金日成主席『回顧録 世紀とともに』

4 革命戦友 張蔚華(2)


 生きている人と故人のあいだにも友情はつづくものだろうか? つづくとすれば、どんな形でつづくのだろうか? これは、伝令兵の金正徳が鶏冠拉子戦闘で戦死した直後、彼の親友であった金鳳錫がわたしに投げかけた問いである。金鳳錫は、パルチザン時代のわたしの伝令兵であった。彼は金正徳が戦死したあとも、長いあいだ故人のことが忘れられず、悲しみに沈んでいた。そのときわたしは、生きている人と故人のあいだにも友情はつづくものであり、その場合の友情は、生きている人が故人のことを忘れず、故人が生きている人の追憶に刻みつけられる形でつづくのだ、と答えた。その実例として、わたしと張蔚華の友情について話した。

 それは、体験にもとづくわたし自身の心情の告白であった。張蔚華が死去して数年たっていたが、わたしは彼のことを忘れていなかった。夢の中にもたびたび彼があらわれ、生前と変わらぬ姿でわたしと友情を交わしたが、そんな夢から覚めたときは、じつにはかない思いがしたものである。

 金鳳錫はまた聞いた。

 「司令官同志、生きている人が故人のためにできることはなんでしょうか?」

 おそらく、そのとき伝令兵は、生涯の座右の銘となる深奥な訓戒のようなものを聞きたかったのだろう。だが、わたしはそんな質問に十分に答えられるだけの準備ができていなかった。生きている人と故人の友情にかんする問題が、わたしの精神生活の一部を占めていたことは確かであるが、それは山奥のきこりでも考えられるような平凡で素朴なものであった。

 「生きている人が故人のためにできることのうちでいちばん大事なのは、故人の遺志をしっかり守ることだと思う」

 そのとき、わたしが金鳳錫に答えたのはこれだけである。わたしと同じ立場に立たされたら、おそらく、誰でもそういう答え方をしたと思う。わたしが言ったことは、きこりだけでなく、小学校の生徒でも答えられる単純な事理であったが、金鳳錫はそれを深刻に受けとめた。金正徳の遺志は、国の解放をなし遂げるまで、司令官同志に忠実に仕えてくれということであった。金鳳錫は、その遺志を守り、解放の日まで忠実に仕えてくれた。そして、彼自身も戦死したのである。

 故人の遺志をかたく守ることが、彼らにたいする生者の至高の道義であるというのは、抗日戦争の日々わたしの戦友たちがひとしくいだいていた共通の見解である。

 「倒れた革命戦友の敵を討とう!」

 「中隊長同志の遺言を肝に銘じて、あの高地を占領しよう!」

 「同志たちが言い残したとおり、必ず祖国を解放しよう!」

 戦場や宿営地、行軍路などにしばしば響いたこのようなスローガンには、倒れた戦友の遺志を守ろうとするパルチザン闘士の志向と念願がそのまま反映されていた。朝鮮の共産主義者は、自己に課された革命任務を忠実に遂行することによって、先立った戦友への道義を守ろうと努力したのである。わたしもまた、革命任務を忠実に果たすことによって、先に逝った革命同志の遺志を守り、彼らが生前に寄せてくれた大きな信頼と期待にこたえようと奮闘した。わたしはいまも、このような立場と観点に立って、党と人民から課された革命任務の遂行に専念している。

 だからといって、これが故人にたいする生者の道義のすべてだといえようか。祖国の解放という大事変を分岐点として、この道義の内容は、新しい時代の要請と条件に即応して比べようもなく豊富になった。故人の遺志を守れば亡き戦友にたいする生者の友愛をつくすことになると考えていた人たちが、それだけでは満足できなくなったのである。彼らは、異国の山河に散り散りになっている戦友のなきがらを祖国に移したいと考え、歴史の森に埋もれている戦友の業績を次の世代に知らせたいと考えるようになった。国が富強になると戦友の銅像を立てたいと考え、新しい都市や街が生まれると、それに戦友の名を冠したいと思うようになった。

 倒れた戦友にたいする同志的道義は、彼らの子女にたいする愛情に集中的にあらわれた。わたしは、祖国に凱旋すると直ちに活動家を派遣し、海外に散り散りになっている革命家の遺児を祖国に連れてきた。砂原で金の粒を拾い集めるように、一人また一人と探し出しては、万景台革命家遺児学院で学ばせた。国内で戦った闘士の子女たちもこの学院に入れ、新しい朝鮮建設の担い手に育成した。

