金日成主席『回顧録 世紀とともに』

1 撫松遠征


 桃泉里と鯉明水で、「冬季大討伐」に狂奔していた敵に大きな打撃を与えたあと、わたしは、主力部隊を率いて再び長白山脈を越え、北に向かおうと決心した。

 わたしの撫松遠征プランを聞いた隊員たちは呆然とした。間もなく国内へ進出して敵を痛撃するのだと胸を躍らせ命令を待っていたのに、だしぬけに北上行軍とはなにごとか、せっかく切り開いた西間島と白頭山を放棄して、なんのために北へ行くのか納得がいかない、という表情だった。彼らは、万事が順調に運んでいるのに、部隊が撫松に遠征すべき理由はないと考えた。それもあながち無理ではなかった。

 当時、軍民の士気はきわめて高かった。敵とのあいつぐ戦いで我々は連勝していた。敵の狂気じみた「討伐」攻勢と政治的・経済的・軍事的封鎖作戦を尻目に、遊撃隊は、新入隊員を加えて隊伍をひきつづき拡大し、武装装備と戦闘力をかなり強化していた。白頭山地区と鴨緑江沿岸一帯は、すべて我々の天下になり、戦いの主導権は我々が握っていた。我々の稠密な地下組織網は、西間島全域に延びていった。南湖頭を出発するときの第一義的な目的はりっぱに達成されたといえた。残る問題は、国内進攻作戦であった。一刻も早く武装闘争を国内に拡大しなくては、国内での反日民族統一戦線活動を大きく進展させ、新しい型の党創立をめざす闘争を本格的に進めることもできなかった。祖国に進出して敵を懲罰するのは、我々の最大の夢であり、国内人民の最大の願望でもあった。

 国内の人民が我々の祖国進出をどれほど待ち望んでいたかは、つぎのような事実を通してもうかがい知ることができた。地陽渓に南徳とも那哈徳とも呼ばれる変わった名の村があった。この村の区長で、祖国光復会特殊会員の劉浩は、人民革命軍の援護活動に熱心だった。いつだったか、彼は村人たちとともに援護物資を持って密営を訪ねてきたことがあった。一行のなかには、甲山から来た3名の農民がいた。甲山の人たちは、粟、カラスムギのいり粉やわらじなどをいっぱい背負って警戒のきびしい鴨緑江を渡り、密営を訪ねてきたのである。これほど多くの援護物資を3人で運んできたこともさることながら、それにも増して我々を驚かせたのは、彼らが、白頭山の原始林をさまよい、飢えに苦しみながらも援護米にはいっさい手をつけなかったことである。わらじについての話もそれに劣らず我々を感動させた。彼らが持ってきたわらじは200足を越えた。麻糸をよって縁に緒をすげ、底にもニレの樹皮に麻糸を織り込むなど丹精こめてつくったわらじは、どれも格好よく、しかも丈夫そうだった。

 金山虎が労をねぎらうと、彼らは恐縮するばかりだった。昔話の道士のようにあごひげを長く垂らした最年長の老人が金山虎の手をとって言った。

 「白頭山の将帥たちに、わらじのようなものしか差し上げられない不忠不義の百姓を許してくだされ。それを苦労などと言われては身のおきどころがありませぬ。粗末な履き物ですが、軍靴がわりに履いて、わしらの甲山からもあの島国のえびすどもを追い出してくだされば、死んでも心残りがありません。わしらは、革命軍を待つだけです」

 朝鮮人民革命軍の国内進軍を待ちわびていたのは、甲山の農民だけではなかった。いつか援護物資を持って密営を訪れた慶尚道出身の李秉元老は、わたしにこんなことを尋ねたことがあった。

 「将軍さま、いったい、いつになったら日本の侵略者を朝鮮から追い払えるでしょうか。わたしが生きているあいだにそんな日が来るでしょうか」

 祖国の同胞が、いかに我々を深く慕い、愛しているかを、我々はいつも肌で感じていた。甲山の人たちから贈られたわらじを手にした隊員たちは、一刻も早く祖国に進軍したいという強い衝動と願望にとりつかれていた。わたしの気持ちも同じだった。

