金日成主席『回顧録 世紀とともに』

3 警護隊員たち


 わたしは、生涯のかなりの部分を戦場で送った。抗日戦争15年に反米大戦(朝鮮戦争)3年を合わせると、20年近くの歳月を砲煙弾雨のなかで過ごしたことになる。

 ところで、奇跡といおうか幸運といおうか、わたしはかすり傷ひとつ負わなかった。抗日戦争当時、遊撃部隊では率先垂範がとくに強調された。指揮官はつねに困難の先頭に立ち、率先垂範することに生きがいを感じていた。攻撃のときは真っ先に進み、退却のときはしんがりになり戦友を守るのが、人民革命軍の指揮官、政治幹部の気風であり、道徳であった。わたしもまた、そうした気風と道徳に忠実であろうと努めた。ときには隊員たちを救うため弾雨のなかへ飛び込み、ときには同志たちの忠告を振り切って、命がけの冒険もあえてした。機関銃をとり第一線で熾烈な撃ち合いをしたのも一度や二度ではない。けれども、不思議なことにわたしはいつも無事だった。

 極端な軍事民主主義を克服する過程で遊撃隊指揮部は、中隊長クラス以上の指揮官は突撃の先頭に立つべきではないという原則をうちだした。それ以来、指揮官たちが冒険をひかえるようになったのは事実であるが、危急にさいし体を張って危機を打開する共産主義者の本性はいかんともしがたかった。

 朝鮮戦争のとき、アメリカ人は、わたしを狙っておびただしい爆薬を消費した。例えば、わが党の指導部に潜入していた朴憲永、李承Yらが、何日何時にわたしがどこそこへ行くという無電を打ち、必ずそのコースへ飛行機がきて爆弾の雨を降らせたものである。最高司令部のすぐそばに爆弾が落ちたこともあった。それでも、わたしは事なきをえた。

 わたしが私服姿で、吉林、長春、ハルビン、卡倫などで地下活動をおこなっていたころは、拳銃や棍棒を持った「トゥ・ドゥ(打倒帝国主義同盟)」のメンバーや朝鮮革命軍隊員、共青員、反帝青年同盟員、少年探検隊員たちがわたしを守ってくれた。

 わたしを実の息子や兄弟のようにいたわり、助けてくれる人民という名の保護者はどこにもいた。「蛟河のおばさん」は、どの地方にもいたのである。

 尚鉞、張蔚華、陳翰章らの例からもわかるように、中国の人民や共産主義者たちもわたしの身辺を気遣い、格別の配慮をしてくれた。尚鉞先生は、公安局の警官が学校にあらわれると、わたしを塀の外へ逃がし、陳翰章は、軍閥の追跡を避けていたわたしをかくまい、寝食の世話をしてくれた。張蔚華が、わたしの安全をはかり、写真現像液を飲んで自決したことについては、国際主義の手本として、前にも高く評価した。周保中は、我々の部隊の指揮官に会うたびに、わたしの身辺保護を怠らないよう再三強調した。

 第2軍軍長の王徳泰と第1軍第2師師長の曹国安が戦死してから、東満州の抗日武装部隊でも指揮官の身辺保護問題が深刻に論議された。王徳泰は、モーゼル拳銃をかざし部隊の先頭に立って突撃し、惜しくも戦死した。彼は、延吉県の朝鮮人村で育ち、朝鮮で労働もした経歴の中国人であった。彼が、遊撃隊生活をはじめたのも朝鮮人村だった。そのためか、王徳泰を朝鮮人だとした日本官憲の記録もあるという。彼は最初、崔賢と同じ分隊に属し、平隊員から軍長にまで累進した労働者上がりの気さくな庶民的軍事指揮官であった。王徳泰、曹国安らの主な軍・政幹部の犠牲は、抗日連軍の指揮官や隊員すべてに大きな衝撃を与え、警護問題にかんする活発な論議を呼び起こした。そして、少なからぬ単位で警護を専門とする部隊がつぎつぎに編成された。

 こうした流れのなかで、わたしの身近にいた戦友たちも、司令部警護部隊の編成問題をいろいろと論議し、それがいったんまとまると、わたしに警護部隊の編成を正式に申し出た。しかし、わたしは、それを受け入れなかった。専門の護衛隊がなくても、我々の部隊の指揮官や隊員は司令部をりっぱに守っていたからである。

