金日成主席『回顧録 世紀とともに』

2 国内党工作委員会


 我々自身の共産党をもつことは、朝鮮の革命家の一貫した願望であり、新しい世代の共産主義者が抗日革命闘争の展開にあたってかかげたもっとも重要な戦略的課題の一つであった。我々は、抗日武装闘争の全期間、革命闘争の実践のなかで鍛えられたすぐれた前衛闘士によって党の基層組織を拡大強化していく自主的な党建設方針を貫徹してきた。抗日革命の主力をなす朝鮮人民革命軍は、党創立の組織的・思想的準備を担当する党建設の主導的力量となった。朝鮮人民革命軍党委員会の指導的機能と役割の強化にともなって活発化した党建設活動は、武装闘争を政治的に強く支える一方、それにたいする党の指導と大衆的基盤を強化し、武装闘争を中心とする朝鮮革命全般を大高揚へと導く強力な推進力となった。抗日武装闘争に直接参加している共産主義的前衛闘士によっておし進められた党組織建設活動は、1930年代の後半期にいたって、わが国の共産主義運動の確固たる主流をなし、そのゆるぎない正統性を代表するようになった。

 我々の党建設活動は、最初から複雑多難な道を歩まざるをえなかった。それは、朝鮮革命の特殊性と、それにともなうさまざまの障害と関連していた。朝鮮の共産主義者は、自己の党をもつための闘争過程で人一倍大きな犠牲を払い、他人が直行する道を遠回りしなければならない陣痛を体験させられた。植民地諸国の抗争闘士が、党の創立過程で一般的に直面する難関とともに、我々は他国に間借りをしていた特殊な立場にあったため、他国の共産主義者が体験しなかった試練と苦衷をなめざるをえなかったのである。

 前にも述べたことだが、コミンテルンは1928年に朝鮮共産党の承認を取り消して再組織することを指令し、1国1党制の原則に従い、満州と日本にいる朝鮮共産主義者に駐在国の党に入ることを求めた。一部の人は、これを朝鮮共産主義者が否応なしに甘受すべき宿命として受けとめ、大勢に順応して外国の党に入り好機が到来するのを待つという受身の道を選び、また一部の人は、コミンテルンの主観主義的な措置に不満をいだいて服従せず、駐在国の党に党籍を移さない状態でしばらくの間従来どおりの運動をつづけた。しかし、惰性によって散発的に活動していたこういう人たちは、その存在をあまり維持できず、いずれも挫折してしまった。

 共産主義者が、必要に従って外国の党に臨時に党籍をおくのはありうることである。共産主義運動は、民族的運動であると同時に、階級的連帯を前提とする国際的な運動であるから、その運動を受け持った闘士が国籍を超越して一時外国の党組織に入るのは、どう見ても不自然なことではない。コミンテルン本部がモスクワにあったとき、そこにいた少なからぬ各国共産党の指導者や政治亡命者は、自国の党籍を保持したままソ連共産党組織に臨時登録し党生活に参加していたのである。問題は、コミンテルンが朝鮮共産主義者の母体組織を解消し、彼らを苦しい間借り生活をせざるをえない屈辱的な立場に落ち込ませたことである。こうした理由からして、我々は当初からコミンテルンの措置を穏当を欠いたものとみなした。だからといって、それに神経をとがらせて逆らったり、運動そのものを放棄するような自暴自棄の行動には走らなかった。コミンテルンがとった措置を一時的なものとして受けとめ、みずからの主動的な努力によって新しい型の党を建設するために根気強くたたかった。

 まず、コミンテルンの示した原則が許容する範囲内で朝鮮革命の具体的な実状にかなった方途をたえず模索しながら、独自の党を創立する準備をおし進めた。「トゥ・ドゥ」の前衛闘士を網羅した建設同志社の結成はその起点といえる。しかし、朝鮮人民革命軍の主力部隊が東満州や北満州で活動していた1930年代の前半期にはまだ、党建設をめざす我々の努力が国内深くには、さほど及んでいなかった。もちろん当時、すでに、穏城、鐘城など豆満江沿岸の国内各地にいくつかの基層党組織を設けてはいたが、党組織の建設をめざす新しい世代の共産主義者の主な活動舞台はまだ東満州に限られていた。我々は、朝鮮人民革命軍党委員会の強化に力を入れる一方、間島各県の党組織との緊密な連係のもとに党組織を拡大し、やがて党組織を国内に大々的に結成するのに必要な中核を育成した。

 我々が南湖頭会議の精神にもとづいて党建設方針を具体化し、その実現のための諸対策について討議したのは、1936年5月の東崗会議であった。この会議では、国内に党創立の組織的・思想的基盤を本格的に築く課題が上程され、その対策として国内党工作委員会を組織し、革命闘争の根幹によって前衛的な党組織の拡大をはかる問題が協議された。この会議では、党組織の建設は遊撃隊内に局限したり東北一帯のみを舞台にすべきではなく、国内深くにまで党創立の組織的・思想的基盤を築くこと、これまでは豆満江対岸の国境地帯の一部の地域にのみ基層党組織を設けたが、これからは国内の広大な地域に党組織をつくり、国内での党創立の準備を統一的に指導するために国内党工作委員会を組織すべきだということが重点的に強調された。国内党工作委員会を組織することは、全国的範囲で展開されるようになる反日民族統一戦線運動にたいする党の指導を強化するためにも切実に必要であった。このように、重大な使命をおびた国内党工作委員会を実情に合わせて組織するためには、朝鮮の実情に明るい国内共産主義者たちとの虚心坦懐な意見の交換がぜひとも必要であった。

