金日成主席『回顧録 世紀とともに』

4 戦友は北へ、わたしは南へ


 南湖頭会議を終え、白頭山地区へ向けて小家h河を発ったその日の朝は、風の音がことさら騒がしかった。足ごしらえをして南下行軍の途につくとき、まずわたしの脳裏に浮かんだのは、「千里の道も一歩より起こる」という朝鮮の格言であった。小家h河の丸太小屋を発ったわれわれは、降り積もったばかりのぼたん雪の上に行軍の初の足跡を残した。一行には、王徳泰、魏拯民など中国人の軍・政幹部の姿もあった。心臓病をこじらせソ連で治療を受けてきた魏拯民でさえ、その日は、王徳泰ときつい冗談を交わしながら、朗らかな気持ちで足を運んだ。冷え冷えとした荒れぎみの天候ではあったが、行軍はつつがなく進んだ。南湖頭会議の決定どおり白頭山地区への進出をめざす始発点で、小家h河から老爺嶺―爾青牌―明月溝―安図をへて白頭山にいたる直線行路にそって南下するのが当然であったが、われわれは小家h河から額穆県青溝子―官地―安図―撫松県をへて白頭山地区に入る迂回路を額穆方面へ北上していた。この迂回路は、直線行軍路のほぼ2倍という遠路であった。この迂回路にそって北上行軍をしなければならなかったのは、わたしとともに第2次北満州遠征に参加した戦友たちが、新しく開拓した額穆県青溝子密営で、南湖頭会議の報告を待っていたからである。東満州からわれわれを訪ねてきた遊撃隊員や老人、虚弱者、傷病兵、身寄りのない子どもたちも、そこでわたしを待っていた。「民生団」問題をめぐって間島の各遊撃区で発生したすべての極左的妄動に弔鐘を鳴らし、朝鮮人が朝鮮革命をおこなう自主的権利を宣言した南湖頭会議の決定は、青溝子密営でも感動的な歓呼を巻き起こすに違いなかった。東満州と北満州の広大な地域で数年ものあいだ血戦の道を歩みながら、彼らが寝ても覚めても思い描いてきたのは祖国であり、祖国への進軍であった。しかしながら、官地一帯と青溝子密営の戦友のうち大部分は、わたしとともに祖国への南下行軍のコースをとることができず、かえって、より深く北上して北満州部隊との共同闘争をしなければならなかったのである。

 南湖頭会議を契機に朝鮮革命の転換期がもたらされたそのときから、白頭山を本拠に武装闘争を国内深くに拡大しようというのは、朝鮮共産主義者の第一の願望となった。しかし、中国人民との共同闘争を抗日革命の重要な戦略的課題としてうちだして不断の努力を傾けてきたわれわれとしては、その共同闘争の経綸を中途で捨てて全員が白頭山に進出するわけにはいかなかった。もしわれわれが、自国の革命のみを考え、朝鮮人遊撃隊員全員を率いて白頭山に進出するとすれば、東北地方の遊撃闘争は深刻な難局に直面しかねなかった。軍・政幹部や中核軍人の不足を痛感していた北満州の各部隊では、東満州の部隊にしばしば共同闘争を求めてきた。これにたいする返答が、ほかならぬ2回にわたる北満州遠征であった。小家h河で南湖頭会議が開かれていたころにも、北満州の各軍からは、われわれに人的支援を求めてきた。こういう事情は、われわれをして、北満州地方の抗日連軍部隊への戦闘的支援の問題を南湖頭会議で一つの付随議題としてとりあげ、それを実行する実務的対策を講じざるをえなくした。こういう理由から、わたしは白頭山地区への進出を断行する画期的な時期に、数年ものあいだ生死をともにした戦友と別れる覚悟で北上行軍をすることになったのである。白頭山地区進出の歴史的壮挙は、長いあいだ心を砕いて育ててきた戦友とのいつまた会えるとも知れぬ別離の苦しみを強いたのである。わたしと一緒に白頭山地区に行けず、かえって祖国から遠く離れた北方へ行かなければならない彼らの気持ちはいかばかりであろうか。わたしは、小家h河を発つときからこの問題のため頭を悩ましていた。

 思えば、わたしは革命闘争をはじめたときから、このような別離の苦しみを数多く味わってきた。13歳のときに故郷の万景台の人びとと別れなければならなかったし、樺甸でも「トゥ・ドゥ」を組織するが早く、親しんだばかりの友人たちと別れなければならなかった。その別離は、のちに胸の高鳴る抱擁と握手をともなう再会へとつながった。樺甸で別れた「トゥ・ドゥ」の初の申し子たちが吉林で再会し、「打倒帝国主義」の旗のもとに青年学生を結集しはじめた。その旗のもとに結集した青年はみな、水火をもいとわぬ、ますらおであった。その一人ひとりは、肉親にも、千金にも替えがたい貴重な存在であった。しかし、わたしは吉林監獄を出獄した後、闘争舞台を中部満州から東部満州へ移さなければならなくなり、別離の苦しみをまたも味わわされたのである。三々五々連れ立って歩いたわたしの戦友たちは、新しい任務をおびて、中満州、南満州、北満州の広大な地域に散っていった。それは、樺甸での別離とは違って、いつまた会えるとも知れぬ痛々しく、骨身にしみるものであった。

