金日成主席『回顧録 世紀とともに』

5 祖国光復会


祖国光復会の創立を宣言する金日成将軍(1936年5月5日)

 新しい師団の誕生によって朝鮮人民革命軍の主力部隊がいちだんと強化されたので、われわれの前途には、反日民族統一戦線運動と党創立の組織的・思想的準備をより幅広く、深く展開しうる突破口が開かれた。新師団の出現は、武装闘争を国内深くに拡大し、各階層の愛国勢力を一つに結束するための朝鮮共産主義者の活動を軍事的、政治的に保障する強力な推進力となり、卡倫会議以来、力強く展開してきた統一戦線運動に画期的な転換をもたらす雄大な展望を開いた。

 南湖頭会議以後、われわれの統一戦線運動は、汎民族的な統一戦線体を組織する活動に集中された。一つの常設的な統一戦線組織を結成し、その傘下に広範な反日愛国勢力を結集するのは、朝鮮革命発展の見地からしても、内外情勢の要請からしても、これ以上引き延ばすことのできないさし迫った課題であった。自主独立をなし遂げるもっとも確実な道は、民族大団結にもとづく全人民の抗争であり、民族大団結が自力独立の成否を左右する鍵であるというのは、わたしが早くから主張してきた思想である。統一戦線は主体性の確立とともに、抗日革命闘争の初期から堅持してきたもっとも重要な理念の一つであった。民族大団結と統一戦線の理念にもとづき、われわれはさまざまな民族主義勢力と反日愛国勢力との連合を実現するためねばり強く努力する一方、闘争舞台が中国であるために、中国の広範な反日勢力、共産主義者との共同闘争も積極的に発展させてきた。その過程でわれわれが積みあげた少なからぬ成果と経験は、統一戦線運動の幅広い発展の貴重な源泉となった。われわれは、こうした成果と経験を踏まえて統一戦線運動を全民族的な範囲で展開する条件をととのえると同時に、それを遂行する中核と主体的力量をすみやかに育成するために全力をつくした。

 民族の総力を一つに結集する試みは、1930年代以前にもなされた。朝鮮の近代史において、主義と主張を超越した民族の大同団結の問題が論議されはじめたのは、1920年代の中期以後からである。当時、わが国の民族解放闘争の舞台には、民族主義と共産主義に代表される2つの勢力が存在していた。日本帝国主義の暴政と収奪が強まるにつれ、民族解放運動を指導していた先覚者たちは愛国勢力の糾合と民族大団結の必要性を痛感するようになった。こうした必要に迫られ、初期の共産主義者は民族主義者との連合を模索し、民族主義者は共産主義陣営との提携を試みた。民族の解放と民族自主権の復活に同一の利害関係をもつ2つの陣営の指導者たちの共同の努力によって、1927年2月、ソウルでは朝鮮史上初の統一戦線組織である新幹会が創立された。当代の愛国人士と歴史家が新幹会を指して民族単一党とも呼んだほど、この団体への民衆の期待と信頼は大きかった。共産主義と民族主義の両勢力間の反目と対立に不満をいだいていた大衆は新幹会の創立を歓迎した。主義主張の違いのために反目し合っていた共産主義運動家と民族運動家が遅ればせながら統一団結の必要性を認識し、単一戦線機関を結成したことは、民衆の念願と時代の要請に合致する大慶事であった。

 わが国の民族協同戦線の初の申し子といえる新幹会は、その趣旨と目的において愛国的で反日的なものであった。民族を代表するといえる2大勢力の共同戦線が実現することにより、新幹会は発足の当初から全民族を代表する唯一の組織となった。この団体の創立趣旨は、発起人たちが「古木新幹」という意味で新幹会と名付けた名称そのものによく反映されている。「古木新幹」とは、老木から新しい幹が伸びるという意味である。名称が示しているように、新幹会は新しい基礎に立った民族力量の総結集を志向していた。

 李商在、洪命熹、許憲など民衆の人望が厚い進歩的な愛国の志士によって発起、推進され、運営された新幹会運動は、民族の政治的・経済的覚醒の促進と民族の団結の強化と、いっさいの日和見主義の否定を明らかにした綱領の内容も革新的で革命的なものであり、会員の職業別構成も多様で幅広いものであった。新幹会には、労働者、農民、旅館業者、写真業者、記者、商人、医師、会社員、教員、代書人、牧畜業者、印刷業者、漁業者、運輸業者、紡織工、縫製工、学生、弁護士、著述家、銀行員、聖職者など、さまざまな職業をもつ3万7000余人が参加した。しかし、左右合作によって民族の総力を一つに結集することをはかったりっぱな趣旨と目的にもかかわらず、新幹会は1931年5月に自己の存在を終えた。新幹会解散の原因についてはいろいろな説がある。共産主義運動家はそれが民族主義者にあるとし、民族主義者は共産主義者に責任を転嫁しようとした。ひところ一部の歴史家は、新幹会解散の根本原因は上層部の分裂と改良主義的傾向にあるとし、この組織の愛国的性格と民族史的意義そのものを否定しようとした。わたしは、そのような虚無主義的な見解に同調することはできなかった。解散の原因を科学的に分析し、教訓をくみ取るのはよいが、責任を他に転嫁するのは好ましくないことである。新幹会の上層部に若干の改良主義者がいたからといって、組織そのものを否定してはならず、その民族史的意義をゼロとしてもならない。

 新幹会解散の原因はなによりも、朝鮮民族の反日抗争勢力が一つに団結するのを恐れた日本帝国主義者が内部にくさびを打ち込んで分裂をはかり、改良主義的な上層部を買収したことにある。敵の謀略と破壊工作をしりぞけ、新幹会を巧みに運営し導いていける中心的な指導陣がなかったことも解散の主な原因の一つといえる。

 新幹会の瓦解から骨身にしみる教訓をくみ取ったわれわれは、愛国的民族勢力の統一においてはわれわれが主導権を握るべきだという強い決意のもとに、反日民族統一戦線の問題を重要な方針としてうちだし、民族の総力を抗日救国偉業の旗のもとに結集する地道な努力を積み重ねてきた。その過程で、この運動を主導することのできる中核を育成し、有益な経験も積んだ。

