金日成主席『回顧録 世紀とともに』

1 汪隊長を討ち万順を味方に


 1936年の春は、我々にとって、とりわけめまぐるしい時期だった。この春には、盛りだくさんの計画があった。新師団の編制、祖国光復会の創立、白頭山根拠地の創設準備など…、それに馬鞍山をはじめ、撫松のあちこちで突発したさまざまな重大事件が、予想だにしなかった数々の仕事をつくりだした。解決が迫られるそれらのことを処理し収拾するには、落ち着いた時間が必要だった。しかし、我々をとりまく周辺の情勢は、そうした時間を与えてくれなかった。撫松地方に君臨する2つの勢力が、それぞれ自分なりの思惑で我々の活動を妨害し障害をつくりだしていた。その一つは汪隊長の満州国警察討伐隊であり、いま一つは万順の山林部隊(中国人の反日部隊)であった。

 汪隊長とは、汪なにがしの隊長という意味である。だが、「汪なにがし隊長」または「汪隊長」という呼称には、討伐界の王という意味も含まれていた。彼は、軍閥張作霖の軍隊に服務していた当時から「匪賊討伐」が専業の討伐のベテランだった。9.18事変以後、唐聚伍が自衛軍を組織したときには彼もそれに加わり、ひところは反日の旗をかかげた。それで、我々は南満州遠征に向かうとき、彼と接触して結構よい関係を保っていた。ところが、唐聚伍が中国関内に逃げ込んで自衛軍が崩壊するとすぐさま日本軍に投降し、かいらい満州国の旗をかつぐ警察隊長に早変わりした。それ以来、日本帝国主義の忠実な手先となり、身についた討伐の腕前を余すところなく発揮するようになった。

 汪隊長はいったん討伐に出ると、素手で帰ることがなかった。討伐の対象を確実に仕留め、首や耳を斬り取っては上司の日本人に差し出した。そして、高い称賛と賞金を受けた。汪隊長は、とくに万順部隊となるとやっきになって追い回し、痛めつけた。撫松一帯で活動していた反日部隊は、汪と言えば影がよぎるだけでも震えあがるくらいで、汪隊長を「撫松の李道善」とも呼んだ。隣接県安図の悪名高い李道善は、その執拗さと悪辣さ、残忍さによって間島(吉林省の東南部地域)に広く知られた恐ろしい殺人鬼だった。汪隊長も李道善に劣らぬ手先だった。そういう汪隊長が、その年の春に我々の主な敵となり、障害となったのである。

 一方、それに劣らず、救国軍の万順が我々の活動を妨害した。じつは、撫松に来るとき、我々は万順部隊を主な友軍にしようとしていたのだった。ところが、彼の率いる反日部隊は我々を友としてではなく、むしろ敵のように対応した。金山虎が馬鞍山の児童団員のための服地を求めて来る途中、山林部隊に強奪される事件が起きたとき、遊撃隊員がその土匪と化した山林部隊への懲罰をひかえるべきだったのだが、憤激のあまりつい行き過ぎた報復をしてしまったのである。そのため、ことが少々こじれてしまった。我々には予想外の頭痛の種がもう一つ生じたわけである。

 「『高麗紅軍』は、いたって純真なので、誰であれ貧民の財産に少しでも手をつける者は許さない。それでいながら、我々山林部隊の窮状など理解しようともしない。あいつらは我々とはそりが合わないよそ者だ」

 山林隊員のあいだにこういううわさが広がった。彼らは、個々の遊撃隊員を見ても因縁をつけたり手にかけようとしたりした。共同戦線の対象がこうなので、我々としてはそれも大きな頭痛の種だった。我々は、間島での遊撃隊創建当初と同じような立場におかれた。当時と多少違う点があるとすれば、我々の力が弱小ではなく、軍事的権威が公認されていたので、敵の陣営に属する汪隊長と、同盟者になりうる万順隊長のいずれもが、我々を恐れているということであった。

 どうすれば彼らの妨害をはねのけ、落ち着いた時間が得られるだろうか。思案の末に、汪隊長とは衝突を避けて適当にあしらい、万順隊長とは共同戦線を張ることにした。

 わたしは汪隊長につぎのような内容の手紙を送った。

 ――あなたとわたしは、旧知の間柄だ。あなたもわたしをよく知っており、わたしもあなたをよく知っている。だから、腹を割って話したい。我々の主要な敵は日本軍だ。我々に危害を加えないかぎり、満州国の軍警を相手に戦う意思はない。それで、あなたが我々の要求に同意するなら、あなたの統率する警察隊とその管轄下の各警察分署を攻撃しないことを確約し、和平を提議する――

