金日成主席『回顧録 世紀とともに』

3 李 悌 淳


 白頭山地区に進出するとすぐ我々は、密営の建設を急ぐ一方、朝鮮人の住民地帯に祖国光復会の組織を結成する活動を本格的に展開した。

 祖国光復会網建設の第一の対象としては、白頭山をかかえている長白地区と国内の甲山地区が選定された。組織結成の困難な課題を用意周到に遂行するには、命をかけて我々の活動を助けてくれる信頼できる人物を見つけなければならなかった。

 西間島に進出した直後、わたしは小部隊を派遣するさい、李東学中隊長に再三強調した。――きみたちの主な任務は人材を見つけだすことだ。長白の地をくまなく捜してでも信頼できる協力者を見つけるのだ。敵を討つのは、副次的な任務だ。人材の探索に主力をそそぎ、勝てそうな敵だけを討ち、そうでなければ戦いを避けるべきだ――と。

 李東学は、この任務をりっぱに遂行した。彼は、李悌淳を連れて密営に帰ってきたのである。李東学は、あわて者に見えるが、実際は非常に周到でそつのない人であった。大変な早口なので、はじめての人は面食らうほどだった。彼はいつも早口で隊員たちをきりきり舞いさせた。それで、同僚たちは彼に「ポタジ」というあだなをつけた。「ポタジ」とは「ポッタッチル(きりきり舞い)」という言葉からきたようである。

 李東学は中隊を率いて長白を一巡りしているうちに、二十道溝の台地で青少年たちに朝の体操をさせている若い村長に出会った。その村長が、ほかならぬ李悌淳であり、その土地が新興村であった。李悌淳は、村長であると同時に夜学の先生でもあった。村人たちは、老若男女を問わず、この村長を深い愛情をこめて、うちの先生、うちの先生と尊敬していた。

 李東学は、李悌淳がどういう人間なのか探りを入れるつもりで、中隊の2、3日分の食糧を提供してもらいたいと頼んだ。すると村長は、中隊の全員でも担ぎきれないほどの食糧をまたたく間に集め、密営までの運搬まで買って出た。仕事のさばき方も見事であったが、並々ならぬ肝の太さに「ポタジ」は、初対面のこの村長にぞっこん惚れ込んでしまった。彼は、軽率だとあとで多少批判を受けるようなことがあっても、李悌淳を司令部に連れていきたいと思った。それで、村長が荷物の運搬を買って出たとき、さっそく、それを承諾した。村長が村人を引き連れ、みずから食糧を担いでいったことが敵に知れると厄介なことになりそうなので、隊員たちは、李悌淳に繩をかけ、あたかもすごい罪人を護送していくかのように見せかけた。新興村を発った食糧運搬隊は、3日後に密営に到着した。密営まであと10キロほどの地点に来たとき、李東学が村人たちを全員帰そうとすると、李悌淳は、自分を密営まで連れていってくれと頼んだ。李東学は、彼の胸中を探ろうと、わざと困ったような顔をして見せた。

 「それは駄目だ。あんたのなにを信じて秘密基地に連れていけるのか」

 すると李悌淳は、彼の腕をとり、思いきった提案をした。

 「それなら、わたしを一度試してみるがいい。例えば、命がけの仕事をまかせることができるではないか」

 李東学は、村長の提案を受け入れ、3日のうちに膝までくる長いポソンを5足、それに脚絆を5足つくってくるようにと言った。そして、それを約束の時間に持って来れば密営に連れていくし、約束の時間に来れないか手ぶらで来た場合は不合格だ、と釘を刺した。李悌淳は、そんなことはわけない、そんな問題なら難なく合格してみせる、と言いきって新興村へ帰っていった。彼は、妻と義母に、今夜のうちに5人分のポソンと脚絆をつくってくれと頼んだ。彼女たちは、李悌淳の妻が嫁入りするときに持参した、たった一組の布団をほぐしてポソンと脚絆をつくった。李悌淳は、それを持って待ち合わせの場所にあらわれた。それではじめて、李東学は彼の肩を抱きよせ、自己紹介をした。李東学は、自分のあだなが「ポタジ」であることや故郷がどこだということまで話し、「結局わたしが、あなたの家の布団を駄目にしてしまったわけですな」とわびた。李悌淳は、テストに合格したわけである。

 わたしが白頭山地区を一巡して帰ってくると、李東学は、新興村という所でりっぱな青年を1人見つけたのだが、司令官同志に紹介したくて密営まで連れてきたと、李悌淳をひとしきりほめ立てた。彼の話によると、李悌淳は、密営に来たここ数日間、隊内出版物を読むのに没頭して、少しも休んでいないということであった。非常にねばり強くいちずなところがあって、その間、隊員につきまとって武器の分解・組立法や方位判定法まで習得したという。

 「聡明で実直なうえに、革命にたいする熱意もある情熱家のようです。それに人なつっこくて、ここ数日の間に隊員たちとすっかり親しくなってしまいました。大衆性のある人です」

 李東学の話に誇張がなければ、新興村の村長にたいする総合的な評価は上々だといえた。李悌淳は、女性のようにきれいな顔をしていた。印象的なのはいつも微笑をたたえているような目であった。見かけは非常に柔和で弱々しい感じがするが、実際は芯が強く岩のような不動の信念と冷徹な思考力をもった強靱かつ理性的な人間であった。貧農の家庭に生まれた李悌淳は、幼いときから苦労のしどおしだった。学校にも行けず、母と一緒に他人の畑の草取りをして手間賃をもらい、10歳からは隣村の地主の家で下男暮らしをした。11歳になった年のある日の晩、下男部屋でわらじを編んでいるところに母がやってきた。恋しくてならない母であった。しかし彼は、母が部屋に入ってきて、むしろに座っても顔を上げなかった。どうかしたのかい、と母が聞いても答えず、仕事の手を休めなかった。あわれな母は、息子からあたたかい言葉一つ聞けずに部屋を出た。すると、李悌淳は編みかけのわらじを放りだして母のあとを追い、涙声で言った。

