金日成主席『回顧録 世紀とともに』

1 北満州の戦友たちのもとへ


 人民革命軍の第2次北満州遠征の準備は、老黒山戦闘と太平溝戦闘によって完了した。汪清と琿春連隊の一部の中隊と青年義勇軍によって編制された遠征隊が、人民から盛大に見送られて太平溝を出発したのは1935年6月下旬であった。石頭河子と四道河子をへて八人溝に到着した遠征部隊は、老爺嶺を踏破する困難な山岳行軍の途についた。長蛇の列をなして進む行軍縦隊の隊伍には、安図から来た独立連隊の一部の隊員も混じっていた。いま生存している人のうちで第2次北満州遠征について回想できるのは、当時汪清第4中隊の隊員であった呉振宇しかいないようである。第2次北満州遠征に参加した戦友のなかには、韓興権、全万松、朴泰化、金泰俊、金麗重、池炳学、黄正海、玄哲、李斗賛、呉俊玉、全哲山などもいたが、彼らはすでにわれわれのもとを去ってしまった。

 第1次北満州遠征のときの老爺嶺は大雪に覆われた雪嶺であったが、第2次北満州遠征に向かうときの老爺嶺は、あたり一面の草木に夏の色のただよう青山緑林であった。1934年10月には寒風を突いてこの嶺を越えたが、1935年6月には、焼きつくような陽光と蚊の大群に苦しみながらこの嶺を越えなければならなかった。酷寒と豪雪も耐えがたい苦しみではあったが、じりじり照りつける陽光と汗もまた障害であった。迫撃砲と重機を背にした軍馬は、傾斜が強く草木のからみ合った行軍路を開くのにたいへん難儀した。馬が歩みを止めて進めなくなるたびに、われわれは帯剣で茨を切り払い、のこぎりで倒木を切っては1歩1歩前進した。

 われわれが老爺嶺を越えているころ、関内では毛沢東と朱徳の率いる中国労農紅軍が蒋介石軍の2重3重の封鎖を突き破りながら、歴史的な2万5000里の長征を成功裏に進めていた。1935年5月30日、大渡河にたどり着いた紅軍は、苛烈な戦闘の末に瀘定橋と呼ばれる古代の鋼索橋を占め、数万に達する長征勇士の進軍路を開いた。5月30日は、太平天国運動の指導者石達開が大渡河を渡ろうと試みた日であり、上海5.30事件の10周年にあたる日でもあった。こういういわくつきの日に勇敢な紅軍決死隊が瀘定橋を突破したのは、きわめて大きな意義をもつ出来事であった。貴州戦役のニュースについで間島に飛んできた大渡河突破のニュースは、われわれを大いに勇気づけた。瀘定橋戦闘ののち、紅軍は長征の路程でもっともきびしい障害の一つであった大雪山と夾金山を連続踏破し、甘粛平原に踏み入った。

 われわれはそのころ、長江の氾濫により数十万の死者が出たとか、台湾で地震が起こって数千軒の家屋が倒壊したといった類の悲劇的なニュースよりも、ブリュッセルで万国博覧会が開催されたとか、モスクワの地下鉄が開通したとか、2万5000里の長征を開始した中国紅軍がどの地点を通過し、どの地域を占領したといった楽天的なニュースを重視した。われわれが老爺嶺を越えたのは、長征中の紅軍の大雪山踏破に匹敵する快挙であった。大部分の遠征隊員は休止の号令がかかるたびに、疲労に耐えかね、その場に倒れて疲れをいやした。休息のときには四方から高いいびきが聞こえてきた。空腹との妥協がむずかしいように、眠気との妥協もやはりつらいものであった。だが、遠征隊員のうちで、行軍強度がきついと不平を言ったり、行軍速度をゆるめてほしいと訴える者は一人もいなかった。全員が、指揮官の号令に従って歯車のように狂いなく動いた。われわれが事前に思想動員を十分にしておいたので、彼らは北満州遠征の目的をよく知り、また万難を克服していく精神的準備もしっかりとできていたのである。

 人民革命軍の活動舞台となりうる大地は、老爺嶺以南の東満州と南満州地方にもいくらでもあった。それにもかかわらず、人民革命軍が自己の発祥地であり安らぎの家である東満州を離れ、遊撃区解散後の初の遠征候補地を北満州に定めて険しい老爺嶺をよじ登ることにした理由はどこにあるのか。どんな政治的・軍事的要因が、わたしをして日本軍と満州国軍が集中的に配置されている北満州へ遠征隊を率いていく決心を下すようにしたのか。もっとも重要な理由は、北満州一帯で活動している朝鮮共産主義者との連帯を強め、彼らとの全面的な協調、協同、協力の道を開くためであった。東満州で共産主義運動を開拓した先駆者、統率者、主唱者の大部分が朝鮮人であったように、北部満州地方で共産主義運動を開拓した主要人物のほとんどもほかならぬ朝鮮人であった。朝鮮の共産主義者は、北満州における遊撃闘争の開拓においても先駆的な中軸の役割を果たした。

 周保中はおりおり、東北革命につくした朝鮮人の労苦と業績を口をきわめて称賛したものである。「1930年当時、東北各地方の県党委員会書記と区党委員会書記は、ほとんどが朝鮮の同志たちだった。延辺の各県は言うまでもなく、寧安、勃利、湯原、饒河、宝清、虎林、依蘭など北満州各県の党委員会書記や県党委員もほとんどが朝鮮人の幹部であった」

 抗日革命が最終段階にさしかかっていたある年の春、アムール川が間近に見えるハバロフスク周辺の北密営の砂原をわたしと一緒に散策していた周保中は、抗日連軍時代の共同闘争の日々を感慨深く振り返ってこう言うのであった。

 「朝鮮の同志たちの業績をぬきにしては、抗日連軍の発展の歴史を語ることはできない。第2軍の90%以上が朝鮮人であることは周知の事実であり… 第1軍、第3軍、第4軍、第6軍、第7軍の開祖といえる主人公たちも、李紅光、李東光、崔庸健、金策、許亨植、李学万といった朝鮮の同志たちではないか。老魏と楊靖宇が倒れたあとは、金日成司令が多年にわたって第2軍はもちろん、第1軍まで統率して抗日戦争を指導してきたのだから… 東北革命の主人であるわれわれとしては正直なところ、頭を下げて礼をしたいときが多い。われわれは抗日戦争が終わったら、東北地方に朝鮮人出身烈士の記念碑を必ず立てようと思っている」

 事実、周保中は、抗日戦争が終結したのち、吉林省党委員会を通じて、吉林と延辺地区に朝鮮人出身烈士の記念碑を立てるという決定を採択した。

 朝鮮人は、北満州地方へ行っても日満官憲と土着地主によって牛馬のような生活を強いられていた。松遼平原をはじめ、一望千里の大平原と未開拓地からなる南満州と北満州の広野は、年産数千万トンを誇る世界的な大穀倉地帯であったが、ここでも朝鮮の貧しい同胞と開拓民は一年中、食・衣・住のために苦しめられなければならなかった。

