金日成主席『回顧録 世紀とともに』

2 ふしぎな縁


 北満州の額穆地区は、吉林時代からわたしと縁のある土地である。姜明根との連係のもとに麗新青年会という革命組織を結成し、それに参加した青年たちを対象に活動してきた蛟河と新站、杉松も、当時はまだ額穆県に属していた。この県が、蛟河県に改称されたのは1930年代の末期だったという。

 第2次北満州遠征のとき、われわれは額穆だけでも数百里の長征をした。青溝子、琵琶頂子、南天門、三道溝、馬鹿溝、新興屯、官地、柳菜溝、三棵松、牡丹江村、黒石郷、駝腰子などはいずれも、そのころ開拓した土地であり、北満州遠征隊の武功が記されている思い出深い戦跡地である。その過程では面白いエピソードも多かったし、印象深い人たちとも多く出会った。

 第2次北満州遠征の当時まで、この地方には革命の風の吹かない未開拓地が多かった。われわれが額穆遠征の問題を討議するとき、周保中が心配したのは決して理由のないことではなかった。

 「金司令は呉義成のような頑固者さえも一朝にして帰服させたほどなので心配はないと思うが、われわれはこの春に額穆へ行って『紅胡子』呼ばわりされ、行く先々で門前払いされたものだ」

 周保中の言う「紅胡子」とは、中国語で匪賊という意味である。ひところ共産主義者を敬遠していた呉義成が「紅胡子」という呼び名で周保中をさげすんだのだが、それ以来いつのまにか、それは共産主義者の軍隊一般にたいする蔑称となっていた。やはり、周保中の言葉どおり、わたしは遠征部隊を率いて額穆に足を踏み入れた瞬間から「紅胡子」としてあしらわれた。額穆の住民が遠征部隊を見ると「高麗紅軍」が来たといって村を空けて逃げ出したのは、われわれを「紅胡子」に劣らず敬遠したことを意味する。明らかに、彼らにとって「紅」の字は、背徳と残忍の代名詞のようになっていたのである。

 このような事情があったので、われわれは遠征中の多くの時間を大衆工作に費やした。大衆工作に時間をかけるのは浪費ではない。そういう努力の結果として、人民革命軍を敬遠していた人びとが親しい友人となり援助者となり、敵対関係にあった人たちが、容共、親共の道を歩みはじめるとき、われわれはじつに千金にも替えがたい無上の喜びを感じた。腰営口会議以後、泣く泣く遊撃根拠地をあとにした人たちの顔がしきりに目の前にちらつき、そのうえ革命にたいする憂慮が幾重にも重なって心身ともに疲れきっていたときに、額穆で得たそうした収穫はわれわれにとって大きな喜びであった。革命家にとって第一の喜びは、同志と友人を得ることであり、もっとも悲しいのは彼を失うことである。

 われわれは額穆県境にいたる前に、すでに鏡泊湖畔の小山咀子で柴和という名の中国人漁夫と知り合い、その湖水を容易に渡ることができた。柴和もわれわれと会う前までは、革命軍を敬遠していた人である。19歳のときから30年近く鏡泊湖で漁労を唯一の生業としてきたこの純朴な漁夫は、「高麗紅軍」を匪賊だという日本人の宣伝を真に受けていた。だが、遠征隊の偉容と秩序整然とした姿を目のあたりにし、隊員たちの気さくで謙虚な人柄に引かれるようになってからは、態度を改め、革命軍に親切に接するようになった。「川を隔てれば千里」という言葉のとおり、軍隊の遠征途上で行く手をさえぎる川は、千里の道に匹敵する障害であった。それゆえ、敵の目を盗み遠征隊の鏡泊湖渡河に全力をつくして助力してくれた柴和老の苦労は生涯忘れてはならないだろう。解放後の1959年に革命戦跡地踏査団が中国へ行ったとき、柴和老の写真を持ち帰った。写真の彼はすでに70歳の高齢に達した、しわだらけの老人であった。だが、背が高く首の長い昔の面影はそのままで、感無量であった。

 青溝子戦闘のとき、危険を冒してわれわれに給養物資を届けてくれた百家長の劉永生と、黒石郷付近で息子を遊撃隊に入隊させた兪春発老など、われわれは額穆でじつに多くの友を得、大衆をかちとった。

 人民のなかに入って各階層大衆の工作にあたる過程で、わたしは満州国軍の連隊長の一人とも深いよしみを結んだ。遠征隊が敦化県方面の木材所を襲撃するため夜通し強行軍をしたときなので、おそらく1936年初のことだったと思う。空が明けそめてくるころ、行軍を停止して道路ぎわのある地主の家に旅装を解いた。大がかりな土城をめぐらし、砲台までそなえたものものしい家だった。満州国軍が組織されたあとであり、また日本人が私設武力を許さないときだったので、私兵だけはいなかった。二棟造りの家なので、一棟は隊員が占め、他の一 棟は指揮部のメンバーと給養係りが占めた。門の前に下男を装った隊員3人を交替で周辺の監視にあたらせ、あとの隊員は休ませた。

 午後4時ごろ、歩哨から馬車がこの地主の家に近づいてくるという報告があった。やがて馬車は地主の家の前に止まり、貴婦人が兵士に伴われて馬車から降りると、少し暖をとらせてもらいたいと言って、まっすぐ中に入ってきた。窓越しに外を見ると、雪が舞う庭に、キツネの毛皮のコートを二重にまとった美貌の若い女性が立っていた。隊員たちは、そのはなやかな装いに驚きながらも、正体不明のその女性を取り囲んで検問しはじめた。わたしが誰なのかと聞くと、年若い歩哨は「司令官同志、怪しい女です」と大物のスパイでも捕らえたかのように得意げに答えた。歩哨は、その女性からするどい視線を離さなかった。若い中国人女性は色を失い、言葉もなく震えていた。わたしは身体検査までしようとする歩哨をとがめ、こう命じた。