 しかし、1937年の春ごろになると、わたしとしても戦友たちの主張を拒みきれなくなった。我々が白頭山地区に密営を設けたころから、敵は部隊の内部や周辺に多くのスパイや破壊分子を送り込んだ。そのなかには、斧や匕首を持った者もいれば、下品な春画や毒薬を隠し持った者もいた。敵は我々が密営にいるときはもちろん、遠征に向かうときにも刺客をしのびこませた。なかには、地下組織にもぐりこんで「熱心」に働き、信用を得たあと組織の推薦まで受けて遊撃隊に入り、司令部を害そうとした密偵もいた。日本の特務機関は、魏拯民は何千円、全光、陳翰章は何千円、崔賢、安吉、韓仁和はいくらと、名のある指揮官に賞金までかけて逮捕しようとした。資料によると、わたしには、さらに多額の賞金がかけられていた。

 敵が司令部の主要メンバーを葬ろうと手段と方法の限りをつくしている以上、我々もそれを粉砕する対応策を立てざるをえなかった。部隊の指揮官たちは、またもや司令部護衛問題をもちだした。魏拯民までがこれに同調した。

 「金司令は、わが身を軽んずるのが欠点です。攻撃の焦点が、金日成同志に向けられていることを銘記すべきです。敵がいたずらに金司令に多額の賞金をかけていると思うのですか。警護部隊の編成を急ぐべきです」

 わたしは、彼の助言を受け入れざるをえなかった。みながそうしようということに、あくまで反対するのは、無意味な片意地というほかなくなる。司令部のもとに警護隊が正式に発足したのは、1937年の春だったと思う。そのとき、先に立って警護隊の編成にあたったのは、司令部組織課長の金平だった。わたしから中隊規模の警護隊を組織するようにと言われると、彼は意気込んでこれにあたった。一晩のうちに人選をすませ、警護中隊の装備明細まで書きあげた。わたしは、組織課長が作成した警護中隊の隊員名簿を見て、それに反対した。それによると、各中隊の中核といえる選り抜きの隊員が残らず警護中隊に編入されることになる。西南岔戦闘で勇名をはせた金沢環、名だたる機関銃手の呉白竜と姜興錫、大力の姜渭竜、女将軍のほまれ高い金確実をはじめ、そうそうたるメンバーがことごとく名を連ねているのである。彼らを全部警護中隊に引き入れれば、他の中隊は骨抜きになりかねなかった。警護中隊にあてる装備もものものしいものだった。組織課長は、この中隊に機関銃も数挺割り当てたのである。当時、主力部隊の機関銃の大部分を警護中隊にまわせば、他の戦闘連隊には1挺ずつの機関銃もゆきわたらなくなる。わたしは、そんな構想に同意することはできなかった。

 「人選も不適当だし、装備問題も短見にすぎる。他の中隊の戦闘力を弱めるくらいなら、警護中隊を編成する必要がどこにあるのだ。基本戦闘単位の中隊が弱体になれば、連隊の力が弱まり、連隊が無力になれば司令部そのものも安全でありえないはずだ」

 「司令官同志、これはわたし1人の考えではなく、軍・政幹部の意見をまとめたものです。大衆の全般的要望をくんだものですから、拒まないでください」

 金平は、大衆という言葉に力を入れ、なんとしてもわたしの同意を得ようとした。しかし、わたしは彼の提案を退け、わたしが作成した名簿を強引に押しつけた。そうしないことには、指揮官たちの執拗な提起を抑えることができなかったのである。わたしの案では、警護中隊員のほとんどが戦闘経験の浅い新入隊員からなっていた。初年兵のなかには、射撃になれていない馬鞍山児童団出身の少年隊員もいた。

 この案は発表されるやいなや、指揮官たちの猛烈な反対にぶつかった。彼らは、李東伯をわたしのところへさしむけた。「パイプじいさん」の助言なら、わたしも無視できないだろうと考えたらしい。司令官が応じない問題をなんとか貫こうとするときはきまって、李東伯を代弁者に押したてるのを、わたしも十分承知していた。「パイプじいさん」は、その役割をいつもりっぱに果たしていた。いつもの例で、彼は今度も司令部にあらわれると、単刀直入に切り出した。

 「将軍、謙譲にもほどがあります。いったい、そんな小坊主たちに司令部の護衛をまかせられるとでも言うのですか。彼らが荷物にならないならまだしも、いまに司令部が彼らの面倒をみる羽目になるでしょう。ですから、いまのうちに考えなおしたほうがいいのではないでしょうか」

