金日成主席『回顧録 世紀とともに』

3 鏡泊湖のほとりで


 
 寧安県南湖頭でおこなわれた朝鮮人民革命軍の軍・政幹部会議で
朝鮮革命の一大高揚をもたらすための方針を示す金日成将軍(1936年2月)


 満州大陸随一の景勝である鏡泊湖の南側の湖畔には、南湖頭と呼ばれる小さな村がある。南湖頭というのは、湖水の南の先端にある村という意味である。この湖水の北側の湖畔にある村は北湖頭という。湖水にそそぐ小家h河の流れに沿って数里さかのぼっていくと、深い溪谷のさる山腹に古びた2棟の丸太小屋があった。その1棟がほかならぬ1936年2月にわれわれの会議の場となった家である。いまは、草木に覆われ、その跡すら見分けられないほどになっているというが、5、60年前にはその丸太小屋の前に大きなタケカンバと五葉松が1本ずつ立っていて、ここを訪ねてくる人たちの目印になった。1930年代後半期の歴史の発祥地となったのが、わが国の歴史家たちによって「小家h河の丸太小屋」と呼ばれているこの家である。

 われわれが第2次北満州遠征と称しているいま一度の遠征を終えてここに向かったのは、1936年の2月中旬、立春もすぎて雨水を迎えるころだった。節気からすれば春の始まりといえたが、北満州の酷寒は依然として猛威をふるい、きびしい大陸風は、われわれを容赦なく叩きつけた。鏡泊湖ではときおり氷の割れる音が聞こえ、小家h河の密林の中からは、凍てついたクヌギやオノオレカンバの裂けるするどい音が響いてきた。この地方の酷寒はすさまじいもので、熟練の炊事隊員でさえ屋外で炊飯をするときはご飯を半煮えにしてしまうのがつねだった。釜の底の米は真っ黒に焦げても、上の方は零下40度の低温のために煮えないまま冷めてしまうのである。北満州は、わたしの生涯で半煮えの食べ物をいちばん多く食べさせられた土地としても印象深い。

 抗日大戦の最初の銃声が響いて、いつしか4年という歳月が流れていた。朝鮮革命の主体的力量は、軍事的にも政治的にも大きく成長し、闘争の展望も楽観的であった。波瀾と逆境を乗り越えてきた抗日革命は確実に、新たな転換期に向かって力強く進展していた。

 遠征を終結し、重なった疲労を解く暇もなく、魏拯民と会うことになっていた南湖頭への道を急ぐわたしの心は、革命の未来にたいするさまざまな考えのため錯綜していた。わたしは、北満州遠征の全期間はもちろん、遠征を終えて小家h河へ行っているときにも、半年前にモスクワへ向かった使節の帰りを待ちわびていた。腰営口会議の決定に従って魏拯民がコミンテルンに提訴することになっていた基本問題は、表面上は東満州で数千名の朝鮮共産主義者を排除した「民生団」問題であったが、内容的には朝鮮革命の主体性にかんする問題であったといえる。いわば、朝鮮の共産主義者が朝鮮革命のスローガンをかかげてたたかうのが正当なのか不当なのか、合法なのか非合法なのか、コミンテルンの1国1党制の原則に矛盾するのか矛盾しないのか、ということであった。いまの考え方からすれば、それはあまりにも当然で火を見るよりも明らかなことであるが、コミンテルンが存在し、1国1党制の原則が逆らいがたいものとなっていた当時としては、どちらの見解が正しいか誤っているかは軽々しく判定できない複雑かつ深刻な難問題であった。それはまた、われわれの運命を決する重大な問題でもあった。

 1国1党制の原則を盾に、朝鮮人が朝鮮革命のスローガンをかかげるのは、共産主義者らしからぬ異端行為であり、反党的分派行為だと言いがかりをつける人たちの主張は、たいへんものものしく恐ろしいものであった。その論旨は、共産主義者はとりもなおさず国際主義者であるのに、どうして偏狭な民族主義理念にとらわれ、自分が党籍をおく国の革命にすべてをつくそうとせず、党もない故国のことに熱中することができるというのか、それは第2インターナショナルの時期に「祖国防衛」の看板をかかげた修正主義者と同じ立場だ、レーニンはつとに「祖国防衛」論者たちを社会主義・共産主義の背信者、敵として烙印を押し糾弾した、きみたち朝鮮の共産主義者が朝鮮革命論を主張しつづけるなら、社会主義の背信者、敵という烙印を押されかねないから、軽挙妄動しない方がよいというものであった。

 もちろん、わたしはこの問題についてそれほど心配はしなかったし、ある意味では、魏拯民がもたらす結果をおおよそ推測していたといえる。というのは、わたしの提起した問題は正当であり、またその問題にたいし魏拯民も十分な認識と理解をもっていたからである。わたしはコミンテルンの関係者たちが、朝鮮革命の根本問題にかんするわたしの提訴に当然、肯定的な返答を与えるものと信じて疑わなかった。コミンテルンがわれわれの苦衷を真理の側に立って公明正大に解決してくれるに違いないと確信していたのは、魏拯民を通じてモスクワに提訴した問題点がどの面からみても革命的原則と革命の利益に合致していると信じてきたことにもあるが、コミンテルンが新しい路線を追求していた当時の事情とも少なからず関係していた。レーニンによってコミンテルンが結成された1919年当時は、政権を握った労働者階級の政党はロシア共産党しかなかった。第2インターナショナルの修正主義的な社会民主党から革命的な左翼が決別して共産党を組織してはいたが、それらの党はまだ組織的にも思想的にもきわめて未熟で、自国の革命を自分の力で遂行できる勢力にまでは育っていなかった。ロシアで社会主義革命が勝利したのち、世界的範囲で資本の鉄鎖を断ち切り、ソビエト共和国を樹立するたたかいは時代の一潮流となってはげしく展開されたが、相応の結実をみることができずに挫折した。史上はじめての社会主義国家の出現という有利な客観的情勢にもかかわらず、各国の主体的革命力量は敵を圧倒し、最後の勝利が達成できるほど完璧には準備されていなかったのである。こうした事情は、全世界の共産主義者に、新生ロシアとロシア共産党を軸にした国際共産主義運動の再編成と組織的団結を重要な課題としてうちだし、コミンテルンの組織形式と活動方式において民主主義中央集権制の原則をうち立て、各国の党と革命運動が国際的中央の指示に絶対服従することを求めた。この要求を教条的に受け入れた結果、一部の共産主義者のあいだには自国の革命の目的と民族的利益を無視し、モスクワに追従する事大主義的な傾向があらわれ、そのため各国の革命運動は少なからぬ損失をこうむった。

