金日成主席『回顧録 世紀とともに』

1 不屈の闘士 朴達


 朴達は、かつて軍服を着たことがなかったし、わたしと同じ部隊で戦ったこともなかった。わたしが白頭山地区で朴達に会ったのは数回にすぎない。彼は何度もわたしを訪ねてきたのだが、2度ほどはわたしが不在で会えなかった。一面識もない人物と1、2度会って、その人となりをすっかり知るというのはむずかしいことである。しかし、一夜にして万里の長城を築くという言葉もあるように、わたしと朴達は、最初の対面でかなり深く理解しあえたといえる。

 李悌淳と同様、朴達も世の荒波に汚されていない純朴な人間だった。派閥に属したこともなく、主義者風を吹かせて尊大ぶることもなかった。朴達は、わたしが吉林時代にしばしば会った金燦や安光泉のような時流に乗じた運動家ではなかった。彼は純朴な田夫然としたところがあったが、言葉づかいや物腰は洗練され、学識も豊かだった。最初の対面からも重みのある人物であることが容易にうかがえた。従来のさまざまな運動について、自分なりの批判もし、民族の活路について憂えもした。彼は、従来の運動方式を打破するに足る指導者を探しあぐねて、興南や端川にも行き、間島にも渡ったという。朴達が指導者を求めて悶々とした日々を送っていたとき、我々のほうでも国内の有能な革命家を見つけるために百方手をつくしていた。

 朝鮮革命の主体的路線を貫くにあたって重視した戦略的課題は、一方では国内に武装闘争と政治闘争全般を指導しうる有力な策源地、秘密拠点を築くことであり、他方では強力な政治勢力と軍事勢力をととのえ、自力で解放を達成するための全人民的抗争の準備を促すことであった。国内に強力な政治勢力を築く活動は、祖国光復会網を拡大し、各階層の広範な愛国勢力を反日民族統一戦線の旗のもとに結集すると同時に、国内に強力な党組織網をめぐらし、武装闘争を中心とする全般的抗日革命を一大高揚へと導く中核陣容をととのえることを意味した。これは事実上、我々が白頭山に陣取って展開することになるすべての政治的・軍事的活動の成否を左右する鍵ともいえた。

 我々は、国内革命運動の拡大発展をはかるたたかいをゼロの状態ではじめたわけではなかった。国内には、我々が足場にして革命を深めていくに足る一定の組織的基盤があり、日本帝国主義の軍刀と棍棒の下をくぐりぬけてきた、鍛えられた政治勢力も存在していた。労働組合や農民組合をはじめ、全国各地に雨後の筍のように現れた階層別の大衆組織、それらを抗日へと導く点検ずみの闘士たち、重なる失敗や紆余曲折をへて鍛えられ、洗練され、強くなった人民、挫折と被害を体験するたびに胸をかきむしり、血涙をもって記録した闘争の教訓… これらは、国内の革命運動を新たな戦略と戦術にもとづいていちだんと深化発展させる強固な基礎であった。国内の革命運動の業績と経験を尊重し、その成果をふまえて既成の運動を収拾し、新たな時代の要請に即応して発展させることは、国内の革命運動との関係で我々がとった姿勢であり、方針であった。

 我々は1920年代末、1930年代初から、「トゥ・ドゥ」および朝鮮革命軍で育成した優秀な工作員を北部国境地帯と国内深くにまで送り込み、政治的・軍事的基盤を築くための一連の準備を先行させていた。国内の革命運動をいちだんと高い段階に発展させるには、朝鮮民族解放闘争と共産主義運動の中心的指導勢力として登場した人民革命軍の朝鮮国内への本格的な政治的・軍事的進出と、国内の運動への積極的な支援が必要であった。事実、失敗と挫折を繰り返してきた国内の革命運動は新たな指導と路線を待望していた。運動の上層部は派閥争いで混乱していたが、下部の先覚者や人民は革新的な路線と指導を受け入れ、決戦にのぞむ態勢をととのえていた。党の再建に熱をあげていた闘士たちも、地下や獄中で失敗の経験をかえりみながら活路を求めて暗中模索していた。

 我々には、こうした要請に敏感にこたえうる実際的な対策が必要であった。なかでも第一義的なことは、ほかならぬ抗日武装闘争と国内革命運動の一元化を実現することであった。抗日武装闘争と国内革命運動の一元化を実現するということは、言葉をかえて言えば、国内の革命運動にたいする我々の指導を実現するということである。この課題を果たすためにはなによりも、国内で李悌淳のような堅実な革命家たちを探し出し、彼らとの共同の努力によって祖国光復会の網の目を急速に拡大し、全民族を反日聖戦へと呼び起こす対策を立てなければならなかった。その適任者として選ばれたのが朴達であった。朴達をわたしに紹介したのは李悌淳である。

 「朴達は自分が正しいと信じることのためなら、刃の上にでも立つ気骨のある男です。理論も大したものです。あるときは、ひとかどの思想家気取りで偉ぶっていた端川出身の長髪族と論争をたたかわし、ぐうの音も出なくしたことがあるほどです。咸鏡南北道を開拓するには朴達に会うべきです!」

 わたしは、李悌淳の話を聞いて、心中大いに喜んだ。しかし、会う前にそのすべてを信じることはひかえた。実際、わたしはうわさの高い名士に会って、期待を裏切られて失望したことがよくあったのである。かつてわたしは、主義主張にかかわりなく多くの名士に会ったが、それなりの卓見といえるものがなく、思考や実践に目新しいものがない人が少なくなかった。

 朴達は、わたしが吉林時代に会った安昌浩、金佐鎮、李青天、呉東振、孫貞道、沈竜俊、玄黙観、玄河竹、高遠岩、金燦、安光泉、申日鎔、徐重錫のような一流の名士ではなかった。朴達の場合は、せいぜい田舎の巡査や特高が注目する程度の人物にすぎなかった。ところが、その素朴な田夫然とした人間が結局、朝鮮革命に大きな痕跡を残した巨人として頭角をあらわし、わたしの忘れえぬ莫逆の友、同志となったのである。李悌淳の話によれば、朴達の本名は朴文湘であるが、パクタル(オノオレカンバ)のように強健な男であるということで、隣人たちが「朴達(パクタル)」と呼び、それがいつしか別名となり、とうとう実名になってしまったという。

 朴達は、咸鏡北道吉州郡徳山面の生まれで、父親が明川でイワシ工場を経営したというから、暮らしはそう悪くはなかったようだが、学歴は普通学校(小学校)を卒業しただけだった。11歳で嫁をもらい、16歳で父親が経営するイワシ工場に就職して月給とりの会計係になった。おそらく父親は、息子を早く独り立ちさせようとしたのであろう。朴達は早婚を恥じて、友人たちに結婚したことを打ち明けようとしなかったという。昼食どきに家へ帰っても、妻がひとりでいると、食事を出せと言えず、部屋の中を行ったり来たりしたそうである。父親は、太っ腹で思いやりもあったが、酒色を好み、妾をかこっていた。そんなことから朴達の生母は夫からうとんじられ、息子は母親に深く同情していたようである。

