金日成主席『回顧録 世紀とともに』

1 西 間 島


 白頭山の東部に位置する豆満江北方の各県は、以前から間島または北間島と呼ばれてきた。白頭山西部の鴨緑江以北の地域は、俗に西間島と言われていた。西間島は、1930年代の後半期における朝鮮人民革命軍の活動と直結している由緒深い地域である。ここでいう白頭山根拠地とは、ほかならぬ白頭山を中心とする西間島と国内の広大な地域を意味する。西間島の広大な地域は、朝鮮人民革命軍が国内に設置した白頭密営とともに、白頭山根拠地のなかで重要な位置を占めている。したがって、中国側だけを念頭におくなら、白頭山根拠地を西間島根拠地と呼んでもさしつかえないであろう。

 以前、白頭山根拠地を指して長白根拠地という人もあったが、それは適切な呼称とは言えない。ともすれば、白頭山根拠地の地域的な概念を、長白地方をはじめ、西間島一帯に局限して理解するという誤解が生じうるからである。白頭山根拠地は、長白地方に局限される根拠地なのではなく、白頭山一帯を中心とし、松花江上流と鴨緑江北部沿岸にまたがる西間島の各県と国内の広大な地域を包括する大根拠地なのである。

 1930年代の後半期は、朝鮮人民革命軍の軍事・政治活動史において特筆すべき高揚期である。我々は、白頭山地区に数十の密営を設置したあと西間島を活動舞台にして、南湖頭会議が示した新たな戦略的課題の実行にとりかかった。それ以来、西間島は、交戦回数がもっとも多く、銃声がもっともはげしい戦場となった。

 わたしはこれまで、西間島の土地のよさについて一再ならず述べてきた。土地がよいというのは景観がすぐれているという意味もあるだろうが、基本は住民がよいということだろう。景観はいくらすばらしくても、人情が薄ければよい土地とはいえない。逆に、草木の育たない不毛の地でも、そこに住む人びとの心が美しければよい土地といえる。当時、西間島には、朝鮮人が多く住んでいた。移住民である朝鮮同胞は、焼き畑農耕によって得たジャガイモでなんとか食いつないでいる有様だった。彼らは、西間島のやせた台地や渓谷に村をつくり、故郷の名をとって、豊山台地、甲山台地、吉州台地、明川台地などと名付けた。そして、灯火の下で檀君始祖や『温達伝』の話をしながら、人生の坂道をあえぎあえぎ登っていた。地主の大部分は、中国人であった。まれには、朝鮮人地主もいたが、それはわずかなもので、土地の所有度からすれば富農と変わらぬ小地主であった。

 西間島に住む朝鮮人は、そのほとんどが生計の道を断たれて祖国を後にした流浪の民か、もしくは、日本帝国主義の朝鮮併呑後、亡国の恥をそそごうと反日独立運動に身を投じた愛国の志士であった。西間島の火田民村へ行きさえすれば、かつて、独立軍運動に献身した人たちや彼らの世話をしていた人たちに会うことができた。前にも述べたが、独立軍の老将である姜鎮乾も長白県に住んでいたし、洪範図、呉東振、李克魯たちも、寛旬、撫松、安図地方をへて、ここによく足を運んだものである。わたしの外伯父康晋錫も、臨江で白山武士団を組織して活動した。

 西間島には、国内の各地で農組運動に参加し、それが失敗して家族ぐるみで移住してきた人も少なくなかった。彼らは、長白のほとんどの村に夜学を設けて民衆啓蒙活動をおこなった。李悌淳、崔景和、鄭東哲、姜燉、金世玉など長白地方の名だたる革命家は、その多くが夜学で教鞭をとっていた人たちである。長白地方には、国内からの亡命者や愛国的な有志が設立した朝鮮人私立学校も多かった。それらの私立学校では、愛国主義教育が盛んにおこなわれた。夜学での大衆啓蒙と学校での青少年教育は、西間島の朝鮮人のなかから愛国者を輩出させた。西間島住民の民族性と反日感情が強かったのは、彼らの不幸な境遇がもたらした当然の帰結ではあるが、愛国的な思想家や先覚者による地道な啓蒙活動の結果でもあった。西間島に居住する朝鮮人はとりわけ民族性と反日精神が強かったので、この一帯では、工作員を一人派遣するだけでも簡単に中核を掌握し彼らを通して多くの人を組織に結集することができた。

 我々は、すでに1930年代の初めに朝鮮革命軍出身の工作員を西間島一帯に派遣して「吉林の風」を吹き込んだ。彼らによって、この一帯には我々の組織がたくさんつくられた。南湖頭と東崗で新しい形態の根拠地創設の問題が論議されたあと、わたしは金周賢を責任者とする小部隊を西間島一帯に派遣した。彼らは、長白県を中心とする白頭山周辺の多くの村を巡り歩いて、この地域の革命運動の実態を調べ、中核を掌握し、大衆教育もおこないながら、以後の主力部隊の政治・軍事活動のための地ならしをしておいた。彼らの努力により西間島一帯には、朝鮮人民革命軍主力部隊の活動を支援し、反日民族統一戦線運動を広く展開できる強固な土台が築かれた。これは、我々が西間島一帯を急速かつ容易に革命化できる主な要因となった。大衆的基盤の強固な土地で有能な工作員が意識化活動を展開すれば、大衆の組織化、革命化過程が急速に進むということは、我々が西間島地域を拠点にして活動したときに得たいま一つの貴重な経験である。

