金日成主席『回顧録 世紀とともに』

2 水車の音


 白頭山の地脈をかかえて生まれた西間島の農村集落へ行くと、水足の速い谷川があちこちに見られ、それを動力にして穀物をひく水車の音が聞けた。月夜に遠くから聞こえるその水車の音は、胸にじんとくる郷愁を誘ったものである。それまで、朝鮮人移住民の涙をひいていた長白の水車は、我々の白頭山進出を機に、その用途と意味が変わった。1936年の秋から、長白の人びとはその水車で多くの穀物をひいて、我々に送ってくれた。長白の地に設けられた数十の大小の水車のうちで、援軍活動とゆかりのないものはほとんどなかった。それらの水車は、全人民的援軍活動の象徴として、わたしの脳裏に深く刻み込まれている。我々が白頭山を拠点に長い間、抗日戦争を展開することができたのは、長白の人びとの積極的な支持と声援のおかげであったといえる。

 長白地方で人民革命軍にたいする支援活動を最初にはじめたのは、十六道溝徳水溝の人びとであった。我々が長白に進出して最初に立ち寄った村は新昌洞である。新昌洞を含めて十六道溝の谷あいにある村々を総じて徳水溝と呼んでいた。我々が立ち寄った上新昌洞は、2つの谷川の合流点の下方にある40戸余りの僻村であった。そこにも水車があった。その日、新昌洞の人びとは、水車でソバをひき、我々に冷麺をもてなしてくれた。

 徳水溝の人びとがはじめた援軍運動はその後、王家溝、薬水溝、地陽渓をはじめ、西間島全域をわき立たせた。数日おきに米や布地を担いだ大勢の援護物資運搬隊が、森林の秘密路をへて密営にやってきた。あわてふためいた敵は、長白一帯に兵力を増派し、人民を締めつけた。少しでもあやしげな気配が見えると、村を焼き払い、人びとを手当たりしだいに引き立て殺害した。

 「共匪に食糧や金品を供給したり、それと連絡をとる者は、通匪とみなし即時銃殺に処する」

 これは当時、長白県内各地に張り出された威圧的な警告文である。白頭山付近の国境周辺の住民は地下たび1足、マッチ1箱も自由に持ち歩くことができなくなった。それでも密営には、人民の援護物資が引きも切らず届けられた。人民革命軍にたいする長白の人びとの援護活動は、自分自身の死活の要求から起こった自発的な活動であった。彼らは、革命軍を援助することこそ朝鮮独立の道であると考えていたのである。それゆえ、革命軍を援助するためなら死も恐れず、真夏の炎天も、厳冬の豪雪もものともしなかった。

 援軍運動に立ち上がった長白の人びとの群像を思い浮かべるたびに、英化洞の村長であり組織のメンバーであった李乙雪の父親李炳Wの剛直で素朴な姿がよみがえる。李炳Wの3人兄弟は、いずれも長白地方の援軍運動の先駆者であった。1936年の末、黒瞎子溝密営にいたとき、李炳Wは英化洞の革命組織が準備した援護物資を持って司令部を訪ねてきた。彼らが持ってきた多くの援護物資のなかでいまも記憶に新しいのは、普通のものより綿が多く入っていて長さも倍ほどのポソン(朝鮮の足袋)である。荷物のなかからポソンを1足取り出して足にあてると膝まできた。わたしは、英化洞の女性のまめまめしい手並みとまごころに感嘆した。

 「造りがすばらしい!」

 わたしがこうほめると、李炳Wは顔を赤らめた。

 「将軍、長白は、雪が深い所です。冬は足に気をつけないとひどく苦労をします」

 初対面であったが、彼が非常に誠実で謙虚な人であることがすぐにわかった。彼は決して人の前に立とうとはしなかった。荷物を運ぶ人たちを率いて密営に来ても、自分が引率者であることはおくびにも出さず、同僚の後ろに立って注意深くわたしを見つめていた。わたしがポソンを手にしてしげしげと見ていると、誰かが米の背のうを開けてこう言った。

