金日成主席『回顧録 世紀とともに』

4 朴寅鎮道正


 祖国光復会機関誌『3.1月刊』の創刊号には、「天道教上級領袖の某氏、わが光復会の代表を親しく訪問」という見出しの短い記事が載った。この記事は、内外に有力な大衆的地盤をもつ天道教委員の某氏が、ほとばしる愛国的熱情をいだいてみずから祖国光復会代表のわたしを訪ねてきたことと、彼が祖国光復会の綱領と主張にすべて賛同し、同時に天道教青年党の100万の党員を朝鮮独立戦線に立たせる意向を表明し、以後、祖国光復会とより緊密な連係を保つことを確約したというニュースを伝えている。

 この記事の主人公某氏とは、朴寅鎮道正(教区の管理責任者)である。秘密保持のため某氏とせざるをえなかった数行の記事の裏には、1冊の本にしても書ききれないほどの深いいわれが秘められていた。彼がわたしに会うため白頭山密営に訪ねてくるまでの内幕を知るには、同号に載った血潮たぎる青年愛国勇士が人民革命軍に続々入隊したという記事と結びつけてみる必要がある。その記事には、こういうくだりがある。

 「祖国西北部各地の血潮たぎる青年愛国勇士は、毎日7、8名ずつ群をなして鴨緑江、豆満江を渡り… 金師長部隊に入隊している。 …彼らは、朝鮮国内の地勢や道路、各地の状況にくわしいので、武装隊の前衛として国内出入りの先頭に立つことを志願した」

 我々が国境地帯に進出して2度目か3度目かに新昌洞村へ行ったときのことである。その村の青年数名が、わたしの所に訪ねて来て入隊を志願した。国境地帯の入隊志願者なので、身体に異常がなければ全員入隊させるよう指示した。ところが李東学は、他の青年は全員合格させてもよさそうだが、豊山出身の「天道屋」だけは一考を要するのではないか、統一戦線にもほどがある、天道教を奉じる宗教信者をみだりに革命軍に入隊させてよいものだろうか、とかぶりを振った。わたしは、村人から「天道屋」と呼ばれている当の青年を司令部に連れて来るよう李東学に命じた。身なりは見すぼらしかったが、渋皮がむけたさっぱりした青年が李東学に従って、なんの気おくれもなく、わたしの前にあらわれた。二重まぶたの目と笑うたびにちらつく金歯が印象的だった。

 彼は、豊山郡天南面瑟里で嶺北地方の天道教道正の朴寅鎮と同じ村で暮らし、その教育と影響を受けて天道教青年党の党員になった李昌善であった。朴寅鎮の愛弟子という理由で、彼にはつねに警官の監視と尾行がついた。師の朴道正は、豊山で3.1運動を主導したというかどで幾年もの獄中生活をした要注意人物であった。日本人警官は、道正の家の軒下に巡察箱をとりつけ、巡察を口実に週に1回定期的に訪ねて来て彼の動向を探り、月に一度は首席巡査がじかにやってきた。その歓迎できない定期的な巡察と不断の監視は、李昌善にまで及んだ。道正の家に来る警官は、彼の家を素通りすることがなかった。それで李昌善は、師の同意を受け、日本人警官の監視とそのわずらわしさからまぬがれようと長白地方に移住したというのである。わたしが李昌善の入隊をすぐに承認すると、李東学は公正を欠いた判決でもくだされたように小鼻をふくらませた。

 「司令官同志、宗教信者がパルチザンになったところで、ろくに戦えるはずがないではありませんか。勤労青年もざらにいるというのに、よりによってあんな天道屋を入隊させて隊伍の構成を汚す必要はないではありませんか」

 わたしは、冗談まじりに李東学をたしなめた。

 「きみの目はきくようできかないね。李悌淳が人物だということはその場で見抜いたのに、彼が宝物であることは見抜けないんだね。すが目でもないのに、とんでもない見方をするもんだ」

 「マルクスも言ったじゃありませんか。宗教はアヘンだと。あんな天道屋が宝物だなんて、頭痛の種にならなければ幸いですがね」

 宗教家にたいする彼の偏見は確かに度を越していた。それで、わたしは真剣に彼を説得しなければならなかった。

 ――宗教をアヘンだと言ったマルクスの命題を極端に、一面的に解釈してはならない。それは、宗教的な幻想に惑わされてはならないという意味で言った言葉であって、宗教家一般を排斥せよという意味ではない。愛国的な宗教家であれば、それが誰であろうとすべて包容し、手を握るべきである。遊撃隊は、抗日救国を第一の使命としている愛国的武力であり、労働者、農民だけでなく全朝鮮民族のために戦う人民の軍隊であることを知るべきである。もちろん、遊撃隊で中核的な役割を果たすのは、我々共産主義者である。しかし、共産主義者が中核的役割を果たす武力だから、他の階層や勢力を排除しようというのではない。たとえ、宗教家であっても、本人が望むならためらいなく武装隊伍に入隊させるべきだ。きみは、我々がいまどんな拾い物をしたのかまだわかっていないのだ。あの青年のルートで、甲山、豊山、三水地方の天道教徒のあいだに祖国光復会の種をまくことができ、ひいては嶺北の大地を我々の天下に変えることができる。いまにあの青年の価値がわかるようになるから、彼に親切に接し、大事に保護してやりたまえ――

 李東学が、わたしの言葉をどんな気持ちで受けとめたかはよくわからない。

 新昌洞の村人がつけた「天道屋」というあだなは、李昌善の入隊後にもついてまわった。そのあだなには、同志的愛情でなく、非友好的な嘲弄と軽蔑の響きがあった。李昌善は、そのあだなを聞くたびに顔をしかめ、反感の色をあらわに示した。密営で新入隊員を歓迎する娯楽会が催されたときのことである。旧隊員と新隊員が交互に出演し、たいへん面白かった。その日、旧隊員は、新隊員のために得意の芸をすっかり披露した。新隊員もそれに負けじとつぎつぎに進み出た。ところが、せっかくの娯楽会が、司会者の失言でご破算になってしまった。李昌善の番になると、司会者が「つぎは、新昌洞から入隊した『天道屋』さんの歌を聞かせてもらいましょう」というたいへんな失言をしてしまったのである。機嫌をそこねた李昌善は、歌もうたわず即座に退場してしまった。

