金日成主席『回顧録 世紀とともに』

2 20元


 馬鞍山の西側の密営で極左分子が民生団の調書包みをもてあそんでいるとき、春の雪解けもはじまっていない東側の密営の日陰では、数十人の子どもたちが病気と飢えと寒さに苦しんでいた。子どもたちの大部分は、間島革命の最後のとりでといえる車廠子で大人たちとともに辛酸をなめつくし、遊撃区の解散後、内島山をへて西に向かう人民革命軍部隊に保護されて、敵の手があまり及んでいない南満州の後方密営にたどりついた孤児であった。馬鞍山密営の幼い住民のなかには、延吉地方から来た児童団員もいた。

 遊撃区が解散したとき、彼らが敵地に住んで物もらいになったり、路頭や商店、市場で人の財布をかすめとってその日その日を生き長らえるスリや浮浪児にならず、遠い撫松の奥地まで訪ねてきたのは、じつに感嘆すべきことであった。にもかかわらず、人民革命軍部隊の管轄下にある後方密営で、共産主義者の保護を受けている子どもたちが飢えと寒さに泣くという惨状がくりひろげられているのはどうしたことだろうか。子どもたちの養育を受け持っている人たちが、急に「継父」や「継母」になり、彼らを虐待しはじめたというのだろうか? それとも、子どもたちがわずかなことですぐ涙を流し、だだをこねる甘えん坊になったというのだろうか? いや、そんなはずはない! わたしはこの二つの仮説をどちらも否定した。それならば、あの子どもたちの泣き声は、なにを示唆しているのだろうか。寒さと飢えによる生理的苦痛が限界に達したという無言の訴えであるのかも知れない。しかし、それくらいの苦しみは、遊撃区にいたときにもよく味わったはずではないか。われわれの児童団員は、苦労のために涙を流すような金持ちの子とは違う。年端もいかないうちに父母兄弟を亡くして孤児となった彼らにとって、寒さや飢えがそんな大きな悲しみや悩みになろうはずはない。しかし、馬鞍山密営で子どもたちが、涙に暮れているというのはまぎれもない事実であった。新しい師団を編制するための会合が最終段階に入ったある日、朴永純が一枚の紙切れをそっとわたしの手に渡した。

 「将軍、会議が終わったあとで、馬鞍山の児童団員のために多少時間を割いていただけないでしょうか。子どもたちがひどい状態です。新師団を編制したのち、わたしと一緒に馬鞍山密営にご足労を願いたいと思います。子どもたちが、どんなに将軍を待ちこがれているかわかりません」

 紙切れにはこう記されていた。

 馬鞍山の児童団員の惨状については、後日わたしがその密営に到着したときに金正淑からも詳細な報告を受けた。馬鞍山の孤児のなかには、彼女の指導を受けていた児童団員が少なくなかった。もともと彼女は、符岩洞にいたころから児童団の指導員として活動していた。子どもたちは、遊撃区にいたときから彼女によくなついたという。元来、金正淑は、子どもをたいへん可愛がった。遊撃区の人民が最悪の食糧難にあえいでいた車廠子時代に、彼女と子どもたちは断ち切りがたいきずなで結ばれた。当時、金正淑は軍指揮部の炊事隊員を勤めていたが、餓死寸前にあった子どもたちが夜ごと彼女のところに来ては、なにか食べる物をくれとせがんだ。ときには、炊事隊員の目を盗んで台所に忍びこみ、食器棚や米がめをあさることもあった。そのたびに彼女は、食事を抜いてとっておいたおこげやソンギ餅(松の内皮をうるちの粉に混ぜてつくった餅)などを子どもたちの手に握らせてやった。空腹に苦しむ子どもたちを思って、彼女は日に1 回は食事を抜き、その分をひとに知られないようにとっておいては、もらい食いをしにくる子どもたちに与えた。車廠子で筆舌につくしがたい苦労をした児童団員は、彼女の恩をいつまでも忘れなかった。その子どもたちがパルチザンと一緒に内島山にとどまっていたとき、金正淑はそこで児童団活動を指導した。彼女が、馬鞍山の子どもたちの生活状態を涙ながらに報告したのは十分うなずけることだった。共産主義者に保護されている数十人の孤児が、砲火の及ばない革命軍の後方密営で涙に暮れているというのは、見過ごすことのできない非常事件であった。わたしの神経はたかぶった。いったいどういう事情があって、子どもたちがそんなにわたしを待ちこがれているというのであろうか?

 子どもの涙は、正義を代弁するものである。ある不当な力が正義を愚弄し残酷に踏みにじるとき、子どもは義憤に堪えきれず泣きだすのである。その泣き声は、自分を侮辱し虐待する者に向かって幼い魂が投げつける論告である。それは、あらゆる不義にたいする抗弁と弾劾に代わるものであり、その不義によって傷つけられた自尊心と侵害された権利を代弁している。子どもは、涙によって自分に差し迫った災難を警告し、その災難から自分を救ってくれるよう求めるのである。涙は、自分を愛するか愛することのできる人たちへの子どもの精一杯の訴えである。人びとがその涙に胸をしめつけられ、耳を傾けるのは、子どもを慈しみ見守るのが人間の本性のうちでももっとも基礎的な本性であるからである。

 馬鞍山の児童団員について言うならば、彼らは戦友たちがわれわれに残していった宝のような存在であった。戦友たちは遺言で子どもたちの将来を託し、自分たちに代わって子どもを革命家に育ててくれと頼んだ。われわれの双肩と良心には、あのかわいそうな子どもたちをもっともすぐれた健全な正義の守護者として育成すべき神聖な課題がになわされていた。

 わたしが馬鞍山の児童団員の運命を気づかったのは、たんなる人間的な同情からではなく、小市民的な感傷主義の衝動からでもなかった。それは、彼らの父母が、死にさいしてわれわれに託した権利であり義務であった。たとえ、彼らの父母が生きていたとしても、われわれはその子どもたちの涙を袖手傍観しはしなかったであろう。これは、共産主義者だけがもつことのできる人道主義的感情である。戦友の息子は自分の息子で、自分の息子は戦友の息子であるというのが、共産主義的な人間関係なのである。自分が苦しむときは同志も苦しみ、同志が苦しむときは自分も苦しみ、自分がひもじいときは同志もひもじがり、同志がひもじいときは自分もひもじがるのが、まさに共産主義者をこの世でもっとも美しい人間にする倫理道徳である。

