金日成主席『回顧録 世紀とともに』

3 革命戦友 張蔚華(1)


 前にも述べたが、金山虎が布地を手に入れて馬鞍山に帰ってくるなり、わたしは再び彼を撫松県城へ派遣した。20元分の布地では、児童団員全員に服をつくってやることができなかったのである。戦闘をすれば布地はろ獲できるのだが、早くからわたしと縁のあるこの城市で白兵戦をおこなうつもりはなかった。新しい師団の編制によって革命軍の面貌を一新したわれわれは、その成果を踏まえて人民革命軍の軍事的・政治的力量を拡大する段階にあった。力を蓄える前に銃声をあげたのでは、撫松で四面楚歌の窮状に陥り、白頭山地区への進出も大きな難関につきあたるおそれがあった。布地を手に入れる唯一の道は、張蔚華の助けを借りることであった。富豪の息子であり、わたしの革命戦友であり、抗日救国の理念に忠実なアクチブである張蔚華であってこそ、わたしの苦衷をみずからの苦衷とし、全力をつくしてわたしを窮地から救い出してくれるに違いなかった。再び撫松へ行ってくるよう命ずると、金山虎はいささか面食らったようであった。たったいま、行ってきた所へまた行けといわれたのだから無理もなかった。わたしとしても、彼を休ませたいのはやまやまだったが、子どもたちと新しく編制される部隊のためには、再び彼にむずかしい任務を与えるしかなかった。金山虎は、張蔚華への働きかけがごく自然にできる適任者だったのである。張蔚華が、張亜青という幼名で五家子の三星学校で教鞭をとっていたとき、金山虎はそこの反帝青年同盟支部で青年活動をしていた。活動上の連係や親交はなかったが、その程度の縁があれば信任状の代わりにはなった。

 「山虎同志、すまない。難題が生じるとついきみを呼んでしまう。なぜそうなるのか、わたしにもわからない。ひどい上官につかえていると思いはしないかな?」

 自分を救出した小部隊の隊員たちとともに馬鞍山に帰って一息入れていた金山虎が、新たな任務を受けるためにわたしの前にあらわれたとき、わたしはこう言って彼を迎えた。充血した目でしばしわたしを見つめていた金山虎は太い声で言った。

 「司令官同志に似合わず迂回作戦をされるのですか? わたしの任務をずばりと言ってください」

 彼の返事を聞いて、心が軽くなった。

 「よし。それじゃ明日の朝、もう一度撫松に発ちたまえ。きみを張蔚華のところにやることにした。どう考えても、少々彼の世話になるしかないようだ。五家子に来て小学校の先生をしていた中国人青年を覚えているだろう?」

 「張亜青先生ですか? 覚えていますとも。メガネ越しに照れくさそうに人の顔を見つめるあの目つきが忘れられません。ギターがなかなか上手でしたね」

 「それなら大丈夫だ。紹介状を書くから、それをもって張亜青に会うのだ。市内を一回りして偵察したあと、小南門通りの方へ行って張万程の家を訪ねなさい。その張万程という人が張蔚華の父親なのだが、撫松で指折りの金持ちだ」

 金山虎は喜色満面になり、胸を張ってわたしを見つめた。まるでピクニックにでも出かけるかのようにうきうきしていた。人並みはずれた六尺豊かなこの男には、同僚たちが尊敬の目で見る篤農の気質があった。彼は仕事がある日は肩で風を切って歩いたが、なんの仕事もまかされない日は心気病者のように憂うつな顔をしていた。彼の表情は、任務をまかされた日とそうでない日の気分状態を正確に反映するバロメーターともいえた。

 わたしは、自分の日課のうちで一刻千金ともいえる明け方の時間をそっくり費やして、張蔚華に伝える手紙を書いた。そのとき誰かが、大豆油の缶を二重底にして手紙を入れる妙案を考え出した。金山虎は、その大豆油の缶をぶらさげ鼻歌まじりで馬鞍山を発った。軍警の検問を通過できる正真正銘の油売りに見せかけるため、朴永純はクーリー(下層労働者)の服よりも粗末で油光りのする服を手に入れて彼に着せた。

 わたしは、いまや遅しと張蔚華の返事を待った。金山虎の帰りが待たれて寝つかれなかった数日間、頭には張蔚華のことしかなかった。金山虎の帰隊を待つあいだの一刻一刻は、張蔚華への思いのうちに流れていった。いますぐにでも腰に粗末な手ぬぐいをぶらさげ、金山虎のようにクーリーの装いで県城へ行き、張蔚華に会うことができたらどんなによいだろう。彼と一緒にわたしの住んだ家がある小南門通りをぶらつき、第1優級小学校時代の先生や学友に会い、陽地村の父の墓に参ることができたらどんなによいだろう。もし、仕事が山積しておらず、また、肉親以上にわたしの身辺を気遣う戦友たちがいなかったなら、わたしは万難を排して撫松行きの冒険をしていたかも知れない。だが、それほど行きたいと願っていたその土地には、わたしを知る人があまりにも多かった。学窓時代の多くの日々を撫松で過ごしたわたしは、その地方の軍警にも歓迎できない人物として広く知られていた。撫松は、わたしが官憲の手にかかって留置場の飯を食わされた、いま一つの陰険な軍閥の巣窟であった。しかし、そこにわたしの少年時代の生身のような一断面が残っており、父の墓があり、愛する中国の友人張蔚華が住んでいるがゆえに、わたしはこの盆地の都市を変わることなく愛していた。

 撫松の十字路のかたわらに、1932年6月の南満州遠征のときに張蔚華との出会いの場となった「東焼鍋」という酒造工場があった。工場はその後名称を改めたが、南満州遠征のさい、わたしがここで張蔚華に会ったという事績にちなんで、再び以前のとおり「東焼鍋」と呼ばれるようになったという。わたしの80回目の誕生日に、張金泉はその酒造工場製の「東焼鍋」という銘酒を携えてきたが、そのときわたしは、撫松の人たちのあたたかい情をあらためて感じたものである。そこで、わたしは張蔚華と何回も語り合った。革命について、未来について多くのことを語り合った。そのとき張蔚華は、自分の妻が懐妊したことまで話した。その子が現在、撫松に居住している彼の息子張金泉である。

 張蔚華はそのとき、部隊の威容を見て驚いていた。

 「成柱の部下たちは本当に頼もしい。ぼくたちが汽車の中で会ってから1年もたっていないのに、こんなに早く軍隊を組織するとは。成柱は大きなことをやってくれた。これなら大事をとげることができる。大したものだ!」

 彼は親指を突き立てて、しきりにわたしをほめた。面と向かっての称賛に、ぼうっとなるほどだった。

 「蔚華、あまりおだてないでくれ。われわれはいま第一歩を踏み出したにすぎない。人間にたとえれば赤ん坊のようなものだ。しかし、この赤ん坊を誕生させるには蔚華がくれた数十挺の銃が大きく物を言ったんだ。蔚華は、われわれの軍隊を生みだすうえで無視できない功績を立てた助産婦の一人というわけだ」

