金日成主席『回顧録 世紀とともに』

1 新しい師団の誕生


 迷魂陣を発つとき、われわれの隊は20名足らずであった。2人の幼い伝令兵と呉白竜をはじめ10名の護衛兵、金山虎、それに和竜の山里で書堂の訓長(私塾の先生)を勤めていた「パイプじいさん」、これがわたしの率いていた「家族」の全員であった。官地からついてきた汪清連隊の1個中隊も、北満州の部隊に合流するため依蘭県方面へ向かった。わたしのいでたちは、いとも身軽なものであったが、前々からの願いがかなえられるのだと思うと言い知れぬ喜びを覚えた。

 (早く撫松へ行こう。馬鞍山では、第2連隊がわたしを待っているはずだ。彼らを軸にして無敵の新師団をつくろう)

 これが迷魂陣を発つときのわたしの考えであった。新しい師団を編制するのは、朝鮮革命の主体的路線を貫徹するうえで第一に解決すべき要の問題であった。もはや、われわれが、朝鮮革命に専念するのを誰も論難したり邪魔をすることはできなくなった。われわれが早くから探索し敷設してきた朝鮮革命の軌道には、いかなる遮断機もおろされていないのである。その軌道を真っすぐに進めば、祖国解放という慶祝の広場にも、人民の国という別天地にも到着することができるのだ。そのためには、その軌道の上を走る頑丈な機関車と車両をつくり、強力な司令指揮所も設けなければならなかった。朝鮮革命の先頭の機関車とはなにか? それは、われわれが新たに編制しようとしている朝鮮人民革命軍の主力師団である。われわれが創立する祖国光復会は、その機関車の後ろに連結される車両にたとえることができた。遠からずして本拠となる白頭山は、朝鮮革命の司令指揮所といえようか。われわれは、時を移さずこうした課題の遂行に邁進しなければならなかった。

 当時、われわれが構想していた新しい師団は、日本帝国主義の軍隊と警察を軍事的に制圧する軍事活動のみを展開する、本来の意味での師団ではなかった。それは軍事活動を展開する一方、われわれが目標とする白頭山に進出して国内各地に党組織網を拡大し、祖国光復会や各種の反日組織を通じて全人民を反日抗戦に結集させ、指導する政治的軍隊としての新たな任務と面貌をそなえたものでなければならないのである。もちろん、そうした任務は、ほかの師団も遂行しなければならない。しかし、そのなかでも、すべての部隊の先駆的役割を果たす主力師団がなければならない。それで、その主力師団を朝鮮革命の機関車にたとえたのである。

 朝鮮革命の機関車の役割を果たす強力な主力部隊をどのような方法でつくりだすべきであろうか? わたしの相談相手になってきた人のほとんどは、抗日連軍の各部隊に散在している朝鮮青年を総結集して大部隊を編制し、白頭山に進出すべきだと主張した。第2軍管下の各部隊から頼もしい遊撃隊員を特別に選抜して主力部隊を編制すべきだと力説する戦友もいた。どの案にも一理はあったが、こうした意見を唱える人は例外なく、共通の敵に反対してともに戦っている中国人たちの運命や、われわれの共同闘争の展望などは眼中になかった。彼らの思考の出発点は、まず主力部隊を編制してからのことだというものだった。換言すれば、部隊本位主義といえるだろう。わたしは結局、北満州遠征のときに率いていった数百名の隊員を葦河で活動している各部隊に分散させ、撫松で活動しているという第2連隊のメンバーを軸にして、東満州一帯と国内のすぐれた青年を受け入れ、新しい主力部隊を編制することにした。

 われわれが迷魂陣を発つとき、王徳泰は敵の木材所を討ってろ獲したという20数頭の馬を譲ってくれた。

 「手塩にかけて育ててきた勇士をみな北満州の人たちに譲り、こうして単身で発つ金司令を見るとなんとも申し訳ない。人の代わりにこの馬を道連れにしてほしい。よく訓練された馬のようだから、役に立つときがあるでしょう」

 われわれは、その馬に乗って南へ向かった。ある日、休息中に3頭を見失ってしまった。草を食ませようと放しておいたところ、目の届かない密林の中に姿をかくしてしまったのである。わたしは付近に敵がいないことを確認してから、伝令兵に2発ほど銃声をあげさせた。銃声が鳴り響くと、3頭の馬があちこちからあらわれ、われわれのところに駆けてきた。ある山中で車廠子遊撃区にいた人たちにめぐり会ったとき、役畜にでも使うようにと、それらの馬を譲った。

 北満州の小家h河の谷間から、小白水谷と呼ばれる朝鮮北端の山里にいたるまで、半年以上もつづいたこの年の南下行軍で、もっとも難儀させられたのは、ほかならぬこの迷魂陣から馬鞍山までの路程である。無勢のわれわれに、いたるところから敵があらわれては行軍を妨げた。われわれは迷魂陣を発ったその翌日から、日に1、2回、ときには3、4回も戦闘を交えなければならなかった。敵は、炊飯をしたり、ほころびた服を繕う時間の余裕さえ与えなかった。飯は抜いてもタバコなしでは1日も生きられないという「パイプじいさん」が終日パイプをくわえることのできない日もあったほどだから、敵との交戦がどれほど頻繁であったかは想像にかたくないであろう。われわれは、夜になってから奥まった場所を探し、やっとの思いで食事をしたり、濡れた靴を乾かしたりした。しかし、夜もゆっくり休むことはできなかった。人数が少ないので、歩哨を立てるのもむずかしかった。1交替に少なくとも門前哨1名、山脚哨2名、望遠哨2名は必要だが、負傷者と看護にあたる隊員を除くと、交替人員が足りないのである。それで、わたしも隊員に代わって何回も歩哨に立った。ある日の夜、衛兵所を見まわっていた金山虎は、わたしが歩哨に立っているのを見て一大事でも起こったかのように騒いだ。司令官が隊員を甘やかしすぎるというのである。金山虎がそんなことを言い出すと、なだめるのが容易でなかった。わたしは彼の袖をつかんで頼みこんだ。

 「そんなに騒がないで、少しは幼い隊員たちの身にもなってみたまえ。昼は行軍と戦闘のために疲れ、夜は毎晩歩哨に立たねばならないのだから、どんなに疲れていることか。彼らの代わりに歩哨に立つといっても幾晩にもならないではないか。馬鞍山まで行けば人員はいくらでもいるから、歩哨を代わってやる機会もないだろう」

