金日成主席『回顧録 世紀とともに』

3 『血の海』の初演舞台


 抗日革命期の文学と芸術については、すでに多くの研究が進められたと思う。原作も大部分発掘され、それを現代の美感にふさわしく復元する作業もあらかた終わったといえる。抗日の炎の中から生まれた文学と芸術は、今日わが党の文芸伝統となり、わが国の文学・芸術史に特出した位置を占める貴重な財宝となっている。

 わたしは、専門の学者のように抗日革命文学や芸術にかんする理論を展開するつもりはない。ただ、漫江で人民革命軍部隊がおこなった公演活動について語ろうと思う。漫江での公演活動を紹介すれば、抗日革命期の文学・芸術の全容を把握するのに多少なりとも助けになるものと考える。

 1編の芸術作品を完成させることが一つの城市を攻略する戦闘に劣らず困難で複雑な精神労働を要する仕事であることは、わたしも知らないわけではなかった。けれども、わたしは演芸活動に時間と努力を惜しまなかったし、その活動に役立つことであれば何事もためらわなかった。もし、遊撃隊の隊伍に従軍作家か芸術家が1人だけでもいたなら、我々は、創作と創造の陣痛と苦悩を体験せずにすんだであろう。しかし、遺憾ながら人民革命軍には、専業作家や芸術家出身の隊員が1人もいなかった。もっとも、朝鮮人民革命軍の戦果と我々の名声に励まされ、入隊を試みた文人もいた。それがスムーズに実現していたなら、朝鮮人民革命軍は自己の行跡を収録する歴史記録の執筆陣と、隊内出版物の発刊や演芸公演活動に不可欠の有能な創作集団をととのえて強力な宣伝扇動活動を展開することができたはずである。

 我々の隊伍には、歴史学を専攻した人物もいなかった。それで、歴史の記述は素人の手でなされた。人民革命軍の代表的な歴史記述者は、李東伯と林春秋だった。彼らは、多くの記録を残そうと努力したが、その大部分は隠滅、消失してしまった。

 解放後、学者たちは、ほとんど白紙にひとしい状態で抗日革命史の研究に取り組んだ。大部分の史料は、抗日革命闘争参加者の回想にもとづいて作成され、敵側の文書もかなり参考にしたが、ねじまげられたり、誇張、矮小化された資料もあったりして、歴史の体系化と定着作業は少なからず難航した。そのうえ、宣伝部門の要職を占めていた反革命分派分子の妨害策動と無関心のせいで、抗日革命史にかかわる全面的な資料の収集は1950年代の末になってようやくはじめられる有様であった。抗日革命史を反映した図書のうち、部分的ではあるが日付や場所などに若干のずれがあるのは、こうした特殊な事情のためだとみるべきであろう。

 抗日闘士たちは、歴史に名を残すためではなく、歴史を創造するためにたたかった人たちである。我々は山中でたたかうとき、次の世代が我々を記憶しても、しなくてもかまわないという立場で万難を克服した。もし、我々が歴史に名を残すために銃を手にとった人間であったなら、今日、新しい世代が抗日革命史と称している偉大な歴史を創造することはできなかったであろう。敵の包囲と追撃のなかで、たえず移動しながら遊撃戦を展開していたために、1枚の秘密文書すら安全に保管できなかった。万一の場合を考え、敵地からの走り書きの手紙も読み終えるとすぐ焼却してしまった。史料として価値があると思われる文書や写真などは背のうに入れてコミンテルンに送った。

 1939年度にも、コミンテルンに文書をつめたいくつもの背のうを送った。しかし、それらの文書は目的地に届かなかった。そのときに流失した資料のうち、少なからぬものが日本の警察文書や出版物に載った事実から推して、護送者たちは途中で敵の手にかかったに違いない。我々が祖国に凱旋するときに持って来たものといえば、それは歴史の記録や組織関係の文書ではなく、革命歌を書き記した手帳や戦友の住所氏名を書きとめたメモだけだった。学者たちが、抗日革命史の研究でいちばん難儀しているのはこの点である。

 朝鮮革命に内在する特殊な事情と複雑な内実をよく知りもしない帝国主義の手先や売文の徒、ブルジョア御用学者たちは、数件の文書から写し取った数字や事実を組み立てる方法で、祖国と革命偉業に限りなく忠実な朝鮮の息子、娘たちが、肉弾となって切り開いてきた抗日革命史を取るに足りぬものにしてしまおうとやっきになっている。我々の理念と社会制度を快く思わない人間が、わが党の革命歴史を矮小化しようとあらゆる毒舌をふるうのはさして驚くべきことでもなく、別に新しいことでもない。歴史は、墨で塗りつぶせるものでもなければ、火で焼き捨てたり、剣で切り捨てたりできるものでもない。誰がなんと言おうと、我々の歴史は歴史としてありつづけるであろう。