 朴達の密営訪問は、こうした意見交換の絶好の機会となった。党組織の建設、これはわたしと朴達とのあいだで論議された中心的な問題の一つであった。祖国光復会の問題を論議したあと、我々は国内に党組織をつくる問題について数時間も真剣に語り合った。わたしが、国内に祖国光復会の組織だけでなく、共産党組織もつくるべきだという意向を述べると、朴達は驚きの色を浮かべ、どんな共産党組織なのかと尋ねた。それは、当然な質問だった。共産党が存在しない国、党再建の試みがことごとく水泡に帰し、それにそそがれた闘士たちの涙ぐましい労苦と情熱が鉄窓の中のうら悲しい追憶としてしか残っていない国、すでに久しい前から法によって結社の自由が奪われている国に共産党組織をつくるというのはどういうことなのか。朴達は、こんな疑問をいだいて自分の耳を疑っているようだった。の共産党、朝鮮の共産党組織をつくる考えだ、とわたしが答えると、彼はまた問い返した。

 「朝鮮に共産党組織をつくることについて、コミンテルンはどう考えているのですか。コミンテルンがそれを承認したのですか?」

 「それは、我々がすることであって、コミンテルンが承認するかしないかとは関係のないことでしょう。国内に我々の党組織をつくる問題で、コミンテルンの承認が必要だという法はないではありませんか」

 朴達は首をかしげた。

 「各国の共産党はみなコミンテルンの支部であり、その指導と統制を受けることになっているのに、コミンテルンの承認もなしに、勝手に党組織がつくれるというのですか?
コミンテルンがそれを許すでしょうか?」

 朴達は、確かに教条主義的な思考方式から抜け出していなかった。

 「そもそも革命というものは、自分の意思でやることであって、誰かの指令や承認を得てやることではありません。一つうかがいましょう。あなたは、誰かに言いつけられて革命活動をはじめたのですか。誰かの承認を得て甲山工作委員会という組織をつくったのですか」

 「そうではありません」

 「では、マルクスが共産主義者同盟を組織したのは、誰かの承認を得てのことですか。またレーニンが、ボルシェビキを組織したのは?」

 言葉につまった朴達は、なんとも言えなかった。

 「マルクスやレーニンは、誰の承認も得ずに党をつくったというのに、我々にはそれができないというのは筋が通りません。コミンテルンは、すでに1928年の12月テーゼで、朝鮮の共産主義者に党再建の課題を示しています。テーゼで提示されたとおり、国内に我々の党組織をつくるのに、誰があえてそれをとやかく言えるのですか。コミンテルンもとやかく言えないはずです。許可だの承認だのという問題自体が成立しません。それはあくまでも朝鮮共産主義者の自主権に属する問題です。わが家のことは家族同士で解決すべきであって、わざわざよその人間に聞く必要はないでしょう。朝鮮革命の主人はあくまでも我々ではありませんか」

 これでやっと、朴達は自分の考えが足りなかったと言って、わたしの立場と提案に積極的に賛成した。

 「わたしは、まったく愚か者でした。我々自身が朝鮮革命の主人だとは考えず、コミンテルンが各国の革命を左右するのだとばかり考えていました。ところで将軍、国内に党組織がつくられるとすれば、それはどこに所属するのですか。また誰の指導を受けるようになるのですか」

 「国内の党組織は、朝鮮人民革命軍党委員会に所属し、またその委員会の指導を受けるようになります。朝鮮に共産党が存在しないという現在の特殊な状況下で、朝鮮人民革命軍党委員会は朝鮮革命全般にたいする指導的機能を果たす参謀部となっています。この党委員会の活動は武力によってしっかり保護されています。日本帝国主義の野蛮な憲兵警察支配は、朝鮮での党再建の可能性をすっかり奪い去ってしまいました。党再建のために奔走していた闘士の大部分はいま獄につながれています。敵の魔手にかかっていないのはただ一つ、武力によって保障されている朝鮮人民革命軍党委員会だけです。朝鮮人民革命軍党委員会が朝鮮革命全般にたいする指導的機能を果たす理由はここにあるのです。朝鮮人民革命軍党委員会が朝鮮革命の参謀部の役割を果たすことになったのは、わが国の共産主義運動発展の必然的な帰結です。歴史が我々にそのような使命を果たすように求めたのです。今後組織される国内党工作委員会は、朝鮮人民革命軍の軍事的保護下に入るでしょう」

 「これですべてがのみこめました」

 朴達は明るく笑った。我々は、すぐさま国内党工作委員会の組織にかんする実務的問題の討議に入った。そのときも朴達は、先に質問をした。いつも先に質問をしてから論議に入るのが体質化しているようだった。

 「いま国内では、党を先に建設すべきか、大衆団体を先に組織すべきかということがさかんに論議されています。咸興の人は党の建設を優先させるべきだと主張し、端川や洪原の人はまず大衆団体を組織し、実践闘争を通じてのみ党を創立することができると固執しています」

 「あなたの見解はどうなのですか」

 「これといった見解はもっていません。常識的に言えば党を先に創立すべきでもあるようですし… それも自信はありません」

 朴達は、そういう論議の原点をコミンテルンの12月テーゼに求めていた。このテーゼの原題は、「朝鮮の農民および労働者の任務にかんするテーゼ」である。この文書を通じてコミンテルンは、朝鮮の共産主義者が労働者、農民団体のなかでの活動を活発化し、新幹会をはじめ、新旧民族解放団体内での闘士獲得に努め、党の思想的団結を重視してそれに全力を集中し、一日も早く朝鮮共産党を再組織し強化発展させるために最善をつくすことを求めた。ところが一部の共産主義者は、このテーゼが党建設と大衆団体の組織を同時に提起しているかのように受けとめたため、認識上の混乱をまねくようになったのである。