 こういう書き出しで、山林部隊にたいする討伐を中止すること、人民革命軍から派遣される工作員が城市や村落に自由に出入りしたり留まれるようにすること、人民革命軍に積極的な支持声援を寄せている愛国者にたいする弾圧を中止し、収監している愛国者を即時釈放すること、などの要求条件を出し、それを受諾すれば撫松県域での「治安維持」にできるだけ混乱をもたらさないことを保証した。

 数日後、汪隊長から、わたしの提議に全面的に同意し、3つの要求条件を全部受諾する旨の回答が届いた。こうして、わたしと汪隊長のあいだには、互いに手出しをしないという一種の密約が取り交わされたのである。双方が互いに約束を遵守したので、しばらくの間はなんの衝突も起こらなかった。汪隊長は、わたしの要求どおり山林部隊にたいする討伐を中止し、自分の管轄下にある城市や集団部落に遊撃隊の工作員や連絡員が自由に出入りすることにも目をつむり、朝鮮人愛国志士への弾圧や検挙の手も緩めた。我々も汪隊長管轄下の部隊を襲撃したり、彼らの駐屯地域で騒ぎを起こすことのないようにした。わたしは民生団の調書包みを焼却したあと、隊員を武器獲得工作に送り出すときには、撫松県外の他の地方へ行って戦闘をしたり武器を得たりすべきで、県内では騒ぎを起こしてはいけないときびしく戒めた。

 汪隊長は決して愚鈍な人間ではなかった。ずぬけて賢く敏感な人間だった。彼は、間島と北満州での我々の活躍ぶりと実力のほどを十分承知していた。そのためか、我々とはおよそ戦おうとする素振りさえ見せなかった。我々が撫松に現れたという情報に接するや、彼は部下にこう注意を与えたという。

 「『高麗紅軍』には刃向かうな。なまじ襲いかかっては骨も拾えなくなる。兵力が少ないからとみだりに押え込もうとするな。彼らの気分をそこねないように避けるのが上策だ。勝ち目のない戦ははじめから挑まないほうがいい」

 汪隊長はカーキ色の軍服を着た人民革命軍を目にすると、見ぬふりをして遠ざかった。そのかわり黒服姿の山林部隊を見つけると、気負い立って襲いかかった。1000名を超す万順部隊に比べれば、わたしが直接引率していた兵員はそれほどのものではなかったが、汪隊長から被害をこうむるのは我々の方ではなく万順の山林部隊だけだった。じつは、汪隊長との和平条項に万順部隊に被害と損失が及ばないようにすることを明記したのは、反日勢力を保持、強化する目的もあったのである。

 1930年代の後半期にいたって反日部隊の活動は下火になっていた。救国軍の主力をなしていた王徳林、唐聚伍、李杜、蘇炳文などの部隊は、すでに山海関かソ連をへて中国関内に退却してしまい、王殿陽部隊、殿臣部隊のような徹底した反日武装部隊は最後の一兵まで決死報国の覚悟で血戦を重ねた末、壊滅させられていた。丁超部隊、王玉振部隊など一部の部隊は白旗をかかげて投降した。撫松――臨江県境にあった万順配下の群小部隊と姉妹部隊からも投降兵が増えていた。1935年の秋、初水灘では馬興山部隊の90余名の投降兵を歓迎する帰順式などというものまで催した。救国軍の残存勢力は、小集団に分散し、深い山の中にたてこもって消極的な抵抗を試み、一部は土匪と化した。こうした実態は、一部の共産主義者のあいだに反日部隊との統一戦線を軽視し、ひいてはそれを不要とする偏向を生んだ。こういう状態を放置するなら、反日連合戦線にたいする我々の一貫性が失われることになる。

 我々は汪隊長と和平の約束を取り交わす一方、万順部隊と共同戦線を張る交渉もはじめた。我々の部隊には、山林部隊出身の年配の隊員がいた。わたしは、彼を通じて万順につぎのような内容の手紙を送り届けた。