 「司令官同志、これを見てください。おそらく日本の天皇もこんな麦にはお目にかかれなかったでしょう」

 わたしは、わが目を疑った。白雪のように真っ白できれいな麦粒! これが白米でなくて麦だというのか。どんなにまごころをこめてひき、これほどきれいでおいしく見えるのだろうか。

 「本当にご苦労さまでした。こんな麦を見るのははじめてです。どうひけば、こんなに白くなるのですか」

 「4回ひいたんですよ」

 「え? 麦は2回もひけば食べられるではありませんか。本当に誠意のほどがわかります」

 「うちの村の女衆は、もともとねばり強いたちなんですよ」

 李炳Wは、今度も功を譲って村の女性たちに花を持たせた。――これをひくのに苦労したのは男たちではなく女衆だ。麦は手間をかけさえすればいくらでもひける。4回ではなく10回でもひける。革命軍のためなのだから、それしきのことはなんでもない。厄介なのは、密偵が村を見回り、穀物をひいているのはどの家で、なにをひいているのか、ひいた穀物はどこへ運ぶのかと監視していることだ。その監視の目を避けるために婦女会員たちがどんなに気をつかっているかわからない。彼女らは、恵山の市(いち)に行って革命軍に送る布地を買っては、腰に巻き付けたり、おむつのようにたたんで子どもの尻に当てたりする。市に行くときはわざわざ子どもをおぶっていく。わけを知らない年寄りたちは苦労を買ってしているようなものだと舌を打つが、女性たちはかまわず子どもをおぶっていく。そうしなければ布地の隠し場所がないからだ――

 李炳Wは男たちの苦労については一言も触れず、女性たちの苦労ばかり口にした。彼の話はわたしを感動させた。わたしは、背のうの中からひとつかみの麦粒をすくい出して匂いを嗅ぎ、回りの人たちに向かってこう言った。

 「日本の天皇は高くても根のない木であり、我々は目に見えなくても丈夫な根から生えた新芽だから、こんな上等の麦は天皇とて目にすることはできないでしょう」

 英化洞の人びとが展開した援軍運動について知ったのは、翌年、李乙雪を通じてである。彼はその年に革命軍に入隊した。彼も父親に似て自慢をしたがらないたちだった。とくに、自分の両親の苦労についてはほとんど口にしなかった。しかし、失言といおうか、一つだけこぼした話があった。それは、彼の母が背のうをつくる布地を買う金をつくるためにクマイチゴを摘んだ話である。英化洞には、食糧不足に悩む家が多かった。李乙雪の家も例外ではなかった。しかし、草がゆで食いつなぐ状態でありながらも、革命軍の支援ではひけをとろうとしなかった。それで、夏にはクマイチゴを、秋にはヤマブドウやサルナシの実を採って恵山の市で売った。母が山の実を採ってきて選り分けると、李乙雪の幼い弟たちは母を取り囲んで生唾を飲み込んだ。子どもたちの気持ちは痛いほどわかったが、母は一粒のクマイチゴも与えなかった。子どもたちに食べさせては、それだけ革命軍への心づくしが足りなくなると考えたのである。

 密営から帰った李炳Wは、子どもたちにわたしに会ったことを自慢した。それを聞いた李乙雪は、即座に遊撃隊を訪ねて将軍のもとで戦いたい、と言い出した。しかし、父親はそれを許さなかった。

 「将軍の配下にある兵隊は、みんなたくましく銃の扱いもうまいというのに、粗麻の半ズボンでホミ(草取り鎌)しか手にしたことのないおまえが、どうして革命軍になれるというのだ。もう少し修養を積んでからにしろ」