 「それは、お世辞というものだ。ぼくはいま、自分のことをどれほど能無しの無力な人間だとののしっているかわからない。成柱はいまでも以前のようにぼくを信じているだろう?」

 「もちろん、信じているとも。それも心底から信じている。あの松花江が逆に流れるようなことがあっても、蔚華にたいするぼくの気持ちは変わらない」

 張蔚華は、いきなりわたしの手をきつく握りしめ、訴えるような目でわたしを見つめた。

 「それなら成柱、ぼくを成柱の部隊に入れてくれ。ぼくも武器をとって堂々と抗日戦に参加したいのだ。ぼくの願いを聞いてくれなければ、撫松から成柱をどこへも行かせないぞ」

 この単刀直入な頼みを聞いてわたしは喜びを禁じえなかった。

 「蔚華、本当か?」

 「本当だとも。成柱の部隊が撫松に来たその日から、ぼくは毎日そのことばかり考えていたんだ。妻も賛成してくれたし…」

 「で、お父さんはどうなんだ。行かせてくれるだろうか?」

 「父が行かせてくれようがくれまいが、そんなことは関係しない。ぼくが行くといえばそれまでさ。成柱もあのとき汽車の中で言ったではないか。国がなくなるというのに家がなんだ、親の顔色をうかがっていないで革命に参加すべきだと。陳翰章も富豪の息子でありながら革命に参加しているというのに、ぼくだって救国軍の工作ぐらいはできるじゃないか」

 「蔚華がパルチザンについていくというのはよいことだ。だけど蔚華、革命というのは武装闘争という一つの戦線だけではないのだ。ぼくは、蔚華が撫松に残って地下革命活動をしてくれたらと思っている」

 「地下革命活動だって? それじゃ遊撃隊には受け入れられないというのか?」

 「そうではなく、ほかの戦線で戦ってほしいということさ。大衆を教育して結集する地下革命闘争は、武装闘争に劣らぬ重要な戦線だ。この戦線で活動する闘士が人民大衆をかたく結集できなければ、武装闘争はその基礎をかためることができない。それで、撫松地区にも強力な地下革命戦線をつくろうと考えたんだ。ぼくは、きみがその戦線を指揮する司令官になってくれたらと思っている」

 張蔚華は気が抜けた人のようにうなだれ、ゆっくりとメガネを拭きはじめた。

 「それじゃ成柱は、ぼくを敵の銃弾が及ばない第2線に回そうという魂胆だな。金持ちの息子でぜいたくをしてきたから、苦労に耐えられないというんだろう?」

 「そういう考慮がまったくないとはいえない。蔚華の体質では、険しい山を渡り歩く遊撃隊生活に耐えることはできない。ぼくは、なにも隠しはしない。蔚華の思想が信じられないのではなく、肉体的な条件を心配しているのだ。だから、山の中で苦労をしようとしないで、家にいて写真館を設けたり教員をしたりしながら、われわれの活動を力の限り援助してくれというのだ。富豪の息子というのは、またとない看板ではないか。その看板なら、革命活動をしても自分の正体をいくらでも隠すことができるのだから」

 わたしは、翌日も根気よく説得した。押し問答は結局、張蔚華がわたしの助言を容れることで終わった。撫松を発つ日、彼はわたしを見送りながらこう言った。

 「正直に言って、ぼくが遊撃隊に入ろうと決心したのは、地下闘争がいやだからではなくて、成柱と一緒にいたかったからなのだ。成柱がいないぼくの生活、それはバイオリンのない管弦楽のようなものだ。ぼくがどんなに成柱のことを思っているか、成柱にはよくわからないだろう。どこへ行ってもぼくのことを忘れないでほしい。ぼくには、成柱ほど親しく大事な友だちはいないんだ。くれぐれも体に気をつけてくれ」

 張蔚華は涙ながらにわたしを見送ってくれた。その日、わたしは、彼を地下共青組織に受け入れた。あれから4年という歳月が流れていた。4年というのは短くない歳月である。だが、張蔚華はいつもわたしの関心のなかにあり、わたしの胸はつねに彼にたいする思いでいっぱいだった。

 わたしは、いまかいまかと金山虎の帰りを待った。大豆油の缶をかついで撫松市内に入った金山虎は油売りをしながらしばらく県城内をぶらついているうちに、張蔚華が「兄弟写真館」を経営していることを知った。見かけは写真館だが、実際は撫松地区の地下組織を指導する本部も同然であった。張蔚華はこの本部にかまえて収益をあげる一方、組織のメンバーとの連係も保っていた。金山虎が、写真館を訪ね「張先生、ちょっと会っていただけないでしょうか」と言うと、彼は現像室に案内した。

 「わたしは、金日成将軍の使いの者です。金日成将軍は、いま撫松の近くに来ています。あなたがどう過ごしているか調べてこいと言われて来ました」

 金山虎がこう言うと、張蔚華はすぐに彼を思い出し、喜びの色を浮かべた。

 「ああ、金成柱! 成柱が近くに来ているというんだね。金成柱がいる所につれていってもらえるだろうか?」

 「遠いのでいまは無理です。あとで中間地点に適当な場所を決めて知らせるから、そこで金将軍と会うことにしてはどうでしょう?」

 張蔚華は疑わしそうな目で山虎を見つめていたが、わたしが送った手紙を読んでようやく微笑を浮かべた。

 「いいだろう。それでは連絡を待つことにしよう。手紙をありがたく受けとったと金成柱に伝えてくれたまえ。それに、わたしが元気だということと、約束を忠実に守っているということも報告してほしい」

 金山虎は、意気揚々と馬鞍山密営に帰ってきた。新しいニュースでいっぱいの彼の報告は、1936年の春がわたしにもたらした最高の贈り物といえた。わたしは、春の香りに酔いしれた人のように心がはずみ、足首が痛むほど密営を歩きまわった。わたしの提案で、張蔚華と落ち合う場所は撫松県の廟嶺付近にある天然洞窟に決まった。

 わたしが会おうとする人物が、数十ヘクタールの土地と数十ヘクタールの朝鮮人参畑、多数の私兵を擁する富豪の息子であることを知った隊員のなかには、穏当を欠いた危険な行為だといって、わたしの廟嶺行きに反対する者もいた。

 「司令官同志、差し出がましいことを言うようですが、富豪の張氏の息子に会うのは考えなおしてください。彼は司令官同志の小学校の同窓で長年組織生活もしたとのことですが、階級的本性は変わるわけがありません。なんといっても、彼は搾取階級の息子ではありませんか」

 わたしはそういう忠告を言下に一蹴した。

 「きみたちが、わたしの身辺を気づかってくれるのはうれしい。しかし、わたしはそれを受けることはできない。きみたちはいま階級的本性を云々して、司令官がすすんで罠にはまりこもうとでもしているかのように騒いでいるが、それはわたしの無二の革命戦友張蔚華にたいする冒涜であると同時に、われわれの統一戦線政策にたいする冒涜だと言わざるをえない」

