金日成主席『回顧録 世紀とともに』

5 白頭山密営


 
白頭山密営があった小白水の渓谷 

 我々が漫江村を発ったのは、季節外れのジャガイモの花がいまを盛りと咲いている8月の末ごろだった。収穫の時期を待っていた火田では、麦の取り入れがはじまっていた。隊伍は黙々と南へ進んでいた。戦友たちは、連隊政治委員の金山虎から若年の伝令兵である崔金山や白鶴林にいたるまで、誰もが白頭山地区進出の意義をあまりにもよく知っていた。

 白頭山は、軍事地形学的見地からすれば「一夫関に当たれば万夫も開くなし」の自然の要害といえた。言わば、守り手には有利で、攻め手には不利だということである。遊撃戦の拡大にあたっては、白頭山にまさる基地はなかった。高麗の尹瓘や李朝の金宗瑞も、ほかならぬこの白頭山地区にあって輔国開拓の重任を果たした。南怡将軍もやはり白頭山の軽石の上で天下平定の雄大な夢を描いた。白頭山こそは、朝鮮人民革命軍がよりどころとすべき最適の砦であった。朝鮮人民革命軍が、白頭山に新しい形態の根拠地を設けて国内への進出を強めるからといって、これまで満州の地でわざわざ開拓してきた活動舞台を放棄するようなことは考えられなかった。白頭山を拠点に朝鮮と中国双方の境域を行き来しながら縦横無尽の戦いを進めようというのであった。

 我々は、天険の白頭山を軍事的要害としてのみ重視したのではなく、それがもつ精神的意味もまた重視した。白頭山はわが国の祖宗の山で朝鮮の象徴であり、5000年の悠久な歴史を誇る民族史の発祥地である。祖宗の山――白頭山を朝鮮人がどれほど仰ぎ見たかは、白頭山将軍峰の裾の天池のほとりにある岩に「大太白・大沢守竜神碑閣」と刻まれているのを見てもよくわかる。国家の存立が深く憂慮された20世紀初に、大倧教や千仏教関係の人物である天和道人によって立てられた石碑である。それは、白頭山を守る天池の竜神がこの国の民に無窮の安寧を与えてくれることを祈願したものだった。

 白頭山にたいする崇拝は、とりもなおさず朝鮮にたいする崇拝であり、祖国愛であった。わたしが幼いころから白頭山を祖宗の山としてとくに愛し崇拝してきたのは、朝鮮民族としての自然な感情であった。高句麗の領土拡張時期の扶芬奴や乙豆智の話を聞き、南怡将軍の雄渾な詩句を口ずさみ、尹瓘や金宗瑞の輔国開拓の話に耳を傾けながら、わたしは白頭山に宿る烈士たちの愛国精神に感動し魅せられたものである。成長するにつれてわたしの心にますます高くそびえ立ってきた白頭山は、朝鮮の象徴であると同時に、解放壮挙の象徴となった。白頭山に陣取ってこそ民族の総力を抗争の広場に呼集し、その抗争の最終的勝利を達成することができるという思想は、1930年代前半期の抗日革命闘争がもたらした総括であり、当然の帰結でもあった。

 漫江から白頭山へ行くには、多谷嶺を越えなければならなかった。多谷嶺は、山里で老いた狩人でさえ方角を見失いやすい太古の原始林に覆われていた。3か月前に先発隊の使命をおびて長白に派遣され、任務を果たして帰ってきた金周賢が案内役になって隊伍を導いた。彼が引率した小部隊は白頭山方面に進出し、その一帯の敵情と地形を偵察し、住民の動向を調べながら手ごろな密営候補地を探索する一方、部隊の進出路を首尾よく開拓していた。我々は漫江川に沿って谷間の奥に足を向け、多谷嶺のうっそうたる原始林に踏み込んだ。季節からすれば夏はまだ終わっていなかったが、高山地帯の広葉樹は、色付き、冷気がただよっていた。

 我々は多谷嶺を越えるこの行軍途上で、26回目の国恥日(朝鮮が日本に併呑された1910年8月29日)を迎えた。漫江を発った我々が足ごしらえをし直して南下行軍を急いでいたその時期はまた、第7代朝鮮総督に任命された日本陸軍大将南次郎のソウル到着とほぼ時を同じくしている。わたしは撫松県城戦闘の前に、宇垣一成の後任として南次郎が総督に任命されたことを紙上を通じて知っていたし、彼が我々と前後して朝鮮に踏み込むであろうことも推測していた。南次郎のソウル到着と朝鮮人民革命軍の白頭山進出が相前後したことは、我々の心理に微妙な刺激を与えた。

 日本の朝鮮占領が厚顔無恥な強盗行為であったことは、周知の事実である。彼らは当初からその占領を合法的で正当なものと描写したが、「併合」はあくまでも徹底した強盗行為であった。強盗には強盗なりの生活哲学がある。他人のものを強奪しておきながら、それを取りもどそうとする主人を逆に強盗だと強弁するのである。盗人猛々しいのたとえどおり、日本帝国主義者が朝鮮人民革命軍にたいする卑称「匪賊団」「馬賊団」「共匪団」といった類の表現は、いずれもそうした強盗の論理によって考案された蔑称である。強盗が羽振りをきかせる世の中では、すべてが逆になるものである。招かれざる客の南次郎はわがもの顔で白昼堂々とソウルに足を踏み入れるのに、主人である我々が道なき密林をかきわけ自分の国にひそかに入らなければならないとは、なんと痛嘆すべきことか。