 しかしながら、コミンテルンの統一的な指導のもとに、各国の革命運動は発展し、それらの国の革命力量も成長した。そして、各国の共産主義者が自国の革命を独自に遂行できる勢力として登場しはじめた。1920年代の初期からは、アジアの植民地、半植民地諸国でも共産党があいついで出現し、それらの党の指導のもとに民族解放闘争も急速に発展した。こうした過程で、多くの国の党の発言権が強まり、自分の党の路線を自主的に決定しようという要求が高まってきた。また、コミンテルンが、モスクワにあって世界革命の操縦桿を握り、各大陸の国ぐにの具体的実情にかなった処方をそのつど下したり、千変万化する状況と条件に即してそれらの国の革命闘争を指導するというのも、実際上むずかしいことであった。多くの国の人たちの連合体として組織されたコミンテルンは、路線と政策の作成と示達において一定の制約をもたざるをえなかった。国際共産主義運動は、世界的範囲で革命力量を組織し闘争を発展させるうえで、その組織形態と指導方法を徐々に変える必要があるという認識に到達するようになった。革命は、輸出または輸入によって進められるものではないという事情と、それぞれの国の革命力量を一つにかたく結集すべき緊切さは、各国の共産主義者をして路線の作成とその実行において主体性を確立し、自国の党の独自性を堅持する必要性を痛感させた。このような情勢は、コミンテルンが朝鮮革命の主体性を確認することのできる重要な裏付けとなっていた。

 魏拯民は1935年の夏に琿春方面からソ連に入ったのだが、もどってくるときはハルビンか穆棱をへて寧安にいたり、そこでわたしと会う約束になっていた。それでわたしも額穆遠征を終えて、寧安へ向かったのである。

 われわれが南湖頭への道を急いでいた時期と前後して、国際舞台ではファシズムの危険性が日ましに増大していた。スペインの内戦は、ファシストの露骨な武力干渉によって国際的な性格をおびた白熱戦と化していた。東方では、日本が新たな戦争の温床となりつつあった。日本の軍国化は、時々刻々加速化していた。1932年の「5.15事件」につぐ斎藤(実)内閣の成立によって政党内閣の時代は終わり、軍部内閣時代に移行した日本では、「戦争は創造の父であり、文化の母である」と賛美する熱気をおびた言辞が臆面もなく全世界に向けて乱発されていた。

 日本におけるファッショ化のすう勢は、南湖頭会議直前の1936年の「2.26事件」によって極点に達し、ついに少壮派軍部の海外侵略論が現実化していく局面をまねいた。反乱に参加した青年将校と1000余名の下士官および兵士は、首相以下大臣らの官邸を襲撃し、内大臣、蔵相、教育総監、侍従長などの政府要人を殺害し重傷を負わせ、警視庁、陸軍省、参謀本部、陸相官邸を占拠して、「日本の政治の心臓部」を制圧した。「尊皇討奸」のスローガンのもとに起こった武装反乱は4日目に鎮圧され、首謀者にたいする死刑宣告によって政局は収拾されたが、この事件は日本軍国主義がばっこする危険信号となった。皇道派と統制派の対立によって表面化した軍部内の軋轢の産物と評されている「2.26事件」は、日本におけるファッショ化、軍部独裁による軍国主義体制の確立がいかにゆゆしい段階にいたっているかを実証していた。日本国内での軍国主義勢力のしゅん動は、新たな戦争と大規模な軍事行動に発展しうる危険をはらんでいた。

 われわれは、日本でのこうした事態の進展を強い警戒心をもって注視し、そこから招来される結果を予測して、闘争戦略を再検討した。反乱は失敗したが、それは日本軍国主義が国内政治にいかに横暴に参与しており、海外侵略の道を開くためいかに狂奔しているかを如実に示した。事実、日本はその後1年半足らずのうちに中日戦争を引き起こし、より大きな侵略の道に突き進んだのである。

 日本のファッショ化は、植民地朝鮮を窒息させる策動を加速させた。朝鮮半島では、朝鮮的なものをすべて抹殺し、あらゆる形の反日運動と反日的要素まで全滅させる狂気の大せん滅戦が展開された。日本語ではなく朝鮮語を使うこと、色物ではなく白衣を着ること、「日の丸」を掲揚しないこと、神社参拝をしないこと、「皇国臣民の誓詞」を唱えないこと、ひいては下駄をはかないことまでもが、反日、反逆、反国家行為として犯罪視され、処罰を加え、罰金を科し、拘束した。

 民族抹殺のすさまじい大旋風のなかで、良心のかけらさえ失ってしまった昨日の愛国志士は、命だけでもつなぎとめようと、「同祖同根」と「内鮮一体」を唱えて民族反逆への道を歩んだ。愛国は押しやられ、売国がまかりとおる時世だった。朝鮮そのものが消え失せようとしていた。こうした暗たんたる現実こそは、われわれが白頭山へ進出して、朝鮮は生きている、朝鮮はたたかっている、朝鮮は必ずよみがえる、ということを実証しなければならないもっとも切迫した理由になっていたのである。

 南湖頭会議と前後した時期、内外ではこのように衝撃的な変化が相ついで起こっていた。こうした国際的な出来事がわれわれに大きな重圧感を与えたのは確かであるが、だからといって意気消沈していたわけではない。わたしは、武装闘争を国内に深く拡大すれば、日本帝国主義を必ず打倒することができるという自信をいだいていた。