 「歩哨兵、ご婦人が火にあたれるように部屋に通しなさい」

 彼女は部屋の中に入ってきてからも首を垂れたまま、かすかに震えていた。わたしは彼女を安心させようと、中国語で話した。

 「怖がらずに体を温めなさい。若い歩哨兵が少々手荒くあしらったようですが、許してください」

 わたしは彼女に茶を勧め、火鉢も身近に押しやった。

 「あなたはどう思うかわかりませんが、われわれは、この土地の人たちが『高麗紅軍』と呼んでいる人民革命軍です。『高麗紅軍』という言葉を聞いたことがありますか?」

 「耳にしたことがあります」

 彼女はうなじを垂れたまま、か細い声で答えた。

 「それなら幸いです。『高麗紅軍』は、日本人が宣伝しているように、人民の生命と財産を侵害する匪賊の群ではありません。われわれ革命軍は、抗日救国を目的としている人民の武装力です。われわれは、朝中両国を侵略している日本帝国主義者とその手先に反対して戦うだけであって、人民の生命と財産には指一本もふれません。ですから、安心してください」

 彼女は、感謝のしるしとして合掌してみせた。だが、その表情には、不安と恐怖、半信半疑の気持が複雑に交錯していた。わたしは、彼女の緊張がほぐれるまで話をつづけた。

 「われわれは、あなたが満州国軍を連れて歩いているからといって、罪をただしたり処罰したりはしません。あなたが、どうして兵士に護衛されているのかも問いません。人民と革命軍に危害を加えないかぎり、通りすがりの旅人を侮辱し虐待するはずはないでしょう。われわれも主人の許しを得てこの家に少し立ち寄り、疲れをほぐしている客ですから、余計な心配はせずにゆっくり火にあたっていきなさい」

 彼女は、こう言われてはじめて安堵の息をつき、用心深く顔をあげた。ちらりとわたしを見た彼女の目に、ふと驚きの色がただよった。彼女は、両手を胸にあて、もどかしげに唇をかんだ。

 「どうしたのですか。まだわたしの言うことが信じられないのですか?」

 「いいえ、そうではなくて… 実のところ隊長さまのお顔が… わたしは隊長さまがもともとやさしいお方だということを…」

 彼女はこうつぶやいて、またわたしをまっすぐに見つめた。そのとき、護送兵を尋問していた呉白竜が、鬼の首でも取ったような顔で戸口に現れ、彼女にはわからない朝鮮語でそっと報告した。

 「将軍、護送兵の話によると、あの女は満州国軍第12連隊長の妻だそうです。大きな魚が自分から網にかかってきたようなものです」

 「そんなに得意がることはない。大きい魚なのか小さい魚なのかはあとでわかることだ」

 口ではこう言ったものの、実際のところ満州国軍連隊長の妻だと聞いて驚いた。連隊長といえば並みのポストではない。満州国軍の階級順位からすれば、上からは4番目の位であり、下からは13段もの梯子をよじ登らなければ得られないポストである。満州国軍1個連隊の管轄区域が数県を包括する場合もあったのだから、それを統轄する指揮官の権限がどれほどのものであるかは説明するまでもないであろう。当時、額穆県には、蛟河に本部をおく満州国軍混成第9旅団管下の第12歩兵連隊が駐屯していた。敵軍切り崩しを重要な戦略的課題の一つとしていた当時の状況で、満州国軍連隊長の妻にめぐり会ったのは、興味あることだといえた。だが、連隊長の妻だからといって、わたしは少しも顔色を変えなかった。

 「満州国軍連隊長の妻だからと、恐ろしい罰を下すとでも思ったのですか?」

 彼女はひどく気まずそうな顔をして、手をすり合わせた。

 「そんなことは… わたしの勘違いでしょうか… 隊長さま、失礼ですが、金成柱というお名前ではありませんか?…」

 思いがけない質問に、今度はわたしが驚かされた。間島から数十里も離れた北満州で偶然めぐり会った満州国軍連隊長の妻がわたしの幼名を知っているというのは、無関心ではいられない事件である。どこかで見かけたことも、会ったこともない、見知らぬ貴婦人がどうしてわたしの幼名を知っているのだろうか。驚きとともに、その謎を明かしてみたい好奇心がわき起こった。

 「ここ額穆で幼名を呼ばれて、妙な気がします。わたしは、金成柱でもあり金日成でもあるのです。しかし、どうしてわたしを知っているのですか?」

 彼女は顔を真っ赤にした。その表情から、言いたくても口に出すのをためらっているなにかがあることを感じとった。

 「成柱先生が、吉林で青年学生運動の指導をなさっていたとき、女学校に通っていたのです。わたしは、そのころから先生を存じておりました」

 「そうでしたか。これはなつかしい」

 顔をあげて最初わたしを見つめたとき、その瞳に映った熱のこもった輝きがなにを意味していたのかをやっと理解することができた。ともかく額穆のようななじみのない土地で吉林時代の女学校の学生にめぐり会うというのは、なんという奇遇であろうか。吉林というその一言は、突如わたしの胸にノスタルジアに似たしびれるような情感を呼び起こした。いまもそうであるが、そのときもわたしは、自分を数年間釘づけにしたその都市に深い愛情をいだいていた。彼女は、わたしの顔にわき起こる過ぎし日の追憶を読みとったのか、いくぶん落ち着いた声で言った。

 「成柱先生も吉会線鉄道敷設反対キャンペーンが展開された1928年の秋をお忘れではないでしょう。あの秋の吉林はどんなにわき立ったことでしょう。信じられないかも知れませんが、わたしもあのときは学生デモに参加したのです。省議会の広場で成柱先生の演説を聞いたことがまざまざと思い浮かびます…」

