金日成主席『回顧録 世紀とともに』

2 小湯河での一行千里


 漫江付近で数回の激戦をくりひろげた後、わたしは、部隊を率いていちはやく楊木頂子密営に入った。楊木頂子は、西南岔から老嶺に登る途中の山腹にあった。その地名はハコヤナギが多いことに由来するという。山頂へ登る小道の両側にそれぞれ密営が一つずつあった。片方が東楊木頂子密営、片方が西楊木頂子密営であった。我々は、先に西楊木頂子密営に寄った。そこに兪参謀の部隊がいた。東楊木頂子密営から南に峠を一つ越えると、すぐ先に高力堡子密営があった。老嶺を中心に三角形をなす、これら3つの密営を人びとは楊木頂子密営と呼んでいた。この密営は創設後、数年間利用されたが、林水山の「討伐隊」によって大々的な襲撃を受けた1940年3月以後、廃営になった。そのとき大勢の戦死者を出し、密営は焼失したのである。

 楊木頂子は、忘れえぬところである。わたしの戦友であり信頼すべき助言者である李東伯がここで犠牲になった。警護中隊長の李達京が重傷を負い、担架で運ばれてきて息を引き取ったのもこの密営だった。わたしが、『曙光』に『朝鮮共産主義者の任務』という論文を発表したのもここ楊木頂子だった。わたしは、この密営で魏拯民をはじめ軍指揮部の幹部とたびたび会い、連合作戦にかんする諸問題を討議した。

 わたしは楊木頂子密営で、1937年夏の祖国進軍作戦を練り、その準備を進めた。国内進攻の準備で重要な問題の一つは、補給物資を確保することだった。わたしは、楊木頂子で呉仲洽をキャップとする小部隊を編成し、金周賢が待っている長白に派遣した。この小部隊には、裁縫隊の女性隊員や凍傷患者、病弱者も入っていた。1日1人当たり1碗のトウモロコシがゆもゆきわたらなかった苦しい雪上行軍に比べれば、長白で補給物資の工作にあたるほうがはるかに楽だっただろう。当地で、補給物資の工作にあたる小部隊とともに、西間島一帯と国内に潜入して活動する政治工作員を一緒に送り出した。

 その後、遠征部隊は、敵を誘導、分散させ、食糧を入手するため楊木頂子を発ち、小湯河の密林にある第4師後方密営へ向かった。密営には、酒樽やミカン箱、リンゴ箱まであった。第4師の戦友たちは、靖安軍をたたいて得た戦利品だと自慢した。その戦利品のなかには、機関銃も3挺あった。

 第4師の戦友たちは、2日分ほどのトウモロコシを分けてくれた。部隊が第4師の密営を出発するとき、数人の隊員が「畢チビッコ」と呼ばれる隊員を口説き落として酒樽まで一つかついできた。わたしは、それを見て禁酒令をくだした。わたしは、もともと酒、タバコを奨励しなかった。酒とタバコは、いずれも軍事活動に支障をきたすことが多かったからである。どの年であったかは思い出せないが、行軍中、部隊が混乱に陥ったことがあった。小休止のとき点呼を取ってみると、隊員が2人いなかった。それで2人を探しはじめた。あとでわかったことだが、彼らは、行軍の途中でひそかに抜け出し、飲食店で酒を飲んだのである。彼らが手きびしく批判されたのは言うまでもない。