 「それは、論議の対象にならない問題だと思います。事の順序を決めるのは具体的な条件や実情であって、12月テーゼとはなんの関係もありません。状況によって党組織が先につくれる所には党組織をつくり、大衆団体が先につくれる所には大衆団体をつくればよいではありませんか。党員の資格をそなえた人が3人でもいれば、その3人だけでも直ちに共産党グループをつくることができるのです。しかし、入党適格者が1人もいなければ大衆団体を先に組織し、そこで共産主義者を育てあげてから党組織をつくることもできます。もちろん、党と大衆団体は相互に結びついているので、この両者を人為的に分離して考察してはいけません。しかし、順序はどうあれ、共産主義者は、大衆のなかでの党の後続隊の育成に全力をつくすべきであることを忘れてはなりません。党員の資格をそなえた前衛闘士さえいれば、党組織はいつでもつくれるものです」

 朴達は、わたしが構想している国内党工作委員会の果たす機能について尋ねたので詳細に説明した。

 ――国内党工作委員会は、国内の革命闘争を統一的に指導し、国内の党組織建設を担当する地域的な指導機関である。統一的な指導機能を果たす参謀部がなかったため、いま国内運動は分散性と自然成長性という2つの致命的な弱点を克服できずにいる。国内に分散して活動している愛国の志士と共産主義者を一つの勢力に結束し、彼らを直接連結させるためには、それを担当する指導機関がなくてはならない。その指導機関が、ほかならぬ国内党工作委員会だ。こうした委員会が発足すれば、そこに朴達同志を加える考えだ。あなたは、この委員会から派遣された国内全権代表の役目を果たすことになる。国内各地に散らばっている闘士の一人ひとりと会ってみたいが、いまはそういう時間の余裕がない。わたしの考えでは、あなたが帰ったらまず咸鏡南道と咸鏡北道をはじめ、各地方の運動家に会い、彼らを国内党組織に結集する準備をおし進めてもらいたい――

 わたしの話を聞いて、朴達は慎重な面持ちをした。

 「あまり買いかぶらないでください。わたしにそれだけの能力があるかどうか、いたらぬところが一つや二つではありません」

 率直なこの言葉は、彼への信頼感をいっそう深めさせた。そのとき開かれた朝鮮人民革命軍党委員会では、わたしを責任者とし、金平と朴達を委員とする国内党工作委員会が組織された。朴達には、この委員会の現地執行者として、甲山地方をはじめ国内各地域での党組織建設活動を主宰する任務が与えられた。朴達は、国内に基層党組織を先につくり、それにもとづいてやがて党中央機関を組織し党創立を宣言するというわたしの方法論を支持した。この会議が終わったあと朴達は、国内運動家の活動方法上、指摘すべき点や参考とすべき要項があったらよく教えてほしいと要請した。わたしは、なによりも亡命者式の活動方法から脱皮すべきだと助言した。

 「いま、国内の同志たちを見ると亡命者式の方法で活動していますが、それは百害あって一利なしの方法です。日中は山にひそんでいて、日が暮れるとひそかに村におりてきて人に会おうとするので、組織のメンバーは敵の監視を恐れて彼らと会うのを避けています。亡命者式の方法では組織を拡大することができません。これから、敵地で地下活動をする同志たちは、生産労働に参加し、最大限に合法的な活動の可能性を得るようにしなければなりません。亡命者式の活動方法は、直ちに捨て去るべきです」

 すると、朴達は顔を赤らめた。

 「じつは、わたしもそういう亡命者式の方法で活動してきました。わたしたちは正面衝突することばかり考え、場合によっては迂回の方法も使うべきだということには気がつかなかったのです」

 我々は公式の話からはずれて、しばらく雑談を交わした。わたしは、誰もがキッドの靴をはき、リーゼントスタイルでステッキをついてモダンぶっているというのに、旧習を嫌う朴達同志がなぜ坊主頭をしているのかと尋ねた。すると彼は、労組運動にたずさわっていたとき警察署に連行されると、巡査がきまって髪をつかんで頭を壁にぶちつけるので、しゃくにさわってあっさり丸刈りにしてしまったと言うのだった。わたしには、その丸刈りがきわめて機知に富む処置に思えた。彼は、わたしが望むなら、髪をリーゼントか角刈りにしてもよいと言った。

 「そんな必要はありません。あなたがわざと刈ったのですから、いまさらもとどおりにする必要はないでしょう」

 「将軍が反対しないなら、坊主頭のままでいることにします。

 これからまた警察の厄介にならないともかぎりませんから」

 事実その後、朴達は、警察と監獄でさんざん苦労したのである。わたしは、革命の利益のためとあれば巡査試験のようなものでも受ける用意があるかと尋ねた。すると、彼は目を丸くしてわたしを見つめた。

 「まさか、わたしを巡査に化けさせるつもりではないでしょうね」

 「革命の求めなら巡査の真似もしてみる必要があります。だからといって、あなたに巡査をさせるつもりはありません。巡査の帽子はかぶってもかぶらなくても、そういうことを通して駐在所の信用を得さえすればよいのです」