 崔昌傑、金園宇、桂永春、康炳善、朴素心、崔一泉、高在鳳、朴一波との別離と同様に、ハルビンまでわたしと同行した韓英愛との別れもそのようなものであった。わたしがコミンテルン連絡所との接触を終えてハルビンを発とうとしたとき、彼女は東満州へ連れて行ってくれるようせがんだ。革命に参加するからには、吉林時代のように一星(ハンビョル)同志の指導を直接受けたいから、願いをかなえてほしいと哀願した。しかし、彼女にはすでに、わたしが処理していなかった2つの仕事がまかされていた。つまり、ハルビンに残って破壊された組織を立て直し、同時に、満州省党巡視員との連絡を保つよう依頼していたのである。わたしは、韓英愛と一緒に東満州へ行きたい気持ちはやまやまだったが、任務のためにそれができないジレンマに陥ったまま、ハルビンを発った。吉東共青責任書記として活動していれば、少なくとも2、3か月内にはまた会えるだろうという希望をいだいて彼女と別れた。わたしが韓英愛の願いを無視してハルビン地区の特派員として残してきたのは、組織が与える任務であれば軽重を問わず着実に実行するその強い責任感を信じたからであり、また、その責任感がハルビン一帯の革命活動の推進に必要であったからである。奇しくも、わたしはこのように、身近な戦友をいたがらない場所に残したり、遠いところに送ってしまうのがつねだった。こうして、わたしは南に向かい、韓英愛は北に残った。そのときの別れはじつに寂しいものであった。チジム(お好焼きの一種)で食事に代えるときは、自分の分をいつも半分わたしの前に差し出したその誠実な戦友を北満州の片隅に残し、さようならの手振り一つで別れを告げたそのときの心は、決しておだやかなものではなかった。

 こうしてみると、革命の新しいページが開かれるたびに、別離は影のようにわたしの後をつけまわしたようなものである。わたしが丹精して、はぐくんだ革命組織を維持し、強化していくためには、いずれにせよたたかいのなかで育てあげた人たちをそこに残し、わたしはまた別の地方に行って新しい人を育てる基礎作業をしなければならなかった。いわば、わたしが処女地を開拓する耕作業をすれば、戦友たちは、それを豊かな果樹園に、美田につくりあげるのである。まさに、このような革命の要求がわれわれの別れを避けがたいものにしたのである。

 ところが、わたしの命令であれば死をもいとわぬ忠実な同志たちが、革命の要求する別離にはしばしば服従せず、悶着を起こした。わたしが東満州に活動舞台を移すとき、連れて行ってほしいと子どものようにせがんだのは、韓英愛だけではなかった。もっとも、3、4年間も同志愛を分かち合い、苦楽をともにした戦友たちの別離が、旅路で知り合った人たちの別れのように、ごくありきたりのものであろうはずはない。理解できるほど説明もし、とがめたり諭したりしても頑として聞き入れない場合もあったのである。わたしを十分理解してくれてしかるべき車光秀でさえ、「こんなふうに別れようと、われわれが生死をともにしてきたのか。別れないで革命活動ができる最善の方途を見つけてみよう」と熱気をおびて訴え、8キロもわたしを追ってきて困らせた。わたしと別れるのがつらいあまり、文朝陽などは声をあげて泣いたものである。わたしはそのとき、革命とはこんなに苛酷なものだろうか、車光秀が言ったとおり、別れずに革命活動ができる方途は果たしてないものだろうか、と何度も自問してみた。しかし、それはほとんど不可抗力的なものであった。それで、わたしは同志たちに、われわれは遠からずまた会える、別れは一時的なものだ、再会の日を思ってこの悲しみに耐えよう、泣き顔ではなく笑顔で別れよう、と説き伏せた。別れが百なら出会いも百、という言葉があるではないか。

 しかし、現実はわたしの予言をしばしば裏切ってしまい、その後、生きて再会した戦友は幾人にもならない。その数少ない人たちでさえ、わたしのそばを離れ、早々と永別の道を歩んだのである。生活は別離と邂逅のたえまない循環であると言う人もいるが、わたしには、別れた後に再び会えない別離があまりにも多かった。正直に言って、わたしはそういう理由から、別れを告げる場で、それとなく不安を感じ不吉な思いにとらわれることが多かった。

 それにもかかわらず、これからまた青溝子密営へ行き、数年ものあいだ東満州でともに戦った戦友たちと再会も知れぬ別離をしなければならないのであるから、それは白頭山地区へ進出するわたしの喜びのなかにひそむ悲しみだといえた。

 白頭山地区への進出をひかえて誰よりも喜ぶはずのわたしの表情から沈うつな気分を読み取った魏拯民は、なにか心配事でもあるのかと尋ねた。わたしは胸に渦まくもろもろの思いを一言で言い表すこともできなかったし、またそういう気持ちを他人に知られたくもなかったので、別にないと答えた。

 「そういえば、昨年に亡くなった弟さんの哲柱のことを最近になって知ったそうですね。つらいでしょうが、気を落とさないようにしてください」わたしが沈うつになっている理由を魏拯民は自分なりに推測していたのである。

 もっとも、その喪失の苦しみも耐えがたいものであった。そのころわたしは、見知らぬ満州にたった一人の肉親として残った幼い弟の英柱の生死も知らなかった。そういう悲しみに同志たちとの別れが重なって、わたしの顔になおさら暗い陰がさしていたのかも知れない。魏拯民はわたしの気を晴らそうと、冗談を言った。

 「金日成同志、気がめいったときはユーモアが最良の薬ですよ。金同志のために、わたしの昔の夫婦げんかの話をしましょう。金日成同志も夫婦生活の茶飯事を参考までに聞いておくのも悪くないでしょう。ずっとひとりで暮らすわけにはいかないでしょうからね」