 わたしが『血の海』の構想をあたため、その台本作業にとりかかったのは、東崗会議の直後だったと記憶している。演劇『血の海』創作のおおもとは『間島討伐歌』にあったといえる。わたしは幼いころ、父から『間島討伐歌』を習った。父は、わたしとわたしの友だちに間島討伐の話もよく聞かせてくれた。

 安図で遊撃隊を組織したあと、部隊を率いて東満州へ行くと、その地方の住民は日本軍警の討伐のため言い知れない試練をへていた。討伐隊の軍刀と銃剣で日に数十名から数百名もの人が斬殺される惨事がうちつづく間島は文字どおり血の海だった。その血の海を目撃するたびに、わたしは父が教えてくれた『間島討伐歌』を思い起こし、それを思い起こすたびに朝鮮民族がなめている苦痛と受難を考え、ふんまんやるかたない思いをした。ところが驚くべきことには、間島に住む絶対多数の朝鮮人がそういう悲惨な運命に甘んじようとせず、かえって手に手に銃や棍棒を取って憤然と立ち上がり、抗争をつづけている事実であった。この同胞あげての抗争には三綱五倫と三従の道に縛られていた女性と、そのチマにすがってだだをこねていた子どもたちまで参加した。わたしを大きく感動させたのは、まさにその姿だった。女性が家庭の枠から抜け出して社会変革の運動に飛び込んだのは一つの革命であった。わたしはこの革命の主人公たちに厚い尊敬と愛情を感じた。そうした女性を支持し同情するうちにわたしの脳裏には、倒れた夫の後を継いで革命の道を踏み出した一女性とその子どもたちの形象がはぐくまれていった。当時のわたしの正直な気持ちとしては、そういう女性をヒロインにした作品がつくりたかったのである。

 我々は撫松に留まっている間、各地で演芸公演活動をおこなって人民を教育した。戦闘を終えては、そこに留まって公演をするか、公演が不可能な状況ならアジ演説をおこなってから部隊を撤収させた。革命軍の隊員が素朴な芸術小品を舞台にのせるたびに、人民は熱烈な拍手喝采を送ってくれた。いつか、遊撃隊員たちが戦闘を終えての交歓会で『間島討伐歌』をうたったことがあるが、そのとき、これを聞いた人たちは、老若男女を問わず誰もが涙を流し、日本帝国主義を呪い抗日の決意をかためた。この『間島討伐歌』一つだけでも涙の海を現出した思いもよらぬ交歓会場の情景は、演劇のような本格的な舞台形象によって人びとをより積極的に啓蒙したいという衝動をかきたたせた。だが、時間が許さず、この欲求を実現することはできなかった。ところが、東崗会議が終わったあと、李東伯が思いがけずわたしの心の隅にくすぶっていたその欲求に火をつけた。どこかの村から手に入れてきた新刊の文芸雑誌を見せてくれたのである。その雑誌には、獄につながれているある社会運動家の妻を描いた小説が載っていた。夫が下獄したのち、妻が子どもを他人にやり、再婚するというあらすじであった。わたしは、李東伯に小説の読後感を聞いてみた。彼はさびしそうに笑った。

 「わびしくなりますね。生活とはこんなものなのかと…。でも仕方がないでしょう」

 「では先生は… この小説に真実が描かれているというのですか?」

 「真実の一端は描かれているでしょう。悲しい話ですが、わたしのよく知っている社会運動家の妻も、他の男とねんごろになり、子どもを捨てて駆け落ちをしてしまいましたよ」

 「そういう特殊なケースが、どうして真実だといえるのですか。朝鮮と満州でわたしが見た絶対多数の女性は、夫に忠実で、子どもにも隣人にも、国にも忠実な女性たちでした。夫が獄につながれれば、夫に代わって爆弾やビラ束をかかえ革命活動に専念する女性、夫が革命の途上で倒れれば軍服をまとって夫の立っていた隊伍に立ち、銃剣を手にして仇敵を討つ女性、子どもが腹をすかせれば物もらいをしてでもひもじい思いをさせまいと心を砕く女性、これが朝鮮の女性なのです。そういう姿を見ずに、李光洙のように革命家の妻を冒涜するならどういうことになるでしょうか。彼が『民族改造論』を提唱したときソウル市内でビールびんをさんざん投げつけられたように、きぬた棒でしこたま叩かれないともかぎりません。我々の母や姉たちのきぬた棒は武器奪取のときにだけ使われるわけではありません。これがまさに真実なのです。東伯先生、いかがですか」

