金日成主席『回顧録 世紀とともに』

4 三千里朝鮮の津々浦々に


 白頭山麓ではじまった祖国光復会建設運動は、満州全域と三千里朝鮮の津々浦々に燎原の火のように燃え広がっていった。祖国と人民への熱い愛に貫かれた「祖国光復会10大綱領」の一節一節が民族の魂に新たな活力を吹き込み、三千里全国土を祖国解放の熱望に沸き立たせた。共産主義者はもとより、民族主義者、労働者、農民とともに知識人、青年学生、手工業者、宗教者、民族資本家など国を愛するすべての同胞が祖国解放戦線に合流したのである。

 祖国光復会建設運動は、まず長白をはじめ西間島と満州各地で活発にくりひろげられた。満州地方で祖国光復会の組織建設が急速な進展をみせたのは、この地域の抗日運動が長い歴史をもち、大衆的基盤が強固であったからである。90万に近い満州在住の朝鮮人は、その一人ひとりが引火性の強い火薬のような存在であった。彼らは、点火すればすぐに爆発する強力な爆弾ともいえた。反日愛国勢力の総結集という大課題は、満州地方の人たちにとって、決してなじみのないものではなかった。卡倫会議で反日民族統一戦線問題が重要議題として論議され、この会議を起点に朝鮮の革命家たちが、各階層の抗日勢力を結集する民族統一戦線の結成に向けて血のにじむような努力を傾けてきたということは周知の事実である。満州地方の人たちは、統一戦線運動の試練にみちた歴史と経験をもっていたのである。このような土壌に「祖国光復会10大綱領」の種がいちはやく発芽し、成長したのは当然だといえた。

 我々は、祖国光復会の組織建設においても、まずモデルケースをつくり、それを母体として四方に組織を拡大する方針をとった。そのようなモデルケースは、組織建設の基盤と運動経験があり、大衆の思想的動向が良好で革命性の強い、そして、地下戦線を動かしうる一定の指導勢力がそなわっている地帯に先につくられた。3名以上の会員をもてば分会を、分会が3つ以上になれば支会を、さらに支会が3つ以上になると区会をつくらせた。祖国光復会の県組織は、いくつかの区会によって構成された。

 我々は、祖国光復会の下部組織を敵の軍隊や警察機関、官公署内にもつくらせ、その会員を祖国光復会特殊会員と呼んだ。特殊会員は、日本人指導官の目が光っている靖安軍内にもいた。他方、我々は、祖国光復会の組織建設にあたって、朝鮮人民革命軍の作戦地域に組織をつくり、それをもとにして隣接区域や国内深くへ組織網を広げることに努めた。

 祖国光復会の創立直後、我々は、まず密営で朝鮮人民革命軍主力部隊の指揮官・兵士会議を開き、隊内の全兵士、指揮官を祖国光復会に加入させる措置を講じた。これは、部隊内の指揮官と隊員の一致した要請によるものであった。彼らは、司令官が祖国光復会の会長に推戴されたのだから、我々も会員になり、統一戦線運動に助力すべきだと、ひとしく主張した。それでわたしは、彼らを1人残らず祖国光復会組織に加え、全人民を反日民族統一戦線に結集する宣伝者、組織者になれと励ました。

 朝鮮人民革命軍の指揮官と隊員は、誰もが歴史的使命感に燃え、各党、各派、各階層の大衆を祖国光復会組織に結束する統一戦線運動の旗手となった。西間島一帯のほとんどすべての村に祖国光復会組織を短時日内につくることができた条件の一つは、ほかならぬ、これら旗手の役割にあった。当時、祖国光復会の組織建設で主役になったのは、朝鮮人民革命軍部隊から選抜された政治工作員たちであった。そこには、祖国光復会創立準備委員会に参加して活動したメンバーも含まれていた。こうした人たちが火種となって、満州大陸に統一戦線運動の熱風を巻き起こしたのである。

 1936年の秋には早くも、汪清、和竜、琿春、延吉をはじめ、東満州の各県に祖国光復会の組織が根づきはじめた。以前、大荒溝遊撃区があった檳榔溝には、農民協会のメンバーを中核とする祖国光復会琿春県檳榔溝地区委員会が結成された。『3.1月刊』創刊号には、北間島に派遣されたある政治工作員が、和竜地方の革命家全員の熱烈な賛同のもとに、4つの主だった村に祖国光復会分会と武装部隊を結成する準備を終えたというニュースが掲載されたが、この一例をもってしても、その地方の人民が我々の統一戦線路線をいかに積極的に支持していたかを知ることができると思う。

