金日成主席『回顧録 世紀とともに』

5 百戦の老将 崔賢


 南湖頭から白頭山に向かう路程のなかで、われわれがめざす重要な目的地の一つは、敦化―安図県境の牡丹嶺山脈に位置する人民革命軍独立第一師の後方密営基地―迷魂陣であった。大小さまざまな密営が千里樹海の中に散在しているこの奥深い大密営地区で、わたしは王徳泰、魏拯民をはじめ第2軍の主な指揮官たちとともに、南湖頭会議の方針を貫徹する一連の対策を討議する計画だった。1、2度来たことのある人でさえ、方向を見失って立ち往生してしまうという深山幽谷の迷魂陣、峰々や谷間のなりたちがあまりにもよく似ていて、はじめての人は誰でも皆目見当のつかない混迷の世界に迷い込んでしまうというのだから、この千古の森林地帯を迷魂陣と名付けた先人の明知には感嘆せざるをえない。

 われわれも、はじめは密営をすぐ探し当てることができず、右往左往した。幸いに、牛心頂子で朴成哲(パクソンチョル)の所属する独立第1師第1連隊第1中隊の隊員たちに会ったので、彼らに迷魂陣までの道案内を頼むことにした。ところが、彼らはわたしの頼みを聞き入れようとしなかった。その迷魂陣はいま、腸チフスが蔓延し、熱病患者が数十名も寝込んでいて感染区域になっているから、そんな所へ幹部たちを案内しては身辺の安全が保障できないというのだった。

 「患者のなかからは、すでに死者も相当出ているそうです。そういう所に将軍を案内するような冒険はできません」

 彼らは道案内をきっぱり断った。当時、人民革命軍では、伝染病のために多くの損失をこうむっていた。遊撃区があったときから発生した発疹チフスと腸チフスは、遊撃区を解散した後も、影のようにわれわれの隊伍にまとわりついて、千金にも替えがたい生命を容赦なく奪い去っていった。これは、人民革命軍の戦闘力を弱める恐ろしい禍根となっていた。

 「腸チフスも、人間の体に生じるものであるから、人間がいくらでも処理できるものだ。人間が伝染病を征服するのであって、まさか、伝染病が人間を滅亡させることはあるまい。だからそんなに怖がることはない。きみたちは、その腸チフスをうちかちがたい病気のように思い込んでいるようだ」

 わたしはこう言って伝染病にたいする恐怖症をたしなめてみたが、彼らは依然として腸チフスの危険性を力説し、迷魂陣には行ってはいけないと言い張った。

 「人間が伝染病を征服するとはとんでもないことです。あの病気には強者も弱者もありません。どんな人間でもヘビににらまれたカエルのようなもんです。あの強健な崔賢(チェヒョン)中隊長でさえ腸チフスで何週間も寝込んでいるくらいです」

 「なに、あの鋼鉄のつわものが伝染病にやられたというのか。彼が腸チフスで苦しんでいると知っては、なおさら行かなくてはならない。わたしが牛心頂子まで来て、伝染病が怖くて迷魂陣には立ち寄らずに白頭山へ向かったと知ったら、彼がどんなに落胆することか。きみたちはわたしのことを心配しているが、わたしはすでに汪清で熱病を患ったことがある。免疫になっているはずだから、感染を気づかうことはない」

 第1中隊の指揮官たちは、それを聞いてやっと、道案内兼護衛として1個小隊ほどの人員をわれわれにつけてくれながら、迷魂陣に着いても熱病患者の病室には絶対に近づかないようにと念を押した。

 率直に言って、わたしはそのとき崔賢が熱病に冒されたと聞いて心配でならなかった。口でこそ、腸チフスも人間が征服できる病気だとは言ったものの、実際のところそれは戦慄すべき疾病であった。その呪うべき疾患が、革命軍の指揮官だからと手加減してくれるはずはなかった。崔賢のような性急な男には、かえって万病がたち悪く襲いかかり猛威をふるうものである。病気は万人をひとしく冒しながらも、往々にしてせっかちで忍耐力に欠けた人には、より多くの不幸をもたらすものだ。大事な戦友の生命が危険にさらされていると思うと、瞬時も気を休めることができなかった。

 「金司令、なにをそんなに考え込んでいるんですか。崔賢のことが心配なのではありませんか?」

 わたしが沈うつな表情で黙々と歩いているのを見た王徳泰がこう尋ねた。彼は社交性に乏しく口数も少ない無愛想な軍事指揮官ではあったが、人情の機微を的確に読み取るうえでは驚くほど繊細なところがあった。

 「そうなんです。しかし、どうしてわかりましたか?」

 彼が沈黙を破ってくれたのがありがたかった。人間が口をつぐんでいるときは、さまざまな雑念にとらわれがちであるからだ。

 「それは簡単なことですよ。金司令が、この王徳泰と一緒にいながら沈黙を守っているのは、人の運命について深刻に考えている証拠ですよ」

 「そのとおりです。さっきからずっと崔賢のことばかり考えていました。彼が無事であればよいのですが、病状がどの程度なのか、不安でなりません」

 「ご安心なさい。崔賢は必ず病気にうちかつと思います。彼は意志の強い人ですから」

 「そうでしょうか。そうであれば、どんなにいいでしょう!」

 「そうしてみると、崔賢という人はまったくの幸せ者ですね。人の夢のなかに自分があらわれ、人の記憶のなかに自分がとどまり、人の関心のなかに自分が生きているということ… これこそ、本当の幸せというものじゃありませんか!」

 王徳泰の素朴ながらも含蓄のある見識にわたしはいたく感動した。わたしは、王軍長の見解に心からの共感を覚えた。

 「なるほど、意味深長な話ですね。しかし、わたしはまだ一度もそのような考え方をしたことはありません」

 「おそらく、崔賢も今ごろは金司令のことを思っているはずです。彼が日ごろからどんなに金司令を慕っていたか、まったく嫉妬を覚えるほどでしたよ。わたしの記憶に違いがなければ、金司令と崔賢との出会いは、一度しかなかったはずなのに、どうしてそんなに深い友情を結ぶようになったのですか?」

 「それはわたしにもよく説明できません。2晩一緒に過ごしただけなのに、十年の知己になってしまいました。そのあいだに、わたしは彼にぞっこん惚れこんでしまいました。片思いということになるのかも知れないが…」

 「はっはっは、片思いではありませんよ。崔賢も馬村の風にあたってからは、いつも金司令の話ばかりしていましたよ」

 崔賢が馬村の風にあたったというのは、彼が小汪清の馬村に来てわたしに会ったということである。わたしと崔賢との最初の出会いについては、『抗日パルチザン参加者の回想記』を通してすでに紹介されており、この回顧録の第3巻にも簡単にふれておいた。

 われわれの出会いのきっかけになったのが、東寧県城戦闘であったことは周知のとおりである。連絡員の手落ちで参戦命令が即刻伝達されず、崔賢が馬村まで駆けつけてきたときは、東寧県城戦闘が終わったあとだった。崔賢は口惜しさのあまり地団駄を踏んだ。そして、例の連絡員の名を指してあたり散らしてから、気が少ししずまるとわたしに聞いた。

 「汪清や琿春の隊員たちも参加し、救国軍の連中までみな参戦したというのに、ひとり、延吉のこのできそこないだけが、東寧県城の門前にも行けずに尻もちばかりついていたんですから、腹が煮えくり返ってたまりません。金日成隊長殿、ほかを攻撃する計画はありませんか?」