 「司令官同志! わたしたちは地方組織に属していたとき、人間の階級的本性は変わるものではない、金持ちとは絶対に妥協してはならない、と教えられました。革命軍に入隊してからも、多くの指揮官からそう聞かされました。それで地主、資本家と労働者、農民のあいだには、闘争という一つの原理があるのみであり、搾取階級一般にたいしては誰彼の区別なく打倒するか粛清するしかないと考えるようになったのです」

 廟嶺行きに反対する人たちは、一言の訓戒でたやすく引き下がるような者ではなかった。彼らが革命の原理に反するはねあがった主張をするからといって、箝口令を敷くわけにはいかなかった。そのころ、われわれの隊内には、マルクス・レーニン主義の古典の命題を革命実践との連関のなかで創造的に考察するのでなく、うのみにしたり機械的に適用する人間がまだ少なくなかった。マルクスやレーニンの命題は、彼らにとって寸分の酌量も許されない絶対的な法規となっていたのである。こうした人たちの思考方式からドグマをなくすには、地道な原理教育が必要であった。

 わたしは話した。

 ――搾取階級に反対してたたかうのはもちろんよいことだ。地主や資本家が、われわれの敵対階級であることはわたしも認める。しかし、きみたちが銘記すべきことは、地主や資本家だからといって一律に扱ってはならないということだ。地主や資本家のなかにも、国を愛する人がおり、抗日を志す人がいるのだ。ここには、五家子の内幕をよく知っている金山虎同志もいるが、そこの趙家鳳という地主は、われわれの革命活動をどれほど助けてくれたかわからない。張蔚華の父親である張万程は趙家鳳よりも積極的にわれわれを援助してくれた。われわれが五家子で武装闘争の準備を進めていた1930年の秋、張蔚華は、その私兵が使っていた40挺の銃をわたしに提供してくれた。いまわれわれが手にしている銃の一つひとつにどれほど高い代価が払われたかは、きみたちもよく知っているはずだ。われわれの隊伍には、1挺の銃のために青春をささげた烈士も少なくない。ところが張蔚華は、命までささげて手に入れなければならなかったそういう武器を無償で40挺も提供してくれたのだ。張蔚華を信じられない理由がどこにあるというのか。以前、張氏一家がわれわれにどんなに友好の情を示し、わたしの家庭をどれほど助けてくれたかについては、ここであえて話さないことにする。しかし、階級性と階級闘争にたいする一面的な解釈が革命にいかに大きな損失をもたらすかについては、どうしても言っておかなければならない。きみたちの見解どおりにすれば、張万程のような地主は革命にいくら有益なことをしても、搾取階級だから打倒の対象になり、逆に、労働者、農民出身の密偵は、革命にいくら害を及ぼしても、勤労者階級だという理由で包容の対象にしなければならないことになる。これは、なんと馬鹿げた規定だろうか。共産主義者は人を評価するうえで、つねに公明正大な立場に立たなければならない。つまり、所属や信教、階層のいかんにかかわりなく、りっぱな人はりっぱな人として評価し、功労は功労として評価しなければならないのである。共産主義者はまた、人を評価するうえでつねに科学的な立場に立たなければならない。科学的な立場に立つというのは、なにかの枠をつくっておき、それにあてはめて人を評価するのでなく、その人の思想と実際の行動を基本にし、あくまでも客観的な立場から正確に評価するということだ。人を評価するうえで出身階級のみを絶対視するなら、科学性が保障されず、そのような評価は公正な評価とはいえない。もしわれわれが、階級性や階級闘争一面のみを強調して、人びとを極左的に評価するなら、どういう結果をまねくだろうか? 疑いなくそれは、多くの人を敵の陣営に追いやることになるだろう。敵はまさに、われわれがそんなふうにむやみに人を疑い、手当たり次第に打倒することを願っているのだ。われわれは、みな間島で反民生団闘争の的となり、たいへん気苦労をしてきた。同じ釜の飯を食い、生死をともにしてきた人たちから疑いの目で見られ、きみたちは胸を叩いて慟哭したではないか。そんなつらい思いをした人たちが、どうして、きょうは疑う余地もない人たちにあの呪わしい不信の武器を向けることができるのか−−

 わたしは、廟嶺行きに反対する者を諭し、何人かの護衛兵を従えて馬鞍山密営を発った。

 一部の人が金持ちの階級的本性は変わらないという前提のもとに、張蔚華と会うことに反対したのは杞憂にすぎなかった。彼らが平然と言った言葉がわたしと張蔚華との友情、わたしの家庭と張蔚華の家庭との親交を侮辱したように思われ、不快感を禁じえなかった。それは、10年以上の歴史をもち、松花江の流れのように倦むことも変わることもない神聖で深い友情に墨を振りかけるようなものだった。われわれの友情は、いかなる理由や詭弁によっても傷つけることのできない、ひたむきで深奥で真実なものであり、全般的な革命の利益と共産主義的人道主義と倫理道徳にも合致するものであった。有産階級に属する者は搾取者であるという一つの基準で金持ちをすべて反動派とみなすのであれば、われわれ共産主義者は自分自身を金持ちにするため社会改造の困難な道をあえて進む必要がないではないか。

 わたしは、幼いころから財産の有無や多少によって人を評価しはしなかった。人を評価する基準は、その人が人間をどれほど愛し、人民をどれほど愛し、祖国をどれほど愛しているかということであった。金持ちであっても祖国を愛し人民を愛する人であればりっぱな人間とみなし、無産者であっても祖国愛と人間愛に欠けていれば下劣な人間とみなした。一言でいって、思想を基本にして人を評価したのである。すでに、幼いころを回顧した節で述べたが、わたしの少年時代の最初の同志である康允範は裕福な家の生まれであった。彼の家には、小さな果樹園もあった。生活水準からいえば、わたしの万景台の家とは比べものにならなかった。しかし、わたしは、康允範を非常に愛し信頼した。それは、彼が誰よりも熱烈に祖国を愛し、人民を愛する少年であったからである。

 本書の第1巻で述べた白善行も大金持ちであったが、平壌市民に尊敬されつつ生涯を終えた。実際、彼女を財産家にしたのは、終生、食べたいものも食べず、着たい服も着ず、求めて苦労をした、その超人的な勤倹節約の精神である。言うまでもなく、この世には、多くの土地と財物をもち、人間を過酷に搾取して財をなす守銭奴、人倫にもとる蛮行をほしいままにし、あらゆる社会悪を生みだすよこしまな金持ちが多い。だが、金持ちと資産家がみなそうなのではない。白善行は、仕事という仕事はなんでもやっている。もやし商売、豆腐売り、花売り、機織り、糸紡ぎ、豚の飼育、残飯の売り買いなどまでして、化粧をする暇もなくあくせくと働いて富を蓄えた。16歳にして若後家の身となって以来、数十年間1日として休むことなく、血と汗によって蓄えた数千数万円にのぼる巨額の金を、彼女は社会事業にそっくりささげたのである。彼女が社会のためにおこなった最初の事業は、ソルメ橋と呼ばれた松山里の石橋の建造である。白後家の徳行に感動した平壌の人びとが彼女の名を善行と呼び、ソルメ橋を白善橋と命名したのはのちの話である。