 いくら言っても無駄であることを知った金山虎は、なにも言わずに立ち去った。

 早く馬鞍山へ行こう! 馬鞍山に着けば、多くの戦友の抱擁と心温まる安らぎの場が待っているだろうし、そのときには、これまでの艱難辛苦も終わりを告げるだろうとわたしは考えた。満足に食べることも休むことも眠ることもできず、連日の戦闘と行軍で疲れきっていたわれわれに力と勇気をわき起こさせたのはこうした希望であった。

 南下行軍の路程の中間地点にあたる安図と撫松は、どの谷間、どの尾根も見慣れた風景であり、一木一草が深い追憶を呼び起こす土地であった。松江、興隆村、十五里、小沙河、劉家粉房、富爾河、大甸子、柳樹河、南甸子、杜集洞、万里河、内島山などは、いずれもわたしの青春時代と切っても切れないつながりのある土地である。その見慣れた土地を数年ぶりに踏むわたしの胸には、言い知れぬ情感がわきあがってきた。南下行軍の途中、大西北岔の西側の峰に登ったとき、わたしの眼前には深い感懐を呼び起こすすばらしい景色が開けた。眼下に見える小さな僻村は、遊撃隊創建の準備を進めていた日々に、わたしが作男を装って地下工作をした忘れがたい村であった。いま立っているこの峰も、当時、地下組織のメンバーと一緒に足しげく通い、会合を開いた所である。一本の樹木、一株の草、一つの岩もそのまま見過ごすことのできない懐かしい土地であった。過ぎ去った昔日を追憶し、連々とつづく南方の峰々を眺めていたわたしの視野の彼方に、4年前、抗日遊撃隊の創建を宣言した小沙河の台地が浮かんできた。あの台地から少し下った陽当たりのよい山すそに母の墓があるのだ。この足で昔の足跡の残るあの道を行き、母の墓参りをしてから撫松への行軍をつづけようかという感傷が、わたしをとらえて放さなかった。芝もまばらな母の墓に告別の涙を流し、土器店谷を後にしてから4年になろうとしている。4年なら墳墓の芝も大分根をおろしたことだろう。いまごろは、枯れ葉の間から生えたかも知れない新芽にほおずりをし、墓地に眠っている母と束の間でも言葉を交わしたいという切なる思いがわたしの心を強く揺さぶった。隊列が峰を降りたのも知らずに、わたしは尾根に立ちつくしていた。

 寒食の節気が近かったので、母への思いがいっそうつのったのかも知れない。陽地村にある父の墓は、康済河先生の家族が年に2回訪れて法要をいとなみ、草刈りをしてくれていると聞いたが、土器店谷にある母の墓はどうなっているのだろうか…。

 「将軍、なぜ山を降りないのですか?」

 麓に向かっていた崔金山がもどってきて、いぶかしそうにわたしを見つめた。わたしはようやく瞑想からさめ、歩みを移した。

 「どうなされたのですか? 小沙河に母上のお墓があると聞きましたが、もしや…」

 崔金山は、両手をわたしの耳元に寄せてささやくように言った。胸のうちまで見透かすような若い伝令の言葉を聞いて、わたしは心中を打ち明けた。

 「そうだ、母のことを考えていたのだ…」

 「それなら、お墓参りをしてはどうですか?」

 「行きたいのはやまやまだが、時間が許さない」

 「小沙河はすぐそこなのに、時間がないからといって母上のお墓参りもなさらないというのはあんまりではありませんか。土器店谷には弟さんもいるはずですが…」

 「たとえ時間が許すとしても、わたしは行けない身なのだ。母がそれを望んでいないのだから」

 「どうしてでしょう。なぜ望まないと言われるんですか?」

 「母は、わたしが朝鮮の独立をなし遂げるまでは墓を移してはいけないと遺言したのだ。わたしがいま土器店谷の墓に行かないのは、その遺言を大切にしているからだ」

 わたしがこう言っても、なにが不満なのか崔金山は首をかしげた。

 「お墓参りをしたからといって、朝鮮の独立ができないということはないじゃありませんか。遺言は遺言として、行ってこられるべきです」

 「いや、それはだめだ。わたしは母が生きていたときに孝行ができなかった。せめて亡くなったあとにでも孝行をしたいと思っているのだから、もう言わないでくれ。これといってなし遂げたこともないのに、どうして母のもとへ行けるというのだ」

 金山虎と呉白竜までが小沙河へ行くよう勧めたが、わたしは彼らの提言を聞き入れなかった。だが、心は依然として土器店谷の母のもとに走っていた。わたしは峰を降りながら、心のなかで母に詫びた。

 (お母さん、道を急ぐので土器店谷に立ち寄ることができません。1年中冷たい雪と雨にうたれているお母さんの墳墓に一握りの土もかぶせられず、草刈りもしてあげられないまま安図の地を踏むのは心苦しいかぎりです。あれから弟たちの面倒もよく見てやれませんでした。哲柱は昨年戦死したとのことですが、遺骸がどこにあるのかもわかりません。しかしお母さん、朝鮮革命には洋々とした前途が開かれました。これから馬鞍山へ行って大きな師団を編制するつもりです。その部隊を率いて白頭山に本拠をかまえて本格的に戦います。国を取りもどさないかぎり、お母さんの遺言どおり墓のそばにも行きません。信じてお待ちください。きっと祖国を取りもどしてお母さんを万景台にお連れします)

 われわれは、馬鞍山への行軍を急いだ。この行軍にかけた期待は非常に大きなものであった。それゆえ、樹海の中から馬の鞍のような形をした峰があらわれたときは、期せずして「馬鞍山だ!」という嘆声がいっせいにあがった。

 真っ先にわれわれを迎えてくれたのは、朝鮮人参畑であった。畑の端にみすぼらしい丸太小屋が2軒あったが、人影はなかった。日が暮れかけたころ、深い谷間でもう1軒の小さな丸太小屋を見つけた。2、3人が隠れ住んでいるその丸太小屋で、ジャガイモを焼いて食べていた第1師政治主任の金洪範に会った。

 「第2連隊はどこですか?」

 「今月の初めに、蛟河方面に遠征しました」

 金洪範は当然のことのように答えたが、それはわたしにとって青天の霹靂であった。第2連隊がいないということは、南湖頭から構想を煮つめてきた新しい主力部隊の編制が不可能になったことを意味する。頼みにしていた樹が倒れてしまったようなものである。第2連隊は、独立連隊として活動していたときから戦上手の「高麗紅軍」として知られた純然たる朝鮮人部隊の一つであった。この連隊は、東満州の延吉、汪清、和竜など各県の遊撃区からそれぞれ1個中隊を選抜して編制した部隊で、隊員の大部分はわたしと縁の深い人たちであった。連隊長の尹昌範や連隊政治委員の金洛天はいうまでもなく、権永壁、金周賢、呉仲洽、金平など連隊の中核メンバーもわたしが育てた人たちである。

