金日成主席『回顧録 世紀とともに』

4 女 性 中 隊


 ひところ朝鮮人は、独立軍唯一の女傑であった李寛麟をさして「万緑叢中紅一点」とたたえたものである。しかし、パルチザンを中核とする抗日の万緑叢中には、朝鮮民族が生んだ数百、数千の赤い花が美しく咲いていた。愛国の一念に燃える朝鮮のオモニや娘たちは、男でさえ耐えがたい肉体的負担と精神的苦痛をへながらも革命の道から退かず、祖国から日本帝国主義を駆逐する聖戦に生命も青春も家庭もささげたのである。そうした誇らしい女性闘士たちを思うと、1936年の春、朝鮮人民革命軍の主力師団の編制とほぼ時を同じくして組織された女性中隊が思い出される。

 南湖頭会議以後、白頭山への進出途上で新しい主力師団とともに女性中隊を別個に組織したのは、遊撃隊伍の急速な拡大発展と抗日武装闘争全般の新たな高揚を示唆する驚異的な出来事であったといえる。女性中隊の誕生、これは封建的束縛によって数千年来、家庭に閉じこめられていた朝鮮の女性が堂々と革命闘争の第一線に立ったことを意味する画期的な出来事であった。いまは女性の社会的地位について語るとき、「革命の片方の車輪」という表現を使っているが、抗日革命の時期には女性が革命の片方の車輪であることを肯定する人は多くなかった。まして、女性が銃をとって男子とともに長期間、武装闘争をつづけることができると考える人はほとんどいなかったと言っても過言ではない。

 正直なところ、わたしも最初のころは女性の参軍は無理だと考えた。女性は男子に比べて肉体的に軟弱だという考え、あの弱々しい体で遊撃闘争のあらゆる重荷を担うことは不可能だという先入観がわたしの頭を支配していたのである。もちろん、かつて外来侵略者との戦いで世人を驚嘆させる功労を立て、賛嘆の対象となるエピソードを残した女性たちがいたことを知らないわけではなかった。敵将小西飛騨守如安を討ちとるのに手を貸した平壌の名妓桂月香や晋州の論介のような愛国女性の武勇伝はあまりにもよく知られている。『壬辰録』を読んだことのある人なら、幸州山城の戦いがいかに激烈をきわめ、その戦いで果たした女性の役割がいかに大きなものであったかを生々しく記憶していることだろう。権慄将軍が京畿道高陽郡の幸州山城に背水の陣を敷き、山城を包囲した3万余の日本侵略軍と手に余る決戦をつづけているとき、地元の女性たちは投石戦を展開している味方の兵士たちにチマに石を包んで熱心に運んだ。幸州山城の女性のその短い愛国チマは後日、朝鮮の主婦が台所仕事をするときやおしゃれ用として着けるスマートなエプロンになった。幸州山城の戦いに由来するそのエプロンは「ヘンジュ(幸州)チマ」と呼ばれている。高麗時代に男装して戦場に駆けつけ、契丹の侵略軍を撃退する戦いで武勲を立てた雪竹花の話もまた有名である。

 歴史は雪竹花のような個々の女傑の参戦物語はいくつか伝えているが、純然と女性だけで組織された戦闘部隊が勇躍戦場におもむき、白兵戦を展開したという記録はこれといって残していない。しかし、我々の展開した遊撃戦では、女性が看護婦や裁縫隊員、炊事隊員といった補助的な役割だけでなく、戦闘員としての使命も同時に果たさねばならなかった。いったん、入隊と決まれば、女性も冷酷な戦争の論理に従って動かなければならない。戦争は女性だからと、人道主義をほどこしはしない。状況によっては男子と同じように重い装具を担い幾日も強行軍をつづけなければならず、凍りついた地面に腹ばいになって銃撃戦を交えたり、ときには白兵戦にも参加しなければならない。政治工作や食糧工作のため敵地に派遣されることもあり、肌を刺す酷寒のなかで土工作業などもしなければならない。積雪寒冷のさなかに露宿しながら何年、何十年戦わなければならないのか、それもわからない。こうした難関に果たして女性がたえられるだろうか。こういう死地に女性をおもむかせるのが果たして正当なことだといえるだろうか。いくら考えても心が定まらなかった。