 朴達は会心の笑みをもらした。

 「巡査たちと多少親しんではいますが、巡査試験を受けることまでは考えませんでした。今度帰ったら一度受験してみることにします」

 朴達は翌年の春、本当に巡査試験を受けた。受験を前にして駐在所の首席巡査を訪ねた彼は、すました顔でこう言った。

 「首席さん、わたしも巡査になりたいんですが、どうお考えですか。わたしに巡査になる資質があるでしょうか」

 首席は興奮を隠しきれず、やにわに椅子から立ち上がった。

 「それは本気か?」

 「本気ですとも。巡査になりたい気持ちがなかったら、こうして首席さんを訪ねてきはしませんよ」

 「きみなら資質があり余る。うまくいけばこの駐在所の首席にもなれる」

 「いくらなんでも、首席さんの椅子を横取りするわけにはいかないでしょう。そんな無礼がどこにありますか」

 「いやかまわん。きみのような人が忠実な皇国臣民になるなら、わしは大日本帝国のために喜んで首席の椅子を譲る用意がある。その心意気は見上げたものだ。早く試験を受けてみろ」

 朴達は、さも巡査になりたがっているかのようにうわさを広めて受験した。だが、答案をいい加減に書いたので不合格になった。彼は、我々が仕組んだ脚本どおり見事な演技をしたわけである。日本人も彼の経歴を記した機密文書に「昭和12年(1937年)3月、咸鏡南道にて巡査を志願、甲山署で受験し落第す」と書き込んでいた。巡査試験を受けて以来、朴達は日本人から信用されるようになった。管轄駐在所の金なにがし巡査は、朴達は巡査試験まで受けた良民だと、幾度も身元保証人になった。このように、朴達は巡査たちをバックに、彼らへの忠実を装って自由自在に活動した。

 国内党工作委員会の組織は、我々がうちだした自主的な党創立方針を固守し、国内における党組織建設を強力に推進するうえで画期的な意義をもつ出来事であった。これは朝鮮共産党の解散後、分散的におこなわれていた党再建運動のたんなる延長や反復ではなかった。国内党工作委員会の指導のもとに展開された国内における党組織建設活動は、コミンテルンが主宰した党再建運動や、プロフィンテルン(赤色労働組合インターナショナル)が、赤色労組運動を通じて実現しようとした党再建運動とは、本質的に区別される徹頭徹尾、自主的な党再建運動、党組織建設闘争であった。

 1930年代に入ってコミンテルンは、朝鮮における民族解放闘争、とくに、党再建運動に少なからず関心を向けるようになった。それは、ヨーロッパにおけるファシズムに劣らず、極東では日本軍国主義が日増しに危険な勢力として登場していたためである。コミンテルンでは、朝鮮における共産党再建問題をめぐってクーシネンをはじめ、多くの人がそれなりの見解を示していた。その代表的なものが、コミンテルン第7回大会以後論議された朝鮮民族革命党の組織にかんする提案である。朝鮮での反日を目的とする民族革命党の組織にかんするコミンテルンの意思をより詳述したのは、『コミンテルン』に載った、満州の反帝統一戦線にかんする楊松の文章だったと思う。彼はこの文章で、間島における現況は、中国共産党組織を拡充するために、中国と朝鮮の革命的な労働者、農民をより多く入党させると同時に、朝鮮民族革命党を組織することを要請しているとし、この党のもっとも重要な任務は反日と朝鮮の民族独立をめざす闘争となるべきであり、この新しい党の創立者は共産主義者であるべきだと主張した。また、この党は性格上、反日統一戦線的な党になるべきだとした。こうした主張はコミンテルンと、当時コミンテルンに駐在していた中国共産党のメンバーの見解を代弁しているものといえた。

 しかし我々は、朝鮮における党組織建設問題と統一戦線結成問題を独自の判断と決心によって解決した。党組織の建設と統一戦線結成の問題を同時におし進めながらも、両者の混交は避けた。それは、党が統一戦線を代表したり、統一戦線体組織そのものが党になることはありえなかったからである。当時、独立運動家のなかには、民族唯一党という名目で左右両翼の政治勢力をすべて包容する中国の国民党に似た政治団体の結成を企図する人もいた。

 我々は、国内党工作委員会を組織して党組織の建設をおし進める一方、反日民族統一戦線体としての祖国光復会を結成する方法で全民族の大団結の実現を進めた。もちろん、コミンテルンはそれ以前にも、各面から朝鮮における党の再建をはかった。コミンテルンの指導下にあったプロフィンテルン執行局が1930年9月に発表した「朝鮮の革命的労働組合運動の任務にかんするテーゼ」(9月テーゼ)は、主として革命的労働組合の結成を共産党再建の必須の条件として示していた。朝鮮の共産主義者は、この9月テーゼにもとづいて革命的労働組合(赤色労働組合)の結成に努め、それを大衆的基盤として共産党の再建を推進した。翌年10月、プロフィンテルンの傘下組織であった上海駐在の汎太平洋労働組合書記部も、「太労10月書信」と称される「朝鮮の汎太平洋労働組合書記部支持者に送る緊急檄文」で、革命的労働組合を結成し、それを大衆的基盤にして共産党を再建するよう促した。プロフィンテルン系統のこれらの文書は、1931年5月に発表された、コミンテルン執行委員会のクーシネンによる「朝鮮の共産主義運動にかんする建議書」とともに、内容的には朝鮮における共産党再建問題を直接取り扱ったものであった。1934年6月、モスクワでは朝鮮共産党発起人グループの名義で「朝鮮共産党行動綱領」が発表されたが、これもやはり朝鮮における共産党再建のための努力の一環といえるであろう。