 朝鮮戦争の停戦直後、わたしはある簡素な宴会の席で、李永鎬が幼いころ北満州で体験した飢餓を回想して涙ぐんでいた光景を目撃したことがある。彼の一家が、五人班か三岔口か、饒河に住んでいたころだというから、おそらく1915年前後のことだと思う。飢えに苦しめられていた彼の一家は、キャベツの茎で一秋を生き延びたという。そんな粗食でも、はじめのうちはおいしいご馳走だったという。だが3日もつづけて食べているうちに吐き気がしてきた。幼い永鎬は、親の目を盗んでその塩からい食べ物を膳の下に全部吐きだしてしまい、汁だけをすすった。その様子を見た母親はチマに顔を埋めて悲しげに泣いたという。そのころの李永鎬は、ズボンも米袋でつくったものをはかされた。まんなかに「白米」という藍色の大きな文字が捺されている袋を裏表も考えずに裁断してつくったので、その2文字はズボンの右側の外股に残されていた。けれども、彼はそれをなんとも思わなかった。その文字の意味がなんであるのか、知るよしもなかったのである。かえって、それを母親の神秘的な愛情の印でもあるかのように思いこんで覚えていさえしたのである。妙な文字が印されている一張羅のズボンを毎日はいていながらも、彼はあわれにもその文字が意味する白米のご飯を一度も食べることなく幼年時代をすごした。これは、北満州の同胞の過去を物語る貧困の縮図である。

 李敦化も雑誌『開闢』に載せた「南満州行」という文章で、満州へ行ってみると馬賊がはびこり、その狼藉ぶりは目に余るものがあったと書いているが、北満州は、東満州や南満州に比べて、馬賊の悪行がいっそうひどかった。それは、討伐隊を率いてたえず来襲する日本軍や満州国軍に劣らず頭痛のたねだった。北満州の胡狄(こてき)は、殺人を朝飯前のこととしていた。短刀や短銃で武装した数百人の胡狄が狼の群のように襲いかかり、殺人、放火、略奪を働くたびに、同胞たちは不安と恐怖におののき不断に居住地を変えた。胡狄は、金を奪い取るために罪のない住民を人質として連れ去った。深い山に人を連行しては、耳か手足の指を一つ切り取って人質の家に送り、これがおまえの息子の耳だ、何日までに金をいくら持ってこなければ息子の命はない、といった脅迫状をつきつけるのである。そういう脅迫状を受けた家では、やむをえず家財を売り払って息子を救い出さなければならなかった。胡狄の要求どおり金をやらなければ、人質は十中八九、死体となって返ってきた。

 北満州は決して「王道楽土」でもなく、「五族協和」の世界でもなかった。そこを支配したのは、氾濫する社会悪と弱肉強食の法則だけであった。朝鮮民族はこの土地に来ても、日本の高官や軍閥、財閥、銀行家、商人たちの利益に奉仕する下男となり、役牛となった。この呪わしい現実は、北満州地方の朝鮮人をして、早くから祖国の自由と独立のための抗日救国戦線に決起せざるをえなくした。間島の場合と同じように、北満州でも朝鮮の先覚者たちは早くから共産主義運動を主動的に開拓した。読み書きのできる人、頭脳明晰な人、感受性の強い人で共産主義運動に身を投じなかった朝鮮人はほとんどいない。しっかりした朝鮮人であれば、誰もが共産主義を唯一の教義とし、打倒日本帝国主義、打倒地主・資本家を叫んで革命運動に参加した。

 北満州で共産主義運動を開拓した先駆者たちは、1930年代の初期から日本帝国主義を実力行使によって打倒するための武力抗争の準備を進めた。宝清県では、崔庸健の指導のもとに200余名の朝鮮青年を結集した訓練班が組織され、抗日遊撃隊の創建をめざす基礎構築作業がはじめられた。名称が示すとおり、この訓練班は将来、革命軍の根幹となるべき青年を政治的、軍事的に訓練させる士官学校であった。わたしが通った華成義塾と同じように、歴史や戦術も学び、射撃訓練もおこなった。訓練班は10個中隊の編制になっていたが、司令を兼ねた総参謀長の役は崔庸健が、政治委員の役は朴振宇(本名金振宇)がそれぞれ担当していた。

 『千里行軍』の著者である「承認ひげ」の金竜化もこの訓練班に加わって中隊長を勤めた。彼に「承認ひげ」というあだながついたのは、わが国で反米大戦が終結した1950年代の中ごろだったと思う。社会主義基礎建設の開始とともに、朝鮮人民の生活様式にはいくつかの変化が起こったが、そのなかで、もっとも際立っていたのは、ひげをたくわえた者と長髪族、坊主頭、半ズボンが街から姿を消したことであった。ズボンはどういうものをはき、頭髪はどう刈り、ひげはどうしろといったことが国の法令で制定されたわけではなかったが、人民の生活にはこのように目を見張らせる変化がおのずと起こったのである。ところが、人民軍兵器廠の廠長であった抗日闘士の金竜化少将だけは、ひとり相も変わらず安昌浩ふうの口ひげを悪びれもせずたくわえていた。戦友たちは、ひげをそってしまえと彼に勧めた。妻子や上級幹部も熱心に説きつづけたが、馬耳東風だった。かえって毎朝、鏡の前で以前にもましてひげの手入れを念入りにするのだった。ある日、彼は、わたしにこう質問した。

 「首相は、わたしのこの口ひげをどうお考えですか?」

 「それはすばらしい傑作だと思う。口ひげがなくては金竜化がいくら美丈夫であっても金竜化とはいえない。わたしは、口ひげのない金竜化を考えたことがない」

 「それでは、わたしのこのひげを承認してくださるのですか?」

 「承認? 人民が首相に多くの権限を与えたのは確かだが、他人のひげについてとやかく言う権限まではまだ与えられていない。決定権はきみにある。きみがよければはやすし、いやならそるまでのことだ…」

 「それなら安心しました。首相、正直なところ、最近わたしは、このひげのためにだいぶうるさく言われたのです。けれど、これからはもうなにも言わせません」

 金竜化は喜色満面になってわたしの部屋を出ていった。ところが数か月後、わたしに会おうと内閣庁舎に来た彼は、その口ひげのために護衛将校に制止された。護衛将校は、服装がきちんとしていなかったり衛生道徳を守らない人はわたしの部屋に通さなかったのである。玄関口で押し問答をしている声が聞こえるので、わたしは窓を開けてみた。

 「どうしたのだ?」

 「少将同志にひげをそらなければ通さないと言ったところ、『承認ひげ』だと言い張るのです。最高司令官同志がひげを承認したというのは本当ですか?」

 護衛将校は、疑わしそうな目で金竜化を一べつした。

 「そんなことなら少将同志を怒らせなくてもよい。そのひげは不可侵だ」

 それ以来、彼は軍隊内で本名の代わりに「承認ひげ」というあだなで呼ばれるようになったのである。彼は9歳のとき結婚させられ、11歳の年ですきを手にして戸主として働き、13歳のときからは洪範図の連絡兵になり、数万人の死傷者を出した有名なイマン市激戦にも参加した歴戦の勇士であった。