 これをめぐって部隊内は喧々囂々となった。非難のほこ先は、娯楽会の司会者に向けられた。旧隊員でもない新隊員に「天道屋」とはなんたる言い草だ、人を馬鹿にするにもほどがあるというのである。一方では、李昌善を尻の穴が小さい人間だと悪く言う者もいた。あだなで呼ばれたからといって、歌もうたわずに退場してしまったら娯楽会はどうなるのか、革命軍の隊員になろうと家を出た大の男が、それくらいのことを根にもつなんて男といえるか、闘士になんかなれはしない、了見が狭い、と非難した。娯楽会の司会者と李昌善をめぐっての相反する論議は、結局、一般的には宗教家、具体的には天道教徒にどう対応すべきかという問題に転じた。わたしは部隊のすべての指揮官と隊員たちに、天道教にたいする見解と立場を明白に解説してやらなければならなかった。

 ――天道教は、わが国固有の民族宗教である。崔済愚が、天道教を東学と命名して「西学」(天主教)との違いを明確にしたことからしても、この宗教の民族的性格がよくわかる。天道教は、その基本的思想と理念において愛国的で、進歩的な宗教である。それは、天道教がかかげた「輔国安民」と「広済蒼生」のスローガンを見ても十分にうかがうことができる。天道教徒は数十年間そのスローガンをかかげ、国の独立をなし遂げて万民が幸せに暮らせる理想的な社会を建設しようとたたかってきた。そういう民族宗教を宗教だという理由だけでむやみに排斥し、その教徒を「天道屋」という言葉で侮辱してよいものだろうか――

 天道教理念の愛国愛民精神と天道教徒の愛国闘争について解説し、天道教徒に接するうえで必ず守るべき原則的立場と統一戦線政策について再び明白に認識させて以来、李昌善にたいする「天道屋」というあだなはなくなり、そのかわりに「金歯」という新しいあだなが生まれた。そのあだなが、遊撃隊伍内で名前のように固着してしまうと、本人もそれに合わせて自分の姓を「金」に、名は「甲夫」に変えてみずから「金甲夫」と称した。後日、彼は政治工作に出るときにもその仮名で活動した。

 李昌善は農村生まれであったが、非常に有識かつ聡明で、文化的素養も高いほうであった。とくに歌舞や漫談などが得意で、娯楽会のときは独り舞台を演じるくらいだった。また、人あたりがよくて、初めて会った人ともすぐ親しくなった。彼は、率直すぎるといえるほどの人間であった。一面、彼にはちょっと英雄気取りのところがあった。彼が入隊して1、2か月しかたっていないときのことである。部隊政治部の組織課長を勤めていた金平がわたしの所に来て、「金歯」が、自分を中隊政治指導員以上の地位に昇進させるときが来たのではないかと言っている、と話すのだった。当時「金歯」が所属していた中隊の政治指導員の政治理論・実務水準は、それほど高いとはいえなかった。早くから天道教青年党の幹部にまでなったことのある有識な「金歯」にしてみれば自分より劣って見える上級の指導を受けるのがどうも気にそまなかったようである。わたしは李昌善を呼び、彼がまだよく知らない中隊政治指導員の長所と功績について話し、必要な助言も与えた。

 ――きみは今後、中隊政治指導員にとどまらず、もっと重要な位置につくこともできる。しかし、100里の道も1歩からはじまり、大学生も小学校をへなければならないように、有能な軍事・政治幹部も見習いと訓練の段階をへなければならない。きみは、いままで朝鮮人民革命軍の隊員としての見習いの段階をへた。これからは、有能な政治工作員になるための段階をへなければならない。わたしは、きみを入隊させるときから、今後、天道教徒にたいする政治工作をまかせようと思っていた。きみは、1個中隊程度ではなく、数百名、数千名、さらには数万名の天道教徒を祖国光復会の組織に結集し、指導する政治工作員になるべきであり、やがては、さらに大きな政治幹部になるべきだ。司令部の組織課長金平と宣伝課長の権永璧を個別担当講師につけるから、政治理論を学び、大衆工作方法と地下活動の経験も体得したまえ。もっとも重要なのは、人民的品性を学ぶことだ。謙虚はもっともりっぱな美徳であることを肝に銘じ、革命先輩だけでなく同輩や後輩もすべて師とみなし、一生学びつづける学生の立場に立てば、すべての人に尊敬され慕われるようになるだろう――

 その後、わたしは、彼を戦闘中隊からはずして司令部の政治部に移した。それ以来、「金歯」は、隊内にあっては第7連隊の宣伝幹事として、隊外では天道教方面担当の政治工作員として活動した。後には、宣伝幹事の仕事を他の人にまかせ、専門の政治工作員になった。李昌善は、朴寅鎮をはじめ北部朝鮮地区の多くの天道教徒を祖国光復会の組織網に吸収するうえで大きな功労を立てた。我々は、彼を通じて朴寅鎮と天道教の内部状況を事前に知り、また天道教徒との接触もした。

 朴寅鎮は、天道教団で相当な地位の人物であった。文庵という道号をもつ朴寅鎮は、1909年に入道した後、天道教の各級の教職を歴任し、1932年に智源布の道正となった。当時、天道教は全国的に29の布(ポ=天道教の教区)があったが、主に豊山、三水、甲山、長白などを包括した智源布は、全国の天道教布のなかでももっとも大きな布組織の一つであったという。朴寅鎮は、いちめい嶺北道正とも呼ばれた。

 朴寅鎮の父親は、全琫準麾下の南接軍で甲午農民戦争の勝利のために積極的に戦った東学党のメンバーの1人だった。農民戦争が失敗に終わった後、数十万を数える戦争参加者にたいする大虐殺がはじまるや、彼は故郷を後にして全羅道から遠く離れた嶺北の地に身を避けた。朴寅鎮は、父親が昔話のように聞かせてくれた天道教祖たちと父の抵抗の生涯にみずからの人生行路を見出した。3.1人民蜂起は、彼の意志と信念を点検する最大の試練であった。彼は、豊山で万歳デモを組織し、デモ隊の先頭に立ち1000余名の大衆を率いて官庁に突入したとき、敵弾を受けて重傷を負った。彼は3年間、咸興刑務所と西大門刑務所で獄中生活を送った。だが、そのきびしい獄中の苦しみも、彼の心に深く根ざした信仰心と抵抗精神を抹殺することはできなかった。出獄後、彼は独立軍と手を握って3、4年間各地方を歩きまわり、その援護活動に献身した。しかし、独立軍がこれといった力も発揮できず他国に追われる羽目になると、溜め息と涙のうちに彼らを見送り、日本人をそれほど見ずに暮らせる所を探し、豊山郡天南面の深い山奥に家族とともに移住して伝教室を設け夜学も開いた。そして、李昌善をはじめ村人に天道教の教理を宣伝し、愛国精神も植えつけた。だが、その山里も完全な避難所にはならなかった。週末と月末ごとに決まっておこなわれる招かれざる客の定期的な家庭訪問は、彼をして豊山を離れざるをえなくした。彼は、長白県城の新しい街へ移住した。