 当時、平壌の新開地には、府立公会堂が一つあった。その公会堂の使用は日本人に限られ、朝鮮人は利用できないということを知った白善行は、憤慨の余り朝鮮人のための公会堂建設の工事費を全額負担し、数万円もの資金を借しみなく投じた。いまも練光亭の前には、かつて平壌公会堂として使われていた3階建ての石造建築が昔の姿をそのままとどめている。白善行は、民族教育の発展のためにも莫大な資金をつぎこんだ。平壌の光成小学校、彰徳学校、崇義女学校などは、彼女が寄贈した数十ヘクタールの土地を財源にして運営された。結局わたしも、白後家の功徳がほどこされた彰徳学校で、彼女の徳行の一部にあずかったことになる。

 白善行は、自分の後援する学校を訪れては、子どもたちにこう頼んだものである。

 ――おまえたちは、朝鮮の未来をになって立つ子どもたちだ。眠いからといって眠り、遊びたいからといって遊んではいけない。勉強したくないからといって本を投げ出さないで、熱心に学ばなければならない。おまえたちが、しっかり学んでこそ朝鮮の独立がなし遂げられるのだ――

 朝鮮総督府の表彰を伝達するためソウルから高官がやってきて面会を求めたとき、白後家はそれを拒絶した。

 幼いころから、わたしが主張し堅持してきた思想本位、行動本位の人間評価の基準は、後日、わが国の共産主義運動と民族解放闘争に少なからぬ影響を及ぼした。もし、われわれがこうした基準によって民族の総動員を訴えなかったならば、祖国光復会の傘下にはあれほど多くの大衆が結集しなかったであろうし、祖国の統一が至上の課題となっている現在、あれほど多くの南半部の民衆と海外同胞が民族大団結の旗のもとに肩を組み、「われらの願いは統一」と叫びもしないだろう。もし、われわれが当人の思想や本心を見ようとせず、身分を基準にしてすべての富者に反対する方向に走っていたなら、解放後、鄭準沢、姜永昌、盧太石、李智燦、金応相などの有産階級出身の知識人は、わが国の政治舞台に登場しえなかったであろうし、わが国の科学技術を発展させるうえで、あのような驚くべき献身性を発揮し偉勲を立てることもできなかったであろう。

 わたしは、中国の財産家にもこれと同じ観点と立場でのぞんだ。このような観点と立場に立たなかったならば、大地主の息子である陳翰章を友としなかったであろうし、富豪の息子である張蔚華を革命組織に受け入れ、彼との永遠の友情を誓い合うこともなかったであろう。陳翰章や張蔚華の生涯が示しているように、中国で共産主義運動を切り開いてきた名望家のなかには、有産階級出身とその子女が多かった。生涯を中華民族の幸福と共産主義偉業、プロレタリア国際主義偉業にささげた周恩来も、出身からすれば清朝末期の富裕な官吏の息子である。

 張蔚華が、その出身に束縛されず、有産階級を敵対階級とみなす共産主義者と手を握り、共産主義運動に生涯をささげたのは、わたしの影響によるところが大きかったと思う。彼に愛国主義的な教育をしたのは父親の張万程であるが、共産主義的な影響を与えたのはわたしとわたしの同志たちである。わたしが、撫松第1優級小学校の第5学年に編入したころにしても、彼は国を憂える素朴な少年にすぎなかった。わたしも当時はまだ平凡な愛国少年であったにすぎない。彼が共産主義思想を信奉しはじめたのは、わたしが「トゥ・ドゥ」と共青を組織し、その枝を四方に伸ばしていたときである。当時、わたしはわたしの母と朴且石を中心に、撫松で党組織の役割を果たす共産主義秘密グループを結成したのだが、鄭学海、蔡周善とともに張蔚華もその組織に関与した。彼は、そのときから共産主義の影響を受けるようになったのである。わたしは、史会長の紹介で撫松第1優級小学校に編入したその日から、張蔚華とともに学んだ。優級というのは高級という意味である。不遇な亡国少年である金成柱と富豪の息子である張蔚華が席をともにして学ぶという、歴史のいたずらのようでもある数奇な結合で類まれな友情が芽生え開花したのは、まったく不思議な因縁だといえるだろう。だが、「ともに」という条件が、われわれの友情の起点となったわけではない。わたしと張蔚華との友情は、わたしの父である金亨稷と張蔚華の父親である張万程の親交をその起点としていた。

 孔栄と朴振栄に助けられて漫江の土匪の巣窟から無事に脱出した父は、しばらくのあいだ朝鮮人が多く住んでいる大営という村落にとどまっていたことがある。そのとき、以前から親交があった崔面長という独立運動家に、撫松で暮らせるよう県当局の居住許可を得てくれるよう頼んだ。父の依頼を受けた崔面長は、県政府を訪ねたが、自分の管轄区域に朝鮮人革命家が住み着くのを喜ばない県長は、亡命者であることを理由に許可しなかった。そんなときに、撫松の富豪である張万程が病気にかかり、名医を探しているといううわさが父の耳に入った。崔面長の依頼で、父は張万程の治療にあたることになった。その過程で、父の筆が彼を感嘆させたという。張万程も能筆であったので、これがきっかけとなって、父と張蔚華の父親は友人になった。父は張万程にも、自分の撫松居住許可の件で県政府に働きかけてくれるよう頼んだ。崔面長は、彼なりにまた張万程を説得し、撫松で一番の有志であり知識人である史会長と交渉した。史会長とは、撫松で中学校の校長をしていた史春泰先生のことである。史春泰先生が校長と教育会の会長を兼任していたので、撫松の人たちは名前の代わりに彼を史会長とも呼んでいた。史会長は助力することを約束した。

 その後、張万程は、県政府を訪ね、朝鮮人亡命者が一人いるのだが、彼が市内で医院を営めるように許可してもらいたい、彼の居住を許可すると日本人の挑発に乗せられそうなので、あなたがためらっているということはわしもよく知っている、しかし朝鮮人が自分の国を奪った日本人に反対してたたかうのは当然なことではないか、あなたも親日派ではないのだから許可すればよいではないか、ここには日本領事館もないのだから怖がることはないではないか、臨江からくる領事館の警察と密偵だけ言いくるめればすむのだから金亨稷が撫松に来ることに反対しないでくれ、と説得した。県長は彼の熱意にほだされ、父の撫松居住を許可した。

