金日成主席『回顧録 世紀とともに』

2 思い出深い城市で


 
撫松県城戦闘で司令部の安全を守って戦う金正淑女史(1936年8月) 

 万順は、家家礼や義兄弟といったものに大きな期待をかけていた。彼がわたしにそういう契りを結ぼうと提起してきたのは、人民革命軍と善隣友好関係を結び、それを後ろ盾にして、敵にたいする軍事的優勢を占めるためであった。呉義成もひところ、わたしに家家礼を結ぼうと要請してきた。家家礼というテコを利用して人民革命軍との連合を実現し、共産主義者をそれに縛りつけておこうとするのは、反日部隊に共通の傾向だった。しかし、家家礼や義兄弟のようなものを結んだからといって、反日共同戦線がおのずと実現し、それが強固な同盟に発展するわけでもなかった。強固な同僚関係は、実戦のなかでのみ発展し、幾多の試練を克服する過程でのみ、その真価を図ることができるのである。我々が白頭山へ進出する新たな情勢下で、敵を制圧する共同の軍事作戦を展開することは、反日部隊を人民革命軍の忠実な同盟者に変え、彼らとの連合を強固なものにする好機ともいえた。

 1936年8月の撫松県城戦闘は、我々と反日部隊との共同戦線を確固たるものにするうえで格別な意義をもつ代表的な戦闘であった。

 「共同戦線を結んだついでに、大きな城市を一つ攻略してみませんか」

 わたしが、それとなくこう提案すると、万順はためらう気配もなく快諾した。

 「やりましょう。金司令の部隊となら、どんな大敵でもやっつけられるでしょう。わたしはいま、天下をぎゅうじるような気分ですわい。大きな城市を一つ攻め落としましょう」

 日本軍と聞けば刃向かおうともせず、尻に帆をかけるのがつねだった山林部隊の頭領にしては、その返答が驚くほど自信満々たるものであった。アヘンに酔った勢いでの空威張りだったのかも知れない。万順は、我々の前でも遠慮なくアヘンを吸った。それは、我々を格別に信頼している証拠だった。元来、中国のアヘン常習者は、なじみのない人の前では絶対にアヘンを吸わなかった。万順が我々を気安い知己とみるのは、いずれにせよ望ましいことだった。もともと、彼は反日部隊の隊長になるまではアヘンを吸わなかった。最初のころは戦いでも勇猛果敢だった。戦闘のたびに功を立て、ほどなく大部隊の指揮官に昇進した。あるとき、彼の部隊が日本軍に包囲されて全滅しそうになったことがあった。包囲を突破する過程で多数の死傷者を出し、万順も九死に一生を得た。この一度の苦い体験が彼を悲観論者に変えてしまった。軍律もなく武装も貧弱な反日部隊の兵士たちにとって、突撃のたびにときの声をあげて山犬の大群のように襲いかかってくる日本軍はあまりにも手ごわい相手だった。それに加えて、汪隊長の部隊までがつきまとい、行く先々で彼の部隊を痛めつけた。万順は深い山の中に土城を築いて閉じこもり、戦いを放棄した。そして、住民の財物を奪って部隊をかろうじて維持した。人民の財物で生きていくのだから、土匪根性が増長するほかなかった。山中の老いたる「匪将」は、愁嘆とうっぷんをアヘンにまぎらすようになった。

 万順の部下のうち少なからぬ者は、部隊の生活に嫌気がさし、銃を投げ出して故郷へ帰った。なかには、土匪になりさがったり、白旗をかかげて満州国軍の兵営にくだる者もいた。指揮官たちは、賭博に明け暮れ、時勢の推移すら知らずにいた。ともすれば、殴りつけ悪態をつく指揮官の専横のため、上下関係は目にあまるほどだった。万順部隊は、壊滅寸前の危機に瀕していた。滅亡の兆しが見えてきた万順部隊を救う道は連合を実現することであり、連合による実戦を通じて、戦いに勝てるという自信を与えることであった。万順部隊との提携に成功したのち、その場で彼らに大きな城市を一つ攻略してはどうかと提案したのもそのためであったのだが、万順が快諾したのでことはスムーズに運んだ。

 「金司令が汪隊長をやっつけたのを見て、うちの将兵はみな感嘆しました。金司令部隊と一緒に城市を攻めると言うなら、うちの部下ももろ手をあげて賛成するでしょうから、早いうちに作戦を練ってくだされ」