 酒樽を見ると抜け目のない隊員たちが、寒さしのぎに一杯やろうと李東学中隊長を口説きはじめた。李東学は、それに負けて、酒樽の栓を抜き、隊員たちに一杯ずつふるまった。

 「司令官同志には内緒で、1口ずつだけ飲もう。1口ならかまわんだろう」

 こうしてその日、警護隊員たちは1人残らず酒を飲んだ。他の中隊でも酒を飲んだ。このとんでもない均等分配のため、我々は小湯河戦闘でたいへんな目にあうところだった。李東学の経歴で過失をあげるとしたら、おそらくその日の過失がもっとも重大なものだったであろう。すっかり衰えた体に酒が入ったのだから、酔いも尋常ではなかった。そのうえ、歩哨も規定に違反して軽率に行動した。当日の朝、宿営地の外側で歩哨に立ったのは第8連隊の隊員だった。彼の立哨中、数百名の満州国軍が宿営地を包囲しはじめていた。人の気配を感じた歩哨は、「誰か」と誰何した。ところが、この満州国軍もしたたか者で、「おれたちは第4師だ。おまえたちは金司令部隊じゃないか」と応じた。虚をつかれた歩哨は彼らを第4師部隊と速断し、「そうだ。おまえたちは、どこから来たのか」と反問までした。そうこうしているうちに、満州国軍「討伐隊」は有利な位置を占め包囲網をせばめた。満州国軍は歩哨に、おまえたちが金司令部隊に違いないなら代表を送れ、と言った。人民革命軍には隣接部隊と会うとき、代表を派遣するというしきたりはなかった。ところが、第8連隊の歩哨は勝手に満州国軍側に代表を1名送った。尾根をすっかり占めた敵はその代表を逮捕し、武装を解除したあと攻撃を開始した。こうして我々は、暫時守勢に立たされた。

 こうした状態で、戦況を有利に逆転させるのは容易なことでなかった。敵は、すでに司令部のある稜線の後ろに這い上がっていた。わたしは全隊に、高地を占めるよう命じた。李東学が隊員たちに飲ませた酒のつけは、このときまわってきた。命令をくだしたにもかかわらず、いちはやく高地に登れず、山裾でもたついている隊員が何人もいた。あとで知ったことだが、彼らは飲めもしない酒を受けて飲んだ者たちだった。警護中隊機関銃手の姜渭竜もその1人だった。早く高地を占めろと何度も叫んだが、彼はあいかわらず下の方でもたもたしていた。後日、告白したところによると、酔いのため足がふらつき、目まいがして思うように動けなかったという。機関銃手がそんな有様なので、さすがにわたしもあわてざるをえなかった。

 敵と味方の間の距離があまりにも近かったので、高地は混戦状態に陥った。敵の猛射で李東学の背のうは方々が破れ、隊員の1人は敵弾に片耳がふっとんだ。そのうえ、金沢環の第7連隊第2中隊は、まだ敵の包囲から抜け出せないでいた。そんななかでも、功を立てたのは警護中隊の機関銃手たちだった。彼らは、しばしば位置を変えながら敵に猛烈な射撃を浴びせた。そのあいだに、第8連隊は包囲から抜け出した。金沢環の中隊も1個分隊を失ったが、混戦のなかから救われた。

 戦闘は、早朝から夕方までつづいた。この戦闘で、我々は数百名の敵を殺傷し、多量の戦利品を得た。勝ちはしたが、その日の戦いは我々に痛ましい傷痕を残した。わが方の損害も少なくなかったのである。金山虎は、隊員たちを救出するために奮戦し、数か所に銃創を負った。彼は、息を引き取る前に白兵戦の名手金学律を呼び、突撃路を開くよう命じた。金学律は、新昌洞で韓泰竜と一緒に入隊した大力の兵士だった。力も強かったが、剛直で勇敢だった。彼は城市襲撃戦のたびに先陣に立って突撃路を切り開き、戦闘が終われば米倉や補給物資の倉庫をあけて、まっさきに重い荷をかついだ。いつかは、100キログラムの米俵をいっぺんに2つもかつぎ出して戦友たちを驚かせたこともあった。雪中にトンネルを掘って進むときも、先頭にはいつも彼がいた。命令を受けた金学律は、敵軍のまっただなかに躍り込んで白兵戦をくりひろげ、銃剣で10余名の敵兵を倒したが、自分も8か所に傷を負った。まったく不死身のようであった。彼は白兵戦ができなくなると、手榴弾を投げて戦った。そして、最後の手榴弾を持って敵中にころがりこんだ。すさまじい爆音が高地をゆるがした。戦友たちは唇を噛んで彼の死を悼んだ。

 最大の損失は、第8連隊の政治委員金山虎を失ったことである。彼は、五家子時代からわたしと長いあいだ苦楽をともにしてきた。我々は普通の人間が革命を通してどんなに飛躍的な成長を遂げるものであるかを語るとき、その典型としていつも彼を引き合いに出したものである。こうして、「下男から連隊政治委員に!」という言葉は、革命が普通の人間の成長過程をいかに力強く促し、労働者、農民出身の平凡な勤労青年が、革命の渦中で政治的、思想的に、軍事技術的に、そして文化道徳的にいかに長足の成長を遂げるものであるかを示す一つの好例ともなった。