 張万程は、わたしの父が閉鎖されていた白山学校を復活させ、その認可を得るために東奔西走していたときも、県商務会副会長兼教育会委員の肩書きにものを言わせて有志たちと一緒に県当局を説き伏せ、認可を取りつけた。わたしの一家が打開しがたい生活上の困難に遭遇するたびに、彼は手数が必要なときは手数をかけ、金が必要なときには金を使い、誠心誠意援助してくれた。わたしの家庭にたいする張氏一家の援助は父の他界後もつづいた。張万程は、母がひとりで子どもたちを連れてたいへんだろうと、よく金や食料を送ってくれた。

 わたしが吉林で学校に通っていたとき、亨権叔父が軍閥当局に捕まり投獄されたことがあった。禍独り行かずという言葉のとおり、父が死去していくらもたっていないときに叔父まで獄につながれたので、母としてはお先真っ暗であった。母は思案の末に、今度も張蔚華の父を訪ね、警察当局を説得してくれるよう頼んだ。張万程が交渉して、叔父はすぐ釈放された。

 張万程は、民族の自主権を主張し、祖国を熱烈に愛する良心的な民族主義者であった。彼は、世の中がどうであれわれ関せずと安楽に暮らしていける富豪であったが、国を取りもどそうと臥薪嘗胆するわたしの父に同情を寄せ、父の病死後もあつい憐憫の情をもって、わたしを独立運動家として支持し擁護してくれた。張蔚華はわたしが共産主義者であることをよく知っていたが、彼の父親はわたしのことをただの独立運動家と思っていた。撫松には軍閥の手先や日本領事館の密偵もいたが、張万程、史春泰、袁夢周、全亜鐘のような良心的な有志や愛国者も少なくなかった。袁夢周は、張蔚華の外伯父にあたる人である。わたしが第1優級小学校に通っていたとき、瀋陽師範学校出身の彼はこの学校で教鞭をとっていた。後日、校長を勤めたこともある。彼が担当した遊戯体操とオルガン教習の時間は、生徒にいちばん人気があった。国民党左派に属する全亜鐘も思想傾向のよい人であった。医院と時計屋を兼業していたが、思想だけは非常に進歩的であった。彼の兄である全亜哲もりっぱな人であった。

 わたしの父と張万程の親交は当然、わたしと張蔚華の友情に大きな影響を及ぼした。父が張万程の家へ往診に出かけ、張万程がわたしの家に遊びにくるとき、わたしも張蔚華の家を訪ね、張蔚華もわたしの家に勉強をしにきた。張蔚華が家に来ると、母はいつも手づくりの朝鮮料理をもてなした。彼は、朝鮮料理をたいへん好んだ。張蔚華の家では、わたしにギョーザを出してくれた。張蔚華が朝鮮料理を好んだように、わたしもギョーザが大好物であった。ギョーザをつくるのは山東地方出身の人が上手だったが、張万程はその地方の生まれであった。

 1920年代中期の撫松市街は、通りが「井」の字形になっていた。市内の東側に東門が1つ、北側に北門が1つ、西側に西門が2つあり、南側には小南門と大南門があった。大南門から北に少し行くと、張万程が経営していた商店があり、そこからもう少し先の道を折れると張蔚華の家があった。わたしと張蔚華は、この城市の通りという通りをくまなく歩きまわり、門という門もすべてくぐりぬけた。行かない所はなく、遊びという遊びもすべてした。一緒に校庭でテニスをしたり、松花江で水浴びをしたりしたものだ。文芸・娯楽競演会にも一緒に参加した。

 張蔚華は内向的な性格だったが、剛直で情熱的な人間であった。正義を守るためなら後先を考えず真っ先に飛びこみ、不正にたいしては相手が誰であろうと断じて許さなかった。いったん決心すると刃の上にでも立ちかねない鋭気ある人間であった。ある日、警官が生徒の面前でわれわれの学校の教員につまらぬことで言いがかりをつけ、その教員を殴り倒したことがあった。教員を神聖な存在と思っていた生徒たちは、この驚くべき光景を目のあたりにしてひどく憤慨した。わたしは張蔚華とともに、生徒たちを立ち上がらせるため弾劾演説をした。――警官が教員に暴行を加えたのは、学園にたいする侵害であり、教職員と生徒にたいする重大な冒涜だ。小さい県警察署の警官ごときが教員に乱暴を働くとはもってのほかだ。われわれは教え子として当然、警察当局に謝罪させなければならない。あの無頼漢のような警官が学校に来て暴行を受けた先生に脱帽して謝罪するようにさせよう――

 われわれは、「教員に暴行を加えた野蛮な警官を厳罰に処せ!」「教員の正当な権利と利益を守ろう!」というプラカードをかかげて県政府庁舎の前に押しかけ、悪徳警官の処罰を要求する座り込み闘争を展開した。しかし、県政府はこの正当な要求を黙殺し、生徒を丸めこんでこの事件をうやむやにしてしまおうとした。闘争は失敗に終わった。われわれは、腕力でその警官をこらしめることにした。ある日の晩、わたしはその警官が劇場に行くという通報を受けた。警官をこらしめるには絶好の機会であった。ところが、警官を殴りつけたあと他の警官が駆けつける前に劇場を抜けだすには、舞台の上のガス灯をなんとかしなければならない。誰がそれを消すか? この問題を話し合ったが、張蔚華が自分にやらせてくれと言った。その夜、10余人の生徒は、劇場に行って予定どおりに事を運んだ。休憩時間になったとき、張蔚華が舞台に駆け上がり、棒切れでガス灯をうちこわした。「なぐれ!」とわたしが叫ぶと、生徒たちは、警官がひざまずいて謝るまで殴りつけ、すばやく姿をかくした。

 引き揚げる途中、張蔚華はわたしにこう言った。

 「まったくいい気分だ。不正を力で裁くのがどんなに気持ちよく痛快なことか、今晩はじめてわかったよ」

 「あんな連中は、許してはならないんだ。あんなやつらとは、同じ空の下で暮らすことはできない」

 わたしがこう言うと、張蔚華は急に立ち止まり、深刻な口調で聞いた。

 「成柱は小学校を卒業したら、どの学校に行くつもりなんだ?」

 それは、まったく思いがけない質問であった。わたしは小学校を卒業したあとの自分の身の振り方については、まだ真剣に考えたことがなかったのである。それで、ごく月並みに答えた。

 「そうだな、できれば中学校に進みたいが、ぼくの立場ではとうてい無理な話だよ。蔚華、きみはどの学校に行くつもりなんだ?」

 「ぼくは、外伯父が通っていた瀋陽の師範学校に行きたい。父もそうするようにと言っている。きみさえよければ、ぼくはきみを瀋陽に連れていくつもりだ。そこで同じ学校に通おうじゃないか。師範学校を卒業したら大学にも一緒に行って…」