 ――あなたの名は、わが革命軍にも広く知られている。我々は撫松に到着してすぐ、あなたに会って名乗り合い、反満抗日共同闘争の対策についても話し合おうと思った。ところが挨拶も交わす前に好ましからぬ衝突事件が発生し、それができなかった。これを遺憾とするものである。当方の政治委員が、革命軍の給養物資の強奪をはかって銃傷を負った山林隊員を審問したところによると、彼らはすでに2、3か月前にあなたの統率する部隊から逃亡して土匪に転落した脱走者である。事実がこうであるにもかかわらず、あたかもわが方の兵士があなたの率いる山林部隊の現役隊員に危害を加えているかのごとくうわさを広めているのは、両軍間の親睦を快しとしない敵の奸計である。わたしは、両軍が誤解と不信を解消し、反感と敵意を捨て、戦友となり兄弟となって抗日共同戦線に乗り出すことを熱望してやまない――

 万順は回答をよこさず、この提議を無視した。そうした沈黙の回答がなにを意味するかは明白だった。きみらなしでもやっていけるということである。事実、撫松一帯には、万順隊長にそういう意地を張らせる状況が生まれていた。汪隊長が我々との約束どおり、万順部隊をはじめすべての反日部隊にたいする攻勢を緩めていたのである。汪隊長は見かけは討伐をつづけているようなふりをしたが、実際には討伐をしなかった。万順の群小山林部隊は支援を受けなくても息をつき、生きのびられるようになった。これは、かえって山林部隊の散発的な妨害策動をあおり立てる結果をまねいた。だが、我々の重ねての警告によって、そうした散発的な加害行為もしだいに鳴りをひそめるようになった。共同戦線は実現しなかったが、我々は落ち着きを得た。汪部隊も万順部隊も、それ以上我々に手出しをしなかった。ようやく手にしたその時間は、我々がめざす仕事に専念できるようにした。

 我々は漫江でも大営でも、その地域の満州国軍警と和平交渉を進め、不可侵の約束を取り付けた。我々がはじめて漫江へ行ったのは1936年4月の末ごろだった。そこには30名ぐらいの警察隊員が居座っていた。それくらいの敵をかたづけるのはたやすいことだった。しかし、我々は武力行使をせず、代表を送って警察隊と談判した。――あなたたちには手出しをしない。そのかわり、この村落で我々が安心して過ごせるようにできるか。知らぬふりをし、後日上部から追及されれば遊撃隊の数が多過ぎて対抗できずじっとしていた、というように始末がつけられるか――警察隊はこの提案に二つ返事で応じた。遊撃隊が手出しをせず、談判をもちかけてきただけでもお辞儀をしたいくらいの気持ちだったのであろう。

 李東学は、保衛団の近くの家に機関銃を据え、射手に私服を着せて昼夜警戒勤務にあたらせた。その間に、わたしは漫江で祖国光復会の創立と関連して東崗会議に提出する文書をほとんど整理することができた。敵が攻めてくる心配がないので、仕事は目に見えてはかどった。

 我々は、戦いをしかけようとしない敵にたいしては寛大な処置をとった。これは、抗日武装闘争を開始した当初から鉄則としてきた対敵方針であり、抗日武装闘争の全期間にわたって終始一貫堅持してきた朝鮮人民革命軍の軍事行動準則であった。我々は、人を殺すためにではなく、生きんがために銃をとったのである。祖国を救い同胞を救うのが、まさに我々の闘争目的であり使命であった。我々の銃剣は、もっぱら祖国を占領し、わが民族を圧殺し、朝鮮人民の生命と財産を侵害する敵の懲罰にのみ向けられた。それゆえ、人民革命軍の正義の剣は、生かす価値のある者には彼らを保護する慈愛の宝剣となったが、生かす価値のない悪質な反抗者には断固たる懲罰の剣となったのである。

 春のあいだ鳴りをひそめていた汪隊長は、なにに触発されたのか、夏になると再び反日部隊にたいする討伐をはじめた。撫松県城駐屯の日本軍守備隊と憲兵隊から圧力をかけられたようだった。反日部隊兵士たちの首がまたもや撫松の街角の電柱にさらされるようになると、万順配下の山林部隊からは再び脱走兵が出てきた。抗日救国の理念に徹することのできない利己的で近視眼的な山林部隊の本性が息を吹き返し、反日勢力の結束に腐心していた我々をまたもや悩ませた。汪隊長の討伐に歯止めをかけなければ、万順部隊は崩壊の運命をまぬがれなかった。わたしは、汪隊長に2度目の手紙を送った。