 南湖頭会議は、汎民族的な統一戦線体の創立にかんする決定を採択することにより、わが国の統一戦線運動に新たな転機をもたらす歴史的な分水嶺となった。

 この時期は、国際的にも帝国主義の侵略を阻止するための人民戦線運動が台頭し、ファシズムと対決していたときである。ドイツにおけるナチスの政権奪取に大きな衝撃を受けたフランスの労働者階級は、自国でもファシズムの脅威が増大しているのを目のあたりにし、反ファシズム統一戦線結成の必要性を痛感した。大衆が統一を熱望したので、社会党は1934年7月、共産党の提案を受け入れて反戦・反ファシズム統一行動協定を締結した。2党の影響を受けて分離していた労働組合も統合された。こうした時流に乗って「労働と自由と平和の人民戦線」が結成された。情勢の進展は、この戦線を中産階級との統一にまで拡大発展させることを求めた。こうして1935年6月末に、社会党と共産党の連合に小ブルジョア政党である急進社会党が加わることにより、いわゆる「人民集合」が実現した。7月14日、パリでは数十万名の参加のもとに、人民戦線の大規模なデモがおこなわれた。3党の首脳であるモーリス・トレーズとレオン・ブルム、ダラディエが肩を並べてデモ行進の先頭に立った。1936年1月には、3党を中心に、反戦・反ファシズム闘争に立ち上がった進歩的グループの統一にもとづく人民戦線綱領が正式に発表され、同年4月から5月にかけておこなわれた下院の総選挙で人民戦線は圧倒的な勝利をおさめた。その結果、サロー内閣は総辞職し、レオン・ブルムを首班とする人民戦線内閣が誕生した。人民戦線政府は、大衆の購買力を高める方法で恐慌を切り抜けようとしたが失敗し、スペインの人民戦線政府を支持しながらも、いわゆる不干渉政策を実施して積極的な支援をしなかった。結局、人民戦線も崩壊してしまった。しかし、これはフランスにおけるファシスト政権の樹立を阻止し、国際共産主義運動と反ファシズム闘争における一つの有益な経験となった。

 コミンテルンは、フランスにおける人民戦線運動の発展にヒントを得て、全世界の共産主義者に人民戦線の結成を重要な闘争目標として提示した。これにもとづいて国際共産主義運動は、資本主義の即時打倒をめざす世界革命ではなく、平和と民主主義を擁護し戦争とファシズムに反対する運動を当面の課題としてうちだした。これは、国際共産主義運動における一つの路線転換といえた。第2インターナショナル系列に属する多くの政党はコミンテルンの統一戦線提案を拒否したが、フランス、スペイン、ラテンアメリカなどでは人民戦線運動のめざましい発展をもたらした。1936年2月のスペインにおけるアサニャ人民戦線政府の出現はその端的な例といえる。スペイン人民戦線は、フランコの反乱とドイツ、イタリアの軍事干渉によって窮地に陥った。スペイン人民戦線にとって致命的な打撃となったのは、アメリカとイギリス、フランスの主導のもとに推進されたいわゆる不干渉政策である。厳正中立と武器禁輸を決定した不当な不干渉政策は結局、反乱軍を助ける結果をまねいたのである。ソ連もはじめは不干渉の立場をとっていたが、それが人民戦線政府にとって決定的に不利であることが明白になると態度を変え、人民戦線政府に飛行機や戦車などを送った。スペイン人民戦線の危機は、各国の知識人と勤労者大衆の同情を呼び起こした。そして、各国から多くの義勇兵がスペインへ駆けつけた。こうして、スペインはファシズム勢力と人民戦線を支持する進歩的勢力間の国際的交戦の舞台となったのであるが、その交戦は小規模の世界戦争を連想させた。

 以上が、われわれが東崗で祖国光復会を結成したころの国際的な反ファシズム運動の状況であった。当時、われわれは、イタリア侵略者に抗して立ち上がったエチオピアの愛国者の英雄的な抗戦にも大いに力づけられた。

 コミンテルンは、急変する世界情勢をすばやく把握し、各国の労働者階級と勤労人民を反戦・反ファシズム闘争に立ち上がらせ戦争を防止して平和を守り、ファシズムに反対して民主主義を固守することを当面の戦略的課題として提示し、世界革命の指導機関としての本分を果たした。ここに反ファシズム人民戦線運動におけるコミンテルンの歴史的な功績があるといえる。

 われわれにとってファシズムは、新しい敵ではなかった。国際ファシズムの台頭によって、朝鮮革命の対象が変わったわけでもなければ、性格が変わったわけでもなかった。われわれは、コミンテルンが反ファシズム人民戦線運動路線をうちだす前から、われわれなりの反日民族統一戦線路線を示し、その軌道にそって朝鮮革命を力強く前進させてきた。

 汎民族的な統一戦線体としての祖国光復会を創立する準備は、南湖頭会議以後に進められた。それまでは主に、わたしがひとりで光復会創立の構想を暖めてきたにすぎない。金山虎、崔賢、朴永純をはじめ、何人かの同志たちがときおり必要な助言をしてくれることもあったが、彼らは概して司令官同志の考えどおりにしてもらいたいという立場をとった。そのうちに、敦化地方の玉水川付近のある山村で年配の識者に出会ったが、その人がりっぱな助言者になり、相談相手になってくれた。その村落には朝鮮人の家が2軒あったが、わたしはそのうちの1軒にとどまっていた。そこへ、和竜地方で活動していたある小部隊が訪ねてきて、妙な人を連れてきたと報告した。和竜の僻村で会ったのだが、小部隊が司令部を訪ねていくということを知って金日成将軍に会わなければと言ってついてきたというのである。彼らは、正体不明の人物を司令部に連れていくことはできないと考え、何回も家に帰るようにと言った。しかしその人は、きみたちはきみたちで行くがいい、わたしはわたしで行くから心配することはない、お互いに他人のことにはかまわないことにしようと言い、一定の距離をおいてゆうゆうと小部隊についてきたというのである。