 ある副業水産作業班管理委員会の委員長は、川でおぼれた同僚の娘を救い出して岸にもどる途中、自分の娘が浮いたり沈んだりしながら、もがいているのを発見した。普通の人なら、まず自分の娘を救ってから、同僚の娘を助けるために再び川に飛びこむはずである。そうしたからといって他人から非難されるわけはまったくないのである。しかし彼は、抱いていた同僚の娘を救い出してから自分の娘のところへ泳いでいった。だが、娘はすでに死んでいた。駆けつけた村人たちが、涙ながらに管理委員長を慰めると、彼は救い出した同僚の娘を指して言うのだった。

 「わたしは自分の娘が死んだとは思わない。この子もわたしの娘だ」

 浅薄で利己的な人間の度量をもってしてはとうてい考えることもできない崇高な犠牲的精神を発揮しながらも、それをありきたりのこととし、万人の評価と処遇にかえって、はにかむところに共産主義者の魅力があり、朝鮮民族の美徳があるのである。

 新しい師団を編制したらすぐに撫松をへて長白へ直行するというのが、当初のわたしの計画であった。だが、馬鞍山の子どもたちの不遇な境遇は、その計画の変更を余儀なくさせた。その子どもたちに会わなくては、長白へ行っても心の束縛から解放されそうになかった。迷魂陣会議が終わったあと、わたしは馬鞍山の東側の密営の児童団員を訪ねた。その日わたしを密営まで案内したのは、馬鞍山武器修理所の責任者である朴永純である。わたしは、道案内を買って出た彼をありがたく思った。この道は、朴永純という人間を総合的に把握するよい機会となった。馬村で芽ばえた2人の友情は、このときの出会いを通じてさらに深まった。朴永純がシリーズ物の長編小説にでもなりそうな自分の家門の膨大な歴史についてはじめて語ったのは、このときだったと思う。

 朴永純の先代の祖父たちは、1860年代から金谷村で初の異郷暮らしをはじめた世代の代表的人物であり、この一帯で朝鮮式営農法を普及した荒野開拓の先駆者であった。父の代になると、家に小さな鍛冶場もつくられた。この鍛冶場で父の助手を勤めた朴永純の少年時代は、後日、彼が兵器分野の特出した技術者として名声をとどろかす下地となった。父親は、農閑期になると猟銃をもって狩りに出かけた。朴永純も17歳のときから暇つぶしに狩りをするようになった。父の目をかすめてときたまこっそりとやるので、調子づくほどではなかった。彼の父親は、猟銃の使用をきびしく取り締まった。長男が狩りをするのは黙認しながらも、次男の朴永純が銃を手にするのはなかなか許さなかった。銃身に手を触れるだけでも目をつりあげて恐ろしく怒鳴りつけた。しかし、18歳になると事情が変わってきた。金谷村の老練な猟師たちが何回も取り逃がした虎を彼が1発でしとめたのである。朴永純は、虎のひげを抜きとって意気揚々と家に帰ってきた。そのひげは、彼が苦労の末に取得した猟師の免許証のようなものであった。村中の人が虎のひげを見ようと彼の家に押しかけてきた。父親は、息子の腕前を認めざるをえなかった。その日から金谷村の老狩人たちは、彼のことを「朴捕吏」と呼ぶようになった。もちろん、朴捕吏には、猟銃の使用許可がおりた。鶏林炭鉱と堡格拉子鉱山に就職して地下革命活動に参加するまで、朴永純はその猟銃で数百匹もの鳥獣をしとめた。

 わたしは朴永純に、「朴捕吏」という異名がついたいきさつを聞き、彼がもし兵器廠の仕事を担当せずに人民革命軍の狙撃兵として活動していたなら、みずからしとめた鳥獣より、はるかに多くの敵を撃ち倒したに違いないと考えた。しかし、わたしを驚かせたのは、彼の鍛冶の腕前が射撃のそれをはるかにしのいでいることであった。彼は現役軍人の隊伍では影のうすい存在のように思われていたが、兵器分野では、なくてはならない存在として重宝がられていた。

 朴永純は、5、6羽のキジの入った網袋をかついでわたしに同行した。その大きな荷物を見ると、重い米の背のうの上にキジを載せて明月溝の谷間にやってきた李光の姿が思い出され、胸の熱くなる感慨にひたった。

 「朴捕吏同志、いまでも狩りをすることがあるのですか?」

 わたしは、キジの入った袋を指しながら尋ねた。朴永純は眉をひそめて、袋をゆすりあげた。

 「ずっと前にやめました。これは罠を仕掛けて捕らえたものです。子どもたちのところへ手ぶらで行くわけにもいかないので、ちょっとやってみたんですよ」

 「子どもが本当に好きなんですね。子どもたちを愛するのはよいことですよ」

 「愛するですって?」

 彼はこう問い返して、なぜか苦笑いをした。

 「わたしは、そんなお褒めにあずかる資格がありません。わたしは卑怯者です」

 「卑怯者? なんでまたそんなことを言うんです?」

 「思い出すのも恥ずかしいくらいです。けれども司令官同志の前ですから、恥を忍んでありのままに話しましょう。いつかわたしは、野ウサギを10羽ほど捕まえて馬鞍山の子どもたちを訪ねたことがあります。野ウサギを見て子どもたちが喜ぶので、わたしもいい気分でした。ところが、あの第1師政治主任が突然あらわれ、手をつきだして怒鳴るではありませんか。いったいきみはなんだ、上級の承認も得ないでここでなにをしているのか、誰がこんな慈善をほどこせときみにいったんだ、あいつらにどんなレッテルが張られているのか知ってるのかと、まくしたて、さっさと消え失せろとハエのように追い払ったのです」

 「それで、どうしたんですか?」

 「しかたなく野ウサギをまたそっくり網袋に入れて、兵器廠に帰ってきました」

 「怖かったのですか?」

 「ええ、腹も立ったし、怖くもありました。いまでこそ、このように胆が太くなって大きなことを言っていますが、あのときはとてもそんなことはできませんでした。政治主任に小民生団を助けた反革命分子だとかみつかれた日にはおしまいじゃありませんか。幸いにもそういう目には会いませんでしたが。それからは、子どもたちのところへ行けませんでした。いま考えてみると、恥ずかしくてたまりません」

