金日成主席『回顧録 世紀とともに』

7 良民保証書


金正淑邑に立てられた抗日の女性英雄金正淑女史の銅像

 わたしが金正淑を桃泉里に派遣したのは、1937年3月、西崗会議の前夜であった。その年は、どこでも工作員の派遣を要請していた。李悌淳、朴達、権永璧、金在水などもみな工作員を求めた。それで、そうした要請にこたえる一つの措置として、金正淑を桃泉里へ派遣したのである。

 李悌淳の新興村と朴達の大水溜(クンデイデンイ)村を結ぶ線が、咸鏡北道全域と咸鏡南道東部地区に我々の地下組織網を広げるルートであったとすれば、桃泉里と新坡を結ぶ線は、咸鏡南道の西部・南部地域と国内の内陸地帯へ組織網を広げるルートであった。桃泉里は、長白県下崗区地域の中心に位置する村で、下崗区地区はもとより臨江県を含む南満州の広大な地域に祖国光復会の組織網を広げるうえでも、また、それらの組織との連係をつけるうえでも拠点となりうる地点であった。

 桃泉里の向かい側の新坡は、朝鮮の労働者たちが集結している興南工業地帯と連係をつけるうえで有利な位置にあり、東海岸南部地域と内陸深くへ地下組織網を拡大するうえで格好の足場となる地点であった。わたしが新坡をとくに重視したのは、国内への秘密ルートを比較的容易に開拓しうる可能性をそこに発見したからである。新坡には、張海友(張孝翼)がいた。密営を訪ねてきた人たちのなかには、彼が出獄後ただの小市民になりさがってしまったようだと言う者もいたが、それは、新坡の地下運動家たちの内幕をよく知らない他の地方の人たちの推測にすぎなかった。わたしは、権永璧の報告を通じて彼が小市民に転落したのでなく、依然として革命をつづけており、すでに金在水とも秘密裏に連係を保っていることを知っていた。

 張海友は、独立運動家たちに愛されていた。彼はわたしの父と緊密なつながりをもって、独立運動家や亡命者の多い沿海州へしばしば出かけ、そのつど、わたしの家に寄って1晩か2晩泊まったものだが、父と向かい合って食事をし、酒をすすめられていたことが忘れられない。1920年代の半ば、彼が独立運動関連者として逮捕され、獄中生活を送ったとは聞いていたが、その刑期がどれくらいだったのか、また彼が、民族主義運動から共産主義運動へと方向を転換した経緯もわからなかった。解放後やっと、彼が言い渡された刑が7年であり、昭和天皇の即位による「恩赦」で2年目に釈放されたことを知った。いずれにせよ、革命運動の経験が豊かで、わたしとは近しい間柄の彼が新坡にいるのは、活動の展開に有利な兆しであった。その後、桃泉里地下組織を通じて確かめたところによれば、彼は性質が少しすさんでしまったが本心は変わっていないとのことであった。張海友と気脈を通じれば、国内への有力なルートが開けるに違いなかった。

 張海友の工作に誰を派遣すべきか。誰を送ればその有望な国内ルートを比較的容易に開けるだろうか。適任者の選抜には、わたしも金平も頭をひねった。第7連隊政治委員の金平は、政治工作員を派遣する極秘の仕事も担当していたのである。あられの降るある夜、わたしは金平を宿営地のたき火の前に呼んだ。それは、我々が多谷嶺を越え、撫松県楊木頂子密営に向けて北上していたときのことであった。細面の金平は、あいつぐ戦闘や雪中行軍でかなりやつれていた。

 「新坡ルートの開拓者を選んだかね?」

 わたしは、数日前と同じ質問を繰り返した。数日前はあいまいな返事をした彼が、その日は自信ありげに答えた。

 「選びました。わたしの考えでは、黒の正淑が最適任者だと思います」

 わたしは驚いた。なんとわたしの考えと同じだったのである。

 「黒の正淑」とは、金正淑のことである。部隊には、正淑という名の女性隊員が3人もいた。張正淑、朴正淑、金正淑である。誰かが「正淑さん!」と呼ぶと、3人が同時に「はい」と答えたものである。そのような情景が、ときには楽しい笑いを誘いもしたが、生活上の不便や混乱をまねくこともあった。それで、戦友たちは、「イキの正淑」「青の正淑」「黒の正淑」と呼びわけるようになった。「イキの正淑」こと張正淑は、作業や行軍のときよく息をはずませるので、そう呼ばれるようになった。しかしなかには、彼女の行動が、いつも生き生きとしていたからそんな愛称がついたのだと言う人もいた。どちらもあたっているようである。朴正淑が「青の正淑」と呼ばれるようになったのは、彼女が遊撃隊に入隊したとき青いチマを着ていたからである。「黒の正淑」という金正淑の呼び名にも同じようないわれがある。彼女は遊撃区で生活していたときも、革命軍に入隊したときも一張羅の黒いチマを着ていたのである。

 「彼女に新坡開拓の重要任務が果たせるだろうか」

 わたしは、金平が金正淑を適任者として選んだ理由が知りたくて、それとなく尋ねた。

 「わたしが延吉県八道溝で党活動をしていたとき、正淑はわたしの指導を受けながら共青活動をしました。彼女はなにをやってもそつがありません。それに女性中隊での政治活動の経験もあるではありませんか。本人の意向はどうかわかりませんが…」

 わたしも金平の見解に同感だった。しかし、わたしはまだ、金正淑の人となりを完全に把握していたわけではなかった。彼女は、我々の部隊に配属されてまだ1年しかたっていなかった。我々は互いに別の土地で亡国の民の生活を体験し、異なる経路をへて革命に参加したのである。わたしが金正淑の名をはじめて聞いたのは、小汪清馬村にいたときである。王隅溝北洞から汪清へやってきた児童団演芸隊員たちのにぎやかなおしゃべりのなかから、尹丙道の名とともに彼女の名がときどき聞かれた。そのあどけない子どもたちは、自分たちの児童団指導員に大きな憧れをもっていた。

 その後は一時、延吉県児童局長を勤め、汪清県児童局長に転任してきた李順姫から金正淑のことをよく聞かされたし、尹丙道もときおり彼女のことを話題にした。どこの村へ行っても1人か2人はいる「正淑」というありふれた名前は、こうして、わたしの記憶にとどめられるようになった。人びとの評から察すると、大胆でねばり強く、それでいて気立てがやさしく、人一倍思いやりの深い娘であるということであった。わたしが汪清にいたころ、彼女について知っていることはこんな程度であった。

