金日成主席『回顧録 世紀とともに』

5 民族宗教――天道教について


 天道教にたいするわたしの見解と立場は、朴寅鎮のような知名の宗教家を革命の同伴者に獲得するうえできわめて重要な影響を及ぼした。もしも、天道教の門外漢であったり、それに偏見と敵意をもっていたとしたら、朴寅鎮との協商を試みはしなかったであろうし、全国数百万の天道教徒を祖国光復会の旗のもとに結集する大胆な作戦もおこなえなかったであろう。

 この機会に、天道教にたいするわたしの見解と立場を少し述べたい。東学の理念やその発展史については、わたしなりに言いたいことが少なくない。

 ある主義主張や教理を知る経路や方法は多様であると思う。わたしにマルクス・レーニン主義への手引きをしてくれたのが書物であったとすれば、キリスト教への手引きをしてくれたのは礼拝堂であった。わたしが幼年時代、母に連れられてたびたび礼拝堂へ行ったことは前に触れた。はじめて宗教儀式を見、キリスト教の教理を説く牧師の説教を聞いたのも、その礼拝堂であった。崇実中学校出身の父と七谷(チルゴル)教会の長老で教育者であった外祖父は、キリストについて造詣が深かった。わたしが彰徳学校に通っていたころ、七谷ではかなりの人がキリスト教を信じていた。康良U先生もキリスト教信者であった。孫貞道、呉東振、張戊M、金史憲、金時雨など、父の知己にもキリスト教信者は多かった。わたしは、キリストを崇める信者たちにとりまかれて幼年時代を過ごしたともいえる。キリスト崇拝者は、小学校時代の同窓生にも多かった。当時は、キリスト教を宣伝する書籍も多かった。そうした環境のせいで、わたしはキリスト教を知るようになったのである。

 イスラム教を知ったいきさつは、それとは多少違っている。これには、笑いをさそうおもしろいエピソードがある。はじめてイスラム教を紹介してくれたのは、吉林毓文中学校時代の同窓生の馬金斗である。彼は、イスラム教徒であった。健啖家の彼は、教えの戒律を破って足しげく料理店に通い、豚肉を肴にして酒を飲んだ。いつも人目のつかない片隅に席を取り、たえず不安そうに周囲をうかがいながら飲食するのである。酒を飲み豚肉を食べることが知れたら、イスラム教徒としての面目が立たず、教団からきびしくとがめられるからだった。馬金斗と一緒に何度か料理店に行くうちに、イスラム教徒には酒と豚肉がタブーになっていることを知った。わたしが中学時代に身につけたイスラム教の一般的な知識は、彼との付き合いで得たものである。

 わたしが天道教に興味をいだくようになったのは、甲午農民戦争が生んだ緑豆将軍――全琫準を知ってからだった。父は烈士たちの名を口にするときはいつも、洪景来、李儁、安重根、洪範図と並んで緑豆将軍の名をあげた。しかし、そのころの全琫準にたいする知識は、彼が甲午農民戦争の主人公で、最期まで節を曲げなかった勇猛果敢な人物であったということだけだった。幼いころなので、父はそれ以上の知識を授けてくれなかった。

 わたしに緑豆将軍の生涯と甲午農民戦争の全貌をはじめてくわしく教えてくれたのは康良U先生である。先生は敬虔なキリスト教信者であったが、天道教についても深い知識をもっていた。先生の条理にかなった講義を聞いてから、わたしは甲午農民戦争と天道教を結びつけて見るようになった。東学党の乱の悲惨な終結と緑豆将軍の悲劇的な最期は、朝鮮の国政を破滅の淵に追い込んだ封建朝廷の事大主義と無能ぶり、日清両国の野心と内政干渉にたいする強い憤りを覚えさせた。わたしは、東学党の乱が近代朝鮮の反侵略・反封建闘争史をりっぱに飾った大きな出来事であり、この戦争が輩出した勇士たちこそ、近代朝鮮民族の政治生活と精神生活に深刻な影響を与えた鷲であると思った。甲午風雲の寵児全琫準は、わたしの胸に永遠に消えることのない一点の火花として宿るようになった。

 わたしの天道教にたいする認識は、華成義塾時代にいっそう深まった。義塾には、天道教徒が多かった。塾長の崔東旿先生が天道教3世教主孫秉熙の弟子だったことは、彼の息子の崔徳新が述懐している。塾監の康済河とその息子の康炳善も、やはり敬虔な天道教徒であった。華成義塾には『東経大全』や『竜潭遺詞』などの東学経典をそらんじて学をひけらかす学生もかなりいたし、天道教中央が出している月刊誌『開闢』を持ち歩き、東学の視点で見た朝鮮の農村がどうの、李敦化の文章がどうのと熱弁を吐く熱心な読者もいた。崔東旿は、学生が『共産党宣言』を読むのは戒めたが、『東経大全』や『開闢』を熟読することは奨励した。歴史の教師が欠勤すると塾長はときどき代講をしたが、その場合、歴史の授業は決まって東学史の講義になってしまった。先生は、朝鮮近代史のショッキングな出来事や諸事実をつねに東学と結びつけて分析し評価した。崔東旿は天道教の教理にもとづいて、国本、民本、人本の三本主義をさかんに説いたが、それは孫文の三民主義と一脈通ずるところがあった。天道教にかんする先生の話のなかでもっとも興味深かったのは、この宗教の教祖である水雲崔済愚にかんするものであった。先生が、崔済愚の経歴と東学創始のいきさつを語ったあと、とくに強調した言葉はいまも記憶に残っている。