 「わたしがいちばん憎んだのは、妾をかこう人間たちでした」

 いつだったか、朴達はわたしにこんなことを言った。

 「わたしはずっと、妾をかこった父親のもとで母がなめた苦しみを目撃しながら、蓄妾制度の苦い味を骨身にしみて体験した人間です」

 彼は解放後、我々が法によって蓄妾制度を廃したのをたいへんりっぱなことだと喜んだ。蓄妾制度のために母親がこうむった不幸は、朴達を生涯苦しめる原因となった。彼は、夫のあたたかい愛情をほとんど受けることができず孤独に生きた母親の人生から教訓をくみ、酒色を遠ざけ、5つも年上の妻に終生いちずな愛情をそそいだ。朴達がいま一つ軽蔑したのは、吝嗇漢(りんしょくかん)であった。彼は、職級や職業、性別にかかわりなく、けちな人間はみな憎んだ。

 「わたしは、けちけちした人間を見ると一日中、飯が喉を通りません」

 わたしが朱乙(現在の鏡城)で朴達に会った1957年には、そんな閑談ができるほど彼の健康は好転していた。それを聞いてわたしは、彼がなによりも嫌うのは、個人主義、利己主義であることを知った。

 朴達自身は、人徳が高かった。俗にいう人情味のあふれる人間だった。ジャガイモの取り入れどきになると、彼は家の前を通りかかる人たちを呼び入れた。今年のジャガイモの味は格別だ、ちょっと味わってみないか、と食い気をそそっては手を引くのである。ジャガイモを植えなかった家には、ジャガイモの餅をついて贈ったりした。朴達のような人情の持ち主が金持ちであったら、大変な慈善家になっていたであろう。彼は貧しくても、隣人のためならなにも惜しまない人間だった。

 朴達は小学校卒業後、独学で漢学を学び、中学の講義録も読んだ。朴達がいかに勤勉な篤学の士であったかは、彼が西大門刑務所に服役中、身体の障害にめげず『東医宝鑑』を全巻読破した一事をもってしても、よくわかるであろう。「恵山事件」のとき、朴達の家を家宅捜索した警官たちは目を丸くした。『祖国光復会10大綱領』『祖国光復会創立宣言』をはじめ『社会主義大義』『社会進化論』『植民地問題の基本知識』『無産階級の婦人運動』『失業反対闘争宣言』『社会主義事典』『第7回コミンテルン大会における王明の演説』『中国共産党創立15周年記念』『朝鮮問題に関するテーゼ』『党員の基本常識』など社会主義関係の書籍が大量にあらわれたのである。まっとうな家具一つない家ではあったが、書物にかけては長者だった。

 朴達はわたしにはじめて会ったとき、自分はこれといって学んだこともなく、知識も浅いから文盲とみなして一から十まで教えてほしいと言ったが、それはへりくだって言ったことで、実際はマルクス主義革命理論一般について相当の知識を有していた。しかし、彼は自分の知識をひけらかそうとはしなかったし、それで他人を威圧しようともしなかった。まして、なにかの「ヘゲモニー」を握ろうなどという野心はつゆほどもなかった。彼は、物欲も地位欲もないつつましい人間だった。ほかならぬここに、真の人間、真の愛国者、真の革命家としての朴達の真骨頂があるのではなかろうか。朴達はつねに、みずからを学ぶ人間の立場に置き、誰かが自分の手をとって正しい道へ導いてくれることを切望した。甲山工作委員会を組織するときも、その包括範囲を「甲山」という地方的なものに限定し、工作委員会という名称を用いることで、その暫定的な性格も明確にした。彼らは最初から、やがて朝鮮共産党が創立されればそれに服従することを前提とし、そのときに組織の名を適切なものに変えることにしていた。朴達が甲山工作委員会を組織したのは、反日闘争を導くに足る指導者に出会えなかった実情から、自力で地方的な枠内でだけでもまず組織をつくり、運動をはじめてみようという立場からだった。

 朴達が甲山工作委員会を組織する過程は平坦なものではなかった。当時、甲山地方の一部の社会運動家は、軍警の暴圧におじけづいて投降主義的立場に陥っていたが、彼らはその理由を党中央機関の不在に求めて、自分たちの立場を正当化しようとした。

 「甲山郡内で自然発生的に起こる反帝闘争をあおるようなことはひかえるべきだ。将来、朝鮮共産党が組織されて新しい路線が示され、その路線によって甲山における運動が指導されるまで、我々は待つべきである。こうするのがマルクス・レーニン主義に忠実であり、中央集権制の原則を尊重することである」

 朴達は、そのような立場を革命からの逃避であると批判し、甲山郡で起こる自然発生的な運動は、我々が組織化すべきであり、それを全朝鮮的な運動へ発展させるために努力しなければならない、そうしてこそ、将来共産党が組織されても、党中央がこの地方の運動をより容易に指導できるようになるであろう、と指摘した。甲山工作委員会はこのように、好機の到来を座して待つとか、警察の目を避けて他地方に逃れ、一身の安穏を求めようとする者たちとの妥協のないたたかいを通して組織されたのである。朴達は、敵の弾圧から甲山工作委員会を守るため、下部組織の名を政友会、前進会、反日会などとさまざまなものにした。大衆を啓蒙するために、振興会や自衛団のような御用団体もためらわず利用した。それらの団体の名で夜学会や運動会、早起き会などがおこなわれると、内実を知らぬ警官たちは、甲山の田舎者たちもそろそろ忠実な皇国臣民になりつつあるようだ、と悦に入った。

 朴達は月1回の工作委員会下部組織責任者の会合を開くときには、サッカーの試合を催した。人びとが集まり、試合がはじまると、その陰でひそかに会合を開き、任務の分担をおこなうなど、必要なことはなんでもした。祭祀、結婚式、誕生祝い、還暦祝いなども組織のメンバーや責任者の秘密の会合に利用した。合法的な可能性を利用するので、組織の偽装もうまくいき、組織活動も活発に進めることができた。工作委員会のメンバーは、このような合法的活動の可能性を最大限に利用するため、日本の警察やその手先との関係もきわめて巧みに保った。工作委員会の指令で、ほとんどの組織メンバーが日本帝国主義の御用団体や末端行政機関に入り込み、「積極分子」として活動した。これは日本の軍警や手先への敵対感情をむきだしにして、あたまから対決姿勢をとっていた新幹会、労総、青盟、赤色労組、赤色農組などの闘争方法に比べれば、じつに大胆な革新的措置であった。

 国内の闘士たちのなかで、朴達がはじめて応用したこの外柔内剛の偽装戦術は大きな効果をあらわした。警察機関や自衛団その他の官公署、農村振興会、消防組、学校組合、山林保護組合などの団体で、村長や区長、なになに長といった肩書きをもって言いつけに柔順なふりをしていれば、敵の気を緩めさせ、その内部を十分に把握することができ、彼らのまわりに結集している勢力を瓦解させて味方にし、また人民を保護するうえでも効果的だった。朴達は甲山工作委員会の責任者であるばかりか、その委員会の政治部と争議部も担当しているしたたかな革命家であったが、敵の管轄する公共団体にも入っていた。彼は、普天面新興里一区の農村振興会副会長、一区一新書堂契の契長、自衛団副団長、雲興面大五是川里消防組の消防手などの要職を公然と占めていたのである。