 南満州一帯で祖国光復会の組織建設を担当したのは、東崗会議に参加した代表たちである。彼らはまず、抗日連軍部隊内の朝鮮人兵士や指揮官を祖国光復会組織に引き入れ、我々の統一戦線路線で武装させた。そして、政治的見識の高い堅実なアジテーターたちを選んで朝鮮人居住地域へ派遣した。彼らは、地方の革命家と手を結び、磐石、樺甸、通化、集安、濛江、桓仁、寛甸、輝南など南満州の各都市や農村に祖国光復会組織をつくった。

 祖国光復会の組織網は、北満州にも根をおろした。東崗で祖国光復会が創立されると、わたしはすぐ北満州の抗日連軍部隊で党活動に従事していた金京錫に、祖国光復会の創立宣言と10大綱領を送った。彼は東満州にいたときにも、延吉県三道湾一帯を中心に党活動をおこなっていた。わたしが彼に初めて会ったのは、三道湾の東満特委書記処を訪れたときだった。そのとき彼は、民生団の嫌疑をかけられうちひしがれていたが、大荒崴会議の話を聞いて、あまりのうれしさに涙を流したという。わたしは、周保中の要請で彼を北満州の部隊へ送った。彼は、祖国光復会の創立宣言と10大綱領を第5軍内の朝鮮人将兵に知らせ、中核分子を選んで祖国光復会支部を結成した。周保中は、わたしの要請に応じ、第5軍軍長の名で支部結成を熱心に後援した。これを初めに、祖国光復会組織は、方正、通河、勃利、湯原、饒河、寧安、密山など北満州の各県につぎつぎと結成された。その流れに乗って額穆県反日同盟も祖国光復会組織に改編された。この反日同盟のメンバーに祖国光復会の創立宣言と10大綱領を真っ先に伝え、同盟を祖国光復会組織に改めるよう導いたのは、当時、方振声とともに独立旅団を率いて官地付近で活動していた崔春国である。

 北満州での祖国光復会の組織建設について語るとき、金策の労苦について触れないわけにいかない。彼は『祖国光復会10大綱領』を入手すると、それを一字一字木版に刻み、数百部も刷った。それは、北満州の抗日連軍部隊や各県の地方革命組織に広く配布された。彼は、たびたび会議を開いて、祖国光復会の組織網を拡大し、各組織を実践闘争のなかで鍛える積極的な対策を講じた。

 饒河県三義屯の朝鮮人共産主義者たちは、檄文を発表して、祖国光復会運動への支持を表明した。彼らは、檄文で「諸君! 祖国を忘れるな。老弱男女を問わず、地方党派の別なく、些細な感情にとらわれず、反日を志す同胞はすべて団結して反日共同戦線に邁進しよう。一般同胞は、金のある人は金を、武器のある人は武器を、力のある人は力を祖国独立をめざす反日戦線にささげよう」と呼びかけた。北満州の人たちのこのアピールは、我々の主張と一致した。南満州の戦友たちも我々と声を一にしていた。このように満州地方に住む朝鮮人は、我々の統一戦線路線を民族大団結の経綸をもっとも早く実現する公明正大な愛国愛族の路線として受けとめた。

 祖国光復会組織建設の主な目標は、あくまでも2000余万の同胞が暮らす国内にあった。これは、党建設と祖国光復会の組織建設、そして、武装闘争の拡大発展をともに祖国を基本舞台として展開し、祖国の人民を主力にして遂行することをとくに強調した南湖頭会議の趣旨とも一致していた。

 祖国光復会の組織網を国内深くへ広げるうえでも、朝鮮人民革命軍の政治工作員たちは、決定的な役割を果たした。それに、彼らが苦労して育成した西間島地方の中核的革命家や、わたしの直接の影響のもとで統一戦線運動に取り組んでいた北部国境地帯の先覚者たちも少なからぬ寄与をした。

 国内における祖国光復会の組織建設は、日本侵略者の暴圧と分派分子の路線上の錯誤のため、非常に複雑困難な状況下で進めなければならなかった。日本帝国主義は、祖国光復会組織の国内への拡散をもっとも恐れ、国内深くへ押し寄せる統一戦線運動の波を防ごうと必死になった。弾圧のほこ先は、なによりも国境一帯の愛国者と愛国的人民に向けられた。我々の工作の手が及ぶと思われる団体や個人、我々の思想と路線に同調し、我々の武装闘争に民族再生の道を求める愛国志士や運動者はすべて、彼らのもっともきびしい弾圧の対象となった。鴨緑江以南の祖国の人民は、西間島の城市や村落で銃声やラッパが鳴り響き、炎が燃え上がっても、それを思いのままに聞くことも見ることもできなかった。人民革命軍が対岸の城市や村落を攻撃すると、敵は川辺に警戒網を張って人をいっさい近づけなかったのである。彼らは、自分たちの惨敗ぶりが人民に知られるのをひどく恐れた。これによっても、彼らが人民革命軍政治工作員の国内潜入にどれほど神経をとがらせていたか察して余りある。しかし、人民革命軍の戦果を知りたがっていた国境付近の人民は、なにかと口実を設けて鴨緑江を渡り、そっと戦場を見てまわったものである。人民革命軍が敵を討った直後は、鴨緑江税関をヘて西間島方面へ流出する者が何倍にも増えたという、三水、甲山、厚昌地方の住民の証言は、祖国の人民が我々の武装闘争にいかに大きく励まされていたかを如実に物語っている。