 李東伯はあらたまったまなざしでわたしを見つめ、うって変わった態度でうなずいた。

 「そのとおりです。それが真実です」

 わたしは、真実の反映を文学の本道と心得ていた。真実を反映してこそ、文学は読者大衆を美しく崇高な世界へ導くことができるのである。真実を反映することによって人民大衆を美しく崇高な世界へ導くのが、ほかならぬ文学・芸術の真の使命である。その日、我々は、自分の知っているすぐれた女性闘士や女性活動家、徳行と貞節において模範といえる烈女について長時間語り合った。話が終わるころ、李東伯は突然こんなことを言った。

 「将軍、女性革命家の運命を扱った演劇を一つつくってはどうですか」

 「どうしてまた急に演劇のことを考え出したのですか。ひょっとして間島で教鞭をとっていたとき、教え子たちを連れて演劇運動をしたときのことを思い出したのではありませんか」

 「こんな三文小説を書く人間に少々刺激を与える必要があると思うのです」

 彼は、例の雑誌を指で突き差してみせた。わたしは、女性革命家を扱おうというのはたいへんりっぱなアイデアだ、しかし演劇をつくるにはなにがしかのテーマが必要ではないか、なにか考えているテーマがあったら話してもらいたい、と言った。

 「真の朝鮮女性とはどんな人間か、といったテーマです。朝鮮女性の実像を見せようというわけです。朝鮮人民の民族的受難は、必然的に女性たちにまで闘争の道を歩まざるをえなくする、闘争のみが生きる道だ、こういうテーマですが、将軍のお気に入るかどうか…」

 わたしは驚いた。彼が設定したテーマは、わたしが間島にいたとき女性が主人公の作品を想定して探求したテーマと似かよったところがあったのである。

 「どうせなら、先生がじかにペンをとってはどうですか」

 わたしがこう言うと、「パイプじいさん」はあわてて首を振った。

 「わたしは、けちをつけることはできても創作はできません。この演劇の台本は、将軍が書くべきです。書いてさえくだされば舞台のほうはわたしが引き受けましょう」

 わたしは確答はしなかった。けれども李東伯のたっての願いがあって以来、わたしの脳裏には前から考えていたヒロイン、血の海の中で夫と子どもを失った悲しみにたえて憤然と立ち上がり、闘争の道を踏み出す素朴な女性の形象がいっそう鮮やかに浮かび上がってきた。ヒロインの魅力的な形象は、わたしを興奮させた。わたしはとうとう紙にペンを走らせはじめた。部隊が漫江に到着するころには、台本を半分以上書き上げた。

 わたしにとって演劇の創作は、これがはじめてというわけではなかった。撫松にいたときにも演劇公演をおこない、吉林や五家子でも演劇運動を活発に展開した。だが、武装闘争を開始して以来、演劇をそれほど舞台にのせることはできなかった。1930年代の前半期に遊撃根拠地で演劇運動に熱をそそぐ人がいないわけではなかったが、吉林時代ほどには活発でなかった。時間と努力を要する演目に、遊撃区の芸術愛好家は情熱を傾けることができなかった。ならば、白頭山へ向けて南下行軍をつづける困難な路程で、なぜあえて演劇創作を日程にのぼらせ、それを実現させようと根気よく努力したのだろうか。わたしは、大衆の意識化における演劇芸術の絶大な牽引力と効果に大きな期待をかけていた。当時は、演劇ほど大衆の心をゆさぶる芸術は他になかった。無声映画がトーキーに発展し、それが一国の枠を越えて世界中に普及される前まで、演劇は芸術界でどのジャンルにも比べられないほど強力な感化力をもっていた。わたしも演劇となると時間を惜しまず見たものである。彰徳学校時代の同窓生のなかには、演劇ファンが多かった。有名な劇団が平壌に巡回公演に来るたびに、わたしは康允範と一緒に市内へ行った。演劇は、誰が見てもすぐ「すばらしい!」「つまらない」「まあまあだ」などと評価できる一般的で大衆的な芸術である。

 1920年代と1930年代は、演劇の開花期、全盛期だった。わたしが彰徳学校に通っていたころは、すでに従来の新派劇に代わって台頭した新劇が観客の目を奪っていた。進歩的な作家、芸術家たちは、無産者大衆のためのプロレタリア演劇運動に心血をそそいでいた。プロレタリア演劇運動家たちは、劇団をつくって地方の労働者、農民を訪ねて巡演した。そういう劇団が、平壌にもひきもきらずやってきたものである。解放後、わが国の演劇界で名声を博した黄K、沈影なども1920年代と1930年代から演劇運動に心肝を砕いてきた芸術家たちである。当時は、どこででも演劇、演劇と叫んでいたときだった。生徒が50名程度の田舎の学校でも演劇熱に浮かされていた。こうした時代の風潮にのって、我々も初期革命活動の時期に演劇運動を展開した。

 『血の海』の台本を完成する過程は、集団的知恵の発現過程でもあった。劇の構成は言うまでもなく、一つのデテール、一つのせりふのためにも、同志たちは貴重な助言をしてくれたものである。