 しかし、わたしは彼らに、祖国とはまったく逆の方向に向けての行軍を命じたのである。そして首をかしげている戦友たちに、北上行軍を後退だと考えてはいけない、我々は北上するが、それは祖国に向かって南下するのと変わりがない、祖国へ行くにはどうしてもこの道を歩まなければならない、我々がしばし撫松へ向かうのは結局、国内進攻を準備するためであることを知らなければならない、と説いた。

 撫松遠征作戦によって達成しようとした基本的目的は、以整化零(形のあったものが突如消えうせること)の機敏な戦法によって敵を混乱に陥れ、長白地方に集結した「討伐隊」兵力を最大限に分散させて注意をそらし、この一帯で活発に進められている地下組織網づくりの安全をはかるとともに、大部隊による国内進攻作戦に有利な状況をつくりだすことであった。

 敵は、1936年冬の「冬季大討伐」に失敗しながらも、革命軍の孤立、圧殺企図を放棄せず、朝鮮占領軍と国境守備隊はもとより満州国軍、警察隊の膨大な兵力を我々の部隊の活動区域にひきつづき投入していた。こうした状況のもとで、我々が主導権を掌握し、自己の構想と決心どおり革命をひきつづき高揚させるためには、しばらくのあいだ活動区域を他に移す必要があった。そうすれば、敵を受身に追い込み、西間島と国境一帯の革命運動の発展に有利な条件をつくりだせるのであった。長白に集中している敵の「討伐」兵力を分散させ、鴨緑江沿岸の革命組織を保護するのは、朝鮮人民革命軍の国内進出にも有利な条件をもたらすはずだった。人民革命軍が国内に進出して大部隊活動をおこなうには、まず我々の後方であり出陣基地である西間島に敵の大兵力が集中するのを防がなければならなかった。「図們会談」の内容が示しているように、敵が西間島一帯に兵力を集中するのは、人民革命軍部隊を長白の奥地に追い込んで圧殺するためでもあったが、主な目的は我々の国内進出を阻止することにあった。

 朝鮮人民革命軍の大部隊が、間もなく国内進撃を断行するだろうことは敵もすでに想定していた。大部隊による国内進出は時間の問題だった。日本帝国主義者がなによりも恐れたのは、ほかならぬこの点だった。人民革命軍の大部隊が朝鮮に攻め込んで軍事・政治活動をくりひろげるなら、それは日本本土への攻撃に劣らず大きな効果をあげるに違いなかった。敵は、我々が国内に進出して何発かの銃声をあげても、それがどんなに禍の種になるかをよく知っていた。朝鮮人民革命軍の主力部隊が白頭山地区に進出したその年の冬から、彼らは人民を駆り出して毎晩、鴨緑江の氷を割らせる騒ぎを起こした。個別的であれ集団的であれ、人民革命軍の朝鮮進出を防ごうとしたのである。彼らは、我々の国内進攻を恐れたあまり、そんな幼稚な防備策まで案出したのである。

 日本の天皇が侍従武官を朝鮮と満州の国境地帯に送り込み、3週間も視察させたことについては前にも触れたが、日本の政界や軍部の首脳は、わが国の北部国境地帯から寸時も目を離すことができなかった。侍従武官は国境警備隊員たちに、国境を鉄壁のように守れという天皇の勅命を伝え、天皇、皇后の下賜品まで伝達した。その仰々しい伝達式の場面を想像した人民革命軍の隊員たちは、天皇も人民革命軍の朝鮮進攻に戦々恐々としているようだと言って苦笑した。

 大部隊による国内進出を実現するには、敵が「銅牆(どうしょう)鉄壁」と豪語する国境警備陣にいくつかの突破口をあけなければならなかった。その先行作業となるのが、長白の山野に雲集した敵の「討伐」兵力を最大限に分散させることであった。敵を分散させるためにはまず、我々が長白から移動する素振りをして見せなければならなかった。わたしが部隊を率いて移動すれば、敵はいやおうなしに我々を追跡するであろうし、いきおい国境防備も手薄になるはずだ。