 「恵山事件」の第1次投獄者のうち、63名が自衛団員であったという一事をもってしても、彼らがいかに巧みに日本帝国主義の御用機関や団体を利用していたかがわかるであろう。その63名のなかには、振興会庶務部長、自衛団五家組長、山林保護組合評議員、産農指導区指導委員、火田測量総代、中堅青年講習会受講生、書堂学務委員、簡易学校評議員など、さまざまな肩書きをもつ人たちがいた。

 甲山工作委員会は、このように合法と非合法の方法を巧みに組み合わせて、農村地域の特性に合ったスローガン、例えば、小作料の引き下げ、火田の自由開墾、夫役反対、高利貸し反対、亜麻の強制栽培反対、小麦の強制栽培反対などのスローガンをかかげて強力に闘争を展開した。一見して経済闘争にかたよっているような印象を受けかねないが、そこには亜麻や小麦の強制栽培に反対する深刻な政治闘争のスローガンも含まれていたのである。甲山地区の農民が亜麻の強制栽培措置に反対したのは、その作物が軍需品の原料に利用される事情とかかわっていた。彼らは、亜麻の種を釜で蒸して植えたり、まばらに植えて枝分かれが多くなるようにして、使いものにならなくする方法で強制栽培措置を破綻させた。

 いずれにせよ、李悌淳の話を聞いただけでも、朴達が一日も早く手を結ぶべき人物であることは確かであった。我々は、朴達に会う方法を相談し、李悌淳を国内連絡責任者に任命した。李悌淳は、さっそく連絡任務を果たした。朴達が人民革命軍代表の派遣を要請しているという李悌淳の報告が、連絡員を通じてわたしに伝えられた。彼はわたしとの会見を熱望しながらも、なぜか、じかには密営に訪ねてこようとしなかった。わたしはこのことからも、彼がきわめて思慮深い革命家であると確信した。軽率な行動をつつしむ朴達の慎重さと用意周到さは、彼にたいするわたしの信頼と好奇心をつのらせた。我々には、鍋のようにたやすく沸いてもすぐに冷めてしまったり、風の吹くままに揺れる軽はずみな思想家ではなく、真面目で沈着で用意周到な革命家が必要だった。わたしは朴達の要請どおり、党活動経験の豊かな権永璧を甲山地方に派遣した。そのとき、わたしが権永璧に託した朴達への手紙はつぎのとおりである。


祖国を愛し、日本帝国主義に反対してたたかっている
国内の愛国者のみなさんへ

 国内で凶悪な敵日本帝国主義とたたかっているみなさん!
 我々は、祖国の解放をめざして武器をとり、満州の広野で日満軍警と戦っています。
 我々は、みなさんとかたく手を握り、総力をあげて日本帝国主義に抗し、祖国の解放をめざしてたたかうことを望んでやみません。
 我々の代表を派遣しますので、虚心坦懐に意見を交わされるよう望みます。
敬礼   
金日成   

 権永璧が甲山に向かうとき、李悌淳も同行した。2人が朴達に会ったのは1936年12月であったと思う。朴達はそのときはじめて、権永璧を通じて祖国光復会が創立されたことを知った。権永壁は、朝鮮人民革命軍が展開してきた主な活動内容についても彼に紹介した。権永璧の出現は、我々との連係を熱望する朴達に衝撃を与えたらしい。権永璧が帰ってきて言うことには、朴達は感情をめったに顔にあらわすことがなく、「金仏」というあだなまでつけられているとのことだったが、わたしの手紙を見てはうれしさのあまり、目をうるませたという。

 「彼は、すぐにでも将軍に会わせてほしいと言いました。司令官同志さえ承諾してくだされば、いつでも訪ねると言うのです」

 彼の報告を聞くと、わたしも朴達に会いたい気持ちがいっそうつのった。わたしは、我々の密営で朴達に会うことにし、会見に必要な対策を講じるよう権永璧に指示した。朴達のほうでも我々を訪ねてくる準備をした。準備といっても、それは、鴨緑江を無事に渡ることだった。当時の殺伐とした情勢のもとでは、非合法の渡河はほとんど不可能であった。彼はいろいろと渡河方法を考えた末、恵山警察署管下の大水溜(クンウンデンイ)村にある駐在所に金巡査を訪ねていった。

 「金巡査さん、長白の消息を聞きましたかい?」

 朴達は駐在所に入ると、大変なことでも起こったかのように仰々しく言った。金巡査ばかりか他の巡査たちも何事かと彼に視線を集めた。

 「なんのことだ?」

 「長白地方に匪賊がはびこり、住民が他の地方に移住しようと穀物をどんどん手放すので、値段ががた落ちだそうです。それで、大豆を牛車2台分ほど仕入れて金もうけをしたいんですが、安い大豆を手に入れたかったら、ひとつ渡江証を出してくれませんかね」

 巡査たちはすっかり乗り気になり、渡江証を出してやるから自分たちにもみそ用の大豆を運んできてくれ、と頼んだ。渡江証は、思いのほかたやすく手に入った。こうして、朴達は鴨緑江を無事に渡り、李悌淳の家へやってきた。彼が朴達を案内して司令部に到着したのは、夜が明けはじめるころだった。李悌淳が言っていたように、朴達は広い肩幅に比べて顔が小さく、どこか身体のつくりに釣り合いがとれないような感じの人だった。外貌からすれば風雲児らしいところはほとんど見られず、きこりのような印象だという李悌淳の言葉が当たっているようだった。しかし、わたしを見つめるするどい眼光には非凡なものが感じられた。

 「とても会いたかったです」

 これが、朴達の最初の挨拶だった。飾り気のない簡単な挨拶だったが、真情がにじんでいた。その短い無骨な言葉に、なぜかわたしは胸が熱くなった。

 朴達は吉州で留置場に入れられたときから、わたしとの対面を心に描きはじめたという。敵の監視を避ける一方、組織の拡大をはかって吉州に移った彼は、製紙工場の工事場で土木労働に従事中、警察に連行され、留置場に入れられた。ある日、朴達は紙くずの束のなかから、朝鮮人民革命軍が長白地区に進出し敵を痛撃しているという記事が載っている新聞を発見した。それ以来、彼はずっと我々に思いを馳せていたというのである。放免された朴達は甲山に帰ると、我々と連係をつける手づるをつかもうと、行商人になりすまして鴨緑江沿いの農村をくまなく巡り歩いたという。

 「実際、今日こうして将軍にお会いできたのは、まったくの幸運です」

 朴達はうれしさのあまり、またもわたしの手をとって強くゆさぶった。

 「朴達同志に会えて、わたしも同じ気持ちです。あなたは、朝鮮人民革命軍が白頭山に進出してからわたしたちを訪ねた最初の国内代表です」

 「わたしが代表だなんて、とんでもありません。この甲山の田舎者が…。吉州や城津、咸興のような都会で、なにかの運動をするという人たちは、わたしのような者は見向きもしません」

 彼は、物腰まで「甲山の田舎者」らしく振舞おうと努めているように見えた。しかし、わたしは朴達のそのへりくだった話しぶりや身のこなしから、むしろ、彼が並々ならぬ人物であることを感じた。