 かつてはデモ隊に加わってシュプレヒコールを叫んだ吉林女子中学校の学生、だが今日はキツネの毛皮のコートに身を包み、護送兵に守られて里帰りをする連隊長の妻の目からは涙がこぼれた。わたしは今昔の感に堪えず、いまさらのように彼女を見つめた。昨日まで反日を叫んだ女性が、今日は親日の列車に身をゆだねているのである。彼女をしてそうさせたのはなんであろうかと深く考えさせられた。自民族の運命に絶望しての堕落であろうか? しかし、わたしは吉林時代を回想する彼女の切々たる表情を見て、その心の中には反日を叫んだ昔日の志向がまだ残っているように思えた。そのうえ、彼女はわたしの前で、涙で自分自身を悔悟し、恥をしのんで女学校時代を追憶したではないか。彼女がなぜわたしを見た瞬間あれほど驚き、戦慄を覚えたのだろうか。それは、良心で感じた恐怖であったに違いない。

 「成柱先生、なぜなにもおっしゃらないのですか。わたしをお許しください。先生が演説をなさったとき、拳をあげて呼応したその少女が… こうして、軍服を着て苦労なさっている成柱先生を見ると… 感慨無量で… 恥ずかしくてなりません」

 彼女の目からはどっと涙があふれた。

 「気をしずめてください。自分をそんなに卑下してはいけません。そういう絶望、自暴自棄に陥るには、時局があまりにもきびしすぎます。内外の情勢は、祖国を愛し人民を愛する中華のすべての息子、娘と知性人を抗日救国の広場に呼んでいるのです。連隊長の妻になったからといって、抗日が不可能だという法はないではありませんか」

 わたしがこう言うと、彼女は涙をぬぐって顔をあげた。

 「では、わたしのような境遇でも抗日に参ずる活路はあるというのですか?」

 「ありますとも。あなたが夫によい影響を与えて、革命軍の討伐をやめさせるだけでも、それは抗日に貢献することになります。満州国軍の連隊長といえば高級な官職です。しかし、わたしは、官職が問題ではないと思います。要は自分が中国人であるということを忘れないことです」

 「わたしの夫も連隊長とはいえ、好き好んで勤めているわけではありません。夫も民族的良心だけは深くいだいています。ですから、成柱先生のおっしゃるとおり夫をよく説得して、遊撃隊の討伐に部下を出動させないようにします。わたしの言葉を信じてください」

 「そうできればなによりです。1人の連隊長が親日から反日へ方向転換をするというのは、その配下の兵士も愛国の道を歩むことを意味します。ここにあなたと夫の再生の道があるのです」

 わたしは、かつて間島で満州国軍の将校たちが親日から抗日へ方向転換をした例をいくつかあげて、彼女に自信を与えた。彼女は、きょう成柱先生に会えたのは天が下した幸運だ、先生の話を聞いて考えさせられることが多い、先生はきょうわたしに吉林時代の魂を呼びもどし、わたしたち夫婦を再生の道に導いてくれた、この恩は一生忘れない、と言って中華民族の娘として正しく生きていくことを誓った。彼女に、われわれがつくった宣伝物と、宋慶齢、章乃器などが上海で発表した抗日救国6大綱領も見せてやった。第1次北満州遠征のとき寧安の周保中の山小屋で呉平が見せてくれた例の6大綱領である。連隊長の妻は時計を見ると、懐中から白い紙包みを取り出してわたしの前に置いた。中国紙幣だった。アヘンを売った金だが、軍資金として使ってほしいというのである。誠意はありがたかったが、わたしはそれを受け取ることができなかった。

 「その金はおさめてください。わたしはきょう、失った反日学友にまた会えたのですから、それだけでも大きな財産を得たことになります」

 わたしがこう言うと、彼女はまた泣いた。別れる前に、わたしはご馳走をととのえて夕食がわりに彼女をもてなした。彼女は発つときに自分の姓名を教えてくれたが、いままで忘れずに覚えているのは「池」という姓だけだ。残念なことに、わたしは彼女の名前を忘れてしまったのである。

 それから何日かして、わたしは満州国軍連隊長から手紙を受け取った。あなたがたはこの世にまたとないりっぱな人たちだ、わたしの妻の命を保護し、わたしを罪悪の泥沼から救い出し愛国の道に立たせてくれたあなたがたを、わたしは死んでも恩に報いる覚悟で助ける決心だ―こういう内容の長文の手紙だったが、筆端には悲壮な決意のほどが表われていた。その連隊長の名も「張」某といったが記憶は確かでない。

 その後、わたしは旧正月を迎える準備のため、額穆県城の近くに軍需官を派遣した。彼は、冷凍豚肉をはじめ正月料理に必要な物資を手に入れようと市街地まで入って行ったのだが、任務を遂行できないまま県警察に逮捕されてしまった。この情報がどういうルートを通じてか、張連隊長の耳にまで届いた。連隊長は、警察署に、人民革命軍は軍の管轄だから軍需官を引き渡せと要求した。最初、軍需官は、満州国軍の連隊長が自分を殺すに違いないと思った。ところが、連隊長は妻に料理をつくらせ、軍需官を貴賓として歓待し、こう話した。金司令の部隊が妻を助けてくれて感謝する、今後どんな状況にあってもあなたがたは討伐しない、命をかけて保証するから、わたしの言うことを信じてもよい、あなたがたの部隊と遭遇したときは銃声を3発上げるから、そのときは、わたしの部隊だと思ってやり過ごしてほしい、わたしは死んでも金司令の恩だけは忘れない、金司令にわたしの衷心からの挨拶を伝えてもらいたい。

