金日成主席『回顧録 世紀とともに』

3 白頭山麓での戦い


 我々の白頭山進出後、長白県を含む東辺道、とりわけ北部東辺道一帯は、関東軍と満州国治安当局にとってじつに頭の痛い最悪の「治安不良地帯」になった。日満軍警は、神経をとがらせて東辺道を注視した。長白地方のさまざまな事件が新聞紙上をにぎわした。それまで、治安良好地帯とされていた白頭山麓が物情騒然としてきたのである。

 日本侵略者は、満州占領直後から、朝鮮とならんで満州をアジア制覇の戦略的基地にしようと東辺道の治安にも深い注意を向けた。東辺道は、中国の北洋政府が東北地方を遼寧、吉林、黒竜江の3省と10道に分けるさいに設けた一行政区域で、現在の吉林省と遼寧省の一部を含む広大な地域である。東辺道は鴨緑江を境に朝鮮と隣接していたので、「鮮満一体化」の理念からしても、また、膨大な鉱物資源と森林資源を擁しているという経済的側面からしても、日満の政界や実業界はもとより、軍部も特別な関心を向ける重要な対象地の一つとなっていた。

 ところが、その北部地域を我々が完全に掌握し、鴨緑江沿いに南下しながらたえず軍事・政治活動を展開したのだから、敵も驚かざるをえなかった。あわてふためいた関東軍は、東辺道を含む満州一帯に恒久的な治安対策を立てるとして「満州国治安粛正計画大綱」なるものを策定し、満州国政府はそれにのっとって「3か年治安粛正計画要綱」を発表した。ここで中心的な特別工作対象地とされたのが、ほかならぬ北部東辺道(長白、臨江、撫松、東崗、輝南、金川、柳河、通化、集安の各県)であった。満州国は、中央に「東辺道復興委員会」を、通化に「東辺道復興弁事処」および「東辺道特別治安維持会」を設ける一方、満州国軍部最高顧問の佐々木を長とする「通化討伐司令部」を置き、北部東辺道の治安確保をはかる「冬季大討伐」作戦を開始した。

 日本軍部の神経をもっとも強く刺激したのは、朝鮮人民革命軍の各部隊が西間島で連日のように銃声をあげ、その裏で各地に白頭山密営網と地下解放戦線を核とする新しい形態の革命根拠地がつくられていることであった。そこで東京では、植民地朝鮮の最高統治者、朝鮮総督南(次郎)陸軍大将と、満州の事実上の最高統治者である関東軍司令官植田(謙吉)陸軍大将に、抗日武装部隊の完全掃討と治安をはかる非常対策を謀議させた。こうして、「図們会談」と言われる悪名高い会談が、朝満国境の小さな税関都市図們にある日本領事館分館の密室で開かれた。この一事からも、しばらく前まで関東軍司令官兼満州国駐在特命全権大使を勤めた南が朝鮮総督に赴任するやいなや、植田とともに朝鮮人遊撃隊の討伐問題にいかに腐心したかがおしはかれよう。

 南と植田の密談につづいて、随員の関東軍憲兵隊司令官東条(英機)と朝鮮総督府警務局長三橋の会談がおこなわれた。これらの会談で採択されたのが、国境警備の強化、大規模な共同討伐作戦の展開、西間島一帯の集団部落化を骨子とする抗日武装部隊圧殺のための「3大政策」である。東条と三橋の会談では、双方の連合行動を強める具体的な対策が討議された。「3大政策」の核は、1936年の「冬季大討伐」であり、その主要目標は朝鮮人民革命軍司令部が位置する白頭山であった。「冬季大討伐」が従来の作戦と異なる点は、満州に出陣した朝鮮駐屯日本軍兵力と在満関東軍との混成討伐作戦であったということである。その戦術は、大兵力による包囲と、髪をくしけずるように谷や尾根をくまなく捜索する新しいすきぐし戦法を組み合わせたもので、その年の冬の間に抗日武装部隊を完全に掃滅するのが目的であった。これによって、朝鮮総督府は「治安維持と国境警備の強化」を第一の課題として国境警備兵力の増強と防御施設の拡充に努め、日本帝国の国家予算から莫大な追加資金の支出まで受けることにした。朝鮮駐屯日本軍部隊と特設国境警備隊、国境一帯の警察部隊には大挙出動命令がくだった。関東軍も東辺道に最大の関心を向け、討伐作戦の準備をおし進めた。

 白頭山を中心に、鴨緑江と豆満江に沿った国境一帯にはさまざまな討伐部隊が大々的に投入された。南部朝鮮の警察部隊も北部の山岳地帯へ移動した。チチハルの関東軍部隊は白頭山方面へ南下しはじめ、朝鮮駐屯日本軍第19師団傘下の部隊も鴨緑江を渡った。日満警察部隊と満州国軍討伐隊も出動した。鴨緑江沿岸には、警察官駐在所がいちじるしく増設され、随所に検問所が設けられ、川のあちこちに電話線が張りめぐらされた。このころから、彼らは、警察官の妻にも射撃の練習をさせた。せいぜい牛車や馬そりしか見られなかった白頭山一帯の山間奥地の細道を砲車や輜重馬車が通り、密林のいたるところに軍馬がひづめの跡をつけはじめた。

 白頭の密林は、その年の初冬から討伐隊で埋めつくされた。彼らは、「今回の討伐を最終的なものとし、治安を決定的に確立する」とし、白頭山一帯の密林をくまなく捜索した。白頭山麓では、朝鮮人民革命軍と日本侵略軍の新たな決戦が刻々と迫っていた。形勢は、我々にたいへん不利であった。まず兵力のうえで、敵は比較にならないほど優勢であった。それに、航空隊の支援まで受ける精鋭部隊がその基本をなしていた。彼らは、行政、経済、警察などのすべてを動員していたが、我々には動員すべきなにものもなかった。あるのはただ、人民のひそかな支援だけであった。