 朝鮮人民にたいする日本帝国主義の暴虐な植民地支配がつづき、革命運動にたいする弾圧が日を追ってはげしくなる状況のもとでも、国内の共産主義者はさまざまな形態の党再建運動をたえまなく展開した。咸鏡南道、咸鏡北道での共産党事件、朝鮮共産主義者同盟結成事件、朝鮮共産党再建コミンテルン朝鮮レポート会議事件、朝鮮共産党再建準備委員会事件などは、当時、国内各地で展開された党再建運動の一環である。

 中国を根拠地とする党再建運動もあった。M・L派とソウル・上海派は、中国の吉林一帯を中心に党再建準備委員会、党再組織中央幹部会、党再建同盟、党再建整理委員会などを組織して党再建運動を展開した。日本でも東京を拠点に党再建運動が展開された。

 1920年代の末から1930年代の中期にかけて全国的範囲で展開された赤色労組運動、赤色農組運動も、党再建運動の一環といえる。初期の合法的な形態から地下運動の非合法的形態に移行した赤色労組と赤色農組の基本的な闘争目的は、共産党の再建にあった。国内と海外で展開された党再建運動は、そのほとんどが既成の古い運動形式と事大主義的傾向、派閥観念からさほど脱していない上層部の運動にとどまっていた。しかし、こうした制約にもかかわらず、我々は従来の再建運動の成果をふまえて国内に新しい型の党組織をつくるために努力した。言うならば、以前の赤色労組と赤色農組の線を求め、そこに、我々の党細胞をつくるため多くの努力を傾けたのである。

 1937年の5月下旬、我々は白頭山根拠地で国内党工作委員会第2回会議を開き、国内党工作委員会の機能と役割を高め、国内における党組織建設活動と革命運動にたいする指導をいっそう強化する対策を講じた。会議では、国内党工作委員会組織後の党組織建設状況を総括し、国内における党組織建設活動の課題と方途について真剣に協議した。そのときわたしは、党組織の建設と党生活において事大主義と教条主義に反対することをとくに強調し、国内に分散して活動している共産主義者を党をはじめ、各種の革命組織に吸収し、党組織が増大している現実の要請に即応して党の組織指導体系を確立するためのいくつかの案を提示した。この会議で討議、決定された内容は、朝鮮人民革命軍の朝鮮国内への進出を積極化し、党組織建設と国内革命闘争を発展させるうえで一つの明確な里程標となった。

 その後、我々は、国内党工作を支援する使命をおびた政治工作隊を派遣した。1937年の夏と秋に、国内党工作委員会委員の金平と権永璧、鄭日権、金周賢、馬東熙、金正淑、白永哲、李東学、崔景和、金雲信、李昌善、李景雲、李炳璇らをメンバーとする政治工作隊が北部朝鮮の各地域に派遣され、党組織建設活動と大衆工作をおこなった。この工作隊を北部朝鮮政治工作隊と呼んだ。この工作隊は、北部朝鮮一帯を革命化する方法で、国内党組織の建設を実質的に助けた。工作隊員には、政治活動区域を分担させた。そのような政治活動区域は、政治区とも呼ばれた。政治区は1号政治区、2号政治区、3号政治区、4号政治区、5号政治区に分けられた。その地域的範囲は、主として金平がわたしと合議して設定した。政治区は、東海岸から西海岸にいたり、番号もそれによって決められた。工作隊員たちは、当該工作地へ行ってじかに組織・政治活動を進めたり、各自が育てたすぐれた工作員を派遣して間接的方法で活動したりした。

 李東学を責任者とする北部朝鮮工作隊の一グループは、国内党建設の基盤構築に有利な条件をつくるため、1937年の初め、李悌淳の案内のもとに甲山郡雲興面一帯の農村で反日愛国思想と朝鮮独立を鼓吹する数百枚の布告文、檄文を散布し、大衆宣伝活動をおこなってすばやく帰隊した。三水郡一帯を受け持った馬東煕や池泰環のグループもあいついで国内に入り、周到かつ活発な政治工作を展開して嶺北地方(咸鏡北道一帯)の民心をゆさぶった。

 わたしは朴達の活動上の便宜をはかって、孫長福という若い連絡員を派遣した。孫長福には、国内に入ったら日本官庁の戸籍に登録し、朝鮮で生まれて育った人間を装うようにと命じた。孫長福を連れて駐在所に行った朴達は、なに食わぬ顔をして首席巡査に言った。

 「首席さん、喜んでください」

 首席はけげんな顔をして2人を見くらべた。巡査試験を受けて以来、朴達にたいする首席の態度は驚くほど親切になっていた。

 「なにか、めでたいことでもあったのか?」

 「ええ、ただで弟が1人ころがりこんできたんですよ」

 朴達はもじもじする孫長福を前に押しやり、駐在所中に聞こえるような大声で言った。

 「弟が1人いたらといつも思っていたわたしに、父がそれをかなえてくれたんですよ」

 「というと、このチョンガーは父が定めてくれた義弟なのか?」

 「いや、これは父が吉州にいたとき、他の女に手をつけてもうけた腹違いの弟なんですよ。生母が死んでさまよい歩いているうちに、甲山に腹違いの兄がいると聞いて、のこのこやってきたのです。それで、わたしが面倒をみることにしたわけです」

 「そうか、ただでこういう子どもを1人もうけるとは、きみの親父もなかなかのやり手だな」

 首席の言葉に、駐在所の巡査たちはどっと笑った。いい気分になった首席は、なにも言わずに手続きをしてくれた。朴達は、孫長福を朴永徳という名で戸籍にのせた。こうして、孫長福は地下活動をはじめた。