 朴捕吏は、わらじにゲートルという格好で道をつけていく第1師の政治主任金洪範の後ろ姿を憎らしげに見つめながら顔をしかめた。

 「それで、いまはどうですか? いまでも怖いですか?」

 「いまはなにも怖くありません。司令官同志がそばにいるので、力がわいてきます。ここ数年のあいだ、民生団騒ぎのためにびくびくしながら暮らしてきたことを考えると、口惜しくてなりません」

 「それは文字どおり悪夢ですよ。野ウサギの袋をかついで子どもたちを訪ねたというそのことだけでも、あなたは次の世代に感謝されます。子どもを愛し同情することは、なんと美しく崇高な感情でしょうか」

 わたしがこう言うと、朴永純はようやく顔のこわばりをゆるめ、大股で歩きだした。岩のように厳格で無愛想な自尊心の強いこの男から、文学少女の日記にみられるような真実の告白を聞かされ、涙が出るほどうれしかった。彼の言行と心根からにじみでる剛直で潔白な人となりは、わたしに言い知れぬ感動を与えた。

 もし誰かに、生活でいちばんうれしく幸せだと感じるのはどんなときかと聞かれたら、わたしはこう答えるであろう。

 「わたしの生活で喜びと幸福は、ごく普通なこととなっている。それは、わたしがこの世でもっとも美しく理想的な生活が創造されている国で、政治的にもっとも自主的で、思想的にもっとも進歩的で、文化的、道徳的にもっとも開けた純真無垢な人民とともに、楽天的な生涯を送っているからだ。わたしの生活は毎日毎時、喜びと幸福にみちている。とくにうれしく幸せなときがあるとすれば、それは人民とともにいるときであり、その人民のなかから全国のモデルになるりっぱな人間を見出し、彼らと時局を論じ、生活を論じ、未来を論じるときである。それに、われわれが国のつぼみと呼んでいる子どもたちと一緒にいるときである」

 これは、わたしの一生を貫いている幸福観だといえる。朴永純との対話がわたしをかくも満足させたのも、そういう幸福観が働いたからであろう。朴永純は、わたしが生活のなかで見出した革命家の手本であり、良心的な人間の典型であった。わたしはその後の実践を通じて、彼が人一倍革命的原則に徹し、否定的傾向との妥協を知らず、万事に公明正大な人間であることをあらためて確認した。

 朴捕吏が、抗日武装闘争戦跡地踏査団を率いて中国の東北地方を巡歴した1959年のことである。むし暑い夏のある日、代表団は、とある素朴な農家の奥の間で一泊することになった。地元の農民は、烈士の足跡をたどって連日困難な踏査をつづける隣国の客人のために、その部屋の壁紙を貼りかえ、アンペラも敷きかえた。ところが、虫に弱い何人かの団員が夜中に南京虫に悩まされ、寝具をかかえてつぎつぎと庭に逃げ出し、むしろの上で一夜をすごした。その部屋で最後まで頑張ったのは団長の朴永純だけだった。団員たちは、団長がどんな所でも熟睡できるか、虫にかまれない特異体質なのだろうと考えた。翌朝、朴永純は団員を集めてきびしく叱りつけた。

 「一国を代表する踏査団員ともあろう者が、南京虫のために放浪者のようにむしろの上で野宿をしては、われわれに心地よい寝所を提供しようと気をつかってくれた地元の人たちの誠意を無視することになるではないか。それくらいのことを辛抱する忍耐力も自尊心もないのか。これから先、また代表団の体面を汚すようなことをしたら、その軽重によって祖国に送り返すこともありうる」

 こう言われてはじめて、団員たちはこのパルチザン出身の剛毅で寡黙な男が、夜通し南京虫に悩まされながらも、この家の人たちの誠意をむげにすることができず部屋に残っていたということを知った。この話はその後、戦跡地踏査団員の口を通じてわたしの耳にまで届いた。

 われわれが密営に到着すると、児童団員たちは「将軍さま!」と叫びながら、われ先に丸太小屋から飛び出してきた。密営の空にこだまして鈴のように響く子どもたちの声を耳にした瞬間、火のように熱い激情にかられ、小走りに子どもたちに歩みよった。まさにあの子たちだ。殴り殺され、刺し殺され、焼き殺された父母兄弟の敵を討つために、険しい山々と雪原を越え、千辛万苦の茨の道をかき分けて革命軍についてきた子どもたち、まさにあの子たちが鉄条網のない収容所ともいえる薄情で陰うつな山中で民生団連累者といういわれなきレッテルを張られ、冬中悲しみにうちひしがれ、わたしを待ちこがれていた子どもたちなのだ。人民の利益よりも超革命的な「原則」のスローガン、「階級性」のスローガンを優位におき、大衆を愚弄し虐待することに慣れた民族排他主義者と「左」翼日和見主義者は、革命軍の重荷になるからと子どもたちをかえりみなかったのである。子どもたちが近くにいると密営が敵にかぎつけられるといって、わが身の保身をはかって森林の中に小王国を築き、そこにこもって別に生活をし、そのあたりには子どもたちをいっさい寄せつけなかった。この継父のような人間たちは、子どもたちが厳冬に草の根を食べ、飢えと寒さに苦しんでいるのを見ながらも、わずかな食糧も与えず、一着の服さえもつくってやらなかった。子どもたちを哀れみの目で見る人、子どもたちの傷口に薬を塗り包帯を巻いてやる人、子どもたちの凍えた手と頬にあたたかい息を吹きかけてやる人、子どもたちが可愛いとなでてやる人、悲しみに泣く子どもたちを抱きしめて涙をこぼす人、そういう人たちは、例外なく民生団のリストに載せられ迫害されたのである。

 尹昌範の死後、独立連隊の代理連隊長を勤めた名射手の金洛天は、児童団員を連れて馬鞍山に来る途中、あまりにもみすぼらしい子どもたちの身なりを見かねて、連隊給養係が保管していた軍服用布地で子どもたちに服をつくってやった。子どもたちは、涙を流して連隊長に礼を言った。しかし、そのために金洛天は、無念にも民生団の濡衣を着せられて処刑されたのである。子どもたちに同情を寄せることが罪となり、冷遇することがかえって手柄になるこの密営では、真の人間的な香り、共産主義的な香りをまったく感じることができなかった。わたしをめがけて駆けよってくる数十の涙に濡れた瞳は、人間性を失い、初歩的な人間的道理さえわきまえない連中の罪状を赤裸々に告発していた。息を切らして駆けよってきた子どもたちのあいだに突然、動揺が起きた。いちばん体の大きい先頭の子がどうしたわけか急に空地の真ん中に立ち止まったのである。すると、ほかの子どもたちも絶壁にぶつかった波のように、さっきの熱風のごとき流れを止めて横目づかいにわたしの顔を見つめた。ひとかたまりになってたたずんでいる子どもたちを見ながら、わたしは小声で朴永純に言った。