 「そうだとも。男が24といえば婚期を逸していますからね。もしかしたら、いま金司令は恋人との離別を悲しんでいるのかも知れない」

 王徳泰もなんとかしてわたしの気分をほぐそうと、魏拯民の冗談に輪をかけた。魏拯民は調子づいた。

 「そうだ。そうかも知れない。話が出たついでだから、夫婦げんかの話より、別離にちなんで伝えられている『折柳』という中国の故事を紹介する方がよさそうだ」

 魏拯民は、「折柳」という題で伝えられているその故事のとおりにすれば幸運が訪れると言った。

 「折柳」というのは、柳の枝を折るという意味で、それは漢時代の故事に由来しているとのことである。漢の都の近くに橋が一つあったが、漢の人たちは親友と別れるときはいつもその橋に来て、将来の幸運を祈る意味で柳の枝を折って贈ったという。それ以来中国では、別離の場で柳の枝を折ってやるのが一つの習わしとなり、魏拯民の故郷でも、その儀礼がそのまま伝承されているという。魏拯民は、愛する人と別れるときに柳の枝を折ってやればきっと幸運が訪れると言い、わたしにもそうするよう勧めた。この故事にちなんだ柳は、故郷を象徴しているように思える。たとえ別れても、緑の柳の枝を見ながら自分の生まれ故郷と故郷の人たちを忘れるなという意味で、そういう故事が生まれたのではないかと思う。

 北満州の酷寒が猛威をふるっていたそのころ、別れる同志たちに柳の枝を一本ずつ折ってやるなら背負子一つ分くらいは集めなければならないが、それほどの柳の枝をどこで手に入れ、またそれを分けてやったところで、わたしの気をまぎらすことができるだろうか。ともあれ、わたしの重い心を少しでも軽くしようと「折柳」の話をしてくれた魏拯民の気持ちだけは、とてもありがたかった。

 いつだったか、崔昌傑は別離を前にして、孤楡樹の柳の土手でわたしにこんなことを言った。

 「この崔昌傑は、南崗と丹斎が別れたときのように、格式も別宴もなしに静かに立ち去る」

 崔昌傑のいう南崗とは、李昇薫のことであり、丹斎とは申采浩のことである。前述したように、南崗李昇薫はわが国でも指折りの資産家で、早くから愛国的な教育運動や慈善事業に一生をささげた人物である。定州の五山学校が南崗の創立した学校であることは、周知の事実である。李昇薫は、海外へ出立する独立志士の面倒を見ているうちに、丹斎申采浩とも深い親交を結んだ。申采浩は、南崗の頼みでひところ五山学校で国史と西洋史を教えたが、その講義の上手なことが海外にまで知れ渡り、丹斎の存在は吉林でも学生が口をきわめて称賛する評判のたねになった。丹斎は、朝鮮が日本帝国主義の完全な植民地と化した庚戌年(1910)前夜の冬を五山で過ごしていたが、ある日急に南崗にこう言った。

 「どうしても、わたしはここを発つことにする」

 これを聞いた南崗は、驚いて彼を引き止めた。

 「こんな寒いときに急にどこへ行くと言うんだね。行くとしても雪解けのころになってからにすればいい」

 「雪解けもなにも、日本人を見るのがいやでたまらないのです」

 こう言い張った丹斎は翌日、忽然と定州を立ち去った。そのとき申采浩は、中国をへてロシアへ行ったという。

 南崗は丹斎に去られたのが寂しくて、ひとりで怨みごとを言った。

 「なんという人だ。道中の路銀でも少しもっていけばよいのに、一言の挨拶もなく去ってしまうとは…」

 独立運動家を送るときは、いつも盛大な送別宴を催し、旅費まで十分にもたせてやった南崗にしてみれば、丹斎と握手の一つも交わせずに別れたことに胸を痛め寂しがったのは当然のことであろう。崔昌傑が柳河へ発つときに言った、南崗と丹斎の別れとはこういうものであった。

 金赫は、南崗に一言の挨拶もせずに立ち去った丹斎の態度はつれなすぎるとなじった。すると崔昌傑は、申采浩の人となりを知らずにそういう言い方はするな、丹斎こそは誰よりも南崗を大事にした熱血漢だ、と反論した。彼の解釈によれば、申采浩が挨拶もしないで定州を発ったのは、独立志士に面倒をかけまいとしたためであり、別離の席で味わわなければならない苦しみからのがれるためであったというのである。崔昌傑の言うとおりであった。丹斎は、火のように熱い人であり、南崗を格別に大事にしたのである。丹斎と南崗の別離を真似ようとした崔昌傑は言うに及ばず、金園宇、桂永春など、他の戦友もみな、わたしから任務を受けて発つときは、申采浩のように黙って出立するのであった。わたしの戦友は、すべてそのような人たちだった。

 わたしはその後、東満州で武装闘争を展開しながらも、自分が育てあげた有能な軍・政幹部や若い伝令兵、そして、大切な隊員たちを兵員の不足している南満州と北満州の各部隊に派遣した。そのたびに、こぼれる惜別の涙は胸中にしたたり生身をけずった。まして、その戦友たちがいつどの戦闘で、どのように戦死した、という悲報に接すると、それは、わたしの心身を苦しめる終生の傷となってしまうのである。このような別離を通じて、革命同志間の愛情がいかに熱いものであるかを体験し、革命家の一生で同志の占める比重がどれほど大きなものであるかを切実に感じるようになった。解放後、わたしは社会主義建設の過程でいつも幹部たちに、愛情には、親子同士、夫婦同士、兄弟同士、親友同士とさまざまな種類があるが、第一にあげるべき愛情は革命同志間の愛情であると話してきたが、それはこのような体験にもとづいての結論である。