 わたしは撫松遠征の途中、撫松県と臨江県、濛江県の境で活動している崔賢部隊と第1軍第2師の戦友たちに会い、彼らとともに国内進攻作戦を勝利に導く共同作戦を立てようと思った。

 撫松遠征のいま一つの目的は、遠征を通して新入隊員を新たな情勢の要請と朝鮮人民革命軍の使命に即して、政治的、軍事的、道徳的にしっかり教育し、訓練することにあった。

 白頭山地区に新たな形態の根拠地が創設されたのち、我々は、数百名の入隊志願者で隊伍を補充した。朝鮮人民革命軍の積極的な軍事・政治活動とその成果に励まされた西間島一帯の青年は、先を争って我々の部隊に入隊した。国内からも連日、愛国青年が武装闘争に参加しようと我々を訪ねてきた。部隊の兵力が増加したので、その質的強化に力をそそがざるをえなくなったのである。部隊の戦闘力を強化するうえで基本となるのは、指揮官と隊員のレベルを高めることであった。彼らの思想・意識水準と軍事実務水準を高めることなくしては、部隊を百戦百勝の隊伍にすることはできなかった。ところが、数百名に達する新入隊員はみな階級意識や革命への熱意は高かったが、まだ戦闘経験がなく、遊撃戦法に通じていなかった。それに、政治的・文化的水準も低かった。新入隊員たちは、きのうまで焼畑を起こしたり、日雇い労働をしたりしてその日その日をやっと生きてきた純朴な山出しの青年たちだった。手ぐわやシャベル、押し切りなどを使う農作業にはなれていたが、軍事には、まったくの素人だった。社会発展の初歩的な原理は言うまでもなく、朝鮮文字の字母も読めない非識字者もいた。

 苦労を重ね、労働で鍛えられた青年たちではあったが、遊撃隊のきびしい生活には、なかなかなじめなかった。それで、弱気になり不平をもらす者もあらわれた。睡眠不足や行軍の苦しさを訴える者がいるかと思うと、履き物や衣服が破れても自分で繕えず、古参の隊員に世話をやかせる者もいた。制式動作、夜間行軍法、方位判定法も知らない新入隊員、銃が故障すると古参の隊員に「これ、ちょっと見てください」と言っては、ぼんやり突っ立っているような新入隊員を率いて祖国へ進出することなど思いもよらないことだった。

 彼らの入隊後、あいまあいまに古参の隊員をつけて速成の訓練をほどこしたり、断片的な知識を授けたりして水準を高めようと努めてはいたが、そんなやり方では、大勢の新入隊員に遊撃戦に必要な多面的な準備をさせることはおぼつかなかった。理想的な方法は、敵の注意が及ばない深い森林地帯で、当分間じっくりと時間をかけて新入隊員に軍事・政治訓練をほどこすことであった。こうした本格的な教育過程をへずには、彼らを筋金入りの軍人に育てあげることができなかった。ところが、長白一帯には、新入隊員の教育に適した地帯がなかった。長白の平地や奥地は、もれなく「すきぐし」ですくように敵に捜索されていた。それで我々は、新入隊員訓練の適地として革命軍の後方密営が集中している撫松地区を選んだ。

 総じて撫松遠征は、敵の大兵力が執拗な攻撃を加えてくる状況のもとでも主導権を掌握しつづけることができる進攻的な対策であり、部隊の戦闘力をいちだんと強化し、革命軍の国内進出に有利な環境を醸成するすぐれた戦術的措置だった。この遠征は、我々の白頭山進出後、半年のあいだにおさめた成果をかため、拡大する道だった。

 1937年3月のある日、我々は撫松遠征の途についた。これには、基本戦闘員のほかに裁縫隊、炊事隊、兵器修理所など兵站部の人員もすべて参加した。魏拯民、全光、曹亜範も同行した。

