金日成主席『回顧録 世紀とともに』

6 愛国地主 金鼎富


 世界の政治舞台に共産主義者が登場して以来、万国の無産者は「地主、資本家を打倒せよ!」というスローガンをかかげた。朝鮮の勤労者大衆もこのスローガンを高くかかげ、外国の帝国主義勢力と結託した反動的な搾取階級を葬り去るための、きびしくもはげしい階級闘争を長い間展開してきた。国民府の政党組織である朝鮮革命党左派の人物でさえ、一時は、打倒地主、打倒資本家を闘争目標と宣言して打倒旋風をまき起こした。

 我々も、地主、資本家に反対することを自己の理念とし、闘争目標としていたことを隠すものではない。他人の生血を吸い取る搾取者に反対するのは、わたしが生涯にわたって堅持している原則である。わたしは、過去と同様、現在も搾取者に反対している。数億万の勤労者大衆が飢餓線上をさまよっているとき、彼らの膏血をもって築いた財貨を湯水のように使い暖衣飽食する人間にたいしては、これからも憎悪すると思う。

 物質的富の分配における公正さと社会的平等の実現を主張する人道主義的理念は、全世界の進歩的人民が肯定しているところである。我々は、ごく少数の有産者とその代弁者による政治的独裁、経済的独占、道徳的堕落に反対し、それらに終止符をうつことを自己の神聖な義務とみなしている。もちろん、具体的実践においては、搾取階級を打倒する問題と、その階級の個別的存在、個々の有産者にたいする問題は厳格に区別しなければならない。それで我々は、抗日革命の時期に、日本帝国主義とその手先である悪質な有産者だけを闘争の的にしたのである。

 しかし、かつて一部の共産主義者は、階級関係において闘争の一面のみを強調しすぎ、愛国的で反帝的な要素をもつ地主や資本家を見るうえで極左に走った。具体的な状況や実態を考慮せず、有産者を政治的、経済的、社会的にむやみに粛清し収奪し迫害する杓子定規的な政策を実施することによって、一連の国々では共産主義にたいする誤った認識が生じるようになった。これは、反共に血道をあげている連中に共産主義を中傷する口実を与えた。

 共和国北半部には、地主、資本家が存在しない。いまは、階級的教育が高い水準で深化され、すべての活動家が階級路線と大衆路線を正しく結合している。富者をすべて悪いと決めつけていた一面的な見解、その経歴や功労にかかわりなく、地主、資本家階級出身の者は誰であれ、一律に取り扱うべきだとした偏狭な観点はなくなったといえる。出身が悪いからと悩んでいた人が、朝鮮労働党に入党したり、適所に登用されて明るく暮らしているという話を聞けば、わが身の幸運のように喜ぶのがこの時代の大衆の心理となっている。これは、朝鮮労働党の幅の広い政治がもたらした貴重な結実である。我々は、こうした幅の広い政治を半世紀前にも実施し、現在も実施している。朝鮮の真の共産主義者は、すでに抗日革命の時期から民族大団結の旗をかかげ、出身と信教、財産程度の異なる各階層の大衆を一つの勢力に結束するためにたたかってきた。地主金鼎富(キムジョンブ)についての話は、地主、資本家にたいする我々の具体的な見解を理解し、我々が実施している幅の広い政治の歴史的根源を把握するうえでの一助になるのではないかと思う。

 わたしが金鼎富と初めて会ったのは1936年の8月末である。地陽溪村へ義援金工作に出かけた小部隊が深夜、親日地主だといって、70過ぎに見える老人以下数名の人を連れてきた。そのときわたしは、馬家子という二道崗付近の林業村で大衆工作にあたっていた。わたしは、抑留者名簿に金鼎富という名前が記されているのを見てびっくりした。彼を「親日地主」として引き立ててきたのだから驚くほかはなかった。当時の小部隊責任者を李東学だと回想している人もいるが、わたしの記憶では、金鼎富を連行してきたのは金周賢である。わたしは、金周賢をきびしく問いただした。

 「金鼎富を打倒対象と断定した理由はなんだね」

 「あのじいさんは、土地だけでも、ざっと150ヘクタールも持っています。地主1人でそんなに多くの土地を持っているという話を聞いたのははじめてです」

 「で、150ヘクタールの土地を所有している地主だからといって、打倒の対象になるという法がどこにあるのだ」

 「司令官同志! 1家の富に3村が滅ぶというのに、あんな富豪なら10村でも滅びますよ」

 わたしは、金周賢につぎの理由を聞いた。彼は、金鼎富が日本領事館分館の参事と親しくしており、その参事が慶尚北道永川かどこかから伊藤という日本人資本家を連れてきて、金鼎富に6000円もの大金を融通して材木商を営ませた、金鼎富が車まで1台買い入れて商売を繁盛させることができたのは、日本帝国主義者を後ろ盾にしたからだ、と長々と説明した。

 「まだ他に理由があるのかね?」

 「ありますとも。証拠は1つや2つではありません。金鼎富は、護林会長兼農村組合長の役職について、満州国の役所に頻繁に出入りしているそうです。息子の金万杜もおやじを笠に着て数年間、二道崗の区長を勤めました」