 軍事上の常識や経験からすれば、このような状況のもとでの攻撃は考えられないことだった。しかし、我々は、既成の慣例や常識を越えて、攻撃を主とする新しい独自の戦法によって敵を守勢に追い込んだ。我々は1936年11月、黒瞎子溝密営で朝鮮人民革命軍の軍・政幹部会議を開き、南湖頭会議後の朝鮮人民革命軍各部隊の軍事・政治活動を総括する一方、敵の「冬季大討伐」攻勢を粉砕し、白頭山根拠地を強化する対策を協議した。我々の基本戦略は、敵の数量上、技術上の優勢を思想的・戦術的優勢によって撃破することであった。我々は、戦闘員の思想的決意を強め、それにもとづいて大部隊活動と小部隊活動を適切に組み合わせ、誘引待ち伏せ、奇襲、鉄壁の防御、そして、敵の退路を断ち、隊伍を寸断して掃滅する戦法など、積極かつ能動的な戦術を活用して、戦闘ごとに勝利をおさめた。

 我々の巧みな軍事作戦によって、敵は「冬季大討伐」の開始早々から苦汁をなめた。彼らは、朝鮮人民革命軍の各部隊が鴨緑江沿岸に進出した初期、我々が反満軍部隊と同様にそこで冬を越せないであろうと考えた。しかし、それは誤算であった。敵の討伐が強まれば強まるほど、我々は退却したのでなく密林の中にいっそう深くひそみ、神出鬼没の術を駆使して白頭山の周辺と鴨緑江沿岸の国境一帯でますます猛烈な軍事・政治活動を展開して敵を守勢に追い込み、新設した白頭山根拠地をうちかためていった。

 その年の冬、敵に痛撃を加えた多くの戦闘のなかで代表的なものは、黒瞎子溝入口での戦闘と紅頭山戦闘、桃泉里戦闘、鯉明水戦闘などである。

 黒瞎子溝入口での戦闘は、敵の密営奇襲掃討作戦を機先を制して挫折させた防御戦であった。「冬季大討伐」の緒戦から苦杯を喫した敵は、軍事作戦を強める一方、多数の密偵を送り込んで、朝鮮人民革命軍司令部の行方を探り出そうとした。敵の「冬季大討伐」が開始されると、わたしは部隊の主力を率いて、黒瞎子溝密営の方に行っていることが多かった。

 そんなある日のことだった。数人の隊員とともに前方の哨所で警戒勤務についていた呉仲洽が、農夫の身なりをした不審な男たちを密営に連行してきた。尋問の結果、敵の密偵だとわかった。彼らは樹林をぬって密営の方へ忍びよっていたところを、その動きをずっと監視していた隊員たちに押さえられたが、狡猾にも、日本帝国主義者の迫害にたえかねて革命軍を訪ねてくるところだ、将軍に会わせてほしい、と空とぼけたという。挙動が疑わしいので身体をあらためると、その1人が腰に刃のするどい手斧を隠していた。それは、特務機関が殺人用につくった凶器である。結局、1人は行商人になりすまして何年もスパイ行為を働いてきた悪質な特務で、いま1人は強制されて道案内を勤めた純朴な農民であることが判明した。彼らの任務は、我々の正確な位置を探知し、密林を捜索しながらあとについてくる討伐隊に合図を送ることだった。密偵の自白によると、敵は、日満合同討伐隊を編成し、一部隊は二道崗からまっすぐ黒瞎子溝へ押しよせ、他の部隊は十六道溝馬家子の西北側から遊撃隊の密営に近づいており、約束の合図の声をあげれば直ちに攻撃が開始されることになっていた。密偵は、この討伐は、会寧の航空隊が支援することになっているとも言った。彼の陳述は、人民革命軍偵察班が収集した情報と合致していた。しかし、敵はまだ、包囲の輪を完全に形成してはいなかった。密偵を通じて司令部のおおよその位置をつかんだ敵は、羅南19師団傘下の日本軍討伐隊と二道崗の満州国軍討伐隊を黒瞎子溝に投入し、朝鮮人民革命軍司令部と主力を奇襲して「不安の禍根」を根絶しようともくろんだのである。

 状況はきわめて不利で、急を告げていた。敵が山を捜索しながら密営に近づいている状況のもとで、我々は密営付近の有利な地帯で敵を叩いてから、ひそかにそこを抜け出し、撤退する敵を三浦洞地帯でいま一度夜襲することにした。黒瞎子溝の南側は深い谷間であった。敵の主力が入り込むはずの谷には、瓶の首のような形の狭い場所があった。谷の両側は、崖に慣れたけものでさえ足のつけようもない切り立った絶壁だった。敵兵を追い込んでせん滅するにはうってつけの場所である。

 わたしは、第2中隊と第4中隊を西北側と東北側の高地にひそませ、谷の奥に偽装陣地をつくらせた。そして、何人かの隊員をそこへ残し、そこに主力がいるかのように火をたき、声をたてるよう指示した。そのあとで誘引班を送り出した。敵陣に潜入して夜通し騒動を起こし、夜明けに大部隊が行動したかのような痕跡を残して撤収するよう命じたのである。夕闇が迫るころ、誘引班は敵陣に入り込んだ。その夜の寒さは、とりわけきびしかった。しかし、伏兵の位置が発見されないよう、たき火を禁じた。誘引班は、主力が待ち伏せている位置へ敵をおびきよせるため、谷間に大部隊が移動したかのように乱れた足跡を残しながら偽装陣地の方へ登っていった。間もなくそちらの山腹にいくつものたき火の煙が上がり、にぎやかな歌声が響いた。それらは、誘引シナリオによる陽動作戦であった。