 延吉県児童団演芸隊が汪清に来たとき、わたしはその子たちに赤いネッカチーフ40枚を贈り物にした。そのとき、八区共青委員兼県児童団演芸隊責任者であった金正淑は、それを受け取り、たいへん感激したという。金正淑は、馬鞍山密営にいた第4中隊の隊員のうち、極左分子もあえて「民生団」のレッテルを張ることができなかった唯一の人物であった。だが彼らは、彼女を民生団嫌疑者たちの中隊に配属した。 おまえも朝鮮人だから、疑いがあろうとなかろうと「罪」を犯した朝鮮人と一緒にいるべきだ、と言いたかったのであろう。金正淑は、そのような不快な処置をかえって喜んで受け入れた。いわれもなく罪をかぶせられた戦友たちと運命をともにしたかったのである。彼女は、民生団嫌疑者たちと同じ兵舎で生活しながらも、それを恥としなかった。

 小づくりで器量も10人なみの、その平凡な女性隊員が全中隊に愛されていたわけを、わたしはその後の生活を通じて知ることができた。金正淑は、自分のためではなく、他人のために生きる人であった。他人のために自分のすべてをささげた生、それが金正淑であり、彼女が歩んだ人生であった。彼女は、つねに自分を犠牲にして他人のためにつくした。食べ物があれば大柄な隊員や幼い隊員に分け与えた。正淑から食べ物をもっとも多く分けてもらったのは、弟の基松の親しい仲間だった第4中隊第1小隊の縮れ毛のチビ隊員であったろう。金正淑は、他の隊員たちがみな寝静まったあとも、男子隊員の軍服や軍靴を繕ったものである。同志や共同の偉業にたいする献身性は、金正淑の性格の核心をなしており、またそれが、彼女の人間的な魅力でもあった。

 わたしは、林春秋、金正弼、朴洙環など延吉出身の隊員たちから、反民生団の旋風が東満州に吹き荒れていたとき、能芝営で獄につながれていた民生団嫌疑者たちに毎日ひそかに食べ物を差し入れていた娘がいて、そのおかげで、あらぬ罪で監禁された受難者たちが飢え死にをまぬがれたという話をたびたび聞いた。その娘がほかならぬ金正淑だったという。民生団嫌疑者に差し入れをしたことがわかれば、彼女も民生団の嫌疑をかけられたであろう。

 わたしが金正淑とはじめて会ったのは三道湾遊撃区であるが、彼女の経歴や一家の災難についてくわしく聞いたのは、1936年の春、漫江にいたときであった。ある日、わたしは東崗会議の報告を書き終え、晴々とした気持ちで前哨を見てまわり川のほとりに出た。そのとき、どこからか郷愁をそそる澄んだ歌声が流れてきた。歌声のする川上の方へ足を伸ばしてみると、柳の川辺で2人の女性隊員が洗濯ものをゆすいでいた。その1人が、金正淑であった。わたしはその日はじめて、彼女の生まれ故郷が咸鏡北道会寧であり、5つか6つの年に、一家が郷里を離れて満州に移ったということを知った。会寧の人たちは、自分たちの郷土を咸鏡北道の名勝として誇りにしている。かつての六鎮の一つとして知られているこの由緒深い要塞地は、抗日革命闘争期には日本軍の羅南第19師団第75連隊本部と飛行隊が駐屯している軍事要衝として、我々の作戦地図にも大きく記されていた。いま会寧の人たちは、自分たちの郷土が羅雲奎のような映画界の鬼才や趙基天のような有名な詩人を生んだことに大きな誇りをいだいている。また、会寧が有名な白アンズの産地であることも自慢にしている。花の咲き乱れる春、会寧を訪れるなら、街中が白アンズの花におおわれている風景を楽しめるであろう。

 しかし金正淑は、そんな美しい郷土でわずか数年しか暮らせなかった。彼女が物心ついたころから目にしたのは、馬賊が土ぼこりをあげて駆けまわる北間島のすさんだ山野であった。金正淑は、両親と兄弟姉妹をつぎつぎと失った。父親は、独立運動家であった。敵に捕らわれてむごい拷問にかけられたこともあれば、野宿して凍傷を負ったこともあり、それがもとで重病を患い早くして世を去った。不遇な生涯を終える真際、父は愛する末娘の正淑に窓を開けてくれと頼んだ。そして、充血した目に涙をたたえ、南の空を眺めながら言った。

 「わしは死んでも朝鮮の地に埋もれたかった。土くれとなっても朝鮮の土くれになりたかった。しかし、この願いさえもかなえられそうにない。おまえは、どこへ行っても故郷を忘れてはいかん。朝鮮を忘れるなよ。そして、朝鮮のためにたたかうのだ」

 金正淑が14のとき、間島の地を血の海に変えた侵略者が符岩洞を襲って村に火を放ち、彼女の母と兄嫁を無惨に殺害した。そのとき、兄嫁が彼女に残したのはまだ幼い乳飲み子だった。この甥のために彼女は乳をもらって歩いた。おなかをすかして泣く子を抱いて村中をまわり、ときには1里以上も先の隣村まで行ってもらい乳をした。金正淑は、そんな苦労をして育てた甥とも生き別れをしなければならなかった。彼女が、遊撃区に移ることになったとき、地下工作の任務をおびて八道溝鉱山に行く兄の金基俊が、甥を無理に引き離したのである。彼女は甥を遊撃区へ連れていくつもりだったが、兄が許さなかった。それで彼女の出発が1日遅れた。翌日の早暁、討伐隊が村を襲った。銃声が響くと、彼女は甥を抱いて山へ走り登った。その足で遊撃区へ向かうつもりであった。そこへ兄が息を切らせて追いつき、おまえはまだ革命に参加する覚悟ができていないと叱った。革命に参加するつもりなら、なによりも先に革命のことを考えろ、家族の心配などして、どうして革命がやれるんだ、この子の心配はしなくてもよいと言うと、泣きわめくわが子を抱きとり、振り向きもせず谷を降りていった。きびしく叱りはしたものの、兄も涙があふれ妹に顔を向けることができなかったのであろう。それが、兄と妹の永遠の別れとなった。

 金正淑はその後、二度と兄と甥に会えなかった。兄は鉱山で地下工作中に逮捕され、拷問の末死亡し、甥は行方さえわからなくなった。たった1人残った弟の基松も、符岩洞から三道湾遊撃区に移る蔵財村の人たちを救うため、児童団の信号ラッパを吹いて討伐隊を誘引し、敵弾に倒れた。金正淑は、解放後も弟を思い出しては涙を流し、街で10代の子どもたちを見ては、甥も生きていればあの子くらいになっているだろうにと、そっと溜め息をもらしたものである。