 「都会にだけ大人物が出るという法はないではありませんか。李悌淳同志を通じて甲山工作委員会がその間、多くの反日愛国活動をおこなったことを聞きました。国内にそんな骨のある人たちがいるので、我々には大きな励ましとなります」

 身体を温めるようにと白湯をすすめたが、朴達は一口すすっただけで、国内の状況を報告したい、とせきこんだ。全身が熱情につつまれた感嘆すべき男だった。朴達との本格的な対話は、翌朝からはじまった。我々はそのとき、じつに多くのことを語り合った。対話は、朴達が当時の国内情勢と甲山地方の運動状況を紹介することからはじまった。彼は、国内情勢をおよそつぎのように説明した。

 国内情勢は衰退期に入っているといえる。党再建運動は気息えんえんとしているようだし、農組運動も下火になっている。運動家たちは弾圧にたえられず、あの山この山と隠れ歩いている。再起する力はあるのか? ない。たとえ勇気をふるって立ち上がったところで路線がない。盲滅法にたたかえるわけがないではないか。彼らは、生命の危険を避けることにのみきゅうきゅうとしている。勇気を失わず闘争をつづけている人たちもいるにはいるが、相変わらず分派的習性を捨てきれないでいる。上海派、オロシャ派といった派閥がいまなお残っているばかりか、咸南派、咸北派というのもあり、はては、同じ咸南派のなかにも咸興派、洪原派、端川派などが派生していがみ合い、甲論乙駁を繰り返しては精力を使い果たし、大衆を混乱に陥れている。

 「国内革命運動の最大の隘路は、正しい指導に欠けていることです。つまり、万人を納得させるだけの路線がなく、そのような路線を提起しうる人物がいないことです。それで以前、端川で農民暴動が起きたときも、コミンテルンに使者を送って助言と指導を要請したのですが、そこでもこれといった収穫がなかった模様です。だから、我々は誰を頼りにできるというのですか」

 朴達の説明は一言でいって、国内の革命運動で切実に解決がまたれる最大の問題は、路線問題、指導の問題であると理解できた。

 我々の対話で論議されたいま一つの重要な問題は、朝鮮人民革命軍の使命と性格にかんすることであった。朴達は、少々ぶしつけな質問をするが悪く思わないでほしい、と深刻な表情で言った。

 「いま、国内の革命家のあいだでは、金日成将軍は朝鮮人だが、中国革命をする人であり、金日成部隊は朝鮮人からなる部隊だが東北抗日連軍に属する部隊だと言われていますが、これをどう理解すべきでしょうか。将軍からじかに説明を聞きたいのです」

 李悌淳の言葉どおり、確かに朴達はたいへん率直な人だった。わたしは朴達のために、かなり長い説明をせざるをえなかった。

 出版報道機関が、わたしの率いる部隊を東北抗日連軍第2軍第6師と呼んでいるのだから、国内の革命家がそんな疑問をいだくのは当然である。しかし、わたしの率いる部隊を完全な中国の軍隊であると認めるなら、それは大きな間違いで、事実にも反する。東北抗日連軍というのは文字どおり、中国東北地方で活動する各種抗日遊撃部隊の連合軍である。そこには、共産党系の中国人遊撃部隊、救国軍系の中国人反日部隊、そして、朝鮮共産主義者が組織し指揮する朝鮮人抗日遊撃隊などが参加している。それは、反日抗戦で共同歩調をとるために結集した一種の国際的な連合軍である。日本という共通の敵、祖国の解放という同じ目的、東北という同一の闘争舞台、さらに、歴史的に形成されてきた朝中両国人民の親善の情と共通の境遇、こうしたことが朝中両国の共産主義者と愛国者の武装部隊にそういう武力連合を実現させたのである。連軍体系はあくまでも自発性によるものだから、抗日連軍は各民族軍の自主性と独自性を尊重している。我々朝鮮人民革命軍は、連軍の名で中国革命を支援しながらも、祖国の解放を根本使命とする民族軍隊としての性格を完全にそなえて朝鮮革命に主力をおき、独自の活動をおこなっている。朝鮮人民革命軍が創建初期から祖国の解放と自民族の自由のために戦う朝鮮の民族軍隊であることは、満州に住む同胞ならみな知っている。我々は、中国人の多い地方では抗日連軍と称し、朝鮮人の多い地方では朝鮮人民革命軍と名のっている。ひところ、ある人たちは1国1党制の原則をたてに、朝鮮人が朝鮮革命をすることに文句をつけ、わが民族軍の独自性と自主的権利を侵し、踏みにじろうとさえした。その後、コミンテルンは、朝鮮人が朝鮮革命をおこなうのは1国1党制の原則に背くものではないとし、我々に抗日連軍から分立して独自に活動するよう勧告した。けれども、我々はそのままでいることにした。分家すれば、我々への中国人民の支持が弱まる恐れがあり、我々の活動も不便になりかねない。連軍を民族別に分離するのは中国人も望んでいない。我々が維持している連軍体系は、共通の敵と戦う朝中両国戦友の血縁的つながりの所産であり、国際的な反帝共同行動の模範であると胸を張って言えるのである。我々の自主的権利が侵されず、また中国人が嫌わない以上、我々は今後もこの体系を維持するつもりである。できることなら、モンゴル民族軍やソ連軍とも抗日連軍を編制して戦いたい。

 朴達は、わたしの説明を聞くと、部屋中が明るくなるほど顔をほころばせた。

 「なるほど。そうとも知らず、我々はいたずらに失望していました。金将軍のパルチザンが中国軍所属の軍隊なら期待をかける余地はないではありませんか。しかし、いまは勇気百倍です!」

 「それなら、わたしもうれしい。さらに言えば、朝鮮人民革命軍については確信をいだいても結構です。日本軍は強い軍隊には違いないが、決して無敵ではありません。我々は、白頭山を拠点にして朝鮮国内に解放戦を拡大するつもりです。祖国の解放は、時間の問題です。我々は、自力で祖国を解放する力を蓄えつつあります。そのなかに、ほかならぬあなたが指導する甲山工作委員会も含まれていることを銘記してください」

 わたしと朴達との対話でつぎに重要な話題となったのは、我々の統一戦線政策と祖国光復会についての問題であった。朴達は、反日民族統一戦線の必要性とその拡大強化のための措置、『祖国光復会10大綱領』に盛られている総体的志向に全幅的な支持を表明した。彼は、祖国光復会がうちだした、目的の高さと普遍性、包括している勢力の膨大さにおいて、かつての新幹会や槿友会のような左右合作の所産であった民族団体とは根本的に異なる、巨大型の団体だと評した。だからといって、彼が我々の措置や方針のすべてを支持したのではなかった。彼は、祖国光復会の名称や一部の条項には異見を示した。

 「わたしは、我々共産主義者が民族解放をめざしてたたかってはいても、最終目的はあくまでも共産社会の建設にあるとかたく信じています。ところが、祖国光復会の名称や10大綱領を見ると、そういう共産主義的綱領の要求からはほど遠く、民族主義の線にまで後退した感があります。いわば最高綱領は放棄し、最低綱領だけをかかげたと言おうか…」