 「あの子たちはいったいどうしたんだろう?」

 「恥ずかしいからでしょう。あの身なりを見てください」

 わたしは、子どもたちの身なりに注意を向けた。服というのは名ばかりで、実際、裸も同然であった。焦げたり破れたり、すり切れたりした子どもたちの服は、服というよりは、ぼろか雑巾に近いみじめなものであった。数か月ものあいだ生存を脅かされ、飢えとたたかってきた児童団員の顔色は、みながみな蒼白そのものであった。

 幼い受難者の惨状はふと、小沙河で別れて以来一度も会っていない弟英柱の姿を思い出させた。英柱もこの子らと同じ年ごろである。腰まで隠れる葦原で、哲柱と一緒に涙ながらにわたしを見送った末弟の面影がまぶたに浮かんできた。親戚でもなく同姓同本(苗字と氏祖が同じ)でもない隣近所の知人に弟たちの世話を頼んで小沙河を後にして以来、手紙一通送れずに4年の歳月を過ごした自分の薄情さが恨めしく思われた。1936年の春に東崗密営で金恵順に会ったとき、彼女から英柱が安図で児童団の活動をしていたということと、1935年の春か夏に英柱が演芸隊員を率いて車廠子に数日間とどまり、公演をしたという断片的な消息を聞いた。そのとき、彼女が演芸隊員の食事の世話をしてやったという。金恵順はそのときの英柱の歌が非常に印象的だったと言い、その歌詞を口ずさんだ。それは、わたしが撫松で演芸隊の活動を指導していたころ、セナル少年同盟員や白山青年同盟員がうたっていた歌である。


  みなさん腰に気をつけなされ
  笑いすぎて折れた腰は
  華陀や扁鵲でもなおせない
  エヘラ 遊ぼう 元気に遊ぼう
  肩もうきうき 楽しいな


 華陀と扁鵲は、古代中国の名医である。

 東崗で金恵順から聞いた話は、わたしにとって大きな慰めとなった。だが、馬鞍山の子どもたちを訪ねていくそのときにしても、わたしは弟の行方を全然知らなかったのである。風に吹かれる晩秋の落葉のように、ひとところにかたまっている子どもたちの哀愁をおびた瞳を見つめながら、わたしは考えた。弟の英柱もあの子たちのように、どこかで飢えと寒さに苦しんでいるのではなかろうか。あの子たちのように食べるものも食べられず着るものも着られず、この無情な兄を恋しがっているのではないだろうか…。

 だというのに、革命を志してこの山奥までついてきた子どもたちに民生団のレッテルをむやみに張りつけることができるというのか。あの粗暴で憎むべき人間どもには、この子たちが、民生団ではなく、民生団であろうはずもないことを判断する能力もなく、彼らをかわいそうに思って面倒を見る一片の慈悲心や同情心すらもないというのか。人間解放のためには死をも辞さないと誓った人たちが、人間のなかでも、もっともか弱く一人立ちできない子どもたちを、こんな状態になるまで放置しておくことができるというのか。

 わが国の歴史ではじめて「オリニ(子ども)」という単語をつくり「子どもの日」という祝日を制定した有名な少年運動家である作家の方定煥は、『子どもの日の約束』という文章で世人につぎのように訴えている。

 「…子どもを大人よりも大事にしなさい。大人が根だとすれば、子どもは芽といえます。根が大本だからといって、上から芽を押さえつけると、その木は枯れてしまいます。根が芽を育ててこそ、その木(その家の運)は伸びていくのです。…」

 これは1923年5月1日、「子どもの日」にちなんで彼がつくって配布したビラの一節である。この願いをこめた文章の行間には、子どもにたいするあつい愛情がにじみでている。わたしが彰徳学校に通っていたとき、康良U先生も父兄たちにこういう意味のことをよく言ったものである。それが、『子どもの日の約束』をそのまま引用したものなのか、それとも自分なりに言い直したものなのかは定かでない。いずれにせよ、先生が、子どもを尊重すべきである、子どもを尊重しなくては大人が子どもから尊敬されない、と父兄に説くたびに、わたしはその言葉に真理がひそんでいると考えたものである。子どもを大人よりも大事にせよという彼らの訴えは、自分自身よりも次の世代を愛する人たちの魂からほとばしる崇高な理性の声である。

 「子どものいない世界は、太陽のない世界」という名言には、次の世代にたいする愛情がいかに格調高くうたいあげられていることか。

 歴史にその名をとどめている世界的な偉人たちは、例外なく子どもを熱愛した。マルクスが子どもたちの忠実な友であったということは、カール・リープクネヒトの言を借りるまでもない事実である。愛する子どもたちを喜ばすために、この偉大な人物が「馬」となり「馬車」となったということは、世人がほほえましく回想している逸話である。いまも人びとがスイスのペスタロッチを追憶しているのは、彼が子どもたちのために全財産と生涯をささげたりっぱな教育者であったからだといえるであろう。人類が記憶している東西のすべての偉人は、例外なく次の世代を愛することを最大の美徳としてきた、子どもたちの真の友人であり教師であり父であった。

 ところが、貴族でもブルジョアジーでもない馬鞍山の主人たち、二言目には人間性を云々し、人間解放を念仏のように唱えるこの密営の共産主義者たちは、どうして子どもたちをこんなひどい目に会わせているのだろうか! わたしは、こみあげる怒りを抑えることができなかった。革命そのものを命よりも神聖視してきた子どもたちの純真な信念がこうも無残に踏みにじられるというのは、身の毛がよだつほど恐ろしいことであった。わたしは、この子たちを知りつくしている者の一人である。この子たちが、車廠子で大人とともにどのように飢餓に堪え、内島山で人民革命軍を助けてどのように握り飯を運び、不寝番に立ったかを誰よりもよく知っている。この子たち一人ひとりの自叙伝は、小説のストーリーのように、わたしの脳裏にはっきりと刻みつけられている。