 西間島を調べる過程でわかったこの地方の一つの特徴は、満州国の支配が強く及んでいないということだった。西間島一帯では主にジャガイモを栽培していたので、税を取り立てるほどの対象もほとんどいなかった。長白県などの場合は、県長のほかに住民を治める官吏が若干名いるだけだった。撫松に数か月滞在してみると、この土地の統治当局には土地の調査や登録などがきちんとできそうな人物もほとんどいなかった。そのため、所有者のいない土地を許可なしに耕作する者が多いと、官吏たちが嘆く有様であった。撫松地方の警察業務の特色は、血縁や地縁関係によってかろうじて維持されていることだった。そのうえ、警官のなかには猟師出身が多かった。射撃の腕前だけを見て採用したので、警官たちはそろいもそろって無知であり、住民を満足に取り締まることもできなかった。したがって、統治行政はおのずと無力なものにならざるをえなかった。

 長白に来てみると、この土地の実態も撫松と大同小異だった。このような特性は、この一帯の大衆を比較的容易に意識化し組織化できる有利な条件となった。西間島には朝鮮の共産主義者を民生団に仕立てあげて迫害する者もいなければ、朝鮮人が朝鮮革命の旗をかかげて祖国の解放のために戦うのを非難したり、それにブレーキをかける者もほとんどいなかった。いわば、我々が他国の地で間借り暮らしをしていると見くだしたり差別したりする者はいなかったのである。これは、我々が白頭山を中心に鴨緑江沿岸と国内の深部で、いかなる束縛や制約も受けることなく、自分の信念と決心に従って抗日革命を発展させる政治・軍事活動を自由自在に展開できるいま一つの有利な条件となった。我々は、自己の党組織をつくるうえでも制約を受けることがなく、西間島側でも朝鮮側でも独自の党組織の建設を我々の構想どおり大胆に展開することができた。一言でいって、西間島一帯には我々の足を引っ張る者がほとんどいなかった。城市を攻撃したければ城市を攻撃し、党組織をつくりたければ党組織をつくり、大部隊を率いて国内に進出したければ国内に進出することができた。

 しかし、北間島の遊撃根拠地で戦っているときは事情が異なっていた。あのころは、豆満江を渡って国内の人民にちょっと会ってくるだけでも、民族主義だと非難された。我々が人民革命政府の樹立を主張したとき、東満特委と県党指導部の面々は、それを無視し、中央の路線だとしてソビエト政府の樹立を強要した。

 西間島一帯の住民の革命化を促し、また、彼らが我々の自主的な闘争路線を積極的に支持するようになったいま一つの有利な条件は、この地方の人びとにロシアにたいする事大主義がなかったことである。彼らは社会主義を憧憬してはいたが、ロシアかぶれにはなっていなかった。しかし、国境を挟んで極東地方と地続きの北間島地方には、ロシアの影響が少なからず及んでいた。この地方の住民の日常用語には、ロシア風のものが多かった。咸鏡北道地方の老人はいまでもマッチを「ピジケ」と言っているが、北間島の人びとも当時はロシア風に、やはり「ピジケ」と言っていた。汪清、琿春、延吉、和竜一帯の人びとは、「少年団」「集団農場」「細胞」といった言葉よりも、「ピオネール」「コルホーズ」「ヤチェイカ」といったロシア語のほうが口なれた言葉になっていた。有識ぶってロシア語を乱用する人もいたが、大多数の人はロシア語を使うことによって、社会主義への憧憬と、世界ではじめて社会主義革命を成功させたソ連人民にたいする親近感を示そうとしたのである。ある意味では、ロシア語を使うことは、共産主義理念にたいする素朴な共鳴の表現ともいえた。

 北間島の人びとは、老若男女を問わず、誰でもロシアの歌を1、2曲は口ずさむことができた。彼らは、ロシアの踊りもうまかった。遊撃区の公演舞台では、両手でふくらはぎを交互に叩きながら膝を曲げたり伸ばしたりする踊りをはじめ、今日の4月の春親善芸術祭の舞台で見られるようなロシアの踊りがよく披露されたものである。琿春や汪清などに行くと、ロシアの衣服であるルバシカを着用し、世界革命の勝利やプロレタリア独裁万歳を叫ぶえせ共産主義者もよく目にすることができた。ロシア語を使い、ロシアの歌をうたい、ロシアの踊りをおどり、ロシアの衣服を着て生活し、世界で初の社会主義国であるロシアを憧憬する過程で、いつしか北間島の人びとのあいだには、世界でロシアが一番でロシア人が一番だというロシアにたいする事大主義が生まれるようになった。

 北間島の人びとには、中国にたいする事大主義もいくぶんあった。中国革命が勝利してこそ朝鮮革命も勝利し、中国人の援助があってこそ朝鮮革命が成功すると考える人が少なくなかった。彼らは、ロシア語だけでなく中国風の言葉も多く使った。そこでは、シャベルのことを「カンチャイ」と言っていた。

 これとは対照的に、西間島の人びとは中国語やロシア語を使わなかった。彼らは故国にいたときと同じように、純粋の咸鏡道弁や平安道弁を使った。生活風習や礼儀作法、食生活、言葉づかいなど、すべての面でこの土地に住んでいる朝鮮人は固有の民族性を保っていた。