 金山虎の死に、胸が張り裂けそうで、わたしはその夜、食事がとれなかった。隊員たちは焚き火をたいて「司令官同志!」「司令官同志!」とわたしを呼んだが、そこへも行かなかった。全身が氷になって雪中に埋もれている金山虎のことを思うと、火を見るだけでも罪を犯すような気持ちだった。第8連隊長の銭永林もわたしと同様、夕食をとらなかった。金山虎は朝鮮人で、銭永林は中国人だったが国籍の違いによって彼らの革命的友情が妨げられたことは一度もなかった。銭永林は、いつも金山虎の意思を尊重し、金山虎はいつも陰で銭永林の活動を誠心誠意助けた。銭永林のその悲痛な様子に、彼の部下たちも全員食事をとらなかった。金山虎と金学律のおかげで包囲を切り抜けた隊員たちは、自分たちを死地から救ってくれた命の恩人と犠牲になった戦友たちをしのんで最後までさじをとろうとしなかった。

 戦闘が終わったあとも、敵は撤収する気配をみせなかった。兵力を増強して包囲網を完成し、我々を小湯河の谷に追い込んで全滅させようと図っているらしかった。まかり間違えば、その包囲網に陥って進退きわまり、壊滅する恐れがあった。こんなときこそ、主導権を握って敵を守勢に追い込むのが遊撃戦の要求であった。わたしは部隊を山林の奥深くへ撤収させるふりをし、ひそかに戦場の跡にもどって、そこで宿営した。元の場所を中心に機動して敵を混乱に陥れる、我々固有の戦術だった。

 このように我々が敵を欺いているあいだ、敵のほうでは決戦にそなえて、ぞくぞく兵力をつぎこんでいた。敵もその春は「冬季大討伐」の惨敗を挽回しようと、大きく賭ける覚悟を決めたようであった。敵はひきもきらず小湯河谷に大兵力を集結していた。満州の全兵力がその谷間に集まってくるかのような観を呈した。日没後、台地から平場を見おろすと、数里にわたる小湯河の谷間にかがり火の海が広がり、大都会の夜景をほうふつさせた。我々を幾重にも取り囲んでいるそのかがり火を方向別に概算させて敵の兵力数を推算すると、数千に達する驚くべき兵力だった。火の海を眺める隊員たちの表情がこわばっていた。もはや小湯河の台地で最期を迎えるほかないという悲壮な覚悟をしたのであろう。

 「司令官同志、抜け道はなさそうです。決戦の準備をすべきではないでしょうか」

 第7連隊長の孫長祥が、悲壮な顔をして言った。他の指揮官たちもひとしく同じ表情だった。孫長祥の「決戦」という言葉は、なぜかわたしの耳にうつろに響いた。500にみたない小兵力で数千の敵に決戦を挑むというのは、はっきり言って自暴自棄の蛮勇としかいえなかった。決戦を挑んで我々がみな死んでも、それであすには革命が勝利するというなら、それも辞するものではない。しかし、我々は最後まで生き残って、いったんはじめた革命を成功に導かなければならない人間たちだった。

 「同志たち、生き残るのは死ぬことよりむずかしい。しかし、我々は死を選ばず、みな生き残って革命をつづけなければならない。我々には、国内進攻作戦という大きな課題がある。これは、時代と歴史が我々に求めている神聖かつ栄誉ある課題だ。このような大事を前にして死を選ぶことができようか。我々はみな生き残って人民革命軍の国内進出を渇望している祖国へ必ず進軍しなければならない。だから難局打開の道を考えてみよう」

 「司令官同志、打開策にも限度があります。こんな死地のどこに抜け穴がありましょうか」

 孫長祥はなおも事態を破局的だとばかりみなしていた。

 全隊が命令を待ちながらわたしを注視していた。司令官の位置がいかに重要で苦しいものかを、あのときほど痛感させられたことはなかったと思う。

 わたしは、大小のかがり火が一面にゆらめく谷間を見おろしながら、包囲網を突破する妙策を考えた。問題は、どの方面へどう突き抜けて敵の包囲の外に遠く脱出するかということだった。小湯河の谷間に散開している「討伐隊」の兵力を数千名と推算すれば、敵の後方は、がらあきのはずだ。もし我々が包囲の輪を抜け出すとすれば、敵は我々が山の奥にもっと深く入ったものと判断するだろう。だとすれば、敵の包囲が比較的手薄な大道路のほうへひそかに抜けるのが上策だ。そして、大道路を一行千里に突っ走ろう。こういう考えが頭にひらめいた。わたしはただちに命令をくだした。