 真実の同志愛は、真の意味での革命を体験せずしては味わえず、弾雨降りそそぐ戦場で生死をともにせずにははぐくむことのできない愛情である。かつて、わたしの戦友たちは、幾日も生水で飢えをしのぎながら血戦を展開する最悪の逆境のなかでも、凍って落ちた一粒の木の実を雪の中から見つければ、まずそれを同志に譲った。

 牽牛と織女の悲しい伝説が示しているように、愛が熱烈であればあるほど離別の悲しみも増すものである。そのため、革命同志間の別離も、かくも耐えがたい苦しみをもたらすのである。しかし、別れがいかに悲しいものであっても、それなしには革命闘争はできないのであるから、なすすべはないのである。

 命令さえ下せば東西南北に別れ別れになる一人ひとりの戦友を思うわたしの心は、もうすでに火の粉を散らすほど熱くなっていた。若い伝令兵の呉大成と崔金山は、そんなわたしの気持ちも知らずに、祖国へ行けるといってはしゃぎながらわたしについてきたが、彼らのうちの一人も北満州部隊に送らなければならなかった。

 長い行軍の末に青溝子密営に到着したのは、昼下がりのころだった。密林の丸太小屋から大勢の人が出てきてわれわれを取り囲み、小躍りして喜んだ。彼らが北満州に残らねばならない、汪清と琿春から来た隊員、その他ソ連に送る傷病兵と老人、虚弱者たちであった。

 一人の少女がわたしを呼びながら、鉄砲玉のように飛んできて腕にとりすがった。

 「これはこれは。おまえもここにいたんだね」

 わたしは少女を抱きあげてその小さな顔をのぞきこんだ。彼女は、汪清遊撃根拠地で両親と祖母まで亡くした梁成竜の娘梁貴童女であった。

 「将軍さまが、ここにおいでになるというので来たの。将軍さまは、白頭山へ行くんでしょう?」

 「おまえがどうしてそんなことを知ってるんだね?」

 「あの李応万おじさんが教えてくれたの。わたしたちみんな将軍さまと一緒に朝鮮に行くんだって」

 少女が指さす方を見ると、松葉杖をついた李応万が隊員たちのなかに混じってにこにこ笑っていた。わたしは唖然として、しばらく言葉が出なかった。彼が汪清遊撃隊の中隊長であったことは先にもふれている。資質や能力からすれば、大隊や連隊も統率できる器の指揮官であったが、惜しいことに片足を切断したため軍職を離れて第2線に退いていたのである。彼はまだ傷が治っていない体でありながら、兵器廠で武器の修理をしながら楽天的に生活していた。

 「将軍、わたしの言ったことに間違いはないでしょう。わたしはここにいても、そちらの話を全部聞いていますよ」

 李応万はひとしきり冗談を言ってから、南湖頭会議の話をしてほしいとせかせた。わたしは旅装を解いてから、密営内の軍民全員を集めて南湖頭会議の決定を伝えた。丸太小屋に集まった人たちは、両手を高くあげて万歳を叫んだ。コミンテルンが間島でのそれまでの反民生団闘争が極左的であったことを認め、朝鮮人が朝鮮革命を遂行するのは誰も妨げることのできない神聖不可侵の権利であると宣言したことを話すと、これからはわが国、わがふるさとの地を踏み、生まれ故郷の祖国で日本帝国主義との決戦ができるようになったと誰もが涙を流して喜んだ。中国生まれも、一刻も早く祖国へ行きたいと言って興奮を抑えきれなかった。気の早い人は、白頭山の自慢話をはじめた。

 北満州に残されると思っている人は、一人もいないようだった。人びとの感激の度合いが強くなればなるほど、彼らにつらい真実を打ち明けなければならないわたしは、ますます苦しい立場に追い込まれた。けれども、わたしはつらくとも別れについて話さなければならなかった。

 「同志諸君、振り返って見よ! 武装闘争の弁証法的過程として新たな情勢が到来するたびに、われわれには決まって別離がめぐってきた。南湖頭会議を契機に、朝鮮革命の転換期が到来した今日にいたってもそれは例外とならない。したがって諸君は、いまもまた別離を覚悟しなければならない。日本の軍部ファシスト集団は『2.26事件』を起こした後、北方にたいする侵略をいっそう本格化している。日本帝国主義が、チチハルと北部中国を掌握し、ソ連侵攻の口実を設けようとたえずソ満国境で挑発行為を働いているのは、諸君もよく知っている事実である。北満州の各遊撃部隊はこれに対処して、抗日勢力を強化するために努力している。ところが彼らは、幹部の不足で大きな困難に直面している。そのため、何回もわれわれに支援を求めてきた。このような状況下で、われわれすべてが白頭山方面に進出するとすれば、どのような結果がもたらされるだろうか」

 聴衆がわたしの話を吟味する余裕を与えようと、わたしはしばし場内を見まわした。聴衆のなかから不安にかられたささやきが聞こえてきた。片隅でひそひそとささやかれていたその声は、波のように一人ひとりの聴衆を呑み込み、やがては場内を蜂の巣をつついたように騒然とさせてしまった。予想どおりのはげしい反応で、わたしはいささかあわてた。戦友たちとの別れがきびしい難関につきあたるかも知れないという予感のため、すぐには言葉をつぐことができなかった。ところが、聴衆はいつの間にか口をつぐんでわたしを注視した。わたしは、別れを告げる瞬間がきたと判断し、南湖頭を発つときから数十回も考えてきた人事異動を一気に発表した。