 金平と話し合った後、わたしは金正淑を司令部へ呼んだ。

 「金在水同志から、有能な地下工作員を送ってくれと連絡員を通して何度も要求してきている。鋭気があり、地下工作の経験も豊かな人だが、担当区域があまり広すぎて相当困っているようだ。とくに、女性たちとの活動がうまくいかなくて、たいへんもどかしがっている。女性を地下組織に引き入れるには、彼女たちの行動を縛っている年寄りたちとの仕事をうまくやらなければならないのだが、それがまた容易でないようだ。きみは、桃泉里を拠点にして下崗区一帯の婦女活動を指導し、金在水同志を極力助けてほしい。下崗区一帯の活動が軌道に乗れば、新坡へ渡って張海友と手を結び、三水地帯に強力な地下組織を結成しなさい。そして、興南、咸興、北青、端川、城津、元山など東海岸一帯の工業都市や農漁村に祖国光復会の組織網を急速に広げるのだ。国内で秘密結社活動をするのは、人民革命軍の保護下にある長白での大衆工作に比べて何倍も危険で困難だ。くれぐれも気をつけて任務をりっぱに果たしてほしい。きみがこの困難な仕事をきっとやり遂げるだろうと、わたしは信じる。困難にぶつかれば、そのつど同志たちと人民に依拠しなさい」

 これは、わたしが金正淑を桃泉里に派遣するときに話したことの一部である。

 桃泉里地区には、すでに1936年の晩夏から我々の工作ネットが伸びていた。鄭東哲の話によると、ベルリン・オリンピックのニュースが桃泉里の山村にまで伝わっていたころ、下崗区一帯に金遠達という「ばくち打ち」があらわれて若者たちと手なぐさみをしたが、そのときよく話題にしたのは、オリンピックのマラソンで朝鮮人が1等と3等を取ったのに、授賞式で掲揚された旗は日章旗だったという話である。

 小柄できびきびし、才気にあふれたその若い「ばくち打ち」は、わたしが派遣した政治工作員の金在水であった。彼は、冒険小説などにあるような変わった闘争経歴の持ち主だった。一言でいえば、王隅溝ソビエトの初代会長、延吉県党委員会書記、東満特委組織部長… これが1930年代前半期までの彼の経歴であった。ところが、順調だった彼の人生行路をすっかりかき乱しかねない出来事がもちあがったのである。東満特委が羅子溝に移転したとき、彼は特委の同僚とともに敵に逮捕され憲兵隊に連行された。彼らは、金在水と朱明に転向文を書かせ、自分たちへの協力を強要して任務を与えた。

 ――きみたちは、我々に逮捕されたことをいっさい口外せず、特委の活動をつづけるのだ。革命組織もつくりつづけてよい。我々はそれには関知しない。ただ組織への新規加入者たちの名簿を欠かさず渡してくれれば、それで満足する――

 彼らは、特委クラスの幹部が転向したと快哉を叫んだが、金在水は、革命をつづけるために偽装転向、偽装誓約をしただけであった。彼は、敵の機密文書と工作資金を奪って東満特委にもどり、事件の顛末を正直に報告した。一足遅れて特委を訪ねた朱明は、敵の指図どおり組織を欺瞞し、その代価として当然の懲罰を受けた。金在水は、許されはしたが党から除名された。彼は、政治的にはもちろん、道徳的にも葬られたのである。一朝にしてすべてを失い闘争圏外に放り出された彼は、独り山奥に隠棲し、死にも劣る偽装転向を悔い、悩みもだえた。

 どのような逆境にあっても、共産主義者としての信念と意志、精神的・道徳的純潔を守ることを最大の栄誉、最高の美徳とする革命家の世界では、偽装転向も許しがたい一つの犯罪行為とみなされる。たとえ、偽りの転向であっても、それは敵には宣伝の材料を与え、裏切り者には変節の前例とされ、弁明の余地を与えるからである。革命家の良心と節操は曲げなかったとしても、敵に転向を宣言するのはほめられることではない。

 金在水は、敵をあざむいてでも出獄し革命をつづければそれでよいという単純な考えにとりつかれ、革命家の崇高な道徳的規範をおかしたのである。そのことで悩んでいた彼は、わたしが馬鞍山で民生団の文書包みを焼却し100余名の「犯罪」嫌疑を白紙にもどしたといううわさを聞いて、わたしを訪ねてきた。そして、実地のたたかいで自分の潔白さを証明したいと言うのだった。

 「わたしを処刑しようと生かそうと、それは自由にしてください。けれども、わたしは革命活動をつづけたいのです。このままでは、なんともたまりません」

 金在水は、胸を叩きながらこう訴えた。

 わたしは金在水を信じた。 それで、彼に地下工作の任務を与え、長白県下崗区方面に派遣したのである。わたしは、彼が二度とそのような汚点を残すことはないだろうと確信した。彼が組織にたいし率直であったのは、革命的良心を持している証拠であった。わたしは、その良心を信じたのである。彼は浅はかにも偽装転向をしたが、それがどんなに不名誉な罪悪行為であったかを身をもって悟ったのだから、命を失うことがあっても二度と恥辱の道を選ぶようなことはしないはずだった。

 彼は偽名を使い、天上水をへて桃泉里へ入っていった。最初、天上水の祖国光復会支会長の李用述から信頼してよいと言われた鄭東哲、金斗元、金赫哲(金秉極)らの性向を確かめるため、ばくちをした。下崗区一帯には、彼ほど腕ききのばくち打ちはいなかった。彼がばくちを打つときは、腕ぬきをつけ、花札をその中へ素早く隠したり取り出したりしながら相手の目をあざむいた。「かぶ」や「おいちょ」のような高い手になると、楽しそうに『漁郎打令』を歌ったりした。彼の正体を知るよしもない村の年寄りたちは、あの金遠達だかなんだかというならず者が若者たちを悪に染まらせていると騒ぎ立てたが、いつしかばくち場では組織がつくられていた。やがて、それは祖国光復会長白県下崗区委員会の中核組織になった。彼の精力的な活動によって、1937年初まで、桃泉里を中心とする下崗区のほとんどの村に祖国光復会の組織が生まれ、その後、生産遊撃隊も組織されるようになった。

 桃泉里に派遣された金正淑がはじめて金在水と会ったのは、天上水の人たちが「谷奥の家」と呼んでいた李用述の家であった。この家は8人の兄弟姉妹が同居する大所帯であった。この家で祖国光復会天上水支会が結成され、4男の李用述が支会長に選ばれた。