 「お母さん、二度と来ないで。お母さんが来ると、地主に馬鹿にされるんだよ。なにかもらいに来たんじゃないかと卑しめるんだよ!」

 息子の気持ちを知った母は、息子を抱きしめたまま地べたに座り込み、むせび泣いた。そして、おまえが見たくなっても二度とここには来ないことにすると約束した。

 李悌淳は正規の教育を受けられなかったが、独学で中等教育程度の知識を身につけた地道な努力家であった。14歳まで下男暮らしをし、その後何年か夜学に通い、兄から国文(朝鮮の文字)を習った。結婚してからは、字典を肌身離さず持ち歩いて自習した。学校に行けなかったことを一生の恨みとしていた李悌淳は、新興村に来ると火田民の子どもたちのために夜学を開き、啓蒙活動に熱意を燃やした。

 故郷にいたとき、李悌淳は、少年会と青年同盟に加入して数年間、組織生活をした。兄が投獄されて以来、日本の警察は彼にも監視の目を光らせた。迫害と弾圧がつづくなかで身の危険を感じた李悌淳は、1932年の初めに妻の実家がある甲山方面に移住した。それは、ちょうど朴達などの先覚者がその一帯で愛国啓蒙運動を積極的に展開していた時期である。李悌淳は彼らとともに五豊洞一帯で秘密読書会を組織して新しい思潮を探求しはじめた。秘密読書会のメンバーは、受難にあえぐ国と民族を救う正義のたたかいに一身を投げ出す覚悟はできていたが、闘争の方策を見出せず苦悶していた。彼らは、正しい闘争の進路と名望のある指導者を探そうと各地に手づるを求めた。山をさすらう農組や労組出身の先覚者や主義者にも会ってみたが、彼らには明白な闘争路線や戦術がなかった。

 李悌淳の目は、朝鮮人民革命軍に向けられた。1934年ころからは、人民革命軍が長白地方へ進出するといううわさが国内にまで伝わった。彼は、琿春方面へ向かおうとした当初の計画を変更し、長白県二十道溝の千歌徳へ移った。後日、千歌徳を開拓した移住民は、その村を新興村と改名した。新興村から普天堡までは直線距離にするとさほど離れていなかった。その村からは、枕峰、小白山、棍杖徳とともに白頭山も望まれた。白頭山が望める所に住むということは、なじみのない異邦の風土で望郷の念にかられていた李悌淳に不思議な安堵感を与えた。しかし、官憲の圧制と生活苦は影のように移住民につきまとった。小作料と夫役、過重な雑税のため、あわれな火田民たちは腰を伸ばして空を見上げる暇さえなかった。祝日になると地主たちは小作農たちに貢ぎ物を要求し、たきぎを取る仕事もいっさい小作農に押しつけた。かてて加えて、対岸の朝鮮の佳林里、泉水里の警官までが長白地方の朝鮮人移住民に、たきぎを取ってこいと強要した。巡査たちは、民家を見まわるたびに、ニワトリの巣から卵をつかみだしてはその場で食べてしまった。火田民の食卓に上るものといえば、せいぜい麦めしか雑穀がゆであった。

 60余戸を数える新興村に牛のある農家が一軒もなかったのだから、農民たちがいかにひどい苦役にさいなまれたかは言わずもがなのことである。農民たちはみな人力ですきを引いた。ある若い夫婦が春のすき起こしをしていたときの話だという。彼らは終日畑を耕した。最初は妻がすきをとり、夫が牛の役をつとめてすきを引いた。しばらくして夫に代わり妻がすきを引きはじめた。ところが、すきは地に食い込んだままびくともしなかった。もどかしさの余り、夫は故郷にいたころ役牛を使っていたときのくせで「ハイッ!」とかけ声をかけた。夫に役牛扱いにされたと思った妻は、口惜しさのあまり畑に泣き伏した。夫は、すきを置いて、つい口に出たことだから許してくれとあやまり、妻のそばに座り込んでは、こんなモグラのような生活がいつになったら終わるのだろうかと嘆いた。

 このような生活境遇は、新興村の農民を民族的にも階級的にも容易に目覚めさせる下地といえた。この新興村の住民の大部分は、咸鏡南北道一帯から移住してきた零細農と、農組や青年同盟をはじめ、各種の大衆団体で反日運動に関与し、新たな活動舞台を求めて離郷の道を選んだ亡命者であった。後日、祖国光復会新興村支会とそこの党特別支部で活動した金丙浮ノしても、国内から亡命してきた人であった。彼は国内にいたとき、いつも同志たちに、農組が闘争で成果をおさめるためには必ず朝鮮人民革命軍の指導が受けられるルートをつくらなければならない、革命軍の指導なくしては国内闘争の勝利は不可能だ、と力説した。言うまでもなく、この主張は多くの同志から支持された。しかし一部の人は、革命軍のつてをどう求めるのかと難色を示した。しかし、彼は一人ででも遊撃隊を訪ねていくことを決心し、知人が活動している長白県の新興村に移住した。彼は、国内の人士のなかで海外の武装闘争と国内の政治闘争の不可分の関係と一元化の必要性をはじめて認識し、空理空論の域から脱し、積極的にそれを実現しただけでなく、革命軍との連係をつけてからは、我々の路線を貫徹する道で生命までささげた先覚者、闘士の一人である。