 「若い者に向かって、その殿づけだけは止めてください。ただ、金日成と呼んでください」

 こう言ってわたしが謙遜すると、全身に火薬の臭いの染みついたこのつわものは、一瞬表情をかたくした。

 「年の差がなんだというのですか。わたしは、とうの昔から、心のなかで金隊長を朝鮮軍隊の上座に仰いでいたのです。ですから、敬称をつけるのは当然のことです」

 「いいえ、若い者をそのようにおだてると、傲慢になりのぼせあがってしまいます。あなたがなおそんなふうにおだてあげようとするなら、もう二度と相手にしません」

 「これはまいった。わたしも強情だが、金隊長も一筋縄ではいきませんね。よろしいです。金隊長がお望みなら、これからは呼び捨てにしましょう」

 それ以来、崔賢は言葉づかいを改めた。彼は、やるといえばどこまでもやり、やらぬといえばあくまでやらない典型的な武人気質の男だった。その後、彼がわたしにたいして敬語を使ったのは、ただ公式の席のみであった。2人のあいだのわずらわしい儀礼や格式が取り払われることによって、われわれの友情には真実さと清新さが倍増するようになった。

 海の底から真珠を採取するように、一人ひとり苦労して選んだ同志がわれわれの革命の「黄金」となり、革命を拡大し高揚させる不可欠の推進力になっていたその時期に、崔賢のような偉丈夫を同行者として得たことは、まさしくわたしの生涯において特記すべき出来事であり幸運であった。

 馬村での出会いは、はじめからわたしに大きな満足感を与えた。最初の出会いにしては衝撃があまりにも強く深いものだった。ところで不思議なのは、初対面の崔賢が、なぜか旧知のように感じられることだった。声も聞きなれているようであり、その容貌や物腰までが、とてもよく見なれているような気がした。ひいては、以前この武人と対座して抗日を論じ、救国を語り合ったことがあるような気さえするのである。崔賢が旧知のように感じられたのは、おそらく、彼の身にそなわっているすべてのものが、わたしがそれまで頭のなかに描きつづけ、一つの形象として完成させた典型的な武人のモデルに近かったこともあるが、すでに間島で崔賢にかんするさまざまなエピソードになじんでいたせいであろう。

 崔賢は、亡国の悲運が絶頂に達しようとしていた1907年、黄土大地の異境間島で呱々の声をあげた。1907年といえば、わが民族史に恥辱の記録を数多く残した悲痛な、多事多難の年であった。李儁(リジュン)がハーグで割腹自決したのも、高宗(コジョン)の退位と朝鮮軍隊の解散が宣布されたのも、「丁未7条約」の締結と「次官政治」の強行によりわが国の内政権がすべて日本帝国主義者の手中におさまったのも、まさしく、この年であった。未曾有の破壊力をもった経済恐慌の波がすさまじく押し寄せる間島で、崔賢の父母は新しい生命の将来を憂えて不安におののいた。「韓日併合」と3.1民蜂起、庚申年の間島大討伐などは、幼い崔賢の血をたぎらせる劇的な出来事であった。

 その絶望的な暗黒時代に、一縷の望みとなったものがあるとすれば、それは間島の一角で武力抗争に腐心していた独立軍の存在であった。洪範図(ホンボムド)、任秉国(イムビョングク)は、彼にとって先輩であり教師であった。崔賢の幼少期は、勇敢で不屈なこの老将たちの活動と切り離しがたく密接につながっていた。彼はこの老将たちから、射撃術も乗馬術も習った。洪範図の下で独立軍の活動に参加していた父親の崔化心(チェホヮシム)は、崔賢が11歳になるときから文書連絡の仕事をさせた。崔賢はその年に、父から一挺の拳銃を授けられた。

 庚申年の大虐殺事件は、朝鮮同胞の多く住む間島のいたるところに血なまぐさい痕跡を残した。崔賢も、その討伐によって母を失った。彼は父と一緒に、任秉国の部隊に従って沿海州に渡って行った。土地柄も、人も、言葉もなじまなかったが、一生を日本帝国主義とのたたかいにささげようという崔賢の決心はゆるぎないものだった。任秉国隊長は、彼を連絡兵に任命し、配下の1支隊に派遣した。乗馬術にたけた崔賢は、馬を駆って支隊と本部との連絡任務を忠実に果たした。当年わずか13歳のあどけない少年が馬で広野を疾駆するときは、ロシア人まで驚嘆と羨望のまなざしで眺めた。

 ある日、文書連絡の任務をおびた彼は、馬で3人の同僚と一緒に雨あられと降りそそぐ弾幕をついて最前線へ突進して行ったことがある。一行中の3人は敵弾に倒れ、崔賢も腕を負傷したが、それをかえりみようともせず、弾雨の中を果敢に突っ走り本部への連絡任務を果たした。任秉国は崔賢の腕に包帯を巻いてやりながら、「独立軍の将軍たるべき逸材」と彼を誉めそやした。

 その独立軍部隊が敗れ、間島に帰ってきた崔賢は、後年の独立連隊長である尹昌範(ユンチャンボム)の紹介で東満青総に加入した。東満青総時代は、崔賢が民族主義運動から共産主義運動へと方向転換をした時期であったといえよう。この方向転換の過程は、彼の延吉監獄での7年余の獄中生活の時期に促進された。中国の反動軍閥当局は、1925年、不意に彼を逮捕し、義援金募集事件に連座させ無期懲役という途方もない重刑を宣言した。

 5.30暴動と秋収・春慌闘争の波が過ぎ去った後の延吉監獄は、この闘争の先頭に立って大衆を導いた間島革命の先覚者や愛国者であふれていた。自由を束縛されていながらも、昂然と胸を張って生きぬく生気はつらつとしたこのロマンチストたちの小社会は、崔賢の成長に決定的な影響を及ぼした学校であり溶鉱炉であった。彼はこの監獄で、獄内地下組織の反帝同盟に加入し、赤衛隊にも入隊した。苦難にみちた獄中生活は、独立軍時代の元連絡兵を、ついに民族主義者から共産主義者へと完全に改造してしまったのである。

 軍閥当局が吉林第4監獄と呼んでいた延吉監獄で崔賢によって創出され、彼自身が主人公として登場する獄中のエピソードや冒険談は、東満州地域の各遊撃区に広く知れ渡った。

 崔賢の獄中生活はまず、監房の帝王と呼ばれる「カントゥル(牢名主)」との対決からはじまった。彼が収容された監房の「カントゥル」は、囚人たちをむごくいびる強盗殺人犯だった。新入りの囚人が監房に入ってくるたびに彼は、その持ち物を全部奪い取ってしまった。食べ物が入ってくると、人の分まで取り上げて自分の腹を肥やしていた。

 「カントゥル」の性根を叩き直すことに決めた崔賢は、ある日、高級タバコの「カール」を一本口にくわえると、他の囚人たちにも一本ずつ分けてやった。だが、「カントゥル」だけにはわざと勧めなかった。これは「カントゥル」をいらだたせる無言の挑戦だった。つむじを曲げた「カントゥル」は、崔賢に向かって持ち物を全部納めろと脅した。崔賢は、素知らぬ顔をして口一ぱいに吸い込んだタバコの煙をプカリプカリとくゆらした。堪忍袋の緒が切れた「カントゥル」は、拳を振りあげて躍りかかった。瞬間、囚人たちの頭上を飛び越えた崔賢は、手錠がかかったままの2つの拳で、「カントゥル」の顔面を殴りつけ、大声で怒鳴った。

 「このたわけものめ! おれが誰だと思ってふざけた真似をするんだ! きさまは人殺しで入ってきた分際で、なんでかわいそうな兄弟たちをいじめるんだ。きさまみたいな悪党がどこにいる。きさまだって、おれたちと同じ平民の子じゃないか。今度だけは大目に見てやるが、これからは振舞いに気をつけろ。今日からは、きさまがあの便器のそばに行け。この上座はおれの場所にする」