 わたしは「パイプじいさん」に言った。

 ――警護隊の構成が、主に初年兵からなっているといって案ずることは少しもない。ほどなく彼らも戦に慣れるだろう。先の「冬季大討伐」のときも新入隊員たちはじつによく戦ったではないか。また、彼らは、はじめての遊撃隊生活にもすぐになじんでいるではないか。いまに撫松遠征を終えれば、新入隊員もみな古参の隊員に劣らぬつわものに成長するだろう。わたしが新入隊員を基本にして警護中隊を組もうという理由は、彼らを身近に置いてしっかりした戦闘員に育てあげたいからだ。彼ら一人ひとりがみなりっぱな戦闘員になれば、司令部は一つの頼もしい予備隊を持つことになる。これは、なんとすばらしいことではないか。遊撃隊生活にいまはまだ慣れてはいなくても、我々がしっかり鍛えれば、誰もが強兵になれるのだ。人材の養成をぬきにしては革命の勝利を望むことはできない。

 「パイプじいさん」は、一言もなく引き下がった。それからは、むしろ、彼がわたしの代弁者になって指揮官たちを説得した。李東伯まで、態度を変えてわたしの案を支持するようになったので、指揮官たちはそれ以上自説を主張しきれなくなった。わが国の革命武力建設史上、最初の警護中隊はこういう曲折をへて誕生したのである。警護中隊誕生の地を、当時は樹皮廠子密営と言った。

 警護中隊には、3つの小隊と機関銃班を設けた。司令部付き伝令と炊事隊員も組織生活は警護中隊でおこなうことになった。初代の中隊長には、李東学が任命された。過ちを犯して平隊員に落とされていた「ポタジ」は、中隊長に返り咲くと大いに勇みたった。彼の過失というのは、配下の新入隊員が大衆工作条例に背いたことにあった。過ちは隊員にあるが、部下の教育をおろそかにした責任を負って中隊長を解任されていたのである。警護中隊が編成された日、李東学は、隊員たちに機関銃を撃ちまくるような早口で訓示した。

 「わが中隊の基本的任務はなにか。それは司令部をりっぱに守ることだ。革命の先輩たちは、遊撃区時代から将軍をりっぱに守った。彼らはきょう、我々にバトンをタッチしてくれたといえる。ところが、我々の実態はどうか。みんな新入隊員でなければ少年隊員だ。わたしは、我々が司令部を守るのでなく、司令部が我々を守るようになるのではないかと心配している。わたしが訴えたいのは一つだ。司令部に我々を守ってもらうのでなく、名実ともに我々が司令部を守ることだ」

 「ポタジ」のこの演説は、警護隊員たちに強い印象を残したという。しかし、なかには、中隊長が隊員をあまりにも見くびっているようで、気分がよくなかったともらす隊員もいた。だからといって、李東学の演説が度を越していたとするのは当を得ていない。「ポタジ」の懸念は、いわれのないものではなかったのである。初期の警護中隊の実態をありのままに言えば、我々が彼らを守っていたといえるだろう。警護中隊は、司令部を護衛する基本的任務と同時に、戦闘単位としての任務も果たした。その過程で、彼らは目に見えるほど早く成長した。警護中隊の少年隊員たちは、我々に心配をかけまいと、なにをするにも成人らしく振舞った。彼らがいちばん嫌ったのは、人格的に大人の待遇をしてもらえないことだった。

 いつだったか、李東学が公式の席上で、中隊に所属する馬鞍山児童団出身の少年隊員に向かって、「ヒヨコ」と言ったことがあった。それで少年隊員たちは、すっかり肩を落としていた。金正徳は、夕食もとらず、しょげこんでいた。彼は、馬鞍山出身の数十人の少年隊員のなかでもっとも大人っぽく、立ち居振舞もませていた。

 わたしは、彼がさじを取ろうともせず、しょんぼりしているのを見て、ただした。

 「どうして食べないのだ。誰かと争ったのか」

 「そうではありません。中隊長同志が、我々をヒヨコだと言ったものですから…」

 金正徳は、口ごもり、顔を赤らめた。わたしはその天真らんまんな答えに、声を立てて笑った。

 「ヒヨコと言われるのが、そんなにいやなのか。それは、おまえたちが可愛いからなんだよ」

 「中隊長同志は、可愛くてそう言ったのではありません。実際、ヒヨコには違いないんですから。こんなヒヨコたちが、どうやって司令部を守れるというのですか。ぼくも、本当にたいへんなことになったと思っているんです」