 多谷嶺を越えると、わたしは本来の行軍計画を変更し、鴨緑江沿岸を迂回して白頭山へ入ることにした。国境地帯の人民にも会い、国内の同胞に我々の銃声を聞かせようという考えだった。我々が最初に立ち寄ったのは徳水溝だった。部隊には、李済宇と亨権叔父が指導した長白地方の地下組織で長年、青年運動にたずさわって入隊した大徳水出身の姜現aという新入隊員がいた。彼が革命軍に入隊したのは、我々が撫松地方で活動していたときだった。彼はアヘンを持ち歩きながら牛商いのために撫松に足しげく出入りしているうちに、工作員の斡旋でわたしに会い、遊撃隊にも入隊した。我々は、姜現aや金周賢の先発隊を通じて徳水溝一帯の住民の動向を具体的に調べた。

 徳水溝は、長白一帯の住民地区のなかでも革命化がもっとも進んでいた土地である。そこには3.1人民蜂起後、独立運動家たちによって開拓された反日愛国闘争の伝統と、その闘争を通じてたえず鍛えられてきた信頼できる大衆的基盤があった。徳水溝は、姜鎮乾の指導した独立軍の本拠地だった。独立軍は、徳水溝に4年制の小学校を設立し、青少年と農民の啓蒙活動にもあたった。八道溝にいた当時、わたしの父もしばしばこの地に足を運んだものである。独立軍関係団体の解体によって独立軍運動が衰退期に入っていたころ、李済宇の武装グループが「トゥ・ドゥ(打倒帝国主義同盟)」の綱領をかかげて徳水溝に進出し、軍事・政治活動を展開した。李済宇が逮捕されたあとは、亨権叔父が、崔孝一、朴且石とともに徳水溝を拠点に、この一帯の大衆を意識化、組織化した。彼らの努力によって、長白地方には白山青年同盟の傘下組織が結成された。この同盟は、政治・軍事訓練所を設置し、多数の政治工作員と遊撃隊の後続隊を育てた。朝鮮革命軍武装グループが国内へ向かい、同盟の少なからぬ幹部が投獄された後も、同盟員たちは地道な地下闘争をつづけた。

 我々は、多くの愛国志士と共産主義者によって啓蒙され革命化された大衆的基盤に期待をかけていた。部隊が徳水溝付近に到着すると、金周賢は、先発隊として活動したときに信頼できる人物として目星をつけておいた廉仁煥老の家にわたしを案内した。部屋のどこを見ても貧窮にあえぐ田舎医家と見てとれた。鍼術にたけていて徳水溝一帯はもとより、長白、臨江、さらには鴨緑江の向こうからもそりや牛車で招かれるという評判の医者でありながら、薬の元金すら回収できず、妻は毎日パガジ(ひさごの容器)をチマに隠して米をもらい歩く有様だったという。以前、医院の看板をかかげていた八道溝と撫松時代のわが家を思い起こさせる暮らしだった。

 廉老人はすすんでわたしの脈をとり、過労のうえに食をおろそかにしたため気力が衰えていると言って、野生の朝鮮人参を一本差し出した。漫江の許洛汝老も我々との別れぎわに、保養の足しにと張哲九と白鶴林に野生の朝鮮人参を何本か渡したという。

 「日本軍と満州国軍が、撫松で、金将軍の率いる抗日連合部隊にやられて数百人もおだ仏になったと聞きましたが、本当ですかな?」

 老人の質問だった。撫松県城戦闘のニュースは、すでにここまで伝わっているようだった。わたしが本当だと答えると、老人はひざを打った。

 「よくぞやってくれました! これで朝鮮も生き返ったようなもんですわい」

 我々に1夜の宿を提供し、1食のジャガイモ入り麦飯を供応したかどで、後日、廉老人は、二道崗警察署に引っ立てられて虐殺された。老人がこうむった不幸を思い起こすと、いまでも身震いがする。いつか小部隊を率いてその地方を通過した機会に、わたしはわざわざ廉老人の墓を訪ね、神酒をついでお辞儀をした。

 翌日、我々は、夜明けの露を踏んで大徳水に向かった。眼下に村が見下ろせる台地で、蒸したジャガイモで簡単な朝食をすませた。李東学中隊長には、旗竿を用意し、大徳水におりていくとき隊伍の先頭で旗を高くかかげ、ラッパを吹き鳴らすよう指示した。萎縮している人民に朝鮮人民革命軍の威風堂々たる姿を見せてやりたかったからだ。我々を迎えた大徳水住民の喜びと驚きは大変なものだった。新式の小銃に機関銃までそろえた数百名の朝鮮の軍隊が白昼に、それも旗をかかげ天地をゆるがすラッパの音を響かせて現れたのは、村はじまって以来のことだという。

 わたしは、この土地の人たちにも漫江でのように演劇を見せるつもりで仮設舞台を準備させた。ところが、昼食後に幕をあけようとした公演計画は実現できなくなった。食膳に向かおうとしたとき、不意に敵が押し寄せてきたのである。それで黄色く実った麦畑をはさんで戦闘がはじまった。すっかり実った穀物に被害が及ぶのではないかと気をもんだことをいまでも覚えている。敵は麦畑の向こうから、うねまづたいに接近してきた。敵が麦畑をほとんど抜け出すのを待って射撃の合図をした。隊員は、この戦闘で見事な腕前を発揮した。敵は数十名の死傷者を出し、二道崗方面へ退却した。これが長白に進出しての初の戦闘だった。大徳水で響かせた初の銃声によって、我々は朝鮮人民革命軍が白頭山に進出したことを祖国の人民に知らせ、敵にも知らせたのである。