 東崗で撫松県城戦闘の勝利を総括する反日部隊指揮官たちとの合同会議を終えたのち、わたしは主力部隊を率いて白頭山西方の衛星区域である漫江へ向かった。漫江は、広大な高原の上の、白頭山にいちばん近い村里で、撫松県の南端に位置していた。ここから南方の多谷嶺を越えれば長白であり、西南方の老嶺を越えれば臨江である。1936年当時の漫江は、80余戸の民家が点在する小さな村にすぎなかった。この火田民村は南甸子、陽地村、万里河、杜集洞と同様、撫松地方にはまれな朝鮮人村落の一つだった。安図とは異なり、撫松には朝鮮人が多くなかった。県城から遠く離れている漫江は、人の行き来がまれな山奥の僻村だった。住民がわずかなうえに行き交う旅人もまばらで、見ようによっては人間社会から隔絶した絶海の孤島のような印象さえ与えた。訪れる人がいるとすれば、粗櫛や染め粉などの行商か、塩商人といった人たちだけだった。撫松の有志のなかでも漫江に出入りする人は多くなかった。崔辰庸総管が1、2度、そして、その後任として総管役についた延秉俊が5、6回足を運んだくらいだろう。

 話のついでに、延秉俊がどういう人物なのか少し紹介しておくことにする。彼は、洪範図麾下の部隊長の1人だった。洪範図の独立軍が沿海州方面に活動舞台を移したのち、どんな縁故があったのか撫松に来てひところ総管の地位を得て正義府の地方長官を勤めたのだが、大衆の人望が厚かった。その後、彼は総管職を退き、大蒲柴河で鍼医になった。大蒲柴河という村は、安図と敦化の境にあった。あるとき、その村に行ってきた金山虎が、延秉俊の医術は玄人はだしだとほめそやし、わたしにも一度治療を受けてみるようにとしきりにすすめた。それで、わたしは延秉俊を訪ねていった。わたしの脈を取った延秉俊は、将軍の気力は衰えきっている、鹿茸か野生の朝鮮人参が求められないだろうか、求められれば処方を書いて差し上げる、と言った。彼の処方どおり薬をつくって服用し、かろうじて健康を回復した。祖国に凱旋してかなりの時日が経過したある年、幹部の1人が健康を害して少々苦労したことがあった。そのとき、わたしは大蒲柴河で延秉俊が教えてくれた処方を思い起こしながら、しかじかの薬を使ってみるようにとすすめた。驚くべし、彼は数か月後にわたしの処方が大いに効力を発揮したと言うのだった。それで、それはわたしの処方ではなく、数十年前に満州で延秉俊という医家が教えてくれた処方だと説明した。その延秉俊はどんな因縁からか、漫江をかなりくわしく知っていた。

 漫江の特産物のなかでも自慢できるのはジャガイモだった。この土地のジャガイモは、内島山のジャガイモのように赤児の枕ほどのものもあった。漫江川には、コグチマスが多かった。漫江村の住民が使っている器はいずれも木を掘り削ってつくった木器でなければ、白樺の皮でつくったものだった。さじも木製であり、醤油やキムチを漬けるかめもやはり丸木を掘ってつくったものだった。

 行軍隊伍が2本の白樺が立っている漫江村の入口にたどり着いたとき、我々の来るのをどうして知ったのか、許洛汝村長をはじめ、村人たちが桶やくり鉢に甘酒や濁酒を盛って待っていた。県城に塩を買いに行った農民が撫松県城戦闘のニュースを持ち帰って以来、村長は敵の動きをするどく観察するようになり、日本軍の飛行機がたびたび漫江方面に飛来するのを見ては、革命軍がこの村に来るに違いないと確信するようになったと言うのであった。わたしは、濁酒を一杯飲みほしてから村長に尋ねた。

 「こうして総出で我々を公然と歓迎して、あとのたたりはありませんか」

 「心配ご無用です。この春、革命軍がここに現れて以来、漫江警察隊の連中はわたしらにもぺこぺこしています。まして、汪隊長もやられた、撫松県城の日本軍も全滅させられたというニュースを聞いてからは、ただもう怖くて震えあがっている始末です」

 こんなやりとりをしているとき、漫江川の橋の方から農民のにぎやかな声が聞こえてきた。

 「革命軍のみなさん、今度もダンスを見せてくれるんでしょうね」

 春に漫江村に来て演芸公演をしたとき、琿春出身の遊撃隊員数名が舞台に出てロシアの踊りをおどったことがあった。ソ満国境地帯で暮らしてきた琿春出身の隊員らは、ロシアの歌や踊りがたいへん上手だった。その踊りを見て目を丸くした村人は「やー、これは見ものだ。踊りというのは腕を振り、肩を上げ下げするものとばかり思っていたのに、あれを見ろ、足でドンドン蹴りもするんだな。ともかくあのダンスというのは見るだけのことはある」と言ってはやし立てたものである。