 こういうわけで、彼は会う前から好奇心をそそったが、初対面の場でもやはり変わった態度をとった。小部隊のメンバーが、わたしを司令官だと紹介したが、その妙な客は耳を貸そうともせず、自分の年と熱意をくんででも本物の金日成将軍に会わせてほしいと言うのだった。わたしが、その家の薪を割っていた身格好のまま応対したので、そう言ったようである。わたしをじろじろと眺め回していた彼は、いくらなんでも金将軍がそんなに若いはずはないし、将軍ともあろう人が作男のように薪を割り、粗末な服を着ているはずがないと言うのである。北満州の官地付近で野宿したとき、たき火の番をつとめた新任の伝令兵が居眠りをしてわたしのズボンを焦がしたことがあった。その古い綿入れに繕った跡まであったのだから、身なりがみすぼらしく見えるのも無理からぬことだった。

 とにかく、変わり者だった。彼はホー・チミンのようなあごひげをたくわえていた。実際は44、5歳だが、年齢より老けていて50過ぎに見えた。彼は、巷のうわさはよく耳にしていたが、あまりうわさが高いので、どんな人なのか会ってみようと思って訪ねてきたと言うのだった。わたしが「前評判の祝宴にご馳走はない」という言葉を返すと、彼はうなずき、将軍の服装を見ただけでも苦労のほどがうかがわれると言った。年の差が大きいにもかかわらず、なぜかすぐに話が通じ、気心が通じた。彼の自己紹介がまた、突飛であけすけなものであった。

 「わたしはこれといってしたこともなく、あっちに付いたりこっちに付いたりで右往左往してきた日和見主義者です」

 わたしはこれまで数千数万の人に会ったが、はなからなんのためらいもなく自分を日和見主義者だという人に会ったのははじめてだった。底抜けに良心的な人こそ底抜けに率直なものである。率直さは、白雪のように汚れない良心の反射であり、隠しきれない良心の光といえる。みんなを面食らわせるほど率直な数言によって、わたしはすぐ彼が好きになった。みずから卑下するその飾り気のない話からかえって彼の人格の高さを読み取った。

 わたしは早く迷魂陣へ行かなければならなかったので、その村に長居はできなかった。それで、彼が心残りしない程度に話し合って別れるつもりであった。ところが、いざ発とうとすると、彼はわたしについて行くと言いだした。金将軍とすぐには別れがたいから、数時間だけでもおともをして、話でもさせてもらいたいというのである。なぜか、わたしも彼と別れたくなかった。それで、わたしは彼を連れていくことにした。行軍中ずっと彼と話を交わしたので退屈しなかった。話に熱中しすぎて、しばしば隊員を休ませることも忘れて行軍をつづけることさえあった。そんなときは、金山虎がそばにきて、少し休んではどうかと耳打ちしてくれた。

 まさにこの人が、わが党の歴史に祖国光復会の発起人と記録されている「パイプじいさん」の李東伯である。「パイプじいさん」というのは、彼のあだなである。咸鏡南道端川が李朝末期の参領(武官の階級の一つ)で、有名な義兵指導者、共産主義運動家である李東輝の故郷であることを知る人は少なくないが、李東伯の故郷であることを知る人はあまりいないだろう。漢学を修めた李東伯の成長過程に及ぼした李東輝の影響はきわめて大きく、そのため彼が独立運動に飛びこんだということも、行軍途上の話で得た知識である。彼が所属していた闘争団体の名称は軍備団で、その所在地は長白地方であった。軍備団と姜鎮乾の話が出ると、われわれの話はいっそうはずんだ。姜鎮乾については、彼もわたしに劣らずよく知っていた。李東伯は、八道溝や臨江方面にもたびたび足を運び、そのたびに姜鎮乾と深い連係を保ったという。軍備団での彼の職務は、通信事務局長であった。しかし、庚申年(1920)大討伐の嵐が長白地方に波及してくると、あれほど威を振っていた軍備団も一朝にして雲散霧消してしまった。失望した李東伯は、李東輝を訪ねてロシアへ行った。彼はチタで李東輝に会い、ついで高麗共産党にも入党した。昨日までの独立運動家が突然、共産主義運動家に変身したのである。それから間もなく、彼は派閥争いに巻きこまれることになった。

 李東伯の口から高麗共産党の話が出たので、五家子で高麗共産党の党員証を見たことを思い出し、辺大愚を知っているかと聞くと、彼とは莫逆の友だと答えた。わたしが五家子の辺大愚から高麗共産党の党員証を見せてもらった話をすると、李東伯はジャガイモの判を押した代表証も見たのかと聞いた。その話は初耳だと答えると、彼はジャガイモの判の話をしてくれた。

 1922年11月、ロシア極東のベルフネウデンスク(現在のウラン・ウデ)で上海派とイルクーツク派の合同大会が開かれることになった。大会で多数派とならなくては合同後に党の主導権を握ることができないと考えた両派は、自派の代表を増やすため熾烈な暗闘をくりひろげた。イルクーツク派は、ジャガイモの判までつくって大量の代表証を偽造し、大会ににせの代表を参加させた。上海派もそれに劣らぬ不正行為をした。大会はすったもんだのあげく、修羅場になってしまった。幻滅を感じた辺大愚は、民族主義運動にもどることにして臨江方面に去り、李東伯は李東輝に派遣されて琿春方面に出てきた。李東伯は琿春でしばらく教員生活をしていたが、1925年の春にソウルへ行った。彼は、仮名で朝鮮共産党創立大会に参加し、翌年の6.10万歳示威運動にも参加した。派閥の集結所であるソウルに滞在していた李東伯は、自分も気づかぬうちに再び新たな派閥争いの渦中に巻きこまれてしまった。はじめは火曜派に引きこまれ、つぎはM・L派に属するなどの1人2役、1人3役のせわしく騒がしい日々を送った。党の主導権を握ろうとする派閥は、醜悪な暗闘を繰り返した。中央委員を袋に入れてきては棍棒や木枕で殴りつける醜態をさらけだし、他派を警察に密告して逮捕させるといった痛嘆にたえない悲喜劇を演じた。ソウルにとどまっていたのでは、いつどの路地で人知れず捕まるやら、棍棒で頭を割られるやらわからない有様だった。それで李東伯は、再び北間島へ向かった。帆も舵も櫓も失った難破船のように、風の吹くまま波の打ち寄せるまま右往左往してきた李東伯は、派閥争いの世界から遠ざかり陸地にじっくりと腰をすえた。彼は竜井で新聞記者をしながら、独立軍運動にも共産党運動にも背を向けてしまった。しかし、間島の大地に燃えあがりはじめた30年代の抗日運動は、またも李東伯を風浪のなかに押しやることになった。火曜派系列のいかがわしいグループに引っぱり込まれた彼は、和竜県3区の書記を勤めていたが、間島大討伐のときに九死に一生を得たあとは、永久に世を捨てて暮らすことを決心し、家族とともに和竜の山間僻地に入った。そこで、書堂の先生をし、ここ数年隠遁生活をしてきたというのである。