 吉林時代から我々の運動圏内で活動したメンバーのなかには、わたしに入隊の意思を示した女性が少なくなかった。韓英愛も遊撃闘争に参加させてほしいと泣いて願い出た。だが、わたしは東満州に向かうとき、無理やりに彼女を北満州に残した。吉林時代の少年会員のなかにも、入隊したくて敦化までついてきた女性がいたし、中部満州から手紙で入隊の意思を伝えてきた女性もいた。いずれも愛国の一念に燃えた願いではあったが、そうした要望を聞き入れてやることができなかった。当時わたしの頭の中には、女性が武装闘争に参加したいというのは出すぎた欲だ、それは男のやることだ、女性にはそれなりの仕事がある、女性を家庭から引き出して社会革命に参加させるのはよいが、武装闘争までやらせることはできないではないか、という考えがなきにしもあらずだった。

 武装闘争の準備が進み、各地で遊撃隊があいついで組織されるようになると、入隊を熱望する女性の声はいっそう高まった。地下組織で活動していた女性のなかには、他人がなんと言おうと強引に遊撃隊にやってきては、うむを言わせず居座ってしまう者も少なくなかった。形勢がこうなると、我々も女性の参軍問題を正式に論議せざるをえなくなった。女性参軍の問題が話題にのぼると、一部の既婚者は言下にその可能性を否定してしまった。女性は家事をつかさどり男子は外で活動するのが祖先伝来の慣例だ、李寛麟がひところピストルを腰にさげて独立軍について戦ったのは事実だが、それは千に一つというケースであって、普通の女性がどうして険しい山を駆けめぐり、男子でさえ苦しがる遊撃活動ができるというのか、女性を戦地に引き出すのは冒険だ、と言うのだった。さらには、女性の参軍問題など論議する余地もないと言い張る者もいた。

 しかし、車光秀をはじめ他の同志たちは、そういう主張を即座に一蹴してしまった。――きみたちは、人類史に母権制が長い間存在し、その母権制のもとで男子が女性に保護されて暮らしてきた時代があったことを認めるか。わが子が火の中にあれば、そこに真っ先に飛び込むのも女性だ。まして、国が血涙にひたされているというのに、女性だからといってどうして腕をこまねいていられるというのか。女性の参軍は、我々の姉妹自身の要求であるのみか、時代の要請でもあることを知るべきだ―― 結局、女性の参軍をめぐる論争は見解の一致にいたらず、空転を重ねた。我々は青年男子で遊撃隊を組織したのち、形勢を見ながら後日論議し直すことにした。

 ところが、こうして棚上げにされていた女性参軍の問題が、なんの意見の衝突もなく全員一致であっさり決まったのである。その契機となったのは、武器奪取のための間島の女性たちの闘争ニュースだった。和竜県の大胆な2人の女性がきぬた棒で日本人巡査を叩きのめして小銃を奪い取ったという快報が舞い込んできて、女性の参軍に反対していた人たちの口を封じてしまったのである。間島全土が武器を手に入れるために立ち上がっていた時期であった。組織を通じて武器獲得の重要さと切実さを知った18歳のうら若い金寿福は、敵の武器を奪う方法を考え抜いた末、同僚の娘と連れ立って洗濯用のくり鉢を頭にのせ川辺の一本橋のたもとに行った。数日前の大雨で橋は流され、杭しか残っていなかった。2人は終日そこで洗濯するふりをしながら機会がくるのを待った。日暮れどきになってようやく日本人警官が1人現れ、おぶって川を渡せと命じた。金寿福が警官をおぶって川に入ると、もう1人の娘も手を貸すふりをして付き添った。川の真ん中まで来ると、金寿福は靴が濡れるとばたつく警官を水中に押し込み、きぬた棒でめった打ちにした。虐殺された両親の名で復しゅうをとげ武器を奪った2人の娘は、1933年の夏に抗日遊撃隊に入隊した。そのとき以来、金寿福には「きぬた棒」というあだながついた。後日、人民革命軍の主力部隊で裁縫隊の責任者を勤めた朴洙環もやはり、きぬた棒で敵兵を倒して武器を奪った女性である。数名の女性が組んで警官たちに酒を飲ませて何挺もの武器を奪い取った例もあった。いかなる証書といえども、彼女らが奪った武器のようには、朝鮮女性の到達した精神的高さと意志を力強く証言することができないであろう。朝鮮の北部国境地帯と満州の各地域では、女性がみずから奪取した武器を手にして武装隊伍に加わっていた。