 村は、祝日のようににぎわった。隣村の人びとまで大徳水に集まってきて、我々の勝利を祝ってくれた。村人はジャガイモの餅やノンマ麺(ジャガイモの澱粉でつくった麺)をつくってもてなし、隊員たちは歌と踊りでそれにこたえた。わたしがアジ演説をぶつと、それは大きな反響を呼んだ。カイゼルひげの老人はこう言った。

 「将軍が、白頭山で『朝鮮独立のために戦う気のある者はみなここに集まれ』と号令だけかけてくだされ。そうすれば三千里津々浦々から人びとが雲集するでしょう。わしも腰まがりの老体とはいえ、犬馬の労をいといはしませぬ」

 あとで知ったことだが、こういう励ましの言葉をかけてくれたのは小徳水の[せむしじいさん」だった。この「せむしじいさん」については、「パイプじいさん」もよく知っていた。「パイプじいさん」が軍備団で咸鏡南道通信事務局長を勤めていたころ、「せむしじいさん」はそこで中隊長として活動していたというのである。「パイプじいさん」は、10余年ぶりに感激的な再会を果たした古い戦友を誇らしげに紹介した。

 「せむしじいさん」の本名は金得鉉だった。金世鉉という呼び名は、独立軍当時から使いはじめた仮名だった。彼は先天的なせむしではなく、ただ背骨がひどく曲がっているだけだった。青年のころは、腰のしゃんとした胸幅の広い、釣り合いのとれた体だった。その彼がせむしのように腰が曲がってしまったことには、敬意を表してしかるべきいわれがあった。彼は咸鏡道生まれだったが、「併合」直後の陰うつな時世に生きる道を求めて徳水溝に移住してきた。この土地は、後にしてきた故郷と祖国へのノスタルジアにひたって生きる流浪民の開拓村だった。失った祖国を取りもどし、故郷へ帰る道を開いてくれるという軍備団が徳水溝に組織されると、金得鉉はためらうことなくそれに入団した。彼は軍備団の資金調達のため、13歳の大事な娘を他人の養女にすることもためらわず、武器を手に入れるため内戦たけなわの遠いロシアにまで足をのばし、その戦場にも飛び込んだ。しかし、10余年にわたる献身的な活躍のために、後日、他の団友たちよりも長い監獄生活をしなければならなかった。囚人たちは、日に14、5時間も手動織機による機織り仕事を強要された。少し腰をのばしただけでも、鞭と棍棒が容赦なく背中に打ちおろされた。7、8年もつづいたそのおぞましい苦役は、とうとう金得鉉をいまのような体にしてしまった。「せむしじいさん」は廃人のように見えたが、その胸にひめた愛国の熱情と闘争意欲は少しも衰えていなかった。彼が、李済宇の武装グループに真っ先に吸収されたのはゆえなきことではなかった。彼は金周賢と会ったときから、我々の白頭山進出を一日千秋の思いで待ちわびていたと打ち明けた。金周賢は先発隊として長白へ来たとき、すでに彼と親交を結んでいた。

 簡単な演芸公演と演説を終えてから、わたしは部隊に撤収命令をくだした。村人たちは、なじんだばかりなのにすげなく行ってしまう法があるか、一晩だけでも泊ってほしいと懇請した。それでわたしは、敵が増援部隊を繰り出していつ攻め寄せるかわからないから、我々が立ち去れば村が被害をこうむらずにすむ、と発たざるをえない理由を説明した。撤収のさい、道案内をつとめてくれたのは、ほかならぬ「せむしじいさん」だった。

 わたしは、金得鉉老に「祖国光復会10大綱領」と「祖国光復会創立宣言」をプリントしたパンフレットを手渡した。鴨緑江沿岸に進出してこのパンフレットを与えた最初の人は彼だった。それからしばらくして、徳水地区には祖国光復会の下部組織が生まれた。「せむしじいさん」は十六道溝の一分会のメンバーになった。徳水地区の末端組織のなかでも、その分会がもっとも中核的な組織だった。今日の朝鮮総聯(在日本朝鮮人総聯合会)のように模範分会という称号があったなら、その分会が真っ先に模範分会になっていたはずである。金得鉉老は、数匹の犬を飼っていた。嗅覚が非常にするどいその猛犬のため、密偵や警官はうかつに彼の家に近付けなかった。それらの犬は、不思議なくらい人を嗅ぎ分けた。味方の人ならはじめての訪問者でも吠えなかった。金周賢、金確実、金正淑をはじめ、個別工作に出る小部隊のメンバーや連絡員が徳水地区へ行くと、「せむしじいさん」のおかげをこうむったものである。