 崔賢にはかなわないと思った「カントゥル」は、いわれるままに便器のそばに膝を立ててうずくまった。「カントゥル」の悪行から解放された囚人たちは、それ以来、崔賢を恩人のように慕ってなつくようになった。

 崔賢が無期懲役を言い渡されてまもないころ、軍閥当局は、大成中学校、東興中学校、永新中学校、永新女学校、恩真中学校など、竜井市内の多くの学校に監房見学を頻繁にやらせた。こういう方法で、思想団体や反日・反軍閥団体が続出し猛烈な活動を展開しているこの一帯の青少年学生の革命意識を除去し、闘争気勢を圧殺しようと企んだのである。崔賢は、全監房に連絡をとり、前もって水鉄砲を作らせて時の来るのを待った。そして、例の学生たちがやって来て監房を見まわりはじめたとき、囚人たちは引率者の反動教員や看守らをめがけていっせいに悪臭のする便器の汚水を浴びせながら罵倒した。

 「この野郎ども! なにを見せるつもりで学生をここまで引き連れて来たんだ!」

 不意打ちを食らった反動教員はあわてふためき、学生たちを連れて逃げ去ってしまった。監獄側は、首謀者を摘発しようと手をつくしたが、囚人がみな自分こそ責任者だと名乗り出る始末なので、どうすることもできなかった。

 崔賢は、延吉監獄内の製靴工場では製靴工を、石版印刷工場では植字工を、被服工場では高級洋服を仕立てる裁縫師を勤めた。のちには、木工場で大工もやり、理髪師にもなって、囚人はむろん看守や看守長、監獄長の髪もかったが、どこでなにをしても、自分をむやみに虐待したりさげすむ者には、それが誰であろうと容赦せず、懲罰を加えた。ある日、崔賢は机や椅子を作るのに使うクロツバラの木で将棋の駒を作ろうとして、獄内工場の監督に見つかり、ひどい仕置きを受けた。その監督は、囚人を殴るくらいのことはいつも平気でやっていた。憤激した崔賢は、組立て中の椅子の脚を抜きとると、監督をこっぴどく殴りつけた。監獄当局は、彼に1週間の営倉処罰を加えたが、それ以来監督は、囚人たちに2度と暴行を加えることがなかった。

 崔賢の獄内闘争のなかで異彩を放ったのは脱獄闘争である。彼は尹昌範らと一緒に、独立軍時代の上官であった任秉国やその他の革命家たちを脱獄させるのに成功した。正義のためならば焼身も辞さず、千尋の崖をも飛びおりるのが、ほかならぬ崔賢のもって生まれた気質であり、風浪のなかで培われた性格であった。

 出獄後、崔賢は、太陽帽赤衛隊に入隊し、試練にみちた闘争を通じて、共産党にも入党し、人民革命軍延吉遊撃隊の中隊政治指導員にまで成長した。馬村で崔賢に会うときまで、この名だたる猛者についてわたしが知っていたのはおよそ以上のようなことであった。

 「どうせこうなったからには、汪清に2日ほどとどまって、金隊長の話を聞いて行くことにしますよ。邪魔ではないでしょうね」

 初対面の挨拶が終わって、崔賢はこう言った。わたしは快く同意した。われわれは、夜の更けるのも知らずに一晩中語り合った。翌朝、歩哨隊から、敵が遊撃区に攻めてくるという合図が指揮部に届いた。わたしは、部隊を高地に配置し、山に登りながら崔賢に諒承を求めた。

 「ひと戦いくさして来るから、それまで宿所で少し待っていてください」

 崔賢はそれを聞くと、ゴムまりのように跳ね起きた。

 「せっかく獲物があらわれたというのに、宿所にいろとは殺生です! こんなときに金隊長について行かず、宿所でひとりポカンと待っているようでは、崔賢じゃありませんよ。天も今日はこの崔賢の気持ちをわかってくれたんです。金隊長の下で一度でいいから戦ってみたい。わたしも一緒に連れてってください!」

 「どうしてもと言うなら一緒に戦いましょう」

 崔賢は顔をほころばせ、わたしについて高地を登りはじめた。

 敵は、遊撃隊が待ち伏せている線にまでは突進せず、遠くの方でむやみに銃を撃っていたが、そのうち遊撃区人民の血と汗の染みた穀物の山に火をつけはじめた。

 わたしは、長距離狙撃戦で敵を残らず掃滅するよう遊撃隊員たちに命令し、崔賢に向かい「射撃の名手だと聞いていますが、一度、その手並みを拝見させてもらえませんか」と言った。崔賢はマレーシャン銃を手にとると、たいまつを持って穀物の山に駆け寄る敵兵を一発のもとに撃ち倒した。敵との距離は500メートルほどもあったが、彼は一発ごとに敵兵を1人ずつ撃ち倒していった。彼の射撃術は万人を感嘆させるほど見事なものだった。

 「東寧県城戦闘に参加できなかった恨みがこれで少しは晴れましたか?」

 戦闘が終わって崔賢にこう尋ねると、彼は舌打ちしながらかぶりを振った。

 「まあ、少々の気晴らしにはなりましたが、まだ物足りませんね」

 われわれはその夜も語り明かした。話題の中心になったのは、朝鮮革命の当面の課題とその遂行方途にかんする問題であった。わたしは、反日部隊との連合戦線の問題、反日民族統一戦線問題、新しい型の主体的な党の創立問題など、いくつかの重要な路線上の問題をとりあげ、彼と実践的な論議を重ねた。崔賢は話し合いの結果にたいへん満足した。

 「東寧県城戦闘に参加できなかった口惜しさが、これでいくらかやわらいだようです。東寧県にはついて行けなかったが、馬村に来てその腹いせを十分にして帰れることになったわけです」

 わたしは崔賢を見送るとき初の出会いの記念にと、東寧県城戦闘でろ獲した大台槓銃4挺と琥珀のパイプを贈った。以来、そのパイプは彼のもっとも愛用する所持品となった。

 戦局を左右する緊張した思索が求められるときは、彼の琥珀のパイプからきついタバコの煙がもくもくと立ち上るのがつねだった。崔賢の周辺には、そのパイプを欲しがる愛煙家が少なくなかった。ある者は腕力で、ある者は甘言で、またある者は物物交換の方法で手に入れようとした。もっと欲深い者は、彼が酒に酔っているときポケットからそっと抜き取ろうとまでした。このように、そのパイプを奪い取るのに手段と方法を選ばなかったが、その試みはみな失敗に終わった。

 解放後、党や政府の要職にいた愛煙家のなかには、「崔賢同志、そのパイプを口にくわえるとタバコの味が格別だというが、わたしにも一服吸わせてくれないか。『料金』はたっぷり払う」と、掛け合う人まであらわれた。頑固者の崔賢にはそういう駆け引きもまったく通じなかった。ただ一度、崔賢が羅津(ラジン)で休養していたとき、同じ休養客で親しくなった金翊善(キムイクソン)が一日かぎりという期限づきでそのパイプを借りるのに成功しただけだった。

 いまその琥珀のパイプは、朝鮮革命博物館に展示されている。博物館の職員たちは最初、崔賢にその趣旨を話せば、琥珀のパイプを簡単に収納できるものと思った。ところが、それは誤算だった。崔賢は職員たちの狙っているのが、自分が数十年間も宝物や黄金よりも大切にし愛用してきたパイプだと知ると目をむいて怒りだした。