 行軍はつらく、疲れもたとえようもなくひどかったが、近い将来の白頭山地区進出を眼前に描く隊員たちの士気は天をも衝かんばかりであった。われわれが鏡泊湖にまつわる珍珠門村の伝説を聞きながら、その伝説が示す意味深長な教訓をもって論争し合ったのも、南湖頭への途上であったと思う。伝説の筋は、非常に面白い内容のものであった。

 鏡泊湖畔の珍珠門という村に貧しい父親と娘が住んでいた。20歳になろうとする娘は、傾国の美女といわれるほどだったので、付近の若者はみな、この娘と偕老同穴の契りを結びたがっていた。ところで、娘の父親は、千丈の水の中まで見通せる神通力をもっていた。ある日、父親は娘にこんなことを言った。

 「わしが以前、釣をしながら湖の底をのぞくと、金の鏡が沈んでいた。その鏡を取ってくるためには、湖底に棲む三つ頭の怪物を退治しなければならないのだ。そういう大事をなし遂げるには、勇敢で大胆な助太刀が必要だ。そういう助太刀が探し出せなくて、お父さんはこのごろ悩んでいるのだ」

 親孝行な娘は、その話を聞いて父親にこう言った。

 「お父さんを助けて金の鏡を取ってくる若者がいれば、わたしはその人に嫁ぎます」

 父は娘の申し出に賛成した。そして隣近所の村に娘の考えをふれまわった。そのうわさを聞いて、多くの若者が珍珠門に集まってきた。けれども、娘の父親から金の鏡を取ってくる方法を聞いては、誰一人助太刀をしようとする勇気のある者がいなかった。そんなとき、楊という姓の若者があらわれ、助太刀をしたい、と申し出た。父親と娘は、即座にその申し出を快諾した。そして、金の鏡を取ってくることに成功すれば婿に迎えるという約束までした。一点の雲もなくきれいに晴れたある日、父親はその若者を連れて湖へ行った。舟を湖に浮かべた老人は、大、中、小の三振りの剣を若者に渡し「わしが最初水面に浮かびあがったらいちばん小さい剣を渡すのだ。2回目は中剣、そして3回目は大剣を渡してくれ。ただし、剣はすばやく渡さなければならない。怖がってはいけない。金の鏡を取ってくる前に、途中でおじけづいて逃げ出すようなことがあったら、わしの命はもちろんのこと、おまえの命もないものと思え」と言った。若者は、「それは心配に及びません」と言って老人を安心させた。やがて老人は水中に潜っていった。若者は舟から水中をのぞきこみ、娘は湖畔で若者を見守った。しばらくすると、老人の蒼白な顔が水面に浮かびあがった。若者は、約束どおり小剣を老人に渡した。老人はそれを受け取って水中に潜っていった。すると、湖水の深層がはげしく揺れはじめた。老人は血のしたたる人間の頭ほどの怪物の頭を手にして水面にあらわれては、中剣を受け取ってまた水中に潜っていった。しばらくすると、にわかに水面が波立ち、舟を転覆させかねない風浪がまき起こった。全身血まみれになった老人が、今度は馬の頭ほどの怪物の頭を手にして水面にあらわれ、若者から大剣を受け取り、またもや荒れ狂う水中に消えていった。雷鳴がとどろき、湖水には激浪が逆巻いた。若者が乗っていた舟は、いまにもその激浪に呑み込まれんばかりにはげしく揺れた。湖畔に立ってこの恐ろしい光景を見守っていた娘は、心臓がとまりそうな気持ちで手に汗を握り、居ても立ってもいられなかった。気が動転した若者は、老人との約束を忘れ、湖畔で自分を見守っている娘のこともすべて忘れ去り、岸をめがけて全力で櫓をこいだ。娘はいきどおって若者を責めた。そして、若者を説き伏せて自分も一緒に舟に乗り、湖水の真ん中に舟をこぎだして父親を探した。風はおさまり波も静まったが、父親は2度とあらわれなかった。娘と若者は声をかぎりに呼びつづけたが、すでに湖水の霊となっていた父親が2人の絶叫にこたえるはずはなかった。娘は、涙ながらに約束をたがえた若者をなじった。だが、口論に夢中になっていた舟の上の2人の姿もいつしか霧の中に消え去ってしまった。

 額穆で聞いた話と寧安で聞いた話とでは多少違ってはいるが、伝説の筋はおよそこういうものだった。鏡泊湖という湖水の名も、おそらく珍珠門の伝説に由来しているのであろう。この伝説は、道義と犠牲的精神という二つの側面でわれわれに多くのことを考えさせた。隊員たちはみな、若者を義理知らずの卑怯者だとののしった。この伝説が残した余韻は非常に大きかった。後日、パルチザンたちは隊列内から卑怯者が出ると、「鏡泊湖の楊のようなやつ」だと非難するのだった。

 生死の岐路に立たされた祖国の運命、民族の運命がわれわれに提起している当面の歴史的課題を解決するにはどんな対策が必要であるか、という問題を討議、決定するため、わたしは白頭山へ向かう前にまず小家h河で朝鮮人民革命軍の軍・政幹部会議を招集することにした。モスクワへの使節の帰りを待ちながら、会議に提出する報告の草稿をほぼ書き終えた2月中旬のある日の夕方、ノックもなく丸太小屋の扉が開くと、魏拯民がわたしの前にあらわれた。彼は数か月間の入院治療のため予定より帰りが遅れたと謝ったが、予定の期日は過ぎていても病弱な体をもちなおして満州にもどってきたのは喜ばしいことだった。モスクワの空気を吸ってきたせいか、丈夫になったように見えた。まだ、くわしい話は交わしていなかったが、その物腰と余裕綽々の態度を見ただけでも、彼のモスクワ行きが好ましい実りをもたらしたに違いないと推測された。