 ――わたしは、あなたが配下の警察隊を動員して山林部隊にたいする討伐を再開したとの不愉快な通報を受けた。これが事実であれば、あなたはわたしとの協約を破ったことになる。わたしは、あなたが約束を破ることによって自分の名誉を傷つける結果をまねかぬよう熟考して身を処すことを勧告する。頑固に挑戦し反抗する者には寛容が適用されないことを銘記せよ――

 この警告文が伝達されて1週間が過ぎても、汪隊長からの返答はなかった。万順部隊にたいする討伐も中止されなかった。「脅しつけるからといって怖がるとでも思うのか。おれは臆病者ではない。戦うというなら戦おう」 おそらく汪隊長はこういう腹だったのだろう。撫松県内の要所要所に数百名の関東軍討伐兵力が増派されてきた。汪隊長はますます傲慢無礼に振舞った。

 7月初旬にわたしは最後の警告文を送った。この手紙を送って4、5日目に、返答のかわりに汪部隊がまたも大碱廠付近の万順部隊の宿営地を奇襲したという知らせが飛んできた。我々が撫松県と臨江県の境にある森林地帯に留まっていたときのことである。汪隊長の行為は、わたしと戦友たちの怒りをかきたてた。上司である日本人に操られるかいらい満州国の警察隊長が、共産主義者との約束に最後まで忠実であろうはずはなかった。しかし、彼らも中国人であり、それなりの理性というものがあるに違いなかった。我々が満州国軍を相手に進めてきた敵軍切り崩し工作の根底には、そういう理性にたいする一種の信頼感があった。汪隊長を説得して不可侵協約を結んだのも、いわばそういう信頼感に根ざしていたのである。我々が信をおいた敵軍の中下層の将校は、ほとんどが約束に忠実であった。額穆でわたしと思わぬ因縁を結んだ満州国軍の連隊長にしても、我々に『鉄軍』という雑誌を系統的に送ってくれた大蒲柴河の満州国軍の大隊長にしてもそうであった。

 ところが旧知の汪隊長は、我々との約束を弊履のごとく捨て去ってしまった。信念のない者の行き着くところは背信しかない。彼には、日本帝国主義が滅び朝中両国人民が勝利するという信念がなかったのだと思う。汪隊長の裏切り行為を許すことはできなかった。ことに、彼が我々の辛抱強い期待と誠意に銃火をもってこたえたことには憤激せざるをえなかった。

 わたしは金山虎を呼び出し、敏捷な戦闘員を30名ほど選んで第10連隊の隊員と共同で汪隊長を懲罰するよう命じた。同時に、わたしも主力部隊を率いて西南岔付近の嘴子山へひそかに移動した。西南岔はさほど大きくない集団部落だったが、敵討伐隊の重要な発進基地だった。この村には、警察分署と自衛団(日本が親日分子でつくった武装治安隊)の兵力もあった。我々が西南岔戦闘を計画したのは、協約を破った汪隊長をこらしめ、敵を軍事的に制圧するのが主な目的だった。また、この戦闘によって新師団の武装に必要な銃器類を手に入れる考えだった。

 新しく編制された師団は、すでにおこなわれた頭道松花江戦闘についで老嶺でも大がかりな戦闘を計画した。この戦闘が、首尾よく終われば多くの武器が手に入るはずだった。我々は綿密な作戦計画を立てて実行に移ったが、まったく予想外の状況が突発したため、戦闘を計画どおり進めることができなかった。敵の斥候の1人がこともあろうに、我々の伏兵圏内に小用をたしに入ってきて待ち伏せていた隊員を発見し、あわてて銃声を発した。わが方の隊員もつられて応射した。こうして数十名の敵を殺傷し、何挺かの武器もろ獲したが、戦闘は計画どおりきれいに締めくくることができなかった。

 老嶺では敵軍を完全に掃滅できなかったが、それは今回の西南岔で十分に埋め合わせるつもりだった。当時、我々の部隊には、西南岔の満州国警察に服務しているうちに分署長の悪行に不満を抱いて脱走してきた中国人隊員がいた。彼の話によれば、西南岔警察分署長は人びとのひんしゅくを買っている悪者だとのことだった。分署長は、集団部落の住民は言うまでもなく、警官たちにたいしても暴君のように振舞っていた。中国人隊員は、自分が遊撃隊を訪ねてきた第1の目的は中国の解放に先立ってその警察分署長を処刑することだったと、怒りをこめて語った。我々が老嶺につぐ戦闘の場として西南岔を選択したのは、例の脱走兵がそこの実状にくわしいという点を考慮に入れたからでもあった。