 いつか、金正淑は、単独任務をおびて長白県中崗区方面へ行ってきたことがある。我々が白頭山に進出したその年の初冬だった。当時、個別任務を受けて出る者は、道中の食糧として生米ではなく握り飯や蒸したジャガイモのような即席の食べ物を携帯した。間島の抗日根拠地でも、個別任務にあたる連絡員はそうしていた。幾人もの人がグループで行動するときは見張りを立てて炊飯することもできたが、1 人では火を起こして飯を炊くことはできなかった。「山の人」(遊撃隊のこと)のしるしになるからだった。正淑も蒸したジャガイモをいくつか携帯して腰房子を発ったのだが、途中で凍った乾葉(ひば)を食べている老婆と子どもに出会った。正淑は、あまりにも悲惨な情景を目のあたりにして涙を流した。そして、持っていたジャガイモをそっくり渡し、おぼつかない足でやっと山道をよじ登った。後日、正淑は、自分がどう「せむしじいさん」の家までたどり着いたのかわからないと語った。我に返ると、「せむしじいさん」夫婦が自分の両脇に座っておもゆの食器とさじを手にしたまま涙ぐんでいたと言うのである。老夫婦は、おもゆや緑豆のチジム(お好み焼の一種)をつくり、親鶏までつぶして正淑を手厚く介抱した。そういう介抱がなかったら、自分は生きて白頭山密営に帰れなかっただろうと、正淑は解放後もたびたび語ったものである。

 「せむしじいさん」は、我々の密営にも何回となく足を運んだ。不自由な体で援護物資を背負ってきては、機をうかがってそっとわたしの所に来たりした。半截溝戦闘のときにも、彼は道案内をしてくれた。1939年に小徳水の林の中でメーデー祝賀大会を催したときには農民代表として参加し、我々を喜ばせた。だが、1942年初に「せむしじいさん」が病死したという悲報に接した。わたしは白頭山にいたころも、その後も「せむしじいさん」をしばしば思い出したものである。

 1947年11月、設立されて間もない万景台革命学院の院児に着せる制服ができあがったという報告があったので、それを着用した院児の姿が見たくて数名よこしてもらったことがある。そのとき、わたしの家に来た子どものなかには「せむしじいさん」の息子の金秉淳もいた。その後、学院を訪ねた金正淑は、秉淳と個別に会い、遊撃隊時代からの愛用品だった万年筆を握らせ、熱心に勉強するようにと励ました。1949年8月、金秉淳は、真新しい将校服に小隊長の肩章までつけて、わたしと金正淑のまえに現れた。警備小隊長として配置されてきたのである。まったくの奇縁というほかなかった。その日から彼は一日として、わたしのそばを離れたことがなかった。正淑を失った悲しみもともにし、忠清北道水安堡の前線司令部にも同行し、慈江道高山鎮の最高司令部にも一緒に行って過ごした。その後も、彼は長い間わたしのそばにいた。わたしの身近についてまわる「せむしじいさん」の心遣いを感じるたびに、大徳水村で彼が語った話と小徳水台地の月夜を思い起こしたものである。

 小徳水の台地で宿営した翌日、部隊を馬登廠の樹林の中に移動させて休息をとらせた。わたしも草むらに寝ころんで本を読んでいるうちについ寝込んでしまったのだが、そのとき突然、銃声が響いた。十五道溝方面と二道崗方面からきた敵が南北両方からほとんど同時に攻撃してきたのである。うっそうとした森のため彼我を見分けるのがむずかしかった。我々がすばやく抜け出せば、挾撃してくる敵に同士うちをさせる絶好の機会だった。我々は、馬登廠の樹林からこっそりと抜け出して十五道溝の台地に登った。そこで、敵同士の撃ち合いを見物した。これが小徳水戦闘と呼ばれている馬登廠望遠戦闘である。

 その日、敵同士の猛烈な撃ち合いはたっぷり3、4時間はつづいたであろう。見物するのがあきあきするほどだった。敵は長い間撃ち合いを演じていたが、二道崗側がたまらなくなったのか、先に退却合図のラッパを鳴らした。そのラッパの音を聞いてはじめて、十五道溝側も同士うちをしたことがわかったのか、射撃を中止した。数百名の遊撃隊はいったいどこへ消えたのだろうか。影も形もないのだから、まったく不可解なことではないか。敵は、この不可思議な問題の解答を我々の「遁術」に求めたようである。我々が「遁術」を使って「昇天入地」し「神出鬼没」するといううわさが国境地帯に広がりはじめたのは、この小徳水戦闘があってからのことだと思う。その日、敵は、担架が足りなくて、新昌洞の民家の戸という戸をすべて取り外して死体を乗せ、あたふたと逃げ出した。そのため、新昌洞の住民はしばらくの間戸口にかますをかけて過ごさなければならなかった。

 大徳水と小徳水で人民革命軍がとどろかせた銃声は、長白とその対岸の祖国の人民のあいだに大きな反響を呼び起こした。戦闘が終わったあと、ジャガイモ畑が台無しになったことを我々が心配すると、ある農民はこう言うのだった。

 「ジャガイモ畑は駄目になったけれど、悪鬼のような日本軍があんなに無様に転がったのを見ると、豊作のジャガイモ畑を見るよりうれしいですわい」

 その後、徳水溝一帯では幾人もの青年が入隊を志願した。彼らの入隊は、長白地方で革命軍を急速に拡大させる大々的な参軍運動の幕開けとなった。

 人民革命軍の長白進出と軍事的威勢に敵は色を失った。長白地方の警察機関では、警官が集団的に辞表を出し、公職を避ける離職・引退騒ぎが起こった。敵の支配体制には大きな混乱が生じた。二道崗では、集団部落の出入りも正門からではなく裏門からしているとのことだった。