 魏拯民の帰路は、坦々としたものではなかった。鉄道を利用してハルビンを経由し、寧安まで来て周保中の第5軍の人たちに会ったのち、南湖頭へ来る途中、湾溝部落付近で巡察中の警官につかまった。数言の不審尋問によって怪しい人物だと判断した警官は、彼を自分の分署へ連行しようとした。彼の携帯品の中には、コミンテルンからの重要な文書が入っていた。連行されれば万事休すである。彼は警官に50元をつかませて、その場を無事に切り抜けた。彼は、自分の値打ちが数万元にはなるのではないかと思っていたが、たったの50元だったと冗談を言った。

 魏拯民はことさらに改まって、わたしに握手を求めた。

 「金日成同志、その手をもう一度握らせてください」

 わたしは腑に落ちなかった。

 「さっき握手したばかりなのに、また握手ですか?」

 「祝うべきことがあるのです。これは意味のある握手です。喜んでください。金日成同志、コミンテルンでは同志の提訴を慎重に討議した末、提起されたすべての問題が全面的に正しいという結論を下していくつかの重大な指示を出しました。すべてのことが朝鮮共産主義者の願いどおりになったのです!」

 わたしは、われ知らず目をうるませ、魏拯民の両腕をむんずと引き寄せた。

 「そうでしたか!」

 「ええ、コミンテルンは、反民生団闘争の問題をはじめ、東満党の一部の活動に重大な極左的失策があったことを指摘しました。このことについては、コミンテルンの責任幹部から中国共産党代表部の活動家にいたるまで、みな同じ見解を披瀝しました。もっとも重要なのは、朝鮮の共産主義者が朝鮮革命を直接責任をもって遂行するのは誰にも譲歩できない神聖な権利であることをコミンテルンが認め、それを支持したということです。コミンテルンは、今後、中国の共産主義者は中国革命のために、朝鮮の共産主義者は朝鮮革命のためにたたかうように責任を分担すべきだという明白な結論を下しました」

 魏拯民はなぜか、しばし言葉を継ぐことができなかった。わたしは、彼が深い自責と悔悟にとらわれていることを感知した。互いに額に青筋を立てて語気を強め、自己の主張の正しさを論じ合った激論を思い返しているのだろうか。大荒崴と腰営口の会議場でわれわれはどれほど深刻な論難を体験してきたことか。そして、会議場の外ではまた…。

 だが、魏拯民のモスクワ行きによって、あれほど複雑をきわめていた問題が、われわれの所望と念願どおりスムーズに解決されたのである。魏拯民のモスクワ行きにかんする一部の資料によれば、彼はコミンテルン第7回大会に参加したのではなく、学習視察を目的に地方党および団の幹部10名を伴って琿春から出発し、その主要任務は、コミンテルン駐在の中国代表団に「民生団」問題を報告することであったとされている。その他にもいろいろな資料があるが、それは事実とは合致していない。彼がコミンテルン第7回大会に参加したという資料は、現在も厳然としてコミンテルンの文書庫に残っている。魏拯民は自分がモスクワへ行って、満州におけるパルチザン闘争にかんする詳細な資料をコミンテルンに提出したと述べている。彼がコミンテルンに提出した報告は、「馮康報告」という題目になっている。彼はモスクワへ行っては、魏拯民という本名のほかに馮康という名でも活動した。反民生団闘争が極左的に進められた問題にかんする資料には、相異なる見解が記録されている。ある資料には、その極左の主なる責任は魏拯民にあると記されており、また別の資料にはそれとは逆に、彼が東満特委の書記として派遣されてきて以来、反民生団闘争の偏向が正されるようになったと記されている。わたしは、反民生団闘争の弊害がすべて魏拯民の責任だとは考えなかった。正直なところ、1934年の冬、魏拯民がハルビン市党書記を勤めながら、省委の巡視員として東満州に派遣されてきた当初、「民生団」問題のような複雑な事態にろうばいして手をつけかねていたことは事実である。当時、彼は革命組織と遊撃隊内には民生団が多数潜りこんでおり、したがって、それを徹底的に粛清しなければならないという既成の思考方式にかなりこだわっていた。後日、彼が語ったところによれば、最初は朝鮮人の大部分が民生団ではなかろうかとまで考えたという。彼がコミンテルンに行ってわたしのことについて報告した資料をみても、彼の話はおおむね真実であると思われる。

 「金日成。朝鮮人。勇敢で積極的である。中国語に堪能。パルチザン出身。民生団だという陳述が非常に多い。隊員と語り合うことを好み、隊員のあいだで信頼され尊敬されている。救国軍のあいだでも信頼され尊敬されている」

 いずれにせよ、魏拯民は初期にはあれこれの誤りを犯したが、モスクワまで行って「民生団」問題にかんするコミンテルンの結論を受けてきたのであるから、粛反闘争における極左的誤謬の是正に大いに寄与したと評価するのが妥当であろう。事実、彼は大荒崴会議のときも「民生団」問題についてのわたしの立場に理解を示した。彼が民族観念を超越して、コミンテルンに東満州の実態を正確に報告し、われわれに有利に万事をスムーズに解決して帰ってきたのはうれしいことだった。

 「ありがとう。コミンテルンもありがたいし、とくに、われわれのために病弱な体でモスクワまで行って骨をおってくれた魏拯民同志がそれ以上にありがたいです。この恩は忘れません」

 これは、わたしの心からの挨拶であった。魏拯民は、過分な称賛だと言っててれていた。

 「東満特委とその傘下のわれわれ中国人共産主義者は、反民生団闘争において偏狭に問題をとらえ、人びとの運命を極端に処理する重大な過ちを犯しました。事実、多くの朝鮮人共産主義者と革命家がいわれもない被害をこうむったのです。反民生団闘争を公明正大に進められなかった問題にかんしては、わたしも大いに責任を感じています。コミンテルンでも、この問題について深刻な批判がありました」

 わたしは、彼の言葉を心からの自己反省として受けとめた。

 「老魏、共産主義者も人間なのですから、失策がないはずはないでしょう。わたしは『民生団』問題が複雑になった根本的原因は、日本人の民族離間策動に求めるべきだと思います」