 「同志たち、死を覚悟するのはよいが、誰も死んではならない。生きる道はある。これから小湯河の森林地帯を捨てて住民地区へ出るのだ。そして、大道路ぞいに東崗方面へ行軍しようというのがわたしの決心だ」

 指揮官たちは「大道路」という言葉に、いっせいに顔をあげた。移動のさいに隠密を保つのは、遊撃隊の活動において鉄則とされていた。それにもかかわらず、敵の大兵力が我々を包囲しているときに住民地帯に出て大道路を行軍するというのだから、一同が驚きの目を向けるのは無理もなかった。孫長祥がわたしのそばに来て、無謀な冒険ではないかと不安げに忠告した。彼が、わたしの脱出作戦をひどい冒険だと憂慮したのは根拠のないことではなかった。どう見ても、それは冒険だと断定せざるをえない危険きわまる作戦だった。敵が大道路を守っているかも知れず、また後方に一定の兵力を残しているかも知れなかったからである。

 わたしは、かねて抗日武装闘争の初期から、軍事冒険主義に反対してきた。我々は勝ち目のある戦いだけおこない、勝ち目のない戦いは避けた。冒険をあえてしたのは、避けがたい場合だけである。だが、我々が敢行した冒険はいずれも成功を前提としたものであり、自己の力を最大限に動員しての冒険だった。百発百中の命中率を狙う冒険、それは天が崩れ落ちても這い出る穴はあるというゆるぎない信念と闘志と勇気があってこそ断行できるものだ。

 わたしが小湯河の台地で決心した住民地帯への脱出と大道路行軍戦術は、勝算が確かな冒険だった。わたしがそれを勝算確実とみなしたのは、その冒険に、逆境を順境に変え守勢から攻勢に転ずる我々ならではの徹底した攻撃精神がこめられており、敵の弱点を最大限に利用する科学的な計算が裏打ちされていたからである。

 戦いは、つまるところ、知恵と知恵の対決であると同時に、信念と信念の対決、意志と意志の対決、勇気と勇気の対決でもある。敵が小湯河一帯に数千の兵力を集結したのは、数量の優勢を頼んでの大規模な人海戦術によって、我々を包囲せん滅しようとするのが目的だった。人海戦術による大包囲戦は、彼らが革命軍の「討伐」に出動するたびに用いる常套手段だった。敵は、すでに世に数百回も知りつくされた陳腐で紋切り型の戦術で我々の全滅をはかったのである。敵が頼りとしたのは、もっぱら数千名というその膨大な兵力のみだった。そこに、彼らの戦術の弱点があり、制約があった。敵は数里にわたる小湯河の谷間にかがり火の海を現出することによって、自軍の兵力と人民革命軍せん滅の戦術をそっくりさらけだしていた。それは、彼らが我々に作戦文書を手渡す愚を犯したにひとしかった。その失策によって、彼らはすでに我々に主導権を奪われたのも同然だった。

 わたしには、我々が安全地帯に抜け出す自信があった。それで、微笑して孫長祥の肩に手をおき、指揮官たちにこう言った。

 「敵は、ここに数千の兵力を集結した。これは、小湯河の周辺はもとより撫松一帯の住民地帯のすべての軍隊や警察隊ばかりでなく、自衛団兵力まで残らず集めてきたことを意味する。したがって、この近くの村や大道路はがらあきになっているはずだ。敵はいま密林に注意を集中している。まさか、我々が大道路を通過して脱出するとは夢想だにしていないだろう。ここに敵のすきがある。我々は、この空間を利用して東崗密営へ迅速に移動するのだ」

 そのとき、わたしの話しぶりや態度は余裕しゃくしゃくとしていたらしい。指揮官たちの顔色がはじめて明るくなった。彼らは、元気よく部隊に出発号令をかけた。まず、第8連隊が谷間をくだっていった。警護中隊と第7連隊が、そのあとにつづいた。行軍縦隊は、かがり火を避けながら、大道路のほうに音もなく動いていった。集団の生死を分かつ複雑な状況や危険にぶつかったとき、指揮官の態度や言動が全隊伍にいかに深刻な影響を及ぼすものであるかを、そのときわたしは痛感した。指揮官が泰然としていれば隊員も泰然とし、指揮官がうろたえれば隊員もうろたえるものだ。