 我々は、長白に進出して軍事作戦だけをおこなったのではなかった。大衆を教育し結集する組織・政治活動も進めた。政治工作員によって徳水溝、地陽渓谷一帯では、祖国光復会の下部組織が随所に結成された。国内でも組織が結成されはじめた。白頭山周辺の各地に結成されはじめたそれらの組織は、新設される根拠地の信頼するに足る政治的基盤となった。小徳水戦闘のあとにも、我々は鴨緑江沿岸の村々を巡りながら、長白県の十五道溝東崗、十三道溝竜川里、二十道溝二終点など、いたるところで戦闘をくりひろげた。鴨緑江沿岸一帯は蜂の巣をつついたように騒がしくなった。

 迂回コースをとった目的は、十分に達成されたことになる。もう白頭山に入って根城をかまえてもよかった。わたしは、金周賢と李東学を先立たせて白頭山密営の候補地へ向かった。主要指揮官と警護隊、それに一部の戦闘中隊が同行した。あとの人員は、長白方面でもう少し騒ぎを起こす任務を与えて残しておいた。金周賢、李東学、金雲信らによって探索された小白水谷は、我々が白頭山地区に定めた国内ではじめての密営候補地だった。小白水谷から西北に16キロほどの所に白頭山がそびえており、8キロほどの地点には仙五山が、東北に6キロほど離れた樹林の中には間白山がそびえていた。小白水谷の後方に長く横たわっている山は獅子峰と呼ばれた。

 我々が部隊を率いて小白水谷に来たのは、家を離れた主人が久々にわが家に帰ってきたような慶事だった。抗日革命という大きな歴史の流れからすれば、活動の中心を東満州から白頭山に移したといえる。家を離れていた人が再びわが家に帰ってくれば、それは隣近所の慶事でもあるのだ。しかし、ある詩人の詩にもあるように「山鳥も寂しさにたえかねて飛び去ってしまう」という白頭の深山奥地の小白水谷には、祝ってくれる隣人とていなかった。我々を迎えたのは、そよぐ樹林と谷間のせせらぎのみであった。祖国の人民はまだ、我々が小白水谷に進出したことを知らずにいた。隊伍を組んで40キロさえ行けば、両腕をひろげて我々をあつく抱きとめてくれる祖国の人民といくらでも会うことができた。しかし、その40キロ向こうには、銃剣をかざして我々を狙っている島国の招かれざる客がいた。その客さえいなかったら、白頭山の雪崩のように一気に駆け下りて、愛する人民と感激的な対面をすることができたはずである。しかし、戦いのみが祖国の同胞との出会いをもたらしてくれるのであった。我々は、その戦いのために白頭山地区に進出し、その戦いのために小白水谷に根城を定めたのである。あのとき、わたしとともに小白水谷に来た人たちは、自分たちが根城としたその深い谷間が後日、世界中の人が訪ねてくる名高い史跡になるとは思いもしなかった。我々は足跡を残さないように、落葉がたえまなく流れてくる小白水の流れにそって谷間の奥へさかのぼっていった。

 今日、小白水谷を訪れる人びとは、ここが半世紀前までいかに太古然とした寂寞の地であったかを想像だにできないだろう。観光バスや人びとが頻繁に行き交うりっぱな舗装道路、高級ホテルに比べてもさほど遜色のない踏査宿営所や宿営所村、四季にわたって絶えることのない行列と歌声――いまは、これらがかつての静寂と清爽に取って代わったが、我々が最初に足を踏み入れた当時は、けもの道すらほとんど見当たらない原始林地帯だった。開闢以来の姿をそのままとどめていた当時の小白水谷は、そのすぐれた景観と天険の要害ともいうべき地勢からして、わたしの気に入った。小汪清の馬村にいたころ、遊撃隊の指揮部が陣取っていた梨樹溝谷の地形も申し分なかった。谷が深く山容も険しくて、敵が簡単には近づけなかった。まれに忍び込むようなことがあっても、撃退するのに好適の地勢だった。獅子峰の下方の合流点から白頭山密営の候補地に入る小白水谷の地形と山容は不思議なくらい小汪清の梨樹溝谷と似ていた。若干違うところがあるとすれば、梨樹溝谷より小白水谷の方が奥行きがあり美しいということだ。谷に深く入っていくにつれ、その違いははっきりしてくる。千山万嶽を従えた白頭霊峰のひだに位置する谷間であるため、やはり谷に深みがあり、山容も雄大だった。

 我々は日暮れ前に、将帥峰の向かい側の山裾と小白水のほとりにテントを張ってその夜を過ごした。わたしは3、4時間以上眠ることはほとんどない。山で戦っていたころも、だいたい午前2時ごろには決まって目を覚まし、灯を点して読書したものだが、その晩は疲れきってそれができなかった。朝起きてみると、霜が降りていた。白頭山地区は、他所に比べて冬が長く、降雪量も多い。この地区に降り積った雪はなかなか解けない。6月の末か7月の初旬まで残雪が見られるかと思うと、9月下旬か10月初旬には山頂を薄化粧する初雪を見ることができる。雪が積り積って人の背丈を越すことも多く、そういうときは雪の中にトンネルをつくらなければ行き来ができない。密営の外に出るときは、かんじきをはかないと深い吹きだまりにはまって事故を起こしかねなかった。