 「我々は、東学を創始した崔済愚先生を水雲大神師と敬って呼んでいる。したがって、諸君も『崔済愚』『崔済愚』と言わず、水雲大神師という尊称で呼ぶのが望ましい」

 崔東旿によれば、9世紀朝鮮の有名な学者であった孤雲崔致遠は、崔済愚の遠い先祖である。崔済愚の父親崔鋈も詩才にぬきんでていた。彼の『近庵文集』は、その時代の著名な詩集として知られている。6歳で母親を亡くし、16歳のときに父親を失った崔済愚は、20年近くの間、全国を放浪しながら、悪政、悪弊に苦しむ国と民衆を救う道を求めた末、1860年4月、ついに近代朝鮮史の発展に大きな影響を与えた天道教の教理を世に出し、東学の創始者となった。崔済愚が天道教を東学と称したのは、「西学」の天主教に対峙して東方に住む朝鮮人の信仰哲学であることを強調するためであった。

 崔済愚の活動した時代は、権勢政治と党争による疲弊がその極に達し、国力が極度に衰退していたときであった。封建的虐政に抗する農民暴動が頻発し、それに飢饉と洪水が重なって社会的・政治的混乱は文字どおり絶頂に達した。両班(封建時代の特権階層)と常民間の身分的・階級的対立も極限に達した。数百年の間、李王朝の存立を制度的に支えてきた封建的身分関係は、国の中興と社会の発展を妨げる呪わしい桎梏となった。貪官汚吏の虐政と経済の破綻で民生は塗炭の苦しみにあり、民権は形骸さえとどめなくなった。数百年間鎖国をつづけた東邦朝鮮は、あくなき富の蓄積と領土の拡張に血眼になっていた列強の垂涎の的となった。天主教を道案内にした欧米列強の触手は、いまや朝鮮半島にのびはじめた。

 「是日也放声大哭」(1905年、日本によって強制された「乙巳条約」締結にたいする民族的痛嘆)の前奏曲は、事実上そのころすでに準備されていたのである。そんなときに、国と民族の運命を心から憂える時代の先覚者たちが、新しい思想と理念を求めるのは当然のことである。崔済愚は、その先覚者の先頭に立って「人乃天」「輔国安民」を基本理念とする東学を創始し、その教理を広めるため情熱的な布教をおこなった。

 「諸君、東学を知るには、まず『輔国安民』の標語を見よ!」

 崔東旿は、天道教を説くときには決まってこんな標語をプラカードのようにかかげた。

 「外には外国の侵略に抗して国を守るのが『輔国』であり、内には悪政に反対して民衆の安寧をはかるのが『安民』である。これこそりっぱな天道ではないか。成柱、『輔国安民』をどう思うかね」

 いつだったか塾長は、だしぬけにこんな質問をした。

 「りっぱな標語だと思います。『輔国安民』を提唱したのが天道教なら、わたしはその教理を支持します」

 それは、わたしのいつわらぬ気持ちだった。そのころ、共産主義理念は、すでにわたしの生活で重要な思想的支柱となっていたが、わたしはためらうことなく東学への支持を表明した。国を守り民衆の安寧をはかるのは、良識ある人なら誰でも切望するところであった。崔東旿は口許をほころばせて、満足そうにわたしを見た。

 「『輔国安民』に反対するようでは朝鮮人でない。共産党の唱える世界革命のスローガンもよかろうが、この『輔国安民』こそ、わが国と倍達民族(古代朝鮮民族の呼称の一つ)にとって、なんと切実なスローガンではないか。確かに水雲大神師様は、霊験あらたかなお方だ」

 華成義塾時代のわたしの天道教についての知識は、実践とは縁遠い狭小な生かじりのものであり、まだ凡俗で断片的なものにすぎなかった。わたしが東学を実践と結びつけて注意深く研究しはじめたのは、吉林時代からであった。朝鮮革命の新しい進路を模索する過程では、すでに歴史によって否定された主義主張や解釈はほとんど退けられてきたが、だからと言って、わたしは過去の理念や運動そのものを虚無主義的に評価するようなことはしなかった。わたしは、既成の理論や他人の経験を盲目的に取り入れることには反対しながらも、長所はこだわりなく摂取したのである。

 卡倫会議を前後するころ、我々の革命実践では、統一戦線の問題が重要な戦略的課題として浮上した。どの勢力を包容あるいは排斥し、または孤立させるべきかという問題が随所で提起され、たえず複雑な論争を引き起こした。統一戦線の対象が論議されるときは決まって、宗教問題が民族資本家の問題とともに無視できない主要な論題となった。

 天道教はキリスト教とともに、わたしがもっとも重視した宗教の一つである。我々が天道教を注視し、その教徒の活動に関心を払ったのは、それが朝鮮の民族宗教であり、理念や実践活動において一貫して愛国愛民を志向し、布教の範囲がきわめて広く浸透力が強いからであった。

 『資本論』と同様、『東経大全』も深く掘り下げてみるおもしろさはあったが、文章が難解で最後まで読み通すのがむずかしかった。森羅万象を神秘的かつ深奥に著述した崔済愚の文章には、わかるようでわからない暖昧模糊としたところがあった。解放後、天道教中央の幹部だった金達鉉も水雲大神師の文章が難解であることを認めた。彼は、その文章が柳麟錫の檄文のように平易であったなら、東学はさらに数十万の教徒を集めたであろう
と言った。