 万順がこう言った。彼は、老嶺と西南岔、西崗、大営などでの我々の戦果をうらやみ、それらの戦闘に適用された戦法や戦術をしごく神秘なものに思っていた。万順は、はるか昔の春秋戦国時代から中国の名将は知略によって勝利し、日本人は勇猛をもって戦いにのぞんだが、金司令はいったいどんな戦法を用いて連戦連勝するのかと尋ねた。わたしは笑いながら、戦法も重要だが、それにもまして重要なのは、軍人の精神状態だと答えた。すると万順は、金司令の部下はみな勇敢無比の強兵であることがひと目でわかる、それにひきかえ自分の部下はみな愚劣な連中でとても頼りにならない、と深い溜め息をついた。

 「そんなに気を落とすことはありません。我々が反日共同闘争をしっかり進めれば、彼らも十分勇猛な兵士になれます。どの城市を攻めたらよいか、一つ選んでもらいましょう」

 わたしがこう言うと、万順は手を左右に振りながら、それも金司令が選んでほしいと言うのだった。その日、我々は攻撃の対象をめぐって意見を交わしたが、決着がつかずそのまま別れた。万順は撫松県城攻略の意向をもっているようだったが、主張はしなかった。わたしにとって、それはむしろ幸いだった。

 撫松は、吉林とともにわたしの生涯で忘れがたい、なじみ深い土地であり、満州大陸のどこにも見られる平凡な県都だった。わたしが小学校に通っていたころ、この土地には2階建て以上の重層建築は一つもなく、電気も引かれていなかった。撫松市街に点在する数百戸の家はたいてい、わらぶき家か掘っ立て小屋だった。たまには、レンガ造りや瓦ぶきの家、こぎれいな木造家屋もあったが、それは数えるほどだった。けれども、わたしは貧困にうちひしがれたそのわらぶき家や掘っ立て小屋を自分の体の一部分のようにいとおしく思い、足しげく通った小南門や松花江をふるさとの情景のように、どこへ行ってもやるせない追憶のなかに思い浮かべたものである。

 わたしは、この城市で生涯の羅針盤となった父の遺言を受けた。その遺志をかみしめ、父の柩に従って陽地村の墓所に行ったときから、いつしか10年の歳月が流れていた。10年たてば山河も変わるというが、もう墓所の周辺の風景も変わっているに違いない。

 撫松の敵を制圧するのは、白頭山へ進出しようとする我々の戦略的意図を貫くうえで大きな意義があった。それを誰よりもよく知っているわたしではあったが、なぜか撫松攻略の決断を容易にくだすことができなかった。万順と別れたあと、祖国光復会の下部組織にたいする指導を進める一方、あちこちで手ごろな攻撃対象を選定するための城市偵察を本格的に進めた。

 万順部隊との共同作戦の準備を進めている最中に、呉義成部隊の第1支隊長李洪浜が隊伍を率いて突然わたしを訪ねてきた。やけつくような真夏の暑さもいとわず、遠路を強行突破してきた彼の顔と軍服はほこりと汗にまみれていた。李洪浜の第1支隊は、呉義成部隊でも最強の基幹部隊の一つだった。李洪浜自身は、呉義成の右腕といわれるほど上官に忠実で、またそれだけ寵愛されている有能な指揮官である。わたしとは、どぎつい冗談も遠慮なく言える旧知の間柄だった。北満州の青溝子でちょっと会ってわかれた呉義成の部隊が、どうして南下する人民革命軍の部隊を追って撫松まで来たのだろうか。

 「わたしを金司令のもとへよこしたのは呉司令なのです。金司令部隊は白頭山をめざして南下行軍中のはずだから、なんとか捜し出して共同作戦をやれと言われたのです」

 彼は長行軍の疲れもものともせず、うきうきして呉司令の挨拶を伝えた。

 「じいさんに金司令部隊を捜して行けと言われたときは、途方に暮れてしまいました。『この広い満州で神出鬼没の金日成部隊をどうやって捜せというのですか』と言うと、『馬鹿ものめ、つまらん心配をするんじゃない。転がろうが這おうがとにかく、銃声のいちばん激しい所を捜して行け。そうすれば金司令に会えるさ』と言うではありませんか。けだし名言でした。この満州広野でいちばん銃声が響いているのはここ撫松一帯でした」

 「わたしたちの部隊がここで連日、銃声をあげているのは確かです。近いうちに万順部隊と一緒に大きな城市を一つ攻略する計画です。異存がなければ、李兄が率いてきた支隊もこの作戦に参加させたいと思いますが、どうですか」