 誘引班を追って谷間に入り込んだ敵の視線は当然、たき火をたいて騒ぎたてる偽装陣地に集中した。敵の尖兵は騎馬隊であった。しばらく立ち止まって谷奥の偽装陣地に目をこらし、ひそひそ話し合っていた騎馬尖兵のなかから、黒馬の騎兵が抜け出し、谷の下手に向けて馬を走らせた。他の2頭もあとにつづいた。半時間ほどして、騎馬尖兵は長蛇の歩兵縦隊を従えて再び谷間にあらわれた。縦隊の各先頭には、馬にまたがった将校が長い軍刀をきらめかせながら進んできていた。それが、羅南19師団管下の部隊であった。靖安軍の将校連は、馬がなく兵士と同じように歩いていた。後尾には、分解した迫撃砲を鞍に乗せた数頭の馬が従っていた。他の谷からも敵が入ってきた。明らかに包囲の輪をつくろうとしているのである。100余にすぎないわが方の兵力に比べて、それは5倍を上まわる大討伐兵力であった。

 この戦闘で敵を破る秘訣の一つは時間をかせぐことにあった。敵が包囲陣を完成する前に強烈な一撃を加えてからひそかにそこを抜け出し、次の地点に移らなければならなかった。わたしは、密偵を処刑する銃声を合図に先制打撃を加えることにした。合図の銃声があがると、敵はまたたく間に壊滅状態に陥った。ほとんどの敵兵が攻撃開始の合図を受ける前にばたばた倒れ、砲弾をこめた迫撃砲が空しく戦場に転がった。黒瞎子溝入口の谷間は、敵兵の墓地と化したのである。我々は戦場を捜索したあと、闇にまぎれてそこを抜け出した。

 予想どおり、敗残兵の道案内を受けた敵の増援部隊が日暮れとともに一か所で宿営準備をしているという敵情が、偵察班から司令部へもたらされた。わたしは呉仲洽に、敵の宿営地を夜襲するよう指示した。彼は直ちに1個小隊をもって襲撃隊を組んだ。夜間襲撃戦では多くの人員を必要としなかった。

 襲撃隊を引き連れて敵の宿営地にひそかに近づいた呉仲洽は、木陰で居眠りをしている歩哨を捕え、簡単に尋問した。宿営の配置状況を確かめず不用意に突入しては、荷役に駆り出された人民に被害が及ぶ恐れがあった。歩哨は口の軽い男だった。彼は、日本軍が宿営地の中央を占め、満州国軍はそのまわりに宿営し、人夫は弾除けとしていちばん外側に配されていると言った。歩哨に立つのは満州国軍だけで、朝鮮から派遣されてきた日本軍はたき火のまわりに濡れた靴を吊るし、正体なく眠りこけている、とも言った。呉仲洽は、襲撃隊を3人ずつに分けて巡察兵に仮装させた。合言葉を使って歩哨線を難なく通過し、中央深く入り込んだ彼らは、日本軍のテントに不意の射撃を浴びせた。驚いて飛び起きたテント内の敵兵は靴もはけずにあわてふためき、彼我の区別もつかぬまま盲滅法に撃ち合い、多くの将兵が悲鳴をあげながら倒れた。宿営地は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。襲撃隊は、敵の混乱を見届けると、戦場からすばやく抜け出した。敵兵は、夜通し同士討ちをつづけ、多数の死傷者を出した。命からがら逃げ出した者もほとんどが凍え死んだ。靴もはけず、毛皮の外套も着られずに逃げた者たちが白頭山の酷寒にたえられるはずはなかった。敗残兵たちは、宿営地に散らばっている数百の死体をそのまま運び出すことができず、首を切って麻袋に入れ、馬車に積んで早々に退散した。

 この戦闘のあとも、我々は、鴨緑江右岸の各地で痛快な戦闘をあいついでおこなった。11月20日には、敵の討伐拠点の一つである長白県十四道溝市街襲撃戦闘をおこない、数日後には、十三道溝桃泉里上村の敵を奇襲掃討した。一部の小部隊は、十五道溝と十九道溝一帯で政治・軍事活動を展開した。黒瞎子溝入口での戦闘とあいつぐ戦闘で度胆を抜かれた敵は、その後の2、3か月間、あえて、我々のいる白頭山付近に近づこうとしなかった。だからといって、彼らが討伐を完全に放棄したわけではない。時間をかせいで新たな討伐を強行しようと画策していた。我々は警戒心を高めた。全部隊が密偵の侵入を防ぐため警戒態勢に入った。他方、敵を軍事的に制圧する新しい戦術的対策も立てた。白頭山麓は、しばらく静穏を保った。

 わたしが、長白県十九道溝の区長李勲を密営に呼び、地下工作の方向と方法の要領を教えたのもこのころのことであり、援護物資を担いで密営にやってきた十七道溝の住民と話を交わしたのも同じころのことであった。朴達、朴寅鎮との出会い、朝鮮人民革命軍暫定条例の公布、祖国光復会組織の急速な拡大など、これらの事柄のため、1936年末〜1937年初の白頭山地区の冬は、いまもわたしの記憶に印象深く残っている。