 分派分子も反日民族統一戦線運動の発展に重大な障害をつくりだしていた。彼らは、自派勢力の拡張にきゅうきゅうとしながら反日愛国勢力を分裂させ、わが国の具体的実情に適合しない既成理論を教条主義的に適用し、愛国的な知識人や良心的な民族資本家を一律に排斥し敵視していた。革命は、階級的土台の確かな限定された特殊な人たちによってのみ遂行されるべきだというのが、彼らの見解であり持論でもあった。

 極左分子たちの舵で難航する大衆運動に各階層の愛国勢力を引き入れる扉を開き、暗中模索する共産主義者に光明をもたらすためには、国内革命にたいする我々の影響力を強め、祖国光復会組織のネットを全国に広げなければならなかった。

 我々は、国内での祖国光復会の組織建設を朝鮮人民革命軍の政治的指導がもっとも容易に及びうる北部国境地帯の鴨緑江沿岸からはじめて、国内深くへ拡大する方向で進めた。この活動の主要地域として選定されたのは、甲山、三水、豊山地区であった。これらの地区は、我々と地域的に近かったばかりでなく、そこには国内各地から集まってきたさまざまの運動者や先覚者、それに西間島地方に親類や親友、知人をもつ人たちが多かった。

 甲山、豊山一帯での祖国光復会の組織建設は、権永璧、李悌淳、朴達、朴寅鎮らを通してわたしがじかに指導した。朴達がわたしに会ったあと、同志たちとともに甲山工作委員会を祖国光復会の国内組織――朝鮮民族解放同盟に改編し、傘下に各種名称の数十の下部組織をつくったことはすでに述べた。

 甲山地方に祖国光復会組織をつくるには、祖国光復会長白県委員会とその下部組織が一役買った。長白県十八道溝珠家洞支会は、甲山郡江口里に祖国光復会支会を設けるとき重要な役割を果たした。江口里は、珠家洞の対岸にあった。支会は、腰弁で珠家洞に毎日のようにやってきて畑づくりをしていた江口里のある農民に働きかけ、影響を与えた。その農民はやがて、志を同じくする村の若者たちを募って祖国光復会支会を組織した。甲山郡雲興面の白岩里支会も、長白県で活動していた祖国光復会組織の積極的な努力によって結成された。朝鮮民族解放同盟をはじめ、甲山郡内の祖国光復会組織の傘下には、多くの林業労働者と火田民、宗教徒たちが結集した。祖国光復会長白県委員会は、下崗区対岸の三水地区祖国光復会の組織建設にも深くかかわった。祖国光復会光生里支会は、長白県十七道溝王家洞支会青年部の責任者で、のち朝鮮人民革命軍指揮メンバーの1人となった崔景和の影響と指導のもとに組織された。

 祖国光復会の組織建設でもっとも成績がよかったのは豊山である。豊山は、以前から反日思想の強い土地として知られていた。豊山地区の住民は、日本帝国主義の朝鮮占領後、耕地を奪われ、生活の道を求めて北へ移ってきた嶺南地方(慶尚南北道)出身の火田民や虚川江発電所工事場の募集人夫が多かった。当時、日本帝国主義者は、日本本土と朝鮮、満州の経済的潜在力を侵略戦争の拡大につぎこむ計画の一環として、新興財閥の野口に数十万KW能力の虚川江発電所建設を請け負わせた。工事に駆りだされた数千名の人夫は、統一戦線にもっとも結集しやすい大集団であった。豊山にはまた、数百名の愛国的な天道教徒とキリスト教徒がいた。豊山地区を祖国光復会の網の目で覆えば、白頭山根拠地を蓋馬高原一帯におし広げることができ、さらに厚峙嶺の東方各地にも祖国光復会組織を広げる足がかりを得ることになる。蓋馬高原一帯の革命化に成功すれば、そこを踏み台にして咸鏡南道の東海岸一帯も革命化し、反日民族統一戦線運動の炎を国内深くへ燃え広がらせることができるのである。我々の豊山にたいする戦略的視野はこのようなものであった。