 「汪清連隊は崔庸健同志の活動区域へ向かい、琿春連隊は第3軍の活動地域に向かうこと。第3軍には金策同志がいる。汪清連隊と琿春連隊の一部は周保中麾下の第5軍とともに寧安、穆棱、葦河一帯で共同作戦に参加することになる。負傷者と老人、病弱者は、ソ連で治療を受け、一日も早く健康を取りもどさねばならない。諸君、許してほしい。このとおり、わたしは諸君を連れて白頭山へ行くためではなく、別れの挨拶をしにここに来たのだ」

 聴衆は数秒間、静寂のなかで、わたしをじっと見つめた。不服の声で騒然となるものと思った場内に、信じられないほどの静寂が訪れ、その息苦しい無言のなかで人びとがわたしに落ち着いた視線を向けているのが不思議であった。わたしは、数千数万言の抗弁に代わるその無言がもっと恐ろしかった。しかし、静寂は長くつづかなかった。その不思議な静寂に代わって、あちこちからむせび泣く声が聞こえた。わたしは、別離宣言のため意気消沈した隊員たちの前に、言葉もなく立ちつくしていた。それでも、わたしのもとで数年間政治幹部を勤めた崔春国には度量があった。彼は、「わたしたちが収拾しますから、心配しないで疲れを癒してください」と、わたしを慰めた。実際のところ、彼もわたしと別れ、独立旅団を編制して活動しなければならない立場にあった。

 北満州に残る人たちのことを崔春国にまかせたわたしは、ソ連へ行く負傷者と老人、病弱者と別個に会ってみた。数年間の遊撃闘争の過程で、われわれの隊伍には多くの負傷兵と病弱者が生じた。遊撃区があったころは、根拠地の病院で彼らを治療することができたが、遊撃区の解散後にはそれが難問題となった。それで、大部分の負傷兵と老人、病弱者を沙河掌と鏡泊湖付近へ移して応急治療を受けさせ、のちに青溝子密営を設けてそこに集結させた。しかし、それも完全な意味での安全策とはいえなかった。幸いにも、魏拯民がコミンテルンの当該組織と交渉し、最大の難問となっていた負傷者と病弱者の治療問題をわれわれの要請どおり円滑に解決してきた。その結果、人民革命軍の負傷兵や病弱者は、当分のあいだソ連領内で治療が受けられるようになった。魏拯民はコミンテルンとの合議のもとに、ソ連領内に入る負傷兵の受け渡しにかんする実務的手順まで打ち合わせてきた。彼の努力によって、コミンテルン傘下の学校への留学生派遣問題もスムーズに妥結した。やがて、汪清連隊と琿春連隊が北満州の部隊に向けて発つときに、その留学生のグループも負傷兵たちとともにソ連に行くはずだった。

 まず、われわれの部隊の負傷兵、老人、病弱者、孤児たちで2組の集団をつくり、1組ずつ2回にわたってソ連に送ることにした。国境までの負傷者の警護は、王潤成が一部の隊員を連れて担当することになっていた。この問題もすでに南湖頭で内定していたが、青溝子の負傷兵たちはそれを知らずにいた。

 わたしが負傷兵たちのところへ足を運んでいるとき、突然松葉杖をついた李応万があらわれてわたしの前に立ちはだかった。

 「将軍、こんな話がどこにあるというのですか。この李応万もソ連へ行かせるつもりですか?」

 声はうわずり、過度な興奮のため頬まで引きつっていた。

 「応万同志、そう興奮せずにここに座りたまえ」

 わたしは、彼を支えて倒木に座らせた。李応万は、わたしの腕をつかんで哀願した。

 「どうか将軍のそばで最後まで戦わせてください。たとえ、片足はなくとも、銃は射てるし、武器の修理もできます。口もきけるのですからアジ演説もできます。同志たちが血を流して悪戦苦闘しているときに、この李応万がソ連に行って楽をしていられる人間とでも思うのですか?」

 もちろん、わたしは負けず嫌いの往年の遊撃隊中隊長がこう出てくるだろうとは予測していた。事実、彼は、革命闘争をつづけるために脚を切断した人間ではないか。わたしは李応万の手をとって頼んだ。

 「きみがそんなことでは、他の負傷兵たちも我を張ることになる。抗日武装闘争の隊伍から離れる戦友のことを思うとわたしも胸が痛む。しかし、きみたちは、肉体的条件のためいつも生活上束縛されてきたではないか。遊撃区があったときは不便ではあってもなんとか過ごすことができたが、垣から飛びだして洪吉童のように東に西に転戦しなければならない新しい状況下で、そんな体では部隊について歩くのは無理だ」

 わたしは1時間余り彼を説得したが、馬の耳に念仏であった。

 「わたしは革命が勝利した国に行って、他人のパンをかじりながら楽に暮らすつもりはありません。戦いもしないで楽に過ごすつもりなら、なんのために財産をはたいてブローニング拳銃1箱を買い、遊撃隊に入隊したというのですか。お願いです。わたしを将軍のそばに残してください。わたしは落伍者になりたくないのです」

 李応万は、革命隊伍からの離脱そのものを、死よりも恐れる真の共産主義者であった。しかし、彼の考え方には極端すぎるところがあった。ソ連に行くからといって、革命を放棄したり、ぜいたくをせよというわけではなかった。李応万が、安全なところでゆっくり治療を受け、義足をつけて帰ってくるなら、それだけでも満足することができた。わたしは李応万の訴えになんとも答えられず、彼とともに遊撃区を守って戦った汪清時代を感慨深く回想しながら、黙々と密営地の雪を踏んだ。ところが、苦痛のうちに重く流れるその沈黙がかえって李応万の心を動かしたのである。しばらくわたしの表情をうかがっていた彼は、突然わたしの肩に顔を埋めて、「わたしのことで将軍を苦しめたりして… わたしはソ連へ行きます。そこで毎日、白頭山に向かって将軍の勝利を祈ります」とむせび泣いた。