 李昌善は、人間朴寅鎮を知るうえで参考となる、ある興味深い逸話を聞かせてくれた。朴寅鎮が29歳の老チョンガーの身で隣村に見合いに行ったときのことである。見合いがすんだあと、仲人の老婆が彼の意向を聞いた。彼は異存はないと答えた。ところが、娘の父親はキセルをすぱすぱ吸うだけでなんの意思表示もしなかった。

 「お主は、年が24歳だというが、本当かね?」

 しばらくして、父親は喧嘩でもしかけるように無愛想に口をきいた。これまで嘘というものをついたことがない実直な朴寅鎮は、仲人が自分の年を5歳も減らして24歳と言っておいたとはつゆ知らず、29歳だと正直に答えた。仲人の老婆は、悲鳴をあげた。チョンガーの年が20を越しただけでも身障者か能なしと疑われた早婚の時代だったので、29歳と聞いて娘の父親が顔をしかめたのは当然だった。朴寅鎮は、あまりにも貧しかったため、婚期を逸して老チョンガーになっていたのである。娘の父親は、彼に爆弾宣言をくだした。30に近い老チョンガーには娘をやる気がないと言うのだった。彼は目がくらむ思いだったが、勇気を出し熱気おびた口調で、わたしに鼻がないのか目がないのか、いったいご主人がなぜわたしを断るのか聞かせてもらおう、と食い下がった。相手側は困惑した様子で、なにも特別な理由があるわけではない、年の多すぎるのが傷だ、うちの娘より11歳も上なのにそれを無視して婚約を許すとなれば、かわいい娘を育てて年のいったやもめに嫁がせたといういやなうわさが飛びそうなので許せないのだ、と言った。朴寅鎮は、そういう答えを聞いても退こうとしなかった。理由がそれだけなら、自分は是が非でもお宅の娘と結婚する、年はとったとはいえ、いまだに女性の手を一度も握ったこともない純粋なチョンガーなのに、どうして男やもめ呼ばわりされねばならないのか、婚約が許されるまでは絶対に引き下がらない、どうしても承知しないというなら娘を袋に入れて担いででも行くから、そのつもりではっきりした返事をしてもらおう、と強引に迫った。

 そのとき、娘の兄がにやりとしながら、本当に妹と結婚するつもりなら1000円の金を出せ、と意味ありげに耳うちした。1000円なら20頭以上の牛が買える大金である。子牛1頭もない朴寅鎮にとっては想像すらできない金額だった。だが、彼はすずしい顔で、娘さえくれれば金は出すと大見えを切った。老チョンガーの顔を人相見のように見つめていた娘の父親は、ついに婚約を許した。朴寅鎮は、老チョンガーの境遇をまぬがれ、その家の婿となった。もちろん、1000円の金は問題にもならなかった。金の話は、新郎となるべき者の性根のほどをうかがう一つの試しにすぎなかったのである。確かに、朴寅鎮道正は気骨があり、自尊心が強く、豪胆で闘魂たくましい人であることが読みとれた。「金歯」の話を通じて知った朴寅鎮の人間像には、なにかしら人びとの感動を呼び起こすなにかがあった。

 李昌善を天道教方面担当の政治工作員として派遣する準備がととのってから、わたしは、我々と天道教徒はともに国と民族を愛する朝鮮人であり、「斥倭」と「輔国安民」を最優先の目標としてたたかってきた貧賎民衆の友であるので、手を取り合って合流し、団結した力で日本帝国主義に立ち向かってたたかうべきであるということと、近い将来、双方の代表が一堂に会して真剣に協商したいという希望をとくに強調し、彼を朴寅鎮のもとへ送った。李昌善は3日後に密営にもどってきた。朴寅鎮は、合流して反日戦を展開しようというわたしの提案に賛同し、協商のために自分たちに代表を派遣するよう要請したというのである。

 わたしは、朴道正との協商にのぞむ準備を進めた。ところが、いくつかの避けがたい事情がわたしに密営を発たせなくした。折しも、南――植田の「図們会談」の直後だった。敵の「冬季大討伐」作戦の開始で、人民革命軍はきびしい難局に直面した。討伐攻撃と時を同じくして、多くの密偵がわたしを陥れようと血眼になっていた。戦友たちは、新たに創設された密営の運命を思っても、わたしの身辺安全のためにも、司令官が直接協商の場に出向くのはひかえるべきだとし、頑としてわたしの出発を制止した。密偵が司令部の付近まで潜入するという事件が発生した直後であったので、誰もが神経をとがらせていた。それで結局、わたしは朴寅鎮との協商に金平と李昌善を派遣せざるをえなかった。

 金平は、幼いころからやらないことがない海千山千のつわものであり、何事でも容易に処理できる練達の実務家であった。彼は漢文にも明るかった。子どものころ5、6年間も書堂で漢文の勉強をしたおかげであろう。長じては、正規の学校教育を受け、人民革命軍に入隊してからは遊撃隊の指揮官を養成する移動学校で軍・政教育も受けた。彼は、教員の経歴ももっていた。李昌善とともに彼に天道教徒との協商代表として白羽の矢が立ったのは、天道教についての彼の知識と政治工作の経験が物をいったのだといえる。

 朴寅鎮と我々の代表との対談は、長白県十七道溝王歌洞にある天道教長白宗理院院長李銓化の家の奥の間でおこなわれた。金平はまず、相手側にわたしの署名と捺印のある信任状を示した。そして、朴寅鎮に「祖国光復会10大綱領」と「祖国光復会創立宣言」を伝えてから、天道教勢力との提携問題について真摯な協議に入った。