 わたしの天道教案内書は、雑誌『開闢』であった。『開闢』という題号は、天道教の重要な教理である「後天開闢」からとったものである。『開闢』は創刊後、数十号を発行する全期間、政治時事総合雑誌の面目を保ち、民族の啓蒙に大きく貢献した。民族主義的色合いの濃い雑誌であったが、社会主義理念を紹介する記事も載った。当時としては、読者の人気を博した斬新で革新的な大衆雑誌であった。それは、天道教青年党の組織が朝鮮の北部地域と遠く東満州、南満州、そして、北満州のハルビン一帯にも支部を増やしていたころで、『開闢』は満州領内にも多くの読者をもっていた。

 わたしは『開闢』誌上で、吉林時代に知った論敵申日鎔の文章も読んだ。彼は、1920年代中期の農村問題に熱中していた。彼が雑誌に発表した「農村問題の研究」は、理論的に深みのある論文であった。『開闢』には、世界各国の文物を紹介する記事も多かった。なかでも印象深かったのは、孤楡樹か五家子にいたころ読んだ「南満州行」という紀行文である。「南満州行」の筆者は、李敦化で、満州地方の自然風景と中国人の生活風習、撫順炭鉱労働者の悲惨な生活境遇、わが国の独立運動家の活動状況などをくわしく紹介していた。その紀行文によれば、南満州地方の住民には、死んだ人を棺に入れて土葬するのでなく、屋外に放置し、また、7歳未満の幼児の死骸はむしろにくるんで木に吊るす変わった風習があったという。

 『開闢』の記事のなかでもっとも読者の興味を引いたのは、愛国主義を鼓吹する記事であった。雑誌には、「朝鮮民族固有の優越性」「高句麗国民の気象と努力」「天恵に富む朝鮮の地理」など、朝鮮の歴史や地理、自然、各地の特色、物産を賞揚する記事がしばしば掲載された。「8道代表の8道自慢」もそんな記事の一つだった。これは、朝鮮8道代表のお国自慢で、ある実学思想家の8道住民の気質にたいする評からとったものだ。例えば、平安道人の気質を「猛虎出林」だとし、「林から出た虎」のような気性だが、あっさりしてあとくされのない平安道人が登場してお国自慢をしている。また「泥田闘狗」、つまり「泥田で争う犬」のように一度食いついたら絶対に離さない性分の咸鏡道の「趙ヤルゲ(あざとい人間の代名詞)」なる人物が登場し、祖宗の山――白頭山は咸鏡道にあるという前口上にはじまり、得々とお国自慢をしている。こうして、8道の人たちの特徴をいかにも生き生きと描き出しているので、読む人は笑わずにはいられなかった。その8道自慢は、初めから終わりまで民族の誇りと自負を呼び起こす話をおもしろおかしく織り込んでいた。関係部門を通して調べたところ、「8道代表の8道自慢」は1925年7月号に掲載されたものだった。最近その雑誌を取り寄せて久々に読み返し、新たな感慨を催した。半世紀前にも感じたことだが、確かにおもしろい記事である。

 『開闢』の人気記事のなかには、「外国人の見た朝鮮の印象」というのもあった。それは、ドイツ、フランス、中国、日本、アメリカ、ロシア、イギリスなど各国人が朝鮮で受けた印象を「才芸は世界一」「3大感嘆」「礼儀は天下第一」「朝鮮の4大美」「朝鮮にたいする7大信条」「自然美、人情味」「朝鮮人の印象」などと書いた短いものであった。外国人の視点から見た朝鮮を朝鮮人の視点で吟味しなおすのは、じつに楽しく愉快なことだった。『開闢』誌は、朝鮮人の立場から見た朝鮮のすぐれた点について「淳良さは天下第一」「健康上の優良点」「倫理道徳は無類」「将来の世界の模範民」「残忍暴悪さのない朝鮮人」と書いた。「朝鮮の東学党と中国の国民党」という記事も読者の興味を引いた。筆者は、東洋で社会革新の大義のために奮闘する集団は中国の国民党と朝鮮の東学党のみであると主張し、崔済愚が孫中山よりも40余年前に東学を創始したことを誇りとした。

 わたしの記憶では、『開闢』の筆陣のなかでもっとも多くの記事を書いたのは、天道教中央の編集課主任で『開闢』編集人の李敦化だったと思う。李敦化の号は夜雷であった。彼は、東学の教理を理論的に定立し、哲学的に解釈するうえで中心的役割を果たした有能な理論家であった。「人乃天要義」「神人哲学」「水雲心法講義」「天道教創建史」などの著書を通じて果たした布教活動におけるその功績は、天道教史にしかるべきページを占めるであろう。

 わたしは『開闢』の読者になってから、李敦化にひそかに関心をもつようになった。わたしに夜雷先生をかなりくわしく紹介してくれたのは朴寅鎮だった。彼も夜雷にかなり好感をいだいていた。朴寅鎮はわたしに、李敦化に会ってみてはとすすめたことさえあった。しかし、山中で日本帝国主義と戦っていたわたしが、ソウルにいる彼と会うのはまず無理なことだった。解放後、彼が陽徳に住みつき天道教に関与していると聞きながらも、暇がなくてとうとう会えずじまいだった。ただ、天道教青友党委員長の金達鉉を通じて、ときおり彼の活動消息を断片的に聞くにすぎなかった。李敦化の最期については、金達鉉もよく知らなかった。その後、関係者から知らされたところによれば、彼は1950年の秋、人民軍とともに慈江道地域まで後退し、そこにしばらく留まっていたが、アメリカ空軍の爆撃で死亡したという。李敦化のような才人を失ったことは、彼を愛してきた『開闢』のかつての読者や天道教徒にとって、哀惜にたえない損失であった。李敦化は、政治的見解においては少壮派革新勢力に属さない保守的な穏健派だったようである。しかし、民族性の固守、民族的体面の維持、道徳的自我の完成を主張した文章から推して、彼は祖国と民族を熱愛した清廉かつ良心的な知識人、宗教家であったに違いない。