 李炳Wはこう言って息子の願いを拒み、祖国光復会の分会組織に加入させて鍛えた。翌年の夏に、彼は息子と甥を遊撃隊に送った。愛する息子たちを軍隊に送るのは援軍精神の最高の表現といえた。李炳Wは息子を入隊させたあとも、革命軍にたいする支援をつづけた。1937年の晩春、わたしは天上水で李炳Wと再会した。そのとき彼が持ってきた染料は、普天堡戦闘の勝利を祝う軍民交歓集会の場を装飾する花や旗の染色に使われた。

 長白の人びとが送ってくれた援護物資には、いずれも涙ぐましいまごころがこもっていた。当時、焼き畑農作をしていた家では、4人の人手で1年に20担〜30担(1担は20斗)のジャガイモを得るのがせいぜいだった。ところが、1斗の澱粉をとるには10斗余りのジャガイモが必要である。当時、ジャガイモの澱粉1斗の値は60銭内外であった。澱粉1斗を売っても、地下たび1足分の金にもならなかった。それで酒やあめをつくり、それを金に換えた。金があっても思うように品物を買えない時だったので、援護物資を一つひとつ準備するには、じつに大変な努力と知恵をしぼらなければならなかった。そういう悪条件のもとでも、長白県の人びとはいろいろな品物を準備して山に送ってくれた。長白県に住む朝鮮人で、援軍活動に参加しない人はほとんどいなかった。杖なしでは歩けない年寄りも、山に行ってシナノキの皮をはぎ、夜通し革命軍に送るはきものをつくった。女性たちは、手先たちの目をくらますために、寒い冬の夜にも火を焚かず、交替で見張りをしながら臼をひいた。

 援護物資の運搬は、村長が手配する場合が多かった。長白県の村長たちは、そのほとんどが祖国光復会の分会長か支会長だったので、彼らがそれを受け持てば、いろいろと有利だった。当時、革命軍の給養担当官は、故意に村長たちに物資の調達を要求する高圧的な公文を送ったものである。村長が革命軍への援護活動を手配しても、その責任を逃れる口実をつくらせるためであった。公文を受け取った村長は脅迫に屈したふりをして、秘密裏に援護活動を手配した。援護物資運搬隊が発つ日には、村人がわれ先に駆けつけ、荷物の運搬を買って出た。

 革命軍の隊員は、長白県の人家を自分の家のように出入りした。当時、我々がよく立ち寄って世話になった家の一つが、廉宝貝オモニの家であった。廉仁煥の話によると、徳水溝の開拓者は、姜鎮乾であるとのことだった。故郷で暮らせなくなった彼は、親族の何人かを連れて鴨緑江を渡り、十六道溝の谷あいに村をつくった。廉宝貝は、姜鎮乾の従弟の妻で、夫婦ともに姜鎮乾の影響を多分に受けて反日思想が強く、そのうえ根っからの正直者だとのことだった。そんな縁で、わたしは大徳水に行ったとき廉宝貝の家を訪ねた。いまでもわたしのまぶたには、ジャガイモまじりの麦飯を差し出しながら恐縮しきっていた廉宝貝オモニの姿がまざまざと浮かんでくる。彼女は、我々が夜半に立ち寄ってもすぐご飯が炊けるように、いつも大きなくり鉢にエンバクと麦をふやかしておいた。彼女が炊いてくれるそのご飯はやわらかく香ばしくて、とてもおいしかった。夜中に煙突から煙が立つと敵の手先たちがいぶかしがるので、夫の姜仁弘は煙突を低くし、麦わらの束をかぶせて煙を下に散らすようにした。この夫婦は、本当に心づかいがこまやかな人たちだった。

 徳水溝の人びとはいずれも極貧の生活をしていたが、革命軍の世話をすることに大きな喜びを感じていた。敵が一朝にして大徳水村を火の海に変えたのはゆえないことではなかった。それは、北間島の「血の海」を連想させる惨劇であった。焼け跡の灰を掃き出し、オンドル石の上に小屋を建てると、また敵が襲ってきては火を放った。