 その思い出のなかには、長白県十九道溝の農民安徳勲もいる。彼に会ったころは、長白県一帯でわたしにかんする神話じみた話が語り伝えられ、金日成が松かさに手を触れると、本物の銃弾になる、と人びとが信じ込んでいるときだった。安徳勲は、そのような奇談に人一倍強い好奇心をいだき、我々が彼の家の敷居をまたぐなり、返答に窮する厄介な質問をつぎつぎにもちだした。幸いに、主人が台所側の居間にいる金平を隊長と思い込み、彼を相手にしたので、わたしはそこへ引き入れられずにすんだ。2人の会話はなんともユーモラスだった。

 「将軍は、3日先の天気ばかりか、ずっと先のことまで見通すとのことですが、本当でしょうか」安徳勲が金平に投げた最初の質問だった。

 「本当ですとも」

 金平は平然と答えた。安徳勲は満足げにうなずき、勢いづいてまた尋ねた。

 「隣村の年寄りたちの話ですと、将軍は事あるときは目を開き、そうでないときは目をつむっているそうですが、それも本当だと信じてよろしいでしょうか」

 「本当だと思ってよろしい。将軍は何事もないときは目をつむっていますが、目を開くと、それこそ大変なことが起こります」

 「将軍が、縮地の術を使うというのも本当でしょうか」

 「本当です。将軍は、山を引きよせては四方八方を飛びまわり、東にひらり西にひらりと身をおどらせるのです」

 「うわさでは、金将軍が昔の洪吉童も顔負けの神出鬼没の将帥だと聞いていましたが、やっぱりそうだったんですね」

 いずれもあきれるような質問であり、返答もそれに劣らずあきれたものだったが、主人が真顔で質問し、客もそれに劣らず真剣な顔つきで答えるので、わたしは、その問答に口をはさむこともできず、黙って聞いていた。とりわけ驚いたのは、あんなに正直で生一本な金平がそんな途方もない返答をしながらも、いっこうに悪びれず、照れた様子も見せなかったことである。

 安徳勲は、金平に、あんたは将軍に何回ほど会ったのか、いま将軍がこの村に来ているのかと聞いた。金平はこの問いにも、しょっちゅう会っている、金将軍はいまこの村に来ている、と答えた。主人がちょっと座をはずしたすきに、わたしは、なぜ、そんな愚にもつかぬことを言うのか、と金平を軽くたしなめた。金平は笑って、人民がうわさを信じているからには、それを100パーセント肯定してやらなければならないと言うのだった。人民が、朝鮮に天のくだした神秘的な将帥がいると言うのは、そのような将帥があらわれて祖国を取りもどしてほしいと思っているからであり、そのような将帥が本当にいると信じるならば、奪われた祖国を必ず取りもどせると確信して我々にしたがい、反日聖戦にいっそう力強く奮い立つであろうからだと言うのである。

 「同胞たちはいま、日本侵略者がいくら威張っても、わが民族のなかには神術に通じた将軍がいる、だから日本侵略者を恐れることもしりごみすることもない、金将軍に従って戦えば必ず朝鮮を独立させることができる、と考えはじめているのです。これは、司令官同志一個人にたいする崇拝ではありません。それは、わが朝鮮人民革命軍への絶対的な信頼であり、期待なのです。人民がそう望んでいるのに、わざわざ否定して失望させる必要がありましょうか」

 わたしは金平の言い分を聞き、今後、軍事作戦をより大胆かつ巧みにおこなって人民の期待と信頼にこたえようと思った。金平の言葉どおり、わたしについての伝説じみた話から人民は大きな力を得ていた。朝鮮に日本侵略者を震え上がらせる将軍がいると聞いて、心身を引き締めた多くの熱血青年が競って人民革命軍に入隊した。正直な話、我々はこの民間説話のおかげをずいぶんこうむったわけである。その後、安徳勲も人民革命軍に入隊した。彼は他の隊員に劣らずりっぱに戦い、濛江のある戦場で倒れた。李致浩は、落葉と雪で遺骸を埋葬するほかなかったそのときのことを、のちのちまで胸を痛めながら追憶した。

 敵が我々の密営地に再び接近しはじめたのは、1937年の新年に入ってからである。満州と朝鮮の北部国境地帯に出没する抗日武装勢力を一撃のもとに掃討しようとした企図が失敗すると、昭和天皇は軍部の提言をいれ、侍従武官四手井を特使として派遣し、革命軍の猛烈な遊撃活動によって「治安維持」が破綻した鴨緑江沿岸の国境一帯を1か月ほど現地視察する一方、朝鮮総督南と関東軍司令官植田、それに朝鮮駐屯日本軍司令官小磯(国昭)らとともに、人民革命軍への討伐攻勢を強める対策を討議するよう命じた。勅命を受けた侍従武官は、東京から空路鴨緑江を越えてやってきた。これを機に、敵は討伐にいちだんと熱を上げた。

 紅頭山密営への敵の奇襲討伐は、四手井が国境一帯の視察をおこなっている最中に強行された。そのとき、革命軍の給養係は、旧正月の準備に余念がなかった。人民革命軍の基本戦闘部隊は、前方発進基地の地陽渓密営と黒瞎子溝密営の方に出動し、わたしは護衛兵たちと一緒に紅頭山密営に残っていた。しかしやむをえぬ事情で、旧正月を2日前にして紅頭山密営を離れた。わたしはまず、紅頭山と横山のあいだの谷間に位置している多谷嶺密営に寄って金鼎富を慰労し、そのあと白頭山最後方の密営へ向かった。『三千里』誌に紹介された、わたしと金鼎富との会見の場がその密営である。白頭山最後方の密営とも言われる横山密営には、病弱な児童団員たちが保養生活を送っている小屋、李桂筍、朴順一ら病弱者や患者を治療している病院、朴永純の兵器修理所、朴洙環の裁縫隊などもあった。心臓病を患っていた魏拯民もそこで療養生活をしていた。そのころは、「パイプじいさん」以下書記処のメンバーも「天にいちばん近い村」であるここで仕事をしていた。