 1970年代には、戦友たちの姿を子々孫々に伝えるため、大城山の朱雀峰に革命烈士陵を建設した。兄弟山区域新美里の丘には、第2の革命烈士陵ともいえる愛国烈士陵が建立された。これらの施策と措置は、革命闘争で犠牲となった人たちにたいする生者の道義を最大限に具現しようとする朝鮮共産主義者の崇高な同志愛と変わらぬ情義のあらわれである。朝鮮の共産主義者は半世紀以上にわたる長い革命実践を通じて、生存している革命戦友は言うに及ばず、亡き戦友との関係においても、万人に称賛される模範を創造した。

 生きている人と故人のあいだにも友情はつづくということは、朝鮮の革命家が創造した比類ない人間関係の歴史、同志愛の歴史が如実に物語っている。わたし個人の歴史で見れば、張蔚華との友情を想起するだけで十分であろう。

 わたしと張蔚華の友情が彼の死によって終わったと考えるなら、それは正確な判断とはいえない。ある人の死が彼との友情の終わりを告げる終幕となるなら、そんな友情をどうして真の友情といえようか。生きている人が故人を忘れなければ、そのことだけでも、その友情は生きた友情、生命をもった友情となるのである。わたしと張蔚華の友情は、彼の死後もつづいた。張蔚華は他界したが、わたしは片時も彼を忘れることがなかった。彼が残していった人間的な香りは、流れる歳月とともにわたしの心にいっそう深く染みこんだのである。抗日戦争が朝中共産主義者の勝利に終わったとき、わたしの脳裏に最初に浮かんだ幾多の中国の同志と恩人のなかでも、真っ先に思い出されたのは張蔚華であった。解放された祖国で、わたしとわたしの一家を助け、朝鮮革命を誠心誠意援助してくれた多くの中国の恩人を一人ひとり思い浮かべると、じつに感慨無量であった。よい世の中がめぐってくると、恩人たちにたいする懐かしさもいっそうつのってきた。

 わたしは張蔚華を思い出すたびに、彼が残していった父母と妻子のことを考えた。とりわけ、彼の一家のことをしきりに考えたのは、日本が無条件降伏をしたあと、東北地方で土地革命をはじめとする民主諸改革が実施され、蒋介石の国民党軍隊と中国人民解放軍のあいだに展開された内戦の炎が満州全域に広がっていたときであった。各地で悪質地主や買弁資本家を一掃し、親日派、民族反逆者を打倒しているときだったので、張氏一家も独裁の対象と判定され、不当な制裁を受けるのではなかろうかと憂慮したのである。隣国で動乱が起こり、なにかを打破する社会的運動が展開されるたびに、わたしは張蔚華の遺族の運命を憂えた。張蔚華が功績の大きい革命烈士であることは事実だが、地下工作が多かっただけに、大衆が大金持ちの息子である彼を反動派や逆賊と断定せずに共産主義者と認めるだろうか、と考えたりもした。彼らに会いたいという思いは、日増しにつのるばかりであった。しかし、建国と反米大戦(朝鮮戦争)、社会主義基礎建設など、その複雑な進展過程は、わたしに多くのことを後回しにせざるをえなくした。探したい人も多く、会いたい人も多かったが、わたしは国事のためにそれらの誘惑をしりぞけ、仕事に専念した。

 わたしが、張蔚華一家の消息を知ったのは1959年ごろであった。その年、わが国では、抗日武装闘争戦跡地踏査団が組織されて満州に向かった。わたしは踏査団が出発するとき、団長の朴永純にこう頼んだ。

 「朴捕吏同志、馬鞍山密営で子どもたちが病気と寒さに苦しんでいたとき、布地や金を送ってくれた『兄弟写真館』の主人張蔚華を覚えているかね? 彼が他界して20年以上になるというのに、わたしはまだ彼の父母と妻子に挨拶もしていない。撫松へ行ったらわたしに代わって故人の遺族に挨拶をし、よろしく伝えてほしい」

 「承知しました。わたしも撫松では張蔚華の遺族を訪ねるのが道理だと思っていました。彼にはずいぶん話になったのですから」

 朴捕吏は感慨にひたり、しきりに目をしばたたいた。

 「実際、張蔚華は、国籍は違うが、朝鮮人も同然であり朝鮮の革命家と変わりがない。彼の業績は、中国の共産主義運動だけでなく、わが国の抗日革命史でも一ページを飾るに十分なものだ。もし、張蔚華の遺族が撫松から他の地方に転居していたら、公安機関の助けを借りてでも必ずその行先をつきとめてほしい」