 「亜青、そう言ってくれるだけでもありがたい。でもそんなことが果たして実現できるだろうか?」

 「なぜだ? 学費のためかい? 学費のことなら心配するな。ぼくがいるじゃないか」

 「それは、ぼくの両親が許さないだろう。それに、ぼくもいつまでも勉強ばかりしようとは思っていない。亡国の民になってしまったというのに、大学どころではない」

 「お父さんのあとを継いで独立闘争をするというんだな? きみが革命の道に立つときには、ぼくもついていくよ」

 「瀋陽は、どうするんだ? 師範学校へ行くと言ったじゃないか」

 「それは、きみが一緒に行くならの話であって、きみが同行しない瀋陽行きなんてありえないよ。ぼくはね、一生きみのそばにいたいんだ。きみが上級学校に進むならぼくも上級学校に進み、きみが共産党になるならぼくも共産党になり…」

 張蔚華が言いたかったのはこのことであった。張蔚華の言葉は、わたしをいたく感動させた。わたしは彼の手を握りしめて小声で言った。

 「亜青、ありがとう。だけど、きみは共産党がどういうものか知っていてそんなことを言うのかい?」

 「知っているとも。李大サや陳独秀がやっているようなことだろう」

 「共産党になれば投獄されたり、死ぬことだって覚悟しなければならないのだぞ。そんな覚悟ができているのか?」

 「そんなことは怖くない。きみと一緒なら投獄されても死んでもかまわない」
 張蔚華のこの唐突な宣言は、わたしをひどく驚かせた。彼がどんな衝動にかられてそんな宣言をしたのか、見当がつかなかった。明白なのは、その晩、彼がわたしに言ったことは、以前からあたためてきた理想と信念の告白であるということである。張蔚華は、わたしの理想を自分の理想とし、わたしの信念を自分の信念にしようとしたのである。彼は、自分の主義を決めたうえでそれにかなった友を選んだのではなく、友を選んだうえで、友の志向する主義に従ったのである。将来を決定する方法としてはきわめて単純なようであるが、意味深長といえる。張蔚華のこういう立場は、わたしにたいする絶対的な信頼と友情に根ざしていた。彼は、心からわたしを憧憬し慕っていたのである。

 わたしが華成義塾に進学するとき、彼が泣きながら自分も一緒に行くと言ったのは無理からぬことである。彼との別れはわたしにとっても堪えがたいことであった。別れを前にして張蔚華があまりにも悲しむので、わたしは2晩も床をともにして、夜通し彼をなだめなければならなかった。1晩はわたしの家で、1晩は彼の家で語り合った。わたしが樺甸に向かう日も、彼は松花江の渡し場まできて涙ながらに見送ってくれた。

 その日、彼はわたしにこんなことを聞いた。

 「成柱、身分の差というのは、エベレストよりも高いものだろうか?」

 「身分の差など、なんの関係もないさ。お父さんがきみの頼みを聞いてくれないのは、まだ他郷で苦労させたくないからさ」

 「もし身分の差のために父がこんな束縛をするのなら、ぼくはきみとの友情のために喜んで貧乏人になる覚悟ができている。とにかく成柱、きみがどこでなにをしようと、ぼくはいつかはきみを訪ねていくということを忘れないでくれ」

 張蔚華はその後、この決心をそのまま実行した。わたしが吉林で毓文中学校に通っていたとき、彼は父親の拳銃を盗みだし、家族には行先も告げずにわたしを訪ねてきた。前ぶれもなく突然現れた張蔚華を見て、わたしは唖然とした。

 「成柱、ぼくはついに家庭という枠を越えてきみのところにやってきた。さあ、これがぼくの決心だ!」

 彼は、拳銃を取り出した。そして、得意げに天井の一点を見つめた。

 「お父さんがよく許したものだな」

 「許すわけがない。いますぐ瀋陽へ行けというのを振り切って、黙って抜けだしてきたんだ」

 「ご両親が心配するのではないか?」

 「きっと大騒ぎをしているだろう。しかし、そんなことはかまわない。探して見つからなかったら、誰かが吉林に来るだろう。十中八九きみのところだと思いこんでいる」

 張蔚華が予想したとおりだった。数日後、彼の兄の張蔚中が、私兵を連れ、毓文中学校に弟の行方を尋ねてきたのである。弟がわたしのところに来ていると聞いて、彼は胸をなでおろし、地べたに座りこんだ。

 「よかった。土匪に捕まったとばかり思っていた」

 「蔚中兄さん、わたしたちがよく面倒をみますから、亜青のことは心配しないでください」

 わたしがこう言うと、張蔚中は、「成柱、おれは安心して帰る。蔚華は、おまえにまかせる」と言った。彼は張蔚華から拳銃を取り上げもせず、私兵を連れて撫松へ帰ってしまった。

 その後、わたしは、張蔚華を五家子と孤楡樹地方に派遣した。彼はそこで1年ほど教鞭をとっていたが、両親の望みどおり上級学校を卒業してからわれわれのところに来て革命活動をする方がよいというわたしの助言を容れて家に帰った。

 このように、わたしと張蔚華の友情は、出会いと別れという両極点がたえまなく交錯するなかで、月日がたつにつれいっそう深まっていった。

 当時わたしと張蔚華が落ち合った洞窟は、いまも撫松にそのまま残っているという。鉤形のその洞窟は奥行きが15メートルほどのもので、密会の場としては、これ以上理想的な場所はないといえるほど大自然の中に深く隠されていた。張蔚華はわたしを見ると、前後を忘れて泣き出した。わたしも、現像液の臭いが染みついた彼の肩を抱きしめて泣いた。

 「成柱、いままでどこへ行っていたんだ。なぜ1回も撫松に来なかったのだ。どれほど成柱を待っていたことか」

 張蔚華はこう切り出した。

 「ぼくもどんなに会いたかったか知れない。ぼくも撫松に来たかった。撫松に来て蔚華の顔を見たかった」

 「それなら手紙でも寄こすべきじゃないか。ぼくには成柱の居所がわからないが、成柱はぼくの居所を知ってるではないか」

 「蔚華、許してくれ。われわれがいた間島の遊撃区には郵便局もなかったんだ」

 「郵便局がないって? この世にそんなところもあるのか?」

 わたしは4年間の辛苦をつぶさに話した。張蔚華はわたしが話しているあいだも、手の甲でしきりに涙をぬぐった。

 「蔚華、なぜ泣いてばかりいるんだ? なにかよくないことでも起こったのか?」

 わたしは話を切って彼の顔をのぞきこんだ。

 張蔚華は涙をぬぐってつくり笑いをした。

 「成柱が歩んできた道があまりにもきびしいので、つい涙が出た。成柱がそんなに苦労しているときに、ぼくがそばにいなかったことを思うと、胸が張り裂けそうだ」

 「いや、そうではない。蔚華はいつもぼくのそばにいた。ぼくのそばにいて、ぼくを励ましてくれたんだ」

 「ありがとう。成柱がぼくを忘れなかったというだけでも、ぼくは幸せだ。みんな成柱のことを将軍とか司令官とか呼んでいたが、ぼくもこれからそう呼ぶことにする」

 張蔚華が司令官という言葉を口にしたので、わたしはあわてて手を振った。

 「蔚華、ほかの人たちがみんな司令官と呼んでも、頼むからきみだけは成柱と呼んでくれ。ぼくもきみを先生と呼ばずに蔚華と呼ぶことにする。成柱、蔚華!… なんとよい呼び名ではないか。ところで蔚華、きみはその間どう過ごしていたんだ?」