 その後、張連隊長は、軍需官に話したとおり約束を守った。われわれが三棵松部落にとどまっていたころ、官地部落方面に日本軍が駐屯し、額穆県方面には満州国軍の連隊が駐屯していた。両部隊とも討伐に出てはいたが、第12連隊長の指揮する部隊は、われわれの部隊と遭遇するとわざと交戦を避けるのがつねだった。われわれも日本軍のみを選んで攻撃した。当時、日本軍と満州国軍を見分ける主な目じるしの一つは鉄かぶとであった。鉄かぶとをかぶっていれば日本軍で、かぶっていなければ満州国軍だというのが、パルチザンのどの部隊でも通じている公式であった。ところが、のちには満州国軍も鉄かぶとをかぶって戦場に現れるようになった。そこでわれわれは、鉄かぶとをかぶっていれば日本軍とみなして無条件射撃するから、遊撃隊と戦いたくなければ鉄かぶとを脱げと警告した。それ以来、満州国軍は、われわれに接近すると鉄かぶとを脱いで、自分たちが満州国軍であることを知らせた。パルチザンは、鉄かぶとをかぶった者が前にいれば前を叩き、後ろにいれば後ろを叩いた。日本軍は「パルチザンは、不思議なほどわれわればかり選んで攻撃する」と悲鳴をあげた。われわれは、満州国軍が討伐に来るときは銃の「暴発」でパルチザンに合図を送るよう要求したが、彼らはこれもよく守った。「暴発」も不可能なときは、数十、数百人が一個所に集まってがやがや騒ぎ立てる方法でその位置を知らせた。張連隊長は、われわれに給養物資も少なからず送ってよこした。彼はときおり、馬車に豚肉や冷凍したギョーザを満載し、討伐に出るという名目で駐屯地を出発しては、われわれとの接触地点に部下をよこしてそれを置いていった。そして、自分はパルチザンもいない方角違いのところに部隊を進めて数時間めぐり歩いては兵営に引き揚げるのだった。

 われわれの部隊が、官地付近のある村に駐屯したときのことである。ある日、数名の指揮官がわたしのところに来て、正月を前にした隊員たちの気分状態を報告した。そして、ソバ粉やジャガイモの澱粉を手に入れて正月にソバでも打てるように、村で食糧工作をするから承認してほしいと言った。だが、わたしは人民に負担をかけるのを避けるため、それを許さなかったし、しばらくして部隊に撤収命令さえ下した。そのとき村人たちは、金司令部隊と一緒に正月がすごせるからと準備におおわらわだった。ともすれば、部隊の正月料理のために村人の数か月分の食糧が底をつきそうであった。わたしが部隊を率いて急いで村を離れたのもそのためであった。人民の利益を侵害しないという名分で撤収を断行したものの、隊員たちは納得できないようであった。黄泥河子の奥まった所に居所を移した遠征隊は、木材所の労働者が使用していた山小屋を手入れして正月をすごした。正月とはいえ、隊員に行き渡ったのは、各自食器一杯ほどの粟飯だけだった。隊員たちがそれを食べて物足りなさそうにしているとき、張連隊長がよこした豚肉とギョーザが到着してわれわれを喜ばせた。

 わたしとの親交が深まっていくと、張連隊長は遠征隊に武器や情報までも提供するようになった。一女性を感動させた誠意は、このように振幅の大きい報恩のこだまを呼んだのである。張連隊長は、満州国から与えられた連隊長の帽子をそのままかぶっていながらも、果断な容共の実践によって歴史と人民にたいしてその罪をあがなった。満州国軍の絶対多数をなす下層兵士大衆の獲得に基本をおきながら、中下層将校と一部の良心的な上層将校まで味方につけて、ごく少数の悪質将校を孤立させ排撃するという敵軍切り崩し方針は、張連隊長にたいする工作においても大いに効を奏したことになる。これは、予想外の大きな収穫であった。わたしとただの一度も接触したことのない張連隊長が、妻に感化されて反革命の手先から容共愛国人士に変貌したのである。こうしてみると、吉林女子中学校出身の連隊長の妻が夫を改心させるため積極的な思想攻勢を展開したようである。彼女はたいへんりっぱな女性である。

 張連隊長は、しばらくして樺甸地方へ移動した。わたしは彼を魏拯民に引き継がせた。それ以来、長いあいだ張連隊長の消息は跡絶えていたが、1941年になって、樺甸で魏拯民を補佐していた郭池山を通じて一片の消息を耳にすることができた。郭池山は、樺甸の満州国軍第12連隊と第13連隊がまもなく熱河方面へ配置されるということと、両連隊の連隊長が熱河へ移動する前に抗日革命軍に編入する意思を表明してきたことを伝えた。しかし、樺甸には当時、二つの連隊を同時に受容できる部隊はなかったし、両連隊長の勇断にたいし責任ある返答のできる幹部もいなかった。郭池山がわたしを訪ねてきたのも、その返答を受けていくためだった。魏拯民が戦死した後、第2軍所属の軍・政幹部たちは、部隊の活動で提起される大小の問題にかんする結論をわたしから受けていた。わたしは、両連隊が熱河へ移動する前に義挙を断行させる緊急任務を与えて、郭池山を樺甸へ送り返した。しかし惜しいことに、時間が遅れたため、両連隊に義挙を断行させる大事は実現しなかった。後日知ったことであるが、張連隊長は樺甸にいるとき、楊という姓の新任連隊長に自分の連隊を引き継がせた。そのさい、彼は、新任連隊長に反日の道を歩むよう説き、隣接部隊であった第13連隊の連隊長にも、友誼をもって反日革命に助力するよう勧告した。その後、熱河方面へ配置された満州国軍第12連隊と第13連隊の後日談はどこからも聞くことができなかった。そうしてごく最近、対日作戦当時の満州国軍の崩壊にかんする資料を見るに及んで、それらの部隊が決定的な時期に日本帝国主義に反旗をひるがえしたことがわかり、感慨を新たにした。

 敵軍のなかの一人の良心的な友は数千数万の友を得させるものである。それゆえ、われわれは、抗日武装闘争の初期から「敵軍のなかに革命の砲台を築こう!」というスローガンをかかげたのである。敵軍のなかに砲台を築くというのは、敵軍のなかにわれわれの陣地を築くということである。いわば、敵軍切り崩し工作を目的に、敵軍のなかに革命勢力をつくるということである。当時、敵軍切り崩し工作は、対敵政治工作という言葉で通用していた。銃弾によって敵を撃破するのと、対敵政治工作によって敵を瓦解させるこの両者は、抗日闘争のための二つの戦略的路線であったといえる。どの時代、どの戦争、いずれの側を問わず、敵との闘争はつねにこの両線上でおこなわれてきた。一つは武力による戦いであり、一つは精神と思想宣伝による戦いである。