 それでは、金鼎富に長所はまったくないのかと聞くと、金周賢はとまどった。長所についての世評は聞き出そうとしなかったばかりか、わたしがそんなことに関心をもとうとは考えもしなかったようである。

 「長所ですか? そんな親日分子に長所など、あるはずはないでしょう」

 小部隊責任者の答えは、1から10まで否定的なものであった。終始主観的な解釈一辺倒の彼の報告は、なぜかわたしの胸を重くした。階級闘争と階級性しか眼中になかった従来の惰性から大きく脱していなかったうえに、金鼎富にたいする予備知識がなかった彼らは、わたしが長白地区に進出するさい、重要な統一戦線工作の対象として目星をつけておいた彼に「親日地主」だの「反動分子」だのという大げさなレッテルを張りつけ、本人だけでなくその息子まで捕えてきたのである。これは、我々の統一戦線方針のみか、祖国光復会の創立宣言文や10大綱領の精神にも反する行為であった。

 そのうえ、彼らは、金鼎富の家に電話のあることまで親日派の根拠とした。彼が電話を引いたのは、ただのぜいたくのためではない、密偵行為に使うためであろう、通話の相手は領事館か警察署、満州国の役所しかないではないか、そんなやつらに電話をするのは密告のためであって、ほかになにがあるのか、と金周賢は気炎を吐いた。事実、当時にしてみれば、私宅に電話を引いて使うというのは、庶民には想像すらできないぜいたくであった。だからといって、自宅に設けた電話を親日のしるしとし、利敵行為の手段とまでみなすなら、それこそ牽強付会というものではないか。もし、すべての隊員がこういうふうに人びとを評価するなら、我々の統一戦線政策は実践において重大な難関に直面する恐れがあった。これは金鼎富1人に限られることではなかった。

 わたしは、小部隊のメンバーを責める前にまず、部下の教育をおろそかにした自分自身を叱責した。わたしが撫松で張蔚華とかかわりをもっていたときにも、一部の人は先入観をもってそれを憂慮した。張蔚華が送ったそり数台分の援護物資と巨額の資金を受け取ってはじめて、彼らは有産階級のなかにも善良な人間がいることを認めた。ところが長白に来て、150ヘクタールの土地を持っている地主に出会うと、再び憎悪の目で見たのである。

 張蔚華を同行者と認めた人たちが、どうして金鼎富が統一戦線の対象となりうる人物だと思い及ばないのだろうか。これは、統一戦線政策についての我々の教育活動に欠落があることを意味した。我々のいう各階層の大衆のなかには、経歴や生活境遇の異なる千差万別の人間がいる。そのすべての人間との活動にあてはまる唯一の処方というものはありえない。しかし、どの場合にも参考とすべき原則だけはなければならない。当時、我々が人びとを評価するうえで基準とした原則は、親日か反日か、愛国愛族の精神があるかないかということであった。祖国を愛し民族を愛し人民を愛し、日本帝国主義を憎悪する人とはすべて手を結ぶことができ、反対に祖国と民族、人民は眼中になく、一個人の享楽と安逸のために親日に走る者は、すべて闘争対象になるというのが我々の立場であった。わたしはこういう観点から、金鼎富も統一戦線の対象とみなしていた。そして、長白に進出すれば彼に協力を願う手紙を届けるか、密営に来てもらって会おうと考えていた。

 「わたしの考えでは、金鼎富にたいするきみたちの評価は図式的で非科学的だ。人をうわべだけで浅薄に評価してはいけない。きみたちが親日地主だという金鼎富は、実際は愛国地主だ。わたしは彼の過去をよく知っている。きみたちは、地陽溪で幾人かの話を聞いて金鼎冨はこうで、金下士はああだと人をみだりに評価しているが、それは、うわべだけを見て内実を知らずに言うことだ。金鼎富がそんなに悪い地主なら、どうして地陽溪の住民が村に彼の頌徳碑を建てたのか。きみたちは、地陽溪に金鼎冨の頌徳碑があることを知っているのか」

 小部隊のメンバーは、知らないと答えた。それで、わたしは彼らに、きみたちが金鼎富の経歴を知ったら、親日地主だとなじりはしないだろう、彼は打倒対象ではなく包容対象であり、反動地主ではなく愛国地主であることをこの場でわたしが保証する、と話した。

 「司令官同志の意図を知らずに金鼎富の取り扱いで誤りを犯しました。小部隊の名で謝罪し、地陽溪に送りかえすことにします」

 自責の念にかられた金周賢の答えであったが、わたしはそれに同意しなかった。

 「わたしも1度会ってみたかった人だから、帰すことはない。こうなったついでに、密営に連れて行ってじっくり語り合ってみたい。きみたちに代わって謝罪はわたしがする」

 その日わたしは、金鼎富を統一戦線の対象とみなせる根拠について知っているかぎりのことを小部隊のメンバーに話してやった。それで、金鼎富の経歴は、その日のうちに部隊中に知れ渡った。