 朴寅鎮は、日本帝国主義を駆逐したのち、我々がどのような政権をうち立てようとしているのかに大きな関心をいだいていた。彼は、旧韓国政権のような王政復古にも、ロシアに樹立されたソビエト式政権にも反対し、「亡命政府」と評されていた「大韓民国臨時政府」を合法化する形式の政権にも反対した。金平が「祖国光復会10大綱領」の第1条について、全朝鮮人民の総意によって民主主義的方法で選挙された人民の代表の代議制にもとづく人民政権の樹立をめざしていることを具体的に説明すると、朴寅鎮は、10大綱領に明記されているとおりに民衆政権をうち立てるなら絶対賛成だが、いざ国が解放され、政権を樹立するときになって約束を破り、ソ連式の共産政権を樹立するのではないかという憂慮と疑念を忌憚なく示した。当時、ソ連では反党分子と敵対分子にたいする粛清が進められていたが、それが隣国の民心に否定的な影響を及ぼしていたのである。金平は、解放後、抗日武装闘争をした共産主義者が政権を握るとしても、ソ連式の共産政権は樹立しないということ、「祖国光復会10大綱領」に明示されているように、独立した祖国に我々がうち立てる政権は、民主主義を最大限に具現した政権であり、民衆自身が主人となって政治をおこなう政権、つまり労働者、農民だけでなく各階層の広範な愛国勢力の利益を擁護し代弁する人民の政権になるであろうと力説した。そして、その主張の真実味を保証するため、我々が間島の遊撃区でソビエトを人民革命政府に改編したときの話もしたという。

 朴寅鎮は、祖国光復会の10大綱領と創立宣言にたいしては異議がない、その綱領と宣言がただの宣伝でなくてあなたがたの本心であり、確固不動の実践的な意志であるなら、我々天道教徒も反日民族統一戦線に参加する用意がある、しかし、参加を決定する重大事は自分一人で決めて処理できる簡単なことでないため、同徳(天道教徒同士の呼称)たちとも協議し、天道教中央の教領である崔麟とも協議してから返答すると言った。そう言いながらも彼は、崔麟に会う前に自分が直接密営を訪問し、わたしとの会見が実現されるようはからってはもらえないだろうかと、それとなく尋ねた。金平は、彼の願いをかなえるために最善をつくすと約束した。朴寅鎮は、我々と手を結ぶとか結ばないとかということについては軽はずみに口に出そうとしなかった。条件付きのおぼつかない返事をした。手を結ぶか否かは、わたしに会ってから決めようとしているのは明らかだった。ともあれ、会談はきわめて建設的なものであった。

 翌日、朴寅鎮は、長白宗理院傘下の男女教徒を50名余り呼び集め、朝鮮人民革命軍の代表を歓迎する大宴会を催した。豚をつぶし、餅をついたりして我々の代表を歓待した。天道教青年党の党員たちを歩哨に立たせて娯楽会まで催した。出し物の歌舞がすべて愛国心と闘争熱をあおるものであったので、金平は天道教徒の愛国精神にいまさらのように感服させられたという。その家の主である李銓化は、安重根が伊藤博文を射殺するためハルビンヘ向かうとき、彼と同行した禹徳淳がうたったという「まみえたり、まみえたり、仇敵にまみえたり…」という歌をなんと悲愴にうたったことか、一同は悲憤慷慨して涙をこぼしたという。

 朴寅鎮が密営を訪問したのは、1936年の初冬であった。彼が帯同してきた人のなかで、現在まで記憶に残っている人物は李銓化である。彼らは、みな黒のトゥルマギ(外衣)姿であった。そのトゥルマギにはみなコルム(結びひも)の代わりにボタンかけが付いており、それも1つでなく2つであった。天道教徒は、そのように際立ったボタンかけを付けたトゥルマギをまとうことによって、自分たちを他の人びとと区別する衣服様式をもっていた。朴寅鎮は、わたしに会うやいなや、密営に招かれたことにたいし心からの謝意を表した。

 「将軍にお会いしたいという願いが、こんなに容易にかなえられようとは思っていませんでした。抗日独立戦に、銃1挺、金子1文も力ぞえできず、恥ずかしいかぎりです」

 この一言によっても、朴寅鎮が非常に謙虚で礼節を貴ぶ良心的な人物であることがうかがわれた。わたしは、彼に我々の真情を吐露した。

 「我々は、金品よりも良心を貴ぶ人間です。なにがしかの金、何挺かの武器を援助してくれた、ということよりも、国をどれほど愛しているかを重視します。わたしは、道正がこれまで変わることなく愛国心をいだいていることを聞きました。その高潔な心が我々にとっては何百倍もの力になります。この騒がしい時世に、愛国の節操をかたく守りとおしている道正のような方がおられることは、我々にとってまことに大きな力となり、喜びとなります」

 朴寅鎮は、「それは過ぎたお言葉です。わたしは、そのようなお言葉をいただける人間ではありません」と言った。そして、日本人のデマに乗って、たとえ一時ではあっても解放聖業に邁進する人民革命軍を「匪賊団」と誤解したことを心からわびた。

 それでわたしはこう言った。――互いによく知らぬままであれば曲解が生じ、敵意をもつようにもなる。わたしはそれを気にとめない。大切なのは、これからのことだ。過去のことは白紙にし、志をともにして先のことだけを考えよう。我々の代表から聞いたとは思うが、我々は、国を愛し、民族を愛し、日本侵略者を憎む各階層の同胞をすべて結集し、民族あげての抗日大戦をくりひろげるために、この春に祖国光復会を結成した。その綱領に異議がなければ、良心的な天道教徒も抗日大戦に合流してもらいたい。団結してたたかえば勝利し、団結せずに四分五裂してしまえば祖国の解放もなし遂げられず、百戦百敗するということは歴史の教える苦い教訓である。もしも、甲午農民戦争の最盛期に湖西地方(忠清道地方)の北接軍を総指揮していた崔時亨が、湖南(全羅道地方)の南接軍を指揮していた全琫準の連合提案を適時に受け入れ、ソウルヘの進撃を妨害しなかったなら、歴史はいくらか変わっていたかも知れない。東学党の乱が失敗に終わった主な原因の一つは、各地、各層の愛国勢力が一致団結せず、散り散りになって勝手にたたかったところにある。したがって、反日聖戦を勝利に導き解放をなし遂げるためには、全民族が一致団結してたたかわなければならない。民族の団結は、反日に民族の総力を傾注できるもっとも賢明な方策であり、民族大勝への道である。天道教徒だけの力では、「斥倭」に成功し、「輔国安民」をはかることができない。朝鮮人民革命軍も単独では朝鮮の独立をなし遂げられない。他の反日愛国勢力もすべて結集してこそ、勝利が見通せる。それゆえ、互いに民族大団結のよりひもとなって、祖国光復会のまわりに団結しよう――