 「なにがどうしたと? 崔賢の琥珀のパイプを博物館に展示するのだと? このパイプは、全人民の所有でなくてわしの個人所有なんじゃ! 金日成将軍がこの崔賢にくださったものであって、誰もかれもが見たりふれたりできる共同所有物ではないんじゃ! どうしてもというなら、かわりにわしのひげでも抜いていけ!」

 職員たちは崔賢のはげしいけんまくに驚いたが、それでもあきらめずに、何度も足を運んだ。そして、5度目にようやくこの頑固者の老将を説き伏せるのに成功した。数日前まで猛虎のように怒鳴っていた老将軍が、その日にかぎって別人のようになっていとも親切に客を迎え入れた。

 「今日からは、このパイプは崔賢の所有でなく、全人民の所有じゃよ… 最後に一服吸ってから渡すから、少し待ってくれ」

 崔賢は、巻きタバコを一本取り出してパイプに差し込み、マッチで火をつけた。そして、一服、一服たっぷり吸い込んでは、ゆっくりと宙にくゆらすのである。思いなしか老将軍の細い目は、遠い北の空の彼方を追っているようだった。その空の下には、われわれの初の出会いの歴史が刻まれた馬村もあれば、彼が40歳近くまでモーゼル拳銃を腰につけ、足首が痛むほど駆けまわったパルチザン時代のあの硝煙にけむる戦場もあるに違いなかった。

 わたしと崔賢を一つのきずなに結び、永遠の同行者としたあの運命の2泊3日は、文字どおり2人の友情の歴史にいかなる力や手段によっても断ち切ることのできない鉄壁のような万里の城を築きあげたのである。

 初対面を通して崔賢がわたしに残したもっとも強い印象は、彼がきわめて率直でざっくばらんな人間であるということである。彼は、見たままを話し、思ったとおりを表現する男だった。彼の思想と感情はつねに、ありのままに顔に表われた。こういう人には、嘘も、作りごとも、お世辞も通じないものである。崔賢の子どものような単純さは、はたの人の心までもきれいに浄化してくれる不思議な力をもっていた。その魅力に引かれて、彼には自分の心のうちをさらけださざるをえなかった。

 わたしは、迷魂陣密営に到着するやいなや、50余名の熱病患者が収容されている半洞窟式の病棟を訪ねた。その50余名のなかに、わたしがあれほど会いたがっていた崔賢がいるのだ。密営を守っていた給養係たちが病室の戸を開けながら金司令が来たと知らせると、崔賢はやっとの思いで床から起き上がり、戸口の方に這い出してきた。彼をひと目見た瞬間、わたしは唖然とした。馬村で刻みこんだ面影は跡形もなく、骨だらけのやつれた顔は見分けがつかないほど無惨に変わり果てていた。

 「金隊長、お願いです。入ってこないでください! ここに入ってきてはいけません!」

 彼が両手を横に振りながら火の出るような目でわたしを凝視するので、わたしは、しばし戸口に立ちすくんでしまった。

 「迷魂陣の人はこんなに薄情だというのか。崔賢に会いたくてこうしてやってきたのに、門前払いとはひどいではないか」

 わたしがこんな冗談口をたたいても、崔賢は頑として聞き入れなかった。

 「薄情だと言われてもやむをえんです! 金司令だって、ここが地獄の入口だということくらいは知っているでしょう!」

 「はっはっは、百かますもの弾丸を撃ちまくったという崔賢が、こんな弱虫とは思わなかったね」

 崔賢は自分の言葉では太刀打ちできないのを知ると、わたしを案内してきた給養係たちに悪態をついた。

 「このできそこないの唐変木め、ここがどこだと思って金司令を連れてくるんだ! 金司令にこんな扱いをするやつがどこにいるんだ!」

 度胆を抜かれた給養係たちは、姿をかくしてしまった。

 崔賢が怒鳴りちらしているあいだに、かまわず病室の中にすたすたと入っていった。

 「オノオレカンバの棒のようにがっしりしていた崔賢が腸チフスとはなにごとだね」

 わたしが枕もとに座りながら握手を求めると、崔賢はあわてて毛布の下に手を引っ込めた。

 「金司令、わたしの体には腸チフス菌がうようよしているんです。どうか、わたしの体にさわらないでください。伝染病の倉庫みたいなこの迷魂陣にいったいなにしに来たんですか?」

 「なにしに来たかって、崔賢に会いたかったからだ。世にも不思議なことがあるものだ。崔賢が伝染病にかかるとは」

 わたしは、毛布の下に手を差し込み、火だるまのような崔賢の手を強く握った。崔賢の目にまたたくまに涙がにじみでた。

 「金司令、ありがとう! たかがこの崔賢のために… わたしは金司令にも会えずにあの世へいくのではないかと思いましたよ」

 ついさっきまで、近寄るなと哀願していた彼が、いまはわたしの手をきつく握って放さなかった。そのときの崔賢は、子どもそのものであった。彼は第2次北満州遠征についていくつかの質問をしたのち、腸チフスによる被害状況を説明した。わたしは、崔賢の運命にかかわる一身上の問題に話題を転じた。

 「その間、民生団の濡衣を着せられて気苦労が多かったと聞いたが、それは事実ですか?」

 「事実です」

 崔賢は憂うつな表情でうなずくと、自分に民生団の嫌疑がかけられたいきさつを性急に語りだした。

 「金隊長は、馬村で統一戦線について多くのことを話してくれましたね。わたしは、その路線がまたとない名路線だと思いました。それで、延吉に帰ってから部隊で宣伝すると、王徳泰軍長までも、統一戦線がなくてはだめだと言うではありませんか。ところが、わたしは、その統一戦線のために民生団のレッテルを張られたのです」

 われわれが第1次北満州遠征の途についたのち、崔賢は中隊を引き連れて敦化県と樺甸県の境界地帯に進出し、遊撃活動区域を拡大する政治・軍事活動を活発に展開していた。この一帯で遊撃区域を拡大するための先決条件は、大荒溝の奥地にたむろする反日部隊との関係を正しく保っていくことだった。当時、大荒溝の谷間には、80名と100名程度の兵員を擁する2つの山林部隊(中国人反日武装隊の一つ)が駐屯していた。80名のほうの山林部隊は、傾向が非常によかった。パルチザンの工作員たちがその部隊に浸透し、反日宣伝工作をさかんにおこなったためだった。その山林部隊は、付近の自衛団とも好ましい関係を結んでいた。親日から反日へと帆を替えたこの地方の自衛団は、いろいろな形式と方法でその山林部隊を積極的に後援していた。しかし、100名のほうの山林部隊は、人民の財物の略奪に明け暮れていただけでなく、柳樹村の敵の軍警とも内通し、集団的な帰順の準備まで進めていた。抗日と投降・変節という、志を異にするこの2つの山林部隊の対立は、流血の武装衝突をもまねきかねない一触即発の危険をはらんでいた。投降を企図しているこの山林部隊をそのままにしておいては、他の山林部隊を抗日の道へ導くことも、彼らとの反日共同戦線を成立させることも不可能であった。

 崔賢は、2つの山林部隊の和議をはかるということで宴会を催した。投降をはかっていた100名のほうの山林部隊の指揮官たちも宴会に招待された。その指揮官たちが宴会場にあらわれると、崔賢中隊はまたたくまに彼らを武装解除した。だが、80名のほうの山林部隊には手出しをしなかった。その部隊と友好関係にあった自衛団にたいしてももちろん実力行使をしなかった。崔賢が自衛団を討たなかったのは、統一戦線路線の要求に合致する公明正大な処置であった。ところが、軍指揮部の政治主任をはじめ上級の極左分子らは、「敵を見て討たざるは、すなわち敵に投降するにひとしい」という論理で崔賢の正当な処置を犯罪視し、彼を政治指導員の地位から罷免し、愛用のモーゼル拳銃まで取り上げた。その処分があまりにも不当だったので、王徳泰までが「崔賢同志が民生団なら、われわれの第2軍で非民生団はいったい誰だ!」と叫んだほどである。崔賢は兵士に降格されたが、のちに王徳泰軍長のもとで1年間、軍指揮部の軍需処長を勤めた。そして1935年の末になって中隊長になった。