 廉宝貝オモニの一家は、仕方なく新昌洞の張磨子へ移り住んだ。それを聞いて彼女に会おうと張磨子へ行ってみると、そこでも水車の音が聞こえた。わたしには、その音が吉兆のように思えた。なぜなら、水車の音が聞こえる所には決まって闘争があり、援軍を最上の喜びとする人民があり、炎の中でも燃えつきず、嵐の中でも動じない朝鮮の魂があったからである。水車の音は、あたかも援軍によって日本帝国主義への抵抗をつづける人民の荘重な太鼓の音のように聞こえた。わたしが伝令兵を連れて真っ先に行ったのは水車小屋だったが、そこに廉宝貝オモニがいた。わたしを見るや、彼女はくずおれてむせび泣いた。大徳水を後にしてきた彼女の泣き声には、あまりにも大きな悲しみがこもっていた。

 「オモニ、気を静めてください。しかたがないではありませんか。がまんしなくては…」

 わたしは、やっとの思いでこう慰めた。この水車は、彼女の一家がここに移って来て新しくつくったものだということであった。水車小屋のそばにある小さな丸太小屋が彼女の家だった。その日、彼女は隣村へ行ってニワトリを手に入れ、肉汁をつくり、鶏肉を具にしたノンマ麺をつくってくれた。これほどもてなしながらも、こんなものしかないと恐縮するのであった。わたしは、長白県でよく食べたノンマ麺の味が忘れられず、いまでも貴賓を迎えての宴会のときには、凍りジャガイモかジャガイモの澱粉でつくった麺をスペシャル・メニューにしている。

 その日の夜、彼女は、水車の音がわたしの睡眠を妨げるのではないかとたいへん気をつかった。しかし、それは無用な心配だった。わたしはその音を聞くと、かえってよく眠れ、思索しても頭がさえてくるのだった。

 彼女の一家が張磨子に来て水車をつくったのは、自分たちの生活の便宜のためではなかった。それは援軍活動のためであった。しかし、この山奥の張磨子とて安心して暮らせる所ではなかった。敵はこの深い山中にも触手をのばした。二道崗の警官たちが突然襲ってきて水車をぶちこわし、村人たちを全員警察署に引き立てた。廉宝貝オモニの家族は3日間ひどい拷問を受けて瀕死の状態になり、牛ぞりに乗せられて帰ってきた。いちばんひどい目にあった姜老人は重態に陥った。それを聞いたわたしは、うっ血に特効がある熊の胆を送った。彼女の家族は、その熊の胆を使ってみな回復したという。いちばん傷がひどかった姜老人も床を払って再び援軍活動に乗り出した。大工の腕がある彼は、山からオノオレカンバを伐り出し、こわれた杵の長柄を修理した。子どもたちは、もう少し体がよくなってから仕事をするようにと引き止めたが、そんな言葉が老人の耳に入るはずはなかった。

 「たわけたことを言うな。80のじいさん、ばあさんも山で苦労している人たちを助けようと、わらじだ、ポソンだと身を粉にしているというのに、これくらい動ける体でいつまでも寝込んでいられるか」

 こうして、張磨子の水車は、再び援護米をひきはじめた。姜仁弘老のたっての頼みもあって、息子の姜宗根を革命軍に入隊させた。そして、彼をそばにおいて目にかけた。しかしその後、惜しくも戦死した。

 十七道溝の坪崗徳に住んでいた金世雲の一家も革命軍を誠心誠意援助したりっぱな家庭である。彼は2人の弟と4人の子ども、そして親戚までも革命闘争に参加させ、その活動を積極的に援助した誠実な革命家であった。馬国花の恋人金世玉は、彼の弟であり、抗日革命闘士の金益顕は末っ子である。長男も朝鮮人民革命軍に入隊してりっぱに戦った。彼は、入隊後間もなく間三峰戦闘に参加し、その後国内での政治工作中に逮捕された。彼は15年の刑を言い渡され、権永璧、李悌淳らとともに西大門刑務所で服役していたが、1945年の春に虐殺されたと聞いている。