 わたしが最後に第2連隊の隊員たちに会ったのは1935年5月、わたしの指示で彼らが汪清県塘水河子に来たときである。10日ほど彼らと一緒に過ごしながら、学習と訓練、戦闘もさせてみたが、彼らはわたしの率いる部隊の隊員に劣らず進歩が早かった。まさに彼らが車廠子遊撃区を最後まで守りぬき、「不屈の車廠子」という伝説的な実話をつくりだした英雄たちであった。

 われわれが第2次北満州遠征に発ち、車廠子遊撃区が解散したあと、第2連隊は南満州に進出し、その年の初めに安図県内島山をへて撫松県馬鞍山に移動した。連隊は、馬鞍山に指揮部と後方基地をおき、冬のあいだ撫松地区でわれわれを待つことになっていた。これが、南湖頭で知った第2連隊の活動にかんする内容のすべてであった。わたしが馬鞍山に来るとき、北満州遠征隊の全員を他の部隊に譲ったのは、第2連隊を引き取れば、それを母体にして新しい師団を編制することができると考えたからである。

 「第2連隊に送ったわれわれの連絡は受けなかったのかね?」

 わたしは迷魂陣に到着するとすぐここに連絡員を派遣し、第2連隊はわたしを待っているようにと指示していたのである。

 「受けませんでした。第2連隊が遠征に出たあと、ここには誰も来ていません」

 だとすると、途中で連絡員に不慮の事故があったに違いない。たとえ彼が無事に着いたとしても、留守の第2連隊に会えるはずはなかったのである。

 「第2連隊が、蛟河方面へ遠征した目的と理由はなんなのだ?」

 「それはわたしにも…」

 「いつ帰ってくるという話もなかったのか?」

 「ありませんでした」

 「引率者は誰だ?」

 「連隊長の張伝述同志と連隊政治委員の゙亜範同志です」

 「馬鞍山に残っているのはきみたちだけか? きみたちはここでなにをしているのだ」
 わたしが話題を変えてこう聞くと、金洪範の口からは驚くべき言葉が返ってきた。

 「あの参圃密営には、百余名もの民生団がいるんです。彼らを監視するためにわたしが残っているのです」

 「なんの民生団がそんなに多いというのだ。参圃のそばの丸太小屋は空っぽではないか」

 「民生団の嫌疑者はいま、臨江の蟻河方面に食糧工作に出ています」

 「食糧工作に派遣できるくらいなら、どうして民生団だと言うのだ」

 「彼らを飢え死にさせるわけにはいかないではありませんか」

 「民生団に間違いないという証拠でもあるのか?」

 「みな証拠文書のある連中です。自白書、陳述書、尋問調書…」

 金洪範は暗い部屋の隅から大きな調書包みを引き出した。

 「これがその調書です」

 第2連隊の隊員たちに会おうと万難を排して千里の道もいとわず駆けつけてきた馬鞍山で、まずわたしを待ち受けていたのは、この民生団の調書包みだったのである。調書包みはなんと一部屋を埋めつくすほどの量であった。

 歓声と抱擁の代わりに、かびくさい臭いが鼻をつく犯罪記録の束を目の前にした瞬間、わたしはひどく欺瞞され愚弄されたような気がして身震いがした。民生団と聞いただけでもぞっとするというのに、あの民生団という魔女が徘徊して、いまなお多くの人を苦しめているというのか? 古くずのようなこの調書包みが、どうしてここまでついてまわっているのだろうか?

 大荒崴と腰営口でたび重なる論争が交わされてから1年近い歳月が流れていた。コミンテルンの判決がわれわれに伝えられてからは1か月半しかたっていない。したがって、その判決の内容が、まだここには伝えられていないのかも知れない。しかし、民生団はでっちあげだという絶叫が東満州を震撼させて久しいのに、なお民生団の名をかりた狂気の沙汰がつづいているのは、まったく思いもよらぬことだった。金洛天のような人まで害しておきながら、なにが不足で100余名もの無実の人を陥れようとするのか。

 わたしは金山虎に、臨江の蟻河方面に連絡員を派遣して彼らを全部連れもどすようにと命じ、民生団の調書包みをほどいて一枚一枚検討した。夜も寝ずに調書を調べ、翌日もその作業をつづけた。調べれば調べるほど、わたしはますます迷宮に陥った。その調書には、誰もあえて否認できないものものしい罪状が克明に記されていたのである。わたしは調書を閉じてしまった。それを見るのは百害あって一利もないことであった。それを信じなければならないとすれば、多くの人を失うことにしかならない。どんなインクでも吸い込む紙の上に書かれた文章を信じることはできなかった。

 臨江県の蟻河方面にいた民生団の嫌疑者たちは、わたしの連絡を受けると、険しい竜崗山脈を越え、数十里の山道をわずか2日で踏破して帰ってきた。民生団の嫌疑者たちが参圃密営の丸太小屋に到着したという報告を受けたわたしは、ただちに金洪範を連れてそこへ行った。霧氷におおわれた丸太小屋の戸を開けると、中には見るにたえない身なりの人たちがいっぱいうずくまっていた。それは、まさしく激情も歓声も涙もない奇妙な対面であった。わたしに敬礼をする者もいなければ、表敬報告をする者もいなかった。わたしを見上げる者さえいなかった。室内は、水を打ったような静寂と沈黙につつまれていた。どれほど虐げられて、顔を上げる権利、挨拶をする資格すら失ってしまったというのか。いかに重罪を犯した者であっても、これほどまでに気がくじけ、とげとげしくなるものだろうか。

 「その間、みなさんの苦労は大変なものだったでしょう」

 なぜか、のどがつかえて思うように言葉が出なかった。

 「こうして、みなさんの姿を見ると、挨拶の言葉さえ出ません。でも会えてうれしいです。わたしはみなさんに会いたくて、遠い北満州の鏡泊湖畔からここまで来たのです」

 わたしの言葉に反応を示す者はいなかった。依然として、息や咳の音さえ聞こえない沈黙がつづいた。抗日戦争を開始して満4年になろうとしているが、隊員たちにこんなふうに迎えられたことは一度もなかった。