 朴寅鎮は、祖国光復会の創立宣言と綱領は非のうちどころのないりっぱなものであり、将軍の意見もいたって正当なものであるから、必ず天道教中央の崔麟を説得し、全国の300万教徒を一挙に祖国光復会に加入させるつもりだと断言した。民主主義中央集権制の原則が徹底している天道教団では、中央に絶対的な採決権が付与されているようであった。しかし、現実的には、そうなる可能性が非常にうすかった。天道教中央の上層部が腐敗堕落し、変質していたからである。

 わたしは、自分の見解を朴寅鎮に率直に述べた。――そうできるなら、それに越したことはない。しかし、崔麟にはあまり期待をかけないほうがよい。彼の最近の動向や文章を見ると、歴代の天道教教主とはおよそ異なった道を歩んでいるようだ。彼は、東学の理念も、民族も裏切って敵の権力の侍女に転落しつつある――

 すると朴寅鎮は、どうして崔麟のことまでそんなにくわしく知っているのか、じつは天道教徒のなかにも崔麟がおかしくなっていると、こころよからず思っている人が少なくないし、自分もやはり彼に疑念をいだいている、と心中を打ち明けた。

 崔麟は、3.1独立宣言の作成に加わった人物の一人である。彼は、3.1運動の勃発に少なからぬ寄与をした。そのために獄中生活もした。しかし出獄後、3世教主孫秉煕の推挙で天道教教領の地位についてからは、彼の人生行路に「方向転換」の兆候があらわれはじめた。彼は天道教の最高綱領である「後天開闢」によって「地上天国」をつくるためには、万邦を巡歴して東西の政局も見きわめ、現実的で合理的な改革案を模索すべきだと主張し、1年がかりの世界一周の旅から帰ってからは、現状では朝鮮が日本の植民地的従属から抜け出して独立するのは不可能なようである、日本の勢力は世界的範囲で日増しに拡大しつつある、したがって、天道教徒は日本と無益な衝突をするのでなく、「自治運動」でもするのが上策である、と説教した。日本帝国主義の弾圧から天道教を守るためには参政権を得るべきだ、というのが崔麟の主張であった。

 「崔麟が、このように総督の提灯持ちの役までしていても、それら、すべてが天道教と天道教同徳のためであると述べてきたので、絶対多数の教徒はそれが偽善であることに気づかなかったのです。わたしも、そう信じて相も変わらず彼を崇拝してきたのですが、昨年の夏、李銓化宗理院院長がソウルで彼に会って来て言うには、崔麟のものものしい家の構えを見ても、言動からしても、以前とはかなり変わっているというのです。しかし、自分の目で確かめないかぎり、彼に裏切者の烙印を押したくはありません。それで、ソウルヘ行く機会に彼と一度会って確かめてみるつもりです。近々ソウルで天道教中央大会が開かれるので、そのさいは、わたしもソウルヘ行きます。彼が腐敗したのが確かなら、我々も彼を切り捨てねばならないでしょう。我々も自分の腹でやるつもりです」

 朴寅鎮は、はばかることなく自分の立場を明らかにした。面談では、内外の情勢と民族主義運動の現状、抗日武装闘争の発展過程、解放後の祖国建設など、いろいろな問題が話題にのぼり、意見が交わされた。話は、昼夜の別なくつづけられた。休憩のときは、客に我々の部隊の生活ぶりも見せた。朴寅鎮は、人民革命軍の武装装備が思ったより近代的だ、隊員の姿がとてもりりしく、生気はつらつとしている、兵舎が整然としていて周辺の環境がきれいだ、日課がきちんと組まれている、軍人の誰もが規律正しく節度があって正規軍のような感じがする、と言って敬意を表し、驚嘆してやまなかった。彼はまた、密営地の奇妙な山容にも感嘆してやまなかった。遊撃隊密営の山水は、あたかも天道を開いた崔済愚が二度もこもって修行したという慶尚道梁山の千聖山渓谷のような錯覚にとらわれる、と言うのである。千聖山内院庵には、有名な『花王戒』の著者である薜聡の父元暁大師が唐の僧侶1000余名に仏陀の万の善行をたたえた『華厳経』を教え、みな聖人にしたという故事が秘められているが、東学始祖は、由緒深いその地で道を修め東学を創始したというのである。

 朴寅鎮は、我々が白頭山の蒼林の中で祖国解放のために修行を積み、『華厳経』や『東経大全』より、いっそう死活にかかわる民族再生の大経綸である「祖国光復会10大綱領」を作成し、多くの若者を兵士に育てている姿を見るだけでも力がわいてくると言うのだった。

 彼が密営に来てもっとも大きな衝撃を受けたのは、わたしが彼に清水奉奠(ほうてん)の機会をつくったときであった。天道教には、呪文、清水、侍日、誠米、祈とうなど、教徒が遵守すべき五款功徳というのがある。真鍮の器に清水を供えて拝むことを清水奉奠というが、これは天道教界では一日たりともおろそかにできない掟となっている。清水は、天地の根本を象徴し、そこには天地の恩徳を忘れまいとする教徒の誓いがこめられている。崔済愚が修道生活をしたとき、日に三度清水を供えて瞑想にふけり、また、彼がさらし首にされる最期の瞬間にも清水を供えて拝んだため、天道教徒は始祖の霊血を象徴する清水奉奠を伝統的に法化、慣習化してきたのである。わたしは華成義塾に通っていたころ、崔東旿や康済河などの天道教徒が毎晩9時になると家族を全部集め、清水を供えて拝む情景をよく目撃したものである。