 しかし、常時強風と豪雪の脅威にさらされているこのきびしい高山地帯にも四季の区別はあって、我々はそれぞれの季節がほどこしてくれる恩恵にあずかることができた。老黒山戦闘のときチョウセンヤマタバコをはじめて食べてみたが、たいへんおいしいもので、ご飯を包んで食べるとチシャよりも美味だった。オニタイミンガサは長白県十九道溝の李勲の家ではじめて賞味したが、それもやはり風味があった。白頭山地区には、そういう山菜が多かった。チョウセンヤマタバコは大紅湍の野に多く、オニタイミンガサは三池淵付近に、ヤナギヒゴタイは枕(ペゲ)峰に多かった。炊事隊員が摘んでくるそういう山菜が、白頭山の「住民」の夏の食卓をにぎわしてくれたものである。白頭山密営に定着して生活したとき、炊事隊員はカヤ原の端に畑を起こして野菜までつくった。いろいろな野菜をつくったが、白菜と大根はできなかった。だが、チシャとシュンギクだけはよくできた。小白水のイワナもときおり食卓にのった。当時は多くなかったが、いまは養殖に成功してかなり増えている。

 白頭山密営の候補地に入った翌日、わたしは指揮官たちとともにあたりを見てまわった。先発隊が内定していた兵営の位置も見た。そして、幹部会議を開いた。会議では、南湖頭を出発して白頭山に来るまでの遠征について総括した。白頭山にかまえて遂行すべき活動についても真剣に討議し、任務を分担した。会議で討議され、その後、直ちに実行に移された問題を集約して言えば、緊切な課題として提起された白頭山根拠地の創設を積極的におし進めることであった。それは、密営建設と組織建設という2つの意味を包括していた。つまり白頭山根拠地の創設は、白頭山地区に密営を建設することと、白頭山麓の住民地帯に地下革命組織を建設することを意味した。

 我々が1930年代の前半期に東満州に創設した遊撃区と、後半期に白頭山に進出して創設した白頭山根拠地とでは、内容と形態のうえでかなりの違いがあった。前半期の東満州遊撃区は、固定した遊撃区を遊撃活動の本拠とした根拠地で、目に見える公然たる革命根拠地であった。しかし、後半期に創設した白頭山根拠地は、隠蔽された密営と地下革命組織に依拠して軍事・政治活動を展開した目に見えない革命根拠地であった。前半期には根拠地内の人民が人民革命政府の施策のもとで生活し、後半期には地下組織網に網羅された人民が、表面上は敵の支配下にあったが、内実は我々の指令と路線に従って動いた。また前半期には、遊撃区の防御に主力をそそがねばならなかったが、後半期にはその必要がなかった。そのため、遊撃活動を広大な地域で展開できる可能性を得た。言わば、我々は根拠地の形態を変えることによって、主動的な攻め手の位置に立つようになったのである。したがって、根拠地を拡大すればするほど、活動領域はそれだけ広がるようになっていた。我々は白頭山密営を中心に長白の広い地域と、やがては白茂高原、蓋馬高原、狼林山脈へと根拠地を国内深部に拡大し、ひいては武装闘争を北部朝鮮から中部朝鮮をへて南部朝鮮にいたる全国的範囲に広げると同時に、党組織建設と統一戦線運動を拡大発展させ、全人民的抗争の準備も強力に推進する計画だった。

 密営網の創設と地下組織網の建設が、このように我々の存亡と生死、ひいては抗日革命の勝敗を左右する焦眉の問題となっていたため、この問題の解決に第一義的な関心を払わざるをえなかった。まず、密営の建設を第一義的な課題とし、これを各部隊にまかせた。食糧と衣料を解決する課題は金周賢にまかせた。密営の設置と運営のためのこの2つの問題は、俗に言う食・衣・住の問題でもあった。地下組織網の建設を援助する人材を積極的に探し出し、朝鮮人民の士気を盛り上げて解放の聖業に献身するよう必要な戦闘活動を進めることもやはり重要であったが、この2つの課題は李東学の中隊に委任した。

 指揮官たちは、時を移さず白頭山根拠地創設の任務遂行にとりかかった。金周賢と李東学が中隊を率いて出発した。その他のメンバーにも個別の任務を与えて工作地へ送り出したのち、わたしも警護隊と第7連隊の一部のメンバーを率いて黒瞎子溝へ向かった。黄公洞村で別れた部隊の基本メンバーとそこで落ち合うことになっていたのである。

 小白水谷から黒瞎子溝までの道程は、非常に印象的だった。そのとき仙五山と3段瀑布を見たのだが、まったくの秘境だった。我々は道を見失い森林の中で多くの時間を費やした。いまも忘れられないのは、大沢温泉へ行ったときのことである。どの方角へどう抜けたものか見当がつかない樹海のただなかを2時間余りさまよった末に、数組の偵察班を各方面に送ったところ、そのうちのある偵察班が一人の老人を伴ってきた。白頭山の裾で独り暮らしをしているという老人で、漫江の方で塩と粟を求めて帰る途中、偵察班に出会ったというのである。我々は老人に案内されて、大沢にある彼の小屋に行った。小屋のそばには、すばらしい温泉があった。湯がとても熱くて、ザリガニを入れると真っ赤にゆであがるほどだった。我々はそこで沐浴や洗濯をし、ザリガニをゆでて食べたりした。いつかテレビの画面でアイスランド人が冬のさなかに露天温泉につかっているのを見て、大沢で温泉につかったときのことがまざまざとよみがえってきた。わたしは、その老人と多くのことを語り合った。白頭山の裾にまで来て住みついたわけを尋ねると、もとは平地で暮らしていたのだが、時勢が傾くのを見て祖宗の山に登ってきたと言うのだった。