 「この崔賢は、金司令のおかげで助かったようなものです。大荒崴で金司令が命をかけてわたしらを擁護してくれなかったら、わたしは、いつまでも民生団扱いをされてモグラのように生きてきたはずです。金司令、教えてください。その自衛団を討たなかったのが果たして投降といえるのでしょうか!」

 崔賢は、がばっと起き上がり、食いいるようにわたしを見つめた。真剣そのものの彼の顔は急に真っ赤に上気した。わたしは、彼の手をあたたかく両手で包みながら首を横に振った。

 「それが、どうして投降になるというのだ。反日戦線のための正しい処置だというのに… あなたを民生団にして降格させたのはなんの名分もない不当きわまりないことです」

 「そうでしょう! いくらなんでもこの崔賢が、間違っても民生団になるはずはないではありませんか。べらぼうめ、考えただけでも、腹が煮えくり返る」

 「あなたのように民生団にされて処罰を受けたり、いわれもなく殺された人が数千名にもなることを思うと、胸が張り裂けそうです」

 「みんな嘘八百です。尹昌範や朴東根(パクトングン)のような革命家がどうして民生団だというんです。やつらは熱心に働き、勇敢に戦う人ばかりを選んで処刑しておきながら、大きな手柄でも立てたような面をしてのさばり歩いていたんです。そんなのが、共産主義なら、沿海州から間島に帰ってきはしなかったですよ」

 「反民生団闘争は、われわれの抗日闘争史に二度と繰り返されてはならない残酷な受難でした。どんなに多くの朝鮮共産主義者が無念の死を遂げたことか。幸いにもコミンテルンは、わたしが大荒崴会議で表明した立場が正当であり、これまで東満党が指導してきた反民生団闘争が極左的であったことを正式に指摘し、その収拾策を早急に立てるよう指示してきました」

 崔賢はそれを聞くと涙を流して喜んだ。

 「それが本当なら、わたしはこの場で万歳を唱えます。金司令、ありがとう!」

 「重要なのは、濡衣を着せられて死んだ戦友たちの恨みをどう晴らし、朝鮮革命がこうむった甚大な損失をどのように挽回するかということだと思う。そうではないだろうか」

 「そのとおりです! 金司令、わたしたちの力でその穴を埋めていきましょう。生き残った人間が種子になってです!」

 わたしは、崔賢の返事を聞いてすこぶる満足した。彼は、軍事だけでなく政治にも明るい指揮官であった。その後の数十年間の活動の過程で、彼が軍事のベテランであるだけでなく、一家言あるすぐれた政治活動家であることを確認した。彼は有能な軍事作戦家であると同時に、老練な政治活動家、洗練された煽動家でもあった。崔賢は、軍事外交にもたけており、敵軍切り崩し工作も巧みだった。彼が掌握した満州国の軍警は、人民革命軍部隊に系統的に弾薬と武器を提供し、敵情も常時知らせてくれた。

 崔賢を軍人としか見ないのは、近視眼的な評価だといわざるをえない。解放後のこと、抗日戦争に参加した老兵たちが『チャパーエフ』というソ連映画を見て、こんな感想を述べ合ったことがある。

 「あのチャパーエフは、崔賢大将とそっくりだ。まるで、チャパーエフが崔賢大将に乗り移ったようだ。言葉づかいも、振舞いも、考え方も、いや、戦闘の仕方までそっくりだ」

 崔賢はそれを聞くと腹立たしげに反駁した。

 「なにがチャパーエフだ。崔賢は、あくまでも崔賢だ」

 これは、自分を野放図な軍事指揮官としかみなしていない同僚たちにたいする不満の表示だった。崔賢をチャパーエフと同類項におくのは正確な評価とはいえない。崔賢を評価するには、彼をただ武官であるとするだけでなく、遊撃隊の政治指導員と党中央委員会政治局委員の経歴をもつ、有能な政治活動家の一人であったことを銘記すべきであろう。

 わたしは、熱情と信念に満ちた崔賢の目を頼もしく見つめながら、彼の手にわたしの手を重ねて話をつづけた。

 「…その種子が、10人、100人、1000人を得て、その1000人がさらに1万人を獲得すれば、われわれはやがて人材の宝庫を得ることになるでしょう。これは、朝鮮の共産主義者が第一義的に解決すべき大業です。この大業のためには、わたしが南湖頭会議で強調したように、祖国と接している長白地区、白頭山地区に進出して新しい形の根拠地を建設する必要があるのです」

 崔賢は新しい形の根拠地という言葉に、上半身を起こしながら目をしばたたいた。

 「なんですと? 遊撃区を解散したばかりなのに、また新しい遊撃区を建設するというのですか?」

 わたしは崔賢に、新しい形の根拠地建設の必要性と、それが従来の根拠地と異なる点を説明した。万事を即座に理解し敏感に受けとめる崔賢の政治的感性にはじつに驚くべきものがあった。崔賢は、朝鮮革命を主体的に発展させる強力なテコとなる南湖頭会議の方針に絶対的な支持を表明した。この会議の決定は、崔賢をはじめ迷魂陣密営のすべての熱病患者を絶望のふちから救い出す力になったのである。

 「チフスにかかってから、わたしは生死の境を幾度もさ迷いました。ひどく苦しいときは、いっそのこと死のうかとさえ思いました。死んでしまえば万事が終わるし、こんなひどい苦痛からも解放されるだろうと妄想にとりつかれたこともありました。ところが今日、金司令に会って、そんな雑念が吹っ飛んでしまいました。金司令の顔を見て、生きたいという気持ちが強くなり、生きぬいて決着をつけようと腹がすわってきます」

 崔賢の言葉である。彼はわたしとの出会いにおおげさな注釈をほどこしたが、わたしも彼との出会いに深い意味を見いだした。

 「あなたは、わたしの顔を見て力を得たというが、わたしこそかえってあなたの顔を見て力を得ました。民生団の嵐にも抗して生き残った崔賢を見ただけでも、どんなにうれしいことか! いまの情勢では、生き残ったということ自体が大きな功績になるのです」

 その日、わたしは李東伯(リドンハク)とともに密営をくまなく見てまわった。密営の医療条件と食糧事情は悲惨なものであった。迷魂陣の近くに駐屯していた第1師第7中隊がときおり食糧を工面して来てくれたが、それだけでは数十名もの患者の食事をまかなうのはとても無理だった。食糧が切れるとかゆも炊たけず、腐敗したトウモロコシの糠をもみ、それを熱湯にといてすすったりしたが、その粗末な食べ物さえいつもあてがわれるわけではなかった。