 予想したとおり、道路には、まったく人影がなかった。村のはずれに焚き火の跡があるだけだった。我々は疾走する急行列車のようにいくつもの村をなんなく通過し、東崗へ急いだ。我々は銃弾一発撃つことなく、がらあきの敵中を無事にくぐり抜けた。我々が発砲したのはたった一度、第8連隊が2つに分かれて行軍しているのを発見したときだった。前の隊列と後ろの隊列の距離は500メートルを越していた。村々と大道路を通過するあいだに、隊員たちの気がゆるみだしたのである。彼らのなかには、居眠りしながら行軍する者が少なくなかった。わたしは、後尾の指揮官に命じて銃を一発発射させた。銃声があがってから、行軍速度が倍加した。歩きながら居眠りする者もいなくなった。

 小湯河での大道路行軍戦術は、後日、祖国に進軍して、枕峰から茂山地区に向かうときにも適用した。その戦術を一行千里の戦術という。

 後日、雑誌『鉄心』を見て知ったことだが、敵は小湯河戦闘のとき、日本、満州国、ドイツなど3か国のメンバーで構成された記者団まで連れていたという。記者の従軍はどの戦争でも見られる通例だが、満州から数千数万里も離れたナチス・ドイツの記者まで戦場に入り込んできたのを見ると、日本の「討伐」専門家たちが撫松地区作戦に相当な意義を付与し、また彼らがこの作戦は勝ったも同然と思い込んでいたことがわかる。『鉄心』に載った「東辺道討匪行」という記事によると、その記者団は、日本の主要新聞である『東京日日新聞』『読売新聞』『報知新聞』の記者たちとともに、新京放送局のメンバーと満州国の外交官、ナチス・ドイツの国営通信社の通信員ヨハン・ネベルらだったという。日、独、満の出版・報道界と言論界の連合陣に外交官まで加わった、それこそものものしい参観団であった。おそらく、敵は、撫松地区「討伐」作戦を全世界に誇れるモデル作戦とみなし、この作戦で達成する「赫々たる戦果」をあまねく宣伝しようと、相当意気込んでいたのであろう。

 時を同じくして、満州国軍政部軍事調査部の中枢幹部である鷲崎と事務官の長島、安東特務機関長の田中も現場に駆けつけた。彼らも、その年の春には撫松の険しい山並と谷間で日本軍が人民革命軍を全滅させ、「東洋平和のガン」を永遠に根絶できるという妄想にとりつかれていたのであろう。鷲崎は、満州地方における共産主義運動の実状に精通している人物であり、その撲滅戦略の作成にあたって主役を演じたひとかどの策士だった。彼は、『満州共産匪の研究』という非公開図書の主要筆者で、あなどりがたい筆力もそなえていた。

 祖国解放戦争(1950〜1953)の末期、李承晩がT形高地と呼ばれる小さい高地での戦闘を観戦させようと多くの外人記者を誘致したことがあったが、その報告を聞いたとき、わたしは撫松遠征当時のことをいまさらのように回想させられたものである。李承晩の軽薄な行為と日本の「討伐」界の頭目たちのこけおどしには一脈相通ずるものがあった。相手を見くびり、おのれを過大評価する点では、ヒトラーや東条、ムッソリーニや李承晩も同類であった。

 記者団一行を迎えた「討伐」司令官は、本部隊は山中で純粋の金日成共産軍と遭遇したが、金日成は30歳未満であり、モスクワ共産大学で訓練を受け、500名の兵力を有する東辺道第一と目される最大勢力だが、「いまは袋のネズミ」だと豪語した。彼は、ドイツ語に堪能で、ドイツの通信員には通訳を介せず自分が直接説明したという。当時、日本の新聞は、わたしがモスクワ共産大学の出身だと喧伝していた。「袋のネズミ」という「討伐」司令官の言葉に記者団一行は色めき立った。しかし、我々の主力部隊がいつの間にか包囲網を突き破り行方をくらますと、「討伐」司令官は、再び記者団の前にあらわれ、300名ほどいた共産軍は全員逃走したとし、その場しのぎに1名の「捕虜」を取材の対象に指名した。ところが、記者団の取材にたいして、その「捕虜」は、通化で満州国軍に服務し、つい最近革命軍に寝返ったと陳述したが、共産主義についてはなにも知らないと言ってにやにや笑っていたというのである。正直な話、我々はその当時、通化近辺にまで進出したことはなかった。芝居にもほどがあるもので、記者団のあきれようは想像にかたくないであろう。