 李柱観、李柱翼など朝鮮の愛国者は、1930年代の初めに長白地方で在満韓人赤色農組を結成し、それに依拠して大衆闘争を展開した。迷信、賭博、早婚、買婚の打破や識字運動のような啓蒙運動からはじまった農組の活動は漸次、小作争議や夫役に反対する経済闘争の段階をへて、軍用道路や軍事施設の建設に反対したり妨害するなどの反日政治闘争に発展した。我々が長白に祖国光復会の組織を結成するまでは、その赤色農組が新興村とその周辺の大衆運動を指導したという。

 一言でいって、李悌淳は、白紙のようにきれいな人であったといえる。経歴も比較的単純であった。それは、彼がえせ運動家や派閥分子の誤った思考や闘争方法に毒されていないという、もっとも確実な証拠であった。わたしはむしろ、その単純さを貴重なものと考えた。白紙のように汚れを知らぬ頭に移植される思想や主義主張は、くもることがないものである。反日愛国運動を展開する過程で李悌淳が体得したという人生哲学のなかには、興味深いものが少なくなかった。彼は、人間がなすことのうちでいちばんむずかしいのは先駆者、指導者の役割を果たすことだと言うのであった。すなわち、他人が1つをおこなうときに2つ、3つをおこない、他人が1歩進むときに2歩、3歩進むのがもっとも骨のおれることだと言うのである。事実、彼の言葉には、深奥な真理がひそんでいた。それは、人の先に立って社会改造の困難な道を切り開いていく革命家の苦労を反映している真理であった。

 「農作を営み、村長を勤め、革命活動までするとなると、さぞ苦労が多いことでしょう」

 わたしがこう言うと、李悌淳は笑って答えた。

 「ええ、並大抵ではありません。しかし、その苦労がわたしにはかえって楽しみとなっているのです。この険悪な世の中で革命活動の苦労もなければ、なにを楽しみに生きていけるでしょうか」

 彼は、大衆工作がいちばんの楽しみであり、同志を得たときの喜びがいちばんの喜びだと言った。大衆獲得にあたっていちばんむずかしい対象は誰かと聞くと、老人だと答えた。そして、大きな運動場と公会堂さえあれば、一つの村を啓蒙することくらいはわけのないことであり、一つの面(郡の下の行政単位)でもそっくり革命化することができると言った。わたしは、李悌淳の大衆観点と大衆工作にたいする見解にまったく共感した。大衆啓蒙にかんする李悌淳の経験のなかで興味を引いたのは「家庭夜学」の運営であった。「家庭夜学」とは、家庭を単位に運営する夜学のことである。李悌淳の家でもそうした夜学を開いていたが、それには男女の別なく家族全員が参加した。李悌淳は毎晩、妻と妹たちを熱心に教育した。「家庭夜学」のおかげで、彼の家族はみな読み書きができるようになった。

 大衆工作にかんする李悌淳の話を聞き、ふと思いあたるところがあって、密営に荷物を担いできた十家長たちの動向について尋ねた。李悌淳は、彼らの動向はみなよいといえるが、李東学中隊長が連れてきた千地主の養子が問題だと答えた。その養子は、革命軍を匪賊と誤解しており、自分が遊撃隊に殺されるのではないかと心配して、密営に到着した日からずっと不安がっているということだった。わたしはそれとなく尋ねた。

 「李東学中隊長は、義援金工作のために連れてきたとしましょう。ところで、あなたはどう考えますか。千地主の養子をどう処理すべきだと思いますか」

 李悌淳は、そんな質問をあらかじめ予見していたかのように、心のうちを打ち明けた。

 「わたしは、遊撃隊が彼に手をかけはしないと思っています。地主の養子とはいうものの、実際は下男も同様のあわれな青年で、これといった罪も犯していません」

 統一戦線の視点から問題をおおように考察する彼の寛容さと独特な思考方式に、わたしは驚きを禁じえなかった。千地主の養子にたいする彼の観点は実際上わたしの観点と一致していた。李東学がその養子を教育して、我々にたいする認識を改めさせたので、彼は入隊を願い出るまでになった。本人の希望どおり、わたしは彼を革命軍に入隊させた。二十道溝戦闘のとき、彼は道案内をした。李悌淳が大きな信頼を与えた彼は、惜しくもその後の戦闘で戦死した。

 とまれ、李悌淳は誰からも好かれる特異な性格の男だった。彼は、長白を革命化しうるまたとない適任者であった。必要な知識と方法さえ習得させれば、将来りっぱな地下組織活動家になれる人であった。わたしは、長白地区に祖国光復会の組織を結成する仕事を彼にまかせようと心に決めた。しかし、当人は革命軍への入隊を熱望した。李悌淳は、部隊が戦闘に出ている間に多少の入隊準備をしたから、どうせなら入隊試験を受けさせてくれとせがんだ。入隊試験という言葉を聞いて、わたしは大笑いした。

 「そんな必要はありません。『ポタジ』同志があなたをテストして連れてきたのですから、もう入隊資格証はもらったようなものです。あなたがどうしてもと言うなら、いつでも遊撃隊に受け入れましょう。しかしわたしは、あなたがほかの仕事をするほうが革命により大きな助けになると考えているのです」

 李悌淳は解せない表情だった。

 「ほかの仕事とはどんなことですか?」

 「ただの射撃選手として出場するよりは、大きな組織をつくって日本軍を打ち負かせと朝鮮人民革命軍を支援してくれてはどうでしよう?」

 「すると、わたしに組織をつくれというのですか?」

 彼は好奇の目を向けた。

 「そうです。あなたが暮らしている新興村をはじめ、鴨緑江沿岸の随所に祖国光復会の組織をつくるということです」

 わたしは、各階層の広範な大衆を反日民族統一戦線に結集することがいかに切実で重要であるかに力点をおいて説明した。聡明な李悌淳は、それなら地下組織の活動をしてみる、しかし能力が足りないので、そんなむずかしい仕事をやり遂げられるか自信がない、と言った。