 「わかりました。中国全土をくまなくあたってでも彼らを探します」

 踏査団が中国に向かったのち、わたしは撫松の消息を待ちわびた。戦火の傷跡をいやし、都市と農村における社会主義的改造も終わったあとだったので、先立った戦友とその遺族の運命に関心を払う多少の精神的なゆとりが生まれたのである。

 祖国を発って数か月後、ついに朴永純は、待ちこがれていた撫松の消息を電報で知らせてくれた。

 「きょう、撫松で張蔚華の家族に会いました。首相の挨拶を間違いなくお伝えしました。夫人は礼を述べ、泣くばかりでした。夫人が踏査団に写真を1枚くれました。首相と張蔚華の共同闘争を反映した資料を収集するため最善をつくしています。くわしいことは帰国してから報告します」

 後日、わたしは、朴永純の報告を聞いて、張万程が1954年に死去したことと、彼が物故したあと、張蔚華の妻が息子の張金泉と娘の張金禄を連れて、撫松の旧家でつましく暮らしていることを知った。

 朴永純が、わたしの挨拶を伝えると、張蔚華の妻はいたく感激したという。

 「空は時間とともに変わり、人は生きていくうちに変わるというのに、金日成将軍の友情はどうして変わることがないのでしょうか。20年以上もたったいまでも夫のことを忘れていらっしゃらないのですから、どう感謝してよいのかわかりません」

 彼女は、答礼として数十年間大事に保存してきた1枚の写真を踏査団の団長に差し出し、わたしに渡してほしいと頼んだ。それがほかならぬ張蔚華とわたしの弟の哲柱が一緒に撮った写真である。その写真は、その年の秋に革命戦跡地踏査団が収集してきた事績資料とともに、当時の民族解放闘争博物館に展示された。張蔚華の顔が朝鮮人民に知られるようになったのはそのときからである。

 展示場を見て回ったとき、わたしはその写真の前に長いあいだ釘づけにされてしまった。20余年前に大営で別れた張蔚華が、生き返って平壌を訪れたのではないかと錯覚させられるほど、その写真は大きな衝撃を与えた。それまで、朝鮮人民のなかで張蔚華を知っている人はそれほどいなかった。宣伝部門の要職を占めていた事大主義者らがわが党の革命歴史と革命伝統についてよく紹介していなかったときなので、彼がわたしをどう助け、朝鮮革命のためにどんな業績を築いたのかを知っている人もあまりいなかった。張蔚華とわたしの縁(えにし)を知っているのは、数名の抗日革命闘士だけであった。わたしは随員たちに、彼がいかにりっぱな人間で、いかにりっぱな革命家で、いかにりっぱな国際主義者であるかを誇りたかった。20余年の歳月、わたしの胸にたまりつづけた憐憫の泉、追慕の泉がついに噴水となって吹きあげたのである。

 「この人が撫松第1優級小学校時代のわたしの同窓生、張蔚華です。彼は、わたしの友人であると同時に、忠実な革命戦友でした。彼の戦友のなかには、朝鮮の共産主義者がたくさんいました。張蔚華は、わたしを通じて朝鮮を理解し、わたしとの交友を通じて朝鮮人民の抗日闘争に共鳴と支持声援を寄せた偉大な国際主義戦士です。革命に参加しなくてもぜいたくに暮らせる人でしたが、彼は自発的に闘争の道に立ちました。そして、その道で生命までささげてわたしを守ってくれました。きょうここでこの写真を見て、彼のことが思い出されてなりません。われわれは幸せであればあるほど、張蔚華のような恩人を忘れてはならず、われわれの革命偉業を血をもって助けてくれた中国の友人たちを忘れてはなりません」

 それ以来、わが国の出版物には、張蔚華の業績が広く紹介されるようになった。張蔚華は、羅盛教や黄継光のように朝鮮人民の誰もが知る有名な国際主義烈士となったのである。われわれの次の世代は、金振や馬東煕を思い浮かべるように、つきない愛情と尊敬の念をもって張蔚華を追憶している。