 朴達はおそらく、我々が運動の最高目的を放棄して一種の日和見主義的立場に、積極的な闘争形式よりも妥協的な改良主義運動に方向を変えたというそしりを受けそうで、それを懸念しているようだった。彼もまた、「パイプじいさん」が初期にとらわれていた教条主義的な考え方から抜け切れないでいるようだった。

 そこでわたしは、革命は何人かの共産主義者の力だけではやれない、各階層の広範な大衆が総動員されてはじめて、我々の革命は勝利しうる、周知のように日本帝国主義植民地支配下では、労働者や農民や共産主義者ばかりでなく、全民族が圧制のもとで呻吟している、このような状況のもとでは朝鮮の独立に利害関係がある勢力をすべて反日民族統一戦線に結集しなければならない、あなたは祖国光復会の名称問題に異議があるようだが、それはどの階層の人たちもみな受け入れることのできる適切な名称だ、いま一部の人は、団体名を一つつけるにも革命とか、赤色とかいった表現が入らなければ気がすまないようだが、それは極左的偏向の一つのあらわれである、我々は汎民族的な統一戦線組織体の名称に祖国という表現を使うことで、それがある限定された階級や階層のための組織ではなく、全民族のための組織であることを明確に示そうとしたのだ、と説明した。

 朴達は、城津、鶴城、吉州、端川、北青など各地方の人たちとしばしば会って経験の交換もしているが、彼らは地下活動をおろかしく、ずさんにしているようだと言った。例えば、城津などでは、農組員たちが端午の節句に相撲場へ行っても、これみよがしに赤鉢巻をしてずらりと並んで座るというのである。そんなやり方で、彼らは非組織大衆との違いを示した。土俵で味方が不利になると、勝算があろうがなかろうが、つぎつぎに選手を繰り出す人海戦術で相手を圧倒しようとやっきになり、それでも実力ではかなわないとみると、競技にけちをつけて騒ぎを引き起こし赤色農組の威力を誇示した。役員席に座っている私服刑事は、そんな機会を逃さず農組の中核を見分け、それを手がかりにして農組のアクチブを検挙したり地下組織を摘発したりした。

 当時、一部の地方では、郷校との関係でも極左的偏向を犯していた。郷校は、儒教の祖である孔子の霊を祭る地方有志たちの封建臭の強い組織である。そこでは、掌議、校監などの名誉職を授け、挨拶を交わすときは、誰それ掌議様、誰それ校監様などといって敬意を表わすのを礼法としていた。これはもちろん、封建的儒教道徳を宣揚するもので、なにも奨励すべきことではなかったが、だからといって露骨に反対したり、一朝一夕にやめさせようとすべきではなかった。ところが、極左に毒された一部の青年は、封建に反対すると称して、祖父の掌議の冠を燃やしたり破ったりする愚行を働き、年寄りにキセルで打たれるような醜態をさらすことさえあった。老人たちは、共産党の輩は、三綱五倫も知らず、長上を敬うことも知らない無頼漢だといきりたった。

 そうした間隙から利を得るのは、日本帝国主義者だけだった。彼らは、郷校で孔子の霊を祭るとき、郡守(郡長)も参加して拝礼するようにさせた。共産主義者は年寄りにたてつくが、日本の官庁はそうではないと見せびらかすためだった。彼らはこのように、地方の郷校組織まで共産主義勢力を除去するために巧みに利用した。

 「重ねて強調しますが、『赤色』とか『革命』とかいう大げさな名称をつけたからといって団体の活動がスムーズに運ぶのでもなければ、組織の革命性がおのずと保障されるものでもありません。祖国光復会の組織は、当該地方の実情や大衆の覚醒程度に合わせて、さまざまな名称をつけて組織することができます。例えば、労働者は労働組合を、農民は農民組合を組織し、青年は反帝青年同盟や共産青年同盟のようなものを組織するといったふうに、実情に即して組織をつくるべきです。我々が確認したところでは、国内の各地に振興会という御用団体がありますが、そこに少なからぬ大衆が加わっているようです。各階層の大衆を獲得するためには、そんな団体にも入っていくべきです。入っていってそこに属する人たちを革命化すれば、祖国光復会の創立宣言の趣旨にそって団体の性格も徐々に変えていくことができるでしょう。大切なのは外観ではなく内容です。朝鮮革命に有利なことであれば、どんな名称の組織であろうと、それにこだわることはありません」

 朴達は、わたしの説明を聞いてみずからをかえりみた。

 「お話をうかがってみると、確かにわたしたちの運動方式に問題があるようです」

 わたしは朴達の話から、国内の闘士たちの考え方に盲点と制約があることを知った。思考と実践における彼らの最大の過ちは一言でいって、民族主義運動と共産主義運動にたいする教条主義的理解であった。彼らが、民族主義運動一般を排斥し、敬遠するのは、当時、マルクス・レーニン主義をよく消化できず、うのみにしていたえせ共産主義者や読経式マルクス主義信奉者一般が犯していた極左的偏向であった。わたしは、朝鮮の共産主義者にとって民族の解放にまさる大義はないと改めて強調し、民族を離れた共産主義運動などありえず、またそんな共産主義運動は不要である、と言った。

 「我々のいう民族の概念のなかには、労働者、農民だけでなく、祖国を愛し、民族を愛し、創造的労働を愛し、解放された祖国の未来を愛する各階層の大衆がすべて含まれています。これが、ほかならぬ民族総動員の基準であり、祖国光復会の入会基準です。我々は、このような基準にもとづいて、朝鮮の自由と独立のために可能な人をすべて動員しなければなりません。外部勢力によってではなく、民族自体の力で国の独立を成就すべきであり、また成就できるという自主独立思想にもとづく民族の総動員だけが、朝鮮の運命を破滅の淵から救えるのです」

 朴達は思考と実践において少なからず教条に陥っていたが、それを率直に認め、わたしの主張を素直に受け入れた。わたしは彼に、甲山工作委員会を祖国光復会の傘下組織にし、その名称を朝鮮民族解放同盟と改称するよう提案した。朴達は、これに快く同意した。我々は長時間、祖国光復会網を国内に拡大するうえでの朝鮮民族解放同盟の任務と具体的な方策を協議した。戸外にたき火を起こし、火にあたりながら対話をつづけた。朴達が密営に留まっている間、わたしは彼と、国内に党組織を拡大する問題をはじめ、朝鮮人民革命軍の援護問題、敵の支配機関への浸透問題、国内の革命家の身辺を守る問題、今後の連絡方法と連絡場所、暗号、連絡員の問題など多くのことを討議し、すべての問題で完全な理解と見解の一致を見た。