 李応万との別れに劣らず胸が痛んだのは、梁貴童女との別れであった。彼女もソ連へ行くと聞いて泣きどおしだった。それで、わたしは青溝子密営にいるあいだ、いつも彼女を連れて歩き、食事も寝床もともにした。われわれが青溝子密営を発つ前日の夜、彼女は毛布にくるまったままおしゃべりをつづけた。

 「将軍さま、ソ連はここよりもっと寒いんでしょう?」

 彼女は大人から、ソ連という国には酷寒のツンドラがあるという話を聞かされたようである。

 「大丈夫だよ。おまえが行くところの寒さはここと同じくらいだ」

 丸太小屋の外に吹きすさぶ北満州のすさまじい風の昔を聞きながら、そう答えるわたしの胸は張り裂けんばかりだった。両親もいない幼い子を他郷からまた他郷へと送らなければならない現実があまりにもむごく思われた。だが、彼女に吹雪と寒風という2つのイメージしか刻みつけていない殺伐とした風土のかの地は、日本人もいなければ搾取も、圧制の鞭もない社会主義国であった。やがて、彼女はそこへ行き、善良な人を迫害し虐待する呪わしい世の中と決別し、ヒバリのように朗らかに、トビのように自由に、ハトのように幸せに暮らすであろう。そして、大人になればわれわれの隊伍にもどってきて革命闘争に参加することになるであろう。われわれが梁貴童女のような哀れな子どもたちをソ連に送ったのは、このような慰めと希望があったからである。

 「応万おじさんが言っていたけれど、将軍さまは白頭山で戦っても、月に一度はわたしを訪ねてくださるんですってね。本当なの?」

 彼女がどうしてもソ連に行かないというので、李応万がそんな嘘を言ったようである。わたしはなにも言えずに、彼女の澄んだ瞳を見つめるだけだった。子どもに質問されて、こんなに困ったのは、はじめてだった。ところが幸いにも、彼女自身がわたしを助けてくれた。

 「将軍さまが白頭山を留守にしてわたしのところにいらっしゃったそのあいだに、日本軍がまた朝鮮人を殺したらどうするの? 将軍さま、わたしのところに来ないでずっと白頭山にいてちょうだい」

 「えらい、本当にえらい子だね! おまえの言うとおり白頭山を留守にしないよ。そして、そこでおまえのお父さん、お母さんの敵を討ってやる」

 わたしは思わず貴童女を抱きしめた。彼女は小鳥のようにわたしの胸に顔を埋めて、わなわなと身を震わせた。多くの父母の悲惨な死を目撃してきた少女の脳裏に、恐ろしい過去の映像が一挙によみがえってきたのかも知れない。

 白頭山を留守にしないでほしいと言った少女の言葉には、すべての朝鮮人の願望と頼みがこめられているように思われた。

 しばらくして、貴童女はまた話しかけた。

 「将軍さま、白頭山はとても高くて、わたしのような子どもは登れないんですってね。それでわたしは、白頭山へ行かないで、応万おじさんと一緒にソ連へ行くのよ」

 わたしはなんとも答えずに、ただ少女の頭をなでるだけだった。そして、心の中でささやいた。(おまえも、ときがきたら白頭山においで。そのときは、朝鮮もソ連のように住みよい国になるだろう)

 わたしはその晩、一睡もできなかった。夜が明ければくりひろげられる涙ぐましい惜別の光景がしきりにまぶたに浮かんで、わたしを苦しめた。彼らとどう別れたらよいのか? 「折柳」式にここにある木の枝を一本ずつ折ってやるべきか。でなければ丹斎のように黙って去るべきか。

 夜が明けそめてきたころ、崔春国がわたしを訪ねてきた。

 「将軍、いつお発ちになりますか?」

 「早めに朝飯をすませて出発することにしよう。官地にいる中隊が首を長くして待っているだろう。で、どうだね? ここの人たちの心が少しは落ち着いただろうか? きみたちもすぐ、北上行軍をしなければならないのだし」

 わたしのそばで一晩中おしゃべりをしていた貴童女は、別れの日が来たのも知らずにすやすやと寝息を立てていた。

 「将軍、わたしたちのことは心配しないでください。北満州でりっぱに戦いますから、安心して出発してください」

 「りっぱな戦友たちだ。だからわたしも、別れるのがつらいのだ。きみともこれで…」

 わたしは言葉を濁して崔春国を見つめた。そして彼の手を握りしめた。

 「きみとは、こうして話でも交わせたが、韓興権とは会えないまま去らなければならないのだから、なおさらつらい。北満州の部隊で会ったら、こうして発つわたしの気持ちを伝えてくれたまえ」

 われわれはその日、簡素な朝食で別れの宴に代えた。崔春国が言ったとおり、青溝子の戦友たちは官地方面へ向かうわたしを笑顔で見送ってくれた。ただ、梁貴童女が悲しげに泣いただけだった。離れまいとする9つの少女を李応万の手にゆだね、重い足どりで青溝子密営を後にしたあの日を思うと、いまも胸がうずく。李応万と梁貴童女はその後、1次か2次の隊列に加わってソ連に入ったという。それ以来、長いあいだ彼らの消息はわからなかった。彼らの安否をはじめて伝えてくれたのは、青溝子密営で部隊と別れてソ連に入り、解放後に帰国したかつてのパルチザン裁縫隊員の全文振であった。彼らが健在であることを知り、喜びを禁じえなかった。梁貴童女はもう70に近いはずである。その年なら、人生の黄昏といえる。