 我々は、なにかとこの家の世話になった。隊員たちが地方工作に出かけるたびに、ずいぶん厄介をかけたものである。わたしも1936年末から1937年の夏にかけて、3度も世話をかけたが、最初のときは3日間も泊めてもらった。貧しい火田民ではあるが、親切な一家だった。李用述の長兄は、金在水の依頼で我々の部隊の印鑑を2つも彫ってくれたが、わたしはその印鑑を長い間使った。

 金正淑は、「谷奥の家」に半月ほど泊まり込んで支会の活動を助ける一方、地下工作の準備をすすめた。金正淑は、厳玉順という偽名を使い、茂山からの移住民家族の一員だということにして桃泉里へ向かった。赤紫のチョゴリに紺サージのチマ、首の長いポソン、これが「茂山の家のセエギ」厳玉順が、桃泉里の人たちのなかへ入っていったときの身なりであった。咸鏡道の人たちは、若い女性をさして「セエギ」と呼んでいた。

 桃泉里は、新坡の対岸から12キロほど離れた山村であった。桃泉里で生まれ、そこで20年以上暮らした魏仁燦の話では、この村の開拓者は「韓日併合」直後、朝鮮から渡ってきた独立運動家たちである。桃泉里は、1930年初まで独立軍の勢力圏内にあった。その後、国内から農組運動に従事した先覚者たちが集団的に亡命してきてから、この一帯は共産主義思潮が優位を占めるようになった。1936年下半期からは、人民革命軍小部隊が頻繁にやってきて人民に革命的影響を与えた。こうして、桃泉里とその周辺一帯には、祖国光復会の組織網がはりめぐらされたのである。人民革命軍がしきりに出入りし、桃泉里やその近辺で遊撃隊が連戦連勝すると、この一帯の住民は勢いづいて闘争意欲に燃え、敵は恐怖におののいた。敵の恐怖がどれほどであったかは、つぎのようなエピソードがよく物語っている。

 桃泉里学校の前に泉があった。うだるような真夏の暑さにも、その泉の水を飲むと歯にしみるほど冷たかった。水の味が格別だといううわさを聞いた日本人警官がその原因を知ろうと、水の重さを計ってみたところ、ほかの泉の水より重かった。

 「こんな泉の水を飲んでるから、桃泉里のやつらはいやに目が澄んでるんだな。みんなパルチザンに違いない!」

 彼らは、こんなことを言って泉を埋めてしまおうとした。その話を耳にした鄭東哲区長が警官たちにこう言った。

 「この泉の水は、遊撃隊員たちが行き来しながら飲みつけているものです。泉をなくしたと知ったら、旦那さんがたの責任を追及するかも知れませんよ」

 これを聞いて、敵はあえて泉を埋めることができなかった。一口に言って、桃泉里は、大衆的基盤が強固で革命勢力の強いところであった。

 金正淑は野良仕事に精を出しながらも、夜は村人たちの家へ遊びに行き、彼らと顔なじみになった。彼らとなじむなかで一人ひとりの名前を覚え、さらに北青の家、甲山の家、南の家などというそれぞれの家族の呼び名も覚えた。後日、彼女に聞いた話では、1週間で村人たちの名前や家族の呼び名をみな覚えたという。金正淑は、このようなごく普通のことを人民のなかへ入っていく最初の工程とみなしたのである。

 「教員もクラスを受け持つと、まず出席簿を手にして子どもたちの名前から先に覚えるというではありませんか。そうすれば子どもたちのなかへ入っていけるわけでしょう。政治工作員も教員と変わりがないと思いました。名前を知らずには、人民のなかへ入っていけませんからね」

 これは、彼女が桃泉里の工作から帰ったとき金平に言った話である。

 金正淑は司令部の指示に従って、活動の重点を女性工作におき、彼女たちとの接触を深めた。当時はまだ桃泉里に女性組織がなかった。ほとんどの女性が家に閉じこもり、世の動きというものを知らなかった。それに、年寄りたちが彼女たちの行動を縛っていた。たまに誰かが読み書きを習いたくて夜学をちょっとのぞいても年寄りたちは大騒ぎをした。金正淑は、桃泉里で女性の革命化を促す鍵は年寄りたちとの仕事をうまく進めることだと判断した。事実、感受性の強い青年に比べて、老人は何事にもきわめて頑固であった。彼らはわが身の不運をかこちながらも、みずからの運命を開くことなどはまったく考えていなかった。老人を啓発せずには、若い世代の組織化もうまくいくはずがなかった。実際、金正淑は、年寄りや女性のために苦労することが多かった。

 吉林や孤楡樹、五家子一帯でのわたしの活動経験が、それをよく物語っている。前にも述べたが、五家子を革命化するときは「辺トロツキー」老人が障害であった。彼を説き伏せずには、五家子の革命化はもちろん、組織の結成も不可能であった。「辺トロツキー」老人を味方にしてはじめて、わたしはそこに反帝青年同盟を組織することができたのである。孤楡樹の玄河竹も我々の重要な工作対象であった。玄河竹は、わたしの父の親友であったうえに影響力も大きかったので、孤楡樹を訪れるたびに、わたしはまず彼を訪ねて挨拶をし母の挨拶も伝えた。

 金正淑は、もともと敬老心が厚かった。彼女が桃泉里で年寄りと接触した経験談を聞いても、意識的に工作したという感じがほとんどしなかったほどである。金正淑は、人びとを工作の対象、教育の対象としてではなく、純粋に普通の人間として接した。工作上の必要で獲得すべき人を相手にする場合も、相手を被説得者、自分を説得者の位置におくのではなく、隣人と近所付き合いをするようにした。そうしたなかで、彼女は村人から信頼される娘となり、親しい隣人となった。これが、地下工作員としての金正淑の重要な特徴であった。

 わたしも生涯を通して切実に体験したことだが、人民のなかへ入っていこうとすれば、まず自分を人民の子であり、忠僕であり、友であると思い、また彼らを自分の父母や兄弟、教師と思わなければならない。自分が人民の教師であり、人民に君臨する官僚、人民を治める指導者であると思い込む人間は、人民のなかへ入りその信頼を受けることができない。人民は、そのような人たちには心の扉を開こうとしないのである。

 金正淑は通りすがりに立ち寄った家でも、そのまま立ち去るようなことはしなかった。その家の手助けをして薪を割ったり、水を汲んだり、穀物をひいたりするのである。村人たちにたいする金正淑の誠意は、石の上にも花を咲かせるほど深いものだった。こうして、彼女は老人たちに慕われるようになった。桃泉里革命化の突破口は、このようにして開かれたのである。