 ところが数日後、思いもかけぬ事件が起きて甲山地下組織の活動に被害が及んだ。甲山郡雲興面大中里のある農家に強盗が入って現金20円を強奪していったのだが、その強盗が正体を隠そうとして山から来た人のように振舞ったのである。当時、遊撃隊員をさして「山の人」と言い、遊撃隊工作員を「山から来た人」と呼んでいた。強盗事件が起きたちょうどそのとき、朴達は祖国光復会の下部組織の活動を指導するため大中里に行ってきたのだった。この偶然の一致のため、朴達は「山から来た人」という嫌疑をかけられ警察に拘束された。そのとき警察では、朴達の家に吉州から来た李炳璇という人物が出入りしていることをかぎつけ、彼も一緒に逮捕しようとしたが、あいにく当人がおらず無駄足を踏んだ。李炳璇は吉州で赤色農組事件に連座し、その前年に金永国と一緒に甲山に来たのであった。金永国が遊撃隊に入隊した後、李炳璇は普天面のある木材所に籍をおき、その一帯の民族解放同盟組織の指導にあたっていた。その日、日本人警官は朴達の家にいた孫長福を李炳璇と思って捕えたが、年からして李炳璇でないことを確認し、そのまま立ち去った。

 当時、我々は、長白と国内に多数の政治工作員を派遣したが、朝鮮人民革命軍の隊員だけでは充足しきれなかった。必要な人員をみたすには、少なくとも1個連隊に相当する政治工作員が必要だったが、遊撃隊が軍事活動を二の次にして政治活動ばかりするわけにはいかなかった。我々は政治工作の経験を積んでいる長白地方の地下組織メンバーと、かつて東満州一帯の革命組織に加わり大衆工作の経験を積んだ隊員たちを選抜して国内に派遣した。時を同じくして、長白県の祖国光復会組織からも、李悌淳のルートから多数の工作員が国内に入った。

 政治工作員の派遣は、国内党工作委員会委員の金平が担当した。当時の彼の職責は第7連隊政治委員であった。彼は、朝鮮人民革命軍司令部で敵中工作にかかわる活動を担当していたすぐれた政治・軍事活動家で、豊富な地下活動経験の持ち主だった。彼は、1930年代の前半期はもちろん、後半期に入ってもわたしの仕事を大いに補佐してくれた。金平は抗日革命の時期、わたしがもっとも大事にし信頼した政治・軍事活動家の1人である。もっとも彼はその後、裏切者の密告で敵に逮捕されて苦労もし、政治生活にも汚点を残しはしたが、わたしにたいする忠実性にかけては変わりがなかった。彼は朝鮮人民革命軍司令部と党委員会の活動に少なからず関係し、我々が国内の革命家との連係を強めながら武装闘争を国内へ拡大し、全人民的抗争の準備を本格化していた時期に、その活動を直接担当していたので、当時の事柄には誰よりも明るかった。軍事問題とともに、とくに極秘裏に進められた政治工作にかかわる事柄のうち、金平だけしか知らない内容も少なくなかった。彼が回想したくわしい事柄や事件、年代はおおよそ正確なものだった。彼が残した記録は、わが党の革命歴史を豊富なものにするのに大いに寄与したと思う。彼が最後まで遊撃隊伍でたたかい、祖国解放の日を迎えることができたなら、それに越したことはなかった。いまでも、わたしの忠実な補佐役であった白頭山時代の金平が忘れられない。

 国内に派遣された政治工作員は、労組、農組など既存の組織と個々の共産主義グループに深く浸透し、党組織の建設と祖国光復会組織の拡大をはかる活動を精力的に展開した。政治工作員のめざましい活動によって、国内の人民のあいだには、「白頭山の風」がすさまじい勢いで吹き込んだ。彼らの影響のもとに、国内の同胞は朝鮮人民革命軍にたいする正しい認識をもつようになり、多くの人が人民革命軍への入隊を希望して白頭山にやってきた。

 我々は国内党組織建設のためのいま一つの措置として、朝鮮民族解放同盟組織で鍛えられたすぐれた同盟員で国内党グループを結成した。歴史家は、朴達を責任者とするこのグループを「3人組」と称している。この「3人組」は、基層党組織としての役割とともに、国内党建設の母体組織としての役割も遂行する使命を担っていた。党組織の拡大と党勢拡大のための朴達の活動方法で特異なものは無名党組織の結成であった。無名党組織とは、正式の名称はもたないが実際には秘密裏に活動する党員の組織のことである。このような組織は祖国光復会内にもあった。無名の地下革命組織は、敵の弾圧がその極に達した場合の組織建設の独特な方法の一つである。組織の名称をつけず、会議も開かないかわりに、個別的に会って教育し、闘争方法を教え、任務の分担などもしたので、たとえメンバーの1人が検挙されたとしても他のメンバーには被害が及ばないようになっていた。

 わたしと別れて甲山に帰った朴達は、国内党組織の建設に精魂を傾けた。彼は我々が示した方針どおり、甲山と三水一帯を国内党組織建設の原種場にし、それを基盤にしてしだいに他郡、他道へと活動舞台を広げていった。我々がこの地方を国内党組織建設の原種場にできる最良の適地として選定したのは、その地帯の特殊な社会的・経済的条件を考慮したからである。三水、甲山といえば、まずは流刑の地として知られている。「三水、甲山へ流されようとも」という朝鮮のことわざは、この地帯が有名な流刑の地であったことに由来している。李朝時代に封建王朝の迫害を受け、ここに追われて流刑生活をした没落両班の子孫は、だいたい火田民か鉱夫となって最下層の生活をしていた。「韓日併合」以後、生きる道を求めて蓋馬高原一帯に流れ着いた流浪の民も、ここまで来てくわで切株を掘り返し、小屋で寝起きしながら力に余る焼き畑農業を営んだ。この地方の住民構成は、階級的見地からすれば素地がいいといえた。