 金正徳が沈み込んでいたのは、李東学が言っているように、自分たちが司令部護衛の重責を果たせないのでは、という危惧からであった。わたしは彼を見つめながら、もうりっぱな大人だ、と思った。もっとも彼は17歳だったのだから、幼いとばかりみるべきではなかった。しかし、ちなみに言えば、警護中隊の少年隊員たちは、就寝時間になると本当にヒヨコのように、わたしのそばに寄り集まり、それぞれよい場所を占めようと競り合ったものである。彼らの狙う最上の場所は、わたしの両脇に寄り添って眠れるところだった。わたしは、そのころ毛布が1枚しかなかった。そんなわけで、彼らに両方から挾まれると、窮屈でならなかった。けれども、それはわたしにとって負担ではなく、無上の喜びだった。わたしは横になるときは、いつも両腕を広げて、「みんな早くおいで」と少年隊員たちを呼んだものである。すると、彼らは歓声をあげて集まり、少しでも近くに寝ようと争うのである。

 わたしの脇は、たいてい李五松のような10代前半の警護隊員に割り当てられた。わたしは、李五松ら最年少の隊員にそんな特典を授けながらも、誰もが一度はわたしと並んで寝られるよう、毎日位置を変えるようにした。わたしが順番を間違えて、誰かに不公平な「恩恵」をほどこそうものなら、それこそ喧々ごうごうの抗議を受けるのである。

 あるとき、なにかの用で就寝時間にやってきた金平が、寝場所のことで騒いでいる警護隊員たちを見て、顔をしかめた。

 「司令官同志、ごらんなさい。こんな小坊主たちが、いったい警護任務を果たせると思うのですか。司令官同志の前であんなにふざけているのをみると、警護任務どころか、なんの役にも立ちそうにありません。きびしくしかって性根をたたきなおしてやるべきです」
 彼は、眉をひそめて警護隊員たちをねめつけた。もともと児童団出身の少年隊員を警護中隊に加えることに強く反対していた金平だったので、批判も手きびしかった。わたしは、金平の批判が正しいとは思いながらも、父母兄弟の愛情が恋しくて、毎晩寝場所争いをしている子たちを叱ってどうするのか、と少年隊員をかばった。

 1枚の毛布に何人もが足を入れて寝るのを、当時、我々は「タバリ寝」と言っていた。10余人が毛布に足を突っ込んで、タバリ(荷を頭に載せるときの輪状の下敷き)のように丸くなって寝ることである。かけるものがいつも不足し、野外で寝るのが日常の遊撃隊生活では、警護中隊の少年隊員たちが考え出したこの「タバリ寝」はたいへん調法であった。

 解放直後、恵山方面で地方工作中だった李五松が活動報告のため、わたしのところへやってきたことがあった。当時、わたしの宿所は、現在党創立事績館がある解放山のふもとにあった。わたしは、そこでしばらく同志たちと、山中で戦っていたときのように合宿生活をしていた。地方で工作中の同志が平壌に来るとみなそこへ訪ねてきたものだが、李五松ももちろん例にもれなかった。就寝時間になると、闘士たちは布団を敷きはじめた。すると、李五松が「将軍と一緒に寝るときは『タバリ寝』をしなくては」と言って、布団をみな片隅へ押しやった。そこに居合わせた北満州出身の同志たちは、「タバリ寝」がどんなものか知らなかった。李五松は、わたしの手を取り、「将軍、今夜は白頭山時代のように『タバリ寝』をしてみませんか」と言った。しかし、わたしは、その願いにすぐには応じられなかった。「タバリ寝」をするとなると、合宿者たちみんなを「タバリ」のなかへ引き入れなければならないのだが、彼らがそんなざれごとを喜ぶだろうかと思ったからである。わたしのためらう様子を見ると、李五松は有無を言わせずわたしを寝かせた。「さあ、ここへ寝てください。足を少し曲げて。将軍の右側には金策同志、その隣は崔賢同志です。将軍の左脇はわたしの場所です」 このあきれた指令で、金策も一言も言えず「タバリ」のなかへ引き入れられた。