 わたしは、密営の人たちの活動や生活状況を確かめ、必要な対策を講じてから、金平、権永璧ら何人かの軍・政幹部を参加させて朝鮮人民革命軍党委員会を開いた。会議ではまず、黒瞎子溝軍・政幹部会議以後の朝鮮人民革命軍主力部隊の軍事・政治活動を総括し、敵の「冬季大討伐」を決定的に粉砕する当面の闘争課題を討議した。とくに、桃泉里、鯉明水境界線と撫松地区への戦闘部隊の戦術的および戦略的移動問題、国内進攻作戦の時期選択の問題などが論議された。この問題は後日、西崗会議でさらに具体的に討議された。会議ではつぎに、朝鮮人民革命軍党委員会の組織体系の確立問題を討議し、権永璧を委員長とし、李悌淳を副委員長とする長白県党委員会と、李悌淳を責任者とする祖国光復会長白県委員会を組織した。その日の朝鮮人民革命軍党委員会は、敵の「冬季大討伐」を粉砕し、白頭山根拠地を守るうえでも、また、わが国の党組織建設史のうえでもきわめて重要な意義をもつ会議であった。

 この会議には、魏拯民も参加した。横山で迎えた旧正月はたいへん印象的だった。朴永純が空き缶でつくった製麺器でノンマ麺を打ち、正月祝いの食卓にのせたのはこのときのことだった。裁縫隊ではギョーザを、病院の人たちはうどんをつくった。横山の人たちはいろいろと珍しいご馳走をつくって、我々をもてなしてくれた。魏拯民は、横山密営でわたしと一緒にノンマ麺をおいしく食べた1937年の旧正月のことをその後もよく思い出し、機会あるごとに朴永純の腕前をほめたものである。

 1937年の旧正月のことを思い起こすたびに、喬邦信という中国人警護隊員の顔が目に浮かぶ。あのとき、喬邦信はギョーザを15個も食べたうえ、さらにそばを2杯もたいらげた。彼ら5人兄弟は、地陽渓で同時に革命軍に入隊した。彼は末弟だったので、我々は彼を「小五子」(ショウウーズ・五番目)と呼んだ。「小五子」があるとき手に傷を負った。その傷をわたしがかみそりで手術した。麻酔なしの荒療治だったので、ひどく痛かったはずである。それでも、彼はりっぱにたえた。手術の跡がなかなかいえず、かわやへ行っても彼は自分でバンドを締めることができなかった。それで、いつもわたしが彼の世話をやかなければならなかった。靴が濡れると、脱がせて火に乾かしてもやった。あるとき、会議に参加するため警護隊員を伴って安図県五道揚岔へ行き、裏切り者の密告で敵に包囲されたことがあった。そのとき、喬邦信は非常に勇敢に戦った。しかし惜しくも、そこで彼の兄が1人戦死した。

 横山で旧正月を楽しく過ごし、その翌日、紅頭山密営に帰ったのだが、帰営してしばらくすると、遠方監視所の方から不意に銃声が聞こえた。状況は緊迫し、形勢は我々にきわめて不利であった。味方の兵力は、李斗洙中隊の何人かの隊員と、わたしを護衛する機関銃班員たちだけだった。敵の兵力は少なくとも500名を越えていた。それに遠方監視所で敵を発見したのは、敵兵が我々を制圧しうる監視所の高地にほとんど登りつめたときだった。わたしはすかさず、南側の尾根をいち早く占めるよう隊員たちに命じた。そして、李斗洙中隊長には、監視所から隊員たちを引き揚げさせ、敵に道を開いてやるよう指示した。撤収する隊員は、敵の目につくつるぎ尾根づたいにおりてくるように命じた。それは、一歩踏みはずせば深い谷間へ転がり落ちて雪に埋もれかねない一本道だった。その一本道に敵を誘引すれば、1人で100人、1000人もの敵を倒せるのである。紅頭山の南側の尾根は、つるぎ尾根に押しよせる敵を手に取るように見下ろしながら猛射を浴びせうる戦術的要所で、退却する敵を下の谷底へ追い込んで撃滅できる所であった。命令を受けた監視兵たちは、敵をつるぎ尾根の方へ誘引した。つるぎ尾根と南側の尾根のあいだの谷間は文字どおり「陥穽谷」となった。我々の勝利にくみしたいま一つの要因は、李斗洙が、わたしの命令で南側尾根の斜面に氷を張らせておいたことにある。その氷の斜面にさえぎられ、敵兵は一人として我々のいる尾根に登ってくることができなかった。

 紅頭山戦闘は、軍事常識からすればとうてい考えられない戦いであった。けた違いの少数兵力であったが、我々は敵をほとんど全滅させたのである。わが方では、中隊長の李斗洙が銃創を負って、後方病院に送られたにすぎなかった。

 戦闘後、わたしは敵の宿営地に夜襲隊を送る一方、撫松方面へ抜け出す対策を立てた。敵はいったん退却したとはいえ、増援部隊とともに再び攻撃を加えてくるに違いなかったからである。わが方の兵力はあまりにも少なく、ここで戦いをつづけるのは好ましいことでなかった。こんなときはひそかに抜け出すのが上策である。我々が撤収対策を討議しているとき、谷はずれの方から遊撃隊の突撃ラッパの音が鳴り、つづいてけたたましい銃声が響いてきた。呉仲洽の部隊が、敵を撃滅しているのであった。呉仲洽は、討伐隊が紅頭山方面へ押しかけていることを人民から知らされ、司令部の安全を気づかって急遽駆けつけたのである。彼は、わたしが送った夜襲隊とともに敵の宿営地の中心部に突入し、猛射撃を浴びせて残り少ない敗残兵を一人残らず掃討した。呉仲洽は敵を撃滅すると、韓益洙をわたしのもとへ差し向け、部隊を引率して紅頭山にやってきてもよいかを尋ねてきた。わたしは、紅頭山密営にたいする敵の襲撃は完全に挫折したのだから、本来の計画どおり行動すればよいと指示した。呉仲洽はわたしの指示を受けてからも、司令部の安全を確認してからやっと黒瞎子溝へもどっていった。呉仲洽は、じつに忠実な人だった。