 宝清の訓練班は最初、朝鮮人青年だけで組織された。朝鮮の独立を達成するためには、朝鮮人同士で部隊を編制すべきであって、異国人が混じると隊伍の運営過程で不協和音が生じかねないという主張が優勢だったので、そうならざるをえなかった。しかし、朝鮮人だけの構成では、中国人反日部隊との連合に難関が生じかねず、また中国人民から孤立する恐れがあるという声がしだいに高まったので、訓練班の組織を主宰した幹部たちは隊伍に2名の中国人青年を受け入れることにした。ところが、この2人の中国人青年が訓練の中途で裏切り、敵に訓練班の秘密をすべて明かしてしまったのである。訓練班は、検挙旋風を避けて宝清から120キロほど離れた所に移動して新しく校舎を建てたが、そこでも敵の討伐に耐えられず解散した。饒河に活動基地を移した崔庸健は、朴振宇、黄継興、金竜化、金智明などの戦友とともに三義屯小学校で、70名程度の青年によって訓練班を再組織し、訓練生のなかから、政治的、軍事的に十分に鍛えられた精鋭分子を選抜し、手先の掃討、軍・政幹部の護衛、武器獲得を基本使命とする赤色特務隊(一名赤色テロ団)を組織した。後日、崔庸健は、彼らを根幹にして饒河工農遊撃隊を組織した。

 湯原と饒河での遊撃隊の組織と前後して、寧安、密山、勃利、珠河、葦河でも、金策、許亨植、李学万、金海山などが率いる武装隊伍が相ついで誕生し、困難な抗日長征を開始した。金海山と李光林が周保中とともに第5軍の基礎を築いた人だとすれば、金策、許亨植は、張寿籛、趙尚志とともに第3軍を建設した老将であり、崔庸健、李学万、李永鎬、安英、崔一たちは、李延禄とともに第4軍と第7軍の組織にあたって旗手の役割を果たした功労者である。

 南の老爺嶺から北のアムール川まで、東のウスリー川から西の大興安嶺にいたるまで、数十万平方キロに達する北満州の広大な版図で、朝鮮共産主義者の軍歌が響かなかったところはほとんどない。金策が、ハルビンの東部と東北部地方を包括する浜江一帯を中心舞台にして遊撃活動を指導していたころ、崔庸健と李学万は完達山脈を根拠地にして、敵の集団部落と後方基地にたいする襲撃戦をたえまなく展開していた。1930年代の後半期、許亨植は、金策、馬徳山と連合して西北遠征隊を組織したのち、側面で活動する各遊撃隊との連係を結ぶ目的で、海倫をはじめ多くの県に進出してその一帯を果敢に開拓した。姜健は、老嶺山脈に活動基地をおき、牡丹江両岸の山岳と平原地帯を縦横無尽に駆けめぐりながら、敵を痛烈に撃破した。若年ではありながら、聡明な頭脳とあくことなき情熱の持ち主であった姜健は、前途が嘱望される軍事指揮官に成長した。

 北満州地方における遊撃運動の深化発展に及ぼした間島出身の闘士たちの影響力はきわめて大きいといえる。東満州での実践闘争を通じて十分に点検され鍛えられた金策、韓興権、朴吉松、安英、崔一、全昌哲などの闘士は、北満州へ移動してからも、積極的な組織者、宣伝者、指導者となり、抗日戦争の困難な突撃路を切り開いていった。

 北満州地方の朝鮮共産主義者は、東満州革命の全般的発展過程をつねに深い関心をもって注視し、東満州地方で活動していた朝鮮共産主義者との連係を結ぼうとたえず努力してきた。彼らは、さまざまなルートを通じて東満州のニュースを定期的に入手していた。北満州の人たちに間島のニュースをもっとも多く伝えたのは周保中であった。寧安に活動基地をおいてたびたび汪清に通っていた周保中配下の第5軍の連絡員と、第2軍から第5軍、第3軍、第4軍、第6軍、第7軍、第8軍、第9軍など、北満州の各部隊に派遣されていった闘士たちも東満州の宣伝をかなりした。吉東局指導部(吉東省委)も東満州の状況を紹介する重要な宣伝センターの役割を果たした。北満州の戦友たちは、この吉東局を通じて、東満州地方で発行されていた赤色系の出版物と『祖国光復会10大綱領』のような秘密文書まで入手していた。当時の吉東局は、東満州と南満州を北満州につなぎ、北満州を東満州と南満州につなぐ交換台の役割も果たしていた。李永鎬も饒河県党で宣伝部長を勤めていたとき、吉東局へ行って『祖国光復会10大綱領』を正式に配付してもらったという。彼は任地にもどり、吉東局を通じて入手した東満州の資料を戦友たちにもらさず伝えた。彼は、抗日戦争のときにその文書の原本をなくしたことをたいへん残念がっていた。

 北満州の戦友のうちで、わたしのことをもっとも積極的に宣伝したのは、金策と崔庸健であった。彼らは、人民革命軍の隊員と労働者、農民に、わたしが朝鮮革命の勝利のために示した総路線や戦略・戦術、当面の任務などを熱心に説明し、われわれの戦果や道徳的品性に学ぶよう強調していた。

 「東満州地方の革命闘争はいま、金日成隊長の知略によって前進しているという。金隊長は若い指導者だが、民衆の寵愛を受けているという。指導者の欠乏を感じている白衣民族としてはまことに幸いなことだ。時間をかけて一度会ってみたい気持ちは山々だが、どうすればそれが果たせるか、妙案が浮かばなくてもどかしいばかりだ」

 これは、崔庸健が饒河遊撃隊を組織するとき、隊員たちの前で語った言葉である。彼は、わたしに4回も手紙を書いて送った。だが、その手紙を伝達する使命をおびて北満州を発った崔庸健の連絡員は1人もわたしのところにまで来られず、みな途中で犠牲になった。そのうちの1人が血路を分けてわれわれの部隊の活動区域である敦化付近まで奇跡的にたどり着いたのだが、彼も任務を果たせず犠牲になった。もし彼が敵に捕らえられずもう1日か2日もちこたえたなら、わたしに会えたはずである。そうなっていたら、わたしと崔庸健との出会いは1941年ではなく、1930年代の中期にわれわれの活動地域である間島か、南満州もしくは北満州のいずれかの地点で実現していたであろう。

 わたしは、1941年にハバロフスクで金策と崔庸健に会ってたいへん驚いた。彼らがわたしの生活経歴と家庭の来歴までくわしく知っていたからである。彼らは、わたしのえくぼと八重歯が、日本の密偵が10年以上も捜しまわっている一獲千金の的であることや、わたしの首に数万円の懸賞金がかかっていることまで知っていた。彼らがわたしのことをよく知っていたように、わたしもまた、北満州の人たちのことはあれこれのルートを通じて多面的に把握していた。金策は、わたしが吉林で獄中にあったとき孫貞道牧師から多くの援助を受けたことをよく知っていたが、わたしは、金策が西大門刑務所で獄中生活をしていたとき、許憲から多くの援助を受けたことをよく知っていた。辛酸をなめつくした革命家たちの半生であるだけに、その経歴や行路には涙なくしては聞くことのできない、感動的な話や、想像外のエピソードも多かった。そういういわれのある内容は、仕事を多くした人や功労の多い人であるほど多彩で豊富だった。漫然と無為徒食してきた者たちに聞くほどの話があろうはずはないのである。