 革命軍の密営からさほど遠くない山奥にあった金世雲の家には、遊撃隊の小部隊や政治工作員が足しげく出入りした。国内から密営を訪ねてくる革命家も、この家で一泊するのがつねだった。彼の家は、人民革命軍の隊員や政治工作員の無料宿泊所ともいえた。彼は中国人地主の土地で小作をしながらも、穀物をそっくりはたいて革命家の世話をした。権永璧も彼の家に居所を定め、長白県内の党活動を指導した。同志たちは、金世雲に「タスポ」というあだなをつけた。「タスポ」とは「大師傳(タスフ)」という中国語の転義語で炊事員という意味である。彼は、そのあだなにたがわず、多くの客を接待した。その家の釜は普通の釜の5倍もあった。その大釜でご飯を炊いては、大きなしゃくしですくって革命軍をもてなした。客が多い日は、金世雲も袖をまくり上げて台所に立ち、汗を流しながら女たちの手助けをした。彼は、ひどい凍傷のため、かかとがくずれ、満足に歩けない身障者であったが、1日に何回となく米俵を担いで水車小屋を行き来した。

 「かかとさえまともについていれば、少々老いぼれたとはいえ遊撃隊で給養担当官ぐらいはやれるんだがな…」

 彼は、客人たちによくこんな冗談を言った。小作農の身で毎日のように大きな釜いっぱいの飯を炊いて政治工作員の世話をしたのだから、家に穀物が残るはずはなかった。おそらく、金世雲自身は食事を抜いたことが一度や二度ではなかったであろう。

 革命を支援する長白の人びとの献身ぶりはたとえようもないものだった。彼らは、家産をはたいてまで革命軍を熱心に支援し、必要とあらば命まで投げ出した。1937年5月、二道崗に通ずる路上で乳飲み児とその母親とおぼしき死体が見つかり、人びとを驚かせたことがある。その女性は、自分の家に遊撃隊の負傷兵をかくまって治療していて逮捕された平凡な農村の女性であった。日本軍の憲兵が踏み込み、治療中の負傷兵と彼女を本部へ押送しようとした。ところが、彼女は並の人ではなかった。彼女は、家を出るときふところにしのばせてきた小刀で憲兵将校の顔をめった切りにし、将校の腰から拳銃を抜きとった。おかげで革命軍の隊員は助かった。負傷兵の姿が消え去るまでの半時間ほど、彼女は拳銃を構えて憲兵将校を監視した。しかし、失神状態から意識を取りもどした将校が彼女に飛びかかって拳銃を奪い返し、彼女とその子を軍刀で斬殺したのである。このことは、間もなく巷のうわさになった。そしてある日の夜、彼女の死体がいずこかへ消え去るという非常事態が起こった。憲兵隊は、すわ一大事とあわてふためいた。密偵が四六時中監視の目を光らせていたのに、いつの間にか死体が消えたのだから、奇々怪々といわざるをえなかった。機会をうかがっていた二道崗か、その付近の革命組織がすばやく遺体を奪い去ったに違いなかった。

 長白県に珠家洞という村があるが、そこには名だたる革命家が多かった。「小刀じいさん」というあだなの金竜錫も珠家洞で活動していた。彼も、いま述べた名も知れぬ女性と同様、小刀で捕繩を切り、自分を護送していた日本軍将校を刺したことがある。彼が遊撃隊に入隊して給養担当官を勤めていたときに、戦友たちは彼に「小刀じいさん」というあだなをつけた。それ以来、「小刀じいさん」は金竜錫の代名詞となった。解放後、彼が晩年を送っていた平壌のアパートの子どもたちも、彼を「小刀じいさん」と呼んだ。しかし、残念なことに「小刀おばさん」は、名前すらわからずじまいだった。彼女の助けで脱出した負傷兵も、隊伍には無事にもどることができなかったようである。