 わたしは話をつづけた。

 「わたしがここに来たのは第2連隊の隊員たちに会って新しい部隊を編制し、白頭山に進出して戦うためである。ところが、いざここに来てみると、使える人は蛟河方面へ遠征し、残っているのは悪い人間だけだという。わたしは、みなさんにかんする民生団嫌疑の調書を調べてみた。それを見たかぎりでは、みなさんのなかに民生団でない人は一人もいない。わたしは調書だけでみなさんにたいする判断を下すことはできないと考えた。みなさんの言うことを聞いてこそ正しい判断ができるではないか。だから、すすんで心の内を打ち明けてもらいたい。恐れずに、ひとの顔色を気にしないで正直に話してほしい」

 こう訴えたが、厚い沈黙の氷は割れる気配すら見えなかった。わたしはいちばん前にいた青年に、「きみから答えてみたまえ。きみが、民生団員だというのは本当なのか?」と問いただした。彼はうなだれたままためらっていたが、消え入るような声で「そのとおりです」と答えた。わたしはそんな返事を期待してはいなかった。涙を流し、胸を叩いて、絶対に民生団ではないと絶叫するものと期待していたのである。その青年の返答はわたしを失望させた。わたしは背の高い別の青年に同じ質問をした。

 「それなら李斗洙同志、話してみたまえ。きみが民生団員だというのは確かなのか?」

 江原道春川出身のその若い小隊長は、日本帝国主義にたいする恨みが骨髄に徹していた人である。彼の右の太ももには青黒い傷跡があった。いつか、わたしがどの戦闘で負った傷なのかと聞くと、犬に噛まれた傷だと答えた。彼が11、2歳の年のことだったという。かゆで食いつないでいた端境期のある日、斗洙は一さじの塩もない窮状を知り、柴刈りをしてそれを3束、市に持ち込んで1升の塩に替えた。彼は塩袋を背負子の上にひっかけ、軽やかな気分で村へ向かった。ある日本人の家の前を通りかかったとき、突然どう猛なシェパードがとびかかり、太ももにかみついて彼を倒した。犬をけしかけた日本人の少年は家の中に隠れ、門にはかんぬきがかけられた。その家の者たちのやり方に憤激した目撃者たちは、血まみれの斗洙を背負って警察署に押しかけ、抗議した。かみちぎられた太ももの傷はひどく、人びとは彼を病院にかつぎこんだ。

 斗洙は生まれてはじめて病院の世話になり、そこで毎日白米のご飯を食べた。かゆの食事にうんざりしていた蓬髪の少年は、白米のご飯が食べられるのがうれしくて、傷が早く治らないほうがよいと思うほどだった。彼は、入院生活が自分と自分の家庭に大きい災難をもたらそうとは夢にも思わなかった。治療費は、犬の主人が支払ってくれるものとばかり思っていたのである。しばらくたって病院では、金を払わなければこれ以上入院させておけないと言い渡した。治療費は20円にもなっていた。1か月20銭の月謝も払えなくて、小学校の1学年を3か月しか通えずに退学させられた貧しい少年の家に、20円もの大金があろうはずはなかった。李斗洙の祖父と父、兄たちは、代わるがわる犬の飼い主と警察署、病院に熱心に通い、頼みもすれば、抗議や提訴もした。しかし、被害者の哀願と抗議や提訴を受け入れてくれるところはなかった。犬にかまれたのは、かまれた方の責任だというのである。彼らはみな、朝鮮人の肩をもつはずのない日本人であった。結局、李斗洙の家では20円を借金して病院に払った。その借金が子を生み孫を生んで、2年後には先祖代々住んできた家を売り払っても返済できないほどになった。そのために、春川で暮らすことができなくなった李斗洙の一家は、住みなれた故郷を後にして北へ向かったのだが、債鬼たちは夜逃げをする一家のあとを8キロも追いかけて、祖母の風呂敷包みの中から最後の家産である1疋の絹地まで取り上げた。一時は、離れと使用人部屋まで付いた八角屋根の瓦家と数ヘクタールの農地をもち、人びとから尊敬されうらやまれた李王朝家門の後裔たちは、王朝も国も家も奪われ、最後の布地までも奪われて丸裸になり、流浪の途についた。異国に向かう幼い斗洙の胸に亡国の悲しみと離郷の悲哀を植えつけたのは、元山発清津行の火輪船(汽船)の食堂で食事を運んできた給仕のうら悲しい声であった。

 「異国へ行くみなさんの悲しみと悲哀は極に達し、流浪の客が流した血の涙は東海の水ほどにもなりましょうが、溜め息と涙では生きてゆく道は開かれぬから悲しみに堪え、祖国の米と水でつくった別れの飯をお上がりなさい…」 給仕の同情にみちた言葉は、李斗洙少年ののどをつまらせた。

 日本帝国主義に国を奪われ、家も故郷も失い、愛する故国の山河を後にした彼の脳裏には、日本人とは絶対に同じ空の下で暮らすことができないという酷烈な怨念が刻みつけられた。彼は、自分が大人になれば、朝鮮の空の下では日本人はいうまでもなく、日本人の犬1匹、猫1匹さえうろつけないようにしてやる、とかたく決心した。李斗洙は、成人する前に銃をとって遊撃隊に入隊した。こういう人間が、民生団に入るわけがない。ところが、李斗洙もさっきの青年と同じことを言った。

 「民生団に入ったのは事実です」

 わたしが小汪清梨樹溝谷の民生団監獄を訪ねたとき、張捕吏が最初に口にしたあの言葉、あの態度であった。わたしはこみあげる憤りを抑え、民生団に入ったというのなら、どうして入ったのかみんなの前でくわしく話してみろ、と言った。彼はとぎれとぎれに、自白書と陳述書に記されているとおりのことを話した。民生団に入った経過を述べる李斗洙の話はつじつまが合っており、疑いをはさむ余地は微塵もなかった。民生団の嫌疑者たちは、ひとしく自分の罪を認めた。わたしは辛抱強く再び李斗洙に尋ねた。

 「きみは、日本人の犬のために借金を背負い、家も失い、故郷も失った。その犬は、きみの生身をかみちぎっただけでなく、10人を越す家族の暮らしまで破産させ、踏みにじってしまった。日本人の犬のために、きみは犬にも劣る身の上になった。そういうきみが、いまになって、みずから敵の懐に飛びこみ、同胞と同志をかみ殺す狂犬の役をつとめているということになるが、果たしてそうなのか? 敵から残飯ももらえないきみが、敵の犬になったというのは本当なのか?」

 李斗洙は、涙をこぼすだけで、なにも言わなかった。唇をかんだまま、肩を震わせてむせび泣くばかりだった。息が詰まりそうな沈黙が長くつづいた。わたしは、呪わしい丸太小屋を出た。新鮮な空気がしだいに息苦しい胸をさっぱりとさせ、うっ気も振り払ってくれた。もやもやしていた頭もすっきりしてきた。