 一度は、われわれの部隊の一連絡員が北満州へ行ったとき、第7軍の軍長李学万が11歳になるまで乳を飲んでいたというあきれた話を聞いてきて戦友たちを笑わせたことがある。われわれは、その話を聞いていっせいに大笑いした。隊員たちは、でたらめにもほどがある、11歳といえば嫁をもらう年だというのに、そんな年で乳を飲むというのはつくり話だといって、連絡員を攻撃した。わたしももちろん、それは大げさな話だと思った。後日、ハバロフスクの北密営で李学万の甥にあたる李永鎬にはじめて会ったとき、きみの叔父が11歳の年まで義姉の乳を飲んでいたというのは本当なのかと聞いてみた。李永鎬は、本当だと答えた。

 「そうだとすれば、きみの母親の乳を飲んだということになるが、あのずうたいの大きい叔父がきみの分まで搾取したのではないか?」

 わたしがこう言うと、李永鎬はあわてて叔父をかばいだした。

 「とんでもない。わたしが、そんな搾取をされるわけはありません。叔父が飲んだのは片方の乳だけです。片方はわたしのものでした」

 「それ見たまえ。きみは50%の食糧を搾取されたのだ。2・8制でも3・7制でもない、そんな略奪を受けたというのに、叔父をかばうのか」

 李永鎬は、わたしの冗談を聞きながら涙が出るほど笑いこけた。

 「わたしは、片方の乳だけで十分だったのです。わたしの母は、乳がたっぷりだったようです。わたしを生むと乳が増えて、わたしが飲んだあとの残りは搾って捨てるくらいだったのです。手で搾ると痛いし、きれいに搾れないので、ある日おばあさんが学万叔父さんに、わたしの母の乳を少し吸ってやれと言い付けたそうです。叔父は言い付けどおりにしました。最初は吸った乳をすぐ吐き出してしまいましたが、そのうちいたずら半分に一口飲み込んでは、義姉さんの乳もお母さんの乳みたいにおいしい、と言って、わたしの母の乳を毎日飲むようになったのです」

 「叔父はなかなか図太かったようだね」

 「そうです。とても変り者だったんです。石松が飲む乳までおまえがみんな飲んでしまったらどうするのだと、おばあさんが心配すると、叔父は、だから片方だけ飲んでいるじゃないか、と言ったそうです。石松というのはわたしの幼名です。わたしが2歳か3歳になった年から叔父は乳を切りました。でも、わたしが乳を飲むときは、そばに座って生唾を飲み込んでいました」

 その日、李永鎬は、叔父にまつわるエピソードをさらにいくつか披露した。わたしは、李学万の人間像にすっかり魅せられた。しかし、惜しくも彼はすでに故人となっていたのである。わたしが李永鎬との初対面を果たした1940年代は、北満州の抗日隊伍で多くの人が荒野の霊魂となって消えたあとだった。

 かつて、北満州の抗日連軍各部隊でたたかった安英は、北満州の野山に葬ってきた戦友たちの名を一人ひとり呼びながら涙ぐんだ。だが、われわれが太平溝戦闘を終えて老爺嶺を越えているころには、彼らの大部分は生存し、北満州の広野と山並みを縦横無尽に駆けめぐり、猛虎の勢いで敵を打ち倒していた。北満州のその戦友たちが、われわれとの対面を待ち望んでいたのである。彼らには、われわれとの協力の問題だけでなく、コミンテルンとの関係、中国の共産主義者との関係、中国人民との関係、中国人反日部隊との関係で、解明がまたれる問題や解決を要する問題も多かった。われわれにしてもやはり、彼らに訴えたい問題が少なくなかった。われわれが東満州で「民生団」問題のために頭を悩ましていたとき、彼らは北満州で彼らなりの問題をかかえて人知れぬ苦しみを味わっていたのである。

 こうした事情は、われわれをして2回目の北満州への行軍を急がざるをえなくした。われわれが北満州の戦友たちに望んだのはただ一つ、同じ民族としての情であった。反民生団騒ぎは、愛と信頼の倫理のみが支配していた間島の遊撃区を人情の不毛の地に変えてしまった。われわれはその不毛の地で数年来、人の情けに飢え、それをオアシスのように希求してきた人間たちである。老爺嶺がいくら険しいとはいえ、北満州の戦友たちに向かって白雲のように流れていくわれわれの情をおしとどめることはできなかった。

 われわれが第2次北満州遠征を断行することにしたいま一つの目的は、第1次北満州遠征によってすでにその端緒が開かれた北満州の中国共産主義者との戦闘的同盟を強固にし、新たな時代の要請に即応して彼らとの共同闘争をいっそう推進させるところにあった。反帝反戦を志向する進歩的諸人民と社会主義勢力の進出にあわてふためいた帝国主義列強は、1930年代の中期にいたって世界の自主勢力に反対する国際的連合を強めていた。人類に世界大戦の惨禍をこうむらせる運命をもって生まれたヒトラー・ドイツとムッソリーニのイタリア、そして日本は、反共的、反平和的な同盟の結成を急いだ。

 こうした情勢のもとで、抗日革命を新たな時代の要請にふさわしく発展させるためには、各国の共産主義者、とくに中国の共産主義者との国際的連帯の強化が焦眉の問題として提起されざるをえなかった。満州各地方の抗日連軍部隊が、閉鎖的で孤立した活動方式から脱却して相互の連係を強め、連合した力で敵を撃滅するというのは、コミンテルンの一貫した要求でもあった。

 当時、東北地方に組織された各軍の力量は平均していなかった。指揮官の能力とレベルによって、各軍の戦闘力と準備のほどにはある程度の差があった。それぞれの軍部隊は、側面の軍部隊との連係もなく、たいてい固定した地域で孤軍奮闘していた。こうした分散性は、満州全域に割拠する遊撃部隊の力を状況と軍事・政治情勢の変化に応じて総合的に利用することを不可能にしていた。これは以後、各地域で閉鎖的で孤立した活動をしている遊撃部隊が、敵に各個撃破される弱点を内包していた。こういう実情から、東満州と南満州、北満州に存在していた遊撃部隊は、それぞれ他の地方の遊撃部隊との連係を模索せざるをえなかった。満州のすべての遊撃部隊には、固定した解放地区形態の遊撃根拠地で限られた地域を守りながら孤立無援の活動をしていた従来の方式から脱却し、互いに緊密に協力し支援し合って軍事・政治活動をより幅広く大胆に展開すべき戦闘的課題が提起されていた。こうした戦略的課題を遂行することなしには、満州地方の遊撃運動をより高い段階へ引き上げることも、統一的に深化発展させることもできなかった。反民生団闘争の過程で朝中両国共産主義者のあいだには共同闘争の障害となる不和と不信が生じていたが、われわれが北満州へ行って中国共産主義者との協力に力を入れれば、そうしたよそよそしい雰囲気も払拭することができるはずだった。部隊を率いて北満州に渡り、何か月かのあいだ各地を転戦していれば、モスクワへ行った魏拯民と尹丙道もコミンテルンの結論を得て帰ってくるだろう。この2人に会うのは、われわれの設定した第2次北満州遠征のいま一つの重要な目的であった。

 老爺嶺を越えるとき、寝返ってきた満州国軍の兵士たちで編制された琿春連隊所属の中隊がたいへん苦労した。山岳行軍になれていなかった彼らは、行軍開始後、2時間足らずのあいだに疲れはててしまった。わたしの命令で、汪清連隊の張竜山がその3個中隊を担当して行軍を助けた。転角楼と三岔口の区間で筏流しをした経歴をもつ彼は、生来の力持ちだった。彼が帯剣を一振りすると、雑灌木はばっさりと打ち払われた。彼は2、3人分の銃と背のうをかついでも、急傾斜の山道を軽々と登ることができた。