 わが国の踏査団が撫松に到着したつぎの日、張蔚華の妻は子どもたちにこう語ったという。

 「金日成将軍とおまえのお父さんは小学校のときから実の兄弟のように親しくつきあった。二人の仲がたいへん深かったので、撫松の同窓生たちはみなその友情をうらやましがったものだ。おまえのお父さんが日本帝国主義に抗して断固たたかったのも、金日成将軍の影響と指導を受けたからだ。それでおばあさんも、おまえたちは将軍のことを伯父さんと呼ばなければならないといつも言っていたんだよ。将軍はわたしたちのことを忘れず、いつもお父さんのことを思っていらっしゃる。金泉、伯父さんにお礼の手紙を出して挨拶しなくちゃいけないよ」

 母の思い出話を聞いて血気盛りの20代の青年、張金泉はなかなか寝つくことができなかった。1959年の張金泉は、父親が現像液を飲んで自決したときの2つ上の美青年であった。彼は家族一同の心情をこめて、わたしに長い手紙を書いてよこした。その手紙を手にしてから数日間、しきりに張蔚華のことが思い出されて夜も眠れなかった。わたしと張蔚華をつないでいた友情の血は、わたしが伝えた挨拶と張金泉の手紙によって、再び同じ動脈を駆けめぐるようになったのである。

 故人にたいする生者の友情は、先立った人たちの子女にたいする生者の愛情と配慮を通じてもつづくものだといえる。張蔚華にたいするわたしの友情は、わたしと彼の遺児たちとの対面が重なるなかで、新たなおもむきをもって深まっていった。

 張金泉から手紙を受け取って以来、わたしの関心は、容貌も気性もまったくわからないこの未知の青年にそそがれた。筆跡は、不思議なほど父親のそれと似ていた。面ざしまで父親に似ていればいいのだが、そして、彼の姿を写真でなく、この目で実際に見ることができたらどんなにいいだろうかと思ったものである。しかし、それは夢でしかなかった。その夢を実現するには、まださまざまの難関を乗り越えなければならず、わたし自身もたゆまぬ熱意と忍耐力を発揮しなければならなかった。わたしと張蔚華の遺族のあいだには、国境という無情な制止線が引かれているのである。国境は、過去の道義や親交というものに理解を示さない厳格な遮断物なのだ。

 張金泉から手紙をもらってから20年以上の歳月が流れた1984年5月、わたしはソ連と東欧社会主義諸国を歴訪する機会に、列車で中国の東北地方を通過する幸運に恵まれた。東北の山野は、わたしが20年以上の歳月を過ごしたところであり、久しく武装抗日の風雪に堪えてきたゆかりの地である。わたしの故郷ともいえるこの山野には、幾多の思い出が刻まれていた。生前には行けないのではというもどかしさが脳裏から離れず、夢のなかでも足首が痛むほど踏み歩いた土地! それで、金正日組織担当書記が、図們―牡丹江―ハルビン―チチハル―満州里―ソ連というコースを定めてくれたのかも知れない。わたしは、懐かしい山並みにじっと目をそそいだ。どれほど多くの人が鮮血を流してこの地に倒れたことか。あれから数十年の歳月が流れていたが、ともにたき火のそばでうたた寝をし、草がゆをすすり、硝煙に身を焦がしたありし日の戦友たちの姿がまざまざとまぶたに浮かび、車窓の風景から目をそらすことができなかった。われわれを乗せた特別列車が図們を発って敦化方面に向かっていたときである。わたしは、撫松にいる張蔚華の妻子のことが思い出されて随員たちを呼んだ。

 「ここは、わたしがずっと前から来たいと思っていた所だ。時間が許せばパルチザン時代の戦友や知人に会い、戦友のなきがらの眠る戦場の跡にも行ってみたいが、そうできないのが残念だ。ここから数十里にしかならない撫松に張蔚華の家族がいまも暮らしているそうだ。彼らに記念品を伝えてもらいたい」

 数日後、中国の関係者の手でわたしの贈り物が張蔚華の家に届けられた。

 東欧諸国の訪問を終えて帰国したわたしは、張金泉からの2度目の手紙を受け取り、彼を平壌に招いた。そして彼の訪朝がスムーズに実現するよう、胡耀邦総書記に協力を要請した。

 1985年4月、ついに張金泉は、妹の張金禄と長男の張hを連れて歴史的な朝鮮訪問の途についた。あらゆる草木に花が咲き、新芽が吹くのどかな春の日、わたしは興夫迎賓館で撫松からの貴賓を迎えた。車を降りる張金泉と張金禄の姿を見た瞬間、わたしは激情にかられて言葉が出なかった。父親似の張金泉と母親に生き写しの張金禄、そして、両親の顔立ちから美点だけをとったような張h! 彼らが父母の面ざしをそのまま譲り受けたのは彼ら自身にとっても喜ばしいことであるが、わたしにとってもうれしいことであった。不帰の客となった張蔚華夫妻が生き返ってわたしの前に現れたのではないかと思ったほどである。わたしは、彼らの一挙一動に張蔚華の面影を見出そうとして目をこらした。そして、廟嶺と大営で張蔚華に会ったときのように、張金泉、張金禄、張hをひしと抱きしめた。