 朴達と会ってわたしが受けたもっとも深い印象は、率直さとこだわりのない性格、革命にたいする真摯な態度だった。彼は、よいものはよい、いやなものはいやだとはっきり言うタイプの人間だった。世間には往々にして、心の中ではいやだと思っても口先では同意し、よくないと思っても相手の顔色や時勢をうかがって、よいと言う人たちがいるものである。たとえ相手の気分を多少損ねるようなことがあっても、真実をそのままに語る覚悟と勇気をもって、黒は黒、白は白と言い切れる人が多くなければならないのだが、そうでない場合もある。上司の顔色をうかがって、白を黒、黒を白と言い、時勢に応じてこうも言ったりああも言ったりして、上部におもねるのは忠臣ではなく奸臣である。奸臣の舌先に真実は宿りえない。しかし朴達は、気に入らないことは気に入らないと率直に言った。正直なところ、わたしは、彼のそういう性分にすっかり惚れ込んでしまった。魅力というのは、決して複雑、絢爛、多弁、仰々しさなどにあるのではないと思う。もっとも単純で平凡、素朴、率直なところにこそ、人間の魅力の核心があるのである。

 共和国政府の初代国家計画委員会委員長であった鄭準沢は、小市民出身のインテリであり、分派分子から政治的迫害を少なからず受けた幹部であったが、わたしの前ではつねに正論を吐いた。彼は経済政策の実行にあたって、可能なことだけを可能だと言い、不可能なことを決して可能だとは言わなかった。例えば、わたしにゆがめられた報告が入って、ある生産指標について不正確な見解をもちかねないと思うと、わたしの執務室へやってきて、4時間、5時間と待たされるようなことがあっても、必ず正確な実態を報告したものである。それでわたしは、彼のおかげで国家経済管理全般をつねに正確にとらえ、経済の指導を正しくおこなうことができた。

 昔は、人材の登用にあたって、第1に家柄、第2に容姿、第3に言葉つきを見たという。だから、身分が低く、体格が貧弱で、口が無調法な人はいくら有能でも壮元(科挙甲科の首席)及第はむずかしかったという。わたしの外祖父は、「人材は、家柄や財産、容姿、言葉つきをもって登用すべきでなく、能力と人となりを見て登用すべきだ」と言ったものである。朴達に会って、ふと外祖父のこの訓戒が思い出された。見るからに純朴な、この朴達こそ気骨があり、見栄を張らず、うわべを飾らない率直でこだわりのない誠実な人間である。最近のはやり言葉で言えば、彼は確かに「心に残る人」である。

 「わたしは、身が粉ごなに砕けても、最後まで将軍と志をともにし、祖国の解放をめざしてたたかうつもりですから、信じてください。それに、国内党工作委員会と朝鮮民族解放同盟のことは心配しないでください」

 朴達はこう言い残して、わたしと別れた。もちろん、彼は、李悌淳の村で満州産のみそ用の大豆を牛車1台分買って帰り、約束どおり巡査たちに分け与えた。

 1937年1月、甲山工作委員会の指導的中核たちは、朴達の司会で甲山工作委員会を朝鮮民族解放同盟に改編するための会議を開き、『祖国光復会10大綱領』を朝鮮民族解放同盟の綱領として採択した。会議では、反日民族統一戦線の実行対策も討議された。組織を甲山地方の枠から道の範囲、全国的な範囲へと拡大する問題、同盟組織内にいっさい分派的要素が入り込まないよう厳重に警戒する問題、秘密厳守の問題、同盟員の教育問題、機関誌の発行問題など、当面のいろいろな実践的問題が真剣に討議された。

 甲山工作委員会の朝鮮民族解放同盟への改編は、祖国光復会の運動史上特別の意義をもついま一つの歴史的な出来事であった。朝鮮民族解放同盟は、祖国光復会組織を国内深くへ拡大する一つの発進基地となった。甲山工作委員会が朝鮮民族解放同盟に改編されたあと、甲山地方の共産主義者の考え方や活動スタイルには大きな変化が起きた。彼らは、朝鮮民族解放同盟の機関誌『火田民』に我々の路線を紹介する記事などを載せて下部の組織に配布した。甲山をはじめ咸鏡南北道一帯には、我々の路線と方針がいちはやく伝えられ、祖国光復会の下部組織が急速に成長した。反日闘争の炎はかつてない勢いで燃え上がった。

 1937年5月、わたしは再び朴達に会った。崔賢部隊の茂山方面進出により、甲山一帯の情勢はきわめて険悪になった。国境一帯にはまた、蟻のはいでるすきもない厳重な警備陣が敷かれた。だが、朴達は、今度も警官をうまく言いくるめて合法的に村を発ち、わたしを訪ねてきた。我々は、国内情勢と活動状況について長時間語り合った。国内の運動状況についての朴達の報告を聞いて、我々はみな満足した。祖国光復会の組織網を拡大する活動は、朝鮮民族解放同盟の前衛闘士たちのねばり強い努力によって急速に進捗していた。祖国光復会の組織は、甲山地方をはじめ、いまの両江道一帯はもとより、遠く城津、吉州、端川、洪原その他東海岸一帯の主要地域にも広く伸びていた。闘争方法もはるかにみがきがかかっていた。

 わたしは、朴達に戦利品の2挺の軽機関銃を見せた。朴達が、それらをさすりながら喜んでいた姿がいまもありありと思い浮かぶ。

 国内の同志たちに会って感じた問題点は、彼らが運動の国内的側面にのみとらわれて問題を設定する狭い枠組みから抜け出せず、それを国際的に拡大して幅広く考察する能力が不足していることだった。そこでわたしは、朝鮮革命の国際的環境、つまりコミンテルンや中国共産党、日本共産党のような諸組織との関係問題からはじまって、国際的にもちあがっている出来事との関連のなかで朝鮮革命の問題を設定するよう、彼らの見識を高めるのにかなりの時間を割いた。これは、国内における彼らの活動を積極化させるためにも不可欠のことだった。

 当時の国際情勢は、きわめて流動的であった。ヨーロッパ大陸がスペインの国内戦争で白熱化しているとき、アフリカ大陸はイタリアのエチオピア占領によって騒然としていた。イタリアのエチオピア占領は、ある意味ではスペイン内戦にまさる問題点だといえた。スペイン内戦が国際的性格を大きくおびているのは確かであるが、それは国内戦争の枠を出ない出来事であった。ところがイタリアのエチオピア占領は、一弱小国への強大国の侵略であった。ところで、ここで問題となるのは、強大国といわれるイギリスやフランスのような国が、そのような武力侵攻を助長し、とりわけ、国際連盟がなんら効果的な措置をとることなく、エチオピアを侵略の生けにえにささげたことである。

 日本の満州侵略とドイツでのナチス政権の出現は、イタリアに強盗さながらの恥知らずな侵略行為を許した国際的背景であった。ヒトラーは、政権を握ると直ちに大ドイツ帝国の建設に取りかかった。アメリカ、イギリス、フランスなどの資本主義列強は、ヒトラー政権の出現に不安を感じながらもその反共政策に共感し、寛大な譲歩をおこなって、ドイツの武力を共産主義勢力への防壁に利用しようとした。これに力を得たファシスト・ドイツは、1935年1月、ザールを併合し、同年3月にはベルサイユ講和条約の軍事条項を破棄するにいたった。ベルサイユ講和条約は、ドイツに莫大な戦争賠償金を課する一方、ドイツが10万以上の軍隊を持つことを禁じ、戦車や飛行機はもちろん1000トン級以上の艦船すら持てないよう規定していた。しかしヒトラー・ドイツは、そのような条項を一方的に破棄し、徴兵制を布いて36個師団55万の常備軍を設けることを決めた「国防軍編成法」を発表した。ゲーリングは、ドイツ空軍の編成を公式に宣言した。ナチス・ドイツのこうしたすべての動きは、イタリアをむきだしの武力侵攻へとそそのかし、力づける大きな要因となった。