 朝鮮人民革命軍の白頭山地区進出後、豊山地方の先覚者たちは、我々と連係をつけようとして、足しげく長白に出入りした。なかには、革命軍への入隊を夢みる人も少なくなかった。豊山に祖国光復会の種をまいた朴寅鎮、李昌善、李景雲ら天道教系の人物はいずれも、朝鮮人民革命軍の政治的指導を渇望して長白に渡ってきた豊山出身の愛国者であった。李昌善がまず入隊し、彼の紹介で朴寅鎮がわたしに会って統一戦線問題を論議した。李景雲も我々の部隊に入隊したあと、蓋馬高原一帯に政治工作員として派遣された。李景雲は、豊山で水力発電所工事場の労働者のなかに入り、我々の統一戦線路線と「祖国光復会10大綱領」を精力的に解説、宣伝して、同志を糾合し、1937年春、祖国光復会豊山支会を組織した。その後、朴寅鎮と力を合わせ、中核的な天道教青年党員で生産遊撃隊を結成した。

 祖国光復会豊山支会は、短時日のうちに数百名の天道教徒を吸収した。天南面には、祖国光復会下部組織の洪君地区反日労働会が組織された。1937年の夏、桃泉里――新坡地区の工作にあたっていた金正淑が豊山地区へ派遣した祖国光復会員の金裕珍は、李昌善と協力して黄水院ダム工事場の中核労働者を集めて祖国光復会「上介徳支会を組織した。

 蓋馬高原一帯での祖国光復会組織建設で豊山地区の成績がもっともよかったのは、朝鮮人民革命軍の政治的指導が強く及んでいたこととも関連している。人民革命軍の複数の小部隊とグループが豊山地区に進出して、地元の革命組織を援助したのである。わたしも新興地区の国内革命家に会って帰る途中、豊山秘密根拠地に立ち寄り、天道教徒たちに政治工作をおこなったものである。

 祖国光復会の下部組織は、1930年の炭鉱労働者の暴動で全国の人民の共鳴と支持を集めた新興地区にも根をおろした。ここを最初に切り開いたのは、長白県桃泉里から国内工作員として派遣された祖国光復会員の李孝俊である。

 鴨緑江沿岸と蓋馬高原一帯での祖国光復会の組織建設は、しだいに東海岸一帯の都市や農村地域に広げられていった。朝鮮人民革命軍の政治工作員たちは、東海岸一帯の開拓でもすぐれた組織力と展開力を発揮した。彼らは、1937年夏からたびたび狼林、赴戦、新輿、洪原、北青、利原、端川、虚川一帯に進出し、李周淵、李縺A朱東煥ら国内革命家との密接な連係のもとに祖国光復会の組織建設をおし進めた。

 朱東煥は、我々と連係をつけるため、西間島に何度も足を運び、やがて王家洞村長の紹介で権永璧の工作圏に吸収された。権永璧と朱東煥は、竜井大成中学校の同窓であった。朱東煥は、長白と延吉地方で反日啓蒙活動に積極的にたずさわり、国内へ入ってからも革命運動に関係して西大門刑務所で2年余りの獄中生活を送った。そのことを知った権永璧は、彼に北青と端川地方での祖国光復会の組織建設をまかせた。国内に入った彼は、北青で趙政哲と力を合わせて金m植らを獲得し、祖国光復会地区委員会を組織した。傘下には10もの分会がつぎつぎにつくられた。その後、彼は故郷へ帰り、仲間とともに祖国光復会端川支会をつくった。端川支会は、傘下に端川邑その他にいくつもの分会を結成したばかりでなく、北方親睦会や南方親睦会といった親睦団体もつくって、そこに多くの大衆を結集した。

 中日戦争勃発後、祖国光復会長白県下崗区委員会は、大勢の工作員を国内に送り込んだ。そのとき魏仁燦も多くの同志たちと一緒に興南地区へ派遣された。軍需工場の多い産業中心地の興南で、下崗区の地下工作員たちは祖国光復会興南地区委員会の結成に成功した。ときを同じくして元山へ入った政治工作員たちは、先進的反日青年団体である高麗会のメンバーを祖国光復会組織に組み入れた。高麗会は、大衆の意識化に努める一方、日本帝国主義の「皇民化」政策に反対するたたかいや悪質日本人校長の追放をめざす同盟休校などを組織した。祖国光復会桃泉里支会が派遣した地下工作員たちは、洪原地方にも祖国光復会の下部組織をつくった。組織の名称は、洪原農民組合で、傘下にいくつもの支会をおいていた。祖国光復会の下部組織は、そのほかにも、利原、赴戦、咸興などの各地に根をおろしていった。

 祖国光復会の組織建設は、東海岸北部の各産業中心地や農漁村でも大々的にくりひろげられた。この地方は北部国境地帯の道のうち、早くから「吉林の風」が強く吹き込んだ地域であった。我々が東満州で遊撃区をつくり、武装闘争を展開していたときから、この地方の人民には、革命的影響が強く及んでいたのである。抗日武装闘争の直接の影響のもとに、この地方の人民は早くから反日救国闘争に積極的に参加した。とくに、農民組合運動は、積極的かつ頑強なたたかいによって我々の注目を引いていた。咸鏡北道地方は、どの面からみても、大衆の意識化と組織化が比較的早く進む土地と目された。