 「そうです。結局は、われわれが一時敵の計略に陥って骨肉相食む争いをしたわけです。味方同士で殺し合ったのだから…。わたしが東満州にはじめて来たとき、誰かが、朝鮮人は間島を自分らの領土だといって奪い返そうとしている、きっと日本人を笠に着て間島を占拠しようとするに違いないから強く警戒すべきだ、と言うではありませんか。わたしも最初はそれを少々真に受けたようです」

 彼はこう言ってぎこちなく笑った。彼の表情を見て、わたしはなんとなく同情心がわいてきた。

 「老魏、万事が望ましく解決されたのですから、以前のことはもう考えないことにしましょう。正直に言って、老魏をコミンテルンに送り出すとき、わたしの心はとても重苦しかったのです。けれども、老魏がわたしの提議を受け入れ、コミンテルンに責任をもって伝達すると言明したとき、わたしはその誠実さを信じました」

 「ありがとう。わたしもそう考えてくれるものと信じました」

 コミンテルンは、朝鮮の共産主義者が朝鮮革命のスローガンをかかげるのは誤りではなく、それはコミンテルンが朝鮮の共産主義者に当然分担すべき神聖な義務であり、1国1党制の原則によっても奪い去ることのできない朝鮮共産主義者の堂々たる権利であることも明白に結論づけた。わたしは、籠の中から放たれた鳥のように、思う存分青空を飛びまわれる無限の自由を得たような気持ちだった。われわれには、以前にはなかった翼が生えたようなものである。翼が生えた以上、朝鮮革命には急速に上昇飛行できる展望が開かれたわけである。

 魏拯民は、コミンテルン第7回大会の全過程についてもくわしく伝えてくれた。当時コミンテルンに提起された焦眉の課題は、反ファシズム闘争を世界的範囲で強力に展開することであった。第1次世界大戦後、イタリアとドイツを中心に発生し、本格的に体系化されたファシズムは、ヨーロッパ諸国に陰惨で不安な政治的変動をもたらし、人類の頭上を新たな戦争の暗雲で覆った。イタリアのムッソリーニによって組織された「国民ファシスト党」からはじまったファシズムは、ドイツのヒトラーと彼によって組織されたナチ党によってその極限に達した。

 ファシズムは極端な民族排外主義を鼓吹したが、これはドイツに新たな世界大戦を起こさせる禍根となった。ファシズムが内包している極端な反共心理は、反ユダヤ人主義と結合して、それまで存在した古今東西のあらゆる反動思潮のなかでも、もっとも悪らつで有害な思潮となった。ファシストは、ドイツをはじめ、多くの国の政治舞台に無視できない勢力として登場した。ドイツの大資本家たちは、ヒトラーのようなファッショ独裁者の強力な暴力によってのみ、ドイツが直面しているすべての危機を克服し、共産主義を制圧してドイツ帝国の新たな中興を期することができるとみなした。ヒトラー・ファシストは、権力を奪取したのち、その手はじめとしてドイツ共産党弾圧の謀略に取り組んだ。世界を驚愕させた悪名高い国会議事堂放火事件は、その謀略によって演出された前代未聞の茶番劇である。これによって、ヒトラーやゲーリングのもくろむ政治的企図は恥ずべき失敗に終わった。言うまでもなく彼らは、この事件を契機に共産党を非合法化し、国会そのものを有名無実の存在に変えはしたが、世界の面前にもっとも反動的で露骨なブルジョア政体としてのファシズムの正体を赤裸々にさらけだした。ドイツ・ファシストは世界の面前で、挑発者、独裁者、戦争放火者という烙印を押された。

 ドイツにおけるファシズムの強化は、進歩的諸国人民を目覚めさせた。ファシズムの台頭と新たな戦争の危険に直面して、コミンテルンは共産党と社会党の分裂を防ぎ、統一的な歩調でファシズムに対抗することを重要な戦略的課題として提起した。こうして、国際的に反ファシズム人民戦線運動が活発に展開されるようになった。東方の被抑圧民族と植民地従属国での反ファシズム人民戦線運動は、帝国主義の侵略に対処してすべての民族的勢力を一つに結集する反帝民族統一戦線運動として具現された。コミンテルン第7回大会は、まさにこうした戦略的目的から、各国の共産党がすべての反ファシズム勢力と反帝勢力を結集するよう要求した。

 魏拯民は、帝国主義とファシズムに反対する闘争を国際的範囲で強力に展開するというディミトロフの報告がきわめて印象的であったとし、彼にたいする敬愛の念を披瀝した。世界の耳目と進歩的知性が見守っていたライプチヒ公判の主人公ディミトロフを、わたしは当代の巨人だと思った。ファシズムに反対して積極的にたたかおうという彼のアピールは、強い力で進歩的諸国人民の心をとらえた。

 ソ連人であるジノービェフ、ブハーリン、マヌイリスキーに代わってブルガリア人のディミトロフがコミンテルンの首位に立ったのは、新しい発展段階に入った国際共産主義運動の状況をそのまま反映する一つの象徴となり、コミンテルンの活動が各国共産党の独自の活動に立脚して進められる新しい時代に入っていることを示す証左となった。コミンテルン第7回大会がその決議で、各国党の独自の活動を大幅に許容したのは、こうした時代の要請を反映したものだといえる。大会が朝鮮革命にたいする朝鮮共産主義者の権利と責任を全面的に認めたのは、まことに幸いなことであった。

 魏拯民の帰還報告を聞きながら、わたしは、われわれの偉業の正当さ、われわれの路線の正確さをいっそう強く確信するようになった。魏拯民は、「満州における反帝統一戦線について」という楊松の文章が載ったコミンテルン機関誌『コミンテルン』と、コミンテルン東洋部の王明、康生が、連名でコミンテルンから吉東地区の責任幹部によこした書簡をわたしに渡しながら、ここに朝鮮にかんするコミンテルンの決定の基本的部分が解説してあると話してくれた。楊松はその文章で、「左」翼日和見主義的誤謬を克服して反日統一戦線を早急に結成することを提唱しながら、中国共産党は、いまや中国、朝鮮、モンゴル、満州の被抑圧民族の統一戦線というスローガンをかかげるべきだと指摘した。また、中朝民族は、かたく連合して日本のかいらい満州国統治をくつがえして間島朝鮮人民族自治州を樹立し、朝鮮人民革命軍の各部隊が中朝反日連合軍に網羅されて活動しながら、朝鮮民族の独立をめざしてたたかうようにすることについても強調していた。楊松とは、わたしが第1次北満州遠征のとき周保中の山小屋で会ったことのあるコミンテルン派遣員呉平の別名である。