 敵が小湯河の樹海につくりだしたかがり火の海は、我々に大道路行軍戦術を着想させただけではなかった。それは、国境一帯に集結した敵を撫松方面に誘導しようとした我々の遠征目的が基本的に達成されたことを確信させてくれた。

 人民革命軍が数千もの大兵力による包囲を突破し、いずこへとも知れず雲隠れしたという通報に、敵は愕然とした。敵は革命軍の行方を察することができず、うろたえた。敵兵のあいだには、さまざまなうわさが広がった。「遊撃隊の戦術は人間わざではない」「朝鮮パルチザンには、諸葛孔明そこのけの道士がいる」「朝鮮人民革命軍は、数年内にソウルに攻め入り、東京も討つそうだ」 こんなうわさは民間にも広がり、農村の老人たちのたまり場でも話題になった。この行軍があってから、我々の部隊にたいする伝説のような話はさらに増えた。

 頭道嶺から東崗付近までの行軍もやはりきびしい食糧難を伴ったが、これは言語を絶するものだった。一行千里の行軍で東崗付近の密林に到着した我々は、そこに1か月ほどとどまる予定で食糧工作に取り組んだ。数百名の1か月分の食糧を確保するのは、容易なことでなかった。ところが、思いのほか簡単に食糧を得るめどがついた。夜間、遠方監視にあたった隊員たちが近くにトウモロコシ畑があるのを見つけたのである。前年に栽培してまだ収穫しないまま冬を越したトウモロコシが畑に残っていた。白頭山周辺の山奥には、そんな畑が少なくなかった。何日もぬかと水で命をつないできた彼らは、戦友たちのことを思ってトウモロコシをもいで帰ってきた。ところが、彼らは畑の主の許しを得ていなかった。畑の主が見えず、どこに住んでいるのかもわからなかったし、歩哨の交替時間になったので、探し歩くゆとりがなかったのである。

 わたしにきびしくとがめられて主人を探しに行った隊員たちは、数時間後、白髪の中国の老人を連れて帰ってきた。わたしは部隊を代表して老人に謝罪し、現金30元を差し出した。すると老人は、とんでもないと手を振り、そんなわずかなトウモロコシのために、隊長さんがわざわざこの年寄りに謝罪をすることはない、土匪に食べられるのは惜しくても革命軍が食べるのは惜しくない、わずかなトウモロコシのために革命軍から代金をとるなど滅相もないことだ、あとで村人たちが知ったら、わたしのことをなんと言うだろうか、金もいらないし、トウモロコシを返してもらおうとも思っていない、と言うのである。わたしは老人に、トウモロコシは老人の畑のものだから当然持ちかえるべきだし、お金は損をさせた償いだから受け取ってもらいたいと言った。わたしがあくまでゆずらなかったので、老人はやむなく金とトウモロコシを入れた背負い袋を持って村へ帰った。老人は村まで付き添った隊員たちに、あの隊長さんは誰かと聞いたそうである。隊員たちは、金日成将軍だと隠さずに告げた。すると老人は、きょう自分は一生をかけてもそそげない大罪を犯したと言って、深く考え込んだ。そして、村に帰ると一家親族を集め、畑のトウモロコシを全部取り入れてそりに積み、再びわたしを訪ねてきた。

 「わたしはきょう、金隊長にお目にかかってすっかり感服しました。金隊長がわたしのような百姓までこれほど大事にしてくださるので、ただただ恐縮するばかりです。人情には人情で報いたいのです。どうか、あのそりのトウモロコシを受け取ってください」

 今度は、わたしのほうが老人のたっての好意を断りきれなくなった。彼から贈られたトウモロコシのおかげで、我々はひとまず急場をしのぐことができた。

 老人は、わたしに食糧を入手する手立てまで教えてくれた。漫江に沿って8キロほどくだると、薬用人参畑がある、その畑の主人たちとかけあってみれば算段がつくはずだというのである。薬用人参を取り入れたあとに大豆とトウモロコシを植えはしても、自分と同じように収穫はせず、そのままそっくり売り払おうとしている、金将軍部隊がそのつもりなら、自分がかけあってもいい、と言うのだった。