 金鼎富の出生年代は、1860年代の初めだと思う。我々が長白地方に進出したとき、彼はもう70代の老人であった。彼の故郷は、平安北道義州郡青水洞である。わたしが吉林で学校に通っていたとき、義州生まれの張戊Mは、富豪の身にもかかわらず独立軍運動に挺身してきた金鼎富についてしばしば好感をもって話した。金鼎富の息子の金万杜は、張戊Mと呉東振の青水洞時代の竹馬の友である。独立軍が長白地方で気勢を上げていたとき、金鼎富は軍備団の南部担当部長として活動した。彼は、財産をはたいて独立軍に布地や食糧をはじめ、各種の給養物資を調達した。軍勢が盛んであったころは、地陽溪でジャガイモの澱粉をとり、水車を設けて穀物をひいたりして団の食糧に供した。金鼎富の家は、吉林、撫松、臨江、八道溝、樺甸などで活動する独立運動家が長白に行き来するときに利用した宿泊所でもあり、会合の場所でもあった。そういう縁からしても、わたしは金鼎富老をおろそかにできない立場にあった。金鼎富は、次代の教育のためにも少なからず貢献した。地陽渓の谷間に彼の主管する漢学書堂が建てられたのは1920年ごろだった。小作人の子女を他の土地の子どもらよりもりっぱに啓蒙しようという意欲を燃やした彼は、漢学書堂を新学中心の4年制小学校にかえ、やがてそれを150名以上の生徒を擁する6年制私立学校に切り換える革新的な措置をとった。金鼎富は、隣村から来る子どもまで入学させた。その宗山私立学校の運営費と教師の給料は小作料でまかなった。学校では、自主独立と愛国愛族の思想を植えつける民族教育を実施した。

 地陽溪の小作人は、自発的に小作料を納めた。作柄に応じて1俵なら1俵、10俵なら10俵と納められるだけ納めた。それは、金鼎富が地主として小作人に土地の量と質に応じた現物納入量を定めなかったからである。地主と小作人のあいだには、小作契約さえ結ばれていなかった。いわば、年中の収穫のうち何割は農民が取り、何割は地主に納めるという約束がなかった。一時、地陽溪で金鼎富の小作人であった抗日革命闘士の李致浩は、この世に金鼎冨のような善良で太っ腹な地主がいるという話は聞いたためしがない、彼の土地を耕作しながら小作料がいくらなのかも知らなかった、米を何回も借りたが利子をつけて返済したことはない、それでも、金鼎富は追及するどころか万事を小作人の自覚にまかせた、村人が彼の家の前に頌徳碑を建てたのは、いわれのないことではない、彼が地陽溪の台地に多くの土地を持っていたとはいうが、それは平野部の15ヘクタールの沃田より別段まさるものではなかった、と話した。

 地陽溪の住民は口をそろえて、金鼎冨を「うちのおじいさま」「うちの部長さま」「うちの校主さま」とたたえた。これはありきたりのことではなかった。隣村の地主たちは、金鼎富の徳行をたいへんけむたがった。彼らは、自分の小作人が地陽溪を横目でうかがい、金鼎富の小作人をうらやむのではないかと恐れた。それで彼らは、契約なしで好き勝手に小作料を納めさせるというのは度を越した思いやりだ、そんなことをしては3、4年のうちに身代がつぶれてしまうだろう、と金鼎冨を説得した。しかし、彼はそんなことにはいっこうに耳を貸そうとしなかった。小作の契約がないからといって、うちの3人家族が飢えるようなことはなかろう、小作人の腹がふくれればわしの腹もふくれ、小作人がひもじければ、わしもひもじいわけだから、人情も持ちつ持たれつだと考えればそれまでだと言い返した。金鼎富はこういう功徳を施す富豪だったので、満州国の役所や日本領事館でも、ないがしろにはできなかった。

 小部隊が引き立ててきた地主のなかには金下士という人がいたが、彼もやはり愛国的な地主であった。彼に金下士というあだながついたのは、旧韓国の新式軍隊で下士官として服務したことがあるからである。彼の本名は金鼎七だった。彼は、10代の若さで李朝の軍隊に志願して軍人生活をはじめた人物だった。ひところは、朝鮮ではじめての新式軍隊である別技軍に加わり、開化党が甲申政変を起こしたときには、それに強く共鳴したりした。山村のきこりのように素朴で清楚な彼の姿からは、剛健な政治的信念のほどがうかがわれた。甲午改革のとき王宮護衛の任にあたる侍衛連隊に所属していた彼は、その後、鎮衛隊に転勤し、亡国以後は義兵運動に身を投じ、それが衰えると生業に没頭した。金下士は、旧韓国末期の新式軍隊が存在したほぼ全期間をまじめに服務しとおした軍人であり、李朝軍隊の死滅過程と近代朝鮮の波瀾にとんだ国難を身をもって体験した歴史の生き証人であった。金鼎富の話によれば、彼が長年軍務に服しながらも下士官以上の階級に登用されなかったのは、北関(咸鏡道地方の別称)出身であったためだという。金下士は、李朝の為政者が流刑地だと差別する甲山の出身であった。封建朝廷は、軍政改革や門閥廃止を唱えながらも、西北関(平安道・黄海道・咸鏡道地方の別称)出身を人材登用から除外した旧時代の遺習を一掃できなかったようである。金下士は10ヘクタールの土地と幾頭もの役牛を持っている地主であったが、思考や行動においては進歩的で進取の気に富む愛国者であった。