 わたしは康炳善と一緒に『開闢』の記事を読んでしばしば読後感を語り合い、東学の地位と教理の問題について論争もした。康炳善は「トゥ・ドゥ」のメンバーのなかでは、天道教にもっとも通じていた。彼は共産主義を熱烈に信奉したが、自分の崇めた東学思想と天道教組織に少なからぬ愛情をいだいていた。康炳善の故郷の昌城と、義州、碧潼、朔州地方には天道教徒が多かった。康済河、崔東旿、孔栄などはみな平安北道地方の天道教界で主役を演じた愛国の志士である。康炳善は天道教のつてを頼って、1930年代後半期に平安北道地方で祖国光復会の下部組織をかなり拡大した。天道教の少壮派革新勢力が概してそうであったように、彼も最初は、東学党の乱以来わが国の反侵略・反封建闘争で果たした天道教の役割をほとんど絶対視し、民族の運命開拓における大小事はすべて天道教によってのみ解決できると考えていた。天道教の問題をめぐる我々の争点では、これが基本であったといえる。もちろんわたしは、封建主義に反対し、侵略に抗するたたかいと、国の近代化を実現し社会進歩をもたらすたたかいで立てた東学の功労を認めるにやぶさかではなかった。東学の民族性と愛国愛民性も認めた。しかし、東学に依拠してのみ万事が解決されると主張する立場と態度には同調しなかった。

 後日、康炳善自身も実践闘争を通して天道教万能の観点を改めた。1930年代前半期、張蔚華とともに撫松で地下活動に献身した彼は、1930年代後半期、北満州で我々の政治工作員として活躍中、警察に検挙され、監獄で壮烈な最期を遂げた。

 東学徒の主張する「人乃天」の思想は、人を天になぞらえて尊重したという点では比較的進歩的であったとみなせるが、宗教的観念からほとんど抜け出せず、人間自身を神的存在とみることによって、理論的不整合をまぬがれなかった。東学を創始した崔済愚やそれを継承した2世、3世の教主は、天道教は、儒教、仏教、仙教の3教を総合した、つまり各宗教を有機的に一つに合わせた最後の真理であり、したがって、それは決して天主教のような異端の宗教ではないと主張した。天道教の理論家たちはその後、先輩たちの主張した単純な3教総合説を一歩前進させ、民族宗教としての東学の固有な特性と独創性を誇示した。天道教のある革新派理論家は、天道教教理の独創性を主張し、既成宗教の諸教理、例えば、仏教の寂滅説、仙教の玄妙説、キリスト教の天国説、儒教の天命説やその他さまざまの迷信と偶像的仮面をすべて否定し、人間すなわち仏であり仙であり神であり天である、したがって、人間以外にはなにもないという「神人一体」「人乃天」を説いた。「神人一体」「人乃天」、すなわち、人間は「ハンウルニム」であるというのが東学の基本思想である。

 天道教では、「ハンウル」すなわち宇宙全体が「至気」というある特殊な気運によって成り立っているとしている。これは、物質でも精神でもないが、物質的なものであると同時に精神的なもので、自然も人間も神もすべて「至気」によってつくられたとするのである。「至気」は、世界の始原であり、万物の根元であるとする東学の「至気説」は、あらゆる物体に霊魂があるとする霊魂説の一種で、汎心論に属するとみるべきである。この「至気説」にもとづいて天道教では、人間は生きても死んでも「ハンウル」のように霊魂をもっているとみる。すなわち、人間は、世界万物のうちもっともすぐれた霊魂をもつ特殊体だというのである。

 霊魂説を認めるならば、人間は自分の意識と意思によって自主的、創造的に生きるのではなく、霊魂に支配され、ある宿命的な生の軌道に乗って生きるほかないという結論にいたるであろう。霊魂説は、不可避的に宿命論に陥る。宿命論からは、人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するという説が引き出せず、自己の運命の主人は自分自身であり、自己の運命を切り開く力も自分自身にあるという真理も引き出せない。

 東学による未来社会の展望も、社会の発展法則に合う科学的な目標にはなっていない。彼らは非暴力的な闘争によって世の中に徳を広めていけば、すべての人間が神仙のようになるときが来るであろうし、そうなれば、ついに地上天国が実現すると言うのである。人間の神仙化は、各人がふだん呪文を唱え反省と自覚を重ね、良心化をはかることによって達せられるとみた。一言でいって、「人乃天」の思想は、唯物論ではなく唯心論にもとづいた思想である。天道教は、その階級的制約と理論的・実践的未熟さのゆえに、反日民族解放闘争において主導的役割を果たすことができなかった。これが、東学万能を我々が支持しなかった主な論拠である。

 我々は天道教をこうした観点でみたが、肯定的な側面をより重視し、天道教には理念的にも実践的にも統一戦線の大路で我々と提携しうる可能性があると認めた。

 天道教は、地上天国の建設を最高の理想としている。既成宗教は現世を苦悩にみちた救いがたいものとしているが、天道教は現世をつくりかえて天国を建設しうるとみている。この原理にもとづいて天道教は、「後天開闢」を教の重要な使命の一つとみなし、「精神開闢」「民族開闢」「社会開闢」と称する3大開闢の実践運動を進めた。