 「はいはい、ダンスだけではありませんよ。それよりもっとすばらしいものをご覧に入れましょう」

 李東伯がほのめかした「すばらしいもの」というのは、演劇を念頭においてのことだった。

 我々は、許洛汝村長の家の一間に指揮部を定めた。この家は、わたしの父とも縁が深かった。10年前、孔栄が馬賊に捕われた父を救い出して立ち寄った最初の家がここだった。そのとき、許洛汝は孔栄と一緒に父を撫松まで護衛してくれた。わたしは、この家で『血の海』の台本を書く作業をつづけた。田国振が倒れたあとであり、また後日、人民革命軍の隊内新聞『曙光』を主管しながら数編の短編小説まで書いてそれに載せたことのある金永国もまだ入隊する前だったので、台本を書く作業は漫江に来てからもわたしの仕事にならざるをえなかった。李東伯は台本作業の参考にと、祖国で発行された幾種もの新聞、雑誌や単行本をしばしば手に入れてくれた。その出版物のおかげで、国内における政治的出来事や社会経済状況、文学・芸術界の実態をつぶさに知ることができた。

 当時の進歩的な文学・芸術運動は、およそその内容と形式において日本帝国主義の民族文化抹殺政策から民族的なものを擁護し、発展させようとする愛国愛族的なもので一貫されていた。日本帝国主義植民地支配当時のわが国の進歩的な文学は、愛国愛族の精神と自主独立の思想で人民を啓蒙し、演劇、映画、音楽、美術、舞踊など各ジャンルの芸術の発展方向を誘導し、それに盛るべき内容を提示するうえで先導的役割を果たした。「新傾向派」文学と呼ばれた進歩的作家の文学運動は、1925年にいたって朝鮮プロレタリア芸術同盟(「カップ」)を誕生させた。「カップ」の創立以来、朝鮮の進歩的文学は、労働者、農民をはじめ、勤労人民大衆の利害を代弁し擁護するプロレタリア文学・芸術の発展に寄与した。李箕永、韓雪野、宋影、朴世永、趙明熙といったすぐれた「カップ」の作家たちによって、わが国の文壇では『故郷』『黄昏』『面会は一切拒絶せよ』『山燕』『洛東江』など、人民に愛読される数多くのすぐれた作品が創作された。作家のなかには、ソウル鍾路の街角に小豆がゆの屋台を出して生計を維持しながらも、人民の精神的糧となり先導者となるりっぱな文学作品を書き上げた人もいる。その一つひとつの作品は、凶悪な日本帝国主義の植民地支配を脅かす起爆剤となった。

 「カップ」の作家の声が響くところにはつねに、思想犯の弾圧に血眼の日本軍警と情報要員の黒い影がつきまとった。その声が高まるほど、敵は首かせをいっそう強く締めつけた。2回にわたる検挙旋風により、「カップ」は創立10周年にあたる1935年に惜しくもその存在を終えざるをえなくなった。日本帝国主義が強いる「国民文学」(転向文学)に迎合するか、ペンを折ってしまうかという岐路に立たされたときも、大部分の「カップ」出身の作家は進歩的文人としての良心を守り通した。李箕永は内金剛の深山幽谷に閉じこもって焼き畑を起こしながらも、祖国と民族を限りなく愛する良心的な知性人、愛国的作家としての面目を保った。韓雪野や宋影もやはり、かろうじて生計を維持する窮状にあっても節操を曲げなかった。

 日本帝国主義は「カップ」を解散させることはできたが、朝鮮文学に一貫する抵抗精神と愛国愛族の土壌から力強く芽ぶき成長してきたその文学の命脈は断ち切ることができなかった。「カップ」出身の文人たちが獄につながれたり山間僻地に追われていたとき、抗日革命隊伍内の知識人とともに、北部国境地帯の作家と中国本土の赤色区域、社会主義ソ連で活動していたわが国の亡命作家たちは、朝鮮共産主義運動と民族解放偉業に積極的に寄与する斬新で戦闘的な革命文学を創造していた。彼らは、白頭の峻嶺と満州広野で血戦に血戦を重ねる抗日闘士を民族の寵児として高く称賛し、彼らへの愛情と共鳴を惜しみなく示した。後日『人間問題』の作者として広く知られた女流作家の姜敬愛は、竜井で間島人民の援軍運動を描いた『塩』という中編小説を書いた。