 「だから、わたしが日和見主義者でなくてなんでしょう。ソウル・上海派を除いては、派閥という派閥にみな首をつっこんだまったくの日和見主義者ですよ」

 李東伯は、波乱に富んだ自分の過去に終止符でも打つかのように、パイプに刻みタバコを詰めこんだ。彼は、大変な愛煙家だった。ときには馬上行軍のときにもパイプをくわえ、年少の伝令兵からたしなめられることもあった。そんなときも腹を立てるでもなく、「こりゃ、うっかりしていた。行軍中にタバコを吸うと遠くの犬にまでかぎつけられるというのに、また忘れたな」と弁明がましくつぶやいては、パイプを重ね着のポケットに差し込むのだった。彼は、刻みタバコを紙に巻いて吸わず、いつもパイプを使った。「パイプじいさん」というあだなもそのせいだった。

 「率直にお話ししてくださって、ありがたく思います。しかし、わたしは先生を日和見主義者だとは思いません。朝鮮社会の真の進路を求めて迷ったにすぎないのです。真理の道を模索する過程でいろいろな党派に関与したのは決して日和見主義ではありません」

 わたしがこう言うと、李東伯は非常に驚いた。

 「実際にいろいろな党派に巻きこまれたというのに、日和見主義者じゃないというんですか?」

 「それは、隠遁生活をする決心で和竜の山間僻地に何年間も閉じこもっていた先生がその決心をひるがえし、若くもない体で千里の道もいとわずにわれわれを訪ねてこられたことだけでもわかります。それを日和見主義者の本心が働いたからだとみるべきでしょうか?」

 「そんなに心の内まで読み取られては脱帽するしかありません。わたしがまた家を出たのは、数十年間探せなかった“宝物”をなんとしてでも死ぬ前に探し出そうという執念のためだといえます」

 「義心を抱いて真理を求める先生のような方に会えてうれしいかぎりです。わが国にも、ひところは先生のように真理を求める人や義心のある運動家が多かったのに、ある者は獄につながれ、ある者は変節し、またいろいろと被害を受けたので、いまではほとんど見られなくなりました。先生が生きておられるだけでも幸いというものです」

 「パイプじいさん」との興味津々の対話は、迷魂陣に到着するまでつづいた。その過程で、わたしは李東伯に親しみを感じ、李東伯もまた、わたしになじんだ。「親しむや別離」ということわざもあるが、そんなふうに別れるのはつらいものである。だからといって、戦いの連続である遠く危険な行軍の道に年配の人をいつまでも同行させることはできなかった。迷魂陣を発つ前に、わたしは李東伯に家に帰るよう何度もすすめた。それには答えず、彼は重ね着の懐から四つ折りにした1枚の紙を取り出した。それは漢字混じりの入隊申し込み書であった。突然、西から日が昇ったほどの驚きであった。

 「その年でどうやって一緒に行動できるというんですか?」

 「心配には及びません。乙支文徳や李舜臣の麾下には、わたしより一倍半も年をとった兵卒もいたんです。だから年齢は入隊拒否の理由にはなりません」

 「和竜の奥地で帰りを待つ奥さんと子どもたちは、誰が面倒をみるんですか?」

 「流刑もいざ行けないとなると残念がるというじゃありませんか。まして、救国の大業に一身をささげるつもりのわたしに家に帰れというんですか。将軍も、病の母上と幼い弟さんたちの面倒をみてくれる人がいたから国を取りもどす戦いに身を投じたわけではないでしょう?」

 どうしても、「パイプじいさん」を説き伏せることができず、負けてしまった。入隊を記念して、わたしは2年間愛用してきた拳銃を彼に与えた。入隊が決まると、李東伯は自分がなぜ家に帰らずに、わたしのもとにとどまる決心をしたのかを語りだした。

 「わたしが将軍のもとにとどまるのはなぜだかわかりますか? 第1はもちろん将軍の高明な経綸であり、第2は将軍の縫い繕ったズボンと迷魂陣の熱病患者の泣き声でした。 … 隔離状態にある熱病患者をなんのためらいもなく見舞い、いたわるのを見て、わたしは深く考えさせられました。身の危険をかえりみず部下の運命を見守るというのは、口で言うほど簡単なことではありません。大物といわれる人物ともずいぶん会ってみましたが、まったく話になりませんでした。朝鮮革命の真の主人、朝鮮の運命に責任をもつ真の主人、真の指導者を見出したこと、これがわたしをここにとどまらせた根本的な理由なのです。机上の空論、空理空論をしないこと、将軍はこの長所一つだけでもわたしのような田舎書生を十分に感動させることができたのです」

 「先生をとどまらせた3番目の理由もあるのですか?」

 「もちろん、ありますとも。それは将軍の創造的で実践的なものの考え方と革命勝利のゆるぎない信念です」

 ある日、行軍の休憩時間に、「パイプじいさん」と民族統一戦線体の問題について意見を交わした。彼は、フランス、スペイン、中国などでは、共産党、社会党、国民党などの政党と労働運動団体があったので、各政党、団体が連合して人民戦線を結成することができたが、わが国では事実上いかなる政党も合法的団体も皆無の状態だから、統一戦線体の組織は不可能ではなかろうかと言うのであった。わたしは、彼に雪のかたまりを2つ渡し、それを一つにしてみるようにと言い、わたしはわたしで小さなかたまりを雪の上に転がし、彼の2つのかたまりを合わせたほどの大きさのものをつくった。