 紅頭山戦闘のさい、日本軍の荷を運び、死体の処理までさせられた二道崗のある農民は、後日わが国の踏査団員にこう語ったという。

 「あのとき、日本軍は人夫を1戸当たり一人ずつ徴発しました。そんな所へ一度引っ張り出されるとほとんどの人が足に凍傷を負い、なかには足の爪がみな抜けてしまう者もいました。はじめて引っ張っていかれたときはこわかったし、また、実際に戦場にうつぶせているときは、全身に冷や汗が流れたものです。けれども、戦闘はいつも遊撃隊の勝利に終わったので、内心どんなにうれしかったか、疲れがふっとんでしまうほどでした。でも、やつらが逃げていくときは、あの汚らわしい死体を引いてこいと言われるので、いやでたまりませんでした。紅頭山戦闘のときも、死体があまり多すぎて、担架では全部運べず、死人のゲートルをほどいて首に巻き、ずるずる引っ張っていきました」

 いつだったか、訪朝した日本のあるジャーナリスト代表団に会ったときのことであるが、そのなかに非常に背の高い新聞記者がいた。会見の席上では黙ってメモばかりとっていた彼が、昼食会のとき不意に口を開き、心のうちを腹蔵なく語り出した。金主席は「白頭山の虎」と言われていた方なので、恐ろしい人だろうと思っていたが、きょう会って見ると、ずいぶん親しみがわく、じつは、自分は紅頭山戦闘で度胆を抜かれた旧日本軍少尉だ、と話したのである。そして、自分は夜襲をかけられたとき歩哨の点検に出ていたので危うく命拾いをした、ところが生きて帰ったというので憲兵隊で活を入れられるなど、さんざんな目にあわされた、それが腹にすえかねて軍職を離れ、のちに記者になった、と言うのだった。

 紅頭山戦闘に参加した敵軍は、日満合同討伐隊であった。ところが、そのとき戦死したのは日本軍だけで、満州国軍のほうには死者がなかった。日本軍将校は満州国軍将校に向かって、戦死したのはみな皇軍で貴様たちだけ生き残ったのはどうしたわけだ、パルチザンの銃弾が皇軍にだけ当たる磁石をつけていたとでもいうのか、そんな磁石などあるわけはない、貴様たちが生き残ったのは遊撃隊と内通している証拠だと言って、殴ったり蹴ったりしたという。

 我々が紅頭山でけた違いの敵と戦って勝利しえた要因はなんであろうか。それは、遊撃隊員の強靱な精神力であったといえる。必勝の信念、不屈の闘志、自力更生、刻苦奮闘の革命精神、献身性と犠牲精神、これらの精神は、今日わが国で「白頭の革命精神」と一般に言われている。数倍あるいは数十倍の敵を前にしてもうろたえたり絶望したりせず、必勝の信念と不屈の闘志、自己犠牲の精神をもって戦ったので、我々はいつどこで、いかなる敵と戦っても敗れることがなかった。

 抗日遊撃隊員の必勝の信念と不屈の闘志が、どれほど強烈であったかを実証する例は枚挙にいとまがない。李斗洙は、岩屋の病院で李桂筍や朴順一ら3、4人の傷病者と一緒に宋医師の治療を受けながら苦しい日々を送っていた。病院とは名ばかりで、満足な薬や注射器もなく、メスのようなものもなかった。しかし、その貧弱な病院にも「白頭の革命精神」だけは横溢していた。

 重患の朴順一は第2師の軍需部長だったが、手当てが遅れたために足が腐りはじめていた。普天堡戦闘の直後、わたしは病院に食糧と一緒に戦利品の医薬品や缶詰、夏の軍服、靴などいろいろな物品を送り、病魔に必ずうちかつこと、全快後戦場での再会を希望する、という内容の手紙もそえて送った。

 手紙を読んだ朴順一は、空き缶でつくった手製ののこぎりを取り出し、腐った足を自分の手で切断すると言いだした。宋医師や他の同志たちはその決心をひるがえさせようとし、別の方法を考えてみようと言った。しかし彼の決心は、にぶらず、同情する仲間たちを消極的だとたしなめさえし、自分は前から足をこの手で切断する覚悟を決めていた、この決心を実行に移すには、きみたちのちょっとした手助けが必要だ、足を押さえてくれ、早く全快して革命の持ち場へ帰りたい、と言うのだった。彼は、しなりがちなブリキののこぎりで丸6日間、革命歌をうたいながら腐った足を自分の手で切断し、そのあとで気を失ったという。幸いにも傷口は徐々に癒えた。

 その年の初冬、彼らは、病院をいっそう深い山奥に移し、小屋をかけて過ごした。ところが、その病院が討伐隊の捜索にかかった。一番先に敵を発見した朴順一は、同志たちを救う一念で、自分を生け捕りにしようとする敵兵に組みつき、「討伐隊だ」と叫んで崖下に転がり落ちた。革命のため、わが足をみずから切断してまで命を保とうとしながらも、同志たちのためには惜しみなく命をささげるこのような人たちが、白頭山で生き、戦ったのである。朴順一の叫び声のおかげで、木を伐りに小屋を出ていた李斗洙は容易に難を避けることができた。しかし、李桂筍ら数人は捕らわれ残りは戦死した。