 わたしは警護中隊の少年隊員たちを非常に可愛がりはしたが、無原則に甘やかしはしなかった。過ちを犯せば、涙が出るほど叱りつけたり、骨のおれる任務をいろいろと与えて鍛えもした。零下40度を上下する吹雪の日にも、彼らを歩哨に立たせた。ときには、古参の隊員と同じように血戦場にも立たせた。規律に背くと、各中隊をまわり歩いて自己批判をさせたり、1平方メートルほどの円のなかに立たせて、2時間、3時間と過ちを反省させたりした。そんなわけで、胸の痛む思いをしたこともよくあった。

 幸いなことに、彼らは、いくらきびしく批判され鍛練をされても、決して、わたしを責めたり、恨んだりしなかった。あるとき、李五松が連絡任務の遂行にあたり、道を間違えて時間をたがえたことがあった。わたしが指定したコースをとらず、勝手に道を変えたためだった。そのときわたしは、李五松が司令部の指示を適時に遂行できなかったことを知りながらも、黙認した。この前例のない処置に、李五松はすっかりふさぎこんだ。

 (おれには、司令官同志の批判を受ける資格もないというのか。司令官同志は、いまもおれを鼻たれ小僧だと思っているのだろうか)

 こんなふうにひがんで思い悩んだ彼はわたしを訪ねてきて、ほかの隊員には処罰を加えながら、どうして自分には加えないのか、規律に背いたのだから処罰してほしいと言った。真の愛情と信頼があるところでは、処罰はむしろ一種の信頼の表示ともなる。批判を受け、処罰されても、警護隊員たちが少しも不満とせず快く受け入れたのは、彼らをうわべではなく心から愛し、信頼したことへのこたえであった。

 警護隊員の成長のためにとくに力を入れたのは、学習であった。わたしは、平時にも、また密営での集中的な軍・政学習のときにも、彼らの教師役を務めた。当時、司令部には、『東亜日報』『満鮮日報』『朝鮮日報』のほかにも内外の新聞や『レーニン主義の諸問題』『社会主義大義』『国家と革命』などの書物や教養の足しになる出版物が豊富にあった。わたしは警護隊員たちに、それらの資料をいつでも読める特典を与えた。その代わり、彼らに口頭ないし書面によって必ず読後の感想を求めた。このようにして、警護中隊は、学習で人民革命軍の全部隊の手本となった。思えば思われるというが、情はそそげば返ってくるものである。わたしは、警護隊員たちに情をそそいだだけ、彼らからも情を受けた。

 警護隊員は、思想的にも軍事実務的にも急速に成長した。司令部の護衛もりっぱに果たした。正直言って、わたしは彼らのおかげで何度も危地を脱したものである。

 いつだったか、我々は、安図県のある密営で林水山の率いる「特殊部隊」の包囲に陥ったことがあった。林水山は、我々の主力部隊で参謀長を務め、のちに変節し、遊撃隊の「討伐」をもっぱらとする「特殊部隊」の隊長になった男である。彼は、西間島一帯の我々の後方密営を手当たり次第に破壊していた。その日の朝、我々は密営を発つ予定で朝食を早めにつくった。早く食事をすませて出発しなければならないのだが、歩哨の交替者がいなかった。そのときの歩哨当番は、李乙雪であった。それで、わたしが代わりに歩哨に立った。彼が食事をしているあいだ、わたしはあたりに注意をこらした。霧が深くたれこめた日で、なんとなく不吉な予感がした。案にたがわず、近くであやしい人の気配がした。それは、枯れ枝の折れる音だった。とっさに敵だと判断したわたしは、倒木の陰に体を伏せて、拳銃を発射した。ほとんど同時に、10数メートル前で敵の機関銃が火を噴いた。

 あのとき、わたしが人の気配を感じ、倒木の陰に伏せながら拳銃を撃ったのは一瞬の出来事だった。そういう刹那に、食事中だった姜渭竜と李乙雪が、わたしの身を案じて歩哨線へ駆けつけてきた。姜渭竜は、わたしを倒木の陰から力まかせに引っ張り出し、李乙雪は軽機関銃を掃射した。正直なところ、わたしはそのとき、我々の運命はここにつきるのでは、とさえ思った。それで熊というニックネームの姜渭竜がわたしを退避させようと必死になっているとき、死なばもろともという悲壮な覚悟までいだいたものである。しかし、不死鳥のような警護隊員たちは、弾雨に身をさらして奮戦し、わたしを死地から救い出した。敵が包囲網をせばめてくると、李乙雪は、手榴弾をつかんで立ち上がり、「野郎ども、かかって来るなら来い。冥土の道づれにしてやる!」と大声で叫んだ。そのすさまじい勢いに恐れをなしたのか、敵兵は後ずさりしはじめた。このすきを逃さず、姜渭竜がわたしを弾雨の届かないところへ退かせた。