 密営の管理を担当する金某なる者がいたが、彼は自分の安全しか考えない臆病者であった。崔賢は病院に後送されてくると、すぐ彼に密営を管理する事務長になるよう頼んだ。しかし彼は、あれこれと口実を設けては職務を怠った。密営の周辺には、1935年の秋に崔賢が敦化地方で地主から奪い取ってきた多くの食糧と副食物が備蓄されていたが、金某はいつも食糧がないと言っては、1日に1、2食の豆がゆさえも満足に供給しなかった。そして、患者の世話は幾人にもならない裁縫隊員にまかせきりにし、自分は感染を恐れて4キロ以上も離れた密営に移り、白米のご飯と肉のおかずでぜいたくな生活をしていた。金某は、女性隊員たちに歩哨勤務までさせた。金戊M(キムチョルホ)、許成淑(ホソンスク)、崔順山(チェスンサン)など迷魂陣の女性隊員たちが患者を看護する苦労は並大抵のものではなかった。密営には、金、郭、劉などの給養係がいたが、彼らは外部工作に飛びまわっていたため、患者を世話する余裕がなかった。女性隊員たちは、順番を決め、裁縫隊の仕事や歩哨勤務をしながら、患者の看護にもあたった。昼夜、病苦にさいなまれる腸チフス患者は、神経をとがらせ看護人に当たり散らしたりした。彼らは、水が自由に飲めなくて気がくるわんばかりに苦しがった。どういうわけか当時、人民革命軍隊員のあいだでは、腸チフス患者が水を飲むのは毒薬を飲むにひとしい自殺行為だという話が広まり、それが治療にまで適用されていた。崔賢が密営の病院に冷水禁止令を下し、違反者は厳罰に処すると威嚇したのも、この話を絶対視したためであった。しかし、のどの渇きに理性を失った熱病患者は、くるったように水を求めた。ある者は、看護兵の目を盗んで軒先にたれさがったつららをもぎ取って渇きをいやしたりした。パルチザンの規律にはあれほど従順で忠実であった人たちが、渇きには耐え切れず、あばれ馬さながらになった。女性隊員たちが冷水の代わりにかゆを差し出すと、その食器を投げつけては口汚くののしった。それでも女性隊員たちは、熱病患者の要求には断固として応じなかった。患者がかめの水を勝手に飲まないように、交替で歩哨に立って監視した。

 ある日の夜のことだった。孟孫(メンソン)という風変わりな名の連絡員が水がめめがけてまっしぐらに這って行った。その夜の歩哨当番は女性隊員の許成淑であった。彼女は、それを見て水がめの方に飛んで行き、彼の手からパガジ(ひさごの水汲み用具)をひったくった。そして、病室が割れんばかりに大きな声で彼をとがめた。

 「孟孫同志! 命令を忘れたんですか! そんなことをして死ぬつもりですか! 早く床にもどりなさい」

 自制心を失った孟孫は、かまどのそばにあった薪で許成淑のふくらはぎを殴りつけ、かめの水をむさぼり飲んだ。気を晴らした孟孫は、毛布を引っかぶると、一晩中死んだように横たわっていた。許成淑は、孟孫が死ぬような気がして、歩哨勤務を終えた後も彼の枕もとに座って夜を明かした。ほかの患者たちも、たいへんなことになるのではないかと心配した。ところが、夜が明けるころ、息をひきとるのではないかと思っていた孟孫が毛布を払いのけて起き上がり、だしぬけに許成淑に抱きついた。

 「成淑同志、ありがとう! ぼくは助かりました! ぼくが水を飲むのを見逃してくれたおかげで、熱がすっかり下がったんです。あんな高熱がどこへいったんだろう?」

 「汗腺から抜けたに決まっているわ。ほら見てごらんなさい、毛布から湯気がもうもうと立っているじゃないの!」

 許成淑は、汗で濡れた孟孫の毛布を高くかかげて病室を見まわした。眠りから覚めた患者たちが、みなその毛布を見つめた。

 こうして、冷水禁止令は取り消され、患者たちは自由に水が飲めるようになった。日がたつにつれて、迷魂陣の多くの熱病患者が死の境から抜け出していった。病床から起き上がった腸チフス患者たちは、女性隊員と一緒にお祭り気分になり、ご馳走づくりに手をかした。

 わたしは劉という給養係と一緒に密営の周辺で、崔賢が敦化からろ獲してきたという多量の食糧と肉類を探し出した。それ以来、密営の人たちの食卓はうるおうようになった。幾度もの遠征とたえまない戦闘を通じて鍛えられた戦友たちは、長い遠征の疲れをいやす間もなく、迷魂陣の女性隊員たちに代わって毎日歩哨勤務に立った。

 病魔から救われた人びとが喜びをいだいて大地を闊歩できるようになったころ、わたしは、迷魂陣で王徳泰、魏拯民とともに人民革命軍軍・政幹部会議を開き、南湖頭会議の方針を貫徹するための実践的な対策を討議した。この会議には、金山虎(キムサンホ)、朴永純(パクヨンスン)、金明八(キムミョンパル)をはじめ、人民革命軍の中隊政治指導員クラス以上の幹部たちが多数参加した。

 南湖頭会議の決定は、固定した解放地区形態の遊撃根拠地を解散して活動舞台を満州一帯と朝鮮半島全域に拡大しはじめた朝鮮共産主義者が、1930年代の後半期に堅持すべき戦略的課題であった。この課題を遂行するには一連の戦術的対策を立てる必要があった。

 わたしは、やがて白頭山地区を朝鮮革命の策源地とし、南満州、北満州と国内深くまで自由自在に移動しながら、大部隊による積極的な軍事攻勢と政治活動によって、わが国の反日民族解放闘争と共産主義運動をさらに高く昇華させることを考えていた。言いかえれば、戦いを大々的にくりひろげることを決心したのである。この構想を実現するには、なによりも、3つの点で力量の問題を解決する必要があった。党の力量、軍事力量、全民族的範囲での統一戦線の力量―この3つの力量を十分にととのえなければ、革命を新たな高みに発展させることは不可能であった。

 このような時代の要請にこたえるものとして、迷魂陣会議では、人民革命軍部隊の改編問題を討議し、新たに編制される師団と旅団の活動地域を決定した。まず、1個師団、1個独立旅団を新たに編制し、人民革命軍の戦力を従前の2個師団から3個師団、1個独立旅団に大幅に拡大することにした。この決定にもとづいて部隊別の活動区域が分担された。新しく編制される第3師(のちの第6師)は、白頭山を中心とした鴨緑(アムノク)江国境沿岸一帯で、第1師は撫松、安図、臨江一帯で、第2師は間島と北満州一帯でそれぞれ活動することにし、新たに編制される独立旅団は、北満州地方で流動作戦をおこないながら、しだいに鴨緑江沿岸に進出して国境一帯に出没する敵を制圧することにした。まさにこれは、短期間内に電撃的に人民革命軍の戦闘力を2倍ほどに拡大することを要求する戦闘的な決定であった。参会した軍・政幹部は、人民革命軍の改編を抗日武装闘争全般の一歩前進とみなし、この措置を熱烈に支持した。とはいえ、すべての問題が順調に解決されたわけではなかった。実践的な対策を討議する場では、会議の進行に歯止めをかける雑音も聞こえてきた。その主なものは、幹部不足にたいする憂慮であった。人民革命軍の改編を無条件に歓迎しながらも、幹部不足のためにその前途に憂慮を表明するのも一理あることであった。反民生団闘争の過程で、人民革命軍の隊伍からは数多くの軍・政幹部が除去された。極端な軍事民主主義のわざわいも、幹部不足を招来した一つの要因になっていた。少なからぬ現職幹部には、そのときまで民生団のレッテルがついてまわった。人民革命軍の多くの部隊からは、指揮官を送ってもらいたいという要請がひきもきらず伝えられてきた。

 わたしは、思いきって信じ思いきって登用する原則で、新たに編制される部隊の幹部配置案を作成した。この案により、第3師はわたし直属の部隊になった。安鳳学(アンボンハク)は第1師師長として留任し、崔賢は中隊長から第1師第1連隊長に登用された。われわれは、迷魂陣会議で祖国光復会創立準備委員会の組織問題も論議した。