 「そのことなら心配には及びません。習えばよいのです。生まれながらの革命家がいるわけではありません。誰でも革命をこころざし、実際の闘争のなかで一つひとつ着実に習って経験を積めば、革命家になれるのです。それに必要な知識は、我々が教えましょう」

 我々は、李悌淳のために単独講習をおこなった。講習の主題は、朝鮮革命の路線と性格、戦略戦術についてであった。この講義は、わたしが受け持った。祖国光復会の10大綱領と創立宣言、規約にかんする解説講義とコミンテルン史の講義は李東伯がおこなった。たった一人の受講生のために数名の有能な講師が代わるがわるあれほど実のある講義をおこなった例は、抗日革命闘争の全期間を通じて、あのときしかなかったと思う。講習を終えて密営を発つとき、李悌淳は真情を吐露した。

 「わたしは、1斗の食糧を担いできて、何石もの革命の糧を得て帰ります。この恩は一生忘れません。任務を与えてください。どこか地域を一つまかせてくれれば、朝鮮人が住んでいるすべての村に祖国光復会の組織をつくってみせます」

 わたしは、李悌淳に長白県上崗区地域をまかせることにした。発つ前に、彼は信任状を一筆したためてほしいと言った。わたしの判がある信任状があれば、広範な大衆を祖国光復会の組織に結集できるし、また活動もかなり容易に進めることができそうだと言うのであった。彼の望みどおりに信任状をしたため、署名の下に捺印までした。その小さな証明書を手にした李悌淳は、半年のうちに上崗区地域を我々の天下にしてみせると言い切った。それが空言でなかったことは、その後の彼の闘争実績が物語っている。

 その日、李悌淳はわたしにこう頼んだ。

 「将軍、ひとつお願いがあるのですが、かまいませんか? ほかでもなく、密営を発つ前に遊撃隊の軍服を着させてもらえれば本望です」

 「そんなことならたやすいものです。願いどおりにしましょう」

 わたしは快諾した。こんなことを言い出すくらいだから、どんなに革命軍に入隊したかったのだろうかと思った。李悌淳は、地下解放戦線にすべてをささげる決意をかためながらも、革命軍への入隊の願望はそのまま胸に秘めていたのである。満州を占領した日本が中国本土、ひいてはアジア全域を呑み込もうという野望のもとに、新たな世界大戦に向けて暴走しているときに、軍服を身につけて抗日大戦に参加しようとするのは実際上、愛国主義の最高表現と評価することができた。わたしは、李東学中隊長に倉庫から新しい軍服を一着持ってこさせ、李悌淳に着させた。李悌淳の軍服姿はりっぱなものだった。おおよその見当で持ってこさせた軍服なのに、ぴったりと合った。

 「悌淳同志は、まるで軍服を着るためにこの世に生まれてきた人のようです。軍服姿がりっぱです。軍服まで着たのだから、朝鮮人民革命軍に入隊したことにしましょう。きょうからあなたは、朝鮮人民革命軍の政治工作員です。悌淳同志、入隊を祝います!」

 わたしは、彼に近づいてその手を強く握った。彼の入隊をもっとも熱烈に祝ったのは李東学だった。李東学は、軍服を着て喜色満面の村長をおぶってわたしのまわりをぐるぐる回った。こうして、李悌淳は、食糧を担いで密営に来て遊撃隊に入隊することになったのである。

 李悌淳を家に帰すとき、敵をあざむくための小規模な戦闘を仕組んだ。その任務は、李東学の小部隊が遂行した。まんまとあざむいて敵に一泡吹かせた李悌淳の後日談が痛快だった。わたしが教えたとおり、彼は山を降りると家にも寄らず、二十道溝警察分署に駆けつけてまくし立てた。――村長はもうまっぴらだ。あんたらは、村長をこき使うだけで保護してくれないではないか。わたしが引っ張られたことを知りながら、あんたらはなんの救援対策も講じなかったではないか。わたしは、もうこわくてたまらないから朝鮮に帰るつもりだ。犬死にするしかないあんたらの使い走りは、ほかの者にやらせるがいい――

 すると、警官たちはあわてて、どうかそんなことは言ってくれるな、あんたのことを心配しなかったわけではない、どこに連れていかれたかわからなかったので手を打てなかったのだ、気を静めて、どこに捕われていて、どう抜け出してきたのか早く話してくれ、と言った。李悌淳は、ずっと目隠しをされていたので捕まっていた場所はわからないが、明け方に逃げ出した場所は覚えている、休み時間に歩哨がうとうと居眠りしているすきに逃げ出してきたのだ、とまことしやかに話した。警官たちは、遊撃隊は何人ぐらいいたのか、逃げ出した場所はどこかを問いただし、自分たちをそこまで案内してくれと言った。事は、筋書どおりに運んだ。警察討伐隊は、李悌淳が教えた谷間に踏み込んで袋のネズミとなった。こうして敵は、李悌淳を信じざるをえなくなった。

 李悌淳は敵の信頼を巧みに利用して、その年の秋に金丙普A李柱観、李三徳たちとともに祖国光復会新興村支会を結成した。この支会は、白頭山間近の西南方に生まれた初の祖国光復会組織であった。それ以来、李悌淳は、村長の役職を李三徳に譲り、権永璧とともに長白県上崗区一帯を中心に組織網を拡大する活動に取り組んだ。我々は、長白県を便宜上大きく3つの地区、すなわち、上崗区、中崗区、下崗区に区分し、上崗区はまた上方面、中方面、下方面に分けて活動した。新興村に支会を結成した李悌淳は、つづけて珠家洞、薬水洞、大寺洞、坪崗徳にも祖国光復会の支会を結成した。支会の傘下にはまた多くの分会をおき、反日青年同盟、婦女会、児童団などの外郭団体を設け、各階層の大衆を広く結集した。半年足らずの間に、李悌淳は、上崗区全域に稠密な地下組織網を張りめぐらした。