 わたしはいまでも、民生団のレッテルを張られて苦しんでいたかつての梁成竜大隊長の娘梁貴童女をときおり思い浮かべてみる。しかし、まぶたに浮かぶのは古希を間近にした老婆ではなく、花のつぼみの9つの少女の姿である。わたしには、年老いた彼女を想像することができない。わたしの追憶には、わたしについて白頭山へ行くのだとはしゃいでいた少女の姿が残っているだけである。

 青溝子では、崔春国が自分と一緒に北上する隊員たちを説得してくれたので、ことなく別れたが、官地の金麗重中隊と呉振宇の所属する中隊を北満州の部隊に派遣するときは、かなり手をやいた。呉振宇の所属する中隊は、是が非でもわたしについて白頭山へ行くと言い張った。説得を重ねると、彼らは北満州の部隊に行くことにはするが、安図の境界まででも一緒に行かせてほしいと頼んだ。琿春青年義勇軍の1個小隊も、雷同して安図への同行を願った。その小隊には、かつてわたしの指示で、琿春で満州国軍の造反工作にあたっていた黄正海がいたのだが、彼が中心となってわたしの許しを得ようと懇願した。わたしは、北満州地区の実情を説明しながら、数時間、彼らを説得した。

 魏拯民が黄正海の所属していた琿春青年義勇軍の小隊をたいへんほしがっていたので、その1個小隊だけは彼に引き渡すことにした。呉振宇の所属する中隊は、肩を落として迷魂陣を発った。魏拯民とともに、風の音も物寂しい迷魂陣の丘から涙をのんで去っていく呉振宇の所属する中隊を見送るわたしの心も、惜別の情にあつく濡れた。

 北満州の各抗日連軍部隊に個別的に派遣されていく戦友たちとの別離は、なおさら胸をえぐるような苦しみを味わわせた。参軍の一歩を踏みだしたばかりの北満州の各抗日連軍部隊では、軍・政幹部の不足で少なからぬ困難に直面していた。わたしは、彼らの要請によって、韓興権、全昌哲、朴吉松、朴洛権、金泰俊などの幹部は言うまでもなく、わたしの伝令兵であった呉大成までも北満州に派遣した。間島で大事に育てあげた幹部は、そのときそっくり引き渡したことになる。

 呉大成は、呉仲洽の2番目の弟である。十里坪で少年先鋒隊の活動をしていた彼は、兄たちがつぎつぎと遊撃隊に入隊するのでうらやましがり、やきもきしていた末に、自薦してわたしの伝令兵となったのである。わたしが呉大成に北満州の部隊に行けと言うと、最初は冗談だと思ってにやにや笑っていた。だが、それが本当だとわかると、泣き顔になってわたしを責めた。

 「どうして、ぼくに行けと言うのですか。ぼくは行きません。ぼくみたいな者が北満州の部隊に行かないからといって、革命がだめになるわけではないじゃありませんか。将軍のそばにつきそわせてください」

 指示さえ下せば、ただ一言、「わかりました」と答えていつもわたしを満足させていた伝令兵が、このときだけはまったく別人のように荒々しい態度をとるのだった。わたしは、数十回も説得を重ねてやっと、呉大成を遠い北満州の部隊に送ることができた。あれほど行かないと我を張っていた呉大成もさすがに別れを前にしては大人のように、逆にわたしを慰めた。わたしが目をうるませているのを見た彼は、「将軍、ぼくがいなくなったら、あの金山がぼくと同じくらい将軍に仕えるでしょうか?」と茶目っ気な冗談まで言うのだった。

 別れる前日の夜、呉大成は、わたしのもう一人の伝令兵である崔金山と夜通しひそひそと語り合っていた。わたしはもともと零時をまわってから寝床につき、夜明けの3、4時に起きるのが普通であったが、その夜だけは遠くへ旅立つ伝令兵のことを思って、早めに明かりを消して床についた。一晩中寝ずにひそひそと話していた2人は、明け方になると外に出た。なにをするつもりなのだろうか、と好奇心にかられて耳をそばだてた。

 「金山、ぼくが発ったあと、将軍にりっぱに仕えてくれよ」

 呉大成がささやいた。金山は、黙って溜め息をついているようだった。

 「白頭山の方に行ったら、必ずトウガラシ味噌を手に入れて食事ごとに将軍に差し上げるんだぞ。朝鮮人の多いところだから、努力すればすぐ手に入ると思う。将軍は、トウガラシ味噌が大好物なのをきみも知ってるだろう? それなのに、ぼくたちはまだ一度もそれができなかった。実際、ぼくたちは伝令兵の資格がない。将軍のそばを離れるいまになって、それが気になるんだ」

 「きみの言うとおりにするから心配しないでくれ。こんなふうに別れていつまた会えるだろうか?」

 崔金山の声はうるんでいた。

 「さあ、いつまた会えるだろうかな…。そうだ。金山、向こうへ行ったらまず平安道出身の家から訪ねてみろ。平安道出身の家には、塩辛のようなものがあるはずだ。将軍は、塩辛が大好きだそうだ。あー、白頭山へ行ったらそういうのを手に入れて将軍にどっさりご馳走しようと思っていたのに…」

 朝、呉大成を見送ったのち、わたしは本にはさんである彼の置き手紙を発見した。

 「将軍、祖国を取りもどそうと1年365日、一日として安らかに眠られたことのない将軍に、ご心配ばかりかけて発つこの伝令兵の心は、申し訳ない気持ちでいっぱいです。けれども、向こうへ行ってりっぱに戦いますから、どうかご心配なさらないでください。苦しいときは、『祖国を取りもどすためにこの苦労に耐えよう』とおっしゃった将軍のお言葉を思い返します。愛情のなかではぐくんだ愛国の節義を汚すことなく、この一命をわらくずのごとく投げだして解放の聖業にいささかなりともつくすつもりですから、将軍、ご心配なさらずなにとぞお元気でいらしてください」