 遊撃活動に有利な高原地帯の奥深い自然条件は、1910年代から義兵と独立軍が火繩銃を手に決死輔国の理念をいだいて転戦する戦場となり、社会運動家を抱きとめる朝鮮最大の避難所となった。北部朝鮮のほとんどすべての地域から、合法的活動の権利を奪われた社会運動家が隠れ里を求めてここに集まってきた。朝鮮国内はもちろん、北間島と西間島、シベリアからも有志たちが集まってきた。

 朴達の話によれば、1920年代の中ごろに平壌崇実中学校の同盟休校を指導した4人の反日運動家が、三水、甲山一帯に来て火田民たちの社会主義研究グループをつくったのが、この地方の社会主義運動のはじまりになったという。その後、東海岸沿いの各地方で労組運動、農組運動に腐心していた人たちがここに亡命してきて、彼らとともに青年同盟や農民同盟をつくり、前衛同盟も結成した。これらの理由からしても、三水、甲山地方は、国内党組織建設の原種場になる十分な条件をそなえているといえた。

 甲山工作委員会は最初、特定の名称ももたずに発足した。1934年5月にはじまり、最初は李庚封を引き入れ、ついで金鉄億を獲得し、つぎには沈昌植とつぎつぎに広げ、亜麻強制栽培反対闘争、迷信打破闘争、早婚反対闘争などをおこなった。そのうち、2年ほどして互いに組織のメンバーであることがわかり、その無名の組織を甲山工作委員会と名づけた。

 国内党組織建設で得たこのような経験にもとづき、その後、わたしは党支部の活動方法について書いた文でこの方法を定式化し、1940年代の前半期にグループ工作のため国内に派遣される隊員たちにこの方法を活用するよう指示した。解放後、ある人はこう回想している。

 「ある組織に加入した。その組織の名称と内容は、秘密に付されていてわからなかった」

 甲山出身のある革命家は、朴達から手渡された秘密書籍を読み、使い走りをしただけなのに日本の司法機関によって重刑を科され、解放されるまで獄につながれていたと述懐している。このような人たちが、特定の名称もない組織のメンバーだったのであろう。

 朴達は、三水、甲山一帯を国内党組織建設の原種場にしたのち、そこで育てあげたすぐれた人たちを選んで隣接した郡や道に派遣しはじめた。彼らに与えられた任務は、工作地へ行って党組織建設の土台を築くことであった。朴達は我々の方針どおり、工作員に必ず適切な職業をもたせる方向で活動を組織した。こうすれば、工作員の身分が社会的に合法化されて任務をりっぱに遂行することができるばかりでなく、亡命者式の活動方法を根絶して大衆のなかにしっかりと根をおろすことができた。

 朴達は、茂山郡にだけでも5、6人の工作員を派遣した。朝鮮民族解放同盟の傘下組織である普天面宣徳洞反日会の責任者であった蔡応浩も、そのころ茂山郡に派遣され、政治工作員との連係のもとに遊撃隊の給養物資を調達するための義援金工作と大衆を組織化する活動を進める一方、生産遊撃隊を組織するための準備活動を猛烈に展開した。彼は「恵山事件」以後も、延吉、和竜一帯を亡命地とし、茂山地方に足しげく通い地道に林業労働者を革命組織に結集した。朴達は、朝鮮民族解放同盟青年部責任者の李竜述と李炳璇を咸鏡北道南部の各郡に派遣した。そして彼らを通じて、国内革命運動と党組織建設にかんする方針が城津赤色農組のリーダーの一人である許聖鎮に伝達された。我々の路線を支持して最後までたたかうことを誓った許聖鎮は、わたしに会おうと甲山まで来たが、無駄足を踏んで帰ったという。あいにく、わたしは「熱河遠征」の悪影響を収拾するため、臨江、濛江一帯へ出向いていたからである。

 朴達は、党組織の建設と祖国光復会組織の拡大に努める一方、朝鮮革命の軍事的力量の強化のためにも大いに力をそそいだ。李炳璇が密営に来たとき、わたしは彼を通じて、国内党組織のメンバーと祖国光復会の青年中核によって生産遊撃隊を組織する任務を朴達に伝えた。朴達は、生産遊撃隊組織の手はじめとして自衛団を利用した。日本帝国主義者は「郷土防衛」の名のもとに、自衛団を大々的に拡張し、銃器まで持たせて自衛団員を訓練していた。自衛団に生産遊撃隊員を全部もぐり込ませれば、武器に精通し、敵にも大いに信頼されるばかりでなく、いざというときには一斉に立ち上がって敵に銃口を向けることができると考えた朴達は、大五是川自衛団の副団長という肩書きを利用して、所定の入団年齢に合った生産遊撃隊員を全員自衛団に入団させ、彼らに指導的ポストを占めさせた。

 朴達は、北部朝鮮反日遊撃隊を組織するという我々の方針を実現するためにも大きな努力を傾けた。我々は、北部朝鮮一帯で武装闘争をすみやかに拡大発展させる必要から国内党組織のメンバーを中心とする北部朝鮮反日遊撃隊を組織する構想を示した。茂山、甲山から赴戦嶺にいたる嶺北の広大な地域は遊撃活動に適した理想的な地帯であった。そのころわたしは、国内の同志たちに、北部朝鮮反日遊撃隊を組織せよ、部隊の指導的中核になりうるすぐれた遊撃隊員を選抜して送る、彼らを母体にして隊伍を拡大し訓練もせよ、と指示した。北部朝鮮反日遊撃隊の隊長には、第7連隊の崔一賢が、政治委員には朴達が任命された。もし、朴達をはじめとする朝鮮民族解放同盟の幹部の大部分が逮捕、投獄される不祥事が起こらなかったなら、北部朝鮮反日遊撃隊の編成は計画どおり順調におこなわれたはずである。国内党組織のメンバーは、金周賢別働隊が国内に派遣されたときにもその活動を積極的に援助した。

