金日成主席『回顧録 世紀とともに』

5 『3.1月刊』


『3.1月刊』創刊号と、朝鮮人民革命軍の出版所で使用した謄写版


 人類の生活に及ぼす出版物の威力については、古今東西を問わず誰もが認めているところである。ある人は、過去の世界はいくつかの未開な民族を除けば、すべて数冊の書物によって支配されてきた、とさえ言っている。歴史は、出版物が社会の改造発展においていかに大きな役割を果たすものであるかを十分に証明している。世界を動かすのが人間であるとすれば、その人間を動かすものの一つが、正義と真理を代弁する良心的な知識人と時代の先覚者によってつくられる出版物だと言っても過言ではないと思う。

 我々は、出版物をさして大衆の教育者、宣伝者、組織者といっている。革命的出版物はまた、領袖と党、大衆を一つのきずなに結びつけるすぐれた手段であるともいえる。レーニンは、新聞『イスクラ』の発刊にあたってその創刊号に、「燃え上がる炎も一点の火花から」という題辞を載せたが、これは全世界の共鳴を呼ぶ金言となった。この題辞にいう火花はその後、10月の炎となってロシアの大地に燃え広がった。

 わたしを革命の道に導くうえでも、じつは出版物が大きな作用をしたといえる。世界の名言のなかには「ペンは剣よりも強し」というのがある。我々は、『セナル』『ボルシェビキ』『農友』を発刊して出版物の真価を知り、それらの出版物に銃や剣に劣らぬ期待をかけた。出版物は、革命闘争の有力な武器の一つである。この武器の射程距離は無限である。我々が白頭山で『3.1月刊』や『曙光』などの出版物を通して、祖国と祖国の同胞を忘れてはならないと訴えると、その声を南満州と北満州のすべての遊撃隊員や人民が聞くのである。数百万大衆に向かって、同一の思想と闘争スローガンをいっせいに迅速に宣伝し、大衆を結束し、彼らを組織的、思想的に鍛えるうえで、出版物ほど大きな威力を発揮する宣伝・扇動手段はおそらくないであろう。

 抗日武装闘争の時期、同志たちは、よく口頭宣伝を「口大砲」、演芸活動による宣伝を「太鼓大砲」、出版物による宣伝を「筆大砲」あるいは「文大砲」という平たい言葉で表現したものである。口頭宣伝や演芸活動による宣伝は、出版物宣伝に比べて相対的に効果が早くあらわれ扇動性が強いが、出版物による宣伝は、持続性があり、地域的な制約を受けないという長所がある。敵が言論を統制し、国体の維持に差し障りがあると思われるいっさいの言動を銃剣と棍棒で仮借なく圧殺している状況のもとで、革命組織にたいする統一的な指導を保障する組織・宣伝活動は、いきおい非合法的な方法で秘密裏におこなわざるをえなかった。こうした実情で、我々は、遊撃戦争にもっとも適した宣伝・扇動手段を研究し、我々が最良の手段だと考えた「筆大砲」の発射にしかるべき関心を払わざるをえなかった。そこで、我々は白頭山に密営が創設されると、そこに出版所を設け、祖国光復会機関誌『3.1月刊』を創刊したのである。

 東崗で祖国光復会を創立するさい、我々はその機関誌の発行についても論議した。反日民族統一戦線という大きな器に各階層の民衆をすべて入れて、抗日大戦を全民族的な規模に発展させるには「口大砲」や「太鼓大砲」も活用すべきだが、とくに、「筆大砲」の効果を発揮させなければならなかった。1930年代の前半期、民族統一戦線のための我々の政治工作は、多分に地域的な性格をおびていた。我々の統一戦線工作の範囲は主に、満州地方と朝鮮の北部地帯であった。しかし、祖国光復会はその範囲を朝鮮全域と中国本土、日本、ソ連、アメリカをはじめ同胞の住むあらゆる所に反日民族統一戦線の旗をひるがえそうとしたのである。