 初日の行軍目標は、多谷嶺を越えることだった。終日行軍をつづけたが、すごく降り積もった雪ときびしい寒さをついての行軍で、結局、山の中腹で一夜をすごさなければならなかった。その年の冬、長白山脈には、まれにみる大雪が降り、谷間には深さ数丈もの雪に覆われたところもあった。そんなところでは、一歩一歩体で雪を押し分けながら進まなければならなかった。長白山脈の積雪がどんなものであったか、はっきりしたイメージを得たい若い世代は、当時、撫松遠征に参加した闘士たちの体験談を聞く必要がある。遠征を終え、雪が解けたあと白頭山に向かって行軍していた我々は、カラマツの梢にわらじの片方がひっかかっているのを見た。それは、長白で入隊した新入隊員が撫松に向かって行軍していたときに雪に足をとられてなくしたわらじだった。

 3月初といえば祖国の平地は雪解けの季節であるが、白頭山一帯にはまだ冬将軍が居座っていた。はげしい寒風のなかではテントすら張れなかった。テントを張ったとしても風にさらわれてしまうのである。こんな状況にぶつかれば、深い雪のなかに1個分隊ほどの人員が入れる穴を掘って、ノロ鹿の皮や樹皮を敷いて座り、背のうにもたれて眠るほかなかった。雪穴の入口には、白布を張って風を防いだ。エスキモーが雪小屋や氷のなかでも無事に生存できる秘訣を、我々は遠征の体験を通して知った。そのとき我々は、膝までくる長いポソン(朝鮮の足袋)と甲山の人たちから贈られたわらじを履いていた。白頭山一帯ではそういう装いでないと、冬は出歩けなかった。それで、みんなわらじを履いたまま焚き火のまわりで寝た。

 我々は明くる日、やっと多谷嶺を越えることができた。この遠征は、なみたいていの遠征ではなかった。朝鮮人民は、「苦難の行軍」といえばすぐ、南牌子から北大頂子にいたる1938年冬の行軍を思い浮かべる。その行軍が、「苦難の行軍」といわれるほど苦しかったことは確かである。しかし、苦しさからすれば、撫松遠征もそれに劣らぬ行軍だった。行軍距離は100キロそこそこで、期日は25日程度だったと思う。「苦難の行軍」の100余日に比べればなんでもないといえるかも知れない。しかし、その遠征も苦難にみちたものであった。寒さと飢え、睡眠不足、あのときの苦労たるや言うに言われぬものがあった。戦闘も多かったので、死傷者もかなり出た。

 撫松遠征は、古参の隊員ですら歯をくいしばって堪えなければならないほどのきびしい試練であった。いわんや、入隊して数か月しかたっていない隊員の場合は言うに及ばないであろう。わたしは、古参の隊員がすべて新入隊員を1人ずつ引き受けて面倒をみるようにした。わたしも体の弱い3、4名の新入隊員の保護者になった。古参の隊員は、みな兄がわりになって新入隊員の世話をやいた。行軍のときは銃や背のうをかついでやり、休むときは焚き火をたき、宿営のときは寝場所をしつらえ、衣服や履き物、帽子などのほころびを繕ってもやった。

 珠家洞出身のある新入隊員は、ただれた両足の親指がのぞくほど履き物が破れていたが、それを繕おうともせず、休止号令が出るとすぐ焚き火のそばでいびきをかきはじめた。古参隊員は長白を出発したときの甲山のわらじを履きつづけていたが、予備の地下足袋も穴があいてしまっていた。わたしは、彼にわたしの予備の履き物を履かせ、大針で彼の履き物を修繕した。そして、それは背のうにしまっておいて、他の新入隊員に履きかえさせた。わたしは本人が気まずい思いをするのではと、いつも人目を避けて履き物を修繕した。ところがあるとき、履き物の主に見つかってしまった。彼は涙ぐみ、やにわにわたしの手から針と履き物を奪い取った。

 その日、わたしは新入隊員たちにこう言った。

 ――きみたちは家にいたときは、お父さんが編んでくれるわらじを履き、お母さんが繕ってくれる服を着ていたので針を使うこともなかったろうが、遊撃隊員になったからには、服や履き物の繕いは自分の手でしなければならない。自分のことは自分でしなければならないのだ。きょうは履き物の繕い方を教えよう。