 しかし当時、少なからぬ人は、金鼎富や金下士のような人も統一戦線の対象になるというと、あきれた顔をして、そんなに多くの土地を持っているのに包容対象だというのか、それは「階級協調」ではないか、と言ったものである。事実、共産主義者の世界では、マルクスやレーニンの命題が唯一無二の指針となっていた半世紀前までは、我々がどこかの地主と手を結ぼうとすると、一部の人はマルクス主義からの脱線だと論難し、いずれかの資本家を同盟者にしようとすると、レーニン主義の異端者だとおじけをふるったものである。それは、わが国の具体的特性と朝鮮革命の現実を無視してマルクス・レーニン主義を絶対視し、教条的に適用した結果である。

 解放前の朝鮮農村における階級分化と土地所有関係の変化過程を示す統計資料を見ると、日本人大地主の数が増大するのに反比例して、朝鮮人大地主の数は急減して中地主か小地主になり、または没落したことがわかる。日本帝国主義者は、封建的土地所有関係を維持する方法で総督政治の基盤をかためた。その過程で一部の土着地主は、総督府の庇護のもとに土地と資本を増やして商工業に投資する大地主になり、買弁資本家にまでなった。しかし、大多数の朝鮮人地主は、中小地主としてとり残された。日本帝国主義の占領と植民地支配によって没落した一部の中小地主が、消極的ではあるにせよ反日愛国を志向したのは自然のなりゆきである。事実、朝鮮の地主、資本家のなかには、抗日革命を積極的に援護した人もあり、解放されるとすぐ土地や工場をそっくり国に納めて平凡な勤労者になり、新しい祖国の建設に献身した人もいる。個人の蓄財よりも祖国と民族の繁栄を大切にする良心的な有産者には、共産主義者の施策に反対する政治的理由もなければ、共産主義者の指導する革命運動を妨害するなんの感情的・心理的根拠もないのである。

 もちろん、わたしも幼いころは、地主、資本家といえばすべて無為徒食する寄生虫だと思っていた。わたしが有産者のなかにも良心的な人がおり、したがって彼らを愛国的な有産者と反動的な有産者に区別することができると考えるようになったのは、彰徳学校時代に白善行(愛国的な慈善事業につくした女性)が多くの土地を学校に寄付したということを聞いた後からである。張蔚華との因縁は、わたしにすべての有産者を打倒の対象とみなす人たちの見解を批判的に検討し、それを理論的に否定させるきっかけとなった。陳翰章を通しても、富者にたいする観点をいっそう明確に定立した。もし、我々がこういう愛国的な人びとを有産者だからといって打倒したり、遠ざけたりすれば、どうなるだろうか。それは革命の支持者を排斥することになり、愛国的な有産者は言うまでもなく、多数の大衆を失う結果をもたらすであろう。大衆は、そんな血も涙もない革命には背を向けるであろう。喜ぶのはただ敵だけである。階級闘争における些細な誤謬や脱線も結局、敵の戦略に歩調を合わせる最大の利敵行為となる。

 わたしは遊撃隊の隊長として、部下の過失について金鼎富とその一行に謝罪せざるをえない苦しい立場に立たされた。小部隊責任者は、わたしが命令するやいなや待機させていた金鼎富一行を部屋に連れてきた。わたしは、夜半に彼らを引き立ててきた部下の無礼な振舞いを深くわびた。金鼎冨はなんの応答もなく、敵意と不安の入りまじったまなざしでわたしを見つめていた。他の人の表情も同じであった。おそらくことのなりゆきがどうなるものかと気をもんでいるようであった。彼らにもう少しやさしい言葉をかけてやりたかったが、とりつく島もなかった。こういう冷たい雰囲気ではとうてい対話が不可能だった。

 「どんな軍隊なのかは知らないが、独立軍だったら必要な軍資金の金額を示し、胡狄(こてき)だったら票代がいくらほしいのか話してくれ」

 張りつめた空気を破ったのは、金鼎富のとげのある声だった。彼の言葉は、部屋の雰囲気をいっそう緊張させた。金鼎富とその一行は、我々を独立軍か胡狄と思っているに違いなかった。票とは、胡狄や反日部隊がよく使う人質戦術で、票代とは人質を放免するときに取る身の代金のことである。金鼎富自身も胡狄に人質として2、3回捕われてひどい目にあった人である。

 地主一行は、息をつめてわたしを見つめていた。法外な身の代金を求められるのではないかと心配しているようだった。そのとき金周賢が、10箱のタバコを持って再びわたしの前にあらわれ、地陽溪村の小店の主人があまりにも辞退するので、タバコ代を払えずそのまま帰ってきたことを報告した。わたしは地主一行に、その小店の主人の人となりを尋ねた。

 「その金世一という人は、心のやさしい人です。本人は体が不自由で、妻が米ひき仕事をして細々と暮らしを立てている家です。見るに見かねて雑貨商でも営むようにと、いくらかの金をやったところ、それを元手に小店を出したんです」