 天道教は、純粋な信仰から来世の幸福、死後の天国を説くキリスト教や、倫理的修養や知識の摂取を教化の基本とし、現世的実践道徳を重視して政教一致を主張する儒教とも差異があるばかりでなく、人間は誰でも仏になれるとして慈悲を基本宗旨とみる仏教とも区別される、と東学の理論家たちは主張している。彼らはまた、静的な仏教に比べてキリスト教は動的であるが、天道教はキリスト教よりもはるかに動的な宗教であり、仏教は理性的傾向が強く、キリスト教は感性的傾向が強いが、天道教はこの2つの側面を兼ねそなえている、としている。

 我々は、天道教の教理が天の盲目的崇拝に反対し、人間そのものを信じなければならないとしている点と、他の宗教のように天や神の超自然性と超人間性を云々して封建社会制度や封建的身分制度を天が定めた秩序であると説教しない事実からして、天道教が人間の尊重と平等を主張する進歩的宗教としての肯定的な側面をもっていると認めた。

 もちろんわたしは、朝鮮革命の主体的な路線を立てるにあたって、それまでの諸理論や運動に関心を払い、民族宗教としての天道教の位置と役割についてもある程度肯定した。しかし我々は、あくまでも、わが国の歴史発展の特殊性と朝鮮革命の環境、従前の運動にたいする歴史的分析にもとづき、そして、我々の民族的伝統と階級的力関係を十分に検討した科学的基礎に立ってチュチェ学説をうち立て、朝鮮革命の進路を探求し、それに適した戦略戦術を立てたのである。新しい世代の共産主義者は決して、天の助けや天命によって革命をおこなおうと考えたことはなかったし、人民自身の力を信じ、それに依拠してたたかうべきであるという理論的な柱と信念をもって闘争の道に入ったのである。

 天道教をいかにみるべきかという問題についてさらに多くの論議をしたのは、祖国光復会創立以後の時期であった。とくに、朴寅鎮道正の密営訪問と前後して、部隊の指揮官のあいだには東学への関心が高まった。我々は、朴寅鎮の密営訪問後、天道教徒との統一戦線方針をいっそう確信をもっておし進めた。

 かえりみれば、天道教は、宗教的理念からして外部勢力を排撃し、国の独立と国民主権の確立によって民生の安全を期する「輔国安民」を達成し、ひいては世界的な「布徳天下」「広済蒼生」によって平和な世界、地上天国を建設すべく実践闘争に乗り出したのであった。東学は、その主義主張における愛国愛民性と強い抵抗精神によって、広範な庶民と没落した両班の支持を得た。いっさいの貴賎の差別撤廃を叫ぶ東学思想の伝播拡散は、貴賎の差別を絶対化した封建的儒教思想の支配的地位を大いに脅かし、封建的特権層にたいする重大な挑戦となった。それで、東学の教祖崔済愚は、1864年3月、左道乱政(道に背き政治を乱す)のかどで大邱で処刑され、また、李朝封建政府のきびしい弾圧と追跡をかわして秘密裏に東学の普及と組織の拡大に全力をつくし、甲午農民戦争指導者の一人として活躍した2世教主の崔時亨もソウルで刑死した。東学を創始者の本意にそって天道教と命名し、3.1運動の発起人の一人となった3世教主の孫秉熙も日本帝国主義官憲の過酷な弾圧と迫害を受けた。歴代教主の生涯が示しているように、天道教は、その発端はもとより、発展過程においてもあくまでも愛国的で愛民的であった。

 天道教界で東学第一革命と呼ばれる甲午農民戦争は、19世紀後半期の朝鮮人民の反侵略・反封建闘争においてもっとも規模の大きい激烈な農民戦争であった。甲午農民戦争は、天道教上層の計画や指令によって勃発したのではなく、あくまでも腐敗した無能な封建特権層の専横と野蛮な収奪に憤激した農民の暴動であり、反政府農民戦争であった。この戦争は、「除暴救民」「斥洋斥倭」「輔国安民」の旗のもとに、東学上層部とはかかわりなく、全琫準をはじめ、農民暴動指導者たちによって開始された。暴動指導者たちは、自分の属する東学組織を利用して、各地の東学布組織と連係をとり、古阜農民暴動(古阜民乱)を全面的な農民戦争に発展させた。

 甲午農民戦争は、19世紀アジア反帝民族解放闘争の暁鐘を打ち鳴らした歴史的事変であり、中国の太平天国農民戦争、インドのセポイの反乱とともにアジアの3大抗戦として特記されるべきものであった。甲午農民戦争は日清両軍の介入で失敗したが、各地に離散した農民軍はその後、反日義兵運動の主力となって救国抗戦をつづけた。

 甲午農民戦争は、わが国の歴史発展に大きな痕跡を残したばかりでなく、東洋と世界の政治情勢の発展に大きな影響を与えた。東学革命の意義をグローバルな視点で考察したわが国のある歴史家は、20世紀に世界を大動乱に陥れたすべての世界史的事変の発端が、朝鮮での東学革命に起因していると評した。そして、こうつづけた。朝鮮東学党の革命がなかったなら日清両軍間の戦争は起こらなかったであろうし、日清戦争で清国が勝っていたならロシアは満州侵入の機会が得られなかったであろうし、ロシアの満州侵入がなかったなら日露戦争は起こらなかったであろうし、日露戦争でロシアが敗北しなかったなら、オーストリア・ハンガリー帝国はバルカン半島に翼を伸ばせなかったであろう。そして、オーストリア・ハンガリー帝国によるボスニア・ヘルツェゴビナの併合がなかったなら、オーストリアとセルビア間の戦争は起こらなかったであろうし、オーストリアとセルビア間の戦争がなかったなら第一次世界大戦は起こらなかったであろう。また、世界大戦の機会がなかったなら、ロシアのロマノフ王朝の転覆は夢にも考えられなかったであろうし、赤色ロシアの出現もありえなかったであろう。あ! 東学党よ! 汝は世界大戦の間接的な導火線であり、労農ロシアの産みの親である。東学思想を賛美する人びとは、東方近代化の第一歩をこのように東学に求めるべきだ。