 我々はこの地方に祖国光復会組織を拡大するため、優秀な政治工作員を多数送り込んだ。国境ぞいの北部の市、郡には、小部隊も派遣した。朝鮮人民革命軍の小部隊とグループは、咸鏡北道内の各地に秘密根拠地や活動拠点を設け、それに依拠して祖国光復会の組織建設と大衆運動を指導した。他方、我々は、この地方の市や郡の反日運動関係者や大衆団体の指導者を根拠地に招いて一定期間教育を与えたあと、元の地域に送り帰して統一戦線運動の指導にあたらせた。清津の人が清津地方を、茂山の人が茂山地方を担当するのは、実情に合う指導ができるようにするという点でも有利であったが、抗日革命の深まりとともに増大する工作員の需要をみたすうえでもたいへん合理的な方法だった。

 人民革命軍政治工作員や愛国闘士たちによって咸鏡北道地方では、労働者の多い茂山、清津、漁大津、延社一帯や農民組合勢力の強い吉州――恵山鉄道沿線南部の市、郡から先に祖国光復会運動の火の手があがり、1937年夏には早くも祖国光復会の下部組織が結成されはじめた。祖国光復会組織は日増しに拡大され、1940年代前半には組織数が数十を数えるにいたった。

 咸鏡北道地方で祖国光復会の組織をつくる運動がもっとも幅広く、深く進められたのは延社と茂山地区であった。それは、1930年代の後半期、我々が西間島をあとにしてからは、延社、茂山対岸の烏口江流域で主に政治・軍事活動を展開し、また同じころ国境地帯の革命運動に活力を吹き込むため、延社、茂山地区に小部隊やグループをたびたび送り込んだ事情とも関連している。崔一賢も小部隊を引き連れて延社地方に進出し、呉日男も7、8名からなるグループを引き連れてそこへ行ってきた。呉仲洽連隊長もまた、50余名の第4中隊員を率いてそこに進出して活動した。それらのグループや小部隊が延社へ一度行ってくると、その一帯には祖国光復会の支会や分会が組織されたものである。

 延社地区の祖国光復会の組織建設で功労のあった地下工作員は、崔元鳳と尹慶煥である。崔元鳳は延社地区祖国光復会の責任者であり、尹慶煥は同地区の党組織責任者であった。彼らは、いずれも長白で我々が育てあげた工作員である。いま大城山の革命烈士陵に安置されている抗日革命闘士である崔元日の兄がこの崔元鳳である。崔元鳳は、意志が強靱で思慮深く、革命性の強い人だった。彼のそうした長所をいちはやく見つけて高く評価したのは金周賢だった。金周賢は、東崗で先発隊の任務をおびて長白へやってきたとき崔元鳳を知り、権永璧と李悌淳に引き合わせた。

 長白県十八道溝の英化洞といえば、人民革命軍への援護活動ですぐれた功績があり、多くの抗日革命闘士を輩出したことでも知られた土地である。この英化洞で祖国光復会支会長兼党グループ責任者を務めたのが崔元鳳であり、彼を指導したのが金周賢と金世玉であった。2人の指導と励ましを受けながら、崔元鳳は、祖国光復会組織や党グループをつくり、生産遊撃隊も結成した。金周賢は、十八道溝に行くといつも、崔元鳳と金世玉の家に泊まり、地下革命組織の活動を手助けした。崔元鳳は、遊撃隊員の留守家族をりっぱに教育し、1人残らず祖国光復会組織に参加させた。

 1936年秋の三終点付近での戦闘後わたしは、他の人びととともに援護物資をかついで密営にきた崔元鳳に会った。一目で責任感の強いしっかりした人だと感じられた。中肉中背の体格だったが、統率力があった。荷を運んできた人たちは、彼の号令一つで集合もし、解散もした。彼は、我々に軍事情報もたびたび提供してくれた。

 1937年の5月ごろ、茂山郡をはじめ、北部地方での祖国光復会の組織建設をおし進めるため、わたしは崔元鳳を延社地区へ送った。そこで、彼は他の工作員と協力し、延面水上流一帯のいかだ組師や筏流しを中心にしていくつもの分会をつくった。

 崔元鳳の誠実な援助者であった尹慶煥は、金一が長白県八道溝佳在水で工作にあたっていたころ、その地区の祖国光復会組織で活動していた。彼は金一とも深いつながりがあったが、金成国との親交はきわめて厚かった。彼も崔元鳳と同じように、援護物資をかついで何度も我々の密営を訪ねてきた。我々が佳在水を奇襲して密営に引き揚げたときも、尹慶煥は戦利品を運ぶ人びととともに我々と同行した。敵は遊撃隊へ荷を運んだ人たちを残らず調べあげ、そこから組織のルートを探り出そうと懸命になった。身辺に危険が迫ったことに気づいた尹慶煥は、家族とともに東満州に移り、新開村と呼ばれていた烏口江流域の玉石谷の上村に落ち着いた。