 日本帝国主義のいわゆる治安粛正においても、治表工作、思想工作、治本工作という3つの方針がうちだされていたが、これも総体的にみれば武力を専門とする「掃匪工作」と宣伝宣撫を専門とする「思想工作」の両側面である。敵もわれわれの革命隊伍を精神的に瓦解させようとやっきになっていた。にもかかわらず、対敵政治工作のため敵軍のなかに革命組織をつくる問題をわたしがはじめて提起したとき、少なからぬ人はこれに呼応しなかった。命が惜しくて敵軍切り崩し工作方針に反対するような臆病者は一人もいなかった。一部の人がこの方針にすぐさま呼応しなかったのは、それを階級的線からの逸脱とみなしたところに主な理由がある。われわれは、労働者、農民の軍隊であり、相手はブルジョアジーの軍隊なのだから、彼我は水と油の仲だ、水と油がとけ合わないのは三つ子にもわかる明白な理であるのに、敵軍のなかに革命組織をつくるというのは論外だというのである。

 マルクス主義の古典を背のうにいっぱい詰めこんでかつぎまわる者たちは、敵軍のなかに革命組織をつくるのは一種の階級協調ともいえる右寄りの脱線だと評した。それは、相容れない矛盾関係にある階級敵との提携を策することになるが、古典には敵軍切り崩しにかんする命題はないと主張した。現今の青年なら、杓子定規のような人間だと非難するであろうが、古典の命題なしには一歩も動けなかった当時であってみれば、こういう一面的な立場がかなり支持されていたのである。階級闘争がきびしく、階級敵にたいする恨みが骨髄に徹していたころなので、そういう立場の者がいても、それを大きな逸脱だとする人はほとんどいなかった。多くの人が、階級敵にたいする憎悪心から革命に加わり、万難を克服してきたのであり、したがって、「階級」というこの名詞の前ではいささかの譲歩もしようとしなかった。そのうえ、マルクス主義創始者たちの階級闘争論にたいする教条的な解釈の結果として、少なからぬ共産主義者には愛という感情よりも憎悪という感情、包容し容赦する度量よりも懲罰し糾弾する非妥協性の方が強くなったのである。あまつさえ、えせマルクス主義者は無条件的な非妥協性を革命家の特質とみなし、思想的、精神的に未熟な青年を偏狭な人間に、文字どおり血も涙もない「紅胡子」にしてしまった。事実、マルクス主義革命は、こうした弊害のため陣痛を体験し、共産主義者の印象を悪くした。階級擁護と階級的非妥協性のスローガンのもとに、階級の利益一面のみを高唱してきた極左分子と教条主義者は、多くの人が共産主義革命に背を向けて敵陣にくだるのを見ながらもそれを阻止することができなかった。問題は、マルクス主義古典に敵軍切り崩しにかんする命題があるかないかではなく、革命の根本的利益から路線と方針をうち立てようとしないところにあった。

 自国人民への愛に根ざして革命をはじめるべきだと考えたわたしは、マルクス主義古典の研究にあたっても、非妥協性を求めようと努力したのでなく、愛と団結の思想をまず探し求めようと努力した。わたしが敵軍のなかに十分革命勢力を扶植することができると考えたのは、労働者、農民の子弟である絶対多数の兵士と中下層将校はもとより、一部の上層将校のなかにも、われわれの革命に同調し、搾取社会の受難者をあわれむ良心的な人間がいるとみたからである。彼らをすべて革命の側につけ、友軍として獲得するなら、敵はそれだけ瓦解し、われわれの革命勢力は数倍に成長するであろう。それは、銃砲弾を使わずに階級敵をせん滅する大攻撃戦となり、共産主義者こそは人類の幸福と和睦を願う気高い理念の持ち主であることを認識させる一大宣伝となる。われわれは、少なくともこうした理想と志をもって「敵軍のなかに革命の砲台を築こう!」という合言葉を対敵政治工作の基本スローガンとしてうちだしたのである。敵軍のなかに革命の砲台を築けると確信したわたしの思想は、人間の本性にたいする主体的な立場にその基礎をおいている。人間は、自主性、創造性、意識性をもった偉大な存在であると同時に、正義を擁護し志向する美しい存在である。人間はその本性からして、善良かつ高尚なものを追求し、邪悪で醜悪なものを軽蔑する。この固有な本性こそは、人間性なのである。ごく少数の反動的な上層を除いた多数の中下層の人間と上層の一部の人物は、われわれが広い度量をもってよい影響を与えるなら、革命の支持者、同調者、援助者にすることができるものである。たとえ、地主、資本家階級に奉仕する人であっても、人間性があり、祖国と民族を愛する人間的な芳香があるなら、それはわれわれが彼らを味方につける基礎となるのである。ごく少数の反動分子と悪漢を除いた民族の全構成員を民族大団結の旗のもとに結集するというわれわれの政策は、ほかならぬこうした立場に根ざしているのである。

 解放後、わが国の人たちは、金九をテロの総元締と規定し、李承晩と同列において反動視したことがある。彼が一生、共産主義者に反感をいだき敵視したのは事実である。彼らにたいする憎悪心がどれほどのものであったかは、金九と李承晩がカボチャを頭にのせて豚舎に入っていく漫画まで出たことをみてもわかるであろう。降仙製鋼所の労働者たちは、製鋼所の煙突に「金九を打倒せよ!」というスローガンまでかかげた。当時は、朝鮮人民のなかに金九を改造できると思った人は一人もいなかった。だが、金九自身は4月南北連席会議のとき、わたしの影響を受けて反共分子から容共・親共人士に改造された。彼がこういう改造過程をへることができたのは、わたしの影響もあるが、共和国北半部の現実を目撃する過程で、彼が一生をささげてきた愛国愛族の精神が高度に発揚され、その人間性が最大限に啓発されたためである。