 こうした目的を果たすため、我々はしばしば各地に工作員を派遣した。だが、残念なことに工作員の数は限られていた。遊撃闘争の初期から東満州で統一戦線運動に深くかかわった軍・政幹部の多くを北満州に残したので、活動家が不足していた。活動家不足による空間を埋める重要な方途の一つは、出版物の活用であった。大衆に愛される機関紙・誌をりっぱにつくって随所に配布すれば、それら一つひとつの雑誌や新聞がとりもなおさず、一人ひとりの工作員に代わりうるとわたしは確信した。ところが、やむをえない事情のため、それを適時に発刊することができなかった。そのころは、たえず戦闘をおこない、移動も頻繁だった。我々はいつも敵の包囲のなかにあった。荷を背負って1日に数里、数十里を行軍しなければならなかった。敵は、我々に出版物を発行するゆとりを与えなかった。

 白頭山に密営が創設され、そこに出版所が設けられてから、ようやく祖国光復会の機関誌『3.1月刊』を出すことができた。『3.1月刊』は、2000万の総動員によって国の独立を達成しようという祖国光復会の理念の実現につくすことを基本使命とする大衆政治理論誌であった。我々は苦心の末、祖国光復会の使命にふさわしい『3.1月刊』という題号を選んだ。「3.1」は、3.1反日人民蜂起を意味した。3.1人民蜂起は、日本帝国主義侵略者に抗し、全民族的なたたかいをくりひろげた朝鮮人民の壮烈な独立運動であった。したがって『3.1月刊』という題号には、民族の意志が反映されており、そこには、我々が朝鮮革命の主体的路線を固守し、白頭山を本拠に全朝鮮的な規模で武装闘争を拡大発展させようという戦略的意図とともに、全民族の総動員で全人民的抗争を準備しようという意味もこめられていた。『3.1月刊』は、祖国光復会の機関誌として発刊されたが、朝鮮人民革命軍党委員会の機関誌の使命もおび、また全国、全民族を対象とする大衆政治誌の使命も同時に果たすことになった。それで、この雑誌は、朝鮮人民革命軍の隊員や共産主義革命家ばかりでなく、民族ブルジョアジーや宗教家、独立軍兵士にも愛読される汎民族的な雑誌にしなければならなかった。

 我々は、書記処のメンバーを基本にして『3.1月刊』編集部を設け、主筆には記者の前歴のある李東伯を任命した。李東伯の主管のもとに編集部は、創刊号の発刊準備に取り組んだ。彼らは、雑誌の編集方向と出版実務の問題についてさかんに論議した。理想的な編集形式を見つけ出すために国内の出版物も熱心に研究した。そのころ、国内の出版界では新聞、雑誌の閉刊、停刊旋風が吹きまくっていた。多少とも愛国的な要素のある雑誌は、すべて弾圧されて閉刊させられており、参考にできる雑誌は幾種もなかった。『3.1月刊』編集部は参考にするために国内の雑誌を調べたが、それらを基準にしたり、模倣したりはしなかった。あくまでも、すべてを創造的に新たに探求した。

 我々は、『3.1月刊』が大衆政治理論誌の体裁をととのえ、祖国と民族を愛し、民族の大団結をはかる思想で内容が一貫されるようにした。毎号、社説のほかに、「わが民族の祖国解放運動ニュース」「反日民族革命戦線各地の勝利通報」「問答欄」「祖国要聞」「国際要聞」「文芸欄」などの固定欄も設けた。原稿は、主に書記処が属している朝鮮人民革命軍部隊内の筆陣を通して確保し、そのほか各地で活動する人民革命軍部隊と祖国光復会の組織を通して集めることにした。原稿を確保する措置として、東満州、南満州、北満州の主要地点に『3.1月刊』誌特派員をおき、広範な読者の投稿を奨励した。