 いつかわたしは、珠家洞の地下組織のメンバーである池鳳八老の家に2名の隊員をあずけたことがある。胃腸病で苦しんでいた金竜淵と負傷した新入隊員であったが、名前は思い出せない。池鳳八老は、2か月もの間まごころをこめて彼らを治療したが、討伐にあって命を失った。敵が珠家洞に襲撃してきたとき、彼は革命軍の隊員たちを山に避難させ、ひとり家にとどまっていた。自分まで避難してしまえば、裏山を捜索するだろうと考えたからである。彼らは革命軍の居場所を教えろと威嚇したが、老人は知らぬと突っぱねた。彼らは革のベルトで老人の顔を容赦なく打ちすえた。その顔からは、見る間に鮮血がしたたり落ちた。しかし、つづけざまに鞭が振りおろされ罵倒が高まるほど、彼はかたくなに口を閉ざした。生き埋めにしてやるといって、老人を穴の中に立たせて銃口を胸につきつけた。そして、革命軍負傷兵の隠れ場所を教えろ、それだけ言えば賞金をやるが、言わなければ穴に埋めてウジの巣にしてやる、と脅した。それでも、老人は口を割らなかった。逆上した敵は彼を穴の中に立たせたまま銃殺した。老人は死の間際に、村人たちに素朴な願いを残した。

 「革命軍の面倒をよくみてくれ。それでこそ新しい世の中が早く来るのだ」

 池鳳八老の最期にかかわるこの事件は、その後「珠家洞事件」と呼ばれた。わたしは後日、金竜淵の報告を受けてそれを知った。生涯畑を耕し、素朴に生きてきた善良な農民が、どうして、自分が生き埋めにされる穴の中で死を前にしてかくも泰然とし、巨人のごとく毅然として最後の瞬間をりっぱに飾ることができたのだろうか。革命軍をよく援助してこそ新しい世の中が早く来るという池鳳八老の遺言は、人間にとって信念がいかに大切なものであり、信念をもった人間がいかに偉大な力を発揮するものかを、我々に切々と教えている。

 長白県の人びとは、危険を冒し、ひいては命までささげて革命軍を援助してくれたが、補償はなにも望まなかった。国が解放されてからも、自分はこういう経歴の持ち主だとひけらかす者は1人もいなかった。廉宝貝オモニは解放後、子どもたちを連れて恵山に渡ってきてそこに住み着いた。しかし、10余年が過ぎても、自分が恵山に住んでいることをわたしに知らせなかった。1958年に現地指導のため両江道へおもむいたとき、わたしは彼女が恵山に住んでいることをはじめて知った。駅頭で彼女に会ったのだが、髪は白くなっていた。

 「オモニ、宗根に死なれ、主人にも先立たれ… きょう、こうして頭に霜をいただいたオモニに会えて…」

 わたしは、喉がつまって言葉をつぐことができなかった。廉宝貝オモニの夫の姜仁弘は革命軍を助けたかどで警察署に引き立てられて殴打され、それがもとで血を吐き絶命した。わたしに取りすがった彼女の目からは涙がこぼれ落ちた。

 「オモニ、昔わたしはオモニの家を自分の家のように出入りしたというのに、これはあんまりではありませんか。国が解放されて10年以上たっているのに、どうして、わたしの所に来なかったんですか。せめて手紙でも寄こしてくれたらよかったのに…」

 彼女の荒れた手をなでながら、なかばとがめるように言った。

 「わたしも将軍を訪ねて平壌へ行きたい気持ちはやまやまでした。でも、将軍にお会いしたがっているのは、わたし一人ではないじゃありませんか。みながみな訪ねていったら、いつもお国の仕事でお忙しい将軍をわずらわせるではありませんか」

 昔は、わたしを見ると、靴が脱げるのもかまわず村のはずれまで駆けつけてきたあの情熱的な長白の人びとが、解放された祖国に帰ってからは、自分の存在を世に知らせず、ひっそりと暮らしていたのである。その後間もなく、わたしは彼女を平壌に呼び寄せ、眺めのよい大同江のほとりの家に住まわせた。抗日革命の日々に我々を命を賭して助けてくれた長白の人びとは、みなこのような人であった。