 わたしは、朴道正と閑談を交わし夜9時近くになって、ふと清水奉奠の時間になったことに気がつき、伝令に清水を一杯汲んでこさせた。そして、それを荒づくりの丸木の卓の真ん中に丁重に供え、道正に清水奉奠の時間になったと告げた。

 「聖地の水ですが、真鍮の器の代わりにほうろう引きの器についできたことをお許しください。道正、真鍮の器でないととがめずにどうぞ拝礼してください」

 わたしがこうすすめると、朴寅鎮は非常に驚いたまなざしでわたしを見つめた。

 「天道教を崇拝しない将軍の軍営に来てまで、どうして清水奉奠ができるでしょうか」

 「東学党の乱のとき、東学徒たちは戦場でも毎日清水を供えて呪文を唱えたというのに、道正が数十年の間守ってきた掟を密営に来たからといって破ってはならないでしょう。どうぞ安心して呪文を唱えてください」

 朴寅鎮は客としての礼儀を守ってかたくなに辞退したが、わたしは「祖国光復会10大綱領」にも人倫的平等と信教の自由を保障することが明示されているのに、無神論者の前だからといって信仰心の人並はずれて強い道正が、平素の掟をただの一度でもおかすことになれば、かえって、わたしの方がすまないではないかと重ねて清水奉奠をすすめた。結局、朴道正は清水を供えて座り、21字の呪文を唱えた。繰り返し3回唱えたあと、彼は水を一口飲んでから粛然とした顔で話した。

 「白頭山渓谷の清水の味は格別です。わが国の祖宗が飲んでいた水で清水奉奠をしたのですから、今晩のことは一生忘れません。将軍のような武人が、天道教の掟をこのように尊重してくださるとは夢にも思っていませんでした。まったく感無量です」

 そうしてみると、朴寅鎮は反共に毒された教徒と同じように、共産主義者は、宗教と宗教上のすべての戒律を無視、排斥し、憎悪しているものと考えてきたに違いなかった。

 何年度だったか、アメリカ在住の同胞金聖洛牧師が祖国を訪問したとき、わたしは、彼との昼食会の席で食前の祈とうをするようすすめたことがある。そのとき彼は、たいそう驚いたようである。共産主義国家の主席が宗教家の食前の祈とうにまで関心を払うというのか、それこそ謎のような話だと思っている様子だった。その日、わたしが金聖洛牧師に食前の祈とうをすすめたのは、なにか面目をほどこそうとしたためではなく、わたしが宗教と宗教信者を否定してかかりはしないということを宣伝するためでもなかった。わたしはただ、客を客らしくもてなそうという主人としての礼儀と、一生を篤実なキリスト教信者として生きてきた彼が、祖国に来ても拘束されることなく教道を守れるようにという純粋に人道主義的な感情でそうすすめただけのことである。

 わが国の憲法に明記されている信教の自由についての条項は、空論やシャボン玉のような空約束ではない。我々は、昔もいまも、信教の自由を蹂躙したことはなく、宗教信者を弾圧したこともない。もし、共和国政権のもとで制裁を受けたり、政治的試練をへた宗教家がいるとすれば、それは、祖国と人民の利益を売り渡した犯罪者と民族反逆者だけであろう。解放後、一部の地方で、分派分子が宗教家を差別し、宗教そのものを敵視する偏向があらわれて社会的に物議をかもした例がなかったわけではないが、それは、どこにでもあった一般的な現象ではなく、まして、中央の組織的な意思や指令によって発生した弊害でもなかった。

 アメリカ帝国主義に抗する祖国解放戦争の直前までにしても、わが国には礼拝堂や寺院がたくさんあった。国が解放されてから七谷(チルゴル)に行って見ると、そこにも彰徳学校時代に見た礼拝堂がそのまま残っていた。現在、人民大学習堂が位置している平壌の南山台には大きな礼拝堂が2つもあった。ところが、神の使徒を自称するアメリカ人が、空爆によってそれらの建物をすべて破壊してしまったのである。仏を祭る大きな寺や庵も爆弾の洗礼を受けた。十字架や聖像、聖書は、焼けて灰となるか、廃墟の中に埋もれてしまった。信徒も屍となって冥土の客となった。

 このようにアメリカ人が、礼拝堂を破壊し、信徒たちも殺害したのである。「神様」もそうした蛮行を制御できなかった。こうした理由で戦争中、朝鮮人民のあいだでは礼拝堂を訪ねる人が少なくなった。わが国の宗教信者は、「神様」に天国へ行かせてくれと祈る必要をもはや感じなくなったのである。宗教が人間の運命を開くうえでなんの役割も果たせないということを知った信者は、みずから信仰を捨て、人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するという原理、人間がこの世界の創造者であり、支配者であるという原理にもとづくチュチェ思想の信奉者になった。戦後、彼らは、献金を募って礼拝堂を再建しようと急ぎはしなかった。そうではなく、住宅や工場、学校を先に建設した。わが国の新しい世代のなかには、「神様」や「ハンウルニム」(天道教で大宇宙の造物主をさす)、あるいは仏を信じれば福を授かり、天国へも行けると思う青少年がいない。彼らが、信者になったり宗教団体に加わったりしないのはそのせいである。

 いまも我々は依然として、宗教を悪く見たり宗教家を迫害したりしていない。かえって、国家が彼らに無償で教会堂を建ててやり、生活条件も保障している。何年か前には金日成総合大学の歴史学部に宗教科を新設し、宗教専門家を養成している。他の国と同じように、わが国でもすべての宗教団体と信徒の活動は法的に十分保護されている。

 南朝鮮には、相当な数の信者がいると聞いている。そのなかには、民主、統一、平和をめざす3大戦線で猛活躍している愛国者や闘士が少なくない。いま、南朝鮮と海外の宗教家のあいだに容共愛国人士が増えているのは、彼らが「共産党宣言」を支持しているからではない。我々と彼らを結びつけているきずなは、愛国愛族の思想感情である。このようなきずなは、1930年代にも存在した。愛国愛族の精神さえあれば、いかなる階層とも手を結べるというのは、「祖国光復会10大綱領」で明らかにされた統一戦線の原則である。我々は、この原則にもとづいて朴寅鎮道正とも手を結ぶことになったのである。