 「よく来てくれた!」

 わたしは、最初の挨拶を中国語でした。数十星霜をへて、わたしの中国語にも少なからぬ空白が生じていた。だが、わたしの口からは「よく来てくれた」という中国語がとっさに飛び出したのである。国家元首が外交の場で外国語で話すのは慣例に反するという人もいるが、わたしはそのような慣例を無視した。張金泉一行は、外交のためにわたしを訪ねてきた客ではなく、わたしも外交のために彼らを招いたのではない。戦友の子や孫に会うのに、外交や慣例にとらわれる必要はない。それで、わたしはその日、彼らのために催した昼食会でも祝辞を述べなかった。それも慣例にないことであった。

 「わたしたちは同じ家族なのだから、祝辞などいらないだろう。ただ、ここにいる人たちの健康と中朝親善のために乾杯しよう!」

 わたしが祝辞の代わりにこう言うと、張金泉も喜んだ。張金泉は、父親に似てさほど酒をたしなまなかった。それでわたしは、彼にあまり酒を勧めなかった。われわれは、アルコール分のうすいブルーベリー酒を3杯ずつあけた。フランスのミッテランが訪朝したさいにも、わたしはこの酒を勧めたものである。日本の植民地時代には、天皇しか飲めなかったという有名な酒である。3杯という酒量には深いわけがあった。1932年6月、撫松県の十字路北側の「東焼鍋」と呼ばれる酒造工場でわたしと張蔚華が別れを惜しんだときも、われわれは3杯の酒を酌み交わしたのである。

 撫松の貴賓の歓迎宴は3時間もつづいた。格式と慣例を度外視したその日の昼食会はじつに家族的なものであった。われわれは、庭園でも多くの話を交わした。その日の話題の中心となったのは道義にかんする問題であった。わたしは、わたしの一家にたいする張万程と張蔚華の道義にからめて撫松時代の体験を述懐し、客人はわたしの道義にたいして謝意を表した。

 「おまえのおじいさんは朝鮮の独立運動を助け、お父さんは朝鮮の共産主義運動を助けてくれた」

 わたしは、張氏一家の功績を一言でこう評価した。その日わたしが張万程と張蔚華の道義についてとりわけ多くのことを語ったのは、たんに彼らを称賛するためにだけではなかった。わたしは、その話をすることによって、張金泉、張金禄、張hをはじめ、張蔚華の子孫も代を継いで道義を重んじる誠実な人間となり、志操堅固な革命家となることを願ってやまなかったのである。

 人間の道義は、封建的な道徳でいう君臣や親子のあいだにのみ存在するものではなく、友人や同志のあいだにも存在するものである。「友の道理は信にあり」というのは、こういう理を説く成句であろう。それで昔の聖賢たちは、徳と道義にもとづく徳治主義を宣揚して「仁者に敵なし」と言った。徳があれば人を得、人があれば土地を得、土地があれば財を得、財があれば用をなす、と教えているのである。「徳人地財用」の5字に含蓄されている昔の東方哲学のこの事理はじつに奥深い妙味をもっており、現代の生活においても参考とすべき価値は大であると思う。わたしは、三綱五倫をあたまから悪いものとはみなしてはおらず、それを故意に共産主義理念と対立させ、共産主義道徳に反するものと評する人たちの極端な見解も容認しない。国に仕え奉ずる臣下の道理がなぜ悪いものといえ、父母を敬う子の孝道がなぜ法度に反する行為といえようか。わたしは、こういう道徳観念が封建的な国家社会制度を合理化し、人民を無抵抗と盲目的な屈従に追いやることに反対するのであって、人間本然の道徳的基礎を強調する三綱五倫の原理的側面は決して否定するものではない。

 張蔚華とわたしは君臣の関係でもなく、親子の関係でもなかった。彼が命を投げだしてわたしを守ってくれたのは、三綱の君臣の義によるものではない。彼は、たんなる革命同志にすぎないわたしと革命そのものの利益のために、三綱の要求とは異なる最大の共産主義的道義を発揮したのである。張蔚華の業績が貴く偉大であるのは、その道義の純潔さと崇高さのためといえよう。