 戦友たちも、小屋も、食糧もなく、山中にひとり残った李斗洙は、筆舌につくせぬ苦しみを味わった。丸6日間、一粒の穀物も口にできずに過ごしたあと、李桂筍が食事の支度をするたびに、いく粒かずつとっておいた食器2杯分ほどの大豆を発見した。それを食べつくしてからは、イノシシの餌と言われるトクサを噛みながら命を持ちながらえた。あの白頭山のきびしい酷寒のなかで、衣服までぼろぼろになって古い麻袋の切れ端で身を包み、原始人のように野外で過ごさなければならなかったのだから、その苦しみをなんと表現できようか。カラスはまわりの木々に毎日のように群がって、騒々しく鳴きたてた。ときには、かわるがわる降りてきて、彼の顔を羽でなでたりした。李斗洙は、もう死んだほうがましだと考えた。灰の中に埋めて、どうにかもたしてきた火種まで消えてしまったのである。しかし、死を覚悟した瞬間、全快して戦場で会おうと言ったわたしの言葉や、戦友の安全をはかって崖下に転落した朴順一の最期が思い出されたという。

 「わたしには、死ぬ権利がない。みずから死を選ぶのは、わが身を犠牲にしてわたしを助けてくれた同志への裏切り行為だ。生きて再び戦場に立てというのは、司令官同志の命令だ。わたしには、この命令に背く権利がない」

 李斗洙は、生きるために必死の努力を払った。食糧も衣服もない絶海の孤島にひとしい山中で、じつに3か月と20日間を一人で過ごし、奇跡的に一命を取りとめたのである。李斗洙と同様、朴順一や李桂筍、そして、戦死したすべての戦友もやはり、肉体は塵土となって消え失せようとも、精神は白頭の霊峰のように烈々たる不死烏であった。

 我々は紅頭山戦闘後、つづけて桃泉里戦闘、鯉明水戦闘をおこなった。紅頭山戦闘を終えると、わたしは、直ちに部隊の主力を率いて長白県下崗区方面へ移動した。敵が白頭山周辺一帯に再び大兵力を集中して大捜索戦を展開している状況のもとで、新たな軍事作戦をおこなうには、彼らの注意をほかへそらせる必要があったのである。主力部隊の下崗区方面への移動は、敵の討伐兵力を分散させ混乱を引き起こしたあと、「冬季大討伐」を決定的に粉砕するための戦術であった。もともと我々は、旧正月後、南満州の戦友たちとも会うことを約束していた。

 部隊が腰房子付近の村に入ると、宿営命令をくだし、桃泉里へ偵察班を送った。彼らは途中、小部隊に敵情を知らせにくる桃泉里地下組織メンバーの1人に会った。その通報によると、我々の大部隊と小部隊の組み合わせ戦術にかかって一冬中翻弄され、無駄骨を折った靖安軍部隊が、我々との戦いにけりをつけると称して、司令部の行方を捜し求めているということだった。腰房子から桃泉里または崔令監谷へ行くには、白樺やシラカシ、背丈を越すアシやカヤなどがからみあって延々とつづく細道を通り抜けなければならなかった。我々はこの道を通って桃泉里上村へ行ったが、そのとき、伝令兵の崔金山が低木の茂みに入って、とげに目を刺され騒動を起こしたものである。

 もし、この12キロの道へ敵軍を引き込むことができれば、彼らは一列になって行軍するほかないので、我々の基本部隊が倒木にさえぎられた要所要所に待ち伏せていて、容易に寸断し掃討できるに違いなかった。わたしは、まず小部隊誘引戦で、敵を疲労困憊させたあと、大部隊による伏兵戦で徹底的に掃滅する決心をし、呉仲洽を司令部に呼んだ。彼には、敵軍を台地の細道へ誘引して寸断し、撃滅する任務を与えた。誘引班は敵の行軍縦隊があらわれると、その先頭隊列に一斉射撃を加えた。そして、すばやく身をひるがえし、伏兵隊の隠れているいばらの台地へ移動した。その意図を知るよしもない敵軍は、やみくもにそのあとを追った。誘引班は、いばらの茂る台地の道へ入り込んだ。いばらは、山になれていない敵兵には鉄条網にもひとしい障害物であった。このいばらに悩まされて、敵の隊伍はおのずと切れ切れになった。そのずた切れの隊伍に伏兵隊が猛射を浴びせた。敵兵は、谷間を右往左往し雪を血に染めて倒れた。数百にのぼる兵力が我々のこま切り戦術にかかって惨敗を喫したのである。日が暮れかかるころ、敵は多くの死傷者を戦場に捨てて桃泉里へ逃げ去った。

 桃泉里地下組織から、敵がその晩のうちに本拠地に引き揚げようとしている、と知らせてきた。我々の夜襲を恐れてあわてているというのである。部隊が集結場所から桃泉里前の道路へ行き着くには、少なくても2時間余りかかる。そこまで行く時間をかせぐには、なんとかして敵の出発時間を遅らせる必要があった。そこでわたしは、できるだけ敵の夕食準備を引きのばすよう桃泉里地下組織に指示した。桃泉里地下組織は、部隊が山から降りて伏兵陣をはる時間をつくるため、ずるずると食事の支度を長引かせた。敵はいらいらして早く夕食をつくるよう催促したが、地下組織メンバーの区長鄭東哲は誠意をこめているかのように、靖安軍のみなさんがせっかくわたしらの村に来たのに、粗末な接待はできないとニワトリをつぶさせたり、米をとかせたりして夕食の支度を遅らせた。結局、敵は真夜中近くになってようやく村を発った。それは、我々が桃泉里前の道路の左右に伏兵陣をはり、半時間ほど待っていたときだった。