 金万杜が、一行を代表して答えた。わたしはそれを聞いて金周賢をたしなめた。

 「苦しい生活をしている家だというのに、なんということをしてくれたのだ。主人が拒むからといって、代金も払わずに帰ってくるとは失礼も甚だしいではないか」

 こんな話が交わされると、驚いたことに部屋の雰囲気ががらりと変わった。地主たちは強い衝撃を受けたらしく、互いに意味深長な目配りでささやき合っていた。わたしの叱責がきつすぎるといった面持ちだった。再び話しかけるには絶好の機会だった。

 「こんなうっとうしい真夜中にご足労をかけて申し訳ありません。不馴れな土地を歩きまわっているので、ときにはこんな過ちを犯すこともあるのです。部下の無礼な振舞いをどうかお許しください」

 わたしが改めてこう陳謝すると、彼らはやっと安堵の胸をなでおろした様子だった。

 「では、この部隊はなんの部隊じゃろう? 身なりを見ると胡狄でもなく、往年の独立軍の服装でもないし…」

 金鼎富もわたしに好奇の目を向けた。

 「わたしたちは、朝鮮の独立のためにたたかう朝鮮人民革命軍です」

 わたしはこう答えて、長白の有志との初対面の挨拶に代えた。

 「人民革命軍ですって? この前、撫松で日本軍をひどい目にあわせたあの金日成将軍の部隊だというのかね」

 「ええ、その部隊です」

 「金日成将軍は、いまも撫松にいらっしゃるんですかな?」

 「金先生、ご挨拶が遅れてすみません。じつはわたしがその金日成です」

 金鼎富は、半信半疑の目でわたしを見つめ苦りきった顔をした。

 「70を越した老いぼれだからと馬鹿にしてくださるな。いくらなんでも縮地の術を使うという金日成将軍が、そんな紅顔であろうはずはない。金将軍は、わたしらのような俗人とは違いますぞ。その方は歯も二重の奇人ですわい」

 そのとき、金周賢が横から話に割り込み、あなたの目の前に座っておられる方がほかならぬ金日成司令官だと言った。こうして、金鼎富は、やっとわたしが金日成であることを認め、将軍をお見それして申し訳ないと許しを請うた。そして、「どうせなら、老将よりも若い将軍のほうがましというものだ」と金下士に言った。金下士も、国を取りもどす戦いは1、2年で終わるわけでもないのだから、健康な青年将軍のほうが頼もしい、と相づちをうった。

 我々は、和気あいあいたる雰囲気のなかで談笑した。その日、彼らはわたしに多くの質問をした。なかでも金万杜は、金将軍は「3日先の天気」も読めるという人がいるが、それは本当なのかという突飛な質問までして、わたしを当惑させた。途方もない質問ではあったが、わたしは面映ゆい思いをしながらも一応は答えざるをえなかった。

 「わたしが3日先の天気も読めるというのは途方もない話です。3日先の天気が見通せるのではなく、朝鮮人民革命軍が人民と連係を保って必要な情報をそのつど入手できるので、情勢が正しく判断できるだけのことです。わたしは、人民が諸葛亮(孔明)だと思っています。我々は、人民の支持と援助がなければ、一歩も動けません」

 「民をそれほど、天のように高く見てくださるとは恐縮のかぎりです。わしらも将軍の大業をお助けしたい気持ちですが、なにをすればよいのか教えてくだされ」

 「じつはわたしも、長白に進出してみなさんにお会いして、そのことを相談したかったのです。わたしたちは武器を手に幾年もの間、満州の広野で日本帝国主義侵略者を打倒するための血戦を展開してきました。徒手空拳ではじめた戦いでしたが、人民革命軍はいまいたるところで敵に打撃を与えています。さきほどもお話したように人民の援助がなかったなら、革命軍は今日のような強力な軍隊に育つことができなかったでしょう。爪先まで武装した日本軍を打ち破って祖国を解放するためには、全民族が一致団結して力と心を合わせなければなりません。国を愛する人であれば、地主であろうと資本家であろうと、すべて奮起して人民革命軍を援護すべきです」

 彼らは、わたしの話に大きく励まされたようであった。

 「祖国を愛し同胞を愛する人であるなら、誰であれ革命を支援する義務があり権利があります。先生が地陽溪の台地に数十万坪の焼き畑を起こしたのは、資金と食糧で独立運動を助けようとしたからではありませんか。それで、小作人と独立の志士たちが、その意を募って先生の頌徳碑まで建てたのではありませんか!」

 「失礼ですが、将軍はどうして、このわたくしごとき者の過去をそんなによくご存じなのですか」

 「先生のお名前は亡き父を通じても、また呉東振、張戊M、姜鎮乾先生たちからもうかがっておりました」

 「父上のお名前はなんと申される?」

 「金亨稷といいます。父は八道溝と撫松にいたころ、先生のことをよく話しておりました」

 「これはまた、なんということだ!」

 金鼎富は目をしばたたいて、わたしをじっと見つめた。

 「金将軍が金亨稷の息子であることを知らないでいたとは…。幾年も片田舎に埋もれてむなしい月日を送っているうちに、時勢の移り変わりも知らぬ俗物になってしまいました。ことはどうであれ、将軍の父上とわたしは近しい間柄だった。…以前、父上が通った土地に部下を率いて来た将軍に会ってみると、この感激をなんと表現してよいかわかりません」