 「そんな幸運をわたしが辞退するはずはないでしょう。呉司令も共同作戦をやれ、とわたしの背中を押して送り出したんですからね。じいさんも、後始末をしてすぐあとを追ってくると言っていました」

 万順部隊との連合に成功したやさきに李洪浜の支隊まで合流してきたので、我々としては、盆と正月が一緒にきたようなものだった。わたしは胸が熱くなった。李洪浜が本当に人民革命軍を支援しようと、千里の道もいとわずやってきたというのか。青溝子で会ったとき、呉義成は、自分を反日軍の前方司令として認めようとしない周保中の処置に大きな恨みを抱き、意気消沈していた。そのときにしても、彼は我々との合作については、それらしいことを口にしなかった。周保中にたいする恨み言ばかり言っていた呉義成が、金日成の共産党となら死ぬまで統一戦線を張ると言って李洪浜を派遣してきたのは、我々にたいする変わることのない支持と信頼の表示であった。王徳林がソ連をへて中国関内に入ってしまったのち、一時的に動揺したにせよ呉義成が統一戦線の大義に背かず、我々との合作を終始一貫追求してきたのは、じつに敬意を表すべきことだった。

 折よく万順も来ていたので、その日、李洪浜は旅装を解くいとまもなく共同作戦の討議に加わった。攻撃対象を改めて協議するとき、わたしは濛江をほのめかしてみた。濛江は1932年の夏、通化の梁世鳳部隊を訪ねての帰途、1か月ほど滞留して隊伍の拡大をはかり、地下組織の立て直しにあたった土地だった。足がかりもあり把握ずみの土地なので、戦いさえすれば、たやすく目的を達成することができるはずだった。だが万順が、あまり遠すぎるといって難色を示した。たとえ勝利したとしても、帰還の途中で包囲される恐れがあるというのである。彼は撫松県城に目星をつけていた。

 「金司令、撫松を攻めましょう!」

 李洪浜も拳を握りしめ、怒りに燃えて叫んだ。彼が撫松を攻めようと言った裏には、それだけのわけがあった。彼は額穆を発つとき、我々の行方を探り出そうと牟振興という名の中隊長を斥候として先発させた。ところが、その中隊長は、任務遂行中に撫松憲兵隊に逮捕された。憲兵隊は、撫松に来た目的と接触の相手が誰であるかを吐けと脅迫した。中隊長は、その詰問に沈黙をもって答えた。憲兵隊の悪魔どもは拷問の果てに、彼の口に熱湯を注ぎ込んだ。口腔と喉はただれ、唇もすっかり水ぶくれになった。それでも、その強靱な中隊長は、節を曲げず、無言の抵抗をつづけた。とうとう憲兵隊は、「通匪分子」の罪名を着せて拘留していた撫松地区の愛国農民とともに、彼を撫松北方の辺地に引っ立てて銃殺した。ところが、幸いに弾丸は急所を外れた。他の死体の上に倒れていた彼をある義人が背負い出して銃傷まで治療し、部隊に帰した。この不死身の中隊長の話によって、撫松地区に駐屯している日本軍警の残虐性が知れ渡るようになったのである。

 李洪浜は、牟振興が憲兵隊に捕われている間に見聞きしたいくつかの惨劇のあらましを話してくれた。汪隊長の死後、日本軍警は「通匪分子摘発」の口実のもとに城門を封鎖し、住民に出入許可証を発給した。証明書の期限が過ぎたり、証明書を持たずに城内に出入りする者は、容赦なく捕えて拷問を加え、反抗する者は闇から闇に葬り去ってしまったが、その殺人の手口たるや古今東西に類例のないほど惨酷なものであった。彼らは、城門で捕えた人を西門橋付近の旅館に閉じ込め、夜が明けるころ西門外の頭道松花江辺の沼で試し斬りをして殺した。試し斬りというのは、軍人精神をつちかうとして、研ぎすました刀剣で人の首を斬り落とし血しぶきを上げる、身震いする殺りく行為である。試し斬りにされた死体は、頭道松花江辺の沼に投げ込まれた。後日、撫松の住民は、その沼を殺人坑と呼んだ。敵は試し斬りの秘密をもらした人もそのつど摘発し、同じ手口で処刑した。そして、その死体もやはり殺人坑で水葬にした。