 3.1運動のさいにも天道教勢力は大きな役割を果たした。3.1人民蜂起の主力軍はもちろん広範な労農大衆と青年学生、知識人階層であった。しかし、この蜂起を発起した民族代表のなかにキリスト教徒、仏教徒とともに天道教徒がいたし、しかも、それを発議したのは天道教徒側であり、全国300万天道教徒の過半数がデモに参加したことは、この反日闘争で果たした天道教の役割がどのようなものであったかをよく示している。

 このような天道教の透徹した抵抗精神が、我々をして彼らとの統一戦線を重視させた主な要因の一つである。天道教は、朝鮮の土着宗教であって、その理念と主張が斬新で抵抗精神が強く、また、教の礼式が単純で運営方法がきわめて素朴で平民的であった。

 共和国内閣の初代逓信相だった金廷柱は、東学が素朴な民族宗教であったことをいつも誇りにしていた。我々が抗日遊撃隊を組織したころ入信し、かつて、天道教青年党中央執行委員まで勤めた彼は、その教理について広く深い知識を所有していた。彼は恰幅のいい天道教徒で、わたしに会うとよくジョークを飛ばした。

 「首相、終日の執務で頭も痛いでしょう。わたしの話でも聞いて疲れをほぐしてください」

 彼はわたしの執務室にあらわれて、こんなことを言っては、よく閑談をした。ある祝日にもやってきて、ひとしきり天道教の自慢をした。

 「わたしらの天道教には、味わいのあるみそ汁の匂いがしませんか」

 なにをさしてみそ汁の匂いと言うのかと尋ねると、「清水奉奠」一つを見てもよくわかる、「清水奉奠」をするときの座り方を一律に定めず、あぐらをかいてもよく、両膝を立ててもよく、両膝を斜めに折って座ってもよいというような自由は、他の宗教では想像もできないことだろう、と言った。

 わたしは金達鉉とも宗教についてしばしば論じた。彼は、日本帝国主義植民地支配時代に天道教組織で活動したころの体験談をよく話した。会って話し合う機会が多くなるにつれ、わたしと彼のあいだには首相と天道教青友党党首という実務的な枠を越えた人間的つながりができた。彼は私生活で困っている問題についても、ざっくばらんにうち明けた。

 ある日、夜中の12時すぎに、彼は北朝鮮臨時人民委員会庁舎のわたしに面会を求めてきた。わたしが北朝鮮臨時人民委員会委員長を勤めていたときだったから、1946年のことだったと思う。深夜、予告もなしに訪ねてきたので、わたしは少なからず驚いた。なにか、わたしに急いで知らせなければならない変事でもあったのでは、という不吉な予感さえした。ところが金達鉉は意外にも、公用とはまったく関係のない突飛な依頼をして、いっそうわたしを面食らわせた。

 「年がいのない、じじいだととがめないでください。ちょっとわきまえのないお願いかも知れませんが、野生の朝鮮人参か鹿茸のような補薬を手に入れてくださるわけにはいかないでしょうか」

 執務室に入ってきてからもすぐには用件を言い出せずもじもじしていた彼は、思いきったようにこう切りだした。そして、なにか失策でもしでかした人のように、わたしの視線を避けて目を伏せた。この老委員長がどうしたのだろうとよく見ると、耳たぶが赤らんでいた。

 「いつも健康がご自慢の先生が、きょうはどうして急に補薬が入り用だとおっしゃるのですか」

 わたしは、彼に椅子をすすめながら静かに尋ねた。

 「じつは、女房をおさえつけることができないのです。最近、若い女を後妻にしたのですが、すっかりうとまれてしまいまして…。将軍、ひとつ人助けをしてください」

 「わかりました。ご夫人が先生をみくびらないようお力添えしましょう」

 わたしの返事を聞くと、金達鉉は喜色満面で執務室を出ていった。わたしは、野生の朝鮮人参と鹿茸を求めて彼に贈った。それから1年後、金達鉉は再びわたしを訪ねてきた。

 「将軍のおかげで、70のこの年で男の子をもうけました。家内が大喜びしましてね。赤ん坊の100日祝いに将軍をご招待します」

 「それは、たいへんおめでたいことです。よい時世なので、そんなおめでたいこともあるのですね。喜んでおうかがいします。ご夫人にわたしのお祝いの挨拶を伝えてください」

 金達鉉は前回と同じように、にこにこしながら執務室を出た。わたしは約束どおり、100日祝いの日に金達鉉の家を訪ねた。夫人は盛りだくさんのごちそうを出し、将軍のおかげでわが家に花が咲きました、と言って頭を下げた。彼女はその夜ずっと笑顔で客を接待した。