 「わたしもやはり先生のような愛国志士にお会いできて、どんなにうれしいかわかりません。わたしの部下が深いわけも知らず、先生を引っ立ててきましたが、わたしは彼らに、金先生は親日地主でも反動地主でもなく、愛国地主だと話してやりました。わたしが地陽溪の村民のように先生の頌徳碑を建てることはできないまでも、愛国地主を親日地主とみなす不届きなことはいたしません。先生は独立運動のため心身ともにささげてこられた、ご自身の過去を誇りとすべきだと思います」

 金鼎富は、涙をたたえ、重ねて礼を言った。

 「金将軍に愛国地主と言われては、この身がいまここで土くれになっても心残りはありません」

 金万杜も父にならって額が地面につかんばかりにお辞儀をした。他の地主たちは、不安と羨望の入りまじったまなざしで金鼎富親子を眺めていた。その気持ちを察した金鼎富は威儀を正し、同行した地主たちを指さして言った。

 「将軍、実際のところあの人たちも反動地主ではありません。命にかけて保証します。もし、将軍がわたしを信頼してくださるなら、あの人たちを逆賊とみなさないでくだされ」

 「先生が保証する方々なら、信頼できないわけはありません。先生みずからが保証するのでしたら、わたしもあの方々を悪くは見ません」

 地主たちは、わたしの返答を聞いてしきりに頭をさげた。最初の対話はこれで終わった。その日の対話はいまでも印象深く覚えている。もし、それが親日分子の罪業を取り調べる審問であったり、なんらかの罪業を告発する弾劾集会のようなものであったなら、わたしはいまも、雨のそぼ降る夜、馬家子の林業労働者の寮で金鼎富一行と深夜までつづけた対話を、これほどなつかしく思い出しはしないであろう。わたしはそのとき、彼らのうち誰が小作人をどのように搾取し、日本帝国主義の植民地政策にどの程度協力し、祖国と民族に恥ずべきことをどれほどしたかについては、まったくたださなかった。かえって、その地主たちが親日分子でないことを既定の事実とし、彼らにたいする信頼をためらうことなく披瀝した。その信頼のため、その夜、彼らは共産主義者にたいする認識を新たにした。事実、その日の会話は、初対面の挨拶を交わし心の扉を開いたにすぎない。話し合いたかった基本問題はすべて伏せられていた。我々の目的はまず、「祖国光復会創立宣言」の精神に即して地陽溪の地主たちを思想的に啓発し、朝鮮人民革命軍への物質的援護に最善をつくすようにし、彼らを通じて長白一帯の有志を革命の傍観者、妨害者から、革命の共鳴者、支持者、協力者に変えることであった。そのためには、まだ彼らとの多くの話し合いが必要だった。しかしわたしは、金鼎富とその息子だけは即刻、地陽溪に帰そうとした。

 翌日、金鼎富老に村へ帰るようにすすめると、彼は、目をむいてわたしの言葉をさえぎった。

 「将軍、昨夜わたしは、本当に多くのことを考えさせられました。このたび、わたしが将軍に会えたのはまったく天地神明の助けだと言わざるをえません。…わたしは以前から祖国と民族のためにつくそうといろいろと専念してきましたが、これといったことはできませんでした。わたしはもう年老いた身です。気力も衰えたが、徳行だけでは民族を救うことができないということがわかりました。晩年にいたって祖国の解放に役立つ道を見出せず思い悩んでいるとき、こうして、将軍に出会えたのは、天の恵みだと言わざるをえません。わたしが密営に残っていれば、せがれの万杜が地陽溪に帰っても、わたしをかたにして援護物資を送ってよこすことができます。おやじを連れもどすためには遊撃隊に物資を送らなければならない、わたしが、遊撃隊に食糧や布地、靴を送るからといって神経を使うことはないと万杜が言えば、やつらも言うことがないではありませんか」

 わたしは、老人の話を聞いていたく感動した。その一言一言が、良心の叫びとして胸をついた。だが、わたしは彼の言いなりになることはできなかった。

 「ご老人のお気持ちはよくわかります。その高潔なお言葉だけでも大きな力になります。しかし、ここはご老人の滞在できる所ではありません。これといった居所もないし、食べ物も粗末です。そのうえ、これからだんだん寒くなり、日本軍の討伐も激しくなるでしょうから、どうみても家に帰るほうがいいと思います」

 しかし、老人は頑として聞き入れなかった。彼は、遊撃隊の兵卒として戦うことはできないまでも、国の独立に貢献する絶好の機会を奪わないでほしい、と重ねて懇願した。わたしは、金鼎富老をしばらく密営に留まらせ、彼の息子だけを先に帰した。

 我々は、密営に地陽溪の有志のための宿所を特別に設け誠意をつくして彼らをもてなした。欠乏だらけの山中生活ではあったが、部隊全員がかゆをすするときにも、彼らには非常用として蓄えておいた白米で飯をたいてやった。隊員には葉タバコを供給しながらも、彼らには巻きタバコを与えた。金鼎富はそのとき、密営で誕生日を迎え、1937年の正月も過ごした。彼の誕生日は、陰暦12月のある日だったと記憶している。その日になっても彼は家に帰ろうとしなかった。地陽溪から息子が送ってよこすことにした援護物資が到着するまでは密営を離れないと言い張った。わたしは、金鼎富にたいしてはもちろんのこと、彼の一家に罪を犯すかのような自責の念にかられた。70代の老人を家にも帰らせず、山中で誕生日を過ごさせるのだから、こんな不人情なことがどこにあろうか。