 どうすれば、『3.1月刊』の編集を読者大衆の仕事に転換できるか、各階層読者の雑誌への投稿を恒常化できるか、すべての読者から編集内容を豊富にし編集形式をたえず改善するための助言を得ることができるかを、真剣に討議、模索した末、李東伯は投稿規定というものをつくった。彼がつくった投稿規定を読むと、なかなかおもしろかった。それを見れば文才がなくてもペンをとって、なにか一気に書いてみたいという衝動にかられるようになっているのである。規定には、各界愛国志士の名論卓説を募るため投稿を歓迎する、という要請にはじまり、原稿の内容にともなう記事の枚数と投稿方法、熱心な投稿者への優待適用などの条項が具体的に記されていた。我々は、組織のルートを通じて投稿規定を下部に通知し、創刊号にも「投稿歓迎!」という見出しで紹介した。

 投稿規定を配布してからほどなく、各地から原稿がぞくぞく寄せられた。それらの原稿を受け取って大喜びしていた「パイプじいさん」の姿がまざまざと浮かんでくる。わたしも喜ばしい気持ちで、投稿されたさまざまな文章をほとんど読んだ。梁世鳳独立軍の参謀長が寄稿した祝賀の手紙にも、祖国光復会の創立を歓迎する彼らの衷情がこもっていたが、南満州で祖国光復会代表として活動していた李東光と上海に住む朴某同胞代表との対面を記した文章も印象的であった。上海の同胞代表は、北京、天津をはじめ、中国各地で多年間独立運動に従事した人で、祖国光復会創立のニュースを聞き、南満州までやってきて、国の内外で祖国光復会を軸とする統一的な戦線を展開しようと建議したという。これは、祖国光復会の組織を中国本土の広い地域に拡大できる好機となった。我々はその原稿を受け取ると早速、有能な政治活動家を一人李東光のもとへ送った。このように『3.1月刊』発刊の準備中、編集部は祖国光復会の組織網の拡大強化に直接寄与する通信処のような役割も果たした。

 祖国光復会のある区委員会が、人民革命軍を励ますために祝旗をつくり、それにそえて送ってきた手紙の内容もやはり感動的であった。

 「…愛国同胞の熱い同情により、貧しいふところから1銭、2銭あるいは1円と醵金(きょきん)しました。こうして、これまで集めた総額は8円71銭ですが、これで軍需品を買って贈るにはあまりにも少額なので、我々と全愛国同胞の意見により、歓迎旗をつくって贈ることにしました。…」

 我々は真心こもるそれらの手紙を創刊号に掲載した。創刊準備中もっとも心配していた原稿が予想外に多く集まったので、「パイプじいさん」の機嫌は上々だった。ある日、彼は司令部ににこにこしながらやって来て、わたしの前に10数枚の白紙を置いた。

 「ほかの原稿はありあまるほどです。いまは、肝心な創刊の辞と論説さえできればレイアウトに着手する運びとなりますが、それは、どうしても祖国光復会の会長同志が引き受けてくれるべきです。このとおり紙は持ってきました」

 「それじゃ、主筆はなにをするのです。文章家として名が高い主筆が健在なのに、わたしがそのポストを乗っ取るべきだというのですか。そういうわけにはいきません。創刊の辞は当然、主筆が受け持つべきです」

 わたしは忙しいことも確かだったが、受難の道を歩んできたこの誠実な文筆家に創刊の辞を書かせて、うっ積していた亡国の悲しみを吐露させ、2000万同胞に訴えたかった火のような言葉を思う存分叫ばせたかった。それで、創刊の辞は彼にまかせた。そのかわり、わたしは、「3.1運動の回顧」という題名の論説を書くことにした。しかし、仕事に追われて執筆がのびのびになった。やっと時間を割いてペンをとったとき、折あしく密偵をとらえたという報告と、敵の討伐隊が密営に押し寄せているという通報があって戦場に行かなければならなかった。

 当時、もっともなつかしく思い出されたのは、金赫と崔一泉であった。卡倫と五家子時代の莫逆の友であった『ボルシェビキ』の主筆金赫と『農友』の主筆崔一泉は、双璧をなす有能な文章家であった。詩人金赫の文章は氾濫する長江のように豪放かつ激動的であり、崔一泉の文章は民族的な情調が濃くしかも知性的で分析がするどかった。金赫は、『ボルシェビキ』に自分で作詞、作曲した革命的な歌もときどき掲載した。『ボルシェビキ』に載った彼の作品のうち、いまも記憶に新たなのは、『資本主義社会詛呪歌(そじゅか)』と『反派閥歌』である。『資本主義社会詛呪歌』は、資本主義社会を呪い、搾取者をきびしく弾劾した歌であり、『反派閥歌』は、ジャガイモに彫った印鑑などを持ち歩きながら、他人におぶさって党の創立をはかろうとする分派・事大主義者の正体をするどくあばいた風刺歌謡であった。金赫や崔一泉が我々のそばにいたなら、「パイプじいさん」の負担はかなり軽くなっていたであろう。