 詩人の李燦と金嵐人が国境地帯でおこなった創作活動は我々の注目を引いた。李燦は我々が西間島へ進出したのち、鴨緑江対岸の三水と恵山鎮で朝鮮人民革命軍への限りない憧憬をこめて『雪の降る宝城の夜』のようなりっぱな叙情詩を書いた。金嵐人は東崗で祖国光復会が創建された年の11月、臨江対岸の中江鎮で表紙に赤旗を描いた同人文芸雑誌『詩建設』を創刊し、抗日武装闘争を憧憬し朝鮮の独立を祈願する革命的な詩を数多く発表した。彼は、自分が経営していた印刷所で極秘裏に『祖国光復会10大綱領』を2000部も印刷して我々に送ってよこした。朝鮮人民革命軍の戦果に励まされて参軍を企図した作家もいた。小説家の金史良は参軍を決心して満州広野をさ迷ったが、とうとう人民革命軍を捜し出せず、延安へ足をのばして長編紀行『駑馬万里』を書いた。

 新しい祖国建設の時期と反米大戦(朝鮮戦争)の時期、わが国の文壇で創作された『白頭山』『雷鳴』『朝鮮はたたかう』『鋼鉄青年部隊』などの成功作が、解放以前に革命組織に加入したか、参軍をめざした文人たちによるものであったのは決してゆえなきことではない。我々の武装隊伍には直接参加できなかったが、銃をとった気持ちでペンをとり、民族の啓蒙に尽くしたこういう作家たちがいたからこそ、我々は解放直後の短期間に朝鮮人の好みに合った新しい文化をすみやかに建設することができたのである。

 わが国の愛国的芸術家と先覚者は、日本でも映画業を発展させているのに、朝鮮人だからと映画がつくれないわけはない、我々も先進国のように映画をどしどしつくって民衆に奉仕しよう、そして、映画芸術でも自立の能力があることを万邦に示そうという決意で映画芸術建設の困難な処女地を開拓していった。羅雲奎など良心的な映画人は『アリラン』をはじめ、民族的情趣豊かな映画をつくって朝鮮の芸術家の実力を誇示した。

 1920年代と1930年代は、日本色、日本かぶれの濁流のなかで失われていく民族性を固守し、民族的なものを発展させようとする強烈な志向が文学・芸術の各分野で噴出していた時期である。こういう時期に、崔承喜は朝鮮の民族舞踊の現代化に成功した。彼女は、民間舞踊、僧舞、巫女舞、宮中舞踊、妓生舞などの舞踊を深くきわめ、そこから民族的情緒の濃い優雅な踊りのリズムを一つひとつ探し出し、現代朝鮮民族舞踊発展の基礎づくりに寄与した。当時、朝鮮の民族舞踊はまだ舞台化の段階には到達していなかった。劇場の舞台に声楽、器楽、話術などの作品がのることはあっても、舞踊作品がのることはなかった。ところが、崔承喜によって舞踊リズムが完成され、それにもとづいて現代人の感情に合う舞踊作品が創作されはじめて以来、状況は一変した。舞踊も他の姉妹芸術とともに堂々と舞台に登場するようになったのである。崔承喜の舞踊は、国内にかぎらず、文明を誇るフランス、ドイツなどでも熱烈に歓迎された。

 我々が西間島へ進出していたころ、国内では日章旗抹消事件という衝撃的な事件が起こり、そのニュースが白頭山のふもとまで舞い込んできた。この事件の発端は、『東亜日報』紙が1936年8月、ベルリン夏季オリンピック競技大会のマラソン覇者である孫基禎を写真入りで紹介したとき、彼の胸にあった日章旗を消してしまったことであった。怒り心頭に発した総督府当局は、『東亜日報』を停刊処分に付し、関係者たちを拘束した。そのニュースを聞いた我々は、孫基禎の競技成果と日章旗抹消事件を伝える講演をおこなった。人民革命軍の全隊員は、『東亜日報』編集スタッフの愛国愛族の立場と勇断に熱烈な支持と連帯を送ったものである。

 『血の海』の台本ができあがると、わたしはそれを「パイプじいさん」に見せた。台本を読み終えた彼は、これなら上々だと、原稿の束を宙にふりかざし外へ飛び出していった。漫江で演劇を舞台にのせるまでのいくつかのエピソードは、戦跡地踏査記や回想記などに少なからず紹介されている。それらの文章には、記憶がうすれて正確さを欠いていたり、忘れ去られた事柄もあるようだ。ことに、李東伯の苦労がまったく語られていないのは遺憾にたえない。