 女性たちのこの急進的な進出と深刻な変化はなにを物語るのであろうか。野菜づくりでもしながら不運を嘆いていた女性が、数百年来がんじがらめにされてきた封建的束縛から大胆に抜け出し、勇躍武力抗戦に参加するまでになったのはなぜだろうか。それは、武器をとる以外には、生きる道のない朝鮮女性の過酷な生活がまねいた必然的な帰結であった。女性が代々受け継いだ遺産は、束縛の鎖と怨恨だけであった。朝鮮封建社会の最大の罪悪の一つは、男尊女卑の戒律により、すべての女性を無人格の存在として束縛し卑しめたことである。女性は、子どもを産み、食膳をととのえ、手がふしくれだつほど野良仕事をし、機を織る、一家の下女同様に考えられていた。若くして夫に死なれても、後家を通して死なねばならないのが女性であり、身売りを強いられるのも女性だった。朝鮮を占領した日本帝国主義は、そうした不幸のうえに女性の道具化、商品化という二重の不幸を、強い亡国の民という致命的な烙印を押した。

 抗日革命は、そうしたすべての厄運と不条理の根源を払拭してしまう暴風であり、朝鮮の女性を革命の道に導いた世紀の出来事であった。朝鮮の女性は、ペンではなく、鮮血によって大地に自己の新しい歴史を記しはじめたのである。

 女性入隊者の数が増えるにともない、我々は彼女たちをいっそういたわるべきだと考えるようになった。銃を握ったとはいえ、女性はやはり女性なのだから、遊撃戦を進める困難な状況下でも女性らしい生活ができるようにしてやらねばならなかった。遊撃隊の隊伍に女性隊員が生まれたときから、我々はつねに妹の面倒をみる気持ちで彼女たちに特恵をほどこした。銃もいちばんよいものを与え、寝所もいちばん心地よいところに定め、戦利品もいちばんりっぱなものを選って分け与えた。そうする過程で、その特別待遇をさらに高め、女性隊員の隊伍を別個に編制して彼女らの生活単位と軍事行動単位を一元化する必要性を感じた。女性だけの中隊を別個に組織すれば、革命的自負と熱意をいっそう高め、自覚と戦闘力を最大限に発揮させることができ、生活上の不便も少なくすることができると考えた。それでなくても、戦闘員に加えてほしい、銃をとって両親や兄を虐殺した敵を何人かでも倒して恨みを晴らしたいというのが、女性隊員の一致した願いであった。裁縫隊、病院、炊事隊を問わず、すべての女性隊員が異口同音にそういう願いを切々と吐露した。

 わたしが司令部直属の女性中隊を編制しようと決心したのは、撫松で新しい師団を編制するときだった。そのとき新しい師団の根幹となった100余名の民生団(日本帝国主義の手先団体)嫌疑者のなかには、張哲九、金確実をはじめ女性隊員が少なくなかった。民生団嫌疑者の調書が焼却され、それまでの民生団嫌疑者が全員無罪と宣言されたニュースが広がると、あちこちに隠れていた「民生団」の連累者たちが我々を訪ねてきたのだが、そのなかにも少なからぬ女性がいた。李桂筍、金善、鄭万金などがそういう女性だった。布団包みを頭にして現れた朴禄金のように個別にやってきた女性隊員も多く、大碱廠と五道揚岔で独自に活動していて、新師団に編入された群小部隊と一緒に集団的に入隊した女性隊員も多かった。

 わたしが迷魂陣密営に行ったとき、そこにいた裁縫隊の金戊Mと許成淑が戦闘部隊にまわしてくれとせがんで、いくら説得しても聞き入れようとしなかった。裁縫隊の全員が、是が非でもわたしについて行くと言うのである。きみたちがみんなわたしについて来てしまったら、軍服は誰がつくるのだと言うと、肩代わりできる病弱な女性隊員がいくらでもいるとのことだった。確かめてみると、迷魂陣密営には、裁縫隊、病院、炊事隊に必要な人員を十分割り当ててもなお余るほどの女性隊員がいるのは事実だった。残りの女性隊員は、戦闘中隊に繰り入れるか、さもなければより効果的な対策を立てなければならなかった。それでわたしは、テストケースとして女性中隊を別個に組織してみてはどうかと考えた。だが、迷魂陣の女性隊員だけでは一個中隊の人員にはならなかった。わたしは崔賢に、女性隊員たちがどうしても望むなら、女性小隊を組織してみるようにと耳うちをしておいた。