 わたしの胸には、憤怒の血がたぎった。撫松についての大切な追憶を銃声で破ったり硝煙でくもらせたくないという思いが、たわいのない一種の感傷にすぎなかったという強い自責の念にとらわれた。事実、撫松は、臨江、長白とともに白頭山周辺の城市のなかでも敵が格別に重視している軍事要衝の一つであった。日本帝国主義者は、撫松を「東辺道治安粛正」の中心拠点の一つとし、ここに関東軍、満州国軍、警察隊などおびただしい兵力を駐屯させていた。実戦で鍛えられたという高橋の精鋭部隊も撫松県城に居座っていた。それだけに、撫松を軍事的に制圧することは、白頭山地区を掌握するうえで大きな意義があった。

 撫松県城に居座っている凶悪な敵を倒して人民の恨みを晴らそう! 地獄のような城郭内で試し斬りの洗礼を受けている無実の死刑囚たちを救い出そう! どこからか、こういう血の叫びがわき起こってくるような気がして心を静めることができなかった。まず、撫松から討とう! わたしと涙ぐましい縁で結ばれているこの城市で、無実の人たちが日本刀で毎日首をはねられているというのに、この悲劇を間近に見ながらどうして濛江へ行けるというのか。撫松を討てば地元の人びとの恨みを晴らし、反日部隊との統一戦線も強固な基盤のもとに発展させ、白頭山地区もより容易に掌握できるのだから、これこそ一刻の猶予も許されぬ戦いではないか。わたしにとって撫松県城を討つことは、この城市の全住民への最上の挨拶となり、もっとも熱烈で真実な愛情の表示になると思い直した。それで撫松を攻撃し、白頭山西北部一帯を掌握するための決定的な局面を開こうと決心した。

 攻撃対象について合意をみたのち、撫松市街にたいする具体的な偵察を改めて手配した。偵察資料を総合した結果、かなりの苦戦になることが予想された。撫松県城の防御施設は予想以上に堅固であった。満州のすべての城市のように、撫松も堅固な土城と砲台で囲まれていた。有利な点といえば、城門の警備を受け持っている満州国軍中隊が我々の影響下にあることと、わたしが撫松市街を熟知しているということだけである。その中隊内には、我々の政治工作員によってつくられた反日会の組織があった。この反日会の責任者である王副中隊長は、城市攻撃時間に合わせて信頼できる反日会のメンバーを歩哨に立て、一挙に城門を開け放つことを約束した。

 我々は作戦会議を開き、各部隊に戦闘任務を分担した。我々の部隊が受け持った戦闘任務は、東山砲台を占領することと、大南門、小南門方面から攻撃して城内の敵を掃滅することであった。反日部隊には、東門と北門の方を受け持たせることにした。県城の防御に集中している敵の注意をそらすため、人民革命軍の小部隊を派遣して前日に松樹鎮と万良河(万良郷)を攻撃することも策定した。この程度なら、作戦準備は望ましい水準で進められたといえた。わたしは、この戦闘が我々連合軍の勝利に終わるものと確信した。

 ところが予想に反して、撫松県城戦闘は最初から重大な難関につきあたった。反日部隊が指定された集結時間を守らず、勝手に行動したのである。李洪浜部隊が先走った熱意を発揮し、集結地点の碱廠溝を経由せずに東門へ直行したうえに、万順配下の部隊まで約束の時間を守らずやきもきさせた。連絡兵を送って1時間以上待ったが、万順の部下は碱廠溝に現れなかった。攻撃の日時は、わたしが単独で決めたわけではなかった。万順以下、各反日部隊の頭領たちとともに吉凶禍福の予兆を十分に考慮して割りだしたものである。反日部隊の指揮官は、日取りを決めるのにもかなり迷信にとらわれていた。李洪浜支隊長は、攻撃の日時がどんな数字で成り立つのかに気をつかった。陰陽説によれば偶数が陰で奇数は陽なので、すべての重大事は1、3、5、7 といった奇数の日と時間に定めてこそ、うけに入るというのが彼の持論であった。ところが陰陽説をまったく意に介さない我々が、偶然に戦闘開始の日時を17日の午前1時と決め、それがまた陰暦の7月1日だったので李洪浜をすこぶる満足させていた。

 部隊の一部の兵員を率いて先に碱廠溝に到着した万順は、なすすべを知らずうろたえていたが、やがて部下たちに合掌させ、東の空に向かってなにか呪文らしきものを唱えさせた。天地神明の助けを乞いたい気持ちだったに違いない。各部隊の指揮官は、万順部隊が裏切り行為を働いたと言って老頭領をやりこめた。万順の顔からは、脂汗がたらたらと流れ落ちた。この老頭領が目の敵にされておろおろしているのを見て、あわれな気がしてきた。そして不思議なことに、万順の責任を追及するよりも、むしろ彼を弁護してやりたい気持ちになった。事実、今回の連合作戦を成立させるために万順ほど熱意を示した人はいなかった。また、万順のように創意ある意見を多く出した人もいなかった。彼は自分の部下たちに、作戦の時間と規律を厳守するよう再三強調した。それは、反日部隊との共同戦線をきわめて重視する我々にとって大きな支持となり鼓舞となった。万順が人民革命軍との連合のために先頭に立ってあれほど私心のない努力を傾けてきたのに、実践では作戦の展開に支障を与えたというところに、わたしが彼に同情せざるをえない心苦しいジレンマがあったのである。