 みずから舞台監督の役を買って出た「パイプじいさん」は、配役の問題からして難関につきあたった。誰も討伐隊長の役を受け持とうとしないのである。論議の果てに、闊達な李東学中隊長にその役を強引に押しつけた。乙男のオモニ(母)の役は、最初は張哲九に割りふられたが、のちに金確実にまわされ、甲順の役は金恵順に割りあてられた。討伐隊長役の選抜に劣らず「パイプじいさん」を悩ませたのは甲順の弟、乙男の役だった。10歳前後の幼い少年の役だったが、部隊にはそれに適した小柄の人物は一人もいなかった。それで、乙男の役は漫江村の少年にやらせることにした。「パイプじいさん」は、演出でもだいぶ手をやいた。彼が演技指導にあたっていちばん心配したのは、乙男役を演ずる漫江の少年だった。ところが思いのほか、この田舎少年が演出家の意図をもっとも敏感に受けとめたのである。そのかわり大人の方の演技がまずくて「パイプじいさん」をやきもきさせた。演技者のほとんどが、舞台に立つとコチコチになって、なんの仕草もできないのである。

 物覚えが速く多感な金恵順でさえ、いざ舞台に立つと目がすわり、せりふもぎこちなくなった。泣くべきところではまったく口を閉ざしてしまい、「パイプじいさん」がなだめたりすかしたり、怒ったりしたが効き目がなかった。彼女が自分の役を思いどおりこなせず毎回指摘されるというのは、どう考えても理解に苦しむことだった。彼女は、幼いころ学費がなくて学校にも満足に通えず、学校の垣根越しに見よう見まねで文字や歌を覚えた女性である。わたしは金恵順に、彼女が祖国と間島で身をもって体験したことを一つひとつ想起させ、この演劇はまさにきみのような人が体験したことを描いたものだ、日本軍が射殺した乙男はきみの実の弟だ、考えてみなさい、ついさっきまで姉さん、姉さんと慕っていた弟が血を流して倒れたというのに、どうして姉の胸に恨みの血の涙が流れないというのだ、と諭した。その瞬間から彼女の演技は一変した。わたしは、李東学をも強くたしなめた。彼が「パイプじいさん」に、討伐隊長を何人か捕えてこいというなら喜んで捕えてくるが、そんなやつの真似は口が汚れるからできないと突っぱねたからだった。それで、討伐隊長の役を上手にこなすのがきみの戦闘任務だと、二度と口をとがらせないように釘を刺したのである。

 銃と背のう以外にはなにも担いでこなかった遊撃隊員が、またたく間に仮設舞台をつくり、物珍しい演劇をはじめると、漫江の村人たちは驚きの目を見張った。舞台に自分たちがへてきた生活と同じことが再現されるや、胸をかき抱いて演劇の世界に引き込まれ、しまいには甲順とともに泣き、オモニとともに叫び声をあげた。なかには、自分がいま演劇を見ていることも忘れ、いきなり舞台に駆けあがって、乙男を撃ち殺した日本軍討伐隊長に扮した李東学の頭をキセルで殴りつける老人さえいた。

 演劇『血の海』がはじめて上演された日、漫江の村人は一晩中寝つくことができなかった。純朴な山里の人たちは、その夜だけは零時をはるかに回っても、まだ油灯のもとで演劇の感想を語り合った。ある家からは、寄り集まってはしゃいだり笑ったりする声が聞こえてきた。その夜は、わたしも夜露にうたれながら長いこと村道を歩いた。公演から受けた印象を語り合い、喜びにひたっている彼らの話し声や笑い声、息づかいを聞くと、とても眠れそうになかった。わたしは比類ない芸術の力に、ただ驚くばかりであった。いまの人の目からすれば、漫江での演劇はまったく素朴なものであった。ところが驚いたことに、その素朴な公演を見てすべての観衆が泣き、笑い、胸をかきむしり、手を叩き、足を踏み鳴らすではないか。その夜、漫江村の小径を歩きながらわたしはこんな思いにふけった。

 (我々がこの村で公演をしなかったなら、あの人たちはいまごろなにをしているだろうか。許洛汝村長が言ったとおり、おそらく宵の口から油灯を消し、闇のなかで眠りを誘うか、夢路をたどっていることだろう。ところが、この夜更けにも漫江の民家には油灯があかあかと点っている。だから、我々は、この村に灯をもたらしたことになるではないか。この村に100俵の米を担いできてやったとしても、村人たちをあれほどまで興奮させることはできなかっただろう)

 漫江での演劇公演は、山里の素朴な若者や老人を啓蒙し、抗日革命闘争の積極的な参加者にし、後援闘士に変えた。そのとき、多くの青年が舞台に駆けあがって熱烈に入隊を申し入れた。漫江は数多くの入隊者を出した土地の一つとなり、我々の信頼すべき後方補給基地の一つとなった。この演劇が漫江の住民にどれほど深い印象を残したかということは、20余年後に革命戦跡地踏査団が漫江を訪ねたときにも、地元の人たちが公演のあった場所だけでなく、登場人物の名やくわしい筋書き、さらには、せりふの一部まで生き生きと記憶していたという事実によっても十分うかがえるであろう。革命軍の思想と情操は、『血の海』の舞台を通じて、人びとの頭脳と心臓と肺腑に漫江川の流れのごとくひたひたと打ち寄せたのである。一口に言って、抗日革命期の芸術は、暗黒を押しのける灯火ともいえ、人びとをたたかいに立ち上がらせる陣太鼓ともいえた。我々が芸術活動を「太鼓大砲」といったのは、至極正当なことであった。