 白頭山密営をとりまく大部分の村には、祖国光復会の組織が網の目のように張りめぐらされた。その組織は、県内の先進的な青年学生や知識人、宗教家のあいだにも浸透し、ひいては満州国の官公署や警察機関、靖安軍部隊内にも根をおろすようになった。祖国光復会は、傘下に各階層の広範な大衆を擁する大衆団体をおいた。祖国光復会の外郭団体には、数万名の大衆が結集した。祖国光復会の各支会は生産遊撃隊を擁していたが、それは、有事のさい人民革命軍に合流して大事をなし遂げる強力な潜在力となった。

 長白地区における祖国光復会組織の拡大は急テンポで進み、祖国光復会長白県委員会を設けて李悌淳を総責任者にした1937年の初めにいたっては、長白県全域が完全に我々の天下になった。長白の大部分の村が「我々の村」になり、ほとんどの人が「我々の味方」になった。長白の大方の村落の区長、村長の役職も「我々の味方」が占めていた。彼らは表向きは敵の手先役を果たすふりをしていたが、内実は我々の仕事をしていた。

 面長の李柱翼もそういう人であった。白頭山進出に先がけて長白地方に先発隊を派遣したとき、彼は金周賢によって吸収された祖国光復会の特殊会員だった。彼は、隅勒洞に薬局を設けて医家の仕事をするかたわら面長を勤めていたが、その肩書きをうまく利用して、我々の活動を大いに助けてくれた。李面長が国内で水利組合に反対する闘争に参加したかどで投獄されたころから、李悌淳はずっと彼を注視してきたという。李柱翼は、李悌淳の指導を謙虚に受け、彼の指示や頼みを忠実に実行した。

 当時、政治工作員が、国内に入ったり、鴨縁江沿岸の中国側の村落を足場にして安全に活動するためには、渡江証や居民証のような証明書が必要であった。居民証がなくては派遣地に行ったとしても隠れとおすことはできず、渡江証がなければ税関警官が構えている鴨緑江を自由に渡ることができなかった。居民証と渡江証は、面長の保証のもとに警察機関が発給していた。そうした証明書は、面長の提示する民籍簿に登録された人に限って、警察署が発給することになっていたのである。

 李悌淳と李柱翼は、政治工作員の安全で自由な活動を保障するため、白頭山にもっとも近い山里の二十四道溝に多くの幽霊民籍をつくることにした。そこは、警官でさえ踏み込むのをためらうほど険しい辺地であった。李柱翼は、長白一帯と国内で活動する政治工作員たちを偽名で民籍簿に載せ、それを警察署に持っていってひとくさり愚痴をこぼした。

 「山奥の貧乏人は、みんなが無知なので、なんにもわかっちゃいない。一年中山奥に閉じこもったままどこにも行かないんだから、まったくの世間知らずで、居民証がなければ住みつけないということさえ知っちゃいないんだ。だからしようがないさ。あの熊のようなうすのろたちに、こっちから持っていってやるしか。足が棒になっても仕方がない。まったく面長という役も楽じゃない」

 警察署でも百姓たちの無知には往生させられると相づちを打ち、面長や村長が差し出す幽霊民籍にもとづいて大量の居民証を交付した。こうして、李悌淳の手もとにはいつも李柱翼が用意した余分の居民証が十分にあった。政治工作員たちは、それを持って、随時よそへ行ったり、国境を行き来することができた。

 長白地区の祖国光復会の組織網が急速に拡大され、その活動範囲が広がるにつれ、我々は新たに設けられた組織をかため、それを足場にして革命運動を国内深くにまで拡大するため、一度に30余名の政治工作員を派遣したことがある。新興村には、初の女性中隊長である朴禄金(朴永姫)と2名の少年工作員が派遣された。李悌淳からその3人の居住手続きを頼まれた李柱翼は、彼らを偽名や変名で民籍簿に載せた。

 十九道溝の地陽渓で区長を勤めた李勲も、李悌淳の影響を受けて祖国光復会に加入した人である。李悌淳は、密営でわたしに会って帰るとすぐ、李勲を訪ねて『祖国光復会10大綱領』について説明し、金将軍の望みだと、信頼できる青年たちに影響を与えて組織に受け入れる準備をするよう指示した。任務を受けた李勲が、李悌淳に最初に紹介したのは、咸鏡南道永興(金野)で農組運動に関与し、のちに十九道溝の徳三村に来ていた安徳勲であった。1937年の春、李悌淳は、安徳勲を責任者とする祖国光復会十九道溝支会を結成した。その管下の各村落には、その年の夏までに、もれなく分会が結成された。分会長は、たいてい村長が兼任した。組織の活動は、活発をきわめ、この地方では少年たちが革命歌を公然とうたって歩くほどだった。

 わたしは白頭山にいたとき、何回か李勲に会った。そのとき彼は、李悌淳について多くを語りながら、将軍は人に恵まれている、と言った。

 「将軍は、人を見る目があります。長白広しといえども、悌淳ほど聡明で誠実な人は見たことがありません。新婚生活の楽しみもあとにし、いつも客地で革命運動のために奔走している姿を見ると、おのずと頭がさがります。わたしも、彼のおかげで将軍の部下になれたのです」

 司令部が長白県十九道溝の地陽渓の裏山にあったころ、李勲は妻と一緒に我々をよく助けてくれた。地陽渓の裏山は、森林をへて黒瞎子溝まで行ける有利な地点だった。李勲の妻は、長白県の市街地へ行っては、タバコ売りや豆腐売りを装って敵の動静を探り、異常があれば自分の家の庭に火を焚いた。人民革命軍の衛兵所では、それを見て敵の動きがあることを司令部に知らせた。大部隊が移動するような特殊な状況が生じた場合は、李勲がみずから駆けつけてきて詳細に報告した。このような愛国的な面長、区長、村長は、長白の各所にいた。