 コミンテルンは、われわれにたんなる精神的支持、路線上の支持のみを与えたのではなかった。今後、朝鮮革命を力強くおし進めるうえで助けとなるいくつかの対策案まで示して、行動上の支持も与えた。そのうちの一つが、これまで連合して共同闘争を展開してきた各反日遊撃部隊を朝鮮人部隊と中国人部隊とに分けて再編制せよという指示であった。これは事実上、朝鮮革命にたいする朝鮮共産主義者の責任と権利にかんする問題で核心をなしており、朝鮮革命の主体性、独自性を堅持するうえできわめて重要な位置を占めていた。コミンテルンの指示どおり満州のすべての遊撃部隊から朝鮮人を全部引き抜いて純粋の朝鮮人部隊を別個に編制するなら、その勢力だけでも朝鮮駐屯の日本軍2個師団を相手に血戦をくりひろげることができた。われわれが1当10の精神で日本軍と血戦をくりひろげるなら、朝鮮の青年たちは腕をこまぬいてはいないだろう。彼らがわれわれに加勢するなら、戦局は変わり、祖国の解放はいちだんと早まるはずだった。

 しかし、われわれは、これまで多年にわたって同じ戦列で共通の敵に反対して連合抗日の闘争を展開してきた共産主義者としての兄弟の道義、戦友の道義を捨てることはできなかった。自分たちに有利だからといって朝鮮人をすべて引き抜くなら、朝鮮人が兵員の90%を占める第2軍などは崩壊せざるをえなくなるはずだった。第2軍を除く他の遊撃部隊では中国人が過半数を占めていたが、その大部分は反日部隊出身で、共産主義者は多くなかった。そのうえ、指揮メンバーは、どの部隊でも多くが朝鮮人であった。各部隊の中核をなしているのもやはり朝鮮人隊員であった。こういう状態で朝鮮人と中国人を分けて別々に部隊を編制するなら、当面は抗日連軍部隊の維持が困難になるほかはなかった。

 朝鮮の共産主義者は1930年代の中期から中国の共産主義者とともに抗日連合軍を編制し、反満抗日の旗のもとに共同闘争を展開することによって、抗日武装闘争を成功裏に発展させていた。新しい情勢のもとで朝鮮人民革命軍部隊が国境地帯へ進出して朝鮮革命に力を傾けるからと、中国人民の抗日武装部隊との共同闘争を弱めることはできなかった。ファシストらの連合した力に対抗して、スペインで人民戦線を支持する進歩的勢力が団結して戦っているとき、朝中抗日武装部隊を朝鮮人部隊と中国人部隊とに分けるというのは、時代のすう勢にも合致せず、道義にも反することであった。

 われわれが中国の領土で武装闘争を展開している状況で、朝鮮人が別個に部隊を組織するとなれば、われわれにたいする中国人民の支持と援助も従前より弱まりかねなかった。われわれが要求したのは自主権であって、分権ではなかった。朝鮮人が制約と拘束と妨害を受けずに朝鮮革命を推進できる自主的権利を認め、尊重することを要求したのであって、勢力配分を要求したのではない。もちろん、このことは、魏拯民をはじめ中国の同志たちもよく知っていた。だが、魏拯民は、モスクワから持ち帰ったもっとも大きな贈り物はほかならぬこの分権だと考えていたようである。彼は、コミンテルンの意思どおり部隊を民族別に分ける案を立ててはどうかと、重ねて言った。

 「魏拯民同志、あなたの気持ちは十分理解できます。しかし、問題をそのように一面的に考えるべきではないと思います。われわれは共産主義者なのですから、すべての問題を革命の原則と階級的利益の見地から考察すべきです。朝鮮の共産主義者が自国の革命を語るのは、決して偏狭な民族的利益のみを追求してのことではありません。わたしは、革命の民族的利益はつねに国際的利益と結合しなければならないと思うし、また民族的利益に反するいかなる国際的利益もありえないと考えます。それで、朝中抗日部隊、それもすでに数年間同じ戦列で戦っている統一的な武装部隊をそのまま存続させる方が革命に有利なのか、さもなければ民族別に分ける方が有利なのかということを、わたしとしては熟考せざるをえません。抗日武装部隊を民族別に分けるのは、朝鮮の共産主義者を尊重しての提起だといえますが、わたしは決して問題を形式的に考察しはしません。それに事実上、われわれは中国の共産主義者とともに戦いながらも、内容的には朝鮮人民革命軍として活動しています。こういう状況のもとでは、形式上の分離は不必要だと思います」

 魏拯民は喜びを隠しきれない表情ではあったが、慎重な口調で尋ねた。

 「そうなると、コミンテルンの指示を実行しないことになるのではないでしょうか?
道徳的見地からしても、われわれには抗日連軍部隊に朝鮮の同志たちを引きとめておく権利はありません」

 「それは心配する必要がないと思います。連軍の体系どおり活動しながらも、われわれが朝鮮国内と東北の朝鮮人集落へ行っては朝鮮人民革命軍と名乗り、中国人集落へ行っては抗日連軍と呼んではどうかということです。そうすれば、連軍の体系を維持しながらも、コミンテルンの指示を実行することになるではありませんか。どうですか?」

 「感謝します。金同志がそれほど深く理解してくれようとは、わたしも考えていませんでした。朝鮮の共産主義者がそういう度量をもってこの問題にのぞむなら、それは中国革命にたいする大きな支持となります」