 大きな子どもたちの脇で雨に濡れたひよこのように全身を震わせ、凍えた手で膝小僧を隠して立っている百草溝出身の9歳になる李五松の経歴をみても、馬鞍山の子どもたちがへてきた千辛万苦のほどは察して余りある。彼は車廠子にいたときに、すでに集団餓死を目のあたりにした。ほかの子どもたちと同様、彼も腹がすくたびに冬眠中のカエルを捕まえて食べ、春の播き付けがすんだ畑から種子を掘り出して食べた。父親も車廠子で餓死した。五松は畑の大麦の穂をもぎ取り、芒(のぎ)をこすりとった一握りにもならない麦粒を父の口にふくませたが助けることはできなかった。五松と幼い妹は、草の根や木の皮で端境期をしのぎ、車廠子を発って内島山に向かう人民革命軍にしたがった。しかし、彼も金洛天の義弟ということだけで民生団の嫌疑をかけられたのである。

 孫明直を団長とする14人の児童団員は、内島山に向かう数十里の路程で、組織生活を通じて鍛えた不屈の闘志と革命への忠実さを遺憾なく発揮した。前方は腰まで埋まる雪と険しい山が道を阻み、後方は討伐隊が執拗につきまとった。行軍を開始した初日から食糧は底をついた。腹が減ると松の葉をかんだり、握って固めた雪をほおばったりして飢えをしのいだ。トウモロコシの餅一つが14人の一度の食事になる日は、まだましだといえた。野宿をするときは、孫明直、朱道逸、金泰泉など体の大きな年上の子どもたちが10歳未満の児童団員を親鶏のように抱いてわが身で風を防ぎ、束の間の睡眠をとりながら交替で歩哨に立った。

 隊伍を引率した児童団の団長孫明直は、すぐれた組織的手腕と統率力を発揮した。彼は、王隅溝にいたときから児童団活動をりっぱにやり遂げた。一時は、敵地へ行き、金在水の指導を受けて地下工作に参加したこともある。7歳のときから書堂で漢字を学んだ孫明直は、10歳にもならないうちに千字文と『明心宝鑑』を修めたが、のみこみが早く記憶力がよいので地下工作にも適任であった。彼は、児童団時代に組織を動かして校内の日本語教員をはじめ7人の反動教員を追放する実績もあげ、早くから革命家たちに信頼された。孫明直の家庭は、代々愛国愛族の魂を受け継いできた革命一家であった。祖父は、1910年の「韓日併合」を前後した時期に義兵隊長として活動した人であり、父親の孫化俊は、百家長の看板の裏で秘密工作にあたった革命闘士であった。孫明直の5親等の叔父にあたる金鳳錫(原名孫鳳錫)は、小部隊活動に参加し、解放を数時間前にして惜しくも戦死したわたしの忠実な伝令兵であった。

 たとえ死のうとも革命軍について行くといって、凍えた手に息を吹きかけながらこんな山奥まで訪ねてきた子どもたち、金持ちの子が螺鈿の膳でご馳走に舌づつみをうっているときに、たき火のそばで枯れ葉を布団代わりにうたた寝をしながらも、解放なった祖国を夢見てきたあの子たちに罪があるとすれば、それはいったいどんな罪だというのか。この可愛い花のつぼみたちに錦衣玉食はあてがえないまでも、質素な木綿の服を着せ、豆がゆを食べさせるぐらいのことがなぜできないのか。

 「みんな顔を上げるのだ。ぼろを着ているのはおまえたちのせいではない。さあ、早くおいで!」

 わたしは両腕を大きく広げて子どもたちに近づいた。言い終わらないうちに、数十人の子どもたちがわたしを取り囲み、声を上げて泣きだした。わたしは、泣きつづける子どもたちを連れて兵舎の中に入った。数日来、病気のため起き上がることもできないという4、5人の子どもが、毛布もかけずに部屋の片隅にうずくまるようにして横たわっていた。なんの病気かと聞いても、子どもたちは約束でもしたかのように返答を避けた。密営の警護に当たっている隊員たちも重病だと言うだけで、はっきりした病名は告げられなかった。それが心の病であることを知っているのは朴捕吏だけだった。なんの罪もない青玉のような子どもたちに民生団のレッテルを張りつけたのだから、答えようがあろうはずはなかったのである。わたしは、伝令兵を呼び、背のうから毛布を取り出させた。それは、汪清にいたとき日本軍の輸送隊を襲ってろ獲した、わたしの1枚きりの毛布であった。この1枚の毛布だけでも病気の子どもたちにかけてやれば、いくらか心が安らぎそうだった。わたしの心中を察した隊員たちがきそって自分の背のうから毛布を取り出した。わたしは、それを隊員たちの方に押しやった。

 「よしたまえ。この子たちが病気にかかって寝こみ、寒さに震えているのに、100枚の毛布をかけて寝たところで、わたしの心は暖まらないだろう。わたしのことを考えてくれるなら、まずこの子たちの面倒をよく見てやりなさい」