 彼らは、司令官にとんでもない負担をかけたとひどく恐縮した。

 履き物や服が、もっともいたむのは氷に覆われた雪の上を歩くときだった。そこでわたしは、そんな場所を歩くときの足の踏み方も教えた。

 撫松遠征は、飢えとたたかう過程でもあった。さまざまな困難がつぎつぎと我々の前に立ちふさがったが、最大の脅威は食糧難であった。行軍速度が予定よりはるかに遅れたため、長白を発つときに準備したわずかの食糧は多谷嶺を越えると、もはや底をついてしまった。草の根さえ掘り出すことが困難な雪原で、食糧を手に入れるというのはとうてい不可能だった。活路は敵の糧秣を奪うことだが、敵がどこにいるのか見当もつかなかった。食糧難に苦しめられたそのときのことがあまりにも強く印象に残っていたので、後日わたしはある同志に、撫松遠征は事実上「飢餓遠征」だったと言ったことさえある。日がな一日、1粒のトウモロコシも口にできず、水と雪で飢えをしのぎながら何里も行軍したこともあったのだから、そのぞっとする飢餓の苦しみをどうして忘れられよう。

 遠征がほぼ終わりかけたころ、東崗付近の森のなかでのことである。我々は、中国人の民家を1軒発見した。食糧が切れて2日ものあいだ水で飢えをしのいでいた我々は、もしやその家で食糧を得ることができるのでは、といういちるの望みをいだいた。山でひそかにケシを栽培する人たちには、たいがい食糧の備蓄があった。我々はその家の主に、部隊が数日間食糧を切らしている、穀物があったらいくらかでも分けてもらえまいか、と頼んだ。すると彼は、山林部隊に洗いざらい奪われてなにも残っていないとすげなく断った。ひき臼の下にはトウモロコシのぬかがうずたかく積もっていて、多量のトウモロコシをついたか製粉したに違いないのだが、いくら頼んでも無駄だった。やむなく、我々はひき臼の下に放置されていたトウモロコシのぬかで飢えをしのぐことにした。トウモロコシのぬかは、粟やヒエのぬかと違って、いって食べても喉にからんでなかなか呑みくだせなかった。ひき臼でひいてもなかなか喉を通らず、水にといて呑みくだしても空腹をいやす足しにはならなかった。わたしは考えた末、伝令の白鶴林に指示した。

 「ここから峠をいくつか越えれば、呉義成部隊が駐屯しているはずだ。司令はいないだろうが、部下の一部が残って抗戦をつづけている。そこへ行って、わたしが近くに来ていることを知らせ、食糧をいくらか分けてくれと頼んでみたまえ。彼らに食糧があれば、昔のよしみからしても拒みはしないだろう」

 呉義成部隊を訪ねていった白鶴林は手ぶらで帰ってきた。ただ、その部隊の指揮官がトウモロコシぬかを一袋かついでやってきて、わたしに了承を求めた。

 「金司令のせっかくの頼みにおこたえできなくて申しわけありません。お助けしたい気持ちはやまやまですが、わたしらも食糧を切らしているので、こんなものしか持ってこられませんでした。どうか悪く思わないでください」

 その日、隊員たちは、その中国人の家をあちこち探り、庭に置いてある棺の中にひき割りのトウモロコシがいっぱい入っているのを見つけた。満州地方の住民には生前から棺を作って家の前に置いておく風習があったが、それは神聖不可侵の葬具とされていた。そんな風習から、抗日革命闘争の時期に満州地方では棺にちなんだ逸話がいろいろと生まれたものである。家の主が棺の中にトウモロコシを隠しておいたのは理解できることだった。しかし隊員たちは憤激した。なかでも新入隊員の怒りははげしかった。珠家洞で入隊した新入隊員はわたしのところへ走ってきて、怒りをぶちまけた。

 「将軍、この家の主は、ひどい根性まがりです。自分の垣根のなかに牛や馬などが入ってきても食べ物を与えるのが人情なのに、こんな人でなしがどこにいますか。まったく冷血漢です。うんとこらしめて、食糧は取り上げてしまいましょう」