 「女性だけの戦闘中隊を一つ別個に組織してはどうだろうか」

 ある日、朴禄金にさりげなくこう言ってみると、彼女は歓声をあげ絶対賛成だと言った。しかし、金山虎と李東学は首をかしげた。

 「女性だけで満足に戦闘ができるでしょうか。女性だけでは、狂暴な日本軍を相手に戦えそうにありません。中隊と小隊の指揮を男子が受け持ってやるなら話は別ですが…」

 金山虎がこう言った。

 「男が指揮するのでは、女性中隊、女性小隊と言えないではないか。女性中隊なら指揮も女性にまかせるべきだ」

 わたしは彼の意見に同意しなかった。

 「でも、それが可能でしょうか」

 「きみたちは、士官学校や軍事大学を出て指揮官になったというのかね」

 金山虎は言葉につまったが、依然として釈然としない顔つきだった。李東学も「女性中隊か、女性中隊か…」とつぶやきながら首をかしげた。わたしが女性中隊の話をもちだすと、金周賢はただちに拒絶反応を示した。女性だけの中隊を編制して戦場に送り出せば戦いが失敗するのは目に見えている、そうなれば朝鮮人民革命軍の威信はどうなるのか、と言うのだった。漫江付近で女性中隊組織の準備が進められていた1936年の4月ごろ、前ぶれもなく男女混成部隊がわたしの前に現れた。男女混成とはいっても、男子は4、5名にすぎず、あとは金戊M、許成淑、崔長淑、黄順姫をはじめ全員が女性だった。わたしが金戊Mに、病身の崔賢を置いてなぜここに来たのかと尋ねると、ほかならぬその崔賢の指図で来たと言うのである。床を上げた崔賢は、女性隊員たちに戦闘部隊にまわしてほしいとしつこくせがまれ、そのなかから健康な女性隊員を選んで小部隊を編制し、将軍の所に行けば願いがかなえられるだろうと言ったとのことである。女性隊員たちからもちこまれた無理難題をわたしに押しつけ、彼女たちの運命までもわたしの処理にまかせようという魂胆に違いなかった。この女性小部隊の隊長は、趙という弱輩の男子隊員だった。ひよこのような新入隊員が女性小部隊の隊長になって隊伍を率いてきたのがどうも不釣り合いだったので、そのわけを聞いてみると、許成淑は「わたしらのようなチマ族が崔賢同志の眼中にあるはずがないではありませんか。炊事当番をさせるくらいが関の山で、隊長をさせるはずがありませんよ」と小鼻をふくらませた。副責任者もやはり太炳烈という小柄の年若い新入隊員だった。しかし、実際に隊伍を管理し率いてきたのは、見るからに大柄の崔長淑だった。彼女は銃と背のうのほかにも、米をぎっしりつめた袋が入っている鉄釜と炊事道具、それに斧やのこぎりまで背負ってきたのだが、荷物のほうが人より大きいくらいだった。許成淑の荷もそれに劣らなかった。正直に言って、それまで遊撃隊生活をしながら、男女を問わずこの2人のように大きな荷を背負った隊員を見たのははじめてだった。崔長淑の荷をおろしてやったが、それはわたしの力にも余るほどだった。

 「100人力だ!」

 わたしが感嘆すると、太炳烈が「長淑姉さんはギョーザをいっぺんに100個もたいらげるんです。60個をぺろりとたいらげ、歩哨勤務を終えてからまた40個たいらげてもきれいに消化してしまう女大将なんです」とおどけた。とたんに爆笑が起こった。崔長淑は太炳烈を横目でにらみつけながら、それは真っ赤な嘘だと弁明した。

 「それがどうしてうそだというのだ。ギョーザをいっぺんに100個ぐらいたいらげられなくては、こんな大きな荷が担げるかね」

 わたしが太炳烈の肩をもつと、みんなはまたひとしきり笑いこけた。

 その日、わたしはそれとなく男女隊員の力くらべを仕組んだ。熊のような怪力といわれている男子隊員を呼んで、まず許成淑の背のうを背負わせてみた。彼は幼いときから野良仕事で鍛えられた人で、汪清一帯では指折りの相撲取りとして知られていた。餅を水につけて35個も食べたという大の餅好きでもあった。彼は、許成淑の荷を担いで難なく立ち上がった。わたしは套筒(旧式小銃の一種)を2挺肩にかけてやりながら、その状態で休憩せずにどれくらい行軍できそうかと尋ねた。4キロくらいは休まずに行けそうだとのことだった。今度は、崔長淑の荷を担がせてみた。彼は地面に手をついてやっと立ち上がった。さっきと同じように套筒を2挺肩にかけてやり、これならどれくらい行軍できそうかと聞くと、せいぜい2キロくらいだと答えた。崔長淑にその荷を背負ってどれくらい行軍したのかと尋ねると、てれて答えなかった。彼女に代わって金戊Mが、大蒲柴河で戦闘したあと、ここまで休みなしで行軍してきたと答えた。それを聞いて全員が目を丸くした。大蒲柴河からここまでならほぼ40キロの距離である。男子隊員と崔長淑の力くらべでは、崔長淑が勝ったわけである。