 わたしがこう言うと、密営の給養係は深くうなだれた。わたしの声はくぐもった。

 ――わたしはきょうここで、革命家の価値観についてあらためて深く考えざるをえない。われわれは、なんのために革命をはじめ、いまもまたなんのために万難を排して革命をつづけているのか。われわれはなにかを破壊するためではなく、人間を愛するがゆえに革命の道を踏み出したのである。あらゆる不義と悪弊から人間を解放し、人間的なものを擁護し、人間が創造したいっさいの富と美を守りぬくために、この呪わしい世の中に向かって反旗をかかげたわれわれではないか。虐待される階級にたいする同情心、亡国の悲しみに泣く民族にたいする哀れみ、貧困と無権利にあえぐ父母、妻子にたいする愛情がなかったなら、われわれは1日として困難に耐えることができず、暖かいオンドル部屋に舞いもどっていたであろう。共産主義者であるわれわれが、どうして子どもたちがこんな状態になるまで放っておくことができるのか。きみたちの胸の中からは、革命の道を踏み出すときに宿していた純粋な人間愛がいつのまにか冷めはじめたのだ。いまわたしが残念に思うのは、まさにこのことだ。ある意味では、われわれの革命は、子どものための革命ともいえる。子どもたちにひとさじのご飯も食べさせてやれず、一着の服もつくってやれないなら、どうしてわれわれが革命にたずさわっていると公言し、自分を共産主義者だと誇ることができるだろうか。子どもは階級の花であり、民族の花、人類の花である。この花をりっぱに育てるのは、共産主義者の神聖な任務である。子どもをどう育てるかによって革命の未来が決まるのだ。革命は一世代で終わるものではなく、幾世代にもわたって完成されるものだ。今日はわれわれが革命の主人となっているが、明日はあの子たちが成長して革命を担っていく主力部隊になるのだ。したがって、われわれが朝鮮革命に忠実であるためには、革命の血筋を受け継ぐ後続部隊をしっかり育てなければならない。まして、あの子たちは、戦友たちが残していった遺児ではないか。われわれは戦友への信義を守るためにも、あの子たちを慈しみあたたかく見守ってやらなければならないのだ。いわゆる上部の迫害が怖くて子どもたちをかえりみない者が、どうして敵の銃口に自分の胸をさらすことができるというのか。きみたちは、自分でも気づかないうちに保身のよろいに身をかため、ひとの不幸を見ても同情せず目をふさぐ卑劣な人間になってしまったのだ。考えてみよ。それが世界の改造を志した共産主義者のおこないといえるだろうか。子どもをないがしろにするのは、自分自身をないがしろにすることである。彼らの、面倒をよく見ず、彼らが苦境に陥っているときに保身をはかって見捨てるならば、遠い将来、彼らはわれわれをかえりみなくなるだろう。子どもたちのために払う努力いかんによって、数十年後に彼らがわれわれを見る目が決まり、彼らが建設する祖国の姿が左右されるのだ。われわれがいま、子どもに愛情をそそげばそそぐほど、明日の祖国は、より富強で、文化的で、美しいものになるだろう。子どもを愛することは、すなわち未来を愛することである。われわれの祖国は、やがてあの子たちの手によって百花繚乱たる花園に建設されるだろう。祖国の未来、人類の未来のために子どもをもっと慈しみ大事にしよう!――

 その日、わたしが兵舎で話したことはおおむねこういうものであった。これは、80の高齢になったいまも、わたしの変わりない児童観といえる。わたしはいまも、子どもを慈しみ見守ることに最大の生きがいと幸福を感じている。子どもなくして生活になんの楽しみがあろうか。わたしが鉛筆の生産を北朝鮮臨時人民委員会の第1回会議の議案として上程したことや、毎年、元日を子どもたちと一緒に楽しくすごしていることも、こうした児童観のあらわれといえる。

 子どもにたいするわたしの愛情は、彼らの教育を受け持っている教員を尊重し愛することにもあらわれている。共和国の初代内閣のメンバーのなかに李炳南という保健相がいた。彼は、解放前から小児科部門の医療活動に従事してきた高名な医学博士であり、誠実で良心的な愛国者であった。1948年4月の南北連席会議に参加するためにソウルから平壌にやってきた彼は、わたしの勧誘をいれて共和国の初代保健相に就任した。彼の品性のうちでいちばん際立っていたのは、子どもをこのうえなく愛し、うまく扱うことであった。小児科が専門の李炳南はいつもポケットにガラガラを入れて歩き、泣く子をあやした。重病にかかって弱りきっていた子どもも、彼がガラガラを振ってみせると、泣きやんでおとなしく診察に応じたものである。道化師も顔負けするほどのとぼけた表情と、腹をかかえて笑いだしたくなるほど滑稽な冗談で子どもをあやし、またたくまに治療を終えてしまう巧みな腕前のおかげで、彼はどこへ行っても幼い患者から尊敬され、彼らのやさしい友となった。

 わたしの娘の慶喜がはしかにかかったとき、なかなか発疹があらわれなくて手をやいた。そのうえ、風に当たって肺炎まで併発した。慶喜は、お母さん、お母さんと言って泣きつづけた。幼い妹が苦痛をこらえ切れず泣きだすたびに、兄の金正日組織担当書記は「慶喜、お父さんの前でお母さん、お母さんと言ってはだめだ」と諭した。政府病院の小児科の医師たちは、手のほどこしようがなくて、身の縮む思いをした。そんなときに保健相の李炳南が慶喜の病室にやってきた。彼は、聴診器を取り出しもせずに症状を観察した。そして、すぐ「はしかよりも肺炎が先にきたようです」と診断をくだした。保健相の指示に従って、小児科の医師たちは直ちに幼い患者に酸素吸入をおこなった。意識を失っていた慶喜は、24時間後に泣き声をあげて昏睡状態から覚めた。同時に発疹もあらわれはじめた。

 わたしは李炳南に聞いた。

 「李先生、どうですか? あの子が泣くのはどうしてでしょう?」

 「それはいい兆しです。子どもは、病気が快方に向かうときに泣きだすのです。お嬢さんは3日後には全快するでしょう」

 李炳南は、鎖も縁も金製で琥珀の飾りがついた懐中時計を取り出して慶喜の鼻先で振ってみせた。それは、彼が幼い患者をあやすときに、ガラガラとともに「鎮静剤」として用いてきた金時計である。慶喜は泣きやんで、口もとに笑みを浮かべた。3日後には本当に慶喜の病気が治った。わたしは、保健相の見事な治療の手際に感嘆を禁じえなかった。

 「まったく驚いたものだ。どうして李先生の予言がそんなにぴたりとあたるのですか。李先生は医者である前に、子どもの親友であり児童心理学者です。そうしてみると、小児科の医者は、人一倍子どもを熱愛しなければならないというわけですね」

 「そのとおりです。子どもにたいする愛情がなければ、子どもの胸にむやみに聴診器を当ててはいけないのです」

 1950年の秋に、わたしは高山鎮で李炳南に会った。容貌は以前と変わらなかったが、一つだけ違う点があった。時間を知りたいとき、彼はポケットから鎖のない古ぼけた懐中時計を取り出すのだった。慶喜をあやしたあの金時計はどうしたのかと聞くと、軍器献納品として国に納めたという。戦争勝利のためにすべてをささげようとする李炳南の愛国的至誠と、良心的人間としての真情はわたしを大いに感動させた。その懐中時計があまりにも貧弱だったので、わたしは後日、彼に新品の腕時計を贈った。