 だが、実際は、わたし自身にしても、誰かを同情したりあわれんだりできる立場ではなかった。刻一刻と時間が流れるにつれ、この戦闘の総指揮役を果たさなければならないわたしの心は、もどかしさで締めつけられた。数百回の戦闘をおこなったわたしではあったが、このときくらい焦燥にかられ、狼狽(ろうばい)したことはなかった。わたしは、作戦会議で時間厳守の問題に力点をおいて強調しなかったことを後悔した。会議でわたしがとくに強調したのは、城市の住民の生命と財産を侵害せず、軍民関係に汚点を残さぬようにすることであった。東寧県城戦闘のときに反日部隊の兵士たちが犯したような非行がこの撫松で二度と繰り返されることを望まなかったし、また、それを容認することもできなかった。万順部隊の遅刻、それは別に気にとめてもいなかったことだった。それだけに衝撃が大きかったのだといえる。戦闘の勝敗を左右しかねないこの非常事故のため、臨機応変の対応策をとるか、さもなければ戦闘そのものを中止せざるをえない深刻な状況が生じた。だからといって、やっと実行にこぎつけた作戦を放棄するわけにはいかなかった。戦いを放棄すれば、連合作戦を目前にひかえて勇み立っている反日部隊兵士と人民革命軍隊員の熱気に水をかけることになりかねなかった。

 万順部隊が約束の時間に到着できなかったのは、アヘンのせいだった。彼の部隊の指揮官と兵士のなかには、アヘン常習者が多かった。その彼らが、アヘンを吸えず行軍速度が出ないと言うのだった。共同作戦の勝利のために、我々は仕方なく行軍中の万順部隊にアヘンを送った。こういう非常措置をとらなかったなら、彼らは終日路上でもたついていたに違いない。額穆県城戦闘を終えたとき、連合作戦で反日部隊が比較的よく戦ったのはアヘンのおかげだったと王潤成が言ったが、そのときはそれが冗談だと思った。ところがいまになってはじめて、彼の話が冗談でなかったことがわかった。

 各部隊が集結地点に到着したのは、予定時間がはるかに過ぎてからだった。基本部隊を引率した連隊長がいちばん最後に息せき切って万順隊長の前に現れ、到着報告をした。万順はモーゼル拳銃を引き抜き、撃ち殺してやるといきり立った。このときくらいアヘンの弊害を骨身にしみて感じたことはなかった。そのときの苦い体験は、後日我々をして遊撃隊ではアヘン常習者に銃殺刑を適用するという極端な規定までつくらざるをえなくした。

 数百年の歴史を誇っていた古色蒼然たる清国の屋根瓦に亡兆がさし、垂木が崩れ落ちはじめたのも、このアヘンのためだという。ひところ清国は、自国にアヘンを密輸するイギリスと2回にわたってアヘン戦争をおこなった。インドで栽培されるアヘンが清国にまで流れ込み、数百万に達する人をアヘン常習者にしてしまった。反面、莫大な銀が海外に流出した。イギリスは、アヘン密輸で暴利を得た。林則徐をはじめ清国の先覚者は、人民とともにアヘン密輸に反対してイギリス侵略者との戦いに立ち上がった。抗戦は熾烈をきわめたが、支配階級の裏切りで、清国はイギリスに自国の領土の一部分である香港を割譲する羽目になった。結局、中国はアヘンに呑まれたといえる。アヘンは、清王朝が19世紀についで20世紀の中国国民に残した最大の恥部であり苦痛であった。1930年代に入っても、満州一帯ではアヘンが大量に密売されていた。有産者や官職にある者は言うまでもなく、明日の生計すらおぼつかない庶民のなかにもアヘン常習者は少なくなかった。鼻汁をたらしながら、うつろな目で無表情にあたりを眺めるアヘン常習者を目にするたびに、友邦の人民がなめている血涙の長い受難の歴史を思い返し、胸の痛む思いをしたものである。