 南湖頭会議が1930年代の前半期と後半期を画する一つの分水嶺であるとすれば、迷魂陣会議は、東崗会議、西崗会議、南牌子(ナムペジャ)会議とともに、朝鮮革命を1940年代の大事変へと誘導した礎石といえよう。南湖頭を発った急行列車は、迷魂陣、西崗、南牌子をへて小哈爾巴嶺に向かってまっしぐらに疾走した。南湖頭から小哈爾巴嶺へのこの歴史的な路程のなかで、迷魂陣、西崗、南牌子は、わたしの友情と心魂が惜しみなくそそがれた忘れがたい中間停車場であった。

 わたしは、連隊長に昇進した崔賢を祝い、別れの挨拶をした。

 「このつぎは、白頭山地区で会いましょう。健闘を祈ります」

 崔賢はわたしの腕をつかみ、子どものようにしつこくせがんだ。

 「一緒に連れて行ってくれなければ、この腕を放さんです。わたしも白頭山方面に行って、金司令のもとで戦いたいんです」

 「崔賢同志、わたしだって、あなたと離れたくないのは同じです。わたしも欲のある人間だし、情のある人間です。でも誰もがわたしのところへ来たら、ほかの部隊はどうなりますか。崔賢や崔庸健(チェヨンゴン)、李学万(リハクマン)、韓興権(ハンフングォン)のような指揮官が、大きい戦線をそれぞれ担当して戦ってこそ、朝鮮革命が広い版図で翼を広げ、速い速度で舞い上がっていけるのではないだろうか。わたしは、牛後になった崔賢よりも虎になった崔賢が見たいのです」

 「わたしのような者が、虎になんかなれるもんですか! 馬鹿な!」

 崔賢は、「馬鹿な!」と繰り返しつぶやきながら、目を細めて、どこともなく遠くに目をやった。

 「それじゃ、今日はわたしが我慢しましょう。だけど、このつぎはだめですよ。夢にもこの崔賢を忘れないでください。わたしも夢を見るときは、金日成司令官のそばにいる夢を見ますから」

 わたしと崔賢との三度目の出会いは、撫松県西崗の楊木頂子密営で実現した。もちろん崔賢は、迷魂陣で決着のつかなかった駆け引きをつづけようと試みた。しかし、そのときも彼の願いはかなえられなかった。わたしに会うやいなや、主力部隊に移してくれと言い出したが、どうしてもわたしを説き伏せることができなかった。

 崔賢は、生涯を通じてわたしのそばにいたがり、また、それを実現させようとあらゆる努力を傾けた。だが、彼のその願いは、それ以上に切実で現実的なほかの誘惑のために、いつもかなえられなかった。その誘惑とはほかでもなく、わたしがもっとも気にかけ関心をもつきびしい最前線へ、すすんで駆けつけようとする水晶のように清らかな良心の衝動であり、献身的な服務精神であった。

 わたしを身近で補佐したいと思いながらも、わたしが示すもっとも困難な戦線には誰よりも先に自分が行くべきだと考える類まれな闘魂、ここにこそ崔賢の忠臣らしい風貌があり、その人間味を飾る特出した魅力があった。この2つの欲望は生涯、彼の心のなかで双子のように同居しながら際限なく競い合ってきた。崔賢は、2つの欲望をひとしく追求しながらも、いざ困難な問題が提起されると、いつもわたしのそばを離れ、わたしが重視する戦線へと勇躍突進して行くのであった。これは崔賢の一生を貫く快い矛盾であった。人民武力省や政務院の相の地位でわたしを補佐した晩年を除いては、彼の生涯はほとんど硝煙けむる最前線で流れたといえよう。彼は、1930年代の後半期だけでも、数百回もの戦闘をおこなった。三道溝戦闘、五道溝戦闘、小湯河戦闘、黄溝嶺戦闘、金廠戦闘、紅岩戦闘、熊の跡戦闘、間三峰戦闘、那爾轟戦闘、老金廠戦闘、木箕河戦闘、富爾河戦闘、葦塘溝戦闘、天宝山戦闘、大沙河―大醤缸戦闘、腰岔戦闘、寒葱溝戦闘など、数百回の大小さまざまの戦いはすべて崔賢の名前とつながっており、すぐれた軍事指揮官としての彼の才能と無比の勇敢さを余すところなく示している。

 日本帝国主義者が残した秘密資料の中にしばしば見られる「猛たけだけしい男」とは、ほかならぬ彼ら自身が崔賢につけた呼び名である。日本軍警は「崔賢部隊」と聞くだけで震えあがった。「さいけん」という名前は、敵を恐怖におののかせる無敵将軍の代名詞となった。

 解放後の建国当時も崔賢は、38度線の標識が目の前に見える最前線で新しい祖国の建設を武力をもって防衛した。アメリカ帝国主義を撃滅する戦火たけなわの日々には、戦線東部で軍団を指揮した。祖国が見守り、人民が注視する激戦場では、つねに兵士たちを突撃へと鼓舞する崔賢の自信満々たる号令の声が響きわたった。

 遠くに離れていればいるほど、崔賢はわたしの心のなかの、より親しく愛すべき存在となった。千里比隣、つまり、心が咫尺(しせき)なら千里も咫尺、心が千里なら咫尺も千里というたとえのとおり、人間が人間を愛し尊ぶうえで時空の開きは問題にならないようである。崔賢は、誰よりも遠い所にいても、いちばん身近でわたしに仕えてくれた忠臣であった。

 彼は、すでに建国運動の時期から、わたしの写真を手帳にはさんで持ち歩いていた。大きさは、普通のマッチ箱くらいだろうか。おかしいのは、写真の持ち主である当のわたしも、その写真の出どころがよくわからなかったことである。おそらく、彼が旅団長になって38度沿線へ発つとき、正淑にねだって手に入れたのだろうと思うが、その事実いかんは定かではない。崔賢は、敵地で第2戦線を敷いてパルチザン式に活動するときも、わたしが懐かしくなると、その写真を取り出して見たという。

 あるとき崔賢は、敵中活動で大きな手柄を立てた分隊長に自分の名義で表彰をしようと考えたことがあった。その分隊長の名前は金万成(キムマンソン)といった。金万成分隊は敵中活動期間に、22台のスリークォーターと28台の砲車、計50台の車をろ獲し、150余名の敵兵を殺傷する赫々たる戦果をあげた。戦果からすれば、もっとも高い位の勲章ももらえる軍功であった。ところが、最高司令部との連絡が途絶えていた軍団指揮部には、勲章も表彰状もあろうはずがなかった。しかし、いったん決心すれば寸時もちゅうちょすることのない崔賢は、金万成を呼び出すと、解放直後から肌身離さず持ち歩いていたわたしの写真を授与した。

 「これは、勲章よりももっとでっかい表彰だ。金日成将軍が、わが国の最高責任者であることはわかっているだろう。間島でパルチザン闘争をしていたときも、将軍はわたしらの領袖だった。あのころわたしらは、将軍をどんなにお慕いしていたかしれん。この写真を大事に身につけていれば、どんな銃弾もお前の心臓を貫くことはできん」

 これが、わたしの写真を与えながら述べた崔賢の言葉であった。

 その後、崔賢は最高司令部に来て、わたしにことのてんまつを報告した。その話を聞いたわたしは、崔賢をじらしてやるつもりで、こう言った。

 「さすがに崔賢らしいやり方だ。しかし、その金万成という分隊長はたいへんな損をしてしまったわけだ。いくらなんでも、そのマッチ箱ほどの写真では勲章の代わりにはならんだろう」