 わたしは3.1運動を回顧する論説も、祖国光復会の創立文書も、『血の海』『ある自衛団員の運命』の台本のように激戦の合間に書かなければならなかった。

 『3.1月刊』創刊号の発刊準備で最後まで難題となったのは、出版器材を手に入れることであった。そのころ我々には、古い謄写版が1台あるだけだった。謄写インクやローラー、原紙、用紙も不足していた。出版所では足りないものをすべて自力でおぎなった。謄写インクが切れると、白樺の皮を燃やし、その上にブリキの円錐形のふたをかぶせ、ふたについた煤を集めた。それを油にひたし、工場製の謄写インクに混ぜて使った。ローラーが使えなくなると、にかわに松脂を混ぜて煮立てたものを型に流し込んでつくり、鉄筆が使えなくなると、大針でつくった。『3.1月刊』のために傾けた彼らの血のにじむような努力は、自力更生、刻苦奮闘の手本に価するものであった。

 そうした努力は、ついにりっぱな実を結んだ。1936年12月1日、『3.1月刊』創刊号が誕生したのである。その日「パイプじいさん」は、最初に製本された創刊号を一部持ってきて、こう言った。

 「無為に過ごしたわたしの半生で、それでもなにか有意義なことをしたものがあるとすれば、『3.1月刊』の創刊号をつくったことです。将軍、お忙しいでしょうが、『3.1月刊』の呱々の声を一つ聞いてやってください」

 彼は、興奮した声で創刊の辞の最初の部分を読んだ。

 「わが朝鮮が強盗日本侵略者に占領され、2300万白衣民族が日本帝国主義の亡国の奴隷となって以来、我々の生命と人権は犬畜生にも劣るものになった」

 『3.1月刊』は、発行と同時に大きな反響を呼んだ。創刊号は、軍隊と人民のあいだで好評を博した。各地の祖国光復会組織は、『3.1月刊』の発行を祝う歓迎の言葉とともに、配布部数を増やしてほしいと要請する手紙を送ってきた。組織の名で雑誌の次号を注文する人たちもいた。

 我々が『3.1月刊』の発行に必要な出版器材の明細書を作成して、その解決方途を模索していたころ、朴達が日本留学生に依頼して性能のよい新しい謄写版を2台手に入れた。端川駅に到着した謄写版を1台ずつジャガイモの袋に入れて牛車で甲山まで運んできたが、警察の監視がきびしいので、終日山にひそみ、夜半に民族解放同盟出版部のある五豊洞に持ち込んだという。朴達は最初、その謄写版を2台とも我々の密営に送ろうとした。しかしわたしは、1台だけ我々が使い、1台は甲山に残して朝鮮民族解放同盟機関誌の発刊に利用するようにした。朝鮮民族解放同盟は、『火田民』という機関誌を発行していた。朴達が送ってくれた謄写版はたいへん性能がよかった。古い謄写版に比べて数倍の能率をあげ、次号からは雑誌を数百部ずつ刷ることができた。

 『3.1月刊』の人気は、予想をはるかに上まわった。読者がこの雑誌を愛読したのは、編集形式が斬新なことにもあったが、重要なのは、その内容が民族統一戦線の思想で貫かれていたからだと思う。それはこの雑誌が、民族に課された時代の課題をもっとも敏感に正しく反映していることを意味した。日本軍国主義のファッショ攻勢に対処して朝鮮の革命家がなすべき第一義的な課題は、各階層人民を反日民族統一戦線にかたく結集し、全人民的抗争の基盤を築くことであった。