 その後、わたしは、尹慶煥を延社地区へ派遣し、地区党の組織責任者に推した。いつだったか、彼は組織のメンバーと一緒に援護物資をかついで直洞に駐屯していた我々の部隊を訪ね、延社地区に分布している祖国光復会の各分会を統一的に指導する地区委員会の組織問題を相談したことがあるという。わたしはその前に、国師峰会議で延社地区の同志たちにこの問題と関連して助言したことがあった。祖国光復会の組織建設運動をさらに一歩前進させるためには、分散して活動している各組織を統一的に指導する整然とした指導体系が必要だと言ったのだが、彼らはそれを肯定した。

 尹慶煥が荷をかついで我々の部隊を訪ねてきたのは、李東傑(金俊)が逮捕される前だったと思う。李東傑は青峰密営で過失を犯して処分を受けたあと、延社、茂山地区に派遣されて政治工作に従事した。彼は、崔元鳳と緊密な連係を保ちながら延社地区の革命運動を指導した。

 わたしは李東傑の後任として、国内工作経験のある金正淑を延社地区へ派遣した。金正淑が延社へ向かうとき、武装グループも同行した。金正淑は、延社地方の革命家たちと共同で会議を開き、祖国光復会延社地区委員会を組織した。会議を終えて司令部へ帰ってきた彼女が、延社の組織から贈られたものだと言って、ミシンを差し出したことがいまも忘れられない。

 崔元鳳をはじめ、祖国光復会延社組織の愛国者たちは、茂山地区戦闘のときも我々をいろいろと助けてくれた。李東傑と崔元鳳、尹慶煥が倒れたため、延社地区組織の工作内容は長らく隠されたままだった。その一端が明らかになったのは、1970年代初、わが党の革命活動史関連資料の収集が大衆的にくりひろげられたときのことである。

 祖国光復会の組織建設に傾けた我々の努力は、西部朝鮮と中部朝鮮、そして、南部朝鮮一帯でも実りをあげた。我々は北部朝鮮はもとより、西部朝鮮、中部朝鮮、南部朝鮮一帯での祖国光復会の組織建設にもしかるべき注意を向けたのである。平安南北道は、黄海道とならんで民族主義勢力が非常に強い地方だった。西部朝鮮一帯は、天道教の勢力とともにキリスト教の勢力もたいへんなものだった。ところが、これらの宗教勢力は、信仰心が厚いだけでなく、愛国愛族の精神も強かった。3.1人民蜂起のさい、天道教、キリスト教、仏教の朝鮮3大宗教勢力がこれに積極的に参加したことは世に広く知られている。

 西部朝鮮地方の青年のなかからは、金赫、車光秀、康炳善をはじめ、新しい世代の共産主義者たちも輩出した。我々は、孔栄や康炳善を通じて早くからこの一帯に手を伸ばしていた。工作員たちは、不二農場の小作争議で全国に名を知られた竜川地区でも大衆の意識化に努めた。不二農場の小作争議は、反日に活路を求めていたこの地方の人民の強烈な闘争精神と愛国の熱情の一端を示した。

 西北朝鮮一帯での祖国光復会の組織建設で、新義州は重要な地位を占めていた。1937年7月初、この都市では祖国光復会新義州支会が結成された。8月には貧農と筏流したちの梨山反日会が渭原で組織された。地下工作員たちは、鴨緑江中流の各地を巡りながら、祖国光復会の下部組織をつぎつぎと結成した。康炳善は、一家親類すべてが天道教徒である有利な点を利用し、天道教の手づるを伝って組織工作を巧みに進め、多くの組織をつくった。

 祖国光復会下部組織の根は、厚昌郡と鉄山郡にも伸びた。わたしは、祖国光復会の組織建設のため、陽徳、徳川、平壌、海州、碧城などにも小部隊や政治工作員を送った。

 平壌と平安南道一帯における祖国光復会の組織建設では、李周淵、玄俊赫、崔敬旻らの功労が大きかった。李周淵が端川から平壌に移ったのは、反日運動を新しい土地でより大胆にくりひろげるためであった。平壌正昌ゴム工場の職工反日会、平壌穀物加工工場の労働反日会、南浦反日会などはいずれも、李周淵の指導によってつくられた祖国光復会の下部組織であった。