 「それはあまり思いやりがなさすぎます。この崔賢でなかったら、誰がそういう表彰ができるんですか。ところで将軍、写真はまあ写真としてですよ、将軍にもなにかやってもらいましょう。最高司令官の名でですよ」

 それは予期しなかった応酬だった。わたしは知らぬまに、誘引戦の名人の手にまんまと引っかかってしまったわけである。兵士を限りなく愛する「軍団長じいさん」のそのおおらかな度量は、涙を誘うほどわたしを感動させた。

 「もっともだ。そうしましょう。写真は崔賢同志がやったものだから… 最高司令官の名で感謝も送り、勲章も授与することにしましょう」

 この小さな水滴のようなディテールを通して、わたしは崔賢をさらに深く知ることができた。このエピソードのなかに、彼の高潔な世界観が凝縮されているのである。崔賢は、おおよそこのような人間であった。

 彼がもっていた人間的な魅力をより正確に伝えるには、さらにどういう話を付け足せばよいのか途方に暮れる。硝煙にくすぶり風雨にさらされた彼の自叙伝は、あまりにも多くの内容と出来事で彩られているからである。

 崔賢は一生、悲観を知らずに生きてきた楽天家であり、どんな嵐の中でも揺らぐことなく、ひたすら前に向かって突進してきた戦車のような男だった。彼が愛したのはどんなタイプの人間であったろうか? 率直な人、単純な人、勤勉な人、大胆な人、誠実な人、豪胆な人、陰口をきかぬ人、決断の下せる人―そういう人たちだった。彼がいちばん嫌ったのは、おべっかつかい、卑怯者、怠け者、おしゃべりなどだった。彼は、都合よく使いわけるポケットを12個ももっている者や、面つらの皮を12枚もかぶっている人をいつも警戒した。

 崔賢が、有名な将棋好きであったことは全国に知れわたっている。将棋で一度でも負けると、食欲がなくなってしまうほどに口惜しがった。だが、誰かが彼の気分をおもんぱかって、さりげなく負けたり引き分けにしたりしようものなら、それよりもっと不快がった。彼はまた、全国でも随一の映画愛好家であった。彼が熱烈な映画ファンなので、金正日組織担当書記は映写機まで贈った。崔賢がいちばん好んで見る映画は戦争物だった。だが、人があまり多く死ぬような戦争映画は好まなかった。

 崔賢が病床で臨終をまぢかにしていたころ、わたしは幾度も彼を見舞った。病魔とのたたかいで疲労困憊した彼の体は、さながら10代前半の少年を連想させるほどにやつれ果て、見る影もなかった。果たして、あんなに小さい人間が2つの大戦の波涛を乗り越えて敵を恐れおののかせた、あの「猛々しい男」、百戦老将の崔賢なのだろうか、という思いにさえとらわれた。

 板のようにかたかった手は筋肉がほぐれ、掌のたこも落ちて幼児のようになよなよになっていた。わたしがその手をとって、「崔賢、あの猛虎のような『さいけん』がこんなふうに倒れていいのか」と言うと、彼は急に唇を震わせながらむせび泣いた。わたしは、ハンカチで涙を拭いてやりながら彼をなだめた。

 「崔賢同志、泣くな。泣くと気力が落ちる」

 「主席、わたしはいま迷魂陣でのことが思い出されて、つい…。あのときも、主席はこうしてわたしの手を握ってくれましたね」

 「迷魂陣…。そういえば、なぜかあのころのことが懐かしくよみがえってくる。苦しいときだったが、われわれはみな血気盛んな20代の若者だった。崔賢同志は、あのとき30歳だったかな?」

 「ええ、いまの数え方でいえば29歳でした。あのとき、主席と手を握って誓い合ったことが思い出されます。『生きても死んでも運命をともにしよう!』… 主席、あのときのことを覚えていますか?」

 「覚えているとも、忘れられるものか」

 「ところが、わたしはその誓いを守れずに、こうして先に… 主席、申し訳ありません」

 「いや、かえってわたしの方が申し訳ない。あなたの面倒をもっとよく見てあげていたら、こんなにまではならなかったはずだ。いつも仕事ばかりさせてしまった。それも、無理な仕事ばかり選んで…。わたしはいま、それが悔やまれてならない」

 「とんでもないことです。かえってわたしの方こそ一生涯、主席に迷惑ばかりかけました。わたしらが死んでも、主席だけはご健在で、祖国を統一してください。主席、どうかお体を大事にしてください。崔賢の最後のお願いです。主席は、自分のことをあまりにもかえりみないのが欠点です」

 崔賢は、死の直前まで、わたしのことばかり話しつづけたという。わたしを補佐する幹部たちが見舞いに行くたびに、「主席はお元気だろうか? 金正日組織担当書記同志もお元気だろうね?」と安否を尋ねたそうである。

 わたしは、崔賢に生涯、無理な仕事ばかりさせて先に逝かせたのがあまりにも胸にこたえて、彼をモデルにした劇映画を撮って全国で上映するようにさせた。それが劇映画『革命家』である。

 家庭での崔賢の功績は、妻子をみな、党と領袖以外は認めない忠臣に育てあげたことである。崔賢の夫人金戊M(キムチョルホ)は、一生を革命にささげた百折不撓の闘士である。彼女は敵地で地下工作にたずさわり、わたしと一緒に武装闘争にも参加した。女性の身で、零下40度を上下する満州の峻嶺や樹海雪原で銃を手に、10年間も敵と息づまる戦いをつづけるというのは、北極探検に勝るとも劣らぬ難事であった。金戊Mは敵の討伐にあったとき、その銃声のショックで雪原の中で子を産み落としたが、助産婦もなしに自分の手でへその緒を切り、その体で追撃してくる敵と銃撃戦をくりひろげた不死鳥のごとき女性であった。パルチザン当時のあのきびしい試練をもっとも貴いものと思った彼女は、この世を去るまで月に1、2度は必ず子どもらに丸ごとのトウモロコシがゆを食べさせていた。

 崔賢が金戊Mを光明の道に導いた忠実な発動機であったとすれば、金戊Mは崔賢の多事多難な一生を百花で飾ったあたたかい陽光だといえよう。

 彼女は夫とともに、白頭山の雪原で鍛える気持ちで子どもたちを厳格に育てあげた。彼女が産み育てた息子たちはいま、金正日組織担当書記が与えた分野で、人民大衆を天とみなす朝鮮式の社会主義を輝かし、革命の3世、4世を忠臣に育てあげるため、大いに活躍している。

 青年総大将の崔竜海(チェリョンヘ)は、わが国の共産主義運動史に偉大な記念碑として残る第13回世界青年学生祭典を成功させるのに大きく貢献した。彼は母の金戊Mが死去したその日も、葬儀にしばし列席したのち、人民文化宮殿での祭典のための国際準備委員会の会議に参加した。わたしはその報告を受け、さすがに、その父ありてその子ありの思いがした。

 リンゴの木にリンゴがなり、ナシの木にナシがなるのは、動かしがたい自然の法則である。社会の法則もこれと異なるところはない。白頭山の下では、白頭の精気を宿した新しい世代が生まれでるものである。1世たちが、吹雪と強風の中で精魂をつくして開拓し発展させてきた朝鮮革命を、その2世、3世、4世たちが金正日組織担当書記の指導のもとに、忠孝一心の精神でたえず継承し完成させていくのは、まことに誇らしいことである。わたしは、われわれの次の世代が烈士たちの理念にあくまで忠実であるものと確信している。りっぱな烈士のもとからは、りっぱな新しい世代が育つものである。



 


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