 「さあ、見てごらんなさい。先生は2つの政党を連合して一つのかたまりをつくり、わたしは小さな求心力を利用してそれより大きなかたまりをつくりました。これでも、政党がなければ統一戦線体の組織は不可能だといえるでしょうか?」

 李東伯は万華鏡をのぞきこむように、わたしの手の上の雪のかたまりをじっと見つめながらつぶやいた。

 「じつに妙を得ています。けれども雪のかたまりは雪のかたまりで、政党は政党じゃありませんか」

 「ところが、われわれが体験する自然現象のなかには、社会現象と理屈のうえで一致する事柄が少なくないのです」

 わたしは、吉林時代から終始一貫堅持してきた統一戦線政策と、新しい世代の青年共産主義者が各階層の反日愛国勢力を結束する活動で積んだ経験をくわしく話した。

 「統一戦線は、必ずしも政党・団体の連合によってのみ結成されるものではありません。政党・団体説を絶対視すると、それはドグマになります。大衆があり、指導的中核さえあれば、統一戦線体をつくることは十分可能です。目的と志向の同一性を基準にして、10人であれ100人であれ結集すべきだというのが統一戦線にかんするわたしの見解です。われわれはこういう立場に立って、早くから統一戦線運動を推進してきたのです」

 李東伯は首筋を叩きながら「やっぱりドグマが問題ですな」と言って高笑いをした。彼は、わたしのもとにとどまった理由を説明してから、こうつけ加えた。

 「わたしは将軍のそばに来て、有意義な晩年が送れる仕事を見つけだしました。言わば、自分の生存価値を見出したわけです。自分がこの世にどうしても必要な人間になれると感じたとき、その人間は幸せな人間といえるでしょう。いまわたしが、そんな幸せな人間になったんです」

 「いったいどんな仕事を見つけだして、幸せになったというのですか?」

 「わたしが見つけた仕事は、ナポレオンについて歩いたダビッドがしたのと同じようなもんです。ダビッドが絵に移したように、わたしは日記帳に移そうというわけです。ナポレオン軍隊の歴史的行跡ではなく、朝鮮人民革命軍の歴史的行跡をですよ」

 李東伯は、決心したとおり毎日日記を書いた。1、2回、ときには、数日間飢えることはあっても、日記をつけない日はなかった。彼は最期の瞬間まで、朝鮮人民革命軍史の著述家としての使命をりっぱに果たした。入隊後、司令部の書記処で活動し、のちには祖国光復会の機関誌『三・一月刊』の主筆として出版所の責任者を兼任した。彼が収集した文書や写真は膨大な量だったので、書記処が場所を移すたびに、10に余る文書入りの背のうや謄写用具を移す運搬隊として、幾人もの兵員をつけねばならなかった。いつだったか、金周賢がそのおびただしい荷物を整理して半分ぐらいに減らしてはどうかと言って、ひどくとがめられたことがある。

 「なにを言うのだ。この文書が、民生団の調書包みだとでも思っているのか。あんたは指揮官だが、眼識に欠けておる。これは、わしの命の10や100を差し出しても代えられぬ宝だ。 軍事上の位は連隊長でも、この荷物の前では兵卒も同じだ。国の宝がどんなふうにつくられるのか知りもせんだろう」

 こんなことがあって以来、「パイプじいさん」の荷物がいくら多くても、指揮官たちは一言も言わずに運搬隊をつけてやるようになった。

 彼が、記録し、収集し、保存したあの膨大な文書と日記、写真などが失われていなかったら、「パイプじいさん」が言っていたように、それはいま万代の国宝とされているはずである。ある日、李東伯は暴発事故を起こした。彼がナポレオンのことをよく口にするので、ある警護隊員が彼を「ナポレオン崇拝じいさん」と呼んだのがきっかけだった。ちょうどそのとき、李東伯は、分解掃除を終えた拳銃を手にしていた。

 「馬鹿ものめ、わしが誰を崇拝しているかはこの拳銃が教えてくれるだろう。さあ、聞くがいい」

 李東伯は、実弾をこめた拳銃を空に向けて引き金を引いた。この思いがけない暴発事故のため、老母頂子の宿営地では非常呼集がかかる騒ぎまで起こった。指揮官たちは、警告処分と同時に1か月間の武器携帯禁止処分に付すべきだと主張した。わたしが1回だけ許してやろうととりなしたが、軍規は酌量の余地がなかった。結局、拳銃は金山虎に取り上げられてしまった。

 宝のような「パイプじいさん」が入隊してきたことは、人に恵まれてきたわたしにとっていま一つの大きな幸運といえよう。実際、願ってもない人が降ってわいて、われわれを助けてくれたようなものである。

 100余名に及ぶ民生団嫌疑者の問題がかたづき、新しい師団が編制され、馬鞍山の児童団員の生活状態が改善されたのち、わたしは全力をあげて祖国光復会の創立準備に取り組んだ。その過程には幾多の困難があったが、すべての難事が思惑どおりスムーズに解決され、万事が急速に進捗した。李東伯は金山虎とともに、この活動において誰も代行できない誠実かつ周到な援助者になってくれた。李東伯が入隊したのち、わたしはすぐさま彼を祖国光復会創立準備委員会のメンバーに加えた。準備委員会の委員のなかでもっとも中核的な役割を果たしたのは金山虎と李東伯であったが、金山虎は外部組織との連絡を担当していたので主に外で活動し、内部での準備を主宰したのは李東伯であった。祖国光復会の綱領と規約、創立宣言の作成にあたっても、彼はわたしを大いに補佐してくれた。わたしは条項の一つひとつについて彼と相談し、草稿は彼が作成するようにと勧めた。しかし、李東伯は自分の文体は古くさいうえに、将軍の意図を正確に反映させる自信がないと言って聞き入れなかった。それで草稿は、わたしが書き、彼がそれを補うというやり方で創立文書を書き上げていった。彼と討議した問題のうち、意見の差がいちじるしかったのは綱領の第1条であった。第1条の内容は、祖国光復会がいかなる理念と闘争目的を有し、どのような性格の政治団体であるかを一言で規定づけるものであるため、論議が深刻にならざるをえなかった。わたしが以前から考えてきたとおり、2000万朝鮮民族の総動員で強盗日本帝国主義の植民地統治を転覆し、真の人民の政府を樹立するという内容にしようと言うと、李東伯は首をかしげて考え込んでから、かぶりを振った。