 わたしは笑顔で魏拯民の手を握った。

 「老魏、われわれが、1、2年だけ一緒に戦ったのでもないし、また、これから1、2年戦って別れるわけでもないでしょう。中国がわが国の隣にあり、共産主義の理念が勝利する国でありつづける以上、われわれの友誼は永遠につづくでしょう」

 「感謝します。金同志、わたしは、あなたのような朝鮮の同志と同じ隊伍で戦えることを光栄に思っています。今後わたしは、金日成司令の政治委員にならせてもらうつもりです。朝鮮の同志たちとさらに強く団結して、朝鮮革命を援助して差し上げたい気持です」

 われわれはかたく抱き合って満足げに笑った。

 事実、わたしは南湖頭で魏拯民に会って以来、彼にたいする認識を新たにした。また、魏拯民自身も、かつての失策についていつも負い目を感じていた。彼はコミンテルン第7回大会以後、満州地方の党組織体系を改編したのち、南満省委書記兼東北抗日連軍一路軍政治委員の重責を担ったにもかかわらず、少なからぬ期間、中国人指揮下の部隊ではなく、わたしの率いる部隊と行をともにした。彼自身が冗談半分に言ったように、本当にわたしの指揮した朝鮮人民革命軍の政治委員になったようなものであった。どういうわけか、彼はいつもわたしと一緒にいたがった。日本官憲の資料に、魏拯民(魏明勝)がわたしの政治委員であったと記録されているのはあながち理由のないことではない。事実、彼はわたしとともに長白地区にも長くいたし、白頭山秘密根拠地にも何回か足を運んだ。彼は南湖頭会議以来、わたしの主張する路線や提案にたいして、ほとんど反対することがなかった。

 反民生団闘争によって一時、試練をへなければならなかった朝中共産主義者の同盟は、南湖頭会議を境にして新たな段階を迎えた。われわれは、その後も中国の共産主義者、中国の反日勢力と共同で日本帝国主義との武装闘争を10年近くつづけながら、一方では朝鮮革命を前進させ、他方では中国革命を積極的に援助した。このように、朝中共産主義者間の支持と連帯の歴史は、1930年代の初期からはじまっていたのである。中国のある指導者は、朝中人民のこうした兄弟的友誼と支持を評して、朝鮮人民の中国にたいする支持は細いが長く、中国人民の朝鮮にたいする支持は太いが短いと語ったことがある。これには、小さな国でありながら長いあいだ兄弟的中国人民を援助した朝鮮人民の業績への心からの評価がこもっているといえる。

 魏拯民との出会いは、わたしの記憶に生涯消えることなく残っている印象深い出来事のうちの一つである。彼のモスクワ行きが朝鮮革命の前に横たわっていた障害を取り除くうえで大きな役割を果たしただけに、わたしはいまなお彼をありがたく思っている。

 ここに、魏拯民との出会いをいっそう忘れがたいものにしたエピソードが一つある。わたしが軍・政幹部会議の準備をしていたある日の昼食どき、伝令兵が駆けつけてきて、監視所が大きな虎に脅かされているから、発砲するのを承認してほしいと言うのであった。彼の話によると、見張りに有利な崖の上に監視所を定めたのだが、その崖の下に虎穴があり、大きな虎が子を2匹連れてすんでいるというのである。歩哨に立つ隊員が怖がって監視所を移そうというのだが、適当な場所がないし、虎も襲ってくる気配がないのでなんとかすごしてきた。ところが、昨日から虎がものすごく猛りたっているというのである。虎が急に荒々しくなったのは理由があってのことだと思い、監視所に行ってみた。崖の上から見下ろすと、すごく大きな虎が洞穴の前に座っていた。わけを聞いてみると、虎を怒らせたのは監視勤務に立った隊員たちであった。彼らは、洞穴の外で日向ぼっこをしている子虎とたわむれているうちに手を引っ掻かれたので、いたずら半分に頬面を1回軽く叩いた。餌を求めて帰ってきた親虎がこの光景を見てからは、監視所に向かって日に何回となく吼えて高い崖岩の中腹まで飛び上がってくるというのである。

 「そんなに心配することはない。虎があんなにけたたましく吼えるのは、監視所の隊員が子虎に危害を加えるのを恐れて威嚇しているのだ。あれは二度とわが子をいじめたら許さないぞという警告だと思えばよい。虎も銃をもった人間とは勝ち目のない戦いをしようとはしないはずだから、安心してもよい」

 わたしがこう言ったので、監視所の隊員たちは虎を退治する計画を放棄した。彼らは、百獣の王と仲よくすごすことにした。最初の措置として、ノロ鹿の脚を一本崖の下に投げた。その後も何日か餌づけがつづけられた。虎が威嚇しなくなったのは言うまでもない。それ以来、虎はわれわれと親しい隣人になった。われわれが南湖頭を離れて白頭山地区へ行った後も、この地方で活動していた人民革命軍の将兵たちは、その虎との「善隣関係」を維持したという。

 林春秋の話によると、この虎穴を最初に発見したのは、大家h河の谷間に来ていた崔仁俊の中隊であったという。大家h河の谷間には、病院もあり、兵器廠や通信処もあった。給養担当のメンバーもここに来ていた。1935年の末にわたしに呼ばれて汪清から南湖頭方面へ遠征隊を訪ねてきた林春秋は、しばらくのあいだ小溝の主のない隠者庵に病院を設けて患者の治療にあたっていたが、大家h河の台地にもっと適切な密営地が見つかったのでそこへ移ることにした。隠者庵というのは、山中で隠遁生活をする人が住む小屋のことである。若いころ山中にこもって7、80歳になるまで一生隠者庵で世間との交わりを断ち独身で暮らす人たちの生業は、狩りと薬草の採集、ケシ(アヘン)の栽培であった。隠者庵の主人たちは、ほとんどが長命だった。だが、長寿を保つ人の人生にも終末はあり、孤独な人生が幕を閉じれば、主のない隠者庵は空家になる。