 イタリアは侵攻の口実をかまえるため、エチオピアとのさまざまな軍事衝突を起こした。イタリアの大々的な軍事的侵攻が時を争って準備されていた緊迫した情勢のもとで、国際連盟加盟国であったエチオピアはその事実を国際連盟に提訴した。しかし、国際連盟は、それを重視しなかった。国際連盟の主導的地位を占めていたイギリスとフランスは、自国の権益を大きくそこなわない植民地問題でイタリアとことを構えようとはしなかった。エチオピアは再三仲裁を要請した。一説によれば、エチオピア皇帝は、ジュネーブの国際連盟総会でエチオピアを助けてくれるよう涙を流して訴えたという。エチオピアは、国際連盟加盟国でないアメリカにまで覚書を送り、影響力の行使を請願したが、「中立法」などを制定して孤立主義政策をとっていたアメリカはとりあおうとしなかった。

 1935年10月、イタリアは宣戦布告なしにエチオピアに侵入した。軍隊と人民の激しい抵抗もむなしく、エチオピアは敗亡した。国際連盟は、イタリアにたいしなんら効果的な制裁も加えず、形式的に宣言した経済制裁の幕裏で、イギリスとフランスがイタリアに武器を提供しているのを見て見ぬふりをした。「ザリガニはカニの味方、草と緑は同じ色」という言葉のとおりだった。国際連盟の威信は失墜した。とはいえ、帝国主義列強の侵略道具として終始利用されてきた国際連盟が強者の側についたからといって、なにも驚くにはあたらなかった。国際連盟は、結成直後に早くも「委任統治領分配」形式による植民地再分割をあらわに庇護し、露骨な反ソ政策を実施した。国際連盟が日本帝国主義の満州侵略をいかに臆面もなく弁護したかは、世界の良識が今日も生々しく記憶している。国際連盟は、ファシスト・ドイツのザール占領と、スペインにたいするドイツとイタリアの武力干渉も阻止できなかった。そればかりか、これらの国の侵略を非難する声明一つ出さなかった。世界平和を維持する国際機構としての使命を担って出現した国際連盟はその後、オーストリアとチェコスロバキアへのドイツの侵略行為まで黙認することで、事実上それに手を貸し、励ました。ファシズム勢力と軍国主義勢力の専横がつのる国際情勢の急激な進展と国際連盟の無力な存在は、共産主義者に民族解放闘争を主体的な力によって自主的に展開すべきであることをはっきりと示した。

 わたしが朴達と2度目に会ったのは、日本帝国主義の中国本土への侵略が時間の問題となっていたときである。「華北事変」によって、華北は事実上、日本帝国主義の支配下におかれた。「華北事変」後、日本帝国主義は、軍備拡張と戦争準備にいっそう拍車をかけた。1936年8月、広田(弘毅)内閣は、日本は東亜大陸における地位を確保する一方、南洋へ進出するという基本国策を確定した。これは、中国を全面的に侵略すると同時に、北進してソ連を圧迫し、時機を待って南方へ進攻しようという戦力方案の一つであった。

 朴達をはじめ国内の共産主義者は、わたしの国際情勢分析を非常に慎重に受けとめた。わたしは、日本帝国主義者が遠からず中日戦争を引き起こすであろうという前提のもとに、国内の革命家が、それに対処して勢力を結集し、新たな情勢を利用して日本帝国主義との闘争を積極的にくりひろげる任務を与えた。

 「日本の動きには、ただならぬものがあります。日本は早晩、中国でより大きな戦争を引き起こすでしょう。これは、我々のたたかいに有利な局面を開くはずです。もちろん、彼らは戦争遂行のために収奪を強め、締めつけもするでしょう。しかし、彼らの後方にはすきも多くなるでしょう。日本が戦線を広げれば、我々も広い範囲で縦横無尽に活動する余裕が生じるのです。だからあなたには、新たな情勢に能動的に対処する準備を十分にととのえてほしいのです。朝鮮民族解放同盟を活発に動かして反日勢力をより多く結集し、暴動的進出へと動員しうる態勢を十分にととのえることです」

 わたしはまた朴達に、普天堡の街の略図をつくり、日本帝国主義の国境警備状況をくわしく調べて報告するよう特別任務を与えて密営から送り出した。朴達は、わたしから受けた任務をりっぱに果たした。彼の作製した略図と敵情報告資料は、普天堡戦闘の戦果の保障に大きく寄与した。普天堡戦闘後6日目に連絡員を送り、再度朴達を呼んだが、わたしが部隊を率いて間三峰方面へ急行していたため会うことができなかった。普天堡が痛撃を受けたあと朝鮮総督府は、緊急会議を開き、咸興第74連隊と長白県駐屯軍、国内の警官を集結して、大々的な討伐攻勢を準備していたのである。

 わたしはその年の7月、再び朴達を呼んだ。しかし、彼が敵に逮捕されていたので、そのときも対面は実現しなかった。李炳璇がひとりでやってきて、朴達が逮捕されたことと国内革命運動の実態を報告した。わたしは彼に、明川、城津地方で活動している共産主義者に会えるよう連係をつけてほしいと頼んだ。同時に、国内で生産遊撃隊を組織する任務も与えた。この任務は後日、留置場から出てきた朴達に伝えられた。1938年6月、朴達は国内組織への弾圧が強まるきびしい情勢のなかで、その収拾策について助言を得ようと、わたしを捜して1か月以上も長白一帯の森林を歩きまわったという。そのころ、臨江、濛江方面で活動していたわたしは、かなりあとになってそのことを知った。

 日本警察は、朴達をはじめ、朝鮮民族解放同盟の中核メンバーを捕えようと血眼になっていた。恵山警察署の朝鮮人警部崔鈴は、私服刑事や自衛団、消防隊まで総動員して朴達を追跡した。朴達と金鉄億は、金鉄億の従兄金昌泳の裏切りで1938年9月と10月に、それぞれ敵に捕らわれた。その後、李竜述(李庚封)も逮捕された。刑吏たちは、朴達に想像を絶する拷問を加えた。彼らが知りたがっていたのは、我々の所在と朝鮮民族解放同盟組織メンバーのリストであった。しかし、酷悪な拷問も鉄石の意志をもつ朴達を屈服させることはできなかった。敵は最初、彼に死刑を言い渡したが、のちに証拠不十分で無期懲役刑を宣告した。殺人鬼の拷問は、朴達の肉体をむざんに破壊した。背骨が折れ、足の骨が砕けた。しかし、彼の魂は変わりもせず、動揺もしなかった。彼は不自由な体で、いまの若い世代には想像すらできない監獄の苦しみにたえながら、7、8年に及ぶ逆境を奇跡的に乗り越えたのである。