 愛国愛族と人間性にたいする考慮がなかったなら、われわれは反共第一線でわれわれを狙っていた崔徳新と手をとることもなかったはずであり、今日の南朝鮮執権者との対話の席も設けはしなかったであろう。われわれが南朝鮮の支配者たちと対話の方法で祖国を統一するための協商の席に対座するのは、たとえ、制約はあるとしても彼らの民族的良心と人間性に期待をかけているからであり、それらが、いつかは民族和合の大花園で花と咲き誇るものと信じているからである。

 われわれは、敵軍獲得の対象と方法の問題でも少なからず論争した。日本軍を相手にする対敵政治工作についての論争はなおのこと合意をみるにいたらなかった。大部分の人は、満州国軍の中下層は獲得できる対象とみながらも、幼いころから「大和魂」によって天皇を盲信し、強圧的な規律にならされてきた日本軍人は味方にできない存在とし、敵とみなした。日本の陸軍士官学校出身の独立軍(朝鮮の独立をめざした民族主義者の軍隊)頭領の反共思想を抜き去ることもむずかしいというのに、ましてや、日本軍将兵などはいわずもがなのことだと首を横に振った。ところが、思いもよらぬ一つの事件が、この見解を見事に否定してしまった。

 ある年、間島の農村に熱病がはやり、日本軍が病人を家に閉じ込めて焼き殺す蛮行を働いたことがある。童長栄が、病床に臥していた村も討伐隊に襲われた。部屋の中に横たわっている童長栄を見た日本軍将校は、即座に戸を締めきって火をつけるよう部下に命令した。日本兵は上官の命令どおり火を放とうとした。最期が迫ったと考えた童長栄は、どうせ死ぬなら宣伝でもして有益な死に方をしようと決心し、拳で床を叩きながら熱弁を吐いた。彼は、日本で大学まで卒業していたので、日本語がたいへん流暢だった。「おまえも労働者、農民の息子であるはずなのに、なんのためにここへ来て貧しい人たちを手当たり次第に殺すのだ。殺してなにが得られるのだ。無礼にもほどがある。病人を殺す法がどこにあるのだ」良心の扉を叩く絶叫に心を動かされた日本兵は裏の戸を蹴破り、上官に気づかれないように童長栄を外に抜け出させたあとで火を放った。童長栄は畑のうねまに隠れていて、かろうじて救出された。このエピソードは、日本兵は味方にできないと強弁していた人たちを黙らせてしまった。それ以来、われわれは自信をもち、勇猛果敢かつ聡明で知略にたけた隊員を選抜して、ためらうことなく敵中に派遣した。敵軍のなかに、ただ一人という孤立無援の状態でも、志操を曲げず対敵政治工作をりっぱに遂行した有名無名の多くの工作員の働きかけによって、満州国軍と自衛団のあいだでは毎日のように造反が起きた。

 われわれは、遊撃隊員であれば、誰でも呼号、出版物の普及、世論操作、革命歌の普及など、さまざまな形式と方法で対敵政治工作が能動的にできるように教育した。敵軍の内部と外部、個人と集団とを選ばないわれわれの熱烈で感化力のある宣伝攻勢によって、多くの満州国軍部隊が遊撃隊と戦うことをやめ、わが軍への忠実な「武器輸送隊」となった。満州国軍は手紙を一通出しても、武器、弾薬、食糧を届けてくれたし、戦場で「要槍不要命(ヨチヤンプヨミン=銃が必要だ、命は必要ない)」と口で脅すだけでも、銃を差し出して投降した。討伐隊は人を選ばず手当たり次第に虐殺したが、われわれは敵軍を捕虜にすれば、満州国軍であれ日本軍であれ、差別せず人道的に待遇して説諭し、旅費まで与えて帰らせた。そのために、なかには銃を携えて7回も捕虜になる満州国軍の兵士さえいた。その兵士に冗談まじりに、「また来たな」と言うと、彼はにこにこ笑いながら「革命軍に銃をおさめに来ました」と答えるのであった。われわれは東満州で活動していたころ、汪清県羅子溝の聞部隊の中隊長をはじめ、敵の中隊長クラス以上の将校もかなり獲得した。1934年に南蛤蟆塘の馬桂林部隊に入って切り崩し工作をりっぱに果たした銭中隊長も、もとは満州国軍の中隊長であったが、われわれが影響を与えて共産主義者に改造した人物である。

 日本軍兵士のなかにも、われわれを助けてくれた忘れがたい友人がいる。小汪清防衛戦闘のとき、戦場捜索をしていた呉白竜が、日本侵略軍運転手の死体から遊撃隊宛の一片の走り書きを見つけて持ってきたことがある。走り書きを残したのは、労働者階級出身の日本軍運転手で、日本共産党の党員であった。彼は弾丸10万発をトラックに積んでわれわれのところに向かったのだが、遊撃区に近い山すそで発覚し、遺書をポケットに入れて自決したのである。彼の高潔なプロレタリア国際主義的革命精神はすべての人を感動させた。愛する父母と妻子を日本に残し、茫洋たる滄海と険しい山岳を越えてきては、われわれを助けようとして異国の野に果てた日本共産党員の姿は、いまもわたしの胸をあつくしている。小汪清の人たちは、地元の小学校にこの国際主義戦士の名を冠したというが、その校名がいまもそのまま伝えられているかどうかは定かでない。

 額穆で満州国軍の連隊長を獲得した経験にもとづき、われわれは後日、安図―敦化県境にある大浦柴河でも敵軍切り崩し工作を巧みに展開した。大蒲柴河には、遊撃隊の討伐で悪名をはせた1個大隊の満州国軍が常駐していた。この大隊は、戦闘歴に富み、指揮体系と隊列の統率にもたけた悪質な部隊であった。工作員を派遣するにも、潜入することができなかった。われわれは弱点を探し出すため、この部隊を多面的に研究してみた。その過程で、大隊長は俸給が低くて上級に不満をいだいており、金に窮して副官にアヘンの密売をさせているということを探り出した。これは、その部隊にたいする切り崩し工作を可能にする有効な端緒だった。ある日、工作隊は道端に待ち伏せていて、大量のアヘンを仕入れて帰ってくる副官を捕らえた。副官は、貨幣と等価で通用する大隊長のアヘンが革命軍に奪われるのをもっとも恐れた。だが、工作隊員たちはアヘンなど見向きもせず、副官を説諭して大隊へ帰らせた。これに感動した副官は部隊にもどると大隊長に、日本人の宣伝を聞いて共産軍を匪賊だとばかり思っていたが、実際に会ってみると上品で物わかりのよい人たちだとくわしく報告した。大隊長もそれを聞いて大いに感嘆した。