 わたしは、大蒲柴河付近での女性小部隊の戦闘について許成淑に語らせた。許成淑は、顔が浅黒く、体格のがっちりした女性隊員だった。人情に厚い反面、口数が少なかった。だが、必要なことは直截に言ってのける一本気な性分だった。崔長淑を「先鋒大将」とする女性小部隊は、わたしを訪ねてくる途中、食糧が切れて苦労した末に山中である反日部隊に会い、彼らとの共同作戦で大蒲柴河付近の集団部落を奇襲した。女性隊員たちは、その戦闘で男子隊員に劣らぬ闘魂を発揮した。反日部隊はりっぱな新式小銃をもっていたが、退却していた満州国警察隊が反撃に転ずるや、臆病風に吹かれてクモの子を散らすように逃げ出した。しかし、崔長淑らの女性小部隊は、旧式の套筒で敵を物の見事に撃破した。さらには、反日部隊が占めていた地点に攻め寄せる敵までも一手に引き受けて掃滅した。とくにその日、犠牲的に戦ったのは、歩哨に立っていた女性隊員だった。彼女は、脇腹に銃創を負って血を流しながらも、頑強に敵を牽制した。彼女の射撃で敵兵がつづけざまに倒れた。敵が死体を引きずって逃げはじめると、女性隊員たちは喊声を上げて突撃に移った。反日部隊の隊長は逃げ出す部下たちに向かって、「この意気地なしめら! 朝鮮の女たちは套筒でもあんなに勇敢に戦っているというのに、おまえらは逃げ出すのか!」と怒鳴った。隊伍から離脱した反日部隊の隊員たちは、そのときにやっともどってきて追撃戦に加わった。戦闘は勝利のうちに終わった。この戦闘談を聞き、誰もが女性隊員たちの勇敢さと大胆さ、堅忍不抜の精神に感嘆した。

 1936年4月、漫江付近の林の中では女性中隊の誕生が正式に宣言された。この中隊は、司令部直属にし、小隊と分隊もわたしが編制してやった。初の中隊長には、朴禄金が任命された。この女性中隊は、わが国の建軍史上はじめての女性戦闘区分隊であった。女性中隊の誕生は数千年来、宿弊となっていた男尊女卑の思想と因習を打破し、女性の精神的・社会的地位を実際に男子と同等の地位につけた一つの出来事であった。古来、男尊女卑がもっとも甚だしく適用され発現したのは、政治分野よりも軍事分野である。もちろん、政治分野でも女性の参政権はほとんど認められなかった。だが、男性にたいする魔力のごとき女性の陰の支配力や影響力が政治や政治家に及んで、国の存亡まで左右した例は多い。しかし政治分野では、ときとして帝王や軍司令官をしのぐ力があったという女性も、軍事分野ではこれといった力を発揮することができなかった。軍事は、ほとんど男子の独壇場となっていた。我々は軍事分野での男女平等を実現することにより、それが革命軍に限られたものであるにせよ、女性解放を実際のものにしたのである。

 女性中隊の出現は、朝鮮人民革命軍の全民族的な幅と人民的な性格をきわだたせたという点でも意義があった。革命軍に女性中隊があり、その隊員が男子の軍人に劣らずりっぱに戦っているということは、やがて全民族の知るところとなり、世界を驚嘆させる意義深い話題となった。1930年代後半期の朝鮮国内の新聞に、「金日成部隊には女性隊員も10 余名」という記事が載ったことがある。短い記事だったが、それが朝鮮人民の心に投じた波紋は非常に大きかった。女性が男子と同じく銃をとって抗日武装隊伍で勇敢に戦っているというニュースは、朝鮮のすべての女性と人民大衆を大いに力づけた。そのニュースは、国内と海外で人民革命軍への入隊を熱望する無数の志願者を生んだ。