 前にも若干触れた金世雲も、1937年の秋からは国内に入り、雲興、普天、茂山、城津(金策市)など各地を転々として地下組織を結成し、援軍活動をつづけた。その後は図們に渡り、解放の日まで牛方を装って地下活動をつづけた。驚くべきことは、足の不自由な彼が五体壮健な人に劣らず、広い地域を縦横無尽に行き交って地下活動をしたということである。彼は、自分のしたことを誇らなかった。彼の国内活動にかんする資料は、ずっとのちになって日の目を見、歴史家の注目を引くようになった。このような人は、金世雲1人ではない。当時、西間島住民の多くが祖国光復会の会員であったが、当世風に言えば彼らはみな、隠れた英雄、隠れた功労者である。

 敵は、人民革命軍と人民の連係を断ち切るために集団部落をつくり、砲台や土城、鉄条網によって援軍活動の流れを食い止めようとしたが、白頭山へとそそがれる西間島住民の心まで閉じこめることはできなかった。集団部落内の自衛団長、村長、城の門番のほとんどが味方であったのだから、敵の集団部落騒ぎは笑い種といえる一つの茶番劇にすぎなかった。白頭山根拠地は、東満州根拠地に比べて、住民地区との距離がはるかに遠かった。しかし逆に、軍民のつながりはより緊密であったといえる。行き交う情ももっと厚かった。人民を信頼し、白頭山を朝鮮革命の新たな策源地として設定したときの人民への我々の期待は無駄ではなかった。清らかな愛国衷情と革命軍への赤誠をいだく白頭山根拠地の人民は、期待と想像を絶する援軍運動によって敵を唖然とさせた。

 長白県の人びとは、革命的援軍伝統の模範をつくりだし輝かした英雄的な人民である。援軍活動は、各階層、各村各戸、老若男女を包括する汎国民的な運動に発展した。その援軍に支えられて我々は、敵との困難な対決で百戦百勝することができたのである。広大な西間島の地をぬって流れる援軍の大河を見ながら、組織化された人民がいかに偉大な力を生むものであるかを、わたしはいまさらのように痛感した。農家が3戸しかない台地や谷あいにも組織は根をおろしていた。そんな所でも、連絡員に簡単な書き付けを持たせれば、熟睡していた人が飛び起き、革命軍が4キロほどの所に来ていて村で食事をしたいといっている、早く支度をして温かいご飯をもてなそう、と食事の支度を急ぐのであった。簡単な書き付け一つで組織を動かし、西間島の住民をいっぺんに白頭山に呼び集めることもできれば、白頭山の頂上に登って「朝鮮独立万歳!」を叫ばせることもできた。西間島の住民は1936年の秋以来、我々の指示によって動く組織化された人民になっていたからである。

 朝鮮のことわざに「珠(たま)は3斗でも、すげねば宝とならず」というのがある。西間島の住民の一人ひとりは、すべて珠にたとえられる貴重な存在であった。その珠を宝に変えたのが、まさに西間島を我々の天下に変えた祖国光復会組織であった。我々が西間島の住民を組織的に結集していなかったら、どうなったであろうか。その個々の珠は、敵に各個撃破されるか、塵土に埋もれて光を失っていたはずである。いかに愛国愛族に燃える人であっても、一人ではなにもできない。それで、わたしはつねに、革命家にとって最大の財産は組織だと言っている。自主化を志向する各国の革命家と人民にとって、組織のもつ意義は永久不変だといえる。時代が変わったからと組織の役割が薄れるものではなく、革命が生々発展するからと人民大衆の組織化を弱めてもかまわないというものではない。大衆の組織化は権力をかちとる闘争のためにも必要だが、権力をかちとったあとの国家建設のためにも必要であり、共産主義社会を建設したあと、その成果をふまえて革命をつづけるためにも必要なのである。革命に限りがないように、大衆を組織化する活動にも終点というものはありえない。まさにこれが、社会発展の原理であり、発達した社会の建設をめざしてたたかうすべての人が重視しなければならない法則なのである。