 「無産階級の社会を建設するという文句が一つもないので、物足りない感じがします。綱領の第1条に共産主義のにおいが全然ないとなると、共産主義を信奉する多くの主義者たちが共鳴しないのではないでしょうか。真の人民の政権という文句は、階級的性格があいまいで、どことなく民族主義のにおいがします」

 後日、白頭山密営ではじめて朴達に会って話を交わしたとき、彼も祖国光復会綱領の第1条については李東伯とまったく同じことを言った。たしかに、当時はわが国にえせマルクス主義的な見解が広く流布していた時期であった。共産主義者を自称するほとんどの人は、あたかも共産主義が民族的理念と相容れない思想であるかのように考え、共産主義者は、狭小な民族的理念から抜け出し、階級的原則と国際主義的立場を固守してこそ、労働者階級と全人類を搾取と抑圧から解放することができると力説していた。共産主義を信奉する少なからぬ人がこういう主張をするようになった主な原因の一つは、共産党宣言の「プロレタリアートに祖国はない」というマルクスの命題をきわめて単純に受け入れたことにある。

 マルクスとエンゲルスが生存したのは、1国社会主義革命の可能性がまだ熟していなかった歴史的時期である。彼らは、資本主義が高度に発達したいくつかの国で同時に社会主義革命が起こると予言した。労働者階級の打倒対象である各国のブルジョアジーが民族的利益の擁護者を自任している状況下で、全世界のプロレタリアートが自国のブルジョアジーの標榜する「民族主義」や「愛国主義」の甘言にのせられるならば、プロレタリアートの全世界的な革命偉業は失敗する恐れがあった。各国のプロレタリアートにとって、ブルジョアジーの支配下にある母国は決して祖国となりえず、したがって、プロレタリアートは、国粋主義と国際主義、民族主義と社会主義の両者のうち、必ず国際主義と社会主義の側に立たなければならなかった。まさにこのような見地からして、マルクス主義の創始者たちは、労働者階級がいわゆる愛国主義的な幻想にとらわれることを戒め、愛国主義と社会主義の両者のうちつねに民族主義的偏見を捨てて社会主義を擁護するよう教えたのである。マルクスは、パリコンミューン失敗の原因を分析して、コンミューンの参加者が反動派の巣窟であるベルサイユを攻撃しなかったのは、外敵であるプロシア軍がパリを包囲しているときに内戦を起こすのは愛国主義に反すると誤断したためであると断言し、レーニンは、第2インターナショナルの修正主義者たちが第1次世界大戦が勃発するや労働者階級の革命的原則を放棄して「祖国防衛」のスローガンのもとにそれぞれ自国のブルジョアジーの側についたのは、社会主義偉業にたいする裏切り行為であると断定した。

 自民族を犠牲にしてでも自己の富を増やそうとする、血迷ったブルジョアジーの植民地争奪戦争に「祖国防衛」の看板をかかげて加担するのは、自民族にたいする裏切りであると同時に、社会主義にたいする裏切りである。したがって、帝国主義国家のプロレタリアートが社会主義偉業に忠実であるためには、「祖国防衛」の看板でなく「戦争反対」の旗をかかげて戦争ボイコット運動を展開しなければならない。

 しかし、植民地従属諸国においては、完全に事情が異なる。植民地従属国で共産主義者が祖国解放と愛国主義の旗をかかげるのは、とりもなおさず宗主国のブルジョアジーに反対することになり、まさにこうすることによって、彼らは、民族革命と階級革命、そして国際革命偉業にともに寄与できるのである。この明白な真理を悟ることができずに、「プロレタリアートに祖国はない」という命題を絶対視し、愛国主義、民族主義を共産主義の敵のようにみなして排斥したところに、えせ共産主義者、えせマルクス主義者の理論的・実践的誤謬がある。社会主義革命が民族国家単位に進められる新たな歴史的環境のもとで、植民地諸国における真の民族主義と真の共産主義のあいだには実際上、大きな隔たりはないといえる。一方は民族性にいくぶん重きを置き、他方は階級性をもう少し強調しているだけのことであって、外部勢力に反対し、民族の利益を守る愛国愛族の立場は同じであるとみるべきである。

 真の共産主義者も真の愛国者であり、また真の民族主義者も真の愛国者であるとみなすのは、わたしの変わらぬ信条である。こういう信条から、われわれは一貫して愛国的な真の民族主義者との合作を重視してきたのであり、彼らとの同盟を強めるために力をつくしてきたのである。われわれは、朝鮮の共産主義者が祖国解放のために戦うのは民族的権利であることを認識させ、それは決してプロレタリア国際主義と矛盾するものでないことを納得させるため、多くの時間と精力を費やさなければならなかった。同時にわれわれは、自己の純粋な祖国愛と民族解放をめざす実践闘争によって、共産主義者こそ真に国を愛し民族を愛する者であることを全民族に誇示し、ついには民族解放闘争の陣頭に正々堂々と立つようになったのである。

 われわれのこうした長期にわたる犠牲的な闘争の誇らしい結実となるのが、ほかならぬ祖国光復会の創立である。したがって、「祖国光復会」という名称そのものも堂々とかかげ、綱領の第1条に朝鮮民族の全構成員自身の力によって祖国の解放をなし遂げ、東満州の遊撃根拠地にうちたてたような真の人民の政府を樹立するということも明記しなければならない。