 女性中隊を組織した後、我々はそれが独り立ちできるように細やかに気を配って導き、実戦を通じて鍛えた。女性隊員の政治的熱意と自覚を高めるため、機会あるたびに感化に役立つ話もした。小湯河に留まっていたとき、女性中隊員にキム・スタンケビッチの話をしてやったことが思い出される。キム・スタンケビッチとは、ロシアに生まれ育ち、共産主義偉業に生涯をささげた有名な朝鮮の女性闘士である。本籍地は、咸鏡北道慶源郡(セッピョル郡)である。彼女は師範大学を卒業すると小学校の教師になったが、ロシア領内に来る同胞と亡命者が増えてくると教壇を去ってウラジオストクヘ行き、ロシア各地に散らばっている朝鮮人労働者の権益を擁護して献身的にたたかった。ツァーが打倒されたのち、ボルシェビキに入党した彼女は夫と子どもらを家に残して10月革命の獲得物を守る職業革命の道に立った。そして、ハバロフスクのボルシェビキ極東部で対外活動を担当する一方、朝鮮独立運動家の李東輝、金立らに働きかけて韓人社会党を組織するよう熱心に後押しした。彼女のめざましい活動は沿海州はもとより、ロシア全土の朝鮮同胞の賛嘆の的となり、積極的な呼応を受けた。極東地方の形勢が反革命に有利に変わり、ボルシェビキ極東部がハバロフスクから撤収することになったとき、彼女は最後まで残り後始末をつけてから汽船に乗った。しかし、不幸にもアムール川の船上で白衛軍に捕われ、銃殺された。最期の瞬間に彼女は敵に向かってこう叫んだ。

 「わたしは、死を恐れはしない。卑劣で悪辣なおまえたちの命も長くはない。喪家の狗のごとき輩が共産主義を倒すというのは妄想だ」

 そのとき、彼女の年は34歳だった。キム・スタンケビッチとともに、雪竹花、桂月香、柳寛順、李寛麟など有名な女傑たちも女性隊員の親しい精神的朋友となった。

 女性中隊は、誕生するやいなや人びとの注目を浴びた。どこへ行っても人民の愛情と尊敬を独り占めにした。五角の星が鮮やかな軍帽をかぶり、肩に騎兵銃を担った女性隊員の姿が遠目に見えても、人びとは「女の軍隊が来た!」と叫びながら村中を走りまわった。女性中隊が人びとに格別に愛されるようになったのは、まず女性隊員がいかなる状況にあっても気高く美しい道徳的品性をもって誠心誠意人民を助け、敬い、品行方正だったからである。どの村に駐屯しても、主人の家の庭を掃き清め、水を汲み、台所をかたづけ、畑の草取りをする女性隊員の姿を見ることができた。女性隊員は、村人の前で踊ったりうたったりし、演説をしたり文字を教えたりもした。女性中隊は、朝鮮人民革命軍の誇りであり貴い花であった。

 実際のところ、発足当初の女性中隊の武装は貧弱なものであった。大部分が旧式の套筒であったが、なかにはそんな銃すら持っていない隊員もいた。彼女たちに軽くて格好のよい騎兵銃をになわせたかった。それで数回戦闘をしかけたが、騎兵銃はなかなか手に入らなかった。そのうち、西南岔付近に駐屯している満州国軍の守備隊が馬に乗って歩きまわっているという情報を入手した。偵察を通じて、その守備隊が兵舎を設営していることを知ったわたしは、工事場を襲撃することにし、その任務を女性中隊に与えた。そして、彼女たちを力づけようと、工事場の近くまで同行した。その戦闘はきわめて印象的だった。いまにも大雨が降り出しそうな空模様だったので、敵兵は作業を中止し、歩哨の警戒も緩んでいた。朴禄金中隊長の銃声を合図に、工事場の付近に伏せていた女性隊員はいっせいに飛び出し敵兵の胸に銃口をつきつけた。あちこちから「手をあげろ!」「手をあげろ!」というするどい声が響いた。1人の敵兵が銃架から銃を取って反抗しようとしたが、張正淑がすばやく銃床で殴り倒した。戦闘は10分足らずで終わった。数名を殺傷し、あとは全員捕虜にした。数十挺の狙撃兵器をろ獲したが、残念なことに戦利品の中に騎兵銃は1挺もなかった。捕虜の話によれば、騎兵銃は騎馬巡察に出た者が全部持っていったということだった。彼らは、自分たちを襲撃し生け捕りにしたのが女性遊撃隊であることを知って、驚きを禁じえなかった。