 張蔚華は、老人のようにかぶりを振り、寂しそうに笑った。

 「成柱のことを聞くと、ぼくのことは話す気にもなれない。ぼくがこの鶏の巣のような撫松でなにができるというんだ。華成義塾時代の成柱の同窓生の康炳善と2人で『兄弟書局』と『兄弟写真館』を設け、それを拠点にして共青組織を指導しただけのことさ」

 彼は、共青組織の活動状況と撫松地方の反日団体の動きについて手短に説明した。わたしは、張蔚華の活動の成果をねぎらった。そして、共青組織を母体にして、撫松地区に党組織を結成する新たな任務を与えた。張蔚華は、困りはてた様子であった。

 「成柱、ぼくの力でそんな大きな仕事ができるだろうか? 地下活動の経験も浅いし…」

 「4年間も共青組織を指導してきたのだから、それも大きな経験といえる。政治委員の金山虎をたびたび派遣することにするから、困難なことがあったら彼の助けを借りればいい」

 われわれは3時間以上も語り合った。話が活動上の問題から再び私生活の問題にもどると、張蔚華はいきなりわたしの肘をつかみ、家族の安否を尋ねた。わたしはしかたなく、母が他界したこと、哲柱が戦死したこと、英柱が他人の家に世話になりながら児童団活動をしていることなどを話した。それは話題にしたくない事柄だった。張蔚華の気性をよく知っているので、彼がそれを聞いて胸を痛めるのではないかと心中ひそかに恐れた。そうなると、わたしの心の傷からも血が流れ出そうに思われた。4年ぶりに果たしたわれわれの出会いに、悲劇的な色をおびさせたくなかったのである。しかし、事は心配していたとおりになってしまった。わたしの話を聞くと、張蔚華はまた両手に顔を埋めてすすりあげるのであった。

 「これで、成柱はまったくのひとりぼっちになってしまったんだな。英柱もかわいそうだ。英柱のためにぼくができることはないだろうか? 居所だけでも教えてくれ」

 彼はポケットから万年筆と手帳を取り出し、わたしの顔を見つめた。わたしは軽く手を振った。

 「蔚華、英柱ももう子どもじゃない。あの年なら自分で生きていけるさ。英柱に情けをかけようという考えなど絶対に起こすんじゃない」

 こう言っても張蔚華は聞き入れず、手帳を広げたままねばった。わたしは仕方なく安図の金正竜の住所を書き込んだ、張蔚華があれほど早く非命の最期を遂げていなかったなら、安図の英柱のために大きな慈善をほどこしたであろう。

 廟嶺洞窟で会ったあと、われわれは大営温泉村で2度目の対面をした。大営の向かい側の谷間にわれわれの司令部が2、30名の隊員を率いて駐屯していたのだが、そこから張蔚華に会いに行った。そのとき彼は、温泉へ行くという口実で大営に数日間とどまっていた。われわれの部隊が撫松地区に進出して以来、敵がわたしの縁故者や知人の後をつけて厳重に監視していたので、彼も司令部の安全には格別気を遣っていた。

 わたしと張蔚華は、温泉につかりながらも大いに語り合った。そのときの対話のなかでいまも忘れられないのは、彼がわたしに言われたとおりに共青組織で鍛えられた中核分子で党組織を結成したと誇らしげに語ったことである。あのとき彼の顔に表われた朝焼けのように明るく幸せそうな表情を、わたしはいまも忘れることができない。張蔚華が大営にいるあいだに、彼が推薦して連れてきた3人の共青員を部隊に受け入れた。自分が手塩にかけて育てた青年たちが、革命軍の軍服をまとい、銃を肩にして現れたとき、張蔚華の口元に浮かんだあの幸せそうな微笑も、わたしは永遠に忘れることができない。その3人のうちの1人である教員出身の延書記は、後日われわれの部隊が白頭山地区で活動したとき、密営の樹木に多くのスローガンを記した。いまでも多くの密営にその樹木が残っているはずである。

 大営温泉での出会いで、いまもとりわけ印象深く思い出されるのは、別れの前夜の最後の対話である。そのとき張蔚華はわたしの手をとってこう言った。

 「成柱、ぼくは成柱を見るたびにすまなく思うことが一つある」

 「なんだろう?」

 彼がはにかみながらわたしを見つめるので、わたしも好奇の目で見返した。

 「ぼくは早婚で、満20歳にもならないうちに結婚し、4年前に1子をもうけ、数か月後には2子の父となる。成柱が部隊を率いて南戦北征の困難な道を歩んでいるときに、ぼくは家にいて結婚し、子どもを育てながらぬくぬくと暮らしていたのだから、まったく恥ずかしい話だ」

 「なにを言うんだ。結婚して父親になるのがなんの罪だ。祝福を受けて当然だ」

 「しかし、ぼくより1歳上の成柱はまだ独身ではないか。成柱、どうなんだ。いつまで独身で通すつもりだ?」

 「そうだな、ぼくはまだ結婚については考えたことがない。結婚がぼくの関心事となるには、まだまだ時間がかかりそうだ」

 「そんなことを言っていると、婚期を逸するぞ。成柱に異存がなければ、ぼくが撫松で結婚相手を探してみる。撫松で見つからなかったら瀋陽、天津、長春、吉林、ハルビンをくまなく探しまわってでも、みんなをあっと言わせる絶世の美人を見つけてみせる」

 「やめるんだな。そんな美人が山に来て、のどにひっかかる粒トウモロコシのかゆを食べるというはずがないだろう」

 「いまに見たまえ。楊貴妃のような美人を見つけてみせるから」

 張蔚華はこんな冗談を言って、握ったわたしの手を大きく揺すって大営を後にした。そのときの彼の微笑は、消しがたい映像となってわたしの網膜に焼きついている。それは、張蔚華がわたしに残していった最後の微笑であった。もちろんわたしは、彼が言ったことが本気とも冗談ともつかぬことであり、実現不可能な約束であることを百も承知していた。にもかかわらず、わたしはその言葉に張蔚華ならではの真の友情を感じた。張蔚華だからこそ、わたしのためにあれほど率直で純潔な、熱い約束をしたのである。

 撫松へ帰った張蔚華は、財力と精神力を傾けてわれわれの部隊を熱心に援助した。彼の主動的な努力によって調達された、綿、靴、靴下、下着、薬品、食糧、写真機材など莫大な量の援護物資がつぎつぎと密営に運び込まれ、撫松地区における革命軍の活動を経済的に大いに助けた。彼のまごころこもった3000元の大金で、児童団員と主力部隊の隊員の服を新調し、各種の給養物資も購入した。