 我々は白頭山に進出したのち、西間島を一回りして地理や住民の動向を調べているうちに、この一帯にはいろいろな面で遊撃活動に有利な条件がそろっていることがわかった。白頭山地区に革命の本拠地を設けて武装闘争を本格的に展開しようという我々の決心は、西間島の人びとに接し、西間島の風土になじむうちに、いっそううちかためられた。

 朝鮮人民革命軍主力部隊の西間島進出は、わが国の歴史家と人民が抗日革命の全盛期と称する偉大な時代を開いた壮挙であった。それは、暗夜のごとき民族の受難史に光芒を投げかけた歴史的な出来事であった。愛国愛族の理念に忠実な朝鮮の息子、娘たちは、滅亡に瀕した民族の運命を前にしていつまでも悲嘆にくれてはいなかった。彼らは、危地に陥った同胞を救うために、足音も高く白頭山に進出した。時が到来したのだから、生死をかけて決着をつけようという腹づもりであった。

 思うに、我々は「トゥ・ドゥ」を結成して以来、営々として10年もの間、白頭山への進出を準備してきたわけである。時が来れば白頭山で軍を起こして独立聖戦を展開せんとした樺甸時代の決意、その決意を実践に移すまでにはじつに多くの紆余曲折をへなければならなかった。我々が歩んできた数千数万里の道程には、直線コースは一つもなかった。その道はすべて勾配が強く険しいものであった。「トウ・ドウ」の結成後、直ちに樺甸から西間島に直行していたなら、遅くとも5、6日のうちには白頭山に到着していたはずである。しかし、我々は白頭山へ直行する道を選ばず、吉林とその周辺地域で革命勢力を扶植する基礎作業にとりかかったのである。その作業は、活動舞台を東満州に移してからもつづけられた。なんのためだったのか。白頭山へ率いていく軍隊を育成するためであり、その軍隊を物心両面から支持声援してくれる人民の海をつくるためであった。

 安図で遊撃隊を組織した当初も、わたしは部隊を率いて白頭山へ行きたい衝動を抑えることができなかった。安図から白頭山は指呼の間であった。しかし、登りたくても意のままに登れないのが白頭山であった。白頭の荘厳無比の偉容にひきかえ、我々の隊伍はあまりにも軟弱かつ無勢であった。我々は、まだ生まれたばかりのトビにすぎなかった。頭上には蒼々とした大空が広がっているが、その大空へ飛び立つ強い翼がなかった。白頭山に陣取るには、隊伍を拡大し、力を蓄えなければならなかった。白頭山は決して、その気になりさえすればいつでも行けるような所ではなかった。行きたくても意のままに行けないところに白頭山の真の意味があり、行けないがゆえにいっそう行きたくなるところに白頭山の真の魅力があった。白頭山は、日本の精鋭師団や軍団を撃破できる革命軍の鉄の部隊と鉄の戦士を待っていた。遊撃区を建設し死守する過程で一当百の鉄の部隊が生まれ、数十数百回の交戦を通して不死鳥のごとき鉄の戦士が育った。卡倫、明月溝、大荒崴、腰営口、南湖頭、東崗などで示された進路にそってまっしぐらに突進してくる路程で、朝鮮革命は白頭山に進出できる力を十分に蓄えた。我々は、この力をもって西間島に来たのである。

 振り返れば、抗日革命の歴史は、亡国の恥辱を胸に砂粒のように散らばった同胞と兄弟姉妹に旗幟と武器を与えて白頭山に導いた過程であり、白頭山で日本帝国主義を撃破した過程でもあった。その決定的な契機となったのは、南湖頭と東崗の森の中で開かれた会議であった。この2つの会議のあと、我々の話題は白頭山に集中した。

 ――祖国が我々を呼んでいる。白頭山が我々を待っている。早く白頭山に陣取って党建設の準備を強くおし進め、祖国光復会の組織網も大がかりに拡大し、決死の全人民抗戦によって日本帝国主義侵略者を打倒しよう! 祖宗の山、白頭山で民族再生の鐘を打ち鳴らし、すべての朝鮮人を愛国に目覚めさせ、救国に奮起させよう。信念を失って挫折した人民に勇気を与えて立ち上がらせよう! 民族離散の流れを食い止め、団結して祖国に凱旋する歴史を我々が先頭に立って創造しよう!――

 これが、白頭山に進出するときの我々の意志であり信念であった。我々は先祖たちのように、白頭山の頂を天に通じる道とはみなさなかった。それを祖国の大門とみなし、祖国の人民のなかに入る橋頭堡とみたのである。白頭山は、西間島と国内と北間島を結ぶ三角地点に位置する重要な戦略的拠点であった。白頭山に陣取ることは、とりもなおさず国内の人民と西間島の愛国志士、北間島の共産主義者を一つのきずなで結ぶことを意味し、国内の革命運動と西間島の独立運動、北間島の共産主義運動にたいする我々の指導を一元化できることを意味した。白頭山を占めれば、祖国の地を足場にして日本との連係をはかり、山海関の向こうの中国本土の抗日運動とも連帯し、北間島をへて北部満州とソ連沿海州地方の共産主義者や反日独立運動家との合作を実現することもできた。

 我々は東満州で遊撃区を建設し死守したときの教訓を十分に生かして、西間島を北間島でのような完全遊撃区にせず、半遊撃区にした。前にも述べたように、半遊撃区とは昼間は敵の天下であるが、夜は我々の天下になる地域を意味する。西間島一帯の十家長、区長、面長などのポストは、ほとんどが我々の味方で占められていた。彼らは、昼間は日本の軍警や満州国の官憲の使い走りをするかのように見せかけ、夜になると会議や夜学を開き、革命軍に送る給養物資や援護米を準備するなどして忙しく立ち回った。李悌淳、李柱翼、李勲、崔秉洛、鄭東哲、李用述、廉仁煥らは半遊撃区の実相を体現していた代表的な人物だといえる。