 全部隊が肩で息をつきながら行軍速度を速めたが、後の祭りだった。城門の前で約束の合図を待ちながら歩哨に立っていた満州国軍中隊の反日会メンバーは、交替時間になったのでやむなく機関銃の撃発装置部に砂をつめこんで撤収した。城門をひそかに開け放ち、城内に突入して敵を一挙にせん滅しようとした作戦計画は、最初から狂ってしまった。正直に言って、そのときわたしは戦闘を断念すべきではないかとさえ考えた。状況からすれば、むしろ戦闘を他日に延ばすほうが賢明な策かも知れなかった。しかし、血ぬられた撫松市街を目の前にして戦闘を断念するには、我々の敵愾心があまりにも強く、白頭山地区の掌握をめざしてこの戦闘にかけた我々の期待があまりにも大きかった。1800余名もの兵力をもつ我々が、城市を攻撃できずに退けばどういうことになるだろうか。世間では、取るに足らぬ烏合の衆だと誹謗するだろう。そうなれば、反日共同戦線の大義は水の泡となり、近く白頭山でとどろかせようとした我々の銃声もむなしいものになるに違いない。

 わたしは、たとえ状況は困難であっても我々が先駆けとなり、決死の覚悟でこの作戦を勝利に導こう、と人民革命軍の指揮官たちにアピールした。撫松県城戦闘の序幕は、このように複雑な曲折をへて切って落とされた。人民革命軍の隊員は、わたしの攻撃命令がくだるやいなや東山砲台を一気に占領し、小南門方面へ突進した。反日部隊の兵士たちも北門と東門に向けて進攻した。小南門前の街路では、白兵戦がくりひろげられた。城門へ肉迫する部隊に向けて砲台の機関銃が火を噴いた。小南門の近くに指揮所を定めていたわたしは、その機関銃の音で耳が遠くなりそうだった。人民革命軍の各部隊は、機関銃中隊の掩護のもとに城門を突破して市内に突入した。ところが、人民革命軍の隊員が肉弾で最初の突破口を開いたやさきに、北門を攻撃していた万順部隊が敵の砲声に驚いて退却しているという連絡が飛び込んできた。わたしは李東学中隊長に、即時中隊を率いて北門の方に急行し万順部隊を援助せよと命じた。またしばらくして、東門を受け持った李洪浜の部下が反撃に出てきた敵を防ぎ切れず押されはじめたので、東門を出た敵がみんな小南門の方に押し寄せてきた。かてて加えて、全光の指揮する小部隊が万良河襲撃戦を放棄してもどってきたという報告まであって、わたしの心を乱した。頭道松花江の水かさが増えて渡河できなかったというのである。北門を攻撃していた万順の部下があえなく後退させられたのは、砲声に驚かされたことだけが原因ではなかった。万良河の襲撃を断念してもどってくる味方の一部隊を敵の増援部隊と錯覚し、前後から挾撃されるのを恐れて逃げ出したのだった。万順部隊の攻撃隊形が乱れると、その余波が側面にまで及び、李洪浜部隊も散り散りになってしまった。全光が襲撃戦を放棄しながらそれを即時に報告しなかった結果は、戦闘過程全般にこのように重大な影響を及ぼした。

 戦局の収拾がついてもいないのに、すでに東の空は白みはじめていた。戦況は刻一刻と我々に不利になってきた。そのとき李洪浜が駆けつけてきた。

 「金司令、形勢が危うくなりました。このままでは全滅させられます」

 彼が言わんとするのは即時総退却であった。

 「ああ、万事休すだ!」

 彼は首をのけぞらせ、明け染めてくる空を眺めながら絶望的に叫んだ。わたしは彼の肩をつかんで大声で言った。

 「支隊長、気を落とすことはない。こういうときこそ気を確かにもって、禍を転じて福となすべきだ。福に禍あり禍に福ありというではないか」

 わたしが彼にこう言ったのは、禍を転じて福となしうるなにかの妙案があってのことではなかった。反日部隊が退却しはじめたこの機に、誘引戦術を使って主導権を握ろうという決心をかためたにすぎなかった。戦況が不利になった場合、敵を城門の外におびきだし、谷間に追い込んで包囲せん滅するのは遊撃活動の戦術的原則でもあったが、これは我々の伏線でもあった。だが、こういう誘引戦術は、夜間でなければさほど効果を発揮するものではない。我々は空がすっかり明け染める前に撤収するか、それとも正面突撃の方法で決戦を挑むかという二者択一の岐路に立たされた。ところが、誘引戦を決心しながらも、人命の損失を憂慮して退却命令をくだせずにいたとき、天が我々を助ける奇跡が起きた。県城とその周辺に突如濃霧が立ちこめ、一寸先も見えなくなる不思議な現象が起こったのである。わたしは各部隊に、散らばった兵士を率いて東山と小馬鹿溝の稜線に撤収するよう命令した。