 わたしは敵中工作にあたる隊員に頼んで白米、肉類、酒などの食料品を用意し、老人の誕生日に伝令兵に担がせて彼のいる密営を訪れた。山海の珍味とはいえなかったが、そのとき金鼎冨のために設けた誕生祝いは、人民革命軍の歴史ではほとんど前例のないものであった。戦友の結婚を祝うときもそういうご馳走を用意することはできなかった。当時の遊撃隊員の結婚祝いといえば、1膳飯に汁1杯がせいぜいであった。金鼎富は、ごちそうを見て目を丸くした。

 「旧正月はまだだというのに、これは、なんのごちそうなのかね?」

 「きょうは、先生のお誕生日です。人民革命軍の名で誕生日をお祝いします」

 わたしは、杯になみなみと酒をついで老人にすすめた。

 「金先生、この寒い冬に山中で誕生日を過ごさせて申し訳ありません。ほんの気持ちだけですが、たくさん召し上がってください」

 杯を受け取った金鼎富の目から涙がこぼれ落ちた。

 「遊撃隊員がトウモロコシがゆをすすりながら国を取り戻そうと苦労しているのを見ると、一日三食の温かいご飯が喉を通りません。まして、この山中でわたしのような者の誕生日まで祝ってくれるとは、将軍のご恩は死んでも忘れませぬ」

 「なにとぞ国の独立がなるまで、お達者でいてください」

 「わたしのような老いぼれは、どうなろうとかまいません。けれども、将軍だけはお体を大切にして、塗炭の苦しみをなめている民族をきっと救わなければなりません」

 その日、わたしは金鼎富と多くのことを語り合った。寒さがいっそうきびしくなり、山に雪がたくさん降り積もったので、今度はわたしが彼を家に帰さなかった。もしや深山の雪の中で何か変事でも起きてはと、長居したついでに密営で冬を越すようにはからったのである。金鼎富は、4か月余りの密営生活で受けた印象を率直に話した。それは、人民革命軍にたいする総合的な印象であると同時に、長い間注視してきた朝鮮共産主義者にたいする集約的な評価でもあった。

 「率直に言って、わたしはこれまで共産主義者をあまりよく思っていませんでした。ところが、金将軍の共産主義はまったく違う。同じ地主でも親日と排日に分けて親日だけを討つのだから、そういう共産主義を誰が悪いと言いましょうか。日本人は遊撃隊を『共匪』と呼んでいるが、それはうそ八百です。…いままで遊撃隊の飯を食べさせてもらいながら多くのことを考えました。もちろん、決意も新たにしたし。わたしの寿命は知れたものです。けれども、余生を誉れ高くまっとうしたい。たとえ死んでも人民革命軍を助けて死ぬつもりです。この金鼎富は、生きても死んでも金将軍の味方であることを信じてください」

 金鼎富は、密営に来て、我々の積極的なシンパになった。我々が、教育の対象、義援金工作の対象として連れてきた地主のなかには、農民から後ろ指をさされる者もいた。しかし、金鼎富が彼らの保証人になり、長老格となって全員をぎゅうじった。そして、彼らがすべて反日愛国の道に立つよう影響を及ぼした。金鼎富は、人民革命軍の給養活動の足しにと3000余元もの大金を寄付し、布地や食糧をはじめ、各種の物資も調達してくれた。我々は、彼が購入した布地で部隊の全隊員に綿入れと軍服をつくって着せた。

 金鼎富の息子は地陽溪に帰ると、我々に誓ったとおり、遊撃隊の援護に積極的に乗り出した。彼は村に帰るとすぐさま、役所から引き取った役牛のなかから10余頭を売ってかなりの金をつくった。当時、県当局は、地陽溪農民の生活安定というふれこみで荒野を開拓させるため信用貸付の形で数十頭の役牛を彼に提供したのである。その後も、彼は県役所に行き、保証書を書いて優良役牛20余頭を引き取り、それを引いてくる途中我々に渡し、自分の家のミシンまで援護物資として送ってよこした。

 人民革命軍が白頭山地区に進出して以来、敵は長白の住民にたいする取り締まりと抑圧を強化した。金鼎富の家も監視の対象となった。ある日、金万杜は、長白警察署に呼び出されて詰問された。

 「我々が入手した情報によると、金日成部隊と連係して彼らに大量の物資を渡しているというが、彼らとどんな連係をもって、どういう給養物資をどれほど引き渡したのか、正直に言え」

 金万杜は、そらとぼけた顔で大げさに泣きごとを言った。

 「あなたがたは、わたしがあたかも金日成部隊となにか内通しているように思っているが、それは誤解だ。あなたがたの言う連係というのはありもしないし、またあるはずもない。いくらなんでも、共産軍部隊が、わたしらのような大地主を手先に利用するはずはないではないか。いまわたしの父が共産軍の密営に抑留されているのは、あなたがたもよく知っていることだ。息子が父を救い出そうと、多少の物資を届けたのが悪いと言えるのか。わたしは、家財をいっさい売り払ってでも父を救い出したい気持ちだ。もしあなたがたがわたしのような立場だったら、そうしないだろうか」