 林水山は、我々の撤収後、密営をすっかり荒らした。それで、我々は惜しいことに文書類や写真、小冊子、医薬品などを収めていた背のうを失ってしまった。「特殊部隊」が引き揚げたあと、密営にもどってみると、わたしが代理歩哨に立っていた場所にあった、ひとかかえもあるハギの束が一刀両断にされたようになぎ倒されていた。「特殊部隊」の機銃掃射のすさまじさを物語る情景といえた。それを見たわたしは、「きみたちがいなかったら、わたしはきょう、あやうくあの世へ行くところだった」と言った。

 警護隊員たちの司令官にたいする忠実な護衛ぶりは、隣接部隊の中国人指揮官たちの耳にも届いたほどであった。彼らは日ごろ、わたしがしっかりした伝令や警護隊員に守られていることをうらやんでいた。そして、わたしに会えば、冗談めかして、善行をほどこすつもりで優秀な伝令を1人でもいいから譲ってくれとか、金司令の警護隊員なら誰でもいいから中国語を少し話せる隊員を何人か譲ってほしいと言うのだった。我々の主力部隊の警護隊員や伝令は、楊靖宇や魏拯民、周保中、曹亜範らにとって、垂涎の的だった。

 撫松遠征の直後、曹亜範はわたしに、朝鮮人隊員のうちから伝令を譲ってくれと言った。わたしは、伝令のうちでもいちばん大事にしていた金沢万を呼び、曹亜範をりっぱに護衛するようにと言い含めて彼のもとへ送った。曹亜範は、反民生団闘争のさい、朝鮮人の恨みを少なからず買い、また、わたし個人の活動にもなにかとブレーキをかけた人物ではあったが、だからといって彼を排斥したり、せっかくの要請を無視したりすることはできなかった。わたしが新師団を編成することになったとき、曹亜範が我々の主力部隊の政治委員として派遣されてくることになったが、わたしはそれに反対した。彼の身辺安全を保障しかねるからだった。新師団には、反民生団闘争のさい、曹亜範の冷酷な仕打ちを受けた者がかなりいて、彼を嫌悪していたからである。わたしが師団の政治委員を兼ねたのは、そのためであった。

 金沢万はわたしに言われたとおり、曹亜範をりっぱに護衛した。曹亜範は、金沢万を聡明で忠実な若者だ、りっぱな伝令を送ってくれて感謝する、とたびたび礼を言った。

 楊靖宇も、りっぱな隊員を譲ってほしい、と何度も要請した。楊司令が、第1軍と第2軍の軍・政幹部会議に参加するため南牌子に来たとき、わたしは彼に伝令を何人か譲り、さらに指揮官を含む数百名の隊員を割いて独立旅団を編成してやった。

 魏拯民も楊靖宇や曹亜範と同様、わたしの育成した朝鮮人隊員をほしがった。彼のたっての要請で、わたしは警護隊員の黄正海と白鶴林を送った。金戊M、全文旭、任銀河、金得秀らも、しばらく魏拯民のもとにいた。彼らは、みな魏拯民を忠実に助け守った。周保中もひところ、朝鮮人の朴洛権を警護隊長に登用していた。第3方面軍の軍長陳翰章も馬鞍山児童団出身の孫明直を伝達長にしていた。わたしは、わたしが送った隊員たちが抗日連軍の各部隊で、国際主義的義務を遂行するため犠牲的に戦っているという消息に接するたびに、言い知れぬ喜びを感じたものである。

 警護中隊員たちは、いずれもわたしの生命の恩人であり、親衛戦士であった。上にあげた隊員のほかにも、わたしを守ってくれた戦友たちは多い。金雲信、崔元日、金学松、韓益洙、全文燮、金洪洙、崔仁徳、崔金山、趙明善、池鳳孫、金鳳錫、李鶴松、李斗益、呉在元…。彼らの名を心のなかで呼んでいくと、数千、数万の錯綜したかつての事柄が、記憶のなかにおのずとよみがえってくる。