 解放後のある日、わたしは、朴達が生きて西大門刑務所から出てきたという通報を受けた。担架に乗せられて刑務所の門を出た朴達は、しばらくソウルに留まり、夫人の介護を受けた。医師は、彼に脊髄炎という診断をくだした。のちに医学博士の崔応錫が診察し直して、朴達の病名は脊髄結核であると訂正した。朴達は、ソウル大学病院に入院して治療を受けた。わたしは、北朝鮮臨時人民委員会の事務局長をソウルに差し向け、朴達を平壌へ連れてこさせた。以前の朴達は、一夜に数十里の道をやすやすと行き来した、オノオレカンバのように強健で気の強い血気さかんな男であった。ところがその日、人の背におぶさって、わたしの前にあらわれた朴達は、拷問で下半身が麻痺し、昔の面影はどこにもない骨だけの痛ましい障害者だった。そのやせさらばえた体は、手のひらに乗せられるほど小さく見えた。それでも、朴達は両手でわたしに抱きつき、ぽろぽろ涙を流した。生きて再び会えたのだから、もう死んでも悔いがないと言うのだった。朴達を診察した医師たちは、死刑宣告にもひとしい診断をくだした。回復の見込みがあるという医師は1人もいなかった。朴達は刑務所の門を出るときすでに、死の影を背負っていたのである。

 わたしは、わが家の隣に朴達の居所を定め、彼の蘇生をはかって綿密な治療対策を講じた。良薬という良薬はすべて求め、名医といわれる医師も残らず集めて彼の治療に専念させた。そして、朝夕執務室へ行き帰りするときに見舞いに立ち寄った。何年度だったか、南浦の牛山荘に乳牛があると聞いてそれを引いてこさせ、牛乳をしぼって飲ませもした。3年間の大きな戦争をおこなったあとも、朱乙休養所に「朴達閣」を別に設け、そこで治療をさせた。朴達が、朱乙で療養生活をするときはいつも、彼の好みの野菜を平壌から航空便で届けさせもした。

 「早く病気を治して将軍のお手伝いをしなくては…」

 これは、朴達がいつもベッドの上で心配げにつぶやいていた言葉だった。彼は、病魔を追い払い再起するため非常な努力を払った。しかし、医療チームの心こもる治療もかいなく、病勢は日に日に悪化していった。ところが驚くべきことに、朴達は、身動きもままならない重態にあっても、党と革命に献身しようとつねに心を砕いていたのである。

 1949年のことだったと記憶している。牛山荘休養所で療養生活を送っていた朴達は、付近の果樹園でリンゴに袋をかけないため病虫害をこうむっていることを知った。それで彼は、たまたま休養所に来ていた南朝鮮出身の最高人民会議代議員たちと休養所の職員に呼びかけて紙袋をつくる作業を手配した。朴達自身もベッドの上で胸に板をのせて袋をつくった。戦後、朱乙で治療を受けていたときには、こんなこともあった。わたしが贈った車椅子に乗って付近の農村へ出かけた朴達は、党が選定した稲の種子を植えなかったために、穂にしいなが多くできていることを知った。彼は、しいなの多い稲穂を封筒に入れてわたしのもとへ送り、党の農業政策が正しく実行されていないことを報告した。報告を受けたわたしは、ある会議の席で、朴達のように身体の自由が利かず病床にふせっている人でも党の政策が正しく実行されていないことを知り、非常に胸を痛めて党中央に報告しているのに、地元の幹部はどうしてそれも知らないでいるのか、と批判した。その後、咸鏡北道党委員長は、朴達を訪ねて自己批判をしたという。

 朴達は、自分が再起不能であり、それに余命もあまり残されていないことを知ると、ベッドに横たわったまま青少年教育に役立つ本を書きはじめた。そのことを知ったわたしは、すぐ朴達を訪ね、そんな無理をしてはいけない、と止めた。すると朴達は、わたしの手をとり、自分がこれまで生き延びることができたのは将軍のおかげです、だから、少しでも革命に寄与できるなら心が軽くなり、長生きできそうです、わたしは、国内党工作委員会委員と朝鮮民族解放同盟責任者の任務をまっとうできず日本警察に逮捕され、結局、いまは国の食糧をむだ食いする廃人になってしまったが、あの日授かった革命任務を果たす気持ちで、多少なりとも力をつくしたいと思うから、止めないでください、と言うのだった。

 「オストロフスキーは、失明しても革命のために長編小説を書いたではありませんか。わたしはそれでも目が見えるのに、本を書けないわけはないでしょう。もちろん、文才がないので傑作など書けるはずはありませんが」

 朴達は、生涯自分の手足となり、看護婦ともなった忠実な妻玄今善と医療チームに助けられながら、手記『祖国は生命より貴い』と、抗日革命闘争時代の甲山地方における共産主義者のたたかいを描いた自伝風の長編小説『曙光』を書きはじめた。心臓の血を搾り、1字1字刻むようにして書いた彼の文章は、そこにこもる革命への炎のような衷情のゆえに、人びとの胸をゆさぶった。多くの読者が、彼に読後感と感謝の手紙を寄せた。朴達は、彼の本が人生の貴重な道づれになっているという読者の手紙に励まされ、つづけざまに数冊の本を著した。

 ある日、彼は物差しでベッドの大きさを測り、あれこれと確かめてから紙に数字を書いて夫人に見せた。この寸法どおりに机をつくってくれれば、それをベッドの上に置いて文章を書くと言うのである。数日後、大工が注文された机を心をこめてつくってきた。朴達は、机の足を両手でさすりながら夫人に言った。

 「机のつくりがたいへんりっぱだ。これを大事にしてほしい。少し休んでから、この机を置いてものを書くことにしよう」

 しかし、朴達は、その机に向かって一度も文章を書くことができなかった。党と革命、祖国と人民への熱い衷情に高鳴っていた彼の心臓が鼓動を止めたのである。その訃報に全国が深い哀悼の念につつまれた。

 我々は朴達の家で、史上例のない党中央委員会常務委員会を開き、葬儀を国葬でとりおこなう決議を採択した。出棺のとき、わたしは柩に付き添った。白頭山で朴達と別れるとき、遠くまで見送れなかった口惜しさがいつまでも心残りになっていたので、せめて永訣するときだけでも送ってやりたかった。とめどなくあふれでる涙で、ハンカチがぐっしょり濡れていた。わたしは金策を失ったときのように、また食事がとれなかった。ただの一度でも、彼が解放なった祖国の大地を闊歩するのを見ていたとしたら、あれほど胸が痛まなかったであろう。

 我々はその後、朴達が解放前に住んでいた普天郡雲興里の家屋を原状どおりに復元し、その前に彼の銅像を建てた。確かこれが、わが国で建てられた最初の革命家の銅像であったと思う。

 朴達は、敵とのたたかいで翼を失ったが、生の最後の瞬間まで革命のために屈することなくたたかった闘士である。じつに朴達は、朝鮮人民革命軍の白頭山進出以後、抗日武装闘争と国内革命の一元化を真っ先に果たした国内革命家の堂々たる代表者であり、我々のためにもっとも多くのことをなし、苦労も多かった我々の国内全権代表であった。朴達のような闘士たちのおかげで、我々は解放直後、あれほど複雑な情勢のなかでも短時日に党を創立し、富強な自主独立国家をうち立てることができたのである。



 


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