 理屈に合った金万杜の話を聞いた警官は、それ以上詰問せず、彼を放免した。

 彼ら親子は、革命軍を援護するため、多くの田畑と役畜を売った。金鼎富は独立軍に食糧と資金を提供するために荒野を開拓して地主になったのだが、独立軍のために使い果たせなかった財力をすべて人民革命軍の援護に費やした。地主、資本家にとって生命ともいえる蓄財を断念し、その蓄財の元手となる財産を国のために惜しみなく差し出すというのは口で言うように簡単なことではない。まさに、ここに金鼎富の愛国心の深さがあり、抗日革命に寄与した功労の高さがある。わたしは、抗日革命の全期間、金鼎富のような愛国衷情をいだき、あれほどまで我々に思い切った支援をしてくれた大地主を見たことがない。後日、彼が密営に来て自分の目で見て感じたことの一端が『三千里』という雑誌に、わたしとの会見談の形式で発表された。その一部を原文どおり紹介する。

 「『…金日成』といえば国境一帯ではあまねく知れ渡っており、新聞を読んだ人なら誰でも記憶しているであろう。総師長という名で×に近い満人、朝鮮人部下を巧みに統率し、襲撃戦を敢行。軍に頑強に抵抗しながら山中の巣窟を指揮する彼! ひそかに同志を糾合し、諸般事を夢見る彼! 彼は果たしていかなる人間であろうか。金鼎富翁は、津々たる興味をもってこの謎の人物と会見したのである。長身で太い声、なまりからして故郷は平安道と思われる。予想外にあまりにも若い血気盛んな30未満の青年。満州語に精通。隊長らしいところはなく、服装や食事まで兵卒と変わらず、起居、甘苦をともにするところにその感化力と包容力がうかがわれた。
 『ご老人、寒い所でさぞかしご心労のことでしょう』と、やさしく挨拶の言葉をかけては(中略)『…わたしども若い者が暖かい床や安穏な生活を嫌うはずはないでしょう。2、3食、麦がゆがすすれなくても、この苦しみに甘んずるのはそれなりの理由があってのことです。わたしとて血も涙もあり、魂もある人間です。けれどもこの寒い冬に、わたしどもはこうして渡り歩いているのです』
 彼は予想に反して匪賊の首魁らしからず話しぶりが静かで、物腰も粗野ではなかった。彼は金翁をいろいろと慰めながら、いまは厳寒のみぎり、雪中に寸歩を踏むのも容易ならぬゆえ、春にはきっと帰すから安心するようにと言い、部下の看守に特別優待するよう命じたという。…」

 この文章は、恵山にいた朴寅鎮の弟子である梁一泉という人が書いたものである。金鼎富は日本当局の監視と統制下にある言論界に、自分の本心を比較的率直かつ大胆に吐露したようである。人民革命軍の動きにたいする報道管制がきびしかった時期に、雑誌『三千里』がこういう記事を載せたというのは驚くべきことである。

 金鼎富は、わたしの勧めどおり汪清蛤蟆塘に移住し、そこで解放の日を見られずに世を去ったという。彼に会ったとき20代だったわたしも、もう80を越している。してみると、当時の金鼎富よりも10年ほど年をとっていることになる。80代ともなってみると、遊撃隊の密営での彼の辛苦がわがことのように、いっそう身にしみて思いやられる。老人のもてなしには誠意をつくしたつもりだが、いたらぬところも多かったと思う。彼をもっと暖かく十分にもてなせなかったことが、いまも心残りである。わたしは、金鼎富その人のために墓も移してやれず、墓碑さえも立ててやれなかった。

 思えば、はじめて白頭山に進出したとき、部隊はきわめて困難な状況にあった。金も食糧もなければ布地もなにもなかった。それを金鼎富がいろいろと求めてくれた。それは、独立運動の先輩としての朝鮮の真の息子、娘たちへの1世1代の贈物であった。わたしは、その恩を忘れることができない。金鼎富のような有産者、大地主が発揮した良心と愛国的美挙――それは、日本帝国主義にたいする全人民的抗争の準備を促すうえで無視できない貢献となり、我々の偉業にたいする力強い支援となった。1920年代とは違って武力抗争が反日民族解放闘争の主流をなしていた1930年代に、地主や資本家が、我々を物質的・財政的に精神的に援助するというのは、命がけの冒険といえた。しかし、金鼎富はそれを果たしたのである。これが、金鼎富を愛国者とみなす根拠であり、数十年の歳月が過ぎたいまでも彼を忘れられない理由である。

 わが国の南半部には、いまなお地主、資本家がいる。そのなかには、億台の有産者もいるという。反動的な有産者もいるだろうが、愛国的な有産者も少なくないであろう。統一された連邦国家での、地主、資本家にたいする朝鮮共産主義者の立場と態度はどのようなものか。この問いにたいする解答を求めようとするなら、愛国地主金鼎富についての話を聞くだけで十分であろう。



 


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