 わたしは彼をたしなめた。

 「取り上げる? いかん。この家の食糧にはいっさい手をつけてはいけない。それより我々が空腹をがまんするのだ」

 新入隊員は、いまいましそうに舌打ちをしながら引きさがった。我々は棺の中の食糧を見つけたことは素振りにも見せず、トウモロコシのぬかで飢えをしのぎ、その家の人たちの説得に努めた。主人は、我々と別れるときになっても、棺の中の食糧のことはうち明けようとしなかった。食糧を押収しようと言ってきた例の新入隊員は、わたしのそばに来て、「どうです、あんな人たちにはいくら説得しても無駄じゃありませんか」と言った。わたしは「そうでもない。食糧はくれなかったが、我々がりっぱな軍隊だということを理解しはじめているようだ」と答えた。

 このことを通して新入隊員たちは、人民のなかにはさまざまな類の人間がいるということ、したがって教宣活動も一律にするのではなく、なにごとであれ、人の心を動かしてこそ成功するものだということ、したがって、軍隊が困難に負けて人民の財産にみだりに手をつけたり、彼らに好意や援助を無理強いしたりしてはならないということを深く悟った。もしあのとき、我々が怒りをこらえずその家の人たちをこらしめるか、だまされた腹いせに食糧を押収したとしたら、新入隊員たちは、「人民を離れては生きていけない」という我々の座右の銘をたがえ、なにかにつけて人民を怒鳴りつけたり、特典を望んだりする官僚や馬賊のような人間になってしまったかも知れない。

 漫江ぞいに行軍していた我々は、遠くから隊伍のあとをつけてくる人夫風の2人の男を見つけ、そばに呼んだ。彼らは、断頭山木材所の労働者だった。挙動がいぶかしいので、なぜいつまでもついてくるのかとただすと、敵から遊撃隊の行方を探知してくるよう指示されたことを正直にうち明けた。遊撃隊を見つけて帰れば、情報の価値に応じて十分な報酬をもらえるが、手ぶらで帰れば「通匪分子」と断じられるか、ひどい目にあわされると言うのだった。断頭山木材所には、大勢の人夫と山林警察隊がいるという。わたしは、苦戦を覚悟のうえで、食糧を手に入れるために木材所を襲撃することにした。この戦闘は、第7連隊と第8連隊にまかせた。彼らは木材所を襲って倉庫を開いたが、1俵の米もなかった。木材所の主人は、遊撃隊の襲撃を恐れて米を倉庫におかせず、毎日ほかから運んできていたのである。木材所村には予想しなかった7800名の敵が駐屯していて、その軍勢がわが方に対戦してきた。人民革命軍の主力部隊が撫松方面へ機動しているという通報を受けて、「討伐」に増派されてきた部隊だった。第7連隊と第8連隊は、木材所の牛を20頭ほど引いて、本隊に帰ってきた。追撃してくる敵は、呉仲洽の率いる防御隊が防いだ。呉仲洽は、各小隊から決死隊員を選抜して10回余りの接戦をくりひろげ、敵を頑強に牽制した。夜が明けて見ると、敵は50メートル先まで接近していたという。防御隊が敵の攻撃を防いでいるあいだに、主力は東側の2つの峰を占めた。そして、伝令を送り2つの峰のあいだのカヤ原に敵をおびきよせて抜けだすよう呉仲洽の防御隊に命じた。防御隊の誘引戦術に引っかかって、広いカヤ原に入り込んだ「討伐隊」は、多数の死体を残して逃走した。

 主力が戦闘に入る前に、一部の隊員が山かげで牛をつぶした。それをつぎつぎと焚き火で焼いたがその匂いに何度生つばをのみこんだか知れない。食べきれなかった牛は、ばらして背のうに入れた。我々は、それを時には生のままで食べながら行軍をつづけた。だが2、3日後にはそれも食べつくしてしまった。