 「おーい、みんな、この峰が越えられないようだったら男をやめてしまうのだな」

 彼はこんな冗談まで言いながら隊員たちを励ました。

 われわれは、艱難辛苦の末に老爺嶺を越えた。しかし、7月になってやっと、山東屯の付近で周保中の居所を捜し出すことができた。昨日の綏寧中心県委の軍事責任者であった彼の肩には、抗日連軍第5軍軍長という新たな肩書がずっしりとのしかかっていた。数か月前は杖をつき、および腰でわれわれを迎えた周保中が、今度は杖を投げだし、密営から4キロも離れた老泉溝まで駆けつけてきてわたしを抱擁した。

 「その間、わたしの傷はすっかり治った。東満州の遠征隊が発ったあと、われわれは軍を新規に編制した。寧安ではそれ以来、党組織と大衆団体も活発に動いている。これはみな金司令の遠征隊が昨年われわれを助けてくれたおかげだ」

 わたしが尋ねる前に、周保中は興奮ぎみに寧安の実態を一気に説明した。

 「周兄の傷がすっかり治ったというから安心した。この数か月は、周兄のために流れた月日のようだ。第5軍の軍長に就任したのだから、祝い事はたっぷりあるというわけだ」

 わたしはこんなふうに周保中を祝ったあとで、平南洋の安否を尋ねた。北満州の地を踏んでみると、昨年、戦いのなかで結んだ情義がいまさらのようによみがえってきた。1、2か月親しんだだけのあの荒武者の風貌が、竹馬の友のようにわたしの記憶のなかにくっきりと焼きつけられているのはじつに不思議なことであった。

 われわれは第5軍の宿営地に到着するが早く、共同行動の問題で周保中と意見を交わした。ところが、ここで若干の摩擦が生じた。周保中が琿春連隊の連隊長である侯国忠に、遠征隊の行動方向を天下り式に押しつけようとしたのが動機になって、双方間の協議がしばし膠着状態に陥ったのである。当時、第5軍の政治委員であった胡仁は部隊を率いて穆棱一帯で活動していた。それで、遠征隊が穆棱へ行って胡仁を助けて戦い、五河林地区に進出してそこを掌握してもらいたいというのが周保中の要請であった。それほどむずかしい要請ではなかったが、自尊心の強い侯国忠は言下にそれを拒絶してしまった。それを要請ではなく指示と感じたようである。安吉と金麗重の見解も彼と同じであった。われわれにはわれわれなりの遠征目的があり、歩まねばならないコースもあるのに、ああせよこうせよと言うことができるのか、第5軍は第5軍であり、第2軍は第2軍だ、と言って腹を立てた。彼らが腹を立てるのも無理はなかった。われわれは第2軍を代表して北満州に来たのであるから、共同闘争だからといって他人の指揮棒に従うわけにはいかなかったのである。

 周保中は、パルチザンが火砲や重機のような重火器を持ち歩くのは遊撃戦の特性に合わないと指摘し、それを冒険だと言った。わたしは彼の主張にも一理はあると肯定しながらも、重火器が遊撃戦に適合するか否かは少し期間をおいてみるべき問題だと考えた。もともとわれわれは、抗日戦争をはじめるとき、遊撃隊の使用する基本的武器は軽火器とする原則を示したことがあった。ところが、太平溝戦闘で迫撃砲を使用してその威力を知って以来、遊撃戦だからといって重火器を一概に使わないことにする必要はなく、環境と条件によっては適切に使う方が効果的だという見解をもつようになった。事実、ソ連のパルチザンが国内戦争当時、火砲やマクシム重機を使用した実例がある。部分的ではあるが、中国の一部の遊撃隊員もそのころは火砲を用いていた。東満州遠征隊が火砲や重機を持ち歩いていることにたいし、周保中が冒険だと指摘したのは行き過ぎだといえた。わたしは緊張した雰囲気をやわらげるため、みなが共同行動についての構想をさらに練りあげたあとで、また集まりなおして両者が受容できる対策案をつくってみようと提案した。周保中はわたしの提案を快く受け入れた。こうしてわれわれには、北満州部隊との連合作戦のための具体的な対策案を研究しながらも、遠征隊員たちの行軍の疲れをいやす少しばかりの余裕が生じた。

 山東屯は、100戸余りの農家からなっている中国人村落であった。山東屯という地名は、山東地方の人たちが集まって暮らす村落ということに由来していた。敵はこの村落を封鎖するため、そこから6キロ離れたところに200〜300人ほどの討伐隊を常時駐屯させていた。わたしは山東屯にとどまっているとき、寧安県党書記や山東屯党組織との連係も結んだ。わたしが、山東屯で李延禄軍長に会ったのもそのころだった。そのとき、わたしはある地主の家を宿所にしていた。主人は地主ではあったが、気だてのやさしい人間だった。それで客人たちは、その家の仕事を少しでも手伝ってやろうと気を配った。ある日、われわれは主人の家の畑で小麦の刈り入れをしているうちに雨が降ってきたので、刈り取った小麦が雨に濡れないようにきちんと積みあげて宿所にもどってきた。すると劉漢興が、きょうはうっとうしい天気だから昼食をとって休息しようと言って、自分の手でいろいろな料理をつくって盛りだくさんな食膳をととのえるのだった。わたしは、李延禄の部隊が汪清に来ていたときから劉漢興の料理の腕前が並々ならぬものであることを知っていた。劉漢興のような中学出の知識分子が、専門の調理師そこのけの料理の腕をもっているというのは、まったく珍しいことであった。彼は料理もさることながら、酒もよく飲んだ。こちらが1杯飲めば3杯くらいはあける酒豪だった。われわれは彼がつくった料理をさかなにして酒を飲み、ワンタンも食べた。さかながよかったせいか、その日はわたしも何杯か傾けた。

 ところが、われわれがワンタンを食べている最中に、急に手榴弾の破裂する音が聞こえてきた。外に出てみると、小麦のわらの前に数十匹もの蛇がずらりと横たわっているのが目についた。当家の主人が福蛇だといって飼っていた蛇であったが、手榴弾で皆殺しにされたのである。主人は、蛇が家の中に入ってきて膳の下をはいまわっても放置しておくほどだった。この地方では、蛇を一種の守護神のようにみなす迷信じみた風俗があった。その日、庭で立哨勤務を勤めていたのは、われわれの部隊に配属されて北満州まで従軍してきた青年義勇軍の隊員たちだった。彼らが交替で歩哨に立っているとき、雨が止んで日が射してきた。すると、わら積みの中から蛇が鎌首をもたげた。地元の人たちが蛇を神聖な動物とみなしているのを知るよしもない歩哨は、前後の見境もなく、手榴弾を蛇の群に投げつけたのである。当家の夫妻は死んだ蛇を見てひどく気を落とし、不吉な災厄の前ぶれとでも感じたのか、まっ青になっていた。周保中と劉漢興がその場をとりなそうと慰めたが、彼らの不安をぬぐうことはできなかった。それでわれわれは、食事も終えないまま、やむをえずその家を辞去しなければならなかった。