 わたしの話を注意深く聞いていた李東伯は、膝を打って歓声をあげた。

 「よくわかりました! 将軍と論争したおかげで目から鱗が落ちたような思いです。大賛成です」

 綱領の他の条項にかんしては、これといって意見の食い違いはなかった。このように、われわれは祖国光復会10大綱領で権力問題の解決を朝鮮民族の第一義的な課題とし、人民に民主的自由と権利を保障し、社会の民主的発展をなし遂げる課題、海外同胞の民族的権利を擁護する課題をはじめ、さまざまの政治的課題を提示した。

 また、綱領には、革命的な軍隊を建設する課題とともに、日本帝国主義と売国的親日地主の土地、ならびに日本国家および日本人所有のすべての企業所、鉄道、銀行、船舶、農場、水利機関と売国的親日分子の全財産を没収し、貧民を救済し、民族工業・農業・商業の自由な発展を保障して民族経済を建設する問題など反帝反封建民主主義革命の段階で解決すべき経済的課題も明示した。民族工業・農業・商業の自由な発展を保障し、民族経済を建設するという思想は、民族資本と買弁資本を厳格に区別して愛国的な民族資本を奨励し、民族資本家は倒すのでなく積極的に擁護して反日共同戦線に結集しようという、われわれの終始一貫した方針と路線にもとづいている。まさにここに、反日的な民族資本家を含むすべての資本家を同一視すべきだとするえせ共産主義者と、ブルジョアと称されながらもその志向において愛国的で実践において反日的なすべての民族資本家を革命の原動力とみなす、真の共産主義者との違いがあった。

 祖国光復会の10大綱領はまた、社会的・文化的課題と対外的課題も提示した。

 宗教家や民族資本家、愛国的な地主の問題で多少摩擦が生じるものと予想していたが、綱領の第1条にたいする論議を通じてわたしと同じ世界観をもつようになった李東伯は、驚くほど正確にわたしの見解を悟り言いあてた。この問題にかんしては、むしろ、金山虎や呉白竜などの方が偏狭な態度をとった。

 わたしが、綱領と規約、創立宣言文を起草するあいだに、ほかの人たちは創立準備委員会の名義による手紙や宣伝文を作成した。まったく一分一秒も無駄なく使い果たした多忙な春であった。

 綱領と規約、創立宣言文が、準備委員会の最終討議にかけられた場所は、漫江部落の許洛汝村長の家である。「パイプじいさん」は、これまで共産主義運動家をもって自任していた分派分子たちはこれといった綱領も示せない分際でヘゲモニー争いに血眼になってきた、しかしまさにいま、真っ暗だった朝鮮革命の進路をいっそう明るく照らす灯台があらわれた、と言って喜んだ。

 4月末に準備を完了したわれわれは、創立大会の場所を東崗の森に内定し、そこに移った。招待状を受けた代表たちはほとんど集まったが、必ず参加すると返書までよこした南満州の李東光と全光(呉成侖)は、どうしたわけか大会が終わるまで姿を見せなかった。国内の代表としては、康済河の組織のルートから碧潼の天道教代表と農民代表が参加し、穏城地区の党組織のルートから教員代表と労働者代表が1名ずつ参加した。

 歴史的な祖国光復会創立大会は、5月1日からはじまった。花盛りとはいえないまでも、山々には春の色が動いていた。会合をひかえ、代表たちは感激と興奮に包まれていた。俗に東崗会議と呼ばれるこの会議は、15日間もつづけられた。

 まず李東伯が、大会あての祝辞を読みあげ、つづいてわたしが報告をおこなった。わたしは報告で、祖国解放の旗のもとに全民族を一つの政治的力量に結束する課題と、国境地帯と国内に進出して反日民族統一戦線運動を強力に展開し、抗日武装闘争をいちだんと拡大発展させるため、国境沿岸に朝鮮人民革命軍の新たな根拠地を創設する課題を提起した。この報告は後日、『反日民族統一戦線運動をさらに拡大発展させ、全般的な朝鮮革命を新たな高揚に導こう』という題目のパンフレットで発刊された。

 わたしはまた、祖国光復会の10大綱領と創立宣言を大会の審議にかけた。10大綱領では、1930年代の革命情勢とわが国の社会経済状態、階級の相互関係などを正確に分析し、それにもとづいて朝鮮革命の性格と任務、戦略戦術上の原則を規定するとともに、労働者、農民をはじめ、勤労者大衆の利益と各階層の愛国的人民の共通の利害を十分に考慮して、朝鮮革命の前途を明らかにした。

 参会者は、綱領に全面的な賛同を示し、明白な闘争目標をもって朝鮮革命の勝利をめざして邁進できるようになった喜びを吐露し、綱領に示された課題を積極的に実現していく決意を述べた。

 これに劣らず、代表たちは、祖国光復会の創立宣言について胸を高鳴らせつつ討議した。創立宣言の一字一句は冒頭から参会者の心をとらえた。とくに、全民族が、金のある人は金を出し、食糧のある人は食糧を出し、技能と知恵をもつ人は技能と知恵をささげ、2000万民衆が一心同体となって反日祖国解放戦線に参加するなら、朝鮮の独立は必ず成就されるという確信を表明し、ともに祖国光復会に結集してたたかうことを熱烈に訴えた部分は参会者を強く感動させた。

 祖国光復会の創立宣言が採択されたあと、これを誰の名で発表するかという問題が討議された。参会者は、異口同音にわたしの名で発表しようと言った。祖国光復会創立の発起人もわたしであり、創立準備委員会の活動もわたしが主宰し、また綱領と創立宣言もわたしが作成したのだから、討議するまでもなく当然わたしの名で発表すべきだというのである。しかし、わたしは見解を異にした。祖国光復会は、全朝鮮人民の反日勢力を総結集しなければならないのだから、民族的な形式をとるべきである。したがって、発起人としては、過去の義兵運動や3.1運動の時期から朝鮮の独立運動に献身してきた名望の高い年配の愛国志士を立てるべきだと考えた。事実、そのころまでは、朝鮮人民革命軍の闘争舞台が主に満州地方であったので、国内の広範な人民にはわれわれの存在があまり知られていないものとわたしは考えていた。わたしの名が国内人民に広く知られるようになったのは、白頭山に新たな秘密根拠地が設けられ、武装闘争が国内深くにまで拡大されはじめたときからである。われわれの主力部隊の動きと闘争が国内の新聞にはじめて掲載されたのは、おそらく1936年9月の『毎日申報』であったと記憶している。『毎日申報』は、長白県に150〜160名規模の部隊があらわれたが、「部隊の首領は金日成という」と簡単に言及した。これを機に、国内の出版物は、われわれの活動を頻繁に報道するようになった。