 その後、わたしは副官を通じて、わたしの名刺入りの手紙を大隊長に送った。その内容は、遊撃隊はあなたたちと戦うことを望まない、あなたたちは革命軍を攻撃して数々の悪行を働いたが、それをとがめはしない、われわれは他のことは要求しない、人民に危害を加えず、人民革命軍と戦うな、これがわれわれの要求だ、もしも前非を悔いて革命軍と友好的に交わる意思があるなら、『鉄軍』のような出版物をときどき送ってもらいたい、というものであった。

 この手紙にたいする返答として、副官はわたしに雑誌『鉄軍』を持ってきた。そして、以後出版物を引き渡す秘密の場所を合議して帰った。それ以来、彼らは、隊内と隊外で発刊される各種の新聞、雑誌と重要な情報を古木の空洞に入れておく方法で、われわれに定期的に送ってよこした。金を渡して部隊の生活に必要な品物や軍需物資の購入を依頼すると、それも間違いなく果たしてくれた。われわれの好意に感心した満洲国軍の大隊長は、負傷した遊撃隊員の治療までするようになった。兵営の中に負傷兵をかくまって、厚くもてなしながら銃創がすっかり治るまで治療してくれた。人民革命軍を真の人民の軍隊とみた大隊長は、われわれとの友好関係が深まってくると、「山中の戦友たちに告げる」という感動的な手紙までわたしに送ってきた。

 真実を尊び愛を礼賛するのは、人間本然の性である。わたしは、つねづね同志たちに、敵は欺瞞と虚偽、威嚇と恐喝によってわれわれの隊伍を瓦解させようとしているが、共産主義者は真実と愛によって敵軍の心を動かさなければならない、と強調していた。

 わたしのこの言葉を心に受けとめ、対敵政治工作を誠実に遂行した工作員のなかには、任銀河という若い女性遊撃隊員もいた。広く知られている演劇『ひまわり』は、ほかならぬ彼女の実際の闘争を描いた作品である。わたしが、任銀河にはじめて会ったのは1936年の春、迷魂陣密営においてである。朝鮮人民革命軍の新師団編制と祖国光復会の創立準備にかかわる重要な諸問題が討議されていたころ、任銀河もわたしに従って白頭山地区へ進出したい一念でそわそわしていた。彼女は物静かでありながらも決断力のあるかわいらしい娘だった。年はまだ20歳にもならず、体も少女のように小柄だった。

 「将軍さま、今度はきっとわたしを連れていってくださるでしょう?」

 彼女は会うたびに、わたしの引率している朝鮮人民革命軍の主力部隊に加えてほしいとせがんだ。けれども、わたしは、病弱な魏拯民を思って任銀河を彼のそばに残しておくことにした。わたしに従って祖国へ行けるものと思っていた期待がはずれるや、彼女は涙ぐんだ。わたしは彼女を慰めた。

 「そんなにさびしがることはない。わたしが白頭山方面へ行って落ち着いたら、魏拯民同志を呼んで治療させることにする。そのときはきみも一緒に来ればよい」

 「わかりました。わたしのことで心配なさらないでください」

 彼女はこう言ってわたしを安心させようとしながらも、ぽつねんと南の空を眺めていた。

 数日後、われわれは、迷魂陣を出発し、小富爾河付近の村で宿営することになった。ところが民家がわずか4、5軒しかないこの奥まった山村で、思いもよらぬ不祥事が起こった。早朝、大蒲柴河に駐屯していた敵が村を襲ってきたのである。われわれは迅速に有利な地点を占めて敵を迎撃したが、谷間の向こう側で別個に宿営していた人たちがまだ脱出できずにいた。その家には魏拯民と、われわれのところに新しく派遣されてきたモスクワ中山大学出身の李主任、それに゙亜範の妻と任銀河がいた。敵を撃退して戦場を捜索していたわれわれは、家の天井から魏拯民を捜し出した。銃創を負った彼の大腿は血まみれであった。その日にかぎって彼は病状が悪化して身動きさえできなかったのだが、任銀河がやっとのことで天井にかくまったという。しかし、任銀河自身は敵の銃火を避けて山へ駆け上っているうちに、脚に敵弾を受けて捕らわれてしまった。その日、゙亜範の妻と李主任は敵弾に倒れた。

 敵は、任銀河を大蒲柴河付近に駐屯する満州国軍中隊に置いて洗濯や炊事婦の仕事をさせた。最初は、日本人指導官がひどい拷問を加えて秘密を吐かせようとしたが無駄だとわかると、戦術を変えて雑役で使いながら、心変わりをさせようとはかった。

 任銀河は、敵陣にひとり囚われの身になりながらも、どうすれば革命に役立つことができるかを考えあぐねた末に、満州国軍の1個中隊全員に義挙をさせるという大胆な計画を立てた。彼女はまず、生来の美声を生かした歌で、つらい軍隊生活ですさんだ男たちの心を動かしてみようと決心した。そして、満州国軍兵士と接触する機会をつくるため、わざわざ洗濯紐を兵営の庭に渡し、しばしば洗濯物を見てまわりながら郷愁を誘う物悲しい歌をうたった。われわれには、対敵政治工作のためにつくったよい歌があった。それは、万里の長城の築造工事に駆り出されて死んだ夫をしのび、その墓前でうたった昔の悲歌の曲に、革命的内容の歌詞をつけたものだった。任銀河は、将校のいるところでは普通の歌をうたい、兵士の前ではその歌をうたった。彼女が雑役を勤める中隊の兵士は、以前救国軍に属していたが、指揮官の裏切りで満州国軍に編入された人たちで、もともと反日感情が強かった。美しく清らかな彼女の歌は、兵士の心をとらえた。将校でさえ、彼女の哀愁にみちた歌を聞かされると、遠い空を仰ぎながら物思いにふけるのであった。捕虜の女性遊撃隊員が名歌手だといううわさが広まったため、わざわざ訪ねてきて歌をせがむ兵士までいた。