 一部の人は、信教の自由にかんする我々の思想を、統一戦線の網のなかに宗教家を引き入れるための一時的な懐柔策であると歪曲して宣伝している。そういう捏造は、いくら声を大にしても絶対に通じるものではない。呉東振、孫貞道、崔東旿、康済河らの信者とわたしが結んだ親交は、純潔な愛国愛族の感情にもとづくものであって、なんらかの策略から発したものではない。わたしは、彼らをマルクスの信奉者にしようと試みたこともなければ、共産党の提灯持ちにしようと考えたこともない。ただ、心から彼らの信仰心を尊重し、その人格と人権を重んじただけである。

 朴寅鎮道正が清水を供えて拝礼したあと、わたしにたいする認識を改めざるをえないと率直に告白したのもゆえなきことではない。その日、朴道正は清水奉奠をすませたあと、だしぬけにわたしにこう尋ねた。

 「わたしには是非、おうかがいしたいことが一つあります。わたしたちが『ハンウルニム』を崇めるように、将軍も崇めるものがあるのでしょうか。あるとすればそれはなんでしょうか」

 わたしは、道正のその質問をわたしにたいする信頼の表示として受けとめ、真面目に答えた。

 ――もちろん、わたしにも神のように崇めるものがある。それは、ほかならぬ人民である。わたしは人民を天のごとくみなし、神のごとく人民に仕えてきた。わたしの神は、ほかならぬ人民である。この世に人民大衆のように全知全能で威力ある存在はない。それでわたしは、「以民為天」を生涯の座右の銘としている――

 朴寅鎮は、わたしの答えを聞いて、白頭山へ来たかいがある、少々遅くはあったが、本物の「ハンウルニム」がなんであり、どこにあるのかがいまはじめてわかった、と意味深長に語った。そして、天道教の始祖崔済愚の「人乃天」の思想は、将軍の考えと相通じるところがある、と言ってすこぶる満足げだった。

 朴寅鎮道正とその一行は3日間の滞留期間に、出版所や裁縫所を見てまわり、実弾射撃も参観し、遊撃隊員の演芸公演も観覧した。

 「わたしは50年のあいだ生きてきながら、知ることも見ることもできなかったことをここに来て、はじめて知り、はじめて見ました。まったく見上げたものです。正直に言って、わたしはこの密営がすっかり気に入ってしまいました。これから、わたしがなにをすべきかもはっきりわかり、決心もつきました。崔麟を訪ねたら、すべての天道教徒を祖国光復会に引き入れる大事をなし遂げます。それができなければ、わたしの傘下にある嶺北の8つの宗理院の天道教徒だけでも全員引き入れます。そして、全国の血潮たぎる100万の天道教青年党の党員もすべて銃を手に、将軍麾下の兵卒になるようあらゆる努力をつくします。わたしの言葉を信じてください」

 これは、密営を発つときに朴寅鎮が言った言葉である。密営を訪問して帰った朴寅鎮は、天道教徒を祖国光復会の組織に引き入れる活動を精力的に進めた。彼は、長白の天道教徒を祖国解放戦線に結集する一方、1937年8月には三水宗理院に出向いて宗理院院長の趙完脇、長白宗理院院長の李銓化らと協議し、我々との統一戦線活動を積極的におし進めた。「金歯」が彼を積極的に助けた。朴寅鎮は、今後自分の仕事を補佐できる李昌善のような人材を育ててくれるようにと、すでに7、8名の青年を我々の所に派遣していた。天道教青年党の豊山郡代表李景雲らが朝鮮人民革命軍主力部隊に入隊したのもこのころである。

 朴寅鎮は、わたしに約束したとおり、1936年12月、天道教中央大会に参加するためソウルヘ出かけた。崔麟が密告するかテロ行為を企てれば、朴寅鎮の身辺にただならぬことが生じかねなかった。それで、彼がおこなおうとする談判の手助けと身辺警護のために、李昌善にわたしの伝令の金鳳錫をつけて朴道正をソウルまで無事に護衛していくようはからった。

 朴寅鎮はソウルに到着するとすぐ、崔麟がその間、明倫町にある洋館風の自宅をいっそう豪華にしつらえたことと、「独立のための自治」を実現するには、日本と和解すべきだとして、多額の天道教資金を総督府に「国防献金」したという暗然とさせられるうわさを耳にしたが、かろうじて義憤をこらえ、彼を辛抱強く説得した。しかし、崔麟は眼中人なしであった。朴寅鎮は、こみあげる憤激を抑え切れず、いまあなたがおこなっている献金は、独立聖業に逆行する売国的で反民族的な背信行為であり、かえって、日本の国力をいっそう増強させ、朝鮮の従属をさらに持続させる結果をまねくだけだと糾弾した。そして、崔麟の面前で『祖国光復会10大綱領』をふりかざし、朝鮮の独立をなし遂げる真の道は献金ではなくこの綱領にある、我々が進むべき唯一無二の道はこの道だけだ、我々教徒は、金日成将軍が組織した祖国光復会に入り、朝鮮人民革命軍と合流して抗日大戦を展開すべきだ、と力説した。

 10大綱領にしばし目を通した崔麟は、あわてるな、金日成がめざす目標も大海であり、わたしがめざす目標も大海である、大海への道はいろいろある、大道もあれば細道もある、いまは騒ぎ立てながら大道路に出るときではない、大事にはすべて時があるものだ、いまは器だけ準備しておけばよい、水はいつでもいれることができる、と朴寅鎮を説諭した。激怒した朴寅鎮は崔麟とひとしきり口論した後、彼の家を立ち去った。

 崔麟と決別した朴道正は、すぐさま豊山郡内の天道教徒を網羅する祖国光復会豊山支会を結成し、ついで、甲山、三水、恵山、長白の各地帯にも天道教の中核分子で祖国光復会の支会を結成した。それらの支会は、そのまわりに多くの天道教徒と農民を結集した。朴寅鎮の影響下にある祖国光復会の各組織は、密営に多くの援護物資を送ってよこした。朴寅鎮自身も援護物資を求めようと、恵山と豊山に足しげく行き来した。いつだったか、彼は遊撃隊員が野営するとき敷き物にするようにと、10枚余りの獣皮まで準備して送ってよこしたことがあるが、それを見たわたしの戦友たちは、口をそろえて朴寅鎮を称賛したものである。