 敵は退却する部隊をやっきになって追跡してきた。我々が東山に登りはじめたとき、中心突出部の山ひだから一発の銃声が響いた。わたしは不安にかられて立ち止まった。そこには、戦闘後の朝食の支度のために残してきた7、8名の女性隊員がいたのである。わが方の主要撤収方向が東山であることを探知した敵は、山ひだを先に占めて指揮部と主力部隊を両側から攻撃しようと企図しているようだった。山ひだの銃声はいっそうはげしくなった。女性隊員たちが、敵の大部隊と熾烈な銃撃戦を展開しているに違いなかった。わたしは伝令を飛ばして山ひだの状況を確かめさせた。伝令は、司令部の安全のために血をもって山ひだを守り抜くという金確実、金正淑たちの決意を聞いて帰ってきた。事実この日、指揮部は山ひだを英雄的に守り抜いた女性隊員たちによって救援されたというべきであろう。女性隊員たちが敵を防ぎ止めなかったなら、我々は敵より先に東山へ登ることができなかったに違いない。女性隊員たちとともに、人民革命軍第7連隊第4中隊が東山を死守したのだった。

 山ひだで熾烈な攻防戦が展開されている間に、第7連隊の主力は立ちこめた霧を利用して東山南側の高地に長い伏兵の陣を張った。反日部隊も谷間を挾んで向かい側の稜線を占めた。そのときになって、主力部隊の撤収を掩護していた中隊は敵を誘引しながら霧の谷間の奥に撤収した。そして彼らも、谷間のゆきどまりの山の背に登ってすばやく伏兵の隊形をとった。試し斬りで悪名をはせた高橋部隊は、いったん踏み込んだが最後、生きては帰れない死の落とし穴に全員引き込まれた。勝敗はすでに決まったも同然だった。我々は山の上から下を撃ち、敵は谷間から上を撃つ銃撃戦がしばし天地をゆるがした。高橋部隊は、万順から勇猛の戦法と聞かされていた悪辣な戦術で波状突撃を繰り返したが、そのたびに死体を残して退却した。突撃が効を奏さないと知ると、彼らは射撃を中止し、山裾にへばりついて増援部隊の到着を待った。

 わたしは、突撃命令をくだした。りゅうりょうたるラッパの音とともに、伏兵陣から躍りだしたわが方の勇士たちは敵を手当たり次第になぎ倒した。白兵戦の先頭には、「延吉監獄」というあだなの第7連隊分隊長の金明柱が立っていた。金明柱は5.30暴動に参加して逮捕され、延吉監獄に収監されていた人だった。彼は、獄内の地下組織のメンバーとともに5年の間に6回も脱獄を企てた。斧で獄吏を倒して脱獄に成功した主人公がほかならぬ金明柱であった。戦友たちが彼に「延吉監獄」というあだなをつけたのは、そういういわれからである。彼には「延吉監獄」というあだなのほかに、「七星子」というもう一つのあだながあった。彼は7回の大戦闘に参加して7回大功を立てて負傷したのだが、戦友たちはそれを「七星子」というあだなで言い表わしたのである。七星子というのは7発装てんの拳銃である。彼は、死を恐れぬ人民革命軍の獅子だった。金明柱の延吉監獄からの脱獄を命がけで助けた第8連隊中隊長の呂英俊も、この戦闘で「七星子」に劣らずよく戦った。金明柱と呂英俊はたたかいのなかで友情を結んだ無二の親友だった。

 遊撃隊の「女将軍」金確実は、終始両眼を大きく見開いて機関銃を撃ちまくった。なぜ片目をつぶらないのかと戦友が聞くと、日本軍の汚らわしい面をはっきりと見届けるためだと答えたという。彼女が機関銃を撃ちまくるたびに、敵は悲鳴を上げてばたばたと倒れた。この日、金確実は銃剣をかざして白兵戦にも参加した。

 金正淑が両手にモーゼル拳銃をかざし、機関銃射撃のように銃弾を浴びせて10数名の敵を撃ち倒したというエピソードも、この撫松県城戦闘が生んだものである。

 アヘンのためにモーゼル拳銃で射殺されるところだった万順部隊の連隊長は、敵弾が降りそそぐ岩に登って号令をかけ、連隊を指揮した。この日はすべての反日部隊が実力を遺憾なく発揮した。