 民生団嫌疑者との対話を通じて、わたしは理解しがたいことを発見した。拷問の場に引き出されたわれわれの闘士のほとんどは、中世の宗教裁判をほうふつさせる残酷な刑罰に処されながらも、「知らない!」の一言で自分がしたこともしていないと言い張ったものである。こうした毅然とした態度は死刑を宣告されてもゆるがなかった。ところが、同じ共産主義者の前では、していないこともしたと言い、違うこともそうだと陳述しているのだから、これをどう解せばよいのか、ということである。わたしは林の中を歩きながら、民生団嫌疑者が自殺行為にひとしい陳述をする理由がどこにあるのかを考えてみた。彼らが民生団に加担しなかったということは明々白々である。にもかかわらず、なぜ彼らは民生団に入ったと「自白」し、策動したとして、みずから罪をかぶろうとするのか? 嘎呀河村の朴昌吉少年も、馬村の張捕吏も偽りの陳述を事実だと言い張った。こうした奇怪な現象がどうして生じるのだろうか? 民生団嫌疑者という罠にかかった当初は、みな自分が民生団に入ってはいないと正直に話した。ところが、その真情の吐露が彼らにもっと大きな禍をもたらした。まことは作為、真情は欺瞞、率直さは狡猾さとみなされたのである。真実の告白を反復するほど仮想の罪状はますます重大なものになり、拷問はそれに正比例して度を増した。野蛮な拷問と煩悩が極限に達すれば、どんな異変が生じるだろうか?
数年間、同じ屋根の下で苦楽をともにしてきた革命同志の不信を買って迫害されるくらいなら、ことさら生きてなんになるのか、生き延びるには、銃を捨てて山を降り帰順文書に判を押すか、敵の手先になる以外にないが、いやしくも共産主義者ともあろう者にそんな背信行為ができるわけはない、処分にまかせるのが上策だ、といった自暴自棄に陥りかねない。

 同じ目的のために戦う同志から受けるいわれなき誤解と不信、これこそ100余名のパルチザン隊員を絶望と自暴自棄に追いやった根源であったのである。金銭や利潤追求の見地からではなく、理念の共通性によって、思想的、道義的に結ばれた革命家の集団において、信頼は統一団結と発展を保障する第一の生命といえる。集団の各人は、信頼にもとづいて同志を愛し、信頼にもとづいて上級が下級をいたわり、下級が上級を敬う共産主義的道義が集団を支配するようになるのである。

 朝鮮の革命家にとって、信頼は過去と現在と未来を貫通する共産主義的人間関係の原点となっている。われわれは、過去にも信頼という武器によって同志を獲得し、人民を団結させたのであり、現在もやはり愛と信頼という強力な手段によって社会の一心団結をかたく維持しているのである。集団主義にもとづくわれわれの社会において、信頼は社会を支える強固な基礎となっている。組織と同志から信頼されるとき、わが国の党員と勤労者は最大の誇りを感じる。しかし、組織が自分を信頼せず、同志が自分を遠ざけていると感じるときには、それを最悪の苦痛として受けとめる。わたしが幹部に会うたびに、対人活動に力を入れるようにと強調しているのはそのためである。

 資本家は金なしには生きていけないが、共産主義者は信頼なくしては生きていけない。わが国において信頼は、社会関係の総体、集団主義の存在方式となっている。組織と同志から自分が信頼されていると思う人は、党と祖国のために底知れない力を発揮することができる。信頼は忠臣を生み、不信は逆賊を生む、という格言は、このような事理を説いたものではなかろうか。

 満州の地で間借りのような暮らしをしながら中国人民と共同闘争を展開していた抗日戦争の時期、われわれの隊伍で信頼の原理を破壊した民生団の調書包みが、ひたすら組織を信頼して革命に身を投じた闘士たちの生活に、どれほど大きな混乱と被害をもたらしたかは誰にも推測できることである。当時は、敵味方間に明確な境界線はなかった。峠を一つ越えても敵、川を一つ渡っても敵であった。信頼を失った人たちが、おまえたちだけで革命でもなんでも好きなようにやってみろ、と敵地に逃走してしまえばそれまでだった。罪のない革命同志に民生団のレッテルを張りつけるのは、彼らを敵陣に追いやるような妄動であった。絶望に陥った人たちを救いだす唯一の道は、不信の罠となっている民生団の嫌疑を晴らしてやり、その罠をきれいに取り除くことである。口だけでは、人びとの政治的生命を蘇生させることはできない。必要なのは、実際の行動のみであった。

 わたしは、林を抜けて再び丸太小屋に足を向けた。とある木の後ろから、突然一人の女性隊員があらわれた。背が高く、目もとのすずしい端麗な女性だった。心のやさしそうな、その顔は涙に濡れていた。

 「将軍、わたしは民生団ではありません!」

 女性隊員が発したその一言は、わたしに言い知れぬ喜びを与えた。

 「わたしは、民生団の嫌疑者と結婚したという理由で民生団にされました。でも、彼は民生団ではありません。もちろん、わたしも民生団ではありません。わたしたちがどうして日本人のスパイになれるというのでしょうか。わたしも張哲九オモニも、夫のために民生団の濡衣を着せられたのです」

 この勇敢な女性隊員が後日、撫松県城戦闘で6人もの敵兵を刺殺して「女将軍」という別称とともに金の指輪の表彰にあずかった金確実である。火田民の娘であった彼女は、車廠子で遊撃闘争に参加した。車廠子遊撃区の東南岔の樹林の中には朴永純を責任者とする武器修理所と朴洙環を責任者とする裁縫隊が位置していたのだが、金確実は、そこで20余名の隊員の食事をまかなっていた。ある日、武器修理所で不慮の爆発事故が発生した。修理所の建物は一瞬にして煙と火炎に包まれた。民生団という汚名のために武装隊伍から追放され武器修理所に来て働いていた姜渭竜という青年が、小銃弾の再生作業をしている最中に火薬が爆発して気を失った。そばにいた人たちも爆音に驚いて作業場から飛び出した危急な状況のなかで、火炎をくぐって修理所に飛びこみ負傷者を救い出したのは炊事隊員の金確実であった。姜渭竜の火傷はひどかった。だが、軍医は彼の顔面に消毒液をそそぎ、よじれた皮膚をはいでワセリンを塗り、包帯を巻くだけだった。そのあとは、金確実が看護婦の役を勤めた。蜜ろうを溶かし、それを紙にのばして傷口に張り、目やにを取ったり足を洗ってやったりした。こうして、まごころをつくして看護しているうちに、確実は姜渭竜を愛するようになり、姜渭竜も彼女を愛した。やがて二人のあいだには、結婚問題がもちあがった。しかし、2回にわたる暴発事故のために民生団の嫌疑をかけられた姜渭竜は、彼女に累が及ぶのを恐れて内密に婚約をしただけで、正式の結婚をためらった。朴永純と朴洙環は、ためらうことはない、いったん約束を交わしたからには早く結婚すべきだ、と二人にすすめた。それに、励まされた二人は車廠子人民革命政府へ行って結婚届をした。これが問題となった。粛反工作委員会は、民生団嫌疑者との結婚は、民生団の数を倍加させる反革命的な利敵行為であるとみなした。極左排他主義者は、結婚して半月にもみたないうちに金確実を姜渭竜から引き離し、そこから遠い王八子の方へ追放した。そして、組織生活にも参加させず、罪人扱いにしたうえ民生団嫌疑者のなかに入れてしまった。