 我々はいまも人民大衆を組織化しているが、共産主義社会を建設してからもたえず組織化するであろう。そして、組織化された人民大衆の力によって、この地に末永く繁栄する自主的な社会を建設し、わが祖国と制度を鉄壁のごとく守りぬくであろう。

 1940年代の初めに日本帝国主義が「日ソ善隣政策」によって世人をあざむき、朝鮮共産主義者の「孤軍独戦」を喧伝して、我々の闘争に水を差したときも、ヒトラー・ドイツがモスクワをめざして破竹の勢いで進攻し、共産主義者の「悲惨な終末」について云々していたときも、わたしは汪清と長白の水車を思い浮かべて、力を得、信念をかたくした。世界「最強」を誇るアメリカ帝国主義とその追随国の軍隊を相手にした試練にみちた戦火の日々にも、わたしは長白の水車を思い出して明日の勝利を確信した。水車の音を思い起こして勝利を確信したといえば、いぶかしがる人もいるだろうが、これは事実である。わたしは確かに、長白の村々のあの水車に、我々にたいする人民の絶大な愛情と確固不動の支持声援の意志、死を前にしても変わることのない志操を見たのである。

 朝鮮戦争の一時的後退の時期に、わたしは李克魯先生と禿魯江(将子江)のほとりを散策しながら、長白の水車の話をしたことがある。白頭山にいたころ、長白の人びとが水車でひいた援護米を送ってくれたので、我々は飢えずに戦うことができた、敵が村を焼き払い水車をこわしても水車の音は絶えることがなかった、人民に依拠し人民の力を引き出すならば、いかなる強敵をも撃破することができる、ということを何回となく強調した。そして、あの当時、長白にいた朝鮮人は小さな谷川にも水車をつくって効果的に利用したのに、この広大な禿魯江の水をみすみす流してしまうのはあまりにも惜しい、戦争が終わったらこの川をせき止めて大きな水力発電所を建設しよう、と話したものである。

 抗日武装闘争の時期に築かれた援軍伝統、軍民一致の伝統は、偉大な祖国解放戦争の日々をへていっそう不抜のものに拡大強化された。創建されて間もないわが共和国が地球上の「最強国」を相手にして戦い、打ち負かすことができたのは、敵側がほとんど軍事力のみを動員したのに反し、わが方は全人民が立ち上がり、軍民が団結して戦ったからである。

 我々の有力な援軍伝統、軍民一致の伝統は、今日わが党の指導のもとにいっそうりっぱに継承され発展している。いま全国いたる所で、人民が軍隊を助け、軍隊が人民を助ける「われらの村――われらの哨所」「われらの哨所――われらの村」運動が活発に展開されている。とくに、金正日同志が朝鮮人民軍最高司令官に推戴されて以来、この運動は全国の工場、企業所、農場、居住、学校などで急速に一般化されている。こうした軍民関係は、世界のどの国の建軍の歴史にも見られない朝鮮の大きな誇りである。軍隊と人民が一つに団結したこの偉大な力があるがゆえに、我々はいかなる敵の威嚇や脅迫にも動じないのである。わたしは、一心団結、軍民一致を朝鮮革命におけるもっともりっぱな成果の一つと考えている。

 抗日大戦の日々に聞いた水車の音は、いまもなお、わたしの耳に残っている。その音とともに、長白の無数の人びとの顔がまざまざとまぶたに浮かんでくる。そのなかで絞首台の露と消えた人、監房で絶命した人はいかばかりだったろうか。援軍の途上、白頭の雪嶺で凍え死んだ人は、またいかばかりだったろうか。彼らの厚恩を思うと頭がさがり、感謝の念が胸にあふれてくる。



 


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