 我々は、白昼に西南岔を襲撃することにした。正午から1時までの間は警官の昼食の時間であり、また武器掃除の時間でもあった。掃除のために武器が分解されているときに攻め込めば、さほどの抵抗も受けずに敵を制圧することができるに違いなかった。麦わら帽子をかぶり、農具を手にして農民に変装した遊撃隊員たちは、土城に接近するや素早く城門をくぐり抜けて警察分署の兵舎に躍り込んだ。分署長以下警官全員がたいした抵抗もできず捕虜になった。自衛団員も全員捕えられた。戦闘が終わったあと、我々は警察分署の前に仮設舞台をつくって演芸公演をおこなった。そのあとで警察分署に火を放ち西崗方面へ撤収した。

 警官たちを諭したのち路銀を渡し帰郷をすすめているとき、捕虜の一人が隊員にそっと尋ねた。

 「ところで、パルチザンの隊員さん、城門はどうやって突破したんだね」

 「飛び越えてきたのさ」

 隊員は冗談を言った。

 「それこそ神業というもんだ。いったい警備兵のやつらはなにをしておったんだろう」

 案の定、西南岔警察分署の襲撃は、汪隊長に大きな心理的打撃を与えた。彼は体面を保つためにも討伐にますます狂奔せざるをえなかった。

 汪隊長をおびきだすために撫松県城の近辺に現れた金山虎は、30名ほどの誘引班隊員を山林部隊に変装させた。もちろん、彼自身も山林部隊の小隊長になりすました。汪を引きつける好餌が黒い服であることを我々はよく知っていたのである。夜中に県城付近のある村落に行った金山虎の小部隊は、農民の財物を取り散らかして山林部隊の真似をし、黄泥河子村に足をのばしてまた同じような手口で騒ぎを起こしては、裏山の谷間に姿を消した。県城周辺の村落に山林部隊が現れ、黄泥河子方面へ消えたという報告を受けた汪は殺気立ち、翌日の早朝、部隊を率いて黄泥河子村に駆けつけた。

 「心配せずに、わしを待て。あの土匪どもを皆殺しにして帰ってくるから、昼食のご馳走でもととのえて待っておれ。昼食前にやつらの首をはねて帰ってくる。不届き者めら、目に物見せてやるぞ!」

 村人の前でこう豪語した汪は、部隊を率い誘引班の跡を追って裏山を登りはじめた。裏山の中腹には第10連隊の戦闘員が待ち伏せをしていたが、早暁に金山虎の誘引班がそれに合流した。戦闘員たちは、あらかじめ誘引用のかかしを立てて汪の目を惑わせた。かかしのあいだに隠れていた戦闘員たちが先に銃声をあげた。汪とその配下の警察討伐隊は、森の中の黒服のかかしに向かって降伏しろと叫びながら猛烈に突撃した。手を上げるどころか逃げ出そうともせず、倒れもしない「山林部隊兵士」の執拗な応戦に汪は業を煮やした。彼は両手の拳銃を乱射しながら山をよじ登ってきたが、ついに遊撃隊員の目の前で絶命した。命運尽きて倒れる瞬間に汪の得た教訓がなんであったかは知る由もない。正義にたいする背信がどんな結末をもたらすかを遅まきながら悟ったのであれば幸いと言えよう。だが、それを悟ったとしても、時すでに遅しだったのである。

 汪隊長がやられたといううわさが立つと、あちこちの反日部隊の指揮官が金山虎のところに来て、汪の首を売ってくれとせがんだ。これまで数多くの反日部隊の将兵の首をはねてさらした汪の悪行にたいする仕返しとして、撫松の城門に彼の首をさらしてやるというのである。わたしは、汪の死体を指1本触れずに撫松県警察隊に届けるよう、金山虎に指示した。その後、汪隊長の葬儀が仰々しくとりおこなわれたといううわさが耳に入った。その葬儀によって、人民革命軍のうわさはいやがうえにも高まった。敵軍のあいだには、人民革命軍に刃向かっては死をまぬがれないといううわさが広がった。汪隊長を懲罰した西南岔戦闘と黄泥河子戦闘については、韓雪野の長編小説『歴史』に比較的詳細に描かれている。