 夫と引き離されてから9か月たったとき、金確実は姜渭竜が武器修理所とともに近くに来ていることを伝え聞いたが、゙亜範や金洪範の承認が得られず、夫との束の間の対面さえも果たせなかった。しばらくして姜渭竜は、゙亜範に連れられて、第2連隊と一緒に蛟河への遠征に発ってしまった。遠征隊には武器の修理ができる人がぜひ必要だという理由で、民生団の嫌疑者である姜渭竜を蛟河に同行させたのである。

 「姜同志が本当に民生団だったら、わたしは結婚はおろか火の中から救い出しもしなかったでしょう。彼は、敵の討伐で父と兄弟を虐殺された人です。戦闘でも勇敢でした。だから救国軍まで大衆審判の場で彼をかばってくれたくらいです」

 わたしは、金確実がこんな告白をしてくれたことがありがたかった。金確実は、張哲九と同様、愛情のために罪人にされたのである。わたしは、彼女を連れて丸太小屋に入った。彼らは、さっきと同じように首をうなだれたままであった。わたしは全員を見まわし、語気を強めて言った。

 「みなさん、顔を上げなさい。わたしは、きみたちの罪を追及し判決を下すために来たのではない。白頭山へ行ってともに戦う戦友を訪ねてきたのだ。わたしは、戦友を訪ね、革命同志を訪ねてきた。ところが、ここにいる人たちはみな、わたしの戦友になれない親日逆賊であり反動分子であると言っている。わたしは、それを信じることはできない。きみたちが民生団なら、日本人のところに行けばいいのであって、満足に食うことも着ることもできずに山で苦労する必要はない。家に帰って結婚し、温かいオンドル部屋で過ごし、農業でも営めば気楽なはずなのに、なんのために山で苦労するのか。きみたちが、自分の口で話してみたまえ。本当に、きみたちは日本帝国主義のために何年ものあいだ求めて苦労をしたのか。氷と雪に覆われた満州の広野で露を枕に野宿してきたのは、日本の犬となり肉親と同志を害するためだったのか。李斗洙同志、話してみたまえ。きみは、太ももをかみちぎったあの犬のような獣になりたくて苦労して戦ってきたのか?」

 わたしがこう言うと、李斗洙は涙声で叫んだ。

 「わたしが、わたしがどうして… 日本人の犬になれるでしょうか! 違います! わたしは日本人の犬ではありません! 民生団ではありません!」その瞬間、あちこちからいっせいに叫び声が上がった。「わたしも違います!」「わたしも違います!」室内はいつしか、ありもしない罪をでっちあげた者を糾弾し、「粛反」の名のもとに強いられてきた悲しみを訴える一種の集会と化した。誰もが拳を振り上げ、涙を流しながら、胸にうずまいていた思いを吐露した。集会が終わりかけたころ、わたしは、金洪範を呼び、民生団の調書包みを焼却する準備をするようにと指示した。金洪範は、飛び上がらんばかりに驚いた。

 「粛反工作委員会が作成した法的文書を承認も得ずに焼き捨てるというのですか? あれを焼却しては大変なことになります」

 金洪範は、武装隊伍に加わる前から党活動に専従してきた古参の政治活動家であった。彼は、延吉師範学校の出身であった。知識があり活動経験もあったが、創意に欠け、能動的に判断し処理することのできない欠点があった。

 「法のことをとやかく言うことはない。早く民生団の調書包みをもって来なさい。他人にできないことだからと、われわれがしてはならないという法はない」

 「組織の決定で手続きをへて作成された文書なのに、それを焼却するのを黙って見ていたのかと追及されたら、わたしはどうすればいいんですか? そのときは、将軍もここを発ったあとです。わたしはどう責任をとればいいんですか?」

 顔面蒼白になった金洪範は、足を震わせた。わたしは、彼を責めようとは思わなかった。事実、法的性格をおびた文書を一個人が勝手に焼却しても無事であったという話は、わたしも聞いていない。こんなことはありえないことに違いなかった。しかし、100余名の民生団嫌疑者に不当な疑念と絶望しか与えない、その罪悪の調書包みをきれいに焼き捨ててしまおうというわたしの決心はかたかった。わたしは、この決心がいかに危険千万なものであるかを十分承知していた。「粛反」運動を指導し尋問調書を作成した当事者でなければ処理できないことをわたしがやるというのは、実のところ冒険であった。必要とあらば、なんでも民生団の仕業とする強大な権限を有し、でっちあげをこととする「粛反」の下手人たちは、一枚の調書を焼却したという罪過だけでも、わたしに十分懲罰を下すことができた。彼らはそうすることによって、反民生団闘争の問題をコミンテルンにまで提訴したわたしに、いくらでも報復ができる人たちであった。わたしは、金山虎にその調書包みをもってこさせた。民生団の調書包みを焼却することにしたのは、じつに勇断であった。わたし一個人の命をなげうって100余名を救う道が開けるなら、どんなことでもする決意であった。調書包みを焼却する準備を終え、集会を締めくくるとき、わたしはこう話した。