 あるとき劉歌洞の地主が、熱病にかかった下働きの少女を山小屋に捨てたことがあった。ところが誰もあえて、その哀れな少女を助けようとは思いもしなかった。それを知った金正淑は、ためらうことなく山小屋へ行き、寝食をともにしながら少女を介抱した。驚いた同志たちが、山小屋へ駆けつけて彼女を説得した。助かる見込みのない一少女のために危険をおかし病気でも移されて、もしものことがあったら司令部から受けた重要任務はどうする、その責任は誰が負うのか、介抱するにしても寝食をともにすることだけはやめてほしい、と。

 金正淑は笑って、彼らを安心させた。

 「心配しないで帰りなさい。命が惜しくて子ども1人さえ助けられないようでは、国はどう取りもどし、人民はどう救えるのですか。人民にささげた命なのです。なにも恐れることはありません」

 彼らは、金正淑を山小屋から連れもどすことができなかった。そうして金正淑は、その哀れな少女の命を救った。桃泉里の人たちは、彼女を「うちの玉順」と呼ぶようになった。塩漬けのサバ1尾が手に入っても、「うちの玉順」を食事に呼び、子どもの100日祝いがあっても「うちの玉順」を誰よりも先に招いた。金正淑は、もはや村人の大事な娘とも孫娘ともなり、姉妹ともなったのである。

 彼女は、村人の暮らしに深く心を配る一方、下崗区地域の革命化のために奔走している金在水の身辺に慎重な注意を払った。その年の2月、金在水は、我々が山から届けた『3.1月刊』を祖国光復会の各組織に配布中、最後の一部を残して敵の不審尋問にかかった。警察署に連行された彼は、文盲を装ってしらをきった。

 「山へたき木を取りに行って拾った本ですだ。刻みの巻き紙にしようと持ってきたのに、なんで取り上げるんです。返しておくんなせえ」

 警官たちは、彼を白痴だろうと思い、いったん釈放した。しかし、その裏で彼の身元を洗いはじめた。一時、金遠達という偽名で下崗区一帯に出入りしていた金在水は、桃泉里の李孝俊という人の家に居所を移してからは、彼の従兄を装い、名も「俊」の字をとって李永俊と改めていた。

 金正淑は、金在水と敵の調査をかわす手だてを相談した。そして、「李永俊は白痴である」と敵に信じ込ませるのが上策であると認めた。彼らのシナリオに従って、翌日、李孝俊の家では、隣近所をびっくりさせる大騒動がもちあがった。李孝俊の若い妻が、居候していた男やもめの「義理の従兄」李永俊を洗濯棒をふりかざして家から追い出したのである。彼女は、阿呆の従兄がしょっちゅう家の物を盗み出してはばくちばかり打っているので、自分たちは乞食同然になった、と泣きわめいた。妻が家で騒動を起こしているとき、李孝俊は警察を訪ね、ばくちのほかに能のない阿呆の従兄のため家がつぶれる羽目になった、戸籍から従兄の名を消して、どこかへ追い払ってくれ、と哀願した。一方、「阿呆の従兄」も『3.1月刊』誌一部を持って警察署へ行き、「旦那さんがたが欲しがっているこの本を差し上げますから、どうか、いとこの孝俊と嫁さんが、おらをたたき出さんようにしてくだせえ」と泣きついた。『3.1月刊』を見た警官たちは驚いて、どこからこれを持ってきたのかと問いただした。金在水は、この前遊撃隊と日本軍が交戦した三浦洞の戦場跡で拾ったと答えた。

 「この前、旦那さんがたが欲しがって取り上げた本も、本当はそこで拾ったんだけど、裏山の胞胎山で拾ったとうそをつきましただ」

 警官たちが目をむいて怒鳴りつけると、金在水はふところから懐中時計を取り出し、にやにや笑ってみせた。

 「そこへ行ったら、こんな時計や万年筆もお金も、なんでも転がっていますだ。それを教えたら、みんなひとに取られてしまいますわい。弟夫婦がおらを追い出さないようにしてくれたら、旦那さんがたにその宝の山を教えてあげますだ」

 この1件で警官たちは、李永俊が本物の白痴だと思い込み、それきり調べを打ち切ったという。

 鄭東哲、柳栄燦、金赫哲、李哲洙ら桃泉里の先覚者や革命的大衆は、金正淑の地下工作と身辺の保護をはかってできるかぎりのことをした。彼らは金正淑のために、新坡から新聞も定期的に手に入るようにした。鄭東哲が、新坡の組織メンバーである雑貨店主に購読料を払い、彼の名で新聞を取るようにしたのである。彼は新聞が配達されるとすぐ、商品を包んで送ったり、そのまま送ったりした。おかげで金正淑は、『東亜日報』と『朝鮮日報』を欠かさず読むことができた。

 鄭東哲は冠婚葬祭があると、そこへ金正淑を招き、桃泉里に来た遊撃隊の工作員や他地方の地下組織の連絡員と会わせるようはからった。1937年夏、彼の家では男の子が生まれて祝いの宴をもうけた。そこには、遊撃隊から派遣されてきた「青の正淑」(朴正淑)ら数人の政治工作員と地下組織のメンバーが参加し、巡査や区長、密偵なども顔を見せていた。鄭東哲は、敵の目をくらますため、工作員同士で初対面の挨拶をさせた。金正淑も朴正淑と慣例どおりに挨拶を交わした。彼女は、両手をついて「はじめまして」と「青の正淑」に深々と頭を下げた。区長は、数日前から金正淑にお辞儀の練習をさせておいたのである。金正淑は毎晩、井戸端で水がめを頭に載せて歩く方法も身につけた。端午の節句をひかえて、幾晩もぶらんこ乗りの稽古もしたという。彼女は、そうしたことをすべて、女性地下工作員の資質をそなえる必須の修業と考えたのである。

 金正淑が桃泉里を革命化するうえで重点をおいたのは、大衆を意識化し革命組織に結集することであった。彼女は、「祖国光復会10大綱領」をかかげて我々の革命思想を熱心に宣伝した。こうして、いつしか指導的中核が育成され、彼らによって反日青年同盟と婦女会が組織された。平穏だった山村がついに我々の有力な活動基盤となったのである。金正淑はいたるところで人民を擁軍愛兵の思想で教育し、婦女会員や青少年と力を合わせて援護物資をととのえ部隊に送った。彼女の援軍教育は、大きな実りをあげ、桃泉里では山東地方から来た中国人移住民までもが人民革命軍に援護物資を送るほどになった。児童団員は、戦場の跡を歩きまわって銃弾を拾い集めた。