 かつて、東満党組織の指導者たちは、解放地区形態の遊撃区だけをつくり、外部の人びとを白眼視した。はては、敵地内の住民を「白色大衆」だとして敵視し、中間地帯の住民は「二面派大衆」だとして敬遠した。大衆を「赤」と「白」に分けたのは大きな失策であった。この措置は、かえって遊撃区にたいする敵の封鎖を容易ならしめ、結果的には革命勢力をいっそうかたく結集する統一戦線の実現を妨げた。

 こうした骨身にしみる体験をふまえて、我々は西間島全域を半遊撃区にし、「赤」「白」の区別をつけずにこの一帯の大衆をすべて味方にしたのである。集団部落の警備を受け持っている自衛団員のなかにも味方は多かった。いつだったか、食糧工作のために八道江という集団部落へ出かけたことがある。八道江の自衛団には、我々が派遣した工作員がいた。彼の連絡を受けた小部隊は、革命歌をうたい、威嚇射撃をしながら村を襲撃した。しかし、自衛団の武装は解除せずに、工作員があらかじめ準備しておいた食糧だけを持ち帰った。遊撃隊が撤収したあと、工作員は日本の警察へ駆け込み、遊撃隊が村を襲撃して食糧を奪っていった、しかし、砲台だけは占領できなかった、砲台のおかげで命拾いをした、と彼らをまるめこんだ。このように、西間島の人びとは遊撃隊員には心を許しても、日本の軍警や満州国の官憲には心を許さなかったので、我々は万事を思いどおりにうまく運ぶことができた。

 西間島は、我々が白頭山地区に進出して以来、大部隊旋回作戦に移行するまでの3、4年間、朝鮮人民革命軍によって主動的に開拓され掌握された主な活動舞台であった、苦難の行軍以後、我々の主な活動舞台は再び東満州に移された。小爾巴嶺会議以後、我々は白頭山根拠地とともにソ連領内にいま一つの根拠地を設け、祖国解放の大事変を迎える準備を進めたのである。

 総括的にみれば、抗日革命時期の朝鮮人民革命軍の活動の中心地は、最初は北間島であり、つぎは西間島、最後は豆満江沿岸の張鼓峰一帯であった。これらの地帯は、抗日革命の勝利を保障した重要な活動拠点であった。

 東満州地区で活動していた時期にも体験したことではあるが、西間島に来てからも、敵の攻勢が強まり悪辣になるほど、多くの点で半遊撃区形態がきわめて有利であることを改めて痛感させられた。西間島を半遊撃区にし、そこを我々の天下に変えたことは、白頭山地区進出後の各面における成果の秘訣であり、勝利の要因であった。

 我々は西間島を半遊撃区に変えたあと、軍事活動を活発に展開した。20名前後の少人数を単位とする武装部隊が西間島一帯を縦横無尽に駆けめぐり、連日敵を痛撃した。また、国内にも多くの小部隊を送り込んだ。我々が大部隊で活動せず、小規模の武装部隊に分散して活動した理由の一つは、ジャガイモやエンバクなどで、その日その日をやっと食いつないでいる人民に負担をかけないためである。500〜600名以上の大部隊の場合は言うに及ばず、200名程度の単位で活動しても食糧が問題になった。

 敵は1938年ごろまでに、東満州と南満州で集団部落の建設を完了した。集団部落化が完了して以来、革命軍の食糧調達は、ますますむずかしくなった。食糧を得るためには大きな戦闘をしなければならないが、それは結局、同志たちの血を食糧にかえるのも同然だった。それで、小部隊の活動を活発に展開して食糧問題を解決することにした。多少飢えるようなことがあっても、同志の血を流させてはならないとわたしは考えた。

 抗日武装闘争の直接の影響のもとに、西間島一帯では、人民の反日闘争精神が高まり、革命的進出が強まった。西間島に来て老人たちと語り合ってみると、長白の人たちは、すでに1932、3年ごろから、我々のうわさをよく耳にしていたとのことである。1936年の初めに李悌淳と李柱翼は、アヘン密輸業者を装って西間島に来た遊撃隊の政治工作員である権永璧、金正弼らに会い、朝鮮人民革命軍の活動情報を入手した。そのとき彼らは、遊撃隊の再編成が進められているという話を聞き、朝鮮人民革命軍の主力部隊が長白地方に進出する可能性があるという暗示も受けたという。そのニュースは、またたく間に長白県の各地に広まり、国内の甲山工作委員会のメンバーの耳にも入った。天上水で十家長を勤めていた李用述は、すでに1932年ごろから同僚たちに我々の宣伝をしたという。いま金日成将軍は北間島で遊撃闘争を展開しているが、いつかは部隊を率いて白頭山に進出し、朝鮮を独立させるだろうから、初志を曲げずに反日愛国活動をつづけるように、と呼びかけた。