 「ここで、きみたちのうち誰が民生団で誰がそうでないと結論を下すのはむずかしい。なぜなら、誰一人それを証明することができないからだ。しかし、わたしがいまはっきり言えるのは、ここには民生団が一人もいないということだ。それは、きみたち自身が民生団でないと言っているからだ。わたしは、きみたちの言葉を信じる。きみたちは、この瞬間から白紙にもどり、再出発するのだということを知るべきだ。汚らわしい過去はもはや存在しない。だが、きみたちの革命家としての真価は過去によってではなく、実際の行動によって決まるということを銘記すべきだ。きみたち、みんなには、いま人生の白紙が配られた。その白紙にどれほど貴い生と闘争の記録が残されるかは、もっぱらきみたち自身にかかっている。全員が再出発し、祖国と人民と歴史に誇りうる闘争行跡をその白紙に記すものと信じる。わたしはこの瞬間から、きみたちをあれほど苦しめてきた民生団の嫌疑が完全に晴れたことを言明すると同時に、きみたち全員が朝鮮人民革命軍主力部隊の隊伍に加わったことを宣言する」

 わたしは民生団嫌疑者とされていた人のなかから何人かを選び、調書包みを庭の真ん中に積み上げさせて火をつけた。その調書包みに火をつけながら、民生団嫌疑者の不名誉な過去だけでなく、あらゆる悪行の精神的根源となる人間憎悪観、人間不信観を永久に焼き払ってしまいたいと思った。

 半世紀以上もの歳月が流れたいまでも、民生団の調書包みを焼き捨てたことがなお忘れられないのは、たぶん火をつけたときに心の中で祈ったことが、あまりにも大きく深刻なものであったからであろう。調書包みが炎に包まれると、隊員たちは声をあげて泣いた。炎を見つめながら涙にむせんだ人びとは、わたしの気持ちをわかってくれたのである。そこにいた人はみな、新しい人間に生まれ変わった。隊伍には、心から信じ合い、助け合い、愛し合う新しい気風が生まれた。ひいては、金洪範まで別人のようになった。翌日、わたしは休息を兼ねて狩りをすることにしたが、それを知った金洪範は護身用として隠しておいた100余発の小銃弾を彼らの前に差し出した。彼が、前日まで囚人のように扱っていた人たちに、護身用の銃弾を全部与えるというのは、大異変といわざるをえなかった。彼らには、棒切れほどの役しか果たせない套筒(旧式小銃の一種)のような武器と、湿気と錆のために使いものにならない3、4発の銃弾しか与えられていなかった。そのため、彼らの薬きょうには木製のにせ弾丸が詰めこまれていた。まともな武器と銃弾を与えては、彼らを疑い迫害していた自分たちにどんな報復が加えられるかわからないと思っていたからであろう。

 わずかな灰になって残った民生団の調書の跡を見下ろしながら物思いに沈んでいた金洪範は、わたしにこう言った。

 「きのう将軍が火をつけるとき、わたしは怖くなってそっと立ち去りました。焼却現場に居合わせたという理由だけでも、違法大罪の共謀者にされて首が飛ぶと思ったのです」

 「では、いまは怖くないんですか?」

 「善行を支持して命を失うのは光栄なことだと考えると、恐怖心がなくなりました」

 「そう考えてくれるならありがたい」

 「いいえ、ありがたいのはわたしの方です。将軍は、わたしまで新しい人間に生まれ変わらせてくれました。わたしの恩人にもなってくれたわけです」

 そこまで言われるとばつが悪かった。金洪範は、わたしより年上だったのである。

 「若い者をおだてるのはやめてください」

 わたしがこう言うと、彼はかぶりを振った。

 「いや、そうじゃありません。将軍のその度量と肝の太さが本当にうらやましいかぎりです。お世辞をいっているのではありません」

 「おだてるのはそれくらいにして、きょうは一緒に狩りをしませんか?」

 金洪範は、晴れやかな気分でわたしの誘いに応じた。その日の狩りは、じつに愉快なものであった。わたしは、護衛兵の銃を全部彼らに持たせ、そのまともな銃で1発ずつ撃たせてやった。その日は、勢子が多かったおかげで、7、8頭もの猪とノロ鹿をしとめることができた。女性隊員のなかでは、金確実がノロ鹿を1発でしとめ、断然、頭角をあらわした。その日は、獲物の肉と少し残っていた粒トウモロコシと小麦粉で、盛りだくさんの夕食をととのえさせた。夕食がすんだあとは娯楽会も催した。馬鞍山の参圃密営のさびれた丸太小屋でのその日の夕食会と娯楽会は質素なものであったが、じつに深い意味をもっていた。

 第2連隊を母体として編制しようとした最初の計画とは違って、新しい師団はこのように、罪悪にみちた不信の文書を一握りの灰にした炎の中から生まれたのである。

 民生団の調書包みが焼き捨てられ、新しい師団が誕生したといううわさはまたたくまに四方に広まった。そのうわさを聞いて、あちこちに隠れていた人たちがわれわれを訪ねてきた。真っ先に訪ねてきたのは、大廠の谷間に隠れていたという和竜出身の反日自衛隊員たちであった。彼らのなかには後日、司令部の伝令兵となった白鶴林や「ウグイス」で通っていた金恵順もいた。朴禄金(本名朴永姫)がやってきたのもこのころである。彼女は、新師団に暫定的に設けられた初の女性中隊の中隊長になった。撫松県老母頂子では、腸チフスで苦しんでいた青年たちが新師団に編入された。彼らで1個小隊を編制し、金正弼を小隊長に任命した。安図県五道揚岔付近の樹林地帯で活動していた金周賢たちも訪ねてきた。車廠子方面からは、金沢環の小部隊が駆けつけてきた。

 わたしは、正式に連隊と中隊を編制した。「あわて者」というあだなで呼ばれていた李東学と金沢環はそれぞれ中隊長の職務につかせ、金周賢には政治指導員の役をまかせた。主力部隊の連隊政治委員になった金山虎は、それ以来いつも笑顔を絶やしたことがなかった。馬鞍山に到着したときは15、6名にすぎなかった隊伍が、東崗にいたっては数百名に増えた。

 われわれは、新たに編制した主力部隊の武装を改善するたたかいを積極的に展開した。民生団嫌疑者の武器のほとんどが套筒であったことは前にも述べた。わたしは、10〜15名規模のグループを組織して責任者を任命し、自力で戦う準備をととのえるようにした。わたしは彼らに、これから1か月のあいだに銃弾を補い、銃も取り替えてこい、銃は日本軍にいくらでもある、林の中で敵を待ち伏せ、銃剣や銃器を利用して武器を奪うのだと言った。当時、彼らはみな銃剣を1本ずつ腰に下げていた。彼らは1か月とたたず、半月の内に全員帰ってきたが、銃弾も補い、銃も新しいものを携えていた。なかには、機関銃を奪ってきた隊員もいた。わたしは、彼らを根幹にして連隊を編制し、その後はこの経験を生かして隊員を一人ひとり増やし、第6師と第2方面軍も編制して日本軍と戦ったのである。