 この伏兵戦で、我々は、靖安軍部隊を完膚なきまでに打ちのめした。カヤの茂った台地には敵の死体が転々としていた。遊撃隊員たちは、それらの死体から銃を取り上げて悠々と引き揚げた。この死体の運搬に24頭の牛が駆り出された。牛そり1台に9体ずつ乗せ、十三道溝まで運んでいったという。それ以来、人びとは「牛そり1台に9つ、24台なら合わせていくつになる?」と言い合って敵の敗北をあざ笑った。

 桃泉里戦闘後、部隊は富厚水谷へ移動した。そこで、我々は南満州の戦友たちに会い、彼らとの連合作戦でいま一つの痛快な戦闘をおこなった。それは、敵の「冬季大討伐」作戦を決定的に粉砕した最後の戦闘であった。敵が全力をつくして構想し、強行した「冬季大討伐」の撃破と朝鮮人民革命軍の連戦連勝によって、長白の地は完全に我々の天下になった。日本帝国主義者は、朝鮮人民革命軍を軍事的に制圧し、革命軍の祖国進出を阻もうと必死になったが、戦うたびに惨敗をまぬがれなかった。彼らは、わたしを政治的、道徳的に葬ろうと「匪賊の首魁」「共匪の首魁」などとそしり、ありとあらゆる策を弄したが、それも効を奏さなかった。そうなると、彼ら自身も、我々の遊撃戦術を「神出鬼没」「昇天入地」などと言って恐れた。

 日満軍警は、千変万化の我々の戦法に手も足も出なかった。敵がもっとも恐れたのは、「ラワ戦法」であった。彼らは、出版物や内部の訓令で、山岳地帯で「ラワ戦」のわなにはまらないよう、繰り返し強調した。いったん「ラワ」にかかると、誰も抜け出せないという恐怖心が日満軍警のあいだに熱病のように蔓延した。「ラワ戦法」とは、朝鮮人民革命軍のもっとも代表的な遊撃戦法の一つである伏兵戦に日満の軍警がつけた名である。「ラワ」とは、羅網の中国式発音で、天と地のどこにも抜け穴のない天羅地網、つまり包囲網、わなという意味である。

 1936年末〜1937年初の「冬季大討伐」で敗北を喫した敵は、その討伐経験を語るさい、我々の「ラワ戦法」でさんざんな目にあったことをよく話題にした。満州警察誌『鉄心』は、1937年5月号に掲載した混成旅団の軍事教官石沢の「金日成パルチザンの奇襲戦について」や「今回の討伐に関する所感」、そして、その後の座談会記事「討伐体験を語る」などで、「ラワ戦法」の戦術的完璧さを認め、パルチザンの戦法は今回の討伐期間を通してみれば、そのほとんどが「ラワ戦法」によっていることがわかる、パルチザンは我々より兵力が劣るときにこの戦法を使うばかりでなく、兵力がまさるときでもこの戦法を使うのを常套手段としている、本年2月、撫松県城西南方の大夾皮溝付近で金日成パルチザンと遭遇し、全員勇戦奮闘したが、勝つことができず名誉の戦死を遂げたのは、なによりもパルチザンの戦術「ラワ戦法」にはまったからである、そのような例はいくらでもある、と認め、改めて「ラワ」を警戒するよう警鐘を鳴らした。

 我々の遊撃戦術については、コミンテルンの学校でも注意を向けたようである。抗日革命闘士朴光鮮は機会あるたびに、コミンテルン学校の教員が朝鮮人民革命軍の遊撃戦法についてよく強調していた、と回想している。ソ連にはコミンテルンの運営する学校がいくつかあったが、当時、満州地方の共産主義者は、それらの学校をコミンテルン学校、またはコミンテルン大学と呼んでいた。コミンテルン学校は、世界各国の革命組織から推薦されてきた留学生や共産主義運動家の政治・軍事教育を目的としており、朴光鮮もそこでしばらく学窓生活を送った。

 朝鮮人民革命軍が長白の地に上げた銃声は、総督府の首脳をはじめ、朝鮮駐屯日本軍警、日本本土の政客や軍閥、資本家を戦慄させた。侵略者や反動勢力はその銃声に驚愕したが、朝鮮人民は喜び勇んだ。我々は、長白で展開した大胆な軍事作戦によって連戦連勝し、朝鮮人民革命軍の祖国進出への道を切り開いた。これらの作戦によって、朝鮮革命の事実上の主力である朝鮮人民革命軍の地位は確固不動のものとなった。

 わたしは、我々が長白でおこなった戦いが、世界を震撼させる大規模なものであったとは考えない。世界の戦史には数千、数万、ひいては、数十万の死傷者を出した大戦役や大決戦がいかに多かったことか。我々が1回の戦闘に投入した兵力はわずか数百名にすぎず、敵の死傷者も3けたか4けたにすぎない。しかしわたしは、これらの戦いを大きな誇りをもって振り返るものである。わたしが重視するのは、苦しい戦いのなかで発揮された革命軍の魂である。人民革命軍の意志は敵を圧倒した。敵を精神的に圧倒すれば、勝利は必然的にもたらされるものである。我々が、長白の地で展開した血戦の跡を大切にする理由はここにある。


 (注)本文中の、「(名)」表記は、『太平洋戦争への道』(朝日新聞社刊)による。



 


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