 朝鮮人民革命軍の活動ニュースに鼓舞された長白地方の青年たちは、早くから遊撃隊への入隊企図を行動に移した。大徳水村で青年運動にたずさわっていた姜現aは、友人に「ぼくは金将軍が来るのをこれ以上待ちきれない。直接訪ねていって入隊するつもりだから、ぼくが発ったあとは家の面倒を見てもらいたい」と頼み、撫松方面に来て入隊した。我々が長白に来てからというものは、西間島全体が参軍熱に浮かされた。遊撃隊に会いさえすれば、多くの青年が司令部を訪ねてきて入隊を申し込んだ。我々はそのうちから一部だけを受け入れ、大部分は保留にした。地下活動を強化するためには、多くの青年を敵地に残さざるをえなかったのである。だが、集団部落が生まれてからは、入隊志願者はすべて受け入れた。青年たちが土城の中に閉じ込められていたままではなにもできず、強制労働に駆り出されるのが関の山だったからである。

 我々が長白に進出し、大徳水で最初の銃声をとどろかせて以来、西間島住民の反日気勢は天をも衝かんばかりであった。大徳水と小徳水で日本軍が大敗を喫するのを目撃した十六道溝の老人たちは、昔から人民を苦しめた者で滅亡をまぬがれたためしはなく、日本人だからとて無事であろうはずはない、と喜びを隠さなかった。青年たちは青年たちで、ああ、朝鮮は永久に滅びたのだと思っていたのに、そうではなかったんだ、血がわいてくるぞ、と歓声をあげた。

 西間島一帯での朝鮮人民革命軍の武装活動が活発になると、鴨緑江両岸の人民は、我々にまつわる多くの伝説をつくりだした。天道教を信奉する一部の老人は、人民革命軍の威力を宣伝しようと、金日成隊長が、縮地の術を使い、東に西に変幻自在にあらわれては日本軍をこらしめていると話した。また、ある警官が駐在所で電話をかけている最中に遊撃隊があらわれて、一発撃つと耳が落ち、そいつが逃げ出そうとしたとき、もう一発撃つと足がちぎれてしまった、とまことしやかな話までつくりだした。西間島の人びとがつくりだした話は、鴨緑江を越えて国内にも広く伝わった。長白の方から鴨緑江のほとりに出て「昨夜、革命軍が半截溝を襲撃したぞ!」と叫ぶと、対岸の三水の住民にその声が届いた。

 我々は、西間島で活動していたときにも人民から多くの援助を受けた。西間島の人びとが人民革命軍の援護にどれほど熱意を示したかは、現在わが党の文書庫に保管されている多くの回想資料が十分に物語っている。西間島の人びとは、革命軍の援護に誠意をつくした。彼らは、革命軍を助けることを良心の表徴とみなしていたのである。革命軍に背を向け、私利私欲や安楽のみを追求するのは、心が汚れている証拠とされた。

 我々が西間島に進出したのち、日本帝国主義者は、革命軍と人民の連係を断ち、革命軍への人民の支援を阻もうとやっきになった。彼らは、朝鮮人同士が会って親しみの握手を交わしても、共産主義に染まったといって目を光らせた。西間島では、村民が隣村へ行ってこようとしても、村長の承認を得なければならなかった。さじは家族の分しか持てないようになっていた。一つでも余分があると革命軍を助けることになるといって調査してまわり、余分のさじはすべて取り上げた。敵はまた、革命軍の首を取ってくれば50円の賞金を与え、生け捕りにした場合はそれ以上の賞金を与えるという布告文を張り出した。わたしにそれよりも多額の賞金がかけられていたことは、多くの資料によって広く知られている。ひところは、人民を駆り出して山中に帰順を扇動するビラをまかせたり、毒入りの塩を「援軍物資」として遊撃隊に届けさせるようなことまでした。

 これはすべて、遊撃隊と人民の血縁的なつながりを断ち切ろうとする術策であった。しかし、西間島の住民はそれにだまされなかった。敵があがけばあがくほど、人民革命軍との連係を強め、集団的な援軍運動をいっそう活発に展開した。敵が遊撃隊の活動を阻むため村ごとに夜警隊を組織すると、夜警隊員たちは巡察するふりをして、集団部落に潜んでいる地下工作員や人民革命軍の活動を助けて見張りの役まで引き受けた。敵は、少しでも革命軍を援助する動きが見える村は容赦なく焼き払い、それに関与した者は老幼を問わず皆殺しにした。地陽溪や大徳水、新昌洞もそんな目にあって焼き払われた。大徳水村のある教員は、遊撃隊に万年筆を送ったことが「罪」になり銃殺された。しかし、西間島の住民は、血を流しながらも屈することなく、こぞって援軍運動に立ち上がった。

 敵は、朝鮮人民革命軍の軍事的攻勢に毎回打撃を受けながらも、人民の前では日本軍が常勝しているかのように虚勢を張っていた。小徳水で敵と交戦したとき、人民は革命軍が敗れたものと思い込んでいた。戦闘のあと、敵が勝者であるかのようにラッパを吹き鳴らしながら威を張ったからである。しかし、戦場に残された数十の日本軍の死体を見ては、それが思い違いであったことがわかった。敵はその死体を運びながらも、共産軍の死体だとうそぶいた。