 この小さな出来事を通じてわたしは、子どもを心から愛する人であってこそ真の愛国者になり、真の人間愛をもつ人であってこそ真の愛国者になりうるという真理をあらためて痛感した。子どもへの愛情は、人間の愛情のうちでももっとも献身的かつ積極的な愛情であり、人類にささげられる頌歌のうちでももっとも純潔で美しい頌歌である。共産主義者は、まさにこの頌歌の創造者であり、この頌歌のためにたたかう奉仕者である。李炳南のような子どもたちの友人が馬鞍山に一人でもいたなら、児童団員はあれほどひどい境遇に陥りはしなかったであろう。

 わたしはいまこそ、母が臨終を前にして遺産として残してくれたあの20元を使うべきだと考えた。金銭がなくてはどうしても乗り切れない苦境に陥ったときに使うようにと念を押された20元であった。指先に血がにじむように賃仕事をして少しずつ貯えた労働の結晶であった。わたしは、幼いとき金を手にしたことがなかった。父は、生涯を通じて息子に金を与えたことがなかった。ノートや鉛筆を買うのも母にまかせてわたしを商店や市場に出入りさせなかった。子どもの時分から金を手にすると大きくなって守銭奴になり、祖国も民族も眼中にない俗物になってしまうというのが、金についての父の持論であった。ある日、病床に臥していた父がわたしに街を見物しに行こうと誘った。外出もままならなかった父が、わたしと一緒に出かけるというのは異例のことであった。中国語が達者でない父は、ときたま通訳が必要なときにわたしを連れて歩いた。わたしは、父の忠実な中国語「通訳」だったのである。

 (病気がひどいのに外出するのは、急用ができたからに違いない。誰に会うつもりで、そんなにせくのだろうか?)

 わたしはこんなことを考えながら、寝床から起き上がる父に手を貸した。しかし、父の腕をとって街へ出たあとも、わたしは、その日がわたしの誕生日だとは気がつかなかった。父が病床に臥していたときなので、誕生日のことなど考えるゆとりがなかったのである。街を一回りしたあと、父はわたしの手をとって商店に入った。それは予期しない出来事だった。なぜわたしを連れてこの商店に来たのだろうか、と考えながら陳列棚を眺めていると、父は気に入った懐中時計を一つ選ぶようにと言った。さまざまな懐中時計が並べられていた。孫中山(孫文)の肖像入りのものもあったが、肖像のない懐中時計を選ぶと、父は3元5毛を払った。そして意味深長な口調で言った。

 「おまえも時計が必要な年ごろになった。国を取りもどすたたかいに立った人間が大切にすべきものは二つある。一つは同志であり、もう一つは時間だ。時間を大切にせよという意味でやる誕生祝いだから、そのつもりで大事にしなさい」

 時計が必要な年ごろになったという父の言葉は、わたしが大人になったという意味にとれた。なぜかわたしには、その言葉が臨終前夜の遺言のように聞こえた。事実、父はそのときすでに自分の余命がいくばくもないことを予感していたようである。そんな予感から、父は時計とともに、生涯の労苦を傾注した独立の偉業をわたしに引き継がせたのである。それは一種の成人式のようなものであった。誕生祝いに懐中時計を買ってくれたその日から2か月もたたないうちに父は他界した。その後、わたしは、その時計をもって華成義塾で学びながら志を同じくする学友たちに出会い、打倒帝国主義同盟を結成した。わたしはパルチザン時代にも、その時計に合わせて日課を実行し、攻撃開始の時間や落ち合う時間を定めるときにも、その時計を基準にした。その懐中時計の代わりに腕時計をはめるようになったのは普天堡戦闘のころである。戦友たちは、懐中時計も古くなったし、司令官の体面を考えても新しい腕時計をはめるべきだとすすめた。それでわたしは、10年間身につけていた懐中時計を戦友に譲り、新式の腕時計をはめるようになった。このように、父はわたしが革命闘争の道を踏み出すまで金を手にさせなかった。わたしが自分の手で代金を払って商店で品物を買ったのは、吉林時代だけである。こうして、わたしの金銭にたいする無関心さが助長されたのだといえば、読者は少しもおかしくは思わないであろう。

 金品に目がくらむと、党と領袖、祖国と人民も眼中になく、あまつさえ、父母や妻子もかえりみない唾棄すべき人間になってしまう――これが80風霜の人生を総括しながら、わたしが次の世代に言っておきたいことである。

 このように、息子たちが子どもの時分から金を知らずに育つようきびしくしつけるのは、父がうち立てたわが家の独特な家風であった。しかし、臨終を前にした母は、はじめてその家風を破り、生涯の辛苦が集約されている20元を遺産としてわたしに渡したのである。母の苦難にみちた生涯がその何枚かの紙幣に凝縮されているように思われ、それを大切に受け取った。20元、それは、わたしにとって護身符のようなものであった。それを懐にしていると、空腹も寒さも恐れも感じなかった。そして、母がいつもそばにいて、全身全霊でわたしを守ってくれているような気がした。どんなことがあっても、私事には使うまいと決心していた20元である。できることなら、息子にたいする母の愛情のよすがとして、いつまでもとっておきたい金でもあった。しかし、きびしい現実は、この決心を何度もぐらつかせた。その金を使おうと懐に手を差し入れたことは一度や二度ではない。金を使わなければならない状況はしばしば生じた。羅子溝の台地でわれわれを救ってくれた忘れがたい馬老人と別れるときにも、その20元で恩返しをしようと思った。命の恩人にお礼をするのは人間として当然のことではないか。20日近くもその山小屋にいて、老人の1年分の食糧を食べてしまったのに、懐に金がありながら謝礼をしないとすれば、天もわたしを叱責するに違いなかった。だが、この神仙のような老人は、どうしてもそれを受け入れなかった。国を取りもどすためには、これ以上の困難にぶつかることもあるだろうから、そのときに使いなさい、わたしはもう生きるだけ生きた身であり、こんな山奥では金を使うところもないからもらってもしょうがない、わたしは罠にかかる獲物だけでも食いつないでゆける、と言って頑として金を受け取らなかった。こうしたいきさつをへて、母の愛情がこもった20元の金は手つかずのまま懐に残っていた。この金でぼろをまとった児童団員たちに服をつくってやれば、母も喜んでくれるだろう。