 われわれが主力部隊の武装を一挙に改善することができたのは、西南岔を討った後の西崗戦闘によってである。この戦闘の目的の一つは、部隊の武装を一新することにあった。西崗には、1個連隊の満州国軍が駐屯していた。この連隊の完備された武装にわれわれの食指が動いたのである。交通の不便な奥まった地域であるうえに、周辺はうっそうとした樹海をなしていたので、不意打ちには有利であった。敵もこの弱点を考慮に入れ、兵営の周辺に大木を使って背丈の3倍ほどの「城壁」をめぐらし、その4隅には砲台も構築していた。正面攻撃で城内に突入するのは困難なので、火攻めで敵陣を混乱に陥れ、敵を威圧して降伏させる戦術をとった。敵の兵営は、完全な木造建築だったからである。

 日が暮れてから、わたしは金沢竜をはじめ手榴弾投擲の名手たちに、石油にひたした綿のかたまりに火をつけて兵営の屋根に投げさせた。初夏の小雨が降ったあとだったので、すぐには火がつかなかったが、火攻めは成功した。隊員たちは機を逸せず、降参すれば命は助けてやるから銃を捨てて出てこい、と呼号した。しかし、敵は頑強な防御戦の構えでこれにこたえた。わたしは数名の隊員を敵の砲台にいちばん近い民家に送り、その家の台所から砲台の地下に通ずるトンネルを掘らせた。一方、偵察兵に満州国軍連隊長の義母を連れてこさせた。わたしはその老婆に、婿が無謀な抵抗をやめて武器を差し出すよう説得してもらいたいと言った。老婆は二つ返事で城内に入り、婿の手紙をもってきた。満州国軍の連隊長は、隊員の半数を連れて撫松へ行かせてくれるなら投降してもよいというのである。わたしはその申入れを一蹴し、無条件降伏を要求した。再び婿に会ってきた老婆は、婿が連れていく人員をいくらか減らす用意があることを伝えた。連隊長は、談判を引き延ばし、応援が来るのを待つつもりに違いなかった。砲台を爆破するための坑道掘削作業は、すでに半ば以上進んでいた。わたしは、老婆に坑道と爆薬を見せ、投降要求に応じなければ砲台を爆破するという最後通牒を婿に伝えるようにと言った。三たび城内に入った老婆は、笑みをたたえてわたしのところにもどってきた。婿が護衛兵を2人だけ連れて行かせてくれと言っているとのことであった。わたしはその要求を受け入れた。連隊長は、部下を全員整列させ、武装を解除して一か所に集めた後、護衛兵を二人連れてそそくさと北門から抜け出した。その武器は、そっくりわれわれのものになった。新しい師団を編制しなかったなら、撫松県城のような大きな城市を思いどおり攻撃することはできなかったであろうし、その後、鴨緑江と白頭山の周辺であいついで凱歌をあげることもできなかったであろう。

 当初の思惑に反して、第2連隊は、新しい師団の誕生のためにはもちろんのこと、その成長にもなんら寄与することができなかった。馬鞍山で引き取ることになっていた第2連隊がわれわれのところに来たのは、それから半年以上もたって白頭山に進出して居をかまえた時分だった。それは、すでに主力師団の格好がととのったのちのことである。到着が遅すぎたという感はあったが、なによりもうれしかったのは、呉仲洽、権永壁、金平をはじめ、以前からの親しい戦友たちとまた起居をともにするようになったことであった。姜渭竜も元気な体で無事に新師団を訪ねてきた。金確実の心の片隅に残った最後の傷跡をいやしてやれると思うと、心が安まった。

 彼らが到着した翌日、わたしは姜渭竜に会った。

 「金確実はきみの妻だと聞いたが…」

 背が高い彼は、耳たぶまで赤くした。自分に妻があるのを認めるのがてれくさかったのであろう。

 「確実同志はここから数里離れた横山方面の後方密営裁縫隊にいる。そこへ行って彼女に会いたまえ。わたしがいますぐ道案内を付けてやる」

 彼はもじもじしていたが、きまり悪げに笑いながら後日ゆっくり会うことにすると言った。

 「彼女に連絡してここに呼ぶと時間が倍もかかるだろうから、きみがいますぐ行くほうがよいだろう」

 「会うのはゆっくりでかまいません」

 姜渭竜の煮えきらない態度は、わたしをいらだたせた。

 「きみはそれでいいかも知れないが、きみのために金確実同志がやせほそるのを黙って見ておれないのだ。なにも言わずにすぐ発ちたまえ」

 わたしがこう言ってもなおうつむいていた彼は、やがて涙ぐんだ顔でわたしを見つめ、「しかし、配属もまだ決まっていないのにどうして先に妻に会えるというのですか。革命を志して銃をとった以上、革命の任務が先ではありませんか」と言って聞き入れなかった。

 わたしは、なにか口実をつくってやろうと考えた。

 「ではきみに任務を与えよう。第2連隊と一緒に来た女性隊員を連れて裁縫隊に行き、冬期用の綿入れ軍服をつくるのだ。それが全部できあがる前に帰ってきたら処罰するから、そのつもりでいたまえ」

 わたしがこう言うと、姜渭竜は言葉に窮し、命令どおりにすると答えた。極左排他主義者によって長いあいだ引き裂かれていた2人の感激的な対面はこうして果たされた。

 馬鞍山での民生団の調書包みの焼却は、新しい人間の誕生、新しい師団の誕生をもたらしただけでなく、愛情の復活、新しい愛情の誕生をもたらしたのである。人びとを信頼したがゆえに、われわれは天下を得たわけである。

 われわれの革命隊伍において朝鮮革命の指導的中核にたいする絶対的かつ無条件的な忠誠が普遍化し、その指導的中核を中心とする真の思想的・道義的団結が闘争の過程でいちだんと強化されたのは、このような信頼のたまものであったといえる。われわれの一心団結の歴史的根源は、朝鮮人民革命軍の主力部隊の誕生とともに、信頼と愛情をそそぎ、徳をほどこす過程で、なにをもってしても打ち破りがたいものとして、朝鮮の共産主義者の心のなかに深く根をおろすようになった。

 馬鞍山にいた100余名の民生団嫌疑者は、最期の瞬間まで革命に忠実であったし、時代と歴史の前に一点の汚れもない清らかな良心と祖国愛に燃える赤誠をささげた。彼らは、祖国の解放革命史に永遠に輝く貴い闘争業績を残したのである。



 


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