 我々が十二道溝の敵を討って撤収したのち、十二道溝とその周辺では遊撃隊のうわさが広まった。あわてた敵は、いましがた革命軍が突入して撤収した北門の入口に日本軍将校の首をさらし、共産軍の頭目を成敗したと宣伝した。のちに北門に駆けつけたその将校の妻が、竿につりさげられた首を見て「ああ、あんたがこんなことになるとは」と慟哭したので、猿芝居であることがばれてしまった。こうした悲喜劇は、たびたび演ぜられた。これと似た芝居は、撫松や臨江でもあった。いつだったか、靖安軍の連中は上司の日本人から賞金をせしめようと、撫松と臨江の市街地に正体不明の人間の首と「金日成」という文字入りのモーゼル拳銃をかかげ、人民革命軍を掃滅したというデマをまきちらした。しかし、臨江と撫松の小学校時代のわたしの同窓生と知人が現場で確かめ、靖安軍の宣伝がデマであることを暴露したので、その茶番劇も幕となった。それはかえって、人民革命軍が健在であり、その司令官も無事で、抗争をつづけているという印象を強めただけであった。

 敵はいかなる手段や方法を用いても、西間島住民の反日感情を抑え、人民革命軍にたいする憧憬と援軍精神を圧殺することができなかった。援軍活動は消滅したのでなく、弾圧が強まるほどますます盛んになった。

 西間島住民の援軍運動にかんしてはのちに述べるので、ここではいくつかの断片的な資料と人物だけを紹介しておくことにする。我々が西間島の村々を通過するときには、村人たちは黒いジャガイモあめを隊員のポケットに入れてくれたものである。集団部落がつくられてからも、西間島の人びとは遊撃隊を積極的に援助した。日本帝国主義者が人民をすべて集団部落に押し込み、畑の面積と収量を計算して食糧統制を強めたが、彼らは巧みな方法で我々を支援した。ジャガイモを収穫するときは葉茎を取り払うだけで、ジャガイモは掘り出さなかった。遊撃隊に掘っていかせるためである。トウモロコシは、林の中につくっておいた簡易倉庫に皮ごと入れておき、遊撃隊に連絡して持っていかせた。トウモロコシは、皮ごと保管しておけば腐らないものである。彼らは大豆も取り入れないで、革命軍に知らせて持っていかせた。それである年は、冬中ずっと打ち豆をつくって食べたものである。畑の穀物を取り入れず遊撃隊に持っていかせる食糧支援の方法は西間島ではじめられた。

 咸鏡南道の警察部長が恵山で語った有名な話はこうである。――今回この一帯を視察したところ、西間島が問題だ。第1に、西間島の住民は明らかにすべて遊撃隊と内通している。西間島で活動した遊撃隊の数は少なくとも数万名になるというのに、遊撃隊に与えた米は3斗にすぎないという。かりに遊撃隊が300名来たとしても、1日の消費量は数斗になるはずなのに、なぜ3斗しか与えていないと報告するのか。これは、西間島の住民が遊撃隊と内通している証拠だ。第2に、西間島の住民は赤化している。山から来た者、または匪賊を見たことはないかと聞くと、子どもまでみな、そんな者は見かけなかったと答える。だが革命軍を見たかと聞けば、見たと答える。これは、西間島の住民が遊撃隊を自分たちの軍隊と考えており、赤化していることを示している。第3に、西間島は遊撃隊の恒常的な活動根拠地となっている。以前は、西間島に独立軍や匪賊が夏か秋には来ても、冬になるといずこかへ立ち去ったものだが、金日成部隊は冬でもここで活動している。だから、この一帯に集団部落を設けねばならん――

 これは、革命軍と人民のきずながいかに固いものであったかを示す生々しい証拠であり、人民が革命軍をいかに決死の覚悟で擁護し支援したかを立証する資料といえる。

 西間島の治安維持にいかに手を焼いたのか、敵は、共産主義、三民主義は、いずれも民衆の進路を照らす灯台にひとしいものとなっているとし、「共匪や反満抗日匪の影響下から民衆を奪取し、これらの匪賊を崩壊させるためには、彼らの政治目標よりもすぐれた目標とそれに至る明確な道程が示され、民衆的政策が実施されねばならない。すなわち、共匪が民衆を吸引するよりもさらに容易かつ円滑に民衆を動員して満州国の建国理想に向かって進む過程が示され、その方向に向かってすべての民衆を吸引するに足る政策が実施されねばならない。こうした指導方針による政治的・経済的・思想的・社会的国民運動の特殊な活動分野としての対匪賊工作のみが、克く政治・思想匪の根幹を衝き、これを克服することができる」と嘆声をあげている。「共匪」とは、人民革命軍にたいする卑称であり、「反満抗日匪」とは、かいらい満州国に反対し日本帝国主義に抗するすべての軍事勢力の総称である。

 彼らはあらゆる手段と方法を用いて人民革命軍を掃討し、革命軍と人民の連係を断とうと試みたが、それはすべて徒労に終わった。

 日本軍の討伐で村が焼け野原になってから、地陽溪の農民は役畜が足りなくて苦しんでいた。すぐにも農作にとりかかり、木材運搬の賃仕事もしなくてはならないというのに1頭の役牛もなかったのである。村人は相談した末に、県公署(県政府)にかけあって役牛を提供してもらうことにした。その交渉の代表として李なにがしの青年を選び、何人かの青年を護衛につけた。おそらく、彼が村一番の外交家で、口達者でもあったのだろう。彼は県公署へ行き、うちの村の人たちは共産軍と内通したことは一度もない、なのに日本軍は確かな証拠もなしに一夜のうちに村を灰にしてしまった、こんな口惜しいことがあるものか、いったい全体、県公署は目を開いてなにをしていたのか、二言目にはうちの村を「良民村」にするといっていたのに、討伐隊が襲ってきたのにどうして制止できなかったのか、こうなったからには「良民村」もくそもない、牛があってこそ農作を営み、農作を営んでこそ飯も食えるというもんじゃないか、とひとしきり苦情を並べ立てた。それが、じつに真に迫り胸を打ったからだろうか、県公署は地陽溪の農民に20頭余りの牛を貸し付けてくれた。