 『3.1月刊』が発刊されてから、祖国光復会の組織網を拡大強化する活動は急テンポで進んだ。人民革命軍参軍者の隊伍と我々の支持者、共鳴者の隊伍も飛躍的に拡大した。1、2発の「筆大砲」がこんなに大きな威力を発揮するものかと、「筆大砲」の当事者さえ驚くほどだった。いつだったか、朴寅鎮は権永璧と会った席で、嶺北のほとんどすべての天道教徒を短時日内に祖国光復会の組織網に参加させることができたのは、『3.1月刊』が大きな役割を果たしたからだ、と語ったという。

 『3.1月刊』発刊の第一の功労者は、言うまでもなく李東伯であった。祖国光復会を創立するときにも彼は多くの苦労をしたが、『3.1月刊』の創刊と発行につくした苦労には比べることができない。彼の晩年は、すべて『3.1月刊』にささげられた。わたしは80年の生涯の間、「パイプじいさん」ほど紙を大事にする人を見たことがない。彼は木の葉ほどの紙もとっておいては、必要なときにゴマ粒のような文字をぎっしり書き込んで利用した。「パイプじいさん」は、文字の書ける白紙にタバコを巻いて吸う人を見ると、紙を粗末にするなときびしく批判した。彼自身はいつもパイプでタバコをふかしていた。彼がパイプを使うようになったのも、紙を節約するためだったのかも知れない。事情はどうであれ、そのパイプのおかげで李東伯が多くの紙を節約したことだけは確かだった。もしも、そのパイプがなかったとしたら、彼は生涯に数千枚の紙を消費したであろう。

 祖国が解放されたら、我々の抗日革命闘争史を書くのだと一日も欠かさず日記をつけ、手に入る資料を丹念に収集して背のうにしまっていた『3.1月刊』主筆の李東伯は、楊木頂子密営で討伐隊の奇襲にあって戦死した。敵は、脱出できなかった老弱者とともに「パイプじいさん」を射殺し、密営に火を放った。「パイプじいさん」が、大切に保管していた多くの文書と写真、日記帳が彼の身体とともに焼けて跡形もなくなった。彼が独立した祖国にささげうるもっとも貴重な贈物だと考えていたその史料が、一朝にして灰になったことを思うと、いまでも痛憤にたえない。その大きな荷物のなかで、彼の書いた日記帳だけでも残っていたなら、いまの若い世代がどんなに喜ぶことだろうか。

 後日、楊木頂子密営に行ったとき、わたしは草ぶき家の焼け跡から彼の遺骸を探し出し、自分の手で埋葬した。生前、李東伯があれほど愛用していたパイプは見つけることができなかった。すべてが焼けて灰になり、彼の遺物としてとっておけるものはなにもなかった。炎の中でも燃えずに残ったのは、傑出した老インテリ革命家にたいする抗日革命闘士たちの感慨深い追憶だけである。ところが数年前、白頭山密営が発掘されるに及んで、彼の筆跡になるスローガン入りの樹木が発見された。わたしは生きている『3.1月刊』の主筆にめぐりあったような思いで、それらの樹木の前から長く立ち去ることができなかった。

 李東伯は、抗日革命の時期にわたしが出会った知識人のうち、もっとも良心的で革命的で、博識なインテリの一人であった。

 個々の国のさまざまな時代に生きたインテリの先進的代表者たちは、社会の革命と改造において少なからぬ役割を果たした。近代以降、わが国でも革命運動の発展でインテリが果たした役割はきわめて大きい。彼らには、さまざまな制約があったにもかかわらず、それぞれの経路と方法でわが国の民族解放運動と共産主義運動に献身した。李東伯もそのような一人であった。彼は、1920年代にわが国のインテリが歩んだもっとも一般的で普遍的な道をたどり、抗日武装闘争の隊伍にまで加わった革命的インテリの代表者であった。李東伯は、優柔不断で動揺するインテリから、もっとも積極的な武力抗争に奉仕する正真正銘の革命的インテリに成長した人物であった。