 現代芸術もそれと同じ使命をおびていると思う。人間が人間らしく自主的に生きていくのに必要な真の思想と真の道徳、真の文化をもたらすのが、ほかならぬ現代芸術の基本的使命である。人民革命軍の隊員たちは本当に才能があった。つきつめてみれば、芸術は高尚なものではあるが、決して神秘的なものではない。この事実が物語っているように、人民は真の芸術の享受者であるばかりでなく、真の創造者である。演劇『血の海』の公演は、遊撃隊員を思想的、文化的に、情操的にりっぱに成長させるのにも大きく寄与した。

 解放直後、わたしは家に訪ねてきた作家たちに、漫江での芸術活動を思い起こしながら、我々は山中で戦ったとき身近に専業の作家や芸術家がいないのをどんなにもどかしく思ったか知れない、それで自分の手で曲をつくり、台本を書き、演出もした、けれども、これからはあなたがたが主人だ、あなたがたがりっぱな作品を書いて新朝鮮の建設に立ち上がった人民を励ますべきだ、と話したものである。

 一編のりっぱな詩や演劇や小説が万人の心をゆさぶり、革命的な歌は銃剣の及ばない所でも敵の心臓を射ぬくことができるというのは、じつに抗日革命期の文学・芸術活動によって我々が会得した真理である。人びとを革命的に目覚めさせる過程は、革命思想に共鳴させ感動させる過程だともいえる。人間を感動させるもっとも強力な手段の一つは文学と芸術である。いつだったか、わたしは日本の有名な歌手で参議院議員だった大鷹淑子(李香蘭)に、人間の生活には歌もあり踊りもあるものだと言ったことがある。人間の住む所に生活があるのは当然であり、生活のある所には芸術があって然るべきである。芸術のない世界がどうして人間の世界といえ、芸術のない生活がどうして人間の生活といえようか。それゆえ、わたしは人びとにいつも文学・芸術を愛せよと話し、また全国の大衆に文学と芸術を享受し、創造できる人間になれと説いているのである。

 我々はこの地に、万民が歌と踊りを楽しむ世界的な芸術の王国を築き上げた。これは、漫江の素朴な仮設舞台で、たいまつとランプの明かりのもとで『血の海』を上演したときの、わたしの切々たる願いであり夢であった。いまでは、全国各地に数百数千の収容能力を有する劇場、映画館、文化会館がりっぱにととのっている。芸術大学も各道にそれぞれ設置されている。わたしは、新しい世代がこれらの殿堂で、前の世代がうたいつくせなかった歌を思う存分うたい、白頭山の香気がただよう芸術をたえず創造してくれることを願っている。

 いまは固有の朝鮮語で『ピバダ(血の海)』と呼んでいるが、もとの作品名は『血海(ヒョルヘ)』だった。漫江で『血海』が上演されたあと、それを見た人たち、その演劇公演に直接参与した人たちがあちこちで『血海歌』、または『血海之唱』という題名で公演活動をつづけたようである。その過程で筋書きや登場人物の名も少しずつ変わり、ある所では自分たちにもっと身近な生活素材と入れ替えたりしたようである。当時、我々は『血の海』についで『ある自衛団員の運命』も舞台にのせた。この演劇には、『血の海』の公演に参加しなかった他の遊撃隊員たちが競って出演した。

 解放後、わが国の作家、芸術家によって、漫江で上演された作品はすべて発掘された。金正日同志は、我々の手で創作された抗日革命期の戯曲をわが国の革命演劇と革命歌劇の始祖、起源と位置づけ、それを映画や小説、歌劇、演劇に再現する作業をエネルギッシュに指導した。その過程で我々の原作にもとづいて革命映画、革命小説、『血の海』式歌劇、『城隍堂』式演劇が創作され、抗日遊撃隊式の芸術活動システムが新たに確立された。

 『血の海』がはじめて映画化されたとき、漫江の素朴な仮設舞台にかかっていたランプとともに、むしろござに座って泣いたり笑ったりしていた村人の姿が思い出された。漫江で『血の海』を上演したとき、その成果を熱狂的に祝ってくれた忘れがたい人たちの顔がもう一度見たい。半世紀を越す歳月が流れているので、当時の老人たちはもうこの世にはいないと思うが、わたしと同年輩の人や子どもたちの幾人かは漫江に住んでいるかも知れない。乙男の役を演じた少年も、生きていれば60代の老人になっているはずである。



 


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