 交渉が思惑どおりに運ぶと、彼は考えを変えた。ひと切れの肉も満足に食べられず山中で苦労している遊撃隊員のことが頭に浮かんだのである。耕耘や木材運搬の賃仕事ができなくても、この牛を革命軍に送って食糧の足しにしてもらうのがよいのではないか、こう考えた彼は、県の地下組織を通して遊撃隊に連絡した。自分たちが県公署から牛を引き取って村に帰るから、途中で待ち伏せをして「襲撃」し、その牛を密営に引いていくようにという内容であった。地下組織からの連絡を受けた我々は、県と地陽溪との中間地点に伏兵班を派遣したのだが、彼らはもっともらしく芝居を演じた。県公署では、牛を無事に引いていけるように満州国軍の武装警備兵までもつけた。彼らが、遊撃隊の襲撃をまぬがれなかったのは言うまでもない。護送兵を武装解除した遊撃隊員たちは、彼らの面前で李をはじめ、地陽溪の青年たちを後ろ手に縛りあげ、おまえたちは日本と満州国にこびへつらう悪者で反逆者だから残らず銃殺に処する、といって全員を密営に連れていった。そのとき密営に来た地陽溪村の青年は、全員遊撃隊に入隊した。それこそ一石二鳥の収穫であった。これは、西間島時代の軍民関係を示すエピソードの一つにすぎない。

 朝鮮人民革命軍が長白地方に進出した当初から、我々を物心両面から支持声援してくれた援軍運動には、労働者、農民などの勤労者階級だけでなく、ドグマにとりつかれた一部の共産主義者が闘争対象とみなして敵視していた階層までもが合流した。長白県十九道溝には曹徳一という中国人大地主がいた。叔父の遺産を譲り受け30代にして一躍富豪になった人で、80余ヘクタールもの土地を持っていた。その一帯の農地は、半分以上が彼の所有だった。また妾を6人も囲い、巡査たちとは義兄弟の交わりを結んでいた。教条主義者の視点からすれば、打倒対象といえる人物であった。彼に多少の長所があるとすれば、民族主義思想が強いことだったといえようか。人民革命軍が、大徳水と小徳水で日本と満州国の軍警を撃ち砕くと、曹徳一はあわてふためき、妾を連れて長白県庁の所在地へ逃げ去った。そして、家屋と土地は差配に管理させた。

 この地主を区長の李勲が掌握した。そのいきさつが劇的であった。白頭山地区に密営を建設したのち、わたしは給養係に1937年の正月を迎える準備をするよう指示した。わたしは、白頭山に進出してはじめて迎えるこの正月を非常に重視した。隊員たちもこの正月を待ちこがれていた。部隊の給養担当責任者であった金周賢は、物資調達のため西間島の村々を足が棒になるほど歩き回った。長白で稲作を営んでいるのは十九道溝の鴨緑江流域だけであった。しかし、収穫された籾米はそっくり地主の米倉に運び込まれた。

 そのうち、金周賢は、政治工作員の池泰環から、正月の食卓を豊かにできる莫大な食糧と食肉、砂糖などの蓄えが曹徳一にあるという通報を受けた。金周賢は李悌淳にはかって、その場で曹徳一への人民革命軍名義の通告状をしたためた。――我々は、あなたが中国人としての民族的良心をまったく失ってはいないと思っている。だから、日本の手先を除くすべての人民の財産を保護する原則に立脚して、あなたの財産にはいささかの損害も与えなかった。あなたは当然、この思いやりに実際の行動をもって報いるべきだ。我々の期待にこたえるためには、すすんで革命軍を助けなければならない。いつ、なにをもって援助するかを早急に回答せよ――

 通告状を受け取ったその日から、曹徳一は外部との接触を断ち、床に臥して悩んだ。通告状の要求どおり人民革命軍を援助するには日本人の目が恐ろしいし、要求を無視してしまうには革命軍の懲罰がこわかった。愛妾たちが枕元を取り巻いて愛嬌をふりまいてもとりあおうとせず、溜め息をつくばかりである。妾たちは、大変なことになったと騒ぎ立てた。そのころ、李悌淳の指示を受けた李勲が曹地主の様子を見るために県都へ出向いた。町で会った地主の妾の一人が彼に、うちの旦那はここ数日、ご飯ものどを通らず夜もおちおち眠れない有様です、区長さんがお昼を一緒にしながら慰めてやってください、と泣きついた。うまいぐあいになったと考えた李勲は、仕方なさそうに地主の家へ足を向けた。曹徳一は、救世主にでも会ったかのように李勲を喜んで迎えた。何杯か杯をあけたのち彼は、革命軍の通告状を差し出して「いったい、これをどうすればよいだろうか」と李勲に聞いた。通告状に目を通した李勲は曹徳一の手をとって、そんなに心配することはない、革命軍が兄さんを殺しはしないだろう、わたしも何か月か前に密営に捕まっていったことがあるが、革命軍は匪賊とは違っていた、みだりに人の命を奪いはしないから、兄さんが気前よく出してやれば革命軍も感心して兄さんを保護してくれるに違いない、と言い含めた。曹徳一は、それしきの財産を使うのは惜しくない、日本人が恐ろしいだけだ、ばれたが最後、あの世行きになるに決まっているのだから、ちゅうちょせざるをえないではないか、区長に妙案があったら教えてくれ、区長の言うとおりにする、と言うのだった。