 林春秋の病院では、われわれの遊撃隊員だけでなく、第5軍の負傷者も治療した。汪清連隊の参謀長だった柳蘭漢が、入院して病死したのもこの病院である。崔仁俊指揮下の汪清第3中隊は、彼らを保護、扶養する任務を担っていた。中隊は、武器や食糧を手に入れるため付近の満州国軍の兵営を襲撃したことがある。その戦闘で100余挺の小銃をろ獲した。彼らは武器の保管に適した場所を物色しているうちに、病院と通信処が位置していた台地の下の崖岩で洞穴を一つ発見した。崔仁俊は、その洞穴の中に100余挺の小銃を隠した。洞穴の入口を石でふさいで崖から降りてくる途中、彼はもう一つの洞穴を発見したのだが、それが例の虎穴であった。わたしは南湖頭会議を回想するたびに魏拯民が思い出されるのだが、同時に会議中の話題の的になった大家h河密営の例の虎が思い浮かぶ。

 われわれは1936年の2月下旬からほぼ1週間、小家h河で朝鮮人民革命軍の軍・政幹部会議を開いた。この会議は、一名南湖頭会議ともいう。会議には、魏拯民をはじめ中国の同志たちとともに、金山虎、韓興権、崔春国、全万松、崔仁俊、朴泰化、金麗重、林春秋、全昌哲など3、40名の軍・政幹部が参加した。コミンテルンへ行ってソ連の病院で治療を受けてきた尹丙道もこの会議に参加し、小家h河で数か月ぶりに魏拯民と感激的に再会した。魏拯民は参会者たちに、わたしが大荒崴と腰営口で提起した一連の問題にたいするコミンテルンの見解と指示を伝達した。参会者たちは、彼が病躯をおしてモスクワまで行き、望ましい結論を受けてきたことに深い謝意を表した。

 わたしは報告で、1930年代前半期に豆満江沿岸で展開してきた軍事・政治活動の経験を総括し、革命の新たな転換期を迎えた反日民族解放闘争の強化発展のために朝鮮の共産主義者に提起される重要な課題と、それを遂行するための新たな戦略的方針を示した。すなわち、朝鮮人民革命軍の主力部隊を国境地帯と白頭山地区に進出させ、闘争の舞台を徐々に国内へ拡大する方針、反日民族統一戦線運動を拡大する方針、党創立の準備活動を積極的に推進する方針、共青を反日青年同盟に改編する方針など、抗日武装闘争とそれを中心とする朝鮮革命全般を一大高揚へと引き上げる新たな方途を示し、それを討議にかけた。発言者たちは、報告で提示されたいろいろな方針に絶対的な支持と賛同を表明した。一つの方針をめぐって甲論乙駁し、口論をたたかわすようなことはほとんど起こらなかった。抗日革命を開始して以来、幾多の会議を主宰したが、路線の討議がかくも順調に運び、参会者の気分状態がかくも高揚した会議ははじめてであった。それはまったく、笑顔ではじまり、笑顔で終わった会議であった。参会者は、白頭山へ向かう日、国内深く進出して決戦をくりひろげる日を眼前に描きながら、競って発言した。

 白頭山と国内深くに進出するのは、朝鮮革命の主体的力量をうちかため、すべての力を総動員して朝鮮人民自身の力で日本帝国主義を撃滅するための決定的な闘争路線であった。白頭山へ進出し主力部隊を強化してまず国境地帯を掌握し、ひいては闘争舞台を国内深くに拡大するというわたしの提案は、参会者の絶対的な支持を得た。われわれが白頭山を根拠地として国境地帯と国内で武装闘争を活発に展開するなら、日本帝国主義の野蛮な軍事ファッショ支配のもとで苦しんでいる朝鮮人民に祖国解放の曙光をもたらすことができ、朝鮮人民革命軍を一日千秋の思いで待ち焦がれ、その姿を見たがっている2000万同胞に勝利の信念を与えることができる。これは、百言を費やすよりなお力強い示威となるはずであった。会議では、全国的範囲で祖国光復会を組織し、共産党創立のための活動を推進するという朝鮮革命の戦略的方針が採択された。

 南湖頭会議を分岐点にして、朝鮮革命は新たな高揚期を迎えた。そういう意味で、南湖頭会議は、1930年代の前半期と後半期を画する朝鮮革命の分水嶺といえる。南湖頭会議で採択された決定により、朝鮮の共産主義者は抗日武装闘争を中心とする朝鮮革命全般をいっそう高い段階に発展させる新たな里程標を立てることになった。南湖頭会議は一言でいって、朝鮮共産主義運動と反日民族解放闘争の歴史において、主体性を完全に確立したはじめての会議だといえる。この会議で採択された一連の決定は、それ以後の各段階の革命において、朝鮮の共産主義者に主体的立場を堅持し、いかなる逆境にあってもそれを民族の第一の生命として掌握していけるようにした。南湖頭会議はまた、勝利者の祝宴ともいえた。この勝利は、朝鮮の共産主義者が祖国と人民、歴史と時代の前に惜しみなくささげた無数の犠牲と血と労苦によって達成されたものである。初期の共産主義者の派閥争いと朝鮮共産党の解散や、反民生団闘争での「左」翼日和見主義者の誤謬のため、コミンテルンからも、兄弟諸国の党からも敬遠され、部分的ではあれ朝鮮人民からも敬遠された朝鮮共産主義運動は、南湖頭会議を契機に以前の欠点を払拭し、上昇一路をたどることができるようになった。

 小家h河では南湖頭会議の方針を実行するための講習が約1週間つづけられ、党創立方針の実現方途を討議する党政治活動家会議がおこなわれた。わたしはこれらの講習と会議で、南湖頭会議の方針について具体的に説明し、会議の基本精神を反映した当面のスローガンを提示した。「祖国へ進軍してラッパの音を響かせよう!」―これは、朝鮮革命の一大高揚への飛躍を願ってうちだしたわれわれのスローガンであった。

 われわれは南湖頭会議後、歩武堂々と祖国への進軍の途についた。抗日武装闘争は、まさに自己発展の新たな段階にさしかかっていた。



 


inserted by FC2 system