさら鐘の音のように頭にがんがん響いてきた。それは、権永璧のように生涯を誉れ高く生きた革命家だけが残すことのできる貴い言葉であった。わたしは、いまも折にふれ、その言葉を思い出すのである。



 


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