 わたしは、大会の代表たちに率直に話した。誰が発起人で誰が準備委員会の責任者であり、また誰が綱領と規約を作成したのだから、誰それの名で発表すべきだといずれも言い張っているが、そんなことにこだわってわたし一人を押し立てるのは意味がない、2000万同胞の誰もが知っている人物の名で祖国光復会への結集を呼びかける方がずっと効果的である、わたしのことは同胞民衆の息子の一人と考え、民衆のために陰で骨を折ったのだとすればそれでよいではないか、大義のために小義を捨て名望のある高年の愛国志士を共同発起人に立てることにしよう、と訴えた。そして、李東伯と呂運亨を共同発起人にして創立宣言文を発表することを提案した。これに真っ先に異議を唱えたのは李東伯であった。彼は年齢や過去の名望などは問題にならない、実際に全民族を代表して祖国解放の大業を導いている指導者は内外を見渡しても金将軍しかいない、この厳然たる事実を無視してわたしのような者を発起人にしてはならない、金将軍が祖国光復会の会長になり発起人になってしかるべきだ、と言って譲らなかった。彼は、わたしの提案を参酌してわたしと呂運亨を共同発起人に立てることを提案した。慎重な討議の末、わたしは金東明という仮名を使うという条件付きで、発起人の一人になることに同意した。わたしが譲歩すると、李東伯も発起人になることに同意した。こうして、5月5日に発表された祖国光復会の創立宣言には、金東明、李東伯、呂運亨の3人が共同発起人として名を連ねることになった。

 金東明という仮名を考えたのは李東伯である。わたしが仮名でなければ同意しないと言うと、彼はそれ以上我を張ることができず考え込んでいたが、仮名の姓はそのまま金とし、名は東方が明るむという意味で東明としてはどうかと提言した。「金東明」とすれば、民族を代表する意味で意義深い名前になるだろうというのである。全員が熱烈な拍手をもって賛意を表明した。「金日成」という名と同様、「金東明」という仮名も、こうして他人によってつくられたのである。

 われわれが発表した祖国光復会宣言はその後、内外の各地に発送されたが、あるところではそれを自分なりに複製して発表し、発起人もその地方で影響力のある人物や著名人士に替えたりした。われわれは、臨機に事を処理することを許容した。祖国光復会の名称そのものも、東満州では東満朝鮮人祖国光復会とし、南満州では在満韓人祖国光復会とされた。党歴史研究所が掘り起こした祖国光復会宣言文のなかに、呉成侖、厳洙明、李相俊(李東光)、安光勲などの名が見られるのは、こうした事情によるものである。

 わたしは祖国光復会創立大会参加者の総意によって、この組織の会長に推された。こうして、わが国の反日民族解放闘争の歴史で初の常設的な反日民族統一戦線体が誕生した。

 わが国における初の反日民族統一戦線体としての祖国光復会の創立は、革命の大衆的基盤を強化するうえで画期的な出来事となった。祖国光復会の創立により、反日民族統一戦線運動は、抗日武装闘争と密接に結びつき、全国的範囲でより組織化、体系化されて急速に発展し、すべての反日勢力を国の解放をめざす闘争に力強く組織動員できるようになった。民族の総力を解放戦線に結集することは、われわれが闘争の初期からうちだしていた至上の課題であり、その実現のために数年前からねばり強く準備を進めてきた。祖国光復会の創立は、革命の主体的力量を不断に育成してきたわれわれ青年共産主義者の主動的かつ積極的な努力のたまものであった。それは、朝鮮人民がみずからの力で日本帝国主義との戦いをいっそう果敢に展開する意志をいま一度おごそかに宣言した歴史的な契機となり、抗日武装闘争を軸とする朝鮮革命全般を新たな高揚へ導く転機となった。

 祖国光復会の創立は、朝鮮革命そのものの発展の要求と時代の潮流に合致するものであったがゆえに、内外の大きな支持と反響を呼んだ。内外の各地で賛同の声があがったが、真っ先に反応を示したのは独立軍部隊であった。祖国光復会の創立が宣言されてまもなく、朝鮮革命軍政府参謀長の尹一坡は、われわれに書簡をよこして祖国光復会の創立を祝い、今後反日戦線で緊密な連係を保つことを希望した。また、上海で活動していた民族主義運動家の朴某は、千里の道もいとわず満州まで足を運び、祖国光復会の南満州代表に会った。上海、北京、天津など中国関内で多年にわたり独立運動にたずさわった愛国の志士として民族主義運動家のあいだでかなりの影響力をもっていた彼は、今後国内と国外を包括する広い領域で祖国光復会の活動を活発に展開することを約束し、ゆくゆくは全民族的な武装力としての「独立革命軍」を結成する方途についても深く論議を交わして帰った。

 『三・一月刊』の創刊号に李東伯が、「天道教上級領袖の某氏、わが光復会の代表を親しく訪問」という見出しで書いているように、天道教の道正(教区の管理責任者)朴寅鎮も祖国光復会創立の朗報に接して、白頭山密営にわれわれを訪ねてきた。天道教青年党の100万党員を祖国光復会の会員にすると彼が約束したのは、そのときのことである。

 李昌善、李悌淳、朴達をはじめ、多くの人が、あいついでわれわれを訪ね、祖国光復会の拡大に大きく貢献した。

 短期間のうちに数十万の会員を擁する汎民族的組織に拡大した祖国光復会の発展史について書くなら、部厚い数巻の書物にしても収めきれないであろう。

 1936年5月、白頭山北辺の麓での祖国光復会の誕生は、朝鮮革命の発展に新たな転機をもたらし、祖国解放の曙光をまねく歴史的な出来事であった。朝鮮革命の洋々たる新時代は、このように白頭山の麓から明けはじめたのである。



 


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