 汪を除去したのち、我々は日本軍まで制圧して撫松一帯を完全に我々の天下にしようと構想した。偵察兵を派遣して各方面の情報を収集しているとき、60名余りの日本軍が撫松から船で臨江方面へ向かうということを探知した。わたしは即刻、伏兵戦の手配をした。この戦闘もまた痛快きわまるものだった。破損した船で命からがら逃げのびたのは10数人で、あとは全員魚腹に葬られた。こういう戦闘が幾度か繰り返されるうちに、撫松県一帯は我々の天下になった。

 その年の夏はしばらくの間、大営で過ごした。温泉場のそばにテントを張り、さまざまな活動を進めた。祖国光復会の下部組織を結成する活動、撫松と臨江の山林地帯に印刷所、裁縫所、兵器修理所、後方病院を含む密営を設置する活動など、少なからぬ仕事をした。

 我々が陣取っている所から小さな峠を1つ越えると敵軍の駐屯地だった。我々は大営に着くとすぐ、彼らに書面通告を発した。

 ――我々はしばらくの間、温泉で過ごすから、そのつもりで我々の前に現れようとも、逃げ出そうともするな。そこにじっとしていて、我々が要求する物資を送り届ければよい。そうすればおまえたちの生命と安全は保障する――

 敵は我々と目と鼻の先にいながらも、あえて近づこうとせず、かといって逃げ出すこともできなかった。そして命じたとおり、おとなしく物資調達者の役割を果たした。地下たびを持って来いと言えばそれを持って来るし、小麦粉を運んで来いと言えばそれを運んで来た。

 万順が、わたしに使者を差し向けて汪部隊の撃滅を祝い、安否を問うてきたのは、ちょうどこのころだった。その後しばらくして、万順がみずから大営温泉地にわたしを訪ねてきた。わたしがあれほど切実な手紙を送ったり使者を派遣したりして、共同戦線の結成を訴えたときにはなんの返答もよこさなかった驕慢な老人がみずから訪ねてきたのである。これは驚くべきことだった。それまでは共同戦線のために我々が于司令や呉義成を訪ねたものだったが、汪隊長を除去したあとは名だたる万順がみずからわたしを訪ねてきたのである。万順は、ひと目でゆうに50歳を越した人と見てとれた。アヘン中毒のせいか、目がとろんとしていた。彼はわたしに会うやいなや、こう言った。

 「反日部隊の兵士たちはみな、汪をやっつけてくれた金司令をこのうえない恩人と思っています。わたしは、金司令へのお礼を兼ねて、司令と兄弟の義を結びたい気持ちを伝えようと訪ねてきた次第です。願わくは、わたしがこれまでもうろくして、はしたない真似をしたことをいっさい水に流し、遠路を訪ねてきたこの気持ちをくんで、わたしと家家礼(チャジャリ=一族という意味の家父長的な結社)を結んでいただきたいのです」

 万順の申し入れを聞いて、わたしはしばしためらった。わたしは以前、于司令や呉義成と共同戦線を実現するときに提起したいくつかの条件を出し、それを受諾するなら家家礼を結ぶことも考えてみると答えた。その条件というのは、反日部隊が我々と親交を結んで友軍となること、日本帝国主義に絶対に投降、帰順しないこと、人民の財物を奪わないこと、遊撃隊の工作員や連絡員を積極的に保護すること、我々と常時情報を交換することなどであった。万順は意外に快くこれらの条件に同意した。そしてわたしが、これらの条件に補足の説明を加えるたびに大きくうなずき、「達」の字をそえて、「達見」だ、「達通」だと賛意を表した。結局、我々はわずか数時間の対面によって共同戦線を結び、両軍は友軍となった。その後、万順は我々との約束を一度もたがえたことがなかった。

 汪隊長を討ち万順を味方につけたことは、南湖頭会議以後の朝鮮人民革命軍の行路において一つの意義深い出来事となった。その意義は、たんに敵を軍事的に制圧し、人民革命軍の威力を誇示したことにのみあるのではない。撫松地区での我々の不眠不休の努力は、白頭山地区へ進出するための足がかりをつくるうえで強固な土台石となった。この努力により、我々は朝中両国人民と愛国勢力の共同戦線を実現する道でも忘れがたい思い出を残した。



 


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