 援軍運動の最高形態は参軍であった。金正淑は、祖国光復会下崗区委員会の委員たちと一緒に、組織を通じて掌握した中核のなかから、とくに信頼できる青年を選んで人民革命軍へ送り込んだ。鄭東哲の回想によっても、下崗区一帯から革命軍に入隊した青年は100余名にのぼっている。桃泉里からは、金赫哲、柳栄燦、李哲洙、崔仁徳、韓昌鳳など10数名が入隊した。朝鮮革命の一世である韓昌鳳は、偉大な祖国解放戦争(朝鮮戦争)の時期に連隊を率いて洛東江を果敢に渡河し、対岸の諸高地を占領して敵の反撃を退けるのに抜群の軍功をたてている。

 金正淑の指導を受けた腰房子の婦女会会長尹於福は3人の子持ちであったが、2歳の幼児をおぶって32キロを越す我々の密営を訪れ、遊撃隊への入隊を懇願した。参軍熱の高さを示す例はいろいろな形であらわれた。ある家では、息子を遊撃隊に送ってから、にせの墓をつくり祭祀までしたほどであった。遊撃隊留守家族への監視と弾圧がきびしいときだったので、息子が死んだように見せかけて敵の目をあざむこうとしたのである。

 金在水の『3.1月刊』配布露呈事件後しばらくたったある日、わたしは金正淑の新坡工作を支援するため崔希淑を腰房子へ送った。彼女が到着すると、金正淑は、桃泉里をはじめ下崗区地区の婦女会と青年会、少年会組織の指導を彼女にまかせ新坡の工作に専念した。彼女の新坡での工作は、張海友への接近からはじまった。当時、張海友は、新坡地区で三水共産主義者工作委員会のメンバーとともに反日革命運動に従事していた。そのころ桃泉里の区長で祖国光復会特殊会員の鄭東哲と三水共産主義者工作委員会の張海友、林元三、徐載逸らの交際がはじまり、互いに気脈を通じるようになった。徐載逸は、洗濯屋で働きながら組織工作に尽力し、金正淑との連絡任務も果たした。張海友とその組織の動向を正確につかむため、金正淑は鄭東哲に張海友の組織メンバーの1人である林元三と義兄弟の契りを結ばせた。彼女は、鄭東哲を通じて十分な事前調査をしたうえで、張海友とじかに接触した。金正淑は、石田洋服店の裏部屋で張海友に会い、わたしの親書を伝えた。

 「金日成将軍が金亨稷先生の子息金成柱だと知っては、この張海友は亨稷先生に従ったときのように、将軍に従います」

 張海友がこう所信を表明したという報告を受け、わたしは金正淑の新坡工作が成功するものと確信した。

 張海友は、年齢や闘争歴を鼻にかけたり、こせこせするような革命家ではなかった。正しいことであれば無条件支持してそれに従い、私情にとらわれることなく、大義と大業のためならためらいなく自分を犠牲にできる人だった。

 その後しばらくして、張海友は、三水共産主義者工作委員会のメンバーをもって祖国光復会新乫坡支会を結成する一方、金在水と金正淑の指導のもとに、石田洋服店の裏部屋で三水共産主義者工作委員会を母体とする朝鮮人民革命軍党委員会直属の新坡地区党グループを組織した。

 祖国光復会支会の結成会合は、光鮮写真館でおこなわれた。写真館2階の修整室は、金正淑がもっともよく利用した秘密連絡所である。光鮮写真館主の李舜垣は、祖国光復会新乫坡支会の中核メンバーであった。ソウルの写真講習所を出たあと開業したのだが、写真が上手で人望が厚く人付き合いがよかったので、彼を通じると対人活動がスムーズに運んだ。彼は多くの敵側資料を写真に撮って、我々に提供した。あるときは、人民革命軍の国内進攻に役立つようにと、新坡の全景を撮って送ってくれた。その家の現像室では、ビラも多く刷ったという。夫人は、組織の秘密活動を黙々と支えた誠実な協力者だった。

 金正淑は、光鮮写真館のほかにも石田洋服店、泉水場そば屋、新坡宿屋、茶碗商店、水車小屋など新坡地区の随所に秘密連絡所や秘密工作場を定め、ひそかに出入りしながら地下活動を進めた。泉水場そば屋や新坡宿屋、茶碗商店などは組織のメンバーの接触、連絡の場として多く利用され、同時に遊撃隊への援護物資の集結・保管場としても利用された。援護物資の主要運搬ルートの秘密拠点として利用されたのは水車小屋だった。邑(町)から少し離れた水車小屋は、敵の注意をあまり引かない所にあったので、物資の保管と運搬にたいへん便利だった。そこの主人の親類筋に筏流しを業とする人がいたので、援護物資を鴨緑江の対岸へ送るときは、容易にその協力を受けることができた。水車小屋の主人も筏流しも、ともに祖国光復会会員だった。新坡を通して、じつに多くの援護物資が我々に届けられた。十三道溝には物資が多くなかったので、長白県下崗区一帯の組織も援護物資の大半を鴨緑江対岸の新坡で購入しなければならなかった。新坡地区の組織から遊撃隊に送られる食糧、布地のような多量の援護物資は、ほとんどが、水車小屋アジトと五函徳宿屋を経由して筏や渡し舟で鴨緑江を渡っていった。五函徳宿屋は、家族ぐるみで組織された特殊分会であった。

 金正淑は、桃泉里と新坡地区で活動する間、白頭山密営や三水へも行き来し、新興、興南、北青、端川など東海岸地区へも行き、その一帯の革命家たちとの接触も深めた。阿安里と五函徳の秘密連絡所は、主に他地方へ工作員を送るさいのアジトとして利用された。金正淑は、赴戦、長津、新興、興南一帯に向かう地下革命組織のメンバーは、主に阿安里分会責任者の家から派遣し、甲山、北青、徳城、端川一帯へ向かうメンバーは、五函徳の秘密連絡所から派遣していた。興南工業地区に地下革命組織をつくる任務を与えて魏仁燦工作グループを送り出したのも、阿安里のアジトであった。金正淑は、新坡地区の多くのアジトを足しげく巡り歩きながら組織を拡大していった。彼女は、決してアジトを固定しなかった。ときには、変装もして秘密連絡地点や工作場所を変えながら、それらを巧みに利用した。それは、組織を偽装し、身辺の安全をはかるうえでも必要なことだった。金正淑が桃泉里から帰ったとき、わたしは彼女に尋ねた。新坡の警官たちはフクロウのような目をもっているというのに、いったいどのようにして正体を隠しおおせることができたのか、新坡市内へ数十回も出入りしながら敵に捕らわれず自由に活動しえた秘訣はなにか、と。金正淑は、返事の代わりに微笑をたたえて、新坡へ渡って密偵に尾行されたときのことを話した。