 大営の警察分署長唐振東は、わたしがよく知っている人であった。梁世鳳との合作のために南満州へ行くときにも、撫松で彼に会ったことがある。われわれが再び大営へ行ったとき、彼は密使をよこし、自分たちに公然と脅迫状を送れ、そうすれば朝鮮人民革命軍の脅迫に屈するようなふりをして、要求する物資をなんでも送ると言ってきた。

 「脅迫状」を受け取って以来、彼は数回にわたって、豚肉、小麦粉、大豆油、メリヤス製品などの給養物資を牛車に積んで送ってよこした。その物資のおかげで、警護中隊は20日間ほど苦労をせずに過ごした。

 その年の秋、張蔚華は、突然憲兵隊に捕まり投獄された。彼を密告したのは、ひところ白山青年同盟撫松県支会の会長を勤めたことのある、わたしの小学校時代の同窓生鄭学海であった。彼は、当初は革命風を吹かしていたが、のちに変節して臨江憲兵隊の操縦する宣撫工作班に入った。宣撫工作班は、帰順工作隊と同義語である。わたしが部隊を率いて撫松地方へ進出したのち、敵はわたしの行方をつきとめるため変節漢を方々に派遣した。

 ある日、鄭学海が張蔚華を訪ね、「金日成に会いたいのだが、居場所を知らないか?」と聞いた。張蔚華は「知っている。このあいだ会ったばかりだ」と答えた。鄭学海が以前わたしの指導のもとに青年運動をした人間だったので、まったく信じきっていたのである。張蔚華は、すぐに検挙された。いつも人に好意的に接してきた彼は、地下組織の運命を担った党グループの責任者としてはあまりにも純真で不用心すぎた。人間にたいする幻想と不用心さが、結局は彼を獄につながせたのである。敵は、張蔚華を通じて司令部の居場所をつきとめ、撫松地区の地下組織を一網打尽にする糸口をつかもうと、彼にあらゆる拷問を加えた。しかし、彼は、その拷問に沈黙でこたえた。拷問の度が強まると、無意識のうちにわたしの居場所と組織のルートをもらしかねないと冷静に判断した彼は自決を決心し、何日かだけでも家に帰れるように交渉してほしいと父親に頼んだ。張万程は賄賂をつかい、病気を理由に息子の保釈を請うた。敵は張蔚華を仮釈放したあと、彼と通じる地下組織ルートとわれわれの部隊の工作ルートをつかむため密偵を送り、昼夜、彼の家を監視させた。

 張蔚華は死を前にして妻にこう言い残した。

 「金日成将軍と一緒に最後まで抗日闘争に参加できないのが残念だ。わたしは、死をもって同志たちの安全を守り、金日成将軍の信頼と友情にこたえるつもりだから、悲しまないでくれ」

 彼は、「敵は、スパイを派遣して朝鮮人民革命軍の司令部を探している。司令部を早く移すように」という内容のわたしあての手紙をしたためたあと、現像用の昇汞(しょうこう=塩化第二水銀の俗称)を飲んで自決した。この悲痛な出来事が起きたのは陰暦の1937年10月2日のことだという。張蔚華は、そのときまだ25歳にもならぬ紅顔の青年であった。

 わたしの親しい友人であり忠実な革命の戦友である国際主義戦士は、こうして逝った。彼はわたしのために、朝鮮革命の司令部のために、朝中両国人民の共同偉業のために、砲声とどろく中華の大地に愛する父母、妻子と青雲のような美しい夢を残したまま、壮烈な最期を遂げたのである。彼が自分自身よりも愛した息子の張金泉はそのとき4歳であり、娘の張金禄は生まれたばかりであった。人が天寿をまっとうできずに死ぬことほど、痛々しく無念なことはない。張蔚華は失策して捕われたが、実際は命まで断つことはなかったのである。憲兵隊にもっと多くの賄賂をつかませれば、「罪」を黙認させることもできたし、いくつか殴打される程度で寛大な処分を受けることもできたはずである。だが、彼は自決の道を選ぶことによって、生きることをみずから放棄してしまったのである。

 人が生きるのも容易なことではないが、死ぬのもたやすいことではない。死に方はさまざまであるが、自決はもっとも苦しい死に方というべきであろう。過ぎ去った過去よりも来るべき未来の多い青年にとって、自決は悲壮な決意と気強さがなければできることではない。これまで、みずから生きることを断念し死を選んだ人は少なくないが、そのほとんどは自分自身のためにその道を選んだのである。張蔚華のように、他人のために死を選んだ例は多くない。それは人間のための人間の犠牲のなかでも、もっとも気高く美しい犠牲といえよう。彼の犠牲が、ほかの人間のそれよりも悲壮で荘重な意味をおびる理由はここにあると思う。

 張蔚華が自決したという悲報に接したわたしは数日間、夜も眠れず食事もとれなかった。わたしのすぐそばでこの世の一角が音を立てて崩れ落ちていくような虚無感と、胸を刺されたような衝撃のために、わたしの魂は底なしの迷宮に落ち込んでいくようだった。あの悲嘆の日々、わたしの胸には、追悼歌のうら悲しいメロディーがどれほど響いたことか。彼がわれわれの部隊への入隊を希望したとき、その願いを聞き入れてやらなかったことが悔やまれた。もし、彼が人民革命軍に服務していたなら、もっと長生きできたのではなかろうかという未練に、肺腑をえぐられる思いであった。彼が入隊を願い出たとき、当然それを審議にかけ、部隊に受け入れるべきであった。そうするのは、原則的な要求でもあった。一青年が入隊を熱烈に志願するとき、その願いをかなえてやるのは当然のことではないか。だが、わたしはその原則を守らず、第一線に立つべき張蔚華を第二線に立たせたのである。わたしが原則に反してまで彼の入隊志願を認めなかったのは、あまりにも彼を愛していたからである。富豪の子で苦労を知らずに育った彼を、山できびしい試練にさらさせたくはなかった。自分はそんな苦労に耐えぬくことができるが、張蔚華には無理だと考えたのは、彼にたいする偏愛のためであった。それが間違っていたと非難されても、返す言葉がない。

 かつて申圭植、朴英、楊林、韓偉健、張志楽、金成鎬、鄭律成、韓楽然など数千数万の朝鮮の共産主義者と愛国者が中国革命のために身を挺して戦ったように、数多くの中国の息子と娘が朝鮮革命のために貴い生命をささげたのである。愛に国境がなく、科学に国境がないように、革命にも国境はない。張蔚華やノビチェンコ、チェ・ゲバラ、ベチューンの実例がそのことをよく示している。張蔚華やノビチェンコは国際主義者の典型であり、スペイン人民戦線運動にたいする世界各国の共産主義者の支援と中国人民義勇軍の抗米援朝運動は、国際主義の模範である。張蔚華の名は、それらの模範のなかでも巨星のように輝いている。

 今日、張蔚華は、朝鮮人民のあいだで朝中親善の象徴と呼ばれている。朝鮮人民は、老若男女を問わず、朝鮮革命にたいする彼の業績を崇敬の念をもって追憶している。



 


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