 長白が我々の天下になり、長白の人びとが味方になったことは、白頭山根拠地創設の戦略的課題を遂行するうえで朝鮮の共産主義者がおさめた大きな成果であった。白頭山に進出して以来、半年足らずの間に長白とその周辺を完全に我々の天下に変えることができたのは、李悌淳のような忠実で果敢かつ情熱的な革命家のおかげだといえる。李悌淳は、抗日の戦火のなかで生まれた民衆の真の息子、真の忠僕であり、民衆の解放のために肉弾となって革命の道を切り開いたりっぱな朝鮮の愛国者、朝鮮共産主義者の一人であった。李悌淳は、地下組織の活動家としての品格と資質を十分にそなえた洗練された革命家であった。

 呉仲和と同様、李悌淳も家庭をりっぱに革命化した。まず、自分と血縁的なつながりのある人びとを反日愛国思想で武装させてこそ、村全体を革命化し、ひいては、全国、全民族を革命化することができるというのが彼の信念であり、革命活動方式であった。それで彼は、故郷にいるときから妹たちを革命活動に参加させた。彼の妹は、兄の革命活動を積極的に援助した。李悌淳は新興村に来てからは、妻と義母も革命活動に引き入れた。夫のこまやかな指導と愛情につつまれ、妻の崔彩蓮は、祖国光復会傘下の新興村婦女会会長に成長した。夫の影響を受けた崔彩蓮は、思想的に早く目覚めた。彼女は、情操豊かであったばかりか、政治的感受性も非常に鋭敏だった。こうした長所は、彼女に革命活動の方法を早く体得させ、革命家が守るべき準則を厳守させた。李悌淳は人一倍の愛妻家であったが、非常にきびしくもあった。平素は冗談を言ったりおどけてみせたりしてやさしく妻に接したが、いったん地下活動となると公私のけじめをつけ、秘密に属する問題はいっさい口にしなかった。ある日、李巡査の妻が駆け込んできて、崔彩蓮にこう言った。

 「彩蓮、あんたは三度の食事をきちんととりながら、まったくのんきなもんだよ。村の居酒屋でどんなことが起こっているのか知らないなんて」

 なんのことかわけがわからず、けげんな顔をした。

 「なんのこと? わたしが居酒屋のことまで知るわけがないでしょう」

 「あんたはほんとに、なんにも知っちゃいないんだね。あんたの亭主が、毎晩あそこで人妻たちとお楽しみだというのに… あんたときたら…」

 李巡査の妻は、こう言い残して立ち去った。崔彩蓮はさっそくその晩、当の居酒屋に行った。そっと戸を開けて中をのぞくと、李巡査の妻が言ったとおり見知らぬ男女がぎっしり座っていた。その真ん中に李悌淳が座を占め、李巡査の姿も見えた。しかし、李巡査の妻の言う「お楽しみ」らしきものはありそうになかった。そのとき彼女は、警察の目につきにくい、このだだっ広い居酒屋で夫の主宰する秘密会議がおこなわれていることを直感した。だとすると、李巡査も地下組織のメンバーらしかった。なのに、李巡査の妻はなぜあんなうそをついたのだろう。嫉妬のあまり秘密の会合を「お楽しみ」と勘違いしたようである。彼女は安堵の胸をなでおろし、あわてて戸を閉めた。しかし、夫のするどい視線は、彼女を見逃さなかった。その日、李悌淳は、妻をしかりつけた。夫にひどくしかられながら崔彩蓮は、人の話にのってとんでもないことをしでかした、根も葉もない不信や嫉妬は、家庭の和を破り、ひいては家庭そのものを破壊しかねない、夫婦のきずなはなによりも信頼が第一の基礎なのだと痛感した。その日、李悌淳は妻を叱責しながらも、自分の潔癖さを証明しようと居酒屋でしていたことをほのめかすようなことはしなかった。彼は、それほど口がかたい人間であった。我々は、革命家一般、とくに、地下工作員や地下組織の活動家に必要な行動規範を法文化してはいなかったが、李悌淳には、みずから決めている自分なりの心の法規があったのである。

 わたしは長白地方にいたとき、新興村にある李悌淳の家を2度ほど訪ねたことがある。いつかは、凍りジャガイモでつくった麺をごちそうになり、そこで一泊した。わたしが訪ねると、李悌淳は台所と部屋の間にすだれをかけ、妻に部屋の中をのぞかせなかった。それで崔彩蓮は、食事のたびにわたしに食膳を運びながらも、わたしがであることを知らなかった。後日、朴禄金を通じて、それがわたしであったことを知った彼女は、涙ながらに夫を責めた。

 「あなたは、二言めには人を信じなければならないと言いながら、わたしには最後まで、あの方が金日成将軍だということを教えてくれませんでしたわね。あんまりじゃありませんか」

 「それだけは、誰にも言えなかったんだ。みんな将軍の身辺警護のためだったのだから、残念だろうがわかってほしい」

 まさにこれが、李悌淳流の法規であった。彼の強靱な性格と首尾一貫した原則性は、崔彩蓮の性格発展と世界観の形成によい影響を与えた。李悌淳は、白頭山密営でわたしに会って帰ると、妻にこう頼んだ。

 「これからは家に訪ねてくる客が多くなるだろう。だからジャガイモと澱粉、大麦、みそ、薪などを十分に用意しておいてほしい。きみをわずらわせることになりそうだ」

 その後、崔彩蓮は、遊撃隊員や地下工作員の世話をするために大変な苦労をした。彼女は毎日、臼をひいた。おびただしい量の穀物をひいたので、李悌淳がつくってやった臼の底が抜けてしまいそうだった。