 大邱で獄中生活を終え平壌にやってきた玄俊赫は、我々の統一戦線路線を受けとめて勝湖里セメント工場の労働者のなかへ入っていき、祖国光復会支会の結成に参加した。

 わたしの従弟である金元柱が参加していた祖国解放団と江西地区の一心光復会も、祖国光復会の下部組織であった。

 ひところ、撫松でわたしの父の革命活動を熱心に助け、のちに祖国に帰った崔敬旻は、陽徳地区で統一戦線運動を猛烈にくりひろげた。彼は儒教を信ずる人たちのなかへも深く入っていき、彼らを啓蒙して祖国光復会組織に加入させた。祖国光復会の下部組織は、平安南道の温泉地方にもあった。

 黄海道地方における祖国光復会の組織建設では、我々の工作員によって吸収された閔徳元が主役を演じた。黄海道一帯には、我々の政治工作員たちの手でつくられた臨時の秘密根拠地が多かった。それらの根拠地に依拠して活動していた工作員たちが閔徳元を獲得し、祖国光復会の組織建設に引き入れたのである。閔徳元ら黄海道地方の愛国者たちによって、道内の各地に祖国光復会の下部組織があいついで生まれた。

 東海岸中部地方での祖国光復会の組織建設は、労働者の多い川内地区や襄陽、高城、文川などを中心にして進められた。川内里セメント工場の反日労働会は規模も大きかったが、活発な実践闘争で知られていた。襄陽の束草救国会と高城の長津反日会も祖国光復会の組織であった。

 南部朝鮮での祖国光復会の組織建設にかんする資料は、国土分断のため十分に掘り起こされてはいないが、日本警察の資料に残されているものだけをみても、その数が多かったことがわかる。

 最近、日本における祖国光復会の組織建設とその活動にかんする資料もいくつか発見された。祖国光復会の下部組織が岡山をはじめ、東京、京都、大阪、北海道などにもあったということだが、それは氷山の一角にすぎないであろう。

 20余万の会員を擁して全民抗争を準備した祖国光復会組織は、朝鮮の共産主義者が築いた朝鮮民族解放闘争史上の一つのモニュメントである。祖国解放の旗のもとに各階層の広範な愛国勢力を民族解放偉業へと奮い立たせるうえで、これらの組織はじつに大きな役割を果たした。なかでも第一の功績は、人民大衆の革命意識を高めたことにあるといえよう。朝鮮人民は統一戦線運動の過程で、朝鮮の解放は朝鮮人自身の力でなし遂げなければならないという思想、武装した敵とは必ず武装して戦わなければならないという思想、そして、朝鮮人民が民族の独立を達成するためには、階級、性別、年齢、党派、信教の違いを越えて一致団結すべきであり、世界の被抑圧人民と連合して共同戦線を張らなければならないという思想で武装するようになった。人民大衆の思想・意識の飛躍的な発展は、1930年代後半期の民族解放闘争を強力に促す要因となった。

 人民大衆の思想・意識の改造で特記すべきことは、彼らが、武器を手にして日本帝国主義と血戦をくりひろげる朝鮮人民革命軍を祖国解放の主力とみなし、我々にみずからの運命を全的に託し、我々の指導にいっそう忠実になったことである。朝鮮民族解放闘争と朝鮮共産主義運動は、1930年代後半期から、人民革命軍の中心活動拠点である白頭山を軸にして進められた。

 朝鮮の人民大衆は、白頭山からの声であれば、それがどのようなものであれ絶対的な真理として受けとめ、その大小と軽重を問わず必ず実行し、白頭山を支援するためとあれば生命すら惜しまなかった。朝鮮革命の指導中枢への人民大衆の忠誠心は、人民革命軍への物心両面からの支援としてあらわれた。全国の人民は、財力、金力、人力、精神力を総動員して我々を助けた。

 祖国光復会の各組織は、遊撃隊を援護する全人民的運動を展開した。祖国光復会甲山支会は、天道教の中央に納めていた教徒の「誠米(寄進米)」を、1930年代後半期からは組織的に人民革命軍へ送った。人民革命軍が食糧難に陥っていると聞くと、西間島の人たちは、婚礼や還暦祝い、誕生祝い用にたくわえておいた穀物までためらいなく差し出した。

 祖国光復会新義州支会のメンバーは、鴨緑江に水豊発電所のダムが竣工した1938年ごろまで、我々の部隊の活動区域に荷船で援護物資を運んできた。そのなかには、織物、履き物、塩、火薬、雷管、導火線などさまざまなものがあった。ダムが竣工して船が通わなくなると、中国丹東市の3番通りと6番通りに、それぞれ援護物資の集結所を設け、そこからトラックや鉄道便で寛甸や興京、通化などの地方で活動する人民革命軍の大部隊やグループに送った。麻田洞分会の組織メンバーの1人は、半トン以上の荷が積める帆船を1艘購入し、昼は運送業を営み、夜は組織のメンバーが集めた援護物資を積んでひそかに人民革命軍を訪ねた。