 戦時中(朝鮮戦争)のある日、わたしは慈江道の別午で金達鉉に会った。我々は、冷麺を食べながら天道教の話をした。金達鉉はその日、誠米は、天道教に固有なりっぱな掟で、教団運営の重要な財源だと言った。事実、崔麟など何人かを除いた大多数の歴代天道教指導者は、いずれも私利や功名を退け質素に暮らした。彼らは、財源の不足で苦労がたえなかった。給料をもらえずに教団を運営するというのはなまやさしいことではない。天道教では、教団を運営する聖職者に給料を払わないそうである。聞くところによると、南朝鮮の天道教徒たちは、いっとき開闢社印刷工場の跡に劇場を建て、その収入で教団の財政をまかなったという。中央大教堂に設けた2つの結婚式場も財政を補充する重要な手段になったが、そこでは時間単位で使用料を取ったという。少々みみっちい話だが、財政のためにやむをえなかったという。

 わたしが天道教徒との統一戦線を重視するようになったより重要な理由は、その上層は優柔不断で日和見主義的であったにもかかわらず、絶対多数の教徒は反日愛国的であり、階級的構成において貧賤者、貧農が基本をなしていたからである。元来、天道教は農民を基本とする農民運動から発したものであり、その理念も農民的であった。資本主義的発達が微々たる段階にとどまり、近代的労働者階級の部隊がまったく存在しなかった当時のわが国の実情で、東学運動が農民を土台にして展開されたのは当然であり不可避的であった。しかし、東学運動はたんなる農民のための運動ではなかった。それは、都市の貧民や小商人を含むすべての貧賤者の志向と利害関係を代弁した幅の広い大衆運動であり、外国侵略者を徹底的に排斥し、国の近代化を強く志向した全民族的な反侵略愛国運動であった。

 3.1運動の失敗後、天道教の上層部は闘志を失って民族性を守るためのわずかな布教活動と理論活動にとどまり、その一部上層、例えば、崔麟などは3年間の獄中生活を終えて出獄すると、親日派に転落した。しかし、上層の変節にもかかわらず、下層は日本帝国主義占領下のきびしい状況のもとでも、天道教の愛国的伝統を継承するために全力をつくした。これが、わたしが天道教との統一戦線を重視し、その実現が可能であると確信した根拠であった。

 天道教運動を国の他の革命勢力と結びつけ、国際革命との提携を模索して東奔西走していた革新的な運動指導者たちは、天道教を「貧賤民衆の忠僕」「異規模同質性の共産党」と称してコミンテルンとの連携をはかった。1925年10月末、朝鮮農民社理事会の名で李敦化が赤色農民インターナショナルに加入を申請したのは、その一例であるといえよう。朝鮮農民社は1925年10月、ソウルで創立された天道教青年党傘下の農民組織である。第1次世界大戦の終結とロシアにおける労農政権の樹立、そして、3.1人民蜂起後の内外の情勢の進展のなかで、1919年9月、天道教教理の研究、宣伝と朝鮮新文化の向上発展をめざして青年天道教徒の李敦化、鄭道俊、朴来弘らは、天道教青年教理講演部を創立し、わが国最初の運動的色彩をおびた青年団体を発足させた。この団体は、間もなく天道教青年会と改称した。青年会は、傘下に言論機関として開闢社を創立し、1925年から政治時事雑誌『開闢』を発刊した。また少年部を組織して朝鮮の子どもたちの情操をはぐくみ、倫理的待遇と社会的地位を人乃天主義にふさわしく向上させる活動を活発にくりひろげた。

 天道教青年会は1923年、天道教青年党に発展し、「後天開闢」による地上天国の建設を直接の目的とする天道教の前衛的組織となった。この党は、中央に本部を、府と郡に地方部を、面と洞に接(東学の教区または集会所)という末端組織を設けるなど、整然とした組織体系をととのえた。そして、党勢拡大3か年計画を立てて積極的な布教をおこない、短期間に多数の貧しい青年を入党させて隊伍を拡大した。天道教青年党はとくに、東学党の乱の被害を受けなかった礼成江以北地域でもっとも影響力のある教派勢力となった。1935年度に刊行された天道教青年党史によれば、当時、党地方部は国の内外を含めて100余か所にあった。そのうち北部朝鮮地域が70%と圧倒的多数を占め、平安道は40か所でもっとも多かった。事実、いまの慈江道と平壌市、南浦市をも含む以前の平安道地域には、当時ほとんどすべての郡に天道教青年党地方部があった。天道教勢力の圧倒的多数が北部朝鮮地方に分布していた当時の実情は、わたしが天道教との統一戦線を重視したいま一つの無視できない要因であったといえる。

 天道教革新勢力も3.1運動以後、世界の大勢に乗じて教派勢力を拡大し、反日愛国闘争をいっそう積極的にくりひろげるために奮闘した。天道教3世教主の孫秉熙が死去したあとの1922年7月、天道教の少壮派革新勢力は高麗革命委員会を組織して天道教勢力の収拾、再編に努め、沿海州と満州を中心にした海外と国内での活動を積極化した。高麗革命委員会はその後、秘密地下革命組織の天道教非常革命最高委員会に再組織された。この委員会の活動でとくに注目に価するのは、ソビエト・ロシア政府とコミンテルンに天道教革命活動にたいする政治的支持と比較的大規模な軍事援助を要請し、その実現をはかって積極的に活動したことである。彼らはシベリアのチタ付近にある3つの金鉱区を利用し、労務者を採用する形で2年内に1000名程度の軍隊を養成し、ゆくゆくは15個混成旅団の高麗国民革命軍を創設することを計画したという。天道教の秘密組織は、この計画を実現するため、労農ソビエト政府に積極的な支援を訴えた。天道教革新勢力が1924年初、極東のウラジオストックでソビエト・ロシアとコミンテルンのメンバーを相手におこなった外交活動の一端を示す古い文献が、現在我々の所に保管されている。