 白頭山にいたころの隊内出版活動家のうち、李東伯につぐ文筆家は、国内の赤色農組で活動し、朴達と李悌淳のつてを頼って入隊した金永国である。彼は軍人としてはAクラスには入れなかったが、筆力においては比肩する者がない有能な人物であった。彼が鉄筆で書いた文字を見た人たちは、機械で印刷したようだと舌を巻いたものである。一晩のうちに10枚以上のガリを切りながらも、字体が活字のようにそろっていて、「パイプじいさん」からいつもほめられていた。欠点といえば、気ままに行動する傾向があり、よく物忘れをすることだった。健忘症がひどすぎて、あるとき休止した場所に銃を置き忘れ、8キロも行軍したあとで、「しまった。おれの銃!」と言って、あたふたと引き返したことがあったくらいである。それで、きびしく批判され処罰も受けた。

 「銃は、きみの命のようなものだ。自分の命を置き忘れるそんなぼうっとした精神で、どうやって文章を書くのだ」

 懲罰処分が解除されたあとで、わたしがこう聞くと、彼は頭をかきながらも臆面もなく「世界的な文豪はほとんどみな、ひどい健忘症でした」と答えた。わたしも「パイプじいさん」もつい大笑したものである。

 情熱的な文学の徒だった金永国は、暇さえあれば詩や小説を書いていた。我々が1937年に隊内機関紙として発刊した『曙光』の紙面には、彼の作品がよく掲載された。いまでもおぼろげながら思い出すのは、『曙光』の創刊号に「よそのご主人は革命軍に入り、うちの夫は自衛団に入った」というくだりのある4、5聯の歌詞が載ったことである。彼は、その歌詞に『アリラン』の節に合わせてうたうようにという但し書まで添えた。『曙光』の2、3、4号には、彼の短編小説が連載された。彼は『曙光』の主筆である。若くて才能にめぐまれたこの文筆家は、1938年の秋、金周賢と一緒に虚弱者と負傷兵のために蜂蜜を採取しているとき、討伐隊の狙撃を受けて残念なことにあまりにも早く我々と永別した。

 政治週刊紙『曙光』には、遊撃隊員のための政治・軍事学習資料が多く掲載された。わたしが執筆した『朝鮮共産主義者の任務』も『曙光』に発表された。『曙光』の熱心な筆者のなかで頭角をあらわしたいま一人の人物は林春秋であった。彼は、金永国を助けて『曙光』の編集と発刊に積極的に参加した。『鐘の音』は、馬塘溝密営で軍・政学習をはじめるさいに発刊された隊内週刊紙で、主に軍・政学習に参考となる政治・軍事学習資料や教育資料が掲載された。『鐘の音』の主筆は、崔景和であった。彼は高等教育を受けていなかったが、困難な新聞の発刊をりっぱに主管した。彼にそれができた秘訣は、平素学習に励み、多方面の知識を身につけたからであろう。彼は故郷にいたころ、自習をして大学入門書を読破した。

 彼の話は、一日中聞いてもあきがこなかった。読者のあくびをさそうような三文小説も、いったん彼が語り手になると、一流の名作に変貌した。能弁は、彼の最大の武器であり財産であった。それでわたしは、彼にしばしばアジ演説をやらせた。大衆は、彼の演説にすっかり聞き惚れたものである。

 崔景和は故郷にいたころ青年学生運動に深くかかわり、敵の追跡を避けて長白に亡命してきた。長白では、書堂の先生という表看板で大衆の啓蒙に没頭した。もちろん、祖国光復会の組織にもいちはやく加入した。彼は、権永璧の工作ルートと連絡がついて以来、十七道溝党支部組織部の責任者になり、城津(金策市)方面政治工作員になったが、ふとした失策で地下活動がつづけられなくなり、遊撃隊に入隊した。彼が入隊すると、女性隊員たちは、美男子が来たとささやき合った。しかしわたしは、彼の容貌よりもその才能と人柄に引かれた。彼は筆が立ち、絵もたいへん上手なまれに見る才子であった。『鐘の音』のイラストは、大部分彼の手によるものだった。政治学習時間には講師を勤め、戦場では真っ先に突撃する前衛闘士であった。1938年初の静安屯戦闘のときも、彼はすすんで突撃班に参加し部隊の進撃路を切り開いたが、致命傷を負って最期を遂げた。