 「新坡の渡し場から街へ向かっているとき、粗末な麦わら帽子をかぶった男がついてくるのです。最初は尾行だと思いませんでしたが、わたしが街へ入ってからも、後ろの方に見え隠れするので、ちょっとおかしく思いました。その人は、ある飲食店の前で所在なさそうにタバコを取り出して口にくわえたのです。ところが、それは刻みではなく巻きタバコではありませんか。それを見ておやっと思いました。貧しい農民が巻きタバコなど吸えるわけがないではありませんか」

 金正淑は、あの裏通りからこの裏通りへと密偵を引きまわしたあと、市場の中へまぎれ込み、幼児をおぶって重そうなかごを頭にのせて歩いている顔見知りの女の荷をすばやく受け取って頭にのせた。それで、密偵は彼女を見失ってしまったという。

 「わたしが密偵や警官の手にかからなかったのは、責任感のためでした。敵につかまったら司令部から与えられた任務を果たせなくなると思うと、ひとりでに肝が据わってくるではありませんか。それに、大衆が命がけでわたしを守ってくれました」

 金正淑のこの話は、桃泉里−新坡地区工作についての彼女自身の総括でもあった。彼女が困難な敵中工作任務を無事に果たせた重要な秘訣は、ほかならぬ責任感にあり、さらに大衆のなかに深く入ったことにある。彼女が敵地での地下工作で驚くほどの創意を発揮できたのも、そういう責任感があったからである。わたしは彼女を桃泉里に派遣するとき、政治工作以外の任務は与えなかった。それは、敵中工作で過重な負担をかけないためであった。しかし、金正淑は政治工作に力をそそぐかたわら、部隊の活動に必要な軍事情報を随時収集して司令部へ送ってくれた。彼女は、桃泉里と新坡の地下組織を動かして多くの情報資料を集めた。これは、鄭東哲、張海友、林元三などの革命家たちに負うところが多かった。

 鄭東哲は、情報収集工作にたけていた。警察署長、税関長、面長など統治機関の役付きらと義兄弟の契りを結び、彼らと「兄さん」「弟」と呼び合いながら、秘密を探り出した。この義兄弟グループには、十三道溝役所の幹部や新坡から派遣された特高も加わっていた。鄭東哲は、彼らを招いてしばしば酒宴を張った。アヘンを好む官吏のためには吸飲の機会ももうけた。

 祖国光復会下崗区委員会は、敵の機関に会員を巧みに潜入させた。十三道溝警察署の管下にも2、3名の祖国光復会特殊会員がいたという。行政末端単位の使い走りである区長や十家長もほとんどが革命組織のメンバーであった。林元三は、靖安軍連隊本部で筆耕をすることになった機会に、多くの軍事機密を収集した。彼は、革命軍の活動に参考になりそうな作戦地図や統計資料があると手早く書き写し、それを丸めてくずかごに投げ込み、夕方、紙屑を焼却するときに取り出して組織に渡した。光鮮写真館と石田洋服店は、敵情資料収集と連絡のアジトとしてもしばしば利用された。新坡支会傘下の祖国光復会員のなかには面事務所や金融組合など敵の機関で書記として働く者もいた。彼らはたえず敵情資料を集めて光鮮写真館か石田洋服店に持ち込み、組織に通報した。金正淑は間三峰戦闘のときも、この地区のアジトを通して金錫源の指揮する大部隊の動きをつぶさに調査し、いちはやく司令部に通報して人民革命軍の勝利に大きく寄与した。

 金正淑は、組織のメンバーを動かして、新坡一帯の軍警の兵力と軍事施設の配置状態、武装状態などを調べ、鴨緑江の川幅、水深、流速、それに渡河と撤収に適した地点までみずから確認し、必要な略図を添えて我々に送ってきもした。わたしは桃泉里の工作状況を総括するとき、金正淑のこうした創意に富む努力を高く評価した。渡河と撤収に有利な地点を調査した理由を彼女に尋ねると、いずれ、人民革命軍が新坡を攻撃するときが来ると考えたからだと答えるのだった。

 1937年夏、金正淑は、敵に逮捕された。桃泉里の婦女会員たちが、我々の出版所に送ろうとして求めた紙束が、靖安軍の捜査で発見されたのがもとだった。金正淑は、その紙束は、鄭東哲区長から頼まれ、自分が買ってきて保管してもらっていたもので、住民台帳に使うものだと言い張った。その毅然とした態度と筋の通った話しぶりが敵をいたく刺激した。言葉に窮していらだった将校は、恐れる色もなく舌がよく回るのをみると革命軍のスパイに違いないと決めつけ、うむを言わせず繩をかけて靖安軍部隊本部のある腰房子へ連行した。金正淑は、最期を覚悟し組織にあてて遺書をしたためた。

 「安心してください。わたしは死ぬでしょう。けれども組織は生きつづけるでしょう。わたしの財産のすべてである2元を送ります。組織の資金にあててください」

 鉛筆で書いたその遺書と現金2元は、彼女が監禁された家の老婆から隣家に伝えられ、さらに鄭東哲の手をへて組織に伝えられた。組織では、そのメンバーを動かして緊急救出対策を講じた。桃泉里の組織は、代表団を靖安軍部隊本部に送り、無実の良民を不法逮捕したことに強く抗議し、即時釈放するよう要請した。彼らの抗議は効を奏した。靖安軍部隊本部は部隊の移動にかこつけて、金正淑を十四道溝警察署に移送した。

 鄭東哲は、金正淑をさらに十三道溝警察署に移すよう工作した。十三道溝警察署は、一等級高い一級警察署だったので、彼女の移送問題は難なく解決した。金正淑は両手を縛られたまま押送された。2つの警察署のあいだに桃泉里があった。彼女が、警官に護送されて桃泉里を通りすぎたのは昼下がりだった。桃泉里の村人たちは、繩目にかけられ警官の銃口にこづかれながらはだしで歩いていく「茂山の家のセエギ」を悲憤の涙で見送った。ある老婆はわらじを持って駆け寄り、血が流れている金正淑の足にはかせながら、護送警官をののしった。

 「うちの玉順になんの罪があって引っ立ててゆくんだ。うちの玉順を共産党だと言ってつかまえていくというが、玉順のような人が共産党なら、わたしも共産党についていくよ!」

 鄭東哲は、金正淑のあとを追って十三道溝警察署へ行き、署長に釈放を求めた。署長は500名の良民保証書を持ってくれば、金正淑を「良民」と認めて釈放しようと約束した。署長が途方もなく多人数の保証書を要求したのは、後日、上級から問題にされた場合の、責任回避の口実をつくっておくためであった。空の星を取ってこいというほどむずかしい要求だった。しかし、鄭東哲は、彼らの要求どおり保証書をそろえて署長の机の上に置いた。署長は目を丸くした。「逆賊」とか「共匪」に見られた「不穏分子」を「良民」と認める保証書に印を押したがらないのは大衆の一般的心理である。署長は、鄭東哲との「友情」もあって、体面上、良民保証書を持ってくれば釈放するとは約束したが、それはとうてい不可能だと見ていたのである。