 張金泉一行は、撫松の人びとと家門を代表して、わたしに「玉に遊ぶ2匹の竜」という表題が刻まれた木彫り装飾の時計と一幅の中国画『多寿図』を贈ってくれた。その絵は、大きな長寿の桃がいっぱい入った篭を持つ農家の子どもを描いたもので、張金泉の説明によれば、わたしの健康と長寿を願う意味がこめられているとのことであった。わたしは返礼として、わたしの名入りの金時計を張金泉、張金禄、張hの腕にそれぞれはめてやった。張金泉は、平壌で総合検診を受け、悪くなった奥歯をぬいて金の入れ歯をした。わたしと張金泉一行は、国境都市の新義州の迎賓館で2度目の対面をした。そして、帰国の途につく彼らのために再び昼食会を催し、3時間にわたって語り合った。

 別れにさいして彼ら一人ひとりにカメラを贈ると、彼らは非常に感激した。わたしは、いろいろと考えた末に記念品としてカメラを選んだのである。張蔚華は、撫松で「兄弟写真館」を経営していたときにカメラも1台送ってくれたことがある。わたしが準備したカメラは、あのときの張蔚華の贈り物にたいする返礼でもあり、写真業で革命につくした彼の模範が受け継がれることを願う気持ちのあらわれでもあった。張金泉も父親のように撫松で写真業にたずさわっているとのことであった。

 別れぎわにわたしはこう言った。

 「わたしは明日、新義州を発って平壌に帰る。帰国したら仕事に励み、りっぱな共産党員になるのだ。地位を欲してはならず、過ちを犯さないようにしなさい。おまえたちは小さいときからお父さんがいなかったが、これからはわたしがおまえたちのお父さんだ」

 張金泉は1987年にも、妻の王鳳蘭と次男の張瑤、孫娘の張萌萌を連れてわが国を訪問した。そのときわたしは彼らに7回も会った。これも慣例や規範を度外視したことであった。5歳の張萌萌は、わたしの75回目の誕生日を祝うために訪朝した外国の賓客のなかでいちばん年少の友人であった。萌萌は、張氏家門の5番目の世代を代表する子でもあった。4月13日の夜、張萌萌は、祖父と祖母、叔父と一緒に烽火芸術劇場に招待されて、「4月の春親善芸術祭」に参加した世界各国の芸術団の交歓公演を観覧した。その日、わたしはそこではじめて張萌萌に会った。休憩室から出て中間通路をへて客席に向かっていたわたしは、通路ぎわの最前列にいた張金泉夫妻と挨拶を交わし、萌萌を抱いて高く差し上げた。萌萌は、臆する色もなくわたしに頬ずりして明るく笑った。その瞬間、数千の観客はいっせいに拍手を送った。わたしと張氏一家との縁を知るよしもない外国の賓客も、この場面を目撃して思わずほほえみ、場内が割れんばかりに祝福の拍手を送りつづけた。

 ――そうだ。萌萌、わたしはおまえのひいおじいさんにあたるのだ。こうして抱いていると、おまえのひいおじいさんのことが思い出されてのどがつまりそうだ。ひいおじいさんは大の子ども好きだった。いま生きていたら、おまえをどんなに可愛がることだろう。しかし、ひいおじいさんは30歳にもならないうちに、わたしのためにみずから命を断ったのだ。どのようにしてその恩を返せばいいのか。おまえは5代目の朝中親善の花なのだ。おまえの高祖父と曾祖父、わたしとわたしの父は、この親善のために一生をささげてきた。おまえは、この人たちが流した血と労苦のうえに咲いた一輪の花なのだ。朝中両国の親善のために、誇らかに美しく咲くのだ――

 割れるような拍手に包まれた束の間に、わたしはこんな想念にとらわれていた。わたしは、萌萌をしっかりと抱きしめた。萌萌の小さな心臓は、わたしの心臓の近くで早鐘を打つように、しかも規則正しく鼓動していた。その力強く熱情的な響きがわたしの胸に伝わってきた瞬間は、わたしと張蔚華の友情が5代目に受け継がれた意味深い瞬間だといえる。張万程、張蔚華、張金泉、張h、張萌萌…。そうだ、風波はげしい歳月の流れにもかかわらず、両家の友誼は、無数の大河と小川を渡り、5代目に引き継がれたのである。これは、両家の友情であると同時に、朝中両国、両人民の親善なのだ。それゆえ、張金泉も後日、この親善のことを「つきせぬ旧友の情」と名づけたではないか。わたしとわたしの懐に抱かれた萌萌の姿を見たとき、人びとは朝中親善が千秋万代にわたって不滅であることを確信したのである。その日わたしは記念として、張蔚華と弟の哲柱が一緒に撮った写真にサインをしてやった。金泉はそれを家宝として大事に保存すると言った。