 わたしは伝令を1人つけて、老人に薬用人参畑まで足を運んでもらった。伝令は、交渉がうまくまとまりそうだという知らせをもって帰ってきた。わたしは、警護中隊と第7連隊から屈強な隊員を数人選んで、人参畑に送った。食糧工作隊が出かけているあいだ、部隊はトウモロコシで食いつないだ。数日後、工作にあたっていた警護隊員たちが大豆かすをかついで帰ってきた。それは、人参畑の主人たちがとっておいたものだった。我々は、その大豆かすを生でも食べ、蒸したり、いったりもして食べた。

 工作隊員たちの話によれば、人参畑の主人たちは、革命軍が食糧に困っていると聞き深く同情してくれたという。人参を栽培したあとに植えた大豆やトウモロコシは、まだ収穫せず、畑にそのまま放置されていた。それは、部隊を1か月はゆうにまかなえる量だった。それをみな売ってほしいと言うと、人参畑の主人たちは、金日成将軍の部隊を援護するのに金をとるわけにはいかない、自分たちはこの大豆やトウモロコシがなくても困らないから、残らず取り入れて持っていくようにと言った。しかし、第7連隊の食糧工作隊員たちは無理にお金を渡して畑の穀物を丸ごと買い取った。

 夕食後我々はすぐ、人参畑に向かって強行軍した。そして、畑に到着すると、総がかりでトウモロコシと大豆を取り入れた。トウモロコシは実のままで保管し、大豆は株ごと刈り取って脱穀した。から竿がないので棒で打ったり足で踏んだりして皮をはいだ。大豆とトウモロコシを集計してみると数十石にもなった。わたしは、人参畑の主人たちに会って礼を述べた。善良な人参畑の主人たちは、1か月以上使える塩まで提供し、しっかり戦ってもらいたいと激励してくれた。

 食糧問題が解決したので、わたしは部隊を率いて東崗密営に向かった。そこは、長白地区を発つときから、軍・政学習の場所に内定しておいたところだった。わたしは前年の春と夏、許洛汝老から、東崗の密林に昔、高麗堡子とか高力堡子と呼ばれた村の跡がある、そこには我々の先祖が武芸を修練した砦の礎石が残っている、という話を聞いたことがあった。彼は、自分が漫江の樺拉子村に引っ越してきたのは10代の少年時代だったが、当時は高麗堡子の周辺に朝鮮人だけの村がいくつもあり、その一帯の焼畑は地味が肥えていて穀物がよく実ったと語っていた。

 日清、日露戦争の余波が白頭山のふもとにまで及び、日本軍が高麗堡子にまであらわれて村人たちを見境なく殺りくしたとき、憤激した村の青壮年たちは、弓矢と槍、石つぶてをもって戦い、敵兵を撃退したという。高麗堡子が洪範図部隊の練兵場として使われたとき、村の大多数の青年はその部隊に入隊して教練を受けた。庚申年(1920年)の「大討伐」は、高麗堡子を廃墟に変えてしまった。村は焼け野原となり、砦は爆破され、住民も全滅の憂き目にあった。生き残った人たちはわずかで、彼らは密林のなかに隠れ住んでいたが、数年前、思い思いにその土地を捨て、高麗堡子には人影が絶えてしまった。

 許洛汝村長からこんな話を聞いて地図を広げてみると、はたせるかな高麗堡子という地名があった。白頭山を中心とするおよそ40キロ圏には高麗堡子という地名がいくつもあった。それは臨江にも長白にもあった。安図県には、高麗子という村があった。それは、高麗人の砦があるところという意味の地名だった。白頭山の東側と南側の地帯には、腰窩堡、普天堡、羅暖堡、神武城、倉坪、倉洞、恵山鎮、新乫坡鎮などの地名もあるが、これらの地名が語っているように、昔、砦や城または軍需倉庫や守備兵の守る渡し場のあったところである。これは高麗時代や高句麗時代は言うまでもなく、古朝鮮時代からすでに、我々の先祖が、白頭山周辺の各所に城や砦を築き、国防に力をそそいでいたことを物語っている。

 わたしは許老人の話を聞いて、愛国的な祖先が築いた昔の砦と、彼らの苦難の足跡が残っているという東崗密林のその地点を胸の底に刻みつけておいた。

 高麗堡子の村跡を訪ねた我々は、薬用人参栽培者たちが使っていた2軒の空き家を発見した。撫松地方には山に入って人参を栽培する人が多かった。なかには、寒い冬場は都市近郊の村に帰り、夏場だけ山で働く人たちもいた。我々が発見した2軒の空き家は、果松山という同名の2つの山のふもとにあった。果松山とは、チョウセンマツの多い山という意味である。葉が5つの松なので五葉松とも呼ばれるこのチョウセンマツを、撫松の人たちは、漢字名で果松といった。東西に双子のように仲良く向き合っている2つの果松山には、文字どおりチョウセンマツが青々と茂り、高山地帯の雄壮な風致に豪放な趣きを添えていた。