 女性中隊はその後、数々の戦闘で輝かしい偉勲を立てた。大営戦闘や東崗戦闘も女性中隊が見事な腕前を発揮した戦闘である。女性中隊は、どの戦闘でも忘れがたい手柄話を残した。張正淑は大営戦闘のとき弾丸を惜しみ、敵の歩哨を拳で殴り倒して突撃路を開いた。金確実をはじめ3人の女性隊員がおぼろ月夜に、銃弾を1発ずつ撃って敵の警備電話線を断ち切ってしまったという神秘めいた話も東崗戦闘が残したものである。歴史家の話によると、女性中隊の活動については、朝鮮総督府管下の咸鏡南道警察部がかなりの記録を残しているという。そこには、金日成部隊の婦女隊員朴禄金以下40数名が昭和11年(1936年)の陰暦5月初旬、撫松県西南岔の満州国軍守備隊を攻撃したという事実とともに、ほぼ同じ時期に大営を襲撃して小銃10数挺と軍服などをろ獲していったという事実も記録されている。女性中隊による撫松県東崗戦闘の記録もある。

 祖国のために花のような青春をささげた抗日革命烈士の群像を思い起こすたびに、そのなかにいた女性中隊員と大胆無比の女傑たちがしのばれる。女性中隊の初の中隊長朴禄金は中隊をりっぱに統率した。多くの戦友は、彼女の特徴を一言で女傑と表現した。朴禄金が41文(約26センチ)の地下たびをはいていたといえば、おそらくびっくりする人もいるだろう。遊撃隊の戦利品のなかには地下たびなども多かったが、そんなに大きなものはまれだった。そのため、朴禄金はわらじばきのときが多かった。彼女は、汪清にいた当時は区婦女会の主任まで勤めたことのある女性活動家だった。暮らしがあまりにも貧しくて、嫁ぐとき布団1組も準備できず、着古しで婚礼をあげた。夫の姜曽竜の方もやはり赤貧洗うがごとしで、初夜の寝具すらととのえられなかった。夫婦は同時に入隊し、汪清遊撃隊の第1中隊に配属された。ある日、第1中隊の政治指導員がわたしのところに来て、朴禄金がお産をしたのだが、彼女が留まっている実家にはおくるみ一つつくる布切れもないと心配するのだった。その話を聞いて急いで行ってみると、本当に布団はおろか、それらしきものさえ見当たらなかった。男やもめの暮らしで娘の産後の面倒までみるのに弱り切っていた彼女の父親は、あいつぐ敵の討伐で転々と住居を変えてきたので、布団などいつ使ったものやら思い出せないくらいだと言うのであった。赤児は、ぼろに包まれていた。わたしは直ちに小部隊を派遣して、布団用の布を手に入れた。裁縫隊員は夜を徹して、それでふんわりした厚手の夫婦用布団と赤児の布団と衣服をつくって送り届けた。ところが朴禄金夫婦は、赤児の衣服と布団は使いながらも、自分たちの布団は使おうとせず、大きな風呂敷に包んで箱の上に大事にたたんでおいた。身を刺すような寒い日でも、その布団には手をつけようとしなかった。姜曽竜が第7中隊の小隊長になって安図独立連隊へ行ったあと、汪清部隊に残っていた朴禄金は、夫の所属する部隊がわたしの部隊に編入されることになったといううわさを聞き、訪ねる決心をした。実家を発つとき、彼女は例の布団を父親に譲ろうとした。だが父親は、金隊長がおまえたちにくださった大事な布団だからおまえたち夫婦が使わねばならぬと言って、無理やりにそれを持たせた。朴禄金が持ってきた布団包みは、そのまま彼女のあだなになってしまった。戦友たちは、名前のかわりに彼女を「布団包み」と呼んだのである。