 初代警護中隊長の李東学は、連隊長に昇進したのち、1938年末ごろ壮烈な戦死を遂げた。李東学の後任として警護中隊長になった李達京は、もと第4師の機関銃手だった。百発百中の名射手で、李達京といえば知らない人がいないほどだった。彼は、しばらく警護中隊の政治指導員を務め、李東学が連隊長に昇格すると、その後任になったが、1か月もたたずして戦死した。李達京の後を継いで警護中隊長になった朴寿万もじつに勇敢だった。彼は双山子戦闘のとき、わたしに集中した敵の火力をそらすため、機関銃手を伴ってあちこちに位置を変えながら戦ううちに凶弾に傷つき、それがもとで世を去った。

 警護中隊の初代中隊長の李東学から第4代中隊長の呉白竜にいたるまで、司令部の護衛にあたった中隊長たちはすべて、わたしのためならどんな苦行にもひるまず、わたしの命令、指示を貫くためには、水火もいとわぬ忠実な戦友たちであった。

 わたしのために生命をささげた恩人のなかには、李権行という10代のうら若い警護隊員もいた。彼はわたしを実の兄のように慕い、尊敬してくれた。ある年の冬、敵の追撃を受けながら強行軍をしていたときのことである。たいへん寒い日だったが、雪中行軍をつづけてもなぜか足が凍えなかった。不思議に思って履き物を脱いでみると、綿のようにやわらかくもみほぐしたシラカワスゲが底に敷かれているではないか。李権行が、敷いたものだと伝令が耳打ちしてくれた。

 中国人は、朝鮮人参、鹿茸、テンの毛皮を「関東(東北)の3宝」と称していたが、酷寒にも足を凍らせないシラカワスゲも「東北3宝」の一つに数えていた。湿地に自生するこの草がどうしてわたしの履き物に敷かれたのか。おそらく、李権行は、わたしのためにシラカワスゲ草を見つけるたびに1握り、2握りと摘みとって背のうにしまっておいたのだろう。

 彼が長白県十五道溝戦闘のさい、わたしを身をもってかばってくれなかったら、わたしは生き残ることができなかったであろう。あのとき、敵は司令部のある指揮所に集中射撃を加えてきた。李権行が何度も指揮所を安全な場所へ移そうと言ったが、わたしはそれに応じなかった。そこは、戦場を一目で見渡せる有利な場所だったのである。ところが、敵弾が不意にわたしに集中しはじめた。とっさに李権行は、両腕を広げてわたしの身をかばった。彼が盾となって、わたしにぴたりとついたとたん、敵弾がその足の骨を砕いた。全身血まみれの李権行を胸に抱いて、銃創をあらためたときの、わたしの気持をなんと表現してよいだろうか。わたしは担架に付き添って、「おまえは死なんぞ」「おまえは死なんぞ」と、何回も繰り返しながら彼を励ました。李権行は、「司令官同志、わたしは死にません。わたしの心配はなさらないで、また会うときまでどうかお体に気をつけてください」と、かえってわたしを慰めるのだった。そのときのわたしの表情がよほど悲しみにひしがれていたらしい。それが、わたしに残した彼の最後の言葉だった。彼は後方病院に移されてから手紙をよこしたということだが、わたしの手には届かなかった。わたしが受け取ったのは、李権行が後方密営で治療中、敵に逮捕され、長白県警察署で連日むごい拷問を受けながらも司令部の位置を明かさず、最期まで節操を守りとおしたという消息だけだった。