 「遊撃隊の娘さん、歌をうたってくれないか」

 すると、任銀河はにこにこ笑いながら「お金もかからないそんな歌でよかったら、いくらでもうたいますわ」と言って声をととのえ、物悲しげに歌をうたった。そのうら寂しい歌には、日本人に虐待されて死んでいく中国人の恨みがにじみでていた。昔は万里の長城の苦役が中国人の墓を積み、今日は日本軍の銃剣がわれらの墓を積む、立て、進もう、中国人の恨みを晴らすため…。こういう歌をうたうと、いつしかうたう本人も泣き、屈強な兵士たちも涙ぐむのであった。

 任銀河は歌だけでなく、兵士の縫い物も手伝い、彼らの好きな食べ物も残しておいては分けてやったりした。こういう過程で、任銀河と兵士たちのあいだには、あたたかい情が通い合うようになった。そのなかには、任銀河を実の姉のように慕う若年の兵士が数名いた。彼らは早くから両親をなくし、浮浪生活をしているうちに、口すぎでもしようと軍務に服した若者たちであった。任銀河は、この寄る辺のないあわれな兵士たちの世話をやくために心を砕いた。人情に飢えていたこのような兵士たちにとって、彼女はいつのまにか実の姉か母にもひとしい大切な存在となった。

 ある日、若年の兵士3人が彼女のところに来て、義兄弟を結ぼうと言った。

 「銀河は、わたしらの長姉だ。姉さんのためならこの弟たちは命でもささげる」

 若者たちの誓いは、厳粛で切々たるものであった。任銀河が彼らの申入れを承諾したのは言うまでもない。そして、「この姉も弟たちのためなら命を惜しまない」と言って若者たちの手をとった。任銀河は、彼らを中核として義兄弟の数を増やし、それを反日会組織に発展させる一方、義挙のために満州国軍中隊長にまで接近した。中隊長もやはり救国軍の出身であったが、日本人指導官の専横のため、いつも憤懣やる方ない日々を送っていた。こうした気分状態をとらえた任銀河は、ある日、中隊長を訪ね、遊撃隊への義挙を断行した満州国軍の生活を微に入り細をうがって話した。そして、大胆にこう迫った。

 「中隊長さんも部下を引き連れて義挙を断行してください」

 彼女の突然の提言に、最初中隊長は狼狽した。

 「あなたたちは、いつまで牛馬のようにしいたげられているつもりですか。きのうも中隊長さんがいちばん目をかけている兵士の王さんが日本人指導官に殴られて気絶したのに、あなたは一言もいえなかったではありませんか」

 任銀河は、そのときのことを思い出して憤激する中隊長にたたみかけた。

 「わたしが力をかしますから、義挙を断行してください! あなたの部下は、みなわたしの義兄弟で反日会の会員です」

 燃えるような彼女の眼を中隊長は驚異の目で見つめた。この小さな女性遊撃隊員が、なんということをしてくれたのだろうか。小さな体に似合わぬ大胆不敵な面魂に、中隊長は強い衝撃を受けた。

 「男に生まれながら自分が恥ずかしい!」

 彼は吐き出すようにこう言うと、そそくさとその場から姿を消した。その翌日であった。任銀河の影響下にあった兵士たちが、6か月間も遅払いになっている給料の支払いを要求して集団的な抗議闘争に立ち上がった。日本人指導官は、その日も兵士の代表をひどく殴りつけ、口汚なくののしった。任銀河はいまこそ運命を決するときだと判断し、敢然と兵士たちの前に進み出て造反を訴えた。

 「わたしの兄弟、愛するお兄さんたち! あの傲慢無礼な日本人指導官を処刑せよ!
恥ずべき満州国軍の生活を捨てて、わたしと一緒に抗日遊撃隊に行こう!」

 満州国軍の兵士たちは、任銀河の訴えに呼応して日本人指導官を処刑し、迅速に隊列を組んで抗日遊撃隊をめざして出発した。そのとき彼らが持ち去った武器は、チェコ製の機関銃3挺、歩兵銃19挺、拳銃1挺、弾薬41700余発であった。20歳にもみたない若い娘が敵軍1個中隊に義挙を断行させたこういう事件は歴史にまれなことである。日本軍の秘密文書にも、女性隊員の起こした満州国軍中隊の造反事件は未曽有の事件として特記されている。任銀河は、わたしの意図どおりまごころと愛と共産主義者の度量をもって満州国軍兵士を正しい道に導いた遊撃隊の花であり、大胆不敵な朝鮮の娘であった。

 1930年代の後半期から、対敵政治工作はいっそう活発になり、さらには悪質な靖安軍にまで革命組織が根をはるようになった。自衛団や満州国軍、警察などでは、われわれの組織が深く根をはっているケースが多かった。そのため、祖国解放のための対日作戦を展開した当時、満州国軍はほとんどが日本帝国主義に銃口を向けるか、もしくは崩壊状態にあった。不正義の軍隊であった日本帝国主義侵略軍と満州国軍の恥ずべきこの運命は、歴史発展の合法則的帰結である。いずれにせよ、人間は真っすぐに進もうと回り道をしようと、また今日でなければ明日には必ず正義と真理の側に回帰するものである。

 わたしは、額穆で友誼を結んだ満州国軍連隊長の生死、安危について、いまなお知るところがない。だが、連隊長自身は言うまでもなく、夫人やその子孫たちもどこかに生きているなら、祖国と中華民族のために献身的にたたかっているものと信じて疑わない。



 


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