 「財産が惜しくないというなら差し出してしまいなさい。なにをそんなに心配しているんですか。兄さんが革命軍にうまくとりいってくれれば、わたしも十九道溝であと何年か区長を勤め、農民も無事に過ごせるというものですよ」

 李勲がこう言うと、曹徳一は、革命軍に物資を送るのは区長にまかせるから、どうか面倒なことが起こらないようにしてもらいたい、と頼んだ。

 曹徳一が援護物資を送ることにしたという通知を受けたわたしは、すぐに20余名の隊員を十九道溝に送った。彼らは数10台のそりに600余斗の米と数頭の豚、それに大量の砂糖を満載して無事に帰ってきた。曹徳一はその後も、我々に数回にわたって相当な量の援護物資を送ってよこした。

 西間島を革命のるつぼと化させた壮大な援軍運動参加者のなかには、日本の警官を勤めた者もいれば、工事場の監督もいた。朝鮮人民革命軍の偉容に圧倒され、自分の半生を深く悔いて再生の道を歩もうと決心した三水郡のある巡査は、駐在所の首席と次席を処刑し、武器を奪って遊撃隊に入隊した。森林鉄道工事場と伐採場の一部の監督は、革命軍が行くと、強要に屈したふりをして倉庫の扉を開け、給養物資を手当たりしだいに引き出してくれた。二十道溝伐採場のある監督は、伐採労働をしていた労働者、農民と近くの山林隊員に、厭戦厭軍思想を鼓吹する『親日兵自嘆歌』という歌まで公然と広めた。

 わたしは、援軍活動に積極的に参加した西間島の知識人も決して忘れることができない。当時、西間島の知識人といえば、そのほとんどが教員であった。彼らのうち、いまもわたしの記憶にあるのは、宗山私立学校の姜栄九である。彼は初めて会ったとき、自分は日本帝国主義の教育施策を実行する手先であり、将軍に会わせる顔がない、と言った。

 「日本帝国主義の教育施策を実行する者だからといって、すべてが悪人だとみなす必要はありません。異国で心にかげりをもって育つ朝鮮の子どもたちに文字を教える先生たちに、なんの罪があるというのですか。やむなく日本帝国主義に従うとしても、民族的良心さえ失わなければ独立闘争に寄与することができるのです」

 わたしがこう慰めても、彼は緊張したまま暗い面持ちでおずおずとわたしの顔色をうかがうばかりであった。わたしがまた、子どもたちを教えるとなると気苦労が多いことだろうと言うと、彼は苦笑いして、日本の教育をするのに気苦労をするほど骨をおることはないと答えた。その日、わたしは村を立ち去るときに彼にこう頼んだ。

 「わたしが先生に頼みたいことは一つです。それは、先生自身が朝鮮人であることを忘れないでほしいということです。次の世代に朝鮮の魂を守らせるためには、先生自身が朝鮮の魂を守らなければなりません」

 姜先生はこれを肝に銘じた。我々が村を発ったあと、彼はすぐさま祖国光復会に加入して活躍し、教鞭をとりながらも我々を積極的に援助した。謄写版、布地、食糧など、頼んだものはなんでも送ってくれたし、みずから援護物資を担いで密営に来ることもあった。ひいては、我々が与えた電話機で盗聴してはそのつど敵情を知らせてくれた。

 半生を教育事業につくしてきた彼は、解放された祖国に帰ってからも教壇に立った。ところが、1950年代の末ごろだと思うが、平壌のある高級中学校の校長を勤めていた彼が生徒を甘やかし、生産労働や建設作業に参加させるのをためらっているということを耳にした。彼を呼んでただしてみると、首をうなだれて事実だと答えた。

 「先生が校長をしている学校で、そんな弊害があるというのは信じられません。もしや、西間島時代のことを忘れたのではありませんか」

 すると彼は、わたしたちの父母は日本人の支配下で爪がすり切れるほど苦労しながらも、子どもらには明るい教室で思う存分勉強させてやりたいというのが一生の願いだった、と言うのであった。

 彼の気持ちは十分理解できた。しかしわたしは、子どもたちに勤労精神をつちかわず、しかりもしないで甘やかしてばかりいたら、将来どんな人間になるだろうか、子どもは苦労させて鍛えなければならない、荷物やモッコも担がせ、野良仕事もさせるべきだ、そうしてこそ、額の汗の貴さを知り、労働者、農民を尊重するようになり、社会主義建設をりっぱに進めることができる、社会主義建設をりっぱに進めるためには、新しい世代に白頭の革命精神、西間島の人びとの闘争精神を受け継がせなければならない、と彼をきびしく諭した。

 激戦の銃声が天地を震撼させたあの忘れえぬ地で、西間島の人びとは我々とともに革命的な軍民関係の礎を築き、天道教徒をはじめ、愛国的な有産者と青年学生、知識人など広範な大衆を結集する統一戦線の基盤をかため、国内人民と革命家の連係を結ぶルートも切り開いた。西間島では、わが国の反日民族解放闘争史に輝かしいページを飾るすぐれた愛国者と人民英雄が輩出した。彼らが発揮した白頭の革命精神、西間島の人びとの闘争精神はいまも全人民の胸に力強く脈打っている。



 


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