 崔景和のようなりっぱな戦友を失って哀惜の念にたえず、わたしは彼が戦死した日、夜通し涙ながらに追悼文を書いた。我々は、酷寒のなかで彼の追悼式をおごそかにとりおこなった。

 隊内の反日青年同盟機関紙『鉄血』は、1939年末の大部隊旋回作戦をひかえて発刊した速報形式の週刊紙であった。李東伯、金永国、崔景和のようなそうそうたる筆陣がみな死去したあとだったので、出版物の編集や発行は初心者にまかせなければならなかった。わたしは要領を教えながら仕事をさせるつもりで、司令部の党支部と青年同盟の両方の活動を担当していた姜渭竜に『鉄血』の発刊を委任した。最初彼は、それだけはとてもできない、どうかほかの者にまかせてほしい、と手を横に振った。わたしが無理強いをしてはじめて、彼は仕方なく分担された任務を引き受けた。そして、みんなに手伝ってもらいながら、あまり遜色のない新聞を出した。『鉄血』も『3.1月刊』や『曙光』と同様、肯定的な資料の編集に重点をおいた。『鉄血』の第1号に掲載された李乙雪の紹介記事と、槍で敵の新式チェコ製機関銃を奪ったある新入隊員の戦闘談は、そうした肯定的資料の手本だったといえる。

 白石灘密営での軍・政学習が終わるころ、青年隊員の勇敢さと士気を鼓吹するために、戦闘で武勲を立てた者に栄誉の赤帯を授与する制度を新たに制定した。赤帯を授かった隊員には、祝日や部隊でとくに定めためでたい日に、それを軍服につけさせた。

 軍・政学習の総括を契機に発行した『鉄血』特刊号には、学習総括にかんする記事とともに、新たな表彰制度が設けられた便りなども載せて読者の関心と興味をそそるようにした。こうして、我々の革命的出版物は、読者大衆のりっぱな宣伝者、教育者となったばかりでなく、英雄的偉勲の鼓舞者、闘争の積極的な援助者、生活の親しい道づれになった。

 『3.1月刊』をはじめ、抗日革命期の我々の出版物のもっとも重要な特徴は、それが数人の人材の主観によってではなく、広範な読者大衆の積極的な参与によって執筆、編集、発行されたことである。他のすべての活動においてと同様、我々は、出版物をつくるうえでも大衆を動員し、大衆に依拠することを鉄則とした。

 部隊が南牌子に留まっていた時だったと思う。ある日、密営を散策していたわたしは、ある女性隊員が森の中でひとり座って雑記帳になにか熱心に書いているのを目にした。書き物に熱中していた彼女は、人の近づくのにも気づかず、鉛筆の芯をなめながら1字1字こまめに字を書いていた。なにを書いているのかと尋ねると、農村に行って話して聞かせる宣伝文だという。わたしは、それを読んで驚いた。小学校中退者の文章にしてはずいぶんのびのびとし、よくととのっていたからである。「在満朝鮮青年に告ぐ」という題のその文章は、中味があり、主張がはっきりしていた。それで、その文章に少し筆を加えて『3.1月刊』に載せた。読者たちは、それに大きな感動を受けたようである。

 このように、小学校にすら満足に通えなかった平凡な炊事隊員も、我々の出版物の筆者になった。大衆の積極的な参加と支持があったからこそ、我々はなんの補給も受けられない困難な状況のもとでも、『3.1月刊』『曙光』『鐘の音』『鉄血』のような出版物を発刊し、革命的出版物の伝統の根源をしっかり築くことができたのである。

 現在わが国には特出した功労のある出版報道部門の活動家に、最高賞として「3.1月刊賞」を授与する表彰制度が制定されている。李東伯が生存していれば、最初の「3.1月刊賞」は彼に授けられたであろう。わたしは出版報道部門の活動家たちが、メダル一つつけることもなく死去した革命的出版界の一世たちを忘れないでほしいと思う。



 


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