 李悌淳は、家庭を革命化してから村まで革命化した。彼は、権永璧とともに新興村に党特別支部を結成した。その支部が結成されたのち、長白地方では多くの祖国光復会の会員が入党した。人びとを組織に結集し、遊撃隊を援護するうえで、新興村は、断然トップを占めた。新興村の住民は遊撃隊が村にやってくるということを聞くと、油をとるためにエゴマを煎った。彼らは、遊撃隊に送る援護米を準備するために食糧の節約に努めた。主産物のジャガイモは、運搬に不便で、用途もあまりなかった。それで、ジャガイモを澱粉にして遊撃隊の密営に送った。新興村の女性たちは、みそも生でなく加工したものを送ってくれた。みそに小麦粉をまぜて餅のようにこねあげ、それを火にあぶったもので、保管にも利用にも非常に便利であった。新興村の住民が送ってくれた援護物資は数万点に達した。彼らは、そのおびただしい量の物資をすべて担いで密営や遊撃隊の宿営地まで運んでくれた。

 新興村の住民は、指導者に恵まれていたといえる。李悌淳が、有能な人であったうえに、権永璧、朴禄金、黄錦玉らが彼をよく助けた。わたしは、普天堡戦闘の前に新興村を訪ね、革命軍を熱烈に歓迎する団結した村人の姿を見て大きな感銘を受けたものである。村に到着すると、彼らは、製麺器を4つ用意し、またたく間に数百人分のそばをつくりあげた。まったく目にも止まらぬ手並みであった。そのとき隊員たちは、新興村をさして「手放したくない村」だと言った。本当に新興村の住民は、誰も彼も手放したくない人たちだった。あとで知ったことだが、我々が村に行くときには、そのたびに李悌淳が事前に非常会議を開いて歓迎対策を討議したとのことである。

 李悌淳がすぐれた組織的手腕と臨機応変の妙計の持ち主であったことは、つぎのようなエピソードを通してもよくわかる。1937年の春、祖国光復会長白県委員会は、新興村でメーデーのデモをおこなった。白昼に、それも衆人環視のなかで合法的なデモをおこなうには、敵に難癖をつけられないような策略が必要であった。李悌淳は、キツネ狩りを口実に各村の青少年を指定の場所に集合させた。デモ隊は、赤旗をかかげ、1列になって「朝鮮独立万歳!」を叫びながら、鴨緑江が見おろせる尾根をつたって二十道溝の南隅村まで行進した。デモ隊は、敵を混乱に陥れるため、ときたま、ほかのスローガンも唱えた。その日、鴨緑江両岸の住民たちはみな足を止め、この物珍しいデモを胸のすく思いで見物した。川向こうの佳林川駐在所と国境守備隊の軍警は、革命軍が来襲したものと思い、山頂の騒擾がなんであるかを調べることすらできなかった。デモが終わり、それが一般住民によるものであることが判明したあとになって、敵はようやく長白に渡り、どうして多くの人間が騒ぎ立てているのかと聞いた。デモ隊は、キツネ狩りをしているのだと答えた。

 「キツネ狩りをするのに、なぜ赤旗を持ち歩いているのか」

 と警官がまた聞いた。

 「キツネは、赤色をいちばんこわがるんですよ。だから赤旗を持って歩いているんです」

 デモ隊は、今度もなに食わぬ顔で警官たちをあざむいた。事実、赤旗は、キツネ狩りにもデモにも必要なものであった。日本帝国主義の暴圧がますますエスカレートしていた1937年当時、白昼に数百人の集団が赤旗を振りながら独立万歳を叫んだというのも驚くべきことであるが、それが反日反満デモであることに日本の軍警も満州の軍警も気づかなかったというのもまったくの痛快事であった。これは、すぐれた知略と胆力をそなえた人でなければ、とうてい考え出すことのできない大冒険であった。我々が普天堡を襲撃した後、李悌淳は、新興村婦女会のメンバーを現地に派遣して戦果と世論を調査させ、それを通報してくれた。我々は、彼にそんなことを頼みはしなかった。彼が、創意を発揮し、自分の決心でおこなったのである。

 この2つの事実からしても、李悌淳が、自分なりの革命の方法論をもった有能な活動家であり、情熱的な思索家であることがわかる。彼は、革命と自分の双肩にになわされた時代の使命について、誰よりも頭を働かせた人である。彼のそうした陣痛の過程がたえず繰り返されなかったならば、短期間のうちに長白をあれほど徹底した我々の天下にするという奇跡は生みだせなかったであろう。

 思索のない人間には創意が生まれず、創意のないところに創造と革新がありえないというのは誰もが知るところである。人間を世界の支配者にし、その気にさえなればなんでもなし遂げられる有力な存在にしたのも、つきつめて見れば思索のたまものといえる。意識性をもつ社会的存在である人間は、不断の思索とその累積によって自然と社会と自分自身を改造し、世界の主人として堂々と君臨するようになった。わが党が幹部と党員と勤労者に情熱的な思索家になれと呼びかけるのは、自然と社会と人間の改造における思索の役割をもっとも重視しているからである。

 李悌淳は、思索と実践を正しく結合した創造的な人間であった。彼は、法廷や獄中にあっても思索を中断しなかった。法廷における彼の思索は、共産主義者として生涯をどう終えるかということに集中された。

 (わたしが法廷でできることはただ一つ、自分がより多くの「罪」をかぶってでも同志たちを救うことだ!)