 朴達は、日本の軍警が国内党組織と朝鮮民族解放同盟のメンバーを手当たり次第に検挙しているきびしい状況のもとでも、たたかいを中断しなかった。彼は、すでに築きあげた基層党組織と祖国光復会の組織網を地下に温存させるためにあらゆる努力をつくした。「恵山事件」のため国内党組織と朝鮮民族解放同盟のメンバーが直面している試練については、金平がわたしに逐一通報してくれた。わたしはその通報を受けるとすぐ、馬東煕と張曽烈を国内に派遣した。しかし、この救援措置は、2人が朴達の行方を求めて各地を訪ねまわっているうちに逮捕され、効を奏しなかった。それで今度は、国内工作経験の豊富な金正淑を大鎮坪に派遣した。その間、端川、北青、洪原、新浦など東海岸地区で組織の拡大をはかっていた朴達は大鎮坪に帰り、苦境に追い込まれている組織の収拾にあたっていた。金正淑は、千辛万苦の末に朴達に会い、会見の結果をわたしに報告した。わたしは、白永哲を責任者とする連絡グループを甲山地方に送り込んだ。白永哲は、遊撃隊の活動とともに、国内工作の経験も多く積んでいた。彼は隅勒洞地方に密営を設けて各地で食糧工作をしていたが、馬東煕と張曽烈が逮捕された後、部隊に呼びもどされていた。白永哲は、国内に踏み入った瞬間から警察の追撃を受け、言い知れぬ苦労の末に、朴達、金鉄億、李竜述らに会った。わたしは、連絡グループと一緒に白頭山にやってきた朴達一行に、破壊された革命組織を立て直し、国内革命に新たな高揚をもたらす任務を与えて再び甲山地方へ送り込んだ。

 朴達一行とともに再び国内に入った白永哲は、束薪地区で工作中に日本人警官と遭遇した。腹部に銃弾を浴び腸を押えて抵抗をつづけたが、逮捕されてしまった。日本人警官は彼を土穴の中に座らせ、道行く人に「共産匪賊」だといって石を投げさせ、生き埋めにした。朴達と国内党組織を救援する闘争は、じつに莫大な努力と犠牲をともなった。敵は朴達を捕えようと、密偵と裏切者を各地に送り込み、山という山はすべて捜索する騒動を起こした。朴達は国内党工作委員会委員として、我々を助けて国内における党組織の建設と反日民族統一戦線運動の拡大に大きな貢献をした。彼は、国内党組織を担当した主要人物であった。

 国内における党組織の建設をおし進めるうえで、金平、権永璧、金正淑などの政治工作員も重要な役割を果たした。彼らは、新坡、豊山、狼林、赴戦、興南、新興、利原、端川、虚川など北部朝鮮と長白一帯で折り重なる難関と試練をのりこえ、各地域に党組織をつくって共産主義者をかたく結集した。

 わが党の前衛闘士の積極的な活動によって国内の広い地域に党組織が急速に拡大された。甲山、新坡、豊山などの咸鏡南道、咸鏡北道と陽徳地方、そして平壌、碧城など西部朝鮮一帯の多くの鉱山、炭鉱、工場、農村、漁村、都市に革命組織がぞくぞくと建設された。赤色労組運動や赤色農組運動の熱風がおさまっていた地域では、再び革命的な労組運動と農組運動が息を吹き返した。従来の労組、農組が、再組織、再編成される過程は、そのまま党組織が生まれる過程と一致した。党組織と祖国光復会組織は、北部朝鮮一帯ばかりでなく、遠くソウルをはじめ、中部朝鮮一帯と慶尚道、全羅道一帯にまでいたり、済州島と玄海灘を越えて日本にまで拡大された。

 国内における党組織の建設は、長白と臨江一帯での党組織建設との密接なつながりのもとに推進された。党組織は、長白、撫松、臨江一帯の朝鮮人居住地域にも根をおろし、東満州と南満州一帯にも拡大された。党組織の建設が全国的・全民族的範囲で強力に推進される過程を通じて、分散して活動していた共産主義者が組織的に結束され、朝鮮革命全般にたいする党の指導がさらに強化された。朝鮮人民革命軍党委員会の統一的な指導のもとにすべての党組織が動く、全国的範囲の強力な党組織体系が確立された。最高指導機関である朝鮮人民革命軍党委員会から基層組織の細胞にいたるまで党組織指導体系が確立されるにともない、党創立の組織的・思想的基礎構築活動に画期的な転換がもたらされた。

 これは、我々が抗日革命闘争でかちとったいま一つの大きな獲得物であり、白頭山へ進出して以来、鴨緑江と豆満江沿岸地区で得た軍事作戦上の勝利に劣らぬ政治的勝利であった。党組織建設のための我々の血みどろの闘争は、祖国の解放を早める力強い推進力となったばかりでなく、自主的な党創立の偉業をりっぱに完遂しうる強力な基礎となった。派閥争いと理論の欠如、実践能力の不足のため疎外され軽視されてきた朝鮮共産主義運動は、抗日武装闘争の炎のなかで自己の新たな道を力強く切り開きはじめたのである。



 


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