 張金泉一行がわが国に滞在するあいだ、わたしは彼らに専用機と特別列車を仕立ててやり、身のまわりの世話をする多くの人をつけた。彼らは、張蔚華の子孫として、国賓として当然のもてなしを受けたわけである。

 1992年4月、張蔚華の子女は、わたしの80回目の誕生日を祝うため再び訪ねてきた。それは彼らの3回目の訪朝であった。張金泉夫妻と張h夫妻、張瑜、張萌萌、北京在住の張金禄と夫の岳玉賓、娘の岳志雲、息子の岳志翔など総勢12名が平壌に集まった。訪問が繁くなるにつれ、わたしと張蔚華の子孫との情はますます深まった。張金泉は3回目の訪問記念として、自分の長編手記『つきせぬ旧友の情』を贈ってくれた。それは、わたしの父と張万程の親交にはじまる両家の友誼について、ありのまま素朴に叙述した本である。筆致は素朴ながらも行間ににじみでる友愛の情、親善の情は、じつに豪放で流暢なものであった。その本は、わたしの心を大きくゆさぶった。わたしがりっぱな文章だとほめると、張金泉は子どものように顔を赤らめ、自分たちにたいする伯父さんの厚い恩情が十分にあらわせたかどうかわからないと案じた。

 わたしは返礼として、わたしの回顧録『世紀とともに』の中国語版第1、2巻を贈った。

 「外国人で命を賭してわたしを守ってくれたのは、張蔚華とノビチェンコの二人だ。ノビチェンコは生きているが、決死の覚悟がなければそういう犠牲的精神は発揮できるものではない。考える余裕もなく瞬間的にそういう行動をとるというのは容易なことでない」

 張金泉一行が3回目にわが国を訪れたとき、わたしは彼らにこう言った。すると張金泉と張金禄は、ある意味では自分の父の功績より、ノビチェンコの功績の方が何倍も大きい、彼でなかったら大変なことになるところだった、と真剣な顔で言った。

 「わたしの生涯には、わたしにつくしてくれた人が数えきれないほど多い。危機一髪の瞬間に助けてくれた忘れがたい命の恩人がたくさんいる。いまおまえたちと同行している孫元泰先生の父の孫貞道牧師もそうだし…。それでわたしは、国のためにつくす人は、天が照覧し、いつも義人に助けられるのだと考えるときもある。これは観念論ではない。人民のために一生をささげる覚悟ができている人は、どこでも人民に助けられるものだ。これは真理であり弁証法である」

 わたしは彼らに、父親のように人民に奉仕し、人民のために一生をささげるりっぱな人民の息子、娘にならなければならないと言い聞かせた。

 張金禄は、自分が編んだ赤紫色のウールのジャケットを贈ってくれた。直接身にまとうものをと考えたということであった。他の品をもってくると、国際親善展覧館のようなところに保管して使ってもらえないようなので、身近に置いて使えるものを準備したというのである。思慮深いはからいだった。わたしは、それをありがたく受け取り、彼らの希望どおりその場でジャケットを着て記念撮影をした。張金泉はそのとき、父の55周忌を機に墓碑を立て直すつもりなので、そこに刻む碑文を書いてほしいと頼んだ。遠慮のないそんな願いがうれしかった。それは、彼がわたしを心から伯父として慕っていることを意味した。

 「もう55年になるのか。お父さんが亡くなったのは陰暦で10月だったと思うが…」

 わたしは、粛然とえりを正す思いで1937年のあの陰惨な秋を回想した。

 「そうです。伯父さん、陰暦で1937年10月2日です。陽暦では今年の10月27日に当たります」

 「それなら、こうしよう。おまえたちが立てる墓碑に字を書くのでなく、わたしの名で記念碑を立てることにしよう。どうかな?」

 突然の提案に、張金泉と張金禄は、ただ顔を見合わせるばかりであった。彼らは、そんな大きなことを求めようとしたのではなかった。わたしを家長のように思って、遠慮なく心の内を打ち明けたまでなのに、予想もしなかった記念碑の問題をもちだしたので、狼狽(ろうばい)したようであった。