 1935年7月下旬、東満州から「高麗紅軍」が来たという情報を受けて、数百人の満州国軍と警察隊で編制された混成騎馬隊が山東屯に押し寄せてきた。ざっと見て、数百人にはなりそうだった。そのとき第5軍の主力は穆棱寧安県の西北方へ進出していたし、第4軍指揮部の兵員もわずかなもので、数量のうえでは敵側がわれわれより2倍ほど優勢であった。戦うべきか、避けるべきか? 周保中と劉漢興はわたしの意向を尋ねた。わたしは、戦うことに決心した。第4軍、第5軍との連合作戦はこのように机上ではなく、土煙をあげて襲いかかる敵騎馬部隊の散開隊形の前で妥結し、実践に移された。強敵は避け、弱敵は討てという「避実撃虚」の戦術は昔の聖賢の教えであり、また遊撃活動の規範でもあったが、それは必ずしも一律に適用されるものではなかった。北満州で一度われわれの威力を誇示するのは、見方によっては、われわれの北満州遠征の目的達成に必須の要件であるともいえた。また、当時のすべての状況と地形条件からみても勝算があった。それで、われわれは簡単な協議の末に、直ちに戦うことに決定し、戦闘行動を開始した。われわれは人民に被害が及ばないようにするため、敵が山東屯に攻め入る前に迎え撃てるように陣地を定め、各部隊に必要な戦闘任務を与えた。太平溝戦闘で偉勲を立てた迫撃砲中隊の砲手と重機関銃中隊の名射手たちは、敵の進攻路と目される方向を制圧するための射撃諸元まで決めてわたしの命令を待った。

 涼水嶺子村河を挟んだ谷間づたいの道を恐ろしい速さでやってきた敵は、山東屯西北方の地域を占めようと山を登ってきた。われわれは前方150〜200メートルの近距離まで敵を引きつけてから、いっせい射撃を浴びせた。生き残った敵は退却し、涼水嶺子村河をへて南側の尾根づたいに再び進攻を試みたが、そこでも道筋に待機していたわれわれの勇士たちが痛快に撃ち倒した。こうした攻防戦がいくたびか繰り返された。敵の指揮官は不利な状況を収拾しようと、隊伍を再整備していた。敵が指揮所に密集したとき、迫撃砲中隊長が射撃命令を下した。砲弾が金属音を立てて敵陣に飛び、つづけざまに炸裂した。生き残った敵は、馬に乗って寧安方面へ退却する態勢になった。わが方の迫撃砲は撤収する敵に砲門を向けた。袋のネズミになった敵は、「共産軍が火砲まで持っているとは夢にも思わなかった」と叫びながら硝煙の中をさ迷い、夕闇にまぎれ算を乱して逃走してしまった。この戦闘でわれわれが迫撃砲を使ったことは大きな反響を呼んだ。敵は、われわれがソ連の援助を受けて迫撃砲まで持っていると言い、「高麗紅軍」という言葉を聞くだけでも震えあがった。われわれは、老黒山戦闘でろ獲した迫撃砲弾を山東屯戦闘で全部消費したのち、迫撃砲は地中に埋めた。

 山東屯戦闘で惨敗して以来、敵はあえてわれわれに戦いを挑もうとしなかった。敵は城門を締め切って城外に出てこなかった。さらには、われわれが送る手紙を見て、食糧、食用油、靴などの軍需物資を送ってよこしさえした。北満州の地で再び勝ちどきをあげた山東屯戦闘は、手榴弾で蛇退治をした珍無類な事件とともに、わたしの生涯でもっとも印象深い戦闘の一つとして記憶に残っている。

 われわれの砲声に敵は戦慄したが、人民は溶岩のごとくわき立った。北満州の中国人共産主義者との共同闘争は、このように緒戦から大きな実績をあげた。これは、両国の共産主義者間の戦闘的同盟を強固にする確固たる土台となった。周保中は、そのときから重火器の不合理性を二度と口にしなかった。

 われわれは山東屯を発ってから、斗溝子でも方という人の家で、北満州の共産主義者との反日共同闘争問題についてあらためて討議した。われわれの主動的な発案により、北満州遠征隊は周保中との合意のもとに数個の編隊に分かれ、第5軍の活動地域へ行って共同闘争を進めることにした。遠征隊は、第5軍政治委員の胡仁が活動している穆棱地方にも行き、平南洋が活動している地方にも小部隊を派遣した。周保中は、馬廠、団山子、沃糧河、石頭河子などの各地に向かうわれわれの編隊に、第5軍の一部の兵員を配属してくれた。これらの土地は、われわれが第1次北満州遠征のとき丹精して改良した沃土地帯であった。われわれは、この一帯の革命組織にしっかりと依拠して猛烈な軍事・政治活動を展開した。沃糧河の地下組織は村の周辺だけでなく、遠く東京城にまでネットを広げていたが、われわれはその組織の援助を少なからず受けた。沃糧河を思い出すと、一中国人老婆の姿が浮かんでくる。第1次北満州遠征のとき、その老婆は婦女会の活動に熱意をみせていた。還暦間近の身で軍服を仕立てたり、遠征隊の世話をやいたりして夜も眠らない老婆の姿を目のあたりにして、われわれはみな故郷の母や祖母に思いをはせた。老婆はわたしが一日でも見えないと、わたしの伝令兵に「ジンスリン(金司令)はどうして見えないのだい?」と尋ね、わたしが無事であることを聞いてやっと床についたという。その老婆の耳に、間島から「高麗紅軍」が来たという知らせが届いたのである。老婆は、雄キジ1羽と器にソバの玉をのせて、斗溝子で出発の準備を急いでいたわれわれの部隊を訪ねてきた。

 「昨年の秋は、金司令に満足なもてなしもできなかったんですが、今日はソバの材料を持ってきましたから、このばあさんの誠意を受けてくれればなによりです」

 ソバの材料を隊員にあずけながら老婆がいった言葉である。老婆はわたしの伝令とどう親しくなったのか、わたしがソバの好きなことまで聞きだしていたのである。その日、わたしは、周保中と一緒に老婆のまごころのこもったソバをおいしく食べた。キジの汁にキジ肉と野菜の具をのせたソバの味は格別だった。周保中は2杯たいらげたあとで「金司令は北満州に来て、いつああいう中国人の老婆までさらったんだね? わたしは、大衆をかちとる金司令の手腕にはいつも感嘆しているが、今度の機会にそちらの部隊に配属されたうちの中隊に政治工作の方法を教えてやってもらいたいと思う」と冗談とも本気ともつかぬ言い方で頼むのだった。

 その年の9月、部隊が額穆地方で活動しているとき、第5軍の政治委員胡仁が、われわれに正式に連合作戦を申し入れてきた。しかし、そのときわれわれは、葦河地方へ南下する金策との連係を結ぶためその要請をしばらく保留しておいた。その後、やむをえない事情のため、胡仁の要請には応じることができなかったが、わたしは抗日戦争の全期間、われわれにたいする彼の信頼をいつもありがたい気持ちで追憶したものである。