 朴禄金は見かけはむっつりしていたが、思慮深く人情味のある女性だった。人あたりがよく、地下工作の適任者でもあった。こういう点を参酌して1937年の初めに、彼女を長白県新興村へ政治工作員として派遣した。彼女に与えた任務は、権永璧、李悌淳を助けて、長白県上崗区一帯の女性を祖国光復会に結集することであった。彼女はその任務の遂行に努めたが、不幸にも敵に逮捕され、投獄された。彼女は李悌淳のように、他人のしたことまで全部自分の仕業だと陳述して、少なからぬ革命家を釈放させた。拷問で血まみれになった同志が意気消沈して監房に倒れていると、革命歌をうたって起き上がらせた。恵山警察署から咸興刑務所に移送されてきた朴禄金は、結核患者が収監されている房に押し込まれた。感染して監獄で死ねというにひとしかった。同房の結核患者は、定平農組事件に連座して逮捕された金という名の女性だった。朴禄金は自分の体のことは考えず、重病のその女性を親身になって看護した。死に瀕したその女性はしばらくして保釈になったが、そのかわり朴禄金が病気に感染して床に臥す羽目になった。仮釈放された女性の家族が恩返しにと絹のチョゴリと餅を差し入れに来たが、監獄当局はそれを許さなかった。一生涯、人のために多くの愛情をそそいできた人情深いこの遊撃隊の女傑は、仮釈放された女性が臨終を前にして示した涙ぐましい誠意すら受けられず、病苦にさいなまれた末、ついに獄中で目を閉じた。

 女性隊員のなかには、馬東煕の妹の馬国花もいた。馬国花は、我々が西間島地方に進出して活動したとき、十七道溝の坪崗徳で我々の部隊の政治工作員であった金世玉の影響を受けて遊撃隊に入隊した。金世玉は、馬国花の師であり恋人でもあった。祖国の解放を成就してから所帯をもとうと約束した2人は、すべてを未来に託し、ひたすら革命のために奮闘した。ある日、炊事当番だった馬国花は、台所でトウモロコシがゆを戦友たちの食器についでいるうちに、2人分が足りないことに気づいた。1人分は自分が1食抜けばそれですむが、あとの1人分はどうしたらよいのか。こういう苦しい立場に立たされ、ためらっていた彼女は、金世玉に了解してもらうことにした。兵舎の外に金世玉を呼び出して苦しい事情を話した。

 「世玉さん、わかってほしいの。今晩だけはあなたの分がないものと思って1食抜いてください。本当にすまないわ」

 「すまない? こんなときは当然ぼくが1食抜くべきさ。そのかわり、祖国が解放されたら食事のたびにおかわりするから、そのつもりでいてもらおう」

 金世玉はこんな冗談まで言って、明るい顔できびすを返した。その夜、馬国花は、水で飢えをしのいだ恋人を思って寝つくことができなかった。自分が飢えたことは意に介さなかったのである。

 彼らは2人とも祖国解放の日を見ずに戦死した。馬国花が戦死したのち、女性隊員たちは、彼女の背のうの中からひとつがいの鶴を縫い取った布団皮を発見した。きびしい風雪のなかで馬国花が結婚用にととのえた持参品だった。世の中にこれほど貴く、これほど悲しい持参品がまたとあろうか。いかんせん、女性戦士は、殺伐たる荒野に倒れ、花開かぬ青い夢だけを異郷に残して逝ったのである。女性隊員たちは、その布団皮で故人の屍を包んだ。

 女性中隊は誕生して半年ほどしか存在しなかったが、祖国が永遠に記憶し、人民が末永く見習うべき不滅の偉勲を残した。抗日革命の第一線で武器を手に強敵日本帝国主義を相手に血みどろの戦いをつづけてきた女性戦士こそは、現代朝鮮女性の輝かしい鑑であり、人類解放闘争史の典型ともいうべき女性英雄である。彼女たちは女性の社会的・人倫的平等を真っ先になし遂げ、わが国における女性解放の道を血潮をもって切り開いた先駆者であった。

 わが労働党時代は、抗日革命闘争期に女性中隊員が発揮した白頭の革命精神と闘争伝統を継承した無数の女性英雄と女性活動家、女性労働革新者を世に出した。安英愛、趙玉姫、李洙徳、李信子、鄭春実をはじめ、現代が生んだ女性英雄の思考と実践を支配したのは白頭の精神であった。わが国の数百万の女性は今日もこの精神で、この地になんぴともあえて侵すことのできない社会主義のとりでを築いている。

 今日わが人民軍には、抗日の革命伝統を継承した多くの女性区分隊がある。銃を握って祖国の防衛線を守っている女性戦士は、ただ人民軍の女性区分隊にのみあるのではない。労農赤衛隊、赤い青年近衛隊にも銃を手にした女性隊員はいくらでもいる。全人民の武装化が実現したわが国では、人口の半数を占める1000万女性のすべてが、有事の際に祖国の寸土をも死守するために銃をとって戦う準備をととのえている。この1000万女性武装隊の原型が、ほかならぬ朝鮮人民革命軍司令部直属の女性中隊なのである。



 


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