 500名の印と拇印が並んだ良民保証書、それは一つの奇跡であった。そのようなことが、どうして可能だったのだろうか。200余戸にすぎない桃泉里の村に、それだけの地下組織メンバーが、いるはずもなかった。いくら組織が奔走したところで、組織メンバーの数倍もの民衆が人の言いなりに危険千万な保証書においそれと判を押すはずはなかった。そんなに多くの人がためらうことなく良民保証書に捺印したのは、人民が金正淑をそれほど深く愛し、支持したからである。言いかえれば、強権や金権にまさる人民の絶大な信頼と支持がこうした奇跡を生んだのである。

 敵の魔手から無事に解放されて桃泉里に帰った金正淑は、村人たちに取りかこまれたとたん、「わたし、おなかが減って死にそうだったわ。姉さん、ご飯」と言ったという。これは、身内同士でなくては言えない遠慮のない言葉である。彼女が桃泉里の人たちを身内のように考えなかったとしたら、そんなことをすぐ口にすることはできなかったであろう。

 解放後、興南市人民委員会委員長を勤めていた林元三が、会議に参加するため平壌に来たおり、かつての桃泉里・新坡時代の親友だった張海友、鄭東哲と連れ立って、わたしの家を訪問したことがある。張海友と鄭東哲は、当時中央の要職にあった。民主党平安南道委員長の金在水も一緒に来た。その日、金正淑は、客のためにギョーザをつくった。話題は、おのずと桃泉里・新坡時代に移っていった。金正淑は、同志たちのおかげで死地から救われた当時のことを感慨深く回顧し、涙ぐんだ。そして、腰房子に監禁されていたとき、たやすく脱出できたがそうしなかった、ともらした。

 「本当はね、歩哨の1人くらい倒して脱出するのはたやすいことでしたの。でも、そうはできませんでした。わたしが監禁されていた家の老夫婦が気の毒なことになると考えると、歩哨を倒して逃げることができなかったのです。わたしは、その人たちを見て考えました。ここから逃げるのはたやすいことだ、でも、そうやって逃げたら、この家の年寄りたちはどんな目にあい、わたしを良民だと保証した鄭区長はどうなり、桃泉里の地下組織と住民はまたなんと多くの被害を受け迫害されるだろうか、こう思うと、わたし1人が犠牲になっても組織を守り、人民を保護しようという覚悟ができました。わたしはその夜、安らかな気持ちでその家の居間で眠りました。一身をささげようと決心すると気が休まり、恐怖心も、ためらいもなくなりました」

 これが、桃泉里・新坡時代の「茂山の家のセエギ」の姿だった。

 良民保証書のおかげで危地から救われた金正淑は、しばらく桃泉里地区と国内で地下工作をつづけたあと、司令部に帰ってきた。彼女が部隊に帰るとき、祖国光復会桃泉里支会の柳栄燦も一緒に来た。彼は、金正淑の保証で遊撃隊に入隊した。我々がハバロフスク近くの訓練基地で対日作戦の準備に余念がなかった1944年、柳栄燦は野営地の建設資材を船で運んでくる途中、不幸にもアムール川で溺死した。金正淑はおりあるごとに、忘れられない恩人だと言って彼を回想した。金正淑が、桃泉里を発つとき、ついていくと言ったのは柳栄燦1人ではなかったという。婦女会員たちもまといついて、一緒に連れていってくれと涙ながらに懇願したという。ある婦女会員は、胞胎山の峠までついてきて帰ろうとしなかった。金正淑はいろいろと説得したがどうしても聞き入れないので、銀の指輪を抜いて彼女の指にはめ、彼女の赤い腰帯をほどいて自分の腰に巻いた。赤い毛糸のその腰帯は、彼女が金正淑の保証で婦女会に加入した日、記念に編んで自慢にしていた大切なアクセサリーだった。

 「連れていきたくないのじゃなくて、連れていけないから、わたしがひとりで行くのですよ。だから寂しく思わないでね。この赤い腰帯がみなちぎれて1本の糸になるまで身につけ、なつかしい桃泉里の人たちを思い出しますわ」

 この愛情深い言葉に、彼女はそれ以上我を張ることができず、せめて便りだけでもしてくれと切々と言った。金正淑は部隊に帰ってからも、約束どおりいつも軍服の下に赤い毛糸の腰帯を巻いていた。彼女はわたしと結婚したのちにはじめて、一度もほどいたことのない赤い腰帯にまつわる話をしてくれた。その腰帯を通して、金正淑はいつも人民の体温を肌に感じながら生活した。彼女の心は、人民から離れたことがなかった。

 わたしはときどき、こう自問してみることがある。どうして金正淑はあの困難な地下工作にたずさわりながら、あんなに多くの人たちから愛され、助けられたのだろうか。もしも、金正淑が人民に真の愛をそそがなかったなら、彼女が危機に陥ったとき、人民は彼女をかえりみなかったであろう。人民のために一身を投げださない人は、危難にさいして人民の心からの援助を受けることはできない。金正淑は人民を愛し、いたわっただけ、人民から報いを受けたのである。そうしてみると、500名の捺印のある良民保証書は、彼女が人民のまことの忠僕であることを証明する永遠の証書だと言えるであろう。

 金正淑が桃泉里を発ったときから半世紀以上が過ぎた1991年の秋、両江道地方を現地指導していたわたしは、彼女が心魂を傾けて開拓した新坡の地を訪れた。長い歳月が流れていたが、彼女の地下活動にまつわる史跡遺物はそのまま大切に保存されていた。その一つひとつの遺物と史跡にたいする新坡の住民の誠意はまったく感嘆に価するものだった。その日、解説員たちは、金正淑の足跡が記された史跡を案内しながら、彼女の活動をくわしく説明してくれた。そこには、わたしのよく知らない事件や細部の事柄も少なくなかった。

 わたしは、鴨緑江の岸辺に昔日の姿のまま残っている陰惨な砲台を見ながら、金正淑がこの地方を革命化するために多くの冒険に身を挺し、危険な瀬戸際に立たされたのも一度や二度ではなかっただろうと考えた。

 夕日が沈みかけるころ停車場に向かったわたしは、新坡の街並みを振り返り、そぞろ立ち去りがたい思いにとらわれた。



 


inserted by FC2 system