 我々は2軒の空き家を手入れし、そこで政治学習と軍事講習をおこなった。練兵場は、東側果松山の密林のなかの空き地につくった。1か月分以上の食糧を確保して密営に落ち着くと、少なからぬ隊員は、部隊が当分「長期休息」に入るものと推測して喜んだ。それも無理ではなかった。長いあいだの強行軍と激戦で疲労困憊した隊員たちは、誰もが休息を願っていた。しかし、我々には、休息するゆとりがなかった。わたしは、隊員たちが疲れをいやすいとまもなく、東崗密営で中隊政治指導員クラス以上の幹部会議を開き、撫松遠征を総括した。この会議では、遠征過程で発揮された擁官愛兵の美挙が広く紹介され、今後そのような美風をいっそう奨励し、発展させるべきであることが強調された。

 その会合についで招集された会議が、抗日革命闘争史で一つの歴史的分岐点をなした西崗会議である。会議は西楊木頂子密営で3日間おこなわれ、第2師と第4師の幹部と魏拯民、全光をはじめ、軍指揮部の幹部たちも参加した。会議では、国内進攻作戦方針が討議された。わたしがこの方針と関連して演説をした。参加者全員が、わたしの国内進攻作戦案に賛成した。会議では、国内進攻作戦と関連した各部隊の任務と活動方向、活動区域も決定された。

 会議後、東崗密営でおこなわれた軍・政訓練の全過程は、もっぱら国内進攻をめざす政治的・軍事的準備をととのえることにあてられた。政治教育内容の基本は、朝鮮革命の路線と戦略戦術の問題、国際国内情勢にかんする講義であった。「祖国光復会10大綱領」の講義は、朝鮮革命にかんする我々の主体的路線を理解するうえで大いに役立った。この講義を通して、新入隊員は白頭山密営で学んだ知識をいっそう深めた。

 わたしは、このときも経読み式の学習に反対し、実践と結びついた学習討論と問答式学習を極力奨励した。司令部のメンバーと軍・政幹部、警護中隊員は、わたしが受け持って講義した。わたしは、革命路線にかんする講義とともに、社会発展の初歩的な原理、世界的に有名な革命家や英雄、それに代表的なファシストについても講義した。国際情勢で我々の関心を引いたのは、エチオピアとイタリアの戦争、スペイン人民戦線軍の戦果、ドイツ、イタリア、日本のファッショ化にかんする問題であった。当時、敵側の雑誌にはヒトラーが地方軍を視察する写真が載っていたが、わたしはその写真を見せて、ヒトラーの危険性について警鐘を鳴らした。中国農民運動の著名な活動家の1人である方志敏烈士のことも話した。方志敏の英雄的生涯は、聴講者たちに深い印象を与えた。

 東崗軍・政訓練で模範生として評価された隊員のなかで、いまでも記憶に残っているのは馬東熙である。彼は学習熱が高く、討論もたいへん上手だった。彼は、東崗軍・政訓練を通してりっぱな政治幹部に成長した。先祖の砦のあった高麗堡子で、かつての火田民と日雇い人夫たちは、解放戦争の主要戦線を受け持つ頼もしい担い手に成長したのである。

 後日、我々が白頭山の奥地で多数の軍隊を養成したといううわさが世間に広がった。それに尾ひれがつき、ある地方では、我々が白頭山の深い洞窟で天かける数万の将帥を養成したという伝説まで広がった。そういう伝説を生んだところが、ほかならぬ東崗軍・政訓練所の高麗堡子だった。

 東崗での軍・政訓練が終りかけていた1937年5月初、我々は、密営で朝鮮人民革命軍の隊内機関紙『曙光』を創刊した。その題号には、解放された新しい祖国で暮らそうという朝鮮民族の切願と、その日を必ず早めようという朝鮮共産主義者の決意が強く脈うっていた。

 この新聞の創刊号を出したあと、我々はすぐ、祖国へ進軍するために東崗密営を出発した。



 


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