 司令部付き警護隊員のなかには、「リュックサック」というニックネームの隊員もいた。リュックサックは登山用背のうだが、彼がいつも異常なほど大きな背のうを背負っていたので、そんなニックネームがついたのである。なぜそんなものを背負っていたのか、その秘密がわかったのは臨江でのある戦闘のときだった。熾烈な攻防戦がくりひろげられていたそのとき、「リュックサック」は、なぜかわたしのそばを一歩も離れようとしなかった。わたしは、塹壕の土壁に敵弾が突き刺さるたびに、弾に当たらぬよう彼を抱き寄せ、土壁の上へ顔をつき出させないようにした。しかし、彼はいつの間にか、わたしの胸から脱け出し、敵兵が右から押し寄せてくるとわたしの右脇にくっつき、左側から攻めてくると左脇にくっつくのである。戦闘が終わって、綿の焦げる臭いが鼻をつくので、塹壕を見まわすと、なんと、彼の背のうにあいた2つの弾孔から煙がもれていた。ところが、当の本人は少しも気づかず、誰かの服が焦げていると騒ぎ立てていた。隊員たちが駆け寄って彼の背のうを開けてみると、真綿が丁寧にたたんで詰めてあり、そのなかから熱い弾丸が2個転がり落ちた。彼がなぜ大きな背のうを背負ってわたしに付きまとっていたのかを、そのとき、わたしははじめて理解した。結局、「リュックサック」の真綿が、わたしを危地から守ってくれたのである。わたしはどうしてそんな奇抜なことを考えたのかと聞いてみた。すると彼は、金正淑同志が、司令官同志の冬服をつくるとき、真綿を入れながら、こんな綿を入れると銃弾が貫通しないと言ったので、自分も司令官同志のために防弾用背のうをつくった、と答えるのだった。

 抗日戦争での警護隊員たちの功労を手短に話すのは容易なことでない。しかし、ここで強調したいのは、朝鮮革命の命脈を守るために果たした功績だけについていっても、彼らは当然、後世の人たちの称賛と感謝を受けるに価するということである。彼らが、革命の司令部を守るためにつくしたあの崇高な同志的信義は、今日、わが国の社会で時代の花として咲きほこっている忠孝一心の原点といえる。

 わたしは、抗日革命闘争当時の経験にもとづき、祖国解放戦争(朝鮮戦争)の時期にも10代の革命家の遺児たちで親衛中隊を組織し、最高司令部の護衛にあたらせた。

 親衛中隊員たちは、わたしの身辺の安全をはかって苦労をし、危険にさらされたことも多かった。ある年の冬、わたしは連合作戦のため成川の中国人民義勇軍部隊を訪ねた帰途に、敵爆撃機編隊の奇襲を受けたことがある。そのとき親衛中隊員たちは、わたしを強引に畑のうねまに押し倒し、全員が防弾具となって2重、3重、4重にわたしの上に伏せた。これに似たことはその後も何回となくあった。

 1950年秋のあの困難をきわめた一時的な戦略的後退の時期にも、わたしとともに最後まで平壌に残って最高司令部を護衛したのは、ほかならぬその勇敢無比の親衛中隊員たちだった。怒涛のごとき南進から後退への戦局の急変で、首都の市民は意気消沈していた。彼らは、誰もが最高司令部を見つめ、最高司令官の戦争展望についてのコメントを待ち望んでいた。わたしは放送演説を通じて、後退は一時的なものだ、いたるところでパルチザン闘争を展開せよ、勝利は朝鮮人のものだと言明した。そして親衛中隊員たちに、歌唱行進で市内を一周するよう命令した。この思いもよらぬ命令を受けて、彼らは呆然としていた。

 大同江の対岸からは、すでに敵軍の砲声がいんいんと鳴り響いてくるというのに、悠然と歌唱行進を命ずるとはどういうことだろうかという表情だった。しかし彼らはすぐさま、最高司令官がそういう命令をくだすからには、この戦争の勝利は疑いないと思い、元気いっぱい街路を行進した。後退を前にした陰うつな首都の街には、突如、親衛中隊員たちの『祖国防衛の歌』が力強く響き渡った。その歌声を聞きつけた数千の市民が街頭に飛びだしてきた。「親衛中隊だ!」「親衛中隊だ!」という声があちこちから上がった。「親衛中隊が、我々のそばにいる。親衛中隊が残っているのだから、最高司令官も我々の近くにいるはずだ」

 親衛中隊の歌唱行進を目撃した平壌市民たちは、あのときそう思ったという。親衛中隊は、平壌市内のすべての機関が後退を開始したのを見届けてから、わたしとともに首都を後にした。

 抗日戦争時代の警護中隊員たちも、いまはもう還暦をはるかに越した老人となっている。彼らに代わって、いまは革命の3世や4世たちが党中央委員会と最高司令部を護衛している。世代の交替はつづいているが、新たな警護中隊、親衛戦士はたえず成長している。それが何万、何十万であるかをあえて数える必要があろうか。全国すべての軍人と人民が、警護隊員になり、親衛戦士になって党と革命を守っているのである。



 


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