 敵の追撃がはげしくなると、全光は東漫江の密営へ行ってしまった。彼は密営に帰ると、我々の部隊の隊員たちに小麦を何斗か持たせてよこした。隊員たちは、政治主任ともあろう者がそんなにしみったれなのか、肩書がもったいないと言って全光を非難した。彼を勇気も人情もない男だとののしる隊員もいた。彼らは、全光が撫松県城戦闘のとき補助的に計画した万良河襲撃戦闘を放棄して、作戦全般に混乱をもたらしたことにずっと疑惑をいだいていた。全光が、ふだんは幹部風を吹かせ、困難や危険に際しては身をかわすのがつねだったので、指揮官と隊員たちは、ほとんど彼を快く思っていなかった。大衆の感覚は、するどかった。その後、全光は、変節し革命に大きな害悪を及ぼした。

 部隊は、敵の追撃を受けながら漫江に沿って撫松への行軍をつづけた。全光がよこした小麦もすぐ底をつき、我々は再び飢えにさいなまれた。その後、我々は敵の追撃を振り切って頭道嶺にしばらくとどまった。食糧を手に入れなくては行軍をつづけることができなかった。姜泰玉をはじめ、漫江出身の新入隊員が食糧を手に入れてくると申し出たのはこのときだった。彼らは前年、漫江で『血の海』と『ある自衛団員の運命』を観劇して感動し、その場で入隊を志願した隊員たちだった。部隊が漫江近くにいたったと知った彼らは、金沢環を先立ててやってきた。

 「将軍、我々が食糧を工面してみます。漫江の鼻先で遊撃隊が飢えるなんて話になりません。漫江には、米はなくてもジャガイモならいくらでもあります。以前、遊撃隊の援護用に集めておいたジャガイモがあるのです。その場所も知っています」

 わたしは、その話を聞いて少し心が安らいだ。こうして、10名内外の食糧工作隊が漫江に向かった。しかし、結果は期待はずれに終わった。援護用に貯蔵しておいたジャガイモは、イノシシに食い荒らされていたというのである。食糧工作隊員たちは、イノシシが食い残したわずかなジャガイモをかついで帰路についた。なにもない我々の境遇では、それもばかにならない収穫だった。ところが、ここで問題が起こった。食糧工作隊員たちが本隊に帰る途中、空腹のあまり、宿営地の近くに来て焚き火をしジャガイモを焼くという重大な過ちを犯したのである。明け方に宿営地の近くで焚き火をしたので、自分たちばかりでなく全隊の位置を敵にさとられたのである。そのうえ、敵を発見してからも、歩哨になんの合図もせずまっすぐ宿営地へ走り込んだので、就寝中の部隊は準備もできない状態で戦闘に巻き込まれることになった。勝手な行動は、しばしばこのようにゆゆしい結果をもたらすものである。

 わたしは、新入隊員たちにつねづね、遊撃隊では勝手な行動は絶対禁物だ、どんなに苦しくても規律の遵守を負担と考えてはならない、なぜなら、規律は軍隊の生命であるからだ、宿営のさい履き物を脱いで眠ってはならず、どこへ行っても痕跡を残してはならない、上官が指定していない場所で焚き火をしてはならず、追撃を受けたときは密営や宿営地とは逆の方向に敵を誘導しなければならない、名を知らない草は食べてはならないなど、遊撃隊が守るべき規律と行動規範を強調していた。

 それにもかかわらず、彼ら食糧工作隊員の不始末がもとで、我々は、敵と遭遇し大事な戦友を何人か失った。だが、わたしは、そのとき彼らを批判しなかった。批判をして死人を生き返らせることができるのであれば、どんなによいだろう。戦友の死は批判をしのいで余りあるものだった。それは彼らにとって、批判や処罰よりもはるかにきびしいものだった。伝令の崔金山もそのとき戦死した。焚き火を発見してひそかに食糧工作隊を追ってきた敵は、宿営地を包囲して射撃を開始した。危機一髪の瞬間、崔金山は一身の危険をかえりみず、司令部に接近する敵を阻止した。わたしが最後に撤退するのを見た彼は、李鳳緑と一緒にわたしを自分の体でかばいながら敵に猛射撃を加えた。あのとき、彼らが命がけで護衛してくれなかったら、わたしは無事ではなかったかも知れない。