 高橋の「精鋭部隊」は、東山の谷間で全滅した。この悲劇的な事態は、その日の午前中に関東軍司令部に報告された。後日、『東亜日報』や『朝鮮日報』を見て知ったことだが、あのとき新京飛行場では撫松駐屯軍を支援するために爆弾と弾丸を満載した軍用機が飛び立ち、通化、桓仁、四平街などからは増援部隊が緊急出動した。中江鎮守備隊も撫松へ急派された。高橋もおそらく羅子溝の聞大隊長のように上部に相当大げさな通報をしたのであろう。でなければ、あれほど膨大な増援兵力が四方八方から撫松になだれこむはずはない。高橋を救援するための敵の兵力は、臨江、長白、濛江などの隣接県からも雲霞のごとく押し寄せてきた。だが、非常な速さで推進されたこの狂気じみた収拾策も、わなにはまった高橋を救出することはできなかった。8月17日の午後、一部の増援部隊が撫松に到着したときは、すでに勝敗が決まったあとだった。我々が戦場捜索を終えて深い密林の中に撤収しているとき、新京から飛来した敵機が我々の手によって破壊された東山砲台と県城付近の住民家屋に手当たりしだいに爆弾を投下した。

 「金司令、あの飛行機も司令の催眠術にかかったんじゃありませんか」

 がむしゃらに急降下する爆撃機を小気味よさそうな目で眺めながら、万順が言うのだった。その一言だけでも撫松県城戦闘の目的はりっぱに達成されたとわたしは判断した。万順の前方には、戦利品を背中いっぱいに担いだ数百名の部下が連隊長に引率されて凱旋将軍のように元気よく歩いていた。アヘンが欠乏して集結時間さえ守れず作戦をひどく混乱させた兵士たちとは思えないほど、彼らの表情や足取りは一変していた。反日部隊の行軍隊伍からは笑い声が絶えなかった。

 「こういう戦闘をつづければ、あの兵士たちはちゃんとアヘンがやめられそうですよ」

 わたしは隊伍を指差しながら、確信をもって万順に話した。

 「お願いがあるんですが、連隊長を許してやってくれませんか」

 わたしがこう言うと、万順はにわかに涙ぐんだ。

 「金司令、ありがとう。正直なところ、それはわたしが司令にお願いしたかったことですよ。司令はそのお言葉一つで、我々全員を許してくれたことになります。これからはうちの兵士も一人前になれそうです。わたしも呉義成のように金司令となら死ぬまで統一戦線をつづけますぞ」

 確かに撫松県城戦闘は、東寧県城戦闘や羅子溝戦闘と同様、反日部隊の将兵に思想改造の道を開いた衝撃的な出来事であった。彼らは、この戦闘を体験してはじめて統一戦線の妙味を知った。実践というものはつねに理論よりも生々しく力強い信頼を与えるものである。反日部隊との統一戦線についての我々の思想と理論が空論ではなく真理であり真実であるということは、撫松県城戦闘によって再度証明された。

 撫松県城戦闘は、戦術的な面で我々に多くの深刻な教訓を残した。わたしはそれまで幾多の戦闘をおこなったが、このように状況の変化がめまぐるしい戦闘は一度も体験したことがなかった。戦争では、概して敵の動きによって状況の変化が生ずるのが通例である。しかし、撫松県城戦闘では、わが方の落度で異常の事態が発生し、そのために一時的な混乱も生じたのである。戦闘の過程で思わぬ状況が生じ障害が立ちふさがるほど、指揮官は、鉄の意志と胆力をもち、冷徹な思考力を働かして新たな状況に対処し、臨機応変の方法で沈着に逆境を克服していかなければならない。国益を擁護するための対敵闘争にせよ、自然や社会を改造するための闘争にせよ、こうした要求が提起されるのは不可避であると思う。状況の変化に巧みに対処し、必要なときに必要な決心を迅速にくだす能力は、すべての指揮官がそなえるべき重要な資質である。

 わたしは、撫松県城戦闘の結果をすこぶる満足に思った。正直なところ、わたしはこの戦闘の勝利の軍事実務的意義よりも政治的意義を重視した。その勝利の政治的意義を一言で要約すれば、反日部隊との共同戦線を強化したこと、白頭山西北地区を我々の手中にいっそうしっかりと掌握したことだと言えるであろう。掃滅した敵兵の数や戦利品の数量などはほとんど記憶にない。けれども、わたしはそれを少しも残念だとは思っていない。



 


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