 それで、金泉はあわててこう言った。

 「そんなことはできません。伯父さんを煩わすわけにはいきません。碑文だけ書いてくだされば、それを持ち帰って墓碑に彫りつけるようにします」

 「それも悪くはないだろう。しかし、せっかくのことだから、わたしが書いた碑文を彫った記念碑をここでつくって送ろう。それを立てる準備でもしなさい。いつごろ送ればよいだろうか?」

 「そうしていただければ本当にありがたいと思います。しかし伯父さんはお忙しい身なのに、またご心配をかけることになって申し訳ありません。わたしが出過ぎたことをお願いしてしまったようです…」

 張金泉と張金禄は恐縮しきっていた。

 「記念碑をつくるのにはそれほど時間がかからないだろう。しかし、せっかく立てるのだから、お父さんの命日に行事を取りおこなうのがいいだろう」

 張金泉一行は、わたしの提案に同意した。彼らは、撫松に帰ったら記念碑の除幕式の準備を急ぎ、中国の当該機関にも知らせると言った。こうして、かつての革命戦友である張蔚華の墓所に、わたしの名で記念碑が立てられることになった。わが国の党歴史研究所の幹部が、記念碑を平壌から撫松まで運んだ。中国の党と政府は、臨江の橋のたもとまで人を派遣してわが国の代表たちを手厚く出迎え、10月27日には撫松市内にある張蔚華の墓所で盛大な記念碑建立行事を取りおこなうようはからった。中国の報道機関は、この行事に大きな意義を付与し、広く報道した。

         
     張蔚華烈士の革命業績は、朝中人民の親善の
輝かしい象徴である。烈士の崇高な革命精神と
革命業績は、人民の心のなかに永遠に
生きつづけるであろう

 
 
 金 日 成  
 1992年10月27日  
   



 わたしの自筆による記念碑の全文である。

 代表たちが平壌に帰ってきたあと、わたしは、記念碑の建立行事を録画で見て、その盛大さに驚いた。それは朝鮮人民と中国人民、朝鮮の闘士と中国の闘士でなくてはつくりだせない親善と道義の生きた画幅であった。

 生きている人と故人のあいだにも友情はつづくものなのか? こんな質問を受けるたびに、わたしはつづくと答えてきたし、いまもそう答えている。張氏家門の3世、4世、5世とわたしとの親交、撫松で取りおこなわれた記念碑建立行事は、この答えの妥当性を力強く立証している。

 生きている人は、逝った人を忘れてはならない。生きている人が故人を忘れないでいてこそ、その友情は強固で真実で、永遠なものになりうる。生きている人が故人を忘れるならば、その瞬間から友情は消滅をまぬがれない。故人をつねづね追憶し、彼らの業績を広く紹介し、その子孫を見守り、彼らの遺志を守ることが、先代と先達、先に逝った革命同志にたいする生きている人の道義だと思う。このような道義なくしては、歴史と伝統の真の継承はありえない。

 記念碑を送ったので、ひとしお心が軽くなった。だが、数千数万の記念碑を立てたところで、わたしのために一命をなげうった張蔚華の恩に報いることはとうていできない。いま張蔚華の孫の張瑜と外孫娘の岳志雲は、両親の希望どおり平壌国際関係大学で学んでいる。張蔚華のことが思い出されると、わたしは彼らの宿所を訪れる。分秒が大切な国家主席の多忙な日課から、外国の留学生に会う時間を割くというのは容易なことではない。しかし補佐官たちは、張蔚華の孫たちのためにあてる時間を惜しみなく割いてくれている。わたしも、彼らのために費やす時間は少しも惜しくない。張瑜と岳志雲が流暢な朝鮮語で新年の挨拶をしたとき、わたしはすこぶる満足した。彼らの朝鮮語はなかなかのものである。彼らが一日も早く朝鮮語をマスターし、朝鮮の食べ物になじみ、朝鮮人と親しくなることを願っている。

 21世紀を迎える世界の政局はきびしく複雑をきわめているが、わたしと張蔚華一家のあいだに流れる旧友の情は変わることがない。わたしは久しい前から撫松を訪問したい気持ちを表明してきたが、いまもその気持ちは変わっていない。撫松へ行き、南甸子にある張蔚華の墓に参りたいが、それがたんなる願いに終わってしまうのではないかと不安にかられるときがある。この願いが実現されないなら、せめて夢のなかででも昔の戦友のそばに行ってみたい。



 


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