 「どのみち亡国の民の恥を抱いて死ぬのなら、白頭山のふもとで暮らして死にたくなったのです。わたしに千字文を教えてくれた書堂(漢文を教える私塾)の先生はいつも、朝鮮人は白頭山を抱いて生き、白頭山を枕にして死なねばならぬと言っておりました。まったくあの言葉は石碑に刻んでおきたいくらいの金言ですよ」

 眉を寄せて白頭山の方を見つめる老人の視線を追ってはるか彼方を見やると、彼の歩んできた泥沼のような人生の足跡が眼前に広がるようで、おのずと厳粛な心境になった。白頭山麓に生き、白頭山を枕にして死にたいという老人の言葉はわたしを感動させた。

 「で、白頭山での山奥生活の味はどうですか」

 「なかなかいいもんですよ。ジャガイモづくりとノロ鹿狩りの苦しい暮らしですが、日本人の姿を見なくてすむので太るような気がしますだ」

 この老人との話を通じて、わたしは白頭山の存在が朝鮮民族の精神生活においてゆるぎない柱となっていることを改めて確認し、白頭山を革命の策源地としたことがまったく正しかったことを痛感した。隣人もない独り身で、白頭山で晩年を強く生きぬいている彼は本当に愛国的な老人だった。残念なのは、老人の姓氏を聞かないまま別れたことである。羅子溝台地の馬老人のように、この老人にも書物が多かった。温泉浴をすませて大沢を発ち黒瞎子溝へ向かうとき、老人はわたしに幾冊もの小説をくれた。後日我々は、この大沢温泉地に戦傷者や虚弱者のための療養所を設けた。

 我々が黒瞎子溝に到着した後のある日、蚊河地方で活動していた第2連隊のメンバーが訪ねてきた。そのなかには、権永壁、呉仲洽、姜渭竜などがいて、久々に旧懐の情を分かち合った。わたしを訪ねてくるまでの彼らの苦労は並大抵のものでなかったという。寒さのなかを一重の服で飢えにたえながら白頭山へ来る途中、ある木材所を襲って牛を手に入れ、そのうちの2頭は我々のために引いてきた。見る影もなく、やせさらばえた体と破れた夏の軍服姿を見て、わたしは胸が痛んだ。彼らもわたしにとりすがって泣いた。彼らを新しい軍服に着替えさせた。服だけでなく肌着も着替えさせ、脚絆や地下たびも替えさせた。洗面道具もそろえ、それにタバコとマッチも配るようにはからった。

 司令部の命令で蛟河方面から帰ってきた姜渭竜は、朴永純とともに黒瞎子溝、横山、紅頭山地区の各所に密営を設置した。朴永純と姜渭竜は、斧一つで1個連隊が十分宿営できるほどの丸太小屋を2、3日で難なく建ててしまう見事な腕をもっていた。長白地区の密営建設では、おそらくこの二人がいちばん苦労したのではないかと思う。曹国安の部隊のメンバーが黒瞎子溝に来て、我々の部隊の隊員がわずか1日の間に彼らの宿舎を建てる腕前を見て驚いたのも、じつは彼ら2人のせいだったといえる。わたしが黒瞎子溝にしばらく留まっていて小白水谷にもどってきたときには、すでにいくつもの地点の密営地に新しい丸太小屋が建てられていた。司令部と部隊の兵舎、出版所と裁縫所の建物、衛兵所と検問所などが密林のあちこちに生まれた。密営の丸太小屋の戸にノロ鹿の足の把っ手が取り付けられるようになったのは、そのときからだった。粗末なノロ鹿の足の把っ手だったが、わたしにとってはそれが歴史的な時期を画する里程標のように脳裏に刻みつけられている。白頭山のわが「住宅」にノロ鹿の足の把っ手が取り付けられるようになって以来、つまり小白水谷に我々の根城が築かれたときから、白頭山密営は、朝鮮革命の本拠地、中心的な指導拠点となったのである。

白頭山密営の丸太づくりの司令部

 白頭山密営は、朝鮮革命の策源地であると同時に心臓部であり、我々の中核的な作戦基地、活動基地、後方基地であった。まさに、その白頭山密営からやがて、北部、中部朝鮮の各地に数多くの秘密根拠地が扇の骨のようにのびていった。それらの密営から三千里津々浦々に革命の火を点ずるため、権永璧、金周賢、金平、金正淑、朴禄金、馬東熙、池泰環など多数の政治工作員が全国各地に向かい、また、白頭山にわたしを訪ねてきた李悌淳、朴達、朴寅鎮など数多くの人民の代表が新たな革命の火種をいだいて再び人民のなかに入っていった。そして、人民革命軍は敵を求めて出陣した。革命の運命と直結した大小さまざまの事柄が、ほとんどすべて白頭山密営で構想され設計され、行動に移された。白頭山密営網に属する衛星密営は朝鮮方面にもあり、中国方面にもあった。獅子峰密営、熊山(コムサン)山密営、仙五山密営、間白山密営、無頭峰密営、小胭脂峰密営などは朝鮮方面に設置されたものであり、黒瞎子溝密営、地陽溪密営、二道崗密営、横山密営、鯉明水密営、富厚水密営、青峰密営と撫松地区の各密営は西間島方面に設置されたものだった。我々は、必要に応じてあちこちと場所を変え、これらの密営をすべて利用した。