 数発もの銃弾を浴びて重傷を負いながらも、崔金山は最後の弾丸を撃ちつくすまで援護射撃をつづけた。彼の軍服は、鮮血に染まっていた。李鳳緑が、雪の上に倒れた崔金山を背負った。わたしはその後ろに立ち、モーゼル拳銃で李鳳緑を援護した。彼が疲れると、わたしが代わって崔金山を背負った。包囲を突破したあと、李鳳緑の背中から崔金山をおろすと、彼はすでに息絶えていた。

 崔金山は、とりたててすぐれた点もなく、印象に残るような気質の持ち主でもなかった。しかし、司令部のメンバーは、彼を弟のように可愛がった。彼は夢の多い少年だった。その夢の一つは、汽車に乗ることだった。祖国が独立したら機関士になりたいとよく言っていたものである。

 「あ、若い年で…。まだ20前だろうに」

 息絶えた崔金山を焚き火のそばにおろしたとき、わたしの背後で誰かがこう言った。その一言に、全隊が嗚咽した。

 遺体を葬る前、崔金山の背のうをあけてみると、甲山の人たちから贈られたわらじと、はったい粉1袋があるだけだった。異国の地で生まれ、異国の水を飲んで育った流浪民の子、崔金山の最大の念願は、祖国の地を踏むことだった。伝令になって遠い北満州の南湖頭から白頭山へ進出する途中も、毎日のようにわたしにいろいろな質問をしたものである。これからどれくらい行けば祖国が見えるのか、西間島へ行けば朝鮮のリンゴが食べられるだろうか、東海の景色はとてもすばらしいというが、将軍は見たことがあるのか、平壌やソウル、釜山に進撃するのはいつごろか… 彼が甲山の農民から贈られたわらじをとっておいたのは、祖国進軍の日に履くためだった。崔金山は、わたしと一緒に同じ毛布にくるまって過ごし、長いあいだ司令部の伝令を務めた愛すべき少年であり、幼い戦友であった。それで、わたしは彼と永訣するときあれほど悲しく泣いたのかも知れない。

 頭道嶺の地面はかたく凍りついて、斧や銃剣でも掘ることができなかった。それで、我々は崔金山の遺体に雪をかぶせて葬った。そして後日、正式に埋葬しようと目印をつけておいた。

 雪がすっかり溶け、撫松遠征を総括して白頭山方面へ再び進出するとき、わたしは部隊とともに崔金山を葬ったところへ行った。我々は、東崗密営から持ってきた新しい軍服を彼に着せ、日当たりのよいところに土葬した。墓前には、ツツジを何本か移植した。死んでからでも祖国の香りをかがせてやりたかった。異国に咲いた花だが、香りは祖国のものと変わりがないであろう。ツツジは、彼のいちばん好きな花だった。

 (金山! 安らかに眠ってくれ。我々は再び白頭山に向かう。今年の夏には、おまえが願っていたように部隊を率いて必ず祖国へ進軍する。祖国に行けば、おまえの仇を幾百倍、幾千倍にして討ってやる)

 わたしは、心のなかでこう語りかけ、彼の霊前に別れを告げた。そのときの情景を想起すると、いまでも胸がうずく。彼が生きていれば、いまは白鶴林と同じ年輩になっているであろう。

 1937年春の撫松遠征で、我々は多くの大切な戦友を失った。「長白の山なみ血に染めて」と歌の1節にもあるように、我々は当時、行く先々で血を流した。一歩一歩、血路を切り開いて進んだのである。

 ここに戦友たちの輝かしい偉勲と労苦のほどを、そのまま生き生きと描き出せないのが残念である。だが、文章はつたなくても、まごころをつくせないわけはない。撫松のあの険しい嶺と谷間で、あくまで朝鮮を取りもどしてくれと言い残して世を去った戦友たち、死にぎわにも、わたしの健康と健闘を願ってほほえんでくれた愛する戦友たちの霊前に碑文を刻む思いで、この文章を書いている。



 


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