 われわれが北満州の開拓にあたって、寧安のつぎに重視した地域は額穆であった。額穆は、われわれがほとんど足を踏み入れていない土地であり、中国人部隊でさえ革命の風を吹き込もうとして歯が立たず、放棄したところであった。だが、金策が所属していた第3軍との共同闘争のためには、いずれにせよ額穆の土地にすきを入れなければならなかった。西北は第3軍の活動地域である葦河、珠河と隣接しており、西は第1軍、第2軍の活動区域と隣接するこの謎のような未知の土地は、彼我双方の垂涎(すいぜん)の的となっていた。北満州の多くの武装部隊が額穆の開拓を企図して失敗したのは、この地方の人民のあいだに深く染み込んでいた反共風潮のためである。寧安も反共の風あたりが強いところであったが、この地方に比べればまだいいほうであった。額穆が反共の汚染区域になったのは、この地方を本拠にして8.1暴動のような無謀な極左的妄動によって共産主義の恥さらしをしたM・L系分派分子らにも責任があった。8.1暴動のあおりを受けて、額穆の人たちは、日本帝国主義と反動軍閥からはなはだしい被害をこうむった。それ以来、この地方の人たちは、共産主義者といえば首を横に振った。日本帝国主義は、宣撫班を派遣して、人民と共産主義者のあいだにくさびを打ち込んだ。

 額穆県青溝子の密林で炭焼きをしていて入隊した一青年の体験談は、この地方の人たちの反共中毒がどの程度のものであったかを雄弁に物語っている。早くから伝染病で両親と兄弟を失い、天涯孤独の身になった彼は、物乞いをしながら無情な歳月をかろうじて生き延びているうちに額穆地方にたどり着き、道路工事場で苦役を強いられた。そのとき、彼は工事場のある人夫から革命歌を1曲習ったのだが、それはこの世に生まれてはじめて習った歌だった。その後、彼は、任家溝付近のある農家で臨時の雇われ労働をした。ある日、村で結婚式があった。彼も主人についていって新郎新婦を祝ったのだが、媒酌人の要請で歌を1曲うたった。それは、道路工事場で習った例の革命歌であった。ところが、その歌のために式場では騒動が起きた。学のある村の某有志がその革命歌を聞いて、青年を共産党だと決めつけたのである。その有志は、青年を雇い入れた中農を指さして「人を雇うならしっかりした人間を雇うがいい。よりによって、共産共妻をするというろくでなしの共産党を雇う必要はないではないか」とどなった。責めたてられた中農は、その日のうちに青年を追い出した。悲劇のもとは、その青年が共産主義者によってつくられた革命歌をうたいながらも、それが共産主義を鼓吹する歌であることにまったく気がつかなかったところにある。無学がまねいた結果だと言う人もいたが、それは無学のためではなく、反共風潮のためであった。日本帝国主義は、土匪や馬賊の暴挙までを共産主義者の仕業だと逆宣伝した。

 こうした状況下で遠征隊が額穆を開拓することに決心したのは、正直なところ冒険にひとしいことだった。事実、われわれは、鏡泊湖を渡って額穆に足を踏み入れた瞬間から住民に冷遇された。額穆地方の東側の関門ともいえるその村落は、中国人だけの小ぎれいな村だった。われわれが村に到着すると、大多数の村人は「紅胡子」が来たといって、子どもたちまで連れて逃げ出してしまった。村に残ったのは、老人と病人だけだったが、彼らも家の中に隠れて外には出てこなかった。村外れの林の中にテントを張って隊員を休息させたあとで、わたしは村を一巡することにした。小学校へ行ってみると、教職員や生徒もみな隠れてしまって見あたらなかった。これは、額穆に火を点じようと千里の道もいとわず訪ねてきた東満州の客人にはあまりにも冷酷なあしらいだった。

 わたしは、校庭にオルガンを持ち出し、それを弾きながら青年義勇軍中隊の隊員たちと一緒に『蘇武歌』と楊貴妃の歌をうたいはじめた。隊員たちは、漢族の民謡をうたわせても上手にうたいこなした。この二つの歌は、中国の勤労民衆にとくに愛唱されている名曲だった。『蘇武歌』は、わたしが吉林時代に習った愛国的な歌で、原題は『蘇武牧羊』といった。蘇武は、紀元前2世紀の漢の忠臣として声望が高かった実在の人物である。漢朝の使者として北方の匈奴に行ったのだが、匈奴は彼を人質として捕らえ、屈伏しなければ帰さないと脅迫し、雄羊が子を産むまでは帰れないだろうとうそぶいた。こうして、蘇武は19年ものあいだ匈奴に囚われていたが、節を曲げなかった。一言でいって、『蘇武歌』は、中国人民の愛国主義的思想・感情をよく反映している歌である。オルガンに合わせて『蘇武歌』と楊貴妃の歌をうたっていると、隠れていた小学校の高学年の生徒たちが先に好奇心と驚きの色を浮かべてわれわれのそばに集まってきた。そして、わたしのオルガンの音に合わせて歌をうたいはじめた。しばらくすると、教員や村人たちが1人、2人と集まってきた。「高麗紅軍」が中国の歌を上手にうたうという事実に驚かされたのでもあろうが、その歌のために、彼らは紅軍と自分たちのあいだに漠然としたものではあれ、一種の共通性を感じたのかも知れない。ともかく、遠征隊をひどくけむたがっていた人たちが、親しみと驚きをこめた目でわれわれを見つめるようになったのである。逃げていった村人が校庭にみな集まってきたとき、わたしは、中国語で反日演説をした。演説を聞き終えると、村人はわれわれに心を許した。彼らは、「高麗紅軍」は匪賊でもなく馬賊でもない、「高麗紅軍」は本物の愛国的な革命軍であり、紳士の軍隊だといって、われわれの部隊をほめた。『蘇武歌』によって北満州の中国人を感化することができたのだといえる。そのときのことを通じて、わたしは、文学と音楽が人びとを感動させ目覚めさせるうえでどれほど大きな役割を果たすものであるかを身をもって体験した。わたしが文学・芸術を革命の武器として重視するのは、そのときの体験にもとづいているともいえる。

 第2次北満州遠征当時、鏡泊湖畔のあの中国人村落での体験がたいへん強烈なものであったため、わたしは解放後、『蘇武歌』の歌詞を入手しようといろいろと努力した。最近になって、わが国の関係者の助けで、中国語の原文の歌詞を入手することができた。そのとき、わたしはうれしさのあまり、80の高齢であることも忘れて『蘇武歌』をうたった。80にもなってうたうのだからたいしたものではない。のどがつまって声がよく出なかったが、心のなかには、遠い雲の彼方に消え去った青年時代の感慨が新たによみがえり、苦難のなかで開拓した北満州の大地にたいする懐かしさがほのぼのとわき起こった。

 中国の共産主義者とともに困難な共同闘争の道を開拓した日々が懐かしくなると、たびたびオルガンでこの歌を弾く。口笛を吹くこともあるが、2、30代のころのような澄んだ音は出ない。ここに『蘇武歌』の歌詞を記しておく。


 蘇武牧羊

 1 蘇武は胡(えびす)に囚われしも 節を辱しめず
   氷雪に覆われし匈奴の地にて19年
   渇して雪を飲み 飢えて毛氈(もうせん)を食みては
   北海のほとりに羊を追う
   心は漢にあれど この身老いても還れず
   苦難をなめるほどに心は鉄石の如く
   夜半に辺塞にて笛の音聞けば
   心は痛み つらさ増す
 2 蘇武は胡に囚われしも 節を辱しめず
   いつしか北風吹き 雁の群漢へ飛ぶ
   白髪の母はわが子の帰り待ちわび
   うるわしの妻は独り閨房を守る
   夜更けてともども夢路をたどれど 誰が夢ぞ
   海が涸れ 石が腐爛するとも
   大節はいささかもそこなわず
   匈奴も胆をつぶし 漢の威徳に心服す