 白頭山地区の密営は、それぞれ異なった使命と任務を遂行した。純然たる秘密兵営の役割のみを果たしたのではなく、裁縫所や兵器修理所、病院といった後方密営の役割を果たすものもあれば、工作員の中間連絡所や宿営所の役割を果たすものもあった。白頭山密営網の心臓部は、小白水谷の密営だった。そのため、当時我々は、小白水谷の密営を「白頭山1号密営」と呼んでいた。いまは「白頭山密営」とも言い、「白頭密営」とも言っている。最大限の安全と秘密保持のため、そこには司令部直属部署のメンバーと警護隊を含めた一部の基幹部隊だけを常駐させ、出入りをきびしく制限し取り締まった。当時我々の所に常駐しない部隊や個々の人物が司令部を訪ねてくる場合も、小白水谷の密営ではなく2号密営(獅子峰密営)へ行って会った。2号密営では、司令部を訪ねてくる部隊や個々の訪問客を迎え入れたり休息させたり、送り出したりし、ときには彼らに講習や訓練もおこなった。2号密営は、司令部を訪ねてくる人のための窓口であると同時に待合所でもあり、面談所であると同時に宿泊所でもあり、また講習所であると同時に訓練所でもあった。司令部を訪ねてくる連絡員の場合も、足跡を残さないようにするため鯉明水の方から登ってきて、小白水谷の入口からは小白水の流れをつたって通わせた。我々は、密営の所在をむやみに教えはしなかった。誰でも知っているのなら、秘密ではなく、密営でもない。白頭山密営とその周辺の密営の所在をつぶさに知っていたのは、金周賢と金海山、金雲信、馬東熙などのように連絡任務をほとんど一手に引き受けていた数名の人と少数の指揮メンバーだけだった。白頭山密営とその他の密営、そして、そこにいた「住民」が、抗日革命が勝利する日まで自己の存在を隠しつづけることができたのは、まったく幸いなことだったといえる。

 わたしにとって白頭山は、青春時代の「わが家」だった。幼いころの故郷の家族とは比べようもない多くの家族が、わたしとともにそこで過ごしながら白頭山の風雪にうたれ、今日の祖国を夢見た。白頭山でわたしと苦楽をともにした、かつての白頭山開拓者のうち、いま生き残っている人はわずかにすぎない。そういう事情は、我々をして次の世代に白頭山のひだひだに宿っているわが党の革命歴史と烈士の闘争業績を紹介し伝えるべき一世としての使命を適時に正しく遂行できなくした。わたし自身も白頭山密営を適時に探してやれなかった。建党・建国・建軍事業、そして戦争、復興建設とあまりにも多くの仕事のため、若いときには白頭山時代の本拠地を訪ねる時間を割くことができなかった。朴永純が生きていたころ、次の世代のために白頭山密営の跡を探し出すよう重ねて言った。しかし、往年のあの敏捷な「大工」も、自分の手で建てた黒瞎子溝や地陽溪、横山の密営の跡や青峰、枕峰、茂浦などの宿営地の跡は探し出しはしたが、白頭山密営の跡はとうとう探し出せなかった。だからといって彼らをとがめるわけにはいかなかった。彼らは、その密営に行ったことがなかったのである。

 結局、白頭山密営の跡は、遅ればせながらわたしが探し出した。久々に暇を得たので、復元された白頭山地区の密営が見たくてそこへ足をのばしたことがある。ところが帰り道、小白水橋のあたりの地形にどうも見覚えがあったので、踏査員たちを小白水谷へ派遣した。100丈余りの切り立った崖岩のある谷間を踏み分けていけば、それほど広くないカヤ原があるはずだから探してみるようにと言った。そして、その谷間は山と山が重なり合っているので、外側からは見分けにくいことをとくに強調した。当時にしても、その地区は恐ろしく険しい所だった。いつだったか、鴨緑江沿岸の参観コースの道路をつくるため、責任秘書と武官に現地踏査をさせたところ、原始林の中で道を見失ってひどく難儀した。それで護衛中隊を送って彼らをやっと捜し出した。じつに迷魂陣に劣らぬ迷宮のような地帯だった。小白水谷に踏み込んだ探査・踏査メンバーは、ついにスローガンを書き記した樹木を発見し、ついで密営の跡と宿営地の跡も探し出した。こうして、朝鮮革命を継承していく次の世代に、昔どおりの白頭山密営の姿を見せられるようになったのである。

 今日、白頭山は、朝鮮革命の2世、3世、4世たちに、1世たちの白頭の革命精神を学ばせる学校となっている。広大な白頭の大地には、大露天革命博物館がつくられた。歴史の流れとともに、白頭山のもつ象徴的な意味は豊富なものになった。事実、白頭山はすでに1930年代の後半期に、その本来の象徴的な意味のほかに、新しい意味をおびはじめた。死火山であった白頭山から噴出した「光復革命」の溶岩は2000万同胞の注目を引いた。抗日革命の炎が及んだ各地を訪ねた作家の宋影は、その踏査紀行文集に『白頭山はどこからも望める』という表題をつけた。この表題が示しているように、我々が白頭山に陣取るようになって以来、白頭山は、どこからも望める解放の活火山、革命の聖山となったのである。



 


inserted by FC2 system