 祖国光復会の会員たちは、白頭山から400キロ以上も離れたソウルからも人民革命軍に必要な援護物資を求めて送った。祖国光復会北青組織の一員であった全朝協は、北青郡俗厚「ピオネール事件」に関係した「罪」で投獄までされた人だったが、1937年からは組織の委任でソウルヘ行き、地下工作にあたった。彼は、組織を拡大する工作を進めるかたわら、遊撃隊援護資金を得るため、天秤棒をかついで水売りをはじめた。もともと北青の人たちは、ソウルで勉強する子弟の学資を工面するため、水売りをすることで有名であった。彼にはソウルで勉強させる子女がいなかったが、革命運動の一助になればと天秤棒をかついだのである。彼は、そのようにして稼いだ金で、織物や履き物、ざら紙、医薬品、謄写インクなどの援護物資を購入して北青に送った。すると、北青の組織が、それを我々に転送したのである。

 ある日の早朝、水桶をかついで坂道を登っていた彼は、女物の金時計を拾った。財産家の婦女でさえ、なかなかもてないほどの高級品であった。彼は、時計の主を探して付近の家々を訪ね歩いた。時計は、ある小店主の娘が婚約記念にもらったものだった。彼は、時計の値段を上まわるほどの謝礼金をもらったが、それも援護物資の購入にあてた。そんな出来事があってから、彼は、小店主の家族と親類のように親しくつきあうようになった。その一家は彼の影響を受けて抗日遊撃隊を憧憬するようになり、遊撃隊の援護に誠意をつくした。彼らは、全朝協から頼まれた物資を自分たちの手で購入して北青へ送りもした。このように、ソウルの平凡な小市民までもが祖国光復会員の手引きで、遊撃隊援護活動に参加するようになったのである。

 祖国光復会の国内組織は、全国各地でサボタージュ、ストライキ、デモ、暴動、小作争議などさまざまな形や方法で日本帝国主義の強盗のような収奪に反対するたたかいをはじめ、「皇民化」政策を破綻させるたたかい、大陸侵略と戦争政策遂行に打撃を加えるたたかいを根気よく指導した。

 祖国光復会の組織建設を通して朝鮮の革命家がおさめたいま一つの収穫は、この運動の過程で党組織建設の組織的・思想的基礎をより強固に築いたことである。我々は、祖国光復会の各組織で育成された中核によって、全国各地に党グループをつくった。これら党グループが結局、祖国光復会の各組織を指導し、大衆闘争も指導したのである。闘争のなかで生まれ、闘争を通して辛苦にたえ不断に鍛えられたこれらの党組織が、やがて解放された祖国で勤労者大衆の有力な政党を創立する礎となったのである。

 祖国光復会の組織建設を通して、朝鮮の革命家たちはまた、大衆団体組織建設の豊富な経験も積んだ。このような経験がなかったなら、解放後、あれほど短い期間に民青、職業同盟、女性同盟、少年団のような階層別大衆団体を組織することはできなかったであろう。

 祖国光復会の組織建設過程を通して朝鮮の共産主義者は、わが国の悠久な民族史上はじめて、真の愛国愛族に徹した、革命的で強力な統一戦線の典型をつくりだした。白頭山を軸にして形成された反日民族統一戦線は、わが国における民族統一戦線運動の源流となり、朝鮮人民のたくましい気概をいかんなく誇示した。祖国光復会組織建設の全過程は、朝鮮人民が分裂や対立より統一と和合を重んずる人民であり、党派や所属、信教にかかわりなく、一つの旗のもとに団結してたたかうすぐれた意志をもつ人民であることを実証した。

 労働党時代の朝鮮人民は、団結力の最高形態である全社会の一心団結をつとに果たしている。いま残っているのは、分断されている北と南の統一である。祖国の統一は、わたしの生涯を貫く不変の意志であり信念である。5000年の歴史を誇る朝鮮民族は、当然、一つの統一国家で暮らすべきであり、また、そうできるというのが民族統一についての我々の立場であり、観点である。どんな保障があって北と南の統一を果たせるというのか。我々には、民族大団結という強力な武器がある。また、祖国光復会の組織建設を通して得た民族統一戦線の豊富な経験がある。

 半世紀前に統一戦線の経綸をりっぱに実現した朝鮮民族が、なぜ、いまになって民族大団結を果たせないというのか。そういう理由はなにもない。

 我々は、北と南、海外のいずこにいようと、必ず統一戦線を形成すべきである。統一戦線のみが、弱肉強食の法則が支配するこの世界で、朝鮮民族が生存できる唯一の道である。統一戦線は、民族が民族として生き残るのに必要な永久的な生存方式である。民族の活路も統一戦線にあり、民族隆盛の道も統一戦線にある。これが、国内外の朝鮮同胞に述べたいわたしの所信である。



 


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