 額穆での印象のうちでいまでも忘れられないのは、三棵松で全州金氏の老人に会ったことである。六棵松という言葉が6本の松の木を意味するように、三棵松という言葉は3本の松の木を意味する。三棵松にとどまっているとき、県城からさほど遠くないある地主の家に指揮部を定めた。その地主の家から500メートルほど離れた所に、小柄な老人がわずかな田を耕作して暮らしていた。伝令兵が確かめたところによれば、その老人は朝鮮人らしいのだが、朝鮮語は使わず、舌足らずの中国語を使い、中国人を装って暮らしているというのだった。ある日の夕方、わたしはその老人の家を訪ねた。名乗り合ってみると、間違いなく朝鮮人であり、本貫(氏族の始祖の出身地)もわたしと同じ全州の金氏であった。洪範図につきしたがい、青山里戦闘にまで参加した人物であったが、その戦闘を最後に部隊が解散すると、額穆に来て妻帯し、隠遁生活をはじめたというのである。わたしが全州金氏であることを知った老人は、万里の他郷で同姓同本に会えてまったく感慨無量だと、喜びをかくしきれなかった。老人は、夫人を促し、踏みうすで籾米をといて白米のご飯を炊いてくれた。北満州に来てはじめて味わう白米のご飯だった。

 「最初は、わしらの志も遠大なもんじゃった。洪範図将軍の麾下で鳳梧谷での大勝を飾った時分は、朝鮮の独立がいまにも実現すると思えたもんじゃった。そのころは、夢を見ても独立門をくぐって漢陽城(ソウル)へ入城する夢ばかり見たもんじゃ。ところがいまはどうじゃ。こうして、野辺の石ころのような身の上になって、しわばかりむだに増やしているのだから、情けない話じゃ。この老いぼれに楽しみがあるとすれば、漢族の天下も同様のこの北満州の最果てで、長雨の季節に星を見るように朝鮮同胞にめぐり会うことじゃよ。金将軍の部隊が間島へ帰らずに、額穆にこのまま残ってくれれば願ってもないことじゃがな」

 老人は、こんなことを言って重い溜め息をついた。国を取りもどそうと火繩銃を手にして勇みたったその雄志が、過酷に刻まれるしわとともについえ去るのかと思うと、わたしもやはり寂しい気持ちを抑えきれなかった。わたしは、この老人の初志を無駄なものにしないためにも、われわれ青年がいかなることがあっても闘争を中断せず、必勝不敗の道を歩まねばならないという決心をいっそうかたくした。この金老人には、片方の耳がなかった。食事を終えてよも山話をしているうちに、老人にそのわけを聞いてみた。すると老人は、牡丹江で氷に穴をあけ、釣をしていてそういう目にあったと言って、自嘲めいた笑いを浮かべた。大きな鯉を釣り上げて胸に抱きとめたとたんに、その鯉があばれて凍傷を負った耳を打ったのだという。そんな災難にあった老人がひどく痛々しかった。わたしは三棵松村に一週間ぐらいとどまっていたが、その間毎晩、老人の家へ行って洪範図の話を聞かせてもらった。打ち解け合ってみると、額穆の人たちも間島の人たちのように反日感情が強かった。彼らが反共に汚染したのは、組織の指導を受けていなかったからである。

 わたしは大衆工作を進める過程で、青溝子の4号部落の百家長を勤めていた劉永生とも親交を結び、のちには指揮部もその家に移した。劉永生は、人民には負担をかけずに夜ごとたき火を囲んで娯楽会に興じ、隊員が男女の区別なく一団となって踊りもすれば学習もするわれわれの部隊を見て、変わった軍隊だと思った。彼が見なれてきた軍隊というのは、表看板にはかかわりなく、いずれも人民に目をいからせ、怒鳴りちらす類のものであった。ところが、間島から来たこの「高麗紅軍」は住民の水汲みを手伝い、庭を掃き清め、子どもの頭も刈ってくれるし、上下の別なく実の兄弟のように仲よくすごす不思議な軍隊だと、村中がささやき合った。

 ある夜、劉永生百家長から6号部落に駐屯している日本軍守備隊と満州国軍が、4号部落方面へ押し寄せてくるという不吉な通報があった。わたしはその通報を受けて、全部隊に就寝の号令をかけた。隊員たちは、就寝時間になる前に床につかなければならなかった。百家長はそれを見て、また不思議に思った。ふつうならば三十六計逃げるに如かずと敵を避けて逃げ出すはずなのに、この「高麗紅軍」は逃げ出す準備もせず、かえって村に落ち着いて寝ようとさえしているのだから、これはまったく謎のような軍隊だと思わざるをえなかったのである。彼はいまにも村に敵軍が襲ってくるような気がして、一晩中寝つけず、せわしく出たり入ったりしていた。わたしは彼の手をとって座らせ、こう言った。

 「わが軍が村をしっかり守っているのだから、心配しないでぐっすり休んでください」

 「宵の口から布団にくるまる軍隊がどうやって村を守るというのですか?」

 彼は不安を振り払うことができず、そわそわしていた。

 「歩哨が立っているではありませんか。『高麗紅軍』はうそをつきませんから、今晩はぐっすり休んでも大丈夫です。そのかわり、明日の朝われわれが出発したあとで、敵のところに行って、『高麗紅軍』が村に立ち寄ったと届け出てください。百家長さんがご覧になったとおり話せばよいのです」

 「届け出るなんて。わたしは『高麗紅軍』のようなりっぱな軍隊を密告するつもりはありません」

 「いや、百家長さん。わたしが本気で頼んでいるのですから、そのとおりにしてください。それでこそ、われわれが助かり、百家長さんも村も助かるのです。あとでそのわけがわかるでしょう」

 警察に「高麗紅軍」の動きを逐一密告させたのは、集団部落内に閉じこもっている敵を外へおびきだすためであった。翌朝、われわれは4号部落から撤収し、額穆方面にのびる道路を行軍した。行軍の途中で1個中隊は、西南方の尾根に伏兵の陣をはらせた。百家長の届け出を受けた敵は、数百人の討伐隊を繰り出して、行軍中のわれわれの主力部隊をすさまじい勢いで追撃してきた。こうして北満州遠征隊は、額穆進出後はじめての誘引伏兵戦をすることになった。この戦闘に投入された日本軍守備隊(憲兵隊ともいう)は全滅した。人民革命軍の弾幕からかろうじて1名の守備隊員が生き残り飛行機の救助を受けたが、その飛行機も着陸時に事故でこっぱみじんになったので、その1人まで「天国」行きとなったわけだ。わが国の踏査団が額穆を訪ねた1959年まで、青溝子6号部落には、日本帝国主義の手で立てられた「忠魂碑」がそのまま残っていたとのことである。

 われわれは1935年12月、官地付近でも戦闘をおこなった。この戦闘は、柳菜溝戦闘とも呼ばれている。この戦闘でわれわれと遭遇した200余人の