 地陽渓にいた朴寅鎮の弟子のなかには、金鼎富から数千坪もの小作地を借りて人民革命軍に送る援護米を生産するために人知れず汗を流した人たちもいた。そうした小作地で取れた穀物が密営に運ばれていることを知っていたのは朴道正だけだった。彼の妻と娘たちも朝鮮人民革命軍を援護するため、給養物資の運搬に積極的に参加した。

 朝鮮人民の自由と解放のために昼夜を分かたず献身していた朴寅鎮は、1937年10月、不幸にも「恵山事件」のあおりで日本の警察に検束された。朴寅鎮道正の闘争実績と、我々との関係をおぼろげながら察知した敵は、執拗に自白を強要した。おまえが、金日成パルチザンと以前から内通していたことは我々も承知のことだ、また、国境両岸地帯で不穏分子を糾合して秘密結社を結成し国体変更を企図したこともすべて知っている、金日成将軍からどんな指令を受け、おまえたちの組織がどこに分布しているのか正直に言え、と責め立てた。しかし、朴寅鎮はかたく口をとざしていた。彼の節操と意志をまげることができないことを知った敵は天道教に言いがかりをつけた。おまえたちの天道教は、人の上に人なく人の下に人なし、人すなわち「ハンウルニム」というそうだが、それならおまえたちが天のごとく尊ぶ人間を抗日独立の口実のもとに戦場に駆り立て、無駄な血を流させるのは道にたいする異端であり、人倫にたいする冒涜ではないか、と言うのである。朴寅鎮は、彼らのそういう暴言にすかさず一矢を報いた。

 「人倫を冒涜するのは、我々ではなくておまえたちだ。おまえたちこそ、わが天道教の宗旨を踏みにじった張本人だ。おまえたちは、数千数万に達する朝鮮の『ハンウルニム』を牛や豚のように毎日屠殺場へ引き立てているではないか。軍警の銃剣がひらめく所で我々白衣民族の血が川をなし、生きた人の肝でさえ恨みの果てに腐っているのをおまえたちも知っているはずだ。答えてみよ。罪は誰が犯し、裁判は誰が受けるべきなのか。我々は、朝鮮国の神聖な天道を踏みにじり、数知れぬ人びとを殺害した強盗を許すことはできない。そして、その強盗どもが不法につくりあげた国体なるものを認めることはできない。それで我々300万教徒は、2000万同胞とともに憤然と立ち上がり、血の抗争をくりひろげているのだ。わたしの体の血がおまえたちの帝国を焼きつくす1点の火花になるなら、死んで灰になろうと誇りを感じるであろう!」

 炎のようなこの弾劾は、敵を戦慄させた。逆上した敵は、老いた道正に極悪非道な拷問を加え、身動きもできない廃人にしてしまった。重病まで重なった道正は瀕死の状態になった。彼の死期が迫ったことを察した敵は、病気という名目で彼を仮釈放した。朴寅鎮は、病床にふしたまま1939年の春を迎えた。臨終を前にした彼は、一生、夫に忠実につくしてきた妻に渾身の力をふりしぼって言った。

 「わたしは、死を前にしたいま幸福感にひたっている。それは、水雲大神師の子孫らしく晩年を誉れ高くしめくくったからだ。この朴寅鎮は、朝鮮の男児として生まれ朝鮮の男児として逝く。祖国が解放されたら、おまえは、子どもたちを連れて金日成将軍のお供をしなさい」

 朴寅鎮が、いまわの際にあるという連絡を受けた愛弟子の一人が師のもとに駆けつけた。道正は彼を見るや、日ごろ自分が好んで口ずさんでいた『トンドルラリ』をうたってほしいと言った。『トンドルラリ』という題名は、「トントルナリオリラ(暁の日は来たらん)」という言葉が縮まったものだという。日本帝国主義侵略者を追い出して再び平和に暮らせる日が来るという信念をうたった歌である。厚峙嶺を隔てて北青とつながっている豊山では、1930年代の初期から『トンドルラリ』の歌と踊りが広まっていた。朴寅鎮の主導下に祖国光復会の下部組織が遊撃隊援護活動を活発に展開するようになって以来、豊山地区の各地下組織では、援護活動をおこなうたびに、敵をあざむく方便としてこの歌舞をしばしば利用したという。忠実な弟子は、師の望みどおり『トンドルラリ』をうたいはじめたが、喉がつまって最後までつづけられず泣きくずれた。朴寅鎮は、「先生!」「先生!」とむせび泣く弟子の手を握って静かに言った。

 「金将軍が健在で革命軍が白頭山にいるかぎり、白衣同胞は必ず暁の日を迎えるようになるだろう。おまえたちは、いまに百花繚乱たる『ハンウルニム』の国で暮らせるようになるだろう。わたしには、その日がはっきり見える。見えるとも」

 容共救国の道で大きな功績を立てた朴寅鎮道正は、抗日革命が生んだ愛国志士の一人である。

 解放後、わたしは朴寅鎮を思い出すたびに、何度も彼の未亡人と子孫に会ったものである。1992年の夏、抗日革命闘士の遺族と会ったときにも、その未亡人が90過ぎの年でも健在だということを聞いて、歩くのが不自由ならおぶってでも連れて来るようにと頼んだ。道正の老いた未亡人は車からおりると、誰の助けもかりず自分の足でわたしの前に駆けよった。彼女は他の遺族たちのように、わたしを「将軍さま」とか「主席さま」とは呼ばず、「ハンウルニム」と呼んだ。そういう呼び方をしないようにと言っても彼女は聞き入れなかった。

 「わたしは、夢のなかでも『ハンウルニム』にお目にかかりました」

 朴寅鎮の夫人でなければ口にできないその呼び名と率直な告白に、わたしは道正と会った昔のことが思い出され、目頭があつくなった。

 朴寅鎮に積極的に助力した天道教青年党の党員で、朝鮮人民革命軍の政治工作員であった李昌善は、白頭山の酷寒がもたらした凍傷のために惜しくも命を失った。それは、たぶん1938年の冬だったと思う。最近、関係部門の活動家が、彼の妻の従弟のアルバムから思いがけない1枚の写真を見つけた。李昌善が天道教青年党の党員として活動したころに義兄弟の仲間と一緒に撮った写真だが、そのうちの一人が信念と意志の化身である李仁模だというのである。彼は、朴道正の多くの弟子のうちの一人であったようだ。こうしてみると、朴寅鎮は希代の愛国者たちを育てた恩師でもある。



 


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