 幼い伝令兵の手紙にしては、あまりにも奥床しいものであった。わたしの戦友たちはみな、このように義理がたく、情に厚かった。

 この日、魏拯民は、南湖頭から青溝子、官地をへて迷魂陣まで来る道々で、朝鮮の同志たちのあいだにゆきかう同志愛がいかに厚いものであるかを実感させられたと言って、涙ぐんだ。

 「勇将のもとに弱卒なしという言葉のとおり、金日成同志の隊員は、みながみな勇敢で、人情がまた格別なので、本当にうらやましいかぎりです。あの黄正海をみてものどから手が出るほどの青年ではありませんか」

 わたしは、琿春の青年義勇軍小隊と一緒に炊事隊員として任銀河も魏拯民にゆだねた。黄正海も魏拯民について行くときは、呉大成のようにわたしとの別れを悲しんだ。だが、彼もやはり涙を流しながらも、将軍の願いどおり魏拯民同志を見守るから心配しないでほしいと、わたしを安心させた。そして、そのときに誓ったとおり最期の瞬間まで魏拯民をりっぱに護衛した。魏拯民の病気が最悪の状態になったときには、黄正海がいつも背負って歩き、敵の討伐のたびに必死の血戦を展開して彼を救った。そのため、魏拯民は、臨終のときに親しみをこめて黄正海を呼び、「わたしはあの世に行っても正海を忘れず、朝鮮の同志たちのまごころを忘れない。どうかりっぱに戦って、金日成同志のおともをして祖国へ凱旋してくれたまえ」と声を震わせて語ったという。しかし、魏拯民がかくも信頼し、忘れがたく思った黄正海も、ついには、わたしのもとにもどれず、満州荒野の露と消えた。わたしはいまでも黄正海を思い浮かべるときは、まず、南湖頭から白頭山にいたる数百里の迂回路―南下行軍を思い出す。青溝子密営で一緒に行くといって、子どものように地団駄を踏んだ黄正海、彼は、迷魂陣まで来てから魏拯民に従った。青溝子密営から白頭山に向かう遠い南下行軍をともにする過程で、黄正海にたいするわたしの愛情はいっそう深まったようである。

 南湖頭から白頭山への数百里の南下行軍の途上で、北へ向かわせたわたしの戦友はどんなに多かったことか。朴吉松、韓興権、張竜山、全万松、朴泰化、崔仁俊、呉大成、呉世英、金泰俊など、数え切れないほどの戦友が、南満州と北満州の山野に若い血潮を流して倒れた。

 名射手で人情に厚い張竜山の犠牲もそうであるが、若年で昼夜を分かたず仕えてくれた呉大成との再会を果たせなかったのは、じつに哀惜に耐えない。彼は、呉仲洽に非常に可愛がられた弟である。わたしが呉大成と別れるとき、第1師第2連隊に属して蛟河遠征に参加していた呉仲洽は、弟が遠く北満州へ向かうのも知らなかった。

 わたしは、金山のおかげで、白頭山地区で蒸しトウモロコシにアミの塩辛をつけておいしく食べたことがある。蒸しトウモロコシにアミの塩辛という取り合わせが風味であったことは確かであるが、そこに呉大成の願いと情がこもっていることを思い、わざと腹いっぱい食べた。兄は南、弟は北と遠く離れて戦ったが、祖国解放の日には、きっと武功を誇る再会ができるだろうとかたく信じた。だが、彼らは2人とも異国の荒野に果て、祖国には帰れなかった。犠牲となった戦友たちは、わたしが期待し信じたとおり、南満州と北満州の各地で朝鮮革命家の気概を失わずりっぱに戦った。

 青溝子密営で戦友たちと涙ながらに別れたのち、崔春国とは1年半ぶりに再会し、ある戦友とは5年、6年後に、またある戦友とは解放された祖国で感激的な再会をしたが、彼らはみな粛然として先に逝った戦友たちを追想した。

 生き残った戦友たちもまた、数々の武勲談をたずさえてわたしのもとにもどってきた。ある同志は常勝の英雄支隊長となって名をとどろかし、またある同志は、中隊長、旅団長、師団政治委員などのそうそうたる軍・政幹部となって赫々たる武功を立てた。しかし、昔日の甘え気はまだ残っていて、「将軍のそばを離れてからは、親もとを離れたような気がしました。お目にかかりたくて、いつも泣いたものです」と言って涙をぬぐうのであった。

 わたしがもどれなかった戦友たちをしのぶと、彼らは抗日闘争の日々のように、わたしを慰めながら、こう言うのであった。

 「将軍、あまり心を痛めないでください。祖国を取りもどす戦いで、どうして犠牲がないといえるでしょうか。彼らとのあの日の別離が永久の別れになりましたが、その代価として祖国を取りもどしたのですから、彼らも自分の死を後悔しないでしょう」

 わたしは、このような戦友の愛情につつまれて80の生涯を生きてきた。わたしのもとにもどれずに永別した戦友たちは、わたしの生涯に深い傷跡を残したが、われわれの抗日革命史と祖国の歴史をきら星のごとく輝かせてくれた。そのため、わたしもやはり、抗日闘争の日々、北へ、南へと戦友たちを発たせた、あの悲しい別離を後悔していないのである。



 


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