 これが、恵山警察署の留置場にいたときの彼の決心であった。実際に、李悌淳は、自分を犠牲にすることによって多くの人を救い出した。面長の李柱翼が逮捕されたときも、彼は、我々のしたことを知っているのは、金将軍とわたし、きみの3人しかいない、将軍は山におり、わたしは絶対に口を割らない、だから、きみさえ頑張りとおせば無事にすむだろう、と言った。李柱翼は、言われたとおりにし、何日か拘留されただけで釈放された。李悌淳がすべての「罪」を一身にかぶったおかげで、新興村の党組織責任者であった金丙浮ニ李柱観も極刑をまぬがれた。他人のために自分を犠牲にしたところに、共産主義者としての李悌淳の崇高な美徳がある。

 監獄にいるとき、権永璧を通して張曽烈が裏切ったことを知った李悌淳は、そのために堅実な同志たちがさらに犠牲になるのではないかと気が気でなかった。張曽烈が、敵の犬になりさがったことを一刻も早く同志たちに知らせなければならないのだが、彼にはちびた鉛筆1本もなかった。考えたあげく、彼は下唇を噛みきった。唇からしたたり落ちる血を指先につけ、布切れに「張曽烈は裏切者」と書き、拷問室に呼び出されたときに、ほかの監房に投げ入れた。それで多くの同志が張曽烈の正体を知り、獄中闘争をいっそう頑強に展開した。

 李悌淳の7年間にわたる獄中闘争の感動的な話を、ここにすべて紹介できないのが残念である。崔彩蓮が面会に行ったときの李悌淳の顔は、以前、祖国光復会の組織を結成するために奔走していたときの、あのきれいな若々しい顔ではなかった。昔の面影はどこにも見られず、骨と皮ばかりの痛々しい姿であった。しかし、そんな姿で鉄窓をへだてた妻との面会の場にのぞんでも、李悌淳は泰然と笑みを浮かべていた。そして、別れるときには、食物ではなく世界地図を差し入れてくれ、と頼むのだった。この思いもよらぬ注文には、崔彩蓮もどんなに面食らったか知れないという。

 李悌淳が獄中にありながら世界地図を求めたのは、第2次世界大戦後の新たな世界構造、大戦の結果として新しく生まれ、万邦に光を放つであろう解放された祖国の姿を地図の上に描いてみたかったからではなかろうか。これは、死刑の判決を受けた後も、彼が絶望したり悲観することなく、祖国の輝かしい未来、世界の明るい未来を描きつづけていたという明白な証拠である。彼は、現実にありながらも未来に生きた人であり、死を前にしても、解放された祖国の大地に百花咲き乱れる幸せな新しい生活を描いた人であった。それゆえ、転向をすすめる法官に向かって「共産主義は、永遠の青春」と宣言してはばからなかったのである。

 1945年の初めに、ソウル西大門刑務所の面会室に末娘を連れた崔彩蓮があらわれた。生後2か月足らずで母親とともに投獄され、乳欲しさに泣いた末娘もいつしか8歳のかわいい少女になっていた。少女は、鉄窓の向こうにあらわれた、ひげ面の男をいぶかしげに見つめた。

 「あの人が、おまえのお父さんだよ」

 崔彩蓮は、その男を指さした。父と娘は鉄窓越しに見つめ合っていたが、娘の口からは「お父さん!」という言葉が出なかった。8歳になるまで父を知らずに育った娘の口から「お父さん!」という言葉が簡単に出ようはずはなかった。少女は、近所の父親たちが自分の子どもをかわいがるのをよく目にしてきた。それなのに、自分の父はどこかおかしかった。娘が来たというのに抱いてもくれず、鉄窓の向こうで笑っているだけだった。金属音がして、手錠をはめられたままの父の手が自分の頭をやさしくなでてくれたとき、やっと娘は「お父さん!」と叫んだ。李悌淳は、涙をのんで「お父さんはすぐ家に帰るからね」と、実現しようのない「約束」をした。生まれてはじめて父を見る娘に、そんな空約束しかできなかった李悌淳の胸中はいかばかりであったろうか。

 結局、彼は娘との「約束」を守ることができなかった。1945年3月10日、敵は李悌淳を審問場に呼び出して説き伏せようとした。きょうはわが日本皇軍の陸軍記念日だ、いまでも転向すれば死刑をまぬがれることができる、と。しかし、李悌淳は、いかなる懐柔や重刑にも屈しなかった。長白の名もない山村の夜学の先生、村長であった李悌淳は、花のような青春を抗日革命にささげた熱烈な愛国者、不屈の革命闘士であった。

 生まれながらの革命家というものはありえず、人間は生活と闘争の過程で、闘士に、革命家に成長するのである。人間が革命家に成長する過程は各人各様であるが、思想が堅実で愛国愛族の一念に燃える人が、正しい指導を受ければ革命家になれるというのは、革命の真理であり、歴史の教訓である。それゆえ我々は、思想、技術、文化の3大革命の遂行において思想革命を優先視するのである。それは、思想革命こそは、人びとを意識化、組織化し、熱烈な愛国者、不屈の革命闘士に育てる揺藍であり、人民大衆の自主偉業、革命闘争を強力に推進する原動力であるからである。

 李悌淳が3回目か4回目に密営を訪ねて来たとき、わたしは、祖国光復会の組織のためにつくした彼の労苦を高く評価した。すると、彼は当惑した顔で両手を振り、こう言うのだった。

 「とんでもありません。それは、わたしの手腕や苦労のせいではありません。あの信任状が李柱翼面長のような人までも、たちまち祖国光復会の会員にしてしまったのです。彼は、信任状を見て、金将軍が会長なら自分もその会員にしてくれと言うではありませんか。また長白の人たちは、愛国的熱意が高い人たちなのです。わたしがしたことは、これといってありません」

 李悌淳は、このように謙虚な人であった。彼は、いまも大城山の革命烈士陵で、小さな半身像の謙虚な姿で新しい世代を見つめている。そばには、彼とともに刑場の露と消えた権永璧、李東傑、池泰環たちの半身像も肩を並べて立っている。



 


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