 当時、崔東曦は、片山潜への手紙で、コミンテルンが朝鮮革命、朝鮮における事態の進展をどのようにみているかを問い、朝鮮革命を公正かつ積極的に支援してくれるよう要請した。天道教は朝鮮で革命が起これば、東は日本の社会革命勢力、北はソビエト・ロシアおよびコミンテルンと緊密な連係を結び、朝鮮、日本、ロシアの三角的連鎖活動をおこなう計画であったという。このように、天道教革新勢力は、守旧派の妨害と憎悪を受けながらも、国際革命勢力と提携して武力抗争をくりひろげようと各方面から努力した。

 天道教革新勢力は、東学運動からはじまった愛国愛民の熱情と積もり積もった怒りを反日闘争にふり向けようと苦慮したが、これといった結実をもたらすことができなかった。そのうえ、3.1運動の失敗後、天道教内部では急進派と穏健派のするどい対立と分裂が生じ、また、日本帝国主義はそれを巧みに利用しようとした。そうした実情のもとで、急進派は分裂を防ぐという名分で妥協し、それがもとで天道教革新勢力は骨抜きにされ、反日運動は一種の改良主義運動に漸次退化したようである。上層が、民族改良主義に転落し、公然と親日化する状況のもとで、天道教はしだいに革命性を失い、時運に見放されるようになった。しかし、天道教の地方組織とそれに属していた絶対多数の教徒と青年党員は、さまざまな合法・非合法組織を結成し、日本帝国主義の植民地支配に抗する各種の闘争をおこなった。しかし惜しむらくは、彼らには、明確な闘争方略がなく闘争を統一的に導く指導力量もなかった。

 こうした時期に、我々は、白頭山に進出し、「祖国光復会10大綱領」を発表したのであった。数百万の天道教徒は、この10大綱領を熱烈に支持した。彼らは、待望してやまなかった夜明けの鶏鳴が白頭山から響いてきたと確信し、祖国光復会の旗のもとに結集した。このように天道教が我々との統一戦線に応じ、祖国光復会の下部組織に広く参加したのは、天道教にたいする公明正大な評価と幅広い理解にもとづいた、我々自身の主動的かつ積極的な努力の結果であるとともに、愛国愛族、反外勢を理念とする天道教組織そのものの発展の歴史的必然であり、合法則的な帰結であった。理念と宗旨、主義主張には、もちろん一定の違いがあり、運動の出発においても相違点がなくはなかったが、我々は、同じ民族、同じ血筋だという大義に立って、かたく手を取り合ったのである。わたしはそのとき、民族を離れた共産主義運動はありえず、階級的利益とともにつねに民族的利益を重視すべきであるということを痛感した。

 こうした共通性からして、我々は、かつて反共の最前線に立っていた崔徳新とも容易に和解することができた。わたしと崔徳新は齢70が過ぎて対面したが、昔日の宿敵という観念は微塵もなく、崔東旿先生のもとで愛国の精神をはぐくんだときの心境で感激的な邂逅を果たし、共産主義と天道教という理念の違いを超越して、同じ民族、同じ血肉として和気あいあいと語り合ったのである。

 最近、わたしは「祖国光復会10大綱領」の現代版ともいえる「祖国統一のための全民族大団結10大綱領」を発表した。我々が白頭山地区に進出して朴寅鎮との提携を果たした1930年代には、祖国の解放が民族至上の大課題であったが、20世紀が暮れゆく現在は、分断祖国を統一祖国に変えることが最上の宗旨、理想になっている。外部勢力を撲滅し民族の自主権を取りもどそうとする我々の闘争が、早くから「輔国安民」「斥洋斥倭」のスローガンをかかげた東学徒――天道教徒の熱烈な支持を受けているのはあまりにも当然なことである。

 分断によって、朝鮮民族はすでに半世紀近くもさまざまな受難を強いられている。それが、民族自身がまねいた自律的な悲劇ではなく、外部勢力の強要による他律的な受難であってみれば、どうして我々が外部勢力に反対し、民族の統一と民族自強、民族大団結を叫ばずにいられようか。それでいま、朝鮮の北と南、海外の愛国的な天道教徒、キリスト教徒、仏教徒はこぞって外部勢力による分断の悲劇に終止符を打ち、統一祖国の新しい日を早めるために力をつくしているのである。

 早くから我々が、20余星霜を満州の広野と白頭の台地で武器を手に抗日をしたのも、結局は一身の安逸や栄達、一階級や階層の利益のためではなく、全民族を日本帝国主義の植民地支配から解放するためであった。

 民族の上に神はなく、民族の上にいかなる階級や党派の利益もなく、民族のためには越えられない深淵も障壁もないというのが、今日、北と南、海外のすべての朝鮮人の共通の宗旨であり、日とともによりいっそう痛感させられる現実である。

 わたしはいまも、我々共産主義者が民族のために一生をささげてたたかったその目的と理想が実現し、7000万同胞が統一された祖国の地で年々歳々幸せに暮らせるようになれば、それが東学の烈士たちの望んだ世の中、地上天国ではなかろうかと思う。民族の精神が生き生きと脈打っている東学の理念、天道教の理念を持しているのは民族の誇りである。愛国と愛族、愛民にかたむけた天道教烈士の衷情は民族史に末永く生きつづけるであろう。



 


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