 (お母さん、このお金をいただいてお母さんのもとを離れてからもう4年になります。その間、何回も苦しい目に会いながらも将来のことを考えてなんとか取っておいたのですが、きょうはどうしてもこの20元を使わなければならなくなりました。この世に一人の肉親もいない、あのかわいそうな子どもたちに服をつくってやりたいのです。これから先、これよりも大きな困難があるだろうことは百も承知していますが、よくよく考えたうえで決心したことですから、お母さんも賛成してください。人一倍子ども好きなわたしの気性はお母さんもよくご存知でしょう…)

 遠い土器店谷の冷たい山すそにひとり寂しく眠っている母に向かって、わたしは心の中でこうつぶやいた。

 「撫松市内へ行って、この20元で布地を買ってきなさい。それで子どもたちに服をつくってやりたまえ」

 連隊政治委員の金山虎に命令した。彼は困った様子であったが、しかたなくその金を受け取った。地主の家で下男をしていたときに押し切りで指を一本失った五家子の時代から、わたしと一緒に反帝青年同盟の活動を展開してきた好男子の金山虎は、この20元のいわれを誰よりもよく知っていたのである。

 「司令官同志の命令ですから実行はしますが、どうも手が震えます。これは、ただのお金ではないではありませんか」

 彼はこう言い残し、撫松市内へ行って1尺で1毛というギャバジンのような布地を7、8疋買った。大力の金山虎ではあったが、それをかついでくるのに苦労したそうである。ところが帰途に、土匪になりさがった山林部隊の残党にその布地をそっくり奪われてしまった。土匪たちは、彼を木にくくりつけて逃走したので、さすがの怪力の政治委員ももう少しで凍え死ぬところだった。わたしは、小部隊を派遣して金山虎を救出し、布地も奪い返した。7、8疋の布地では、密営の子どもたち全員に服をつくってやることができなかった。それでわたしは、張蔚華宛の手紙を持たせて、金山虎を再び撫松へ送った。彼は、張蔚華の助けで多量の布地を手に入れた。その布地で密営の子どもたちと、民生団の汚名をすすいで新師団に編入された100余名の遊撃隊員の服を仕立てた。それで、重かったわたしの心もいくぶん軽くなった。

 実のところ、20元というのは大した金ではない。しかし、そのとき、わたしはすこぶる晴れやかな気分になった。こうして、われわれは馬鞍山を発つことになった。すると、新しい服を着て大喜びだった密営の子どもたちが一緒に連れていってくれとせがんだ。わたしは、多くの人の反対を押し切って子どもたちの願いを聞き入れた。遊撃隊についていけそうにない幼児と病人を除く大部分の子どもたちが、南下するわれわれの隊伍とともに困難な長征の途につくことになった。遊撃戦を展開しながら東西を駆けまわる革命軍が、10代の子どもを多数伴って行動するというのは一種の冒険であった。しかし、わたしはそれが、たとえ、遊撃戦の歴史にはなく常識に反することであっても、子どもたちを烈火のなかで鍛え、彼らを鋼鉄の人間に育てあげようと決心したのである。いちばん骨のおれるのは、倒木を乗り越え、川を渡るときであった。それで、戦闘や行軍のさいに子どもたちを保護する任務を隊員たちに分担した。隊員たちは、子どもたちを自分の瞳のように守った。倒木は抱いて越え、川はおぶって渡り、敵の銃弾はわが身で防ぎながら彼らを育てた。

 あのとき、わたしについて白頭山地区に進出した子どもたちは、その後すべて革命軍に入隊し、苛烈な遊撃戦を通じてりっぱな軍・政幹部に成長した。従軍は無理なのでしばらくのあいだ大碱廠密営にとどまっていた9歳の李五松も孫長祥の伝令兵を勤め、のちには長白に来てわたしの伝令兵になった。1939年5月に部隊を率いて茂山地区へ進攻したとき、彼は12歳にすぎなかった。そのとき彼は、水が深くて川を渡ることができなかった。それで、わたしが抱いて渡してやった。あのとき、ひよこのように懐に抱いて育てた子どもたちが、いまでは党と国家と軍隊で中核的役割を果たしている。

 馬鞍山でぼろをまとった子どもたちを目にしてうっ憤を抑えきれなかったあのときの衝撃があまりにも大きかったので、祖国が解放されたら、なんとしてでも国家が無料で子どもたちに服を供給する制度をうち立てようと決心した。戦争によって破壊され零落した国を再建していた1950年代の後半期にすでに、われわれは国家が服をつくって供給する歴史を創造しはじめた。これは、馬鞍山での苦悩を体験した朝鮮の共産主義者でなくては創造できない一つの奇跡である。われわれは毎年、子どもたちの服を供給するのに数千数億ウォンの予算を支出している。

 わが国を訪れる外国の人士は、ときおりわたしにこう尋ねることがある。――そんなに莫大な資金をなんの代価もなしに無償で支出しては、国家が損をするではないか。各自が商店で布地を買ってつくるようにしてもいいはずなのに、なぜ国家が子どもたちに学校の制服をつくってやるのか。服を無料で供給することによって生じる損失はなにによって埋め合わせるのか――

 わたしはそのたびに、馬鞍山でぼろをまとった児童団員たちに会ったときの話をして聞かせている。われわれが抗日戦争を展開していたとき、その戦争の砲声を聞いたことのない資本主義国の政治家が、共和国政府の施策に秘められた深い歴史的な意味がよくわからず、財政的な面でのみ問題を考察するのは無理からぬことである。だが、人民のためにこうむる国家の「損失」は損失とはいえない。人民の福祉のためにより多くの資金が支出されるほど、わが党はより大きな喜びを感じ、次の世代のためにより大きな「損失」をこうむるほど、国家はより大きな満足を覚えるのである。

 わが国に社会主義制度が存在し、白頭の伝統が継承されるかぎり、国家が子どもたちに服を供給する共産主義的施策はつづくものと確信する。

 馬鞍山時代の児童団員と抗日闘士たちは、全国の子どもたちと同様、季節が変わるたびに、金正日組織担当書記の恩情がこもった新しい服を受け取っている。わたしの70回目の誕生日に李五松と孫明直は、組織担当書記から贈られた新しい軍服をもってわたしの前にあらわれ、馬鞍山のときのことが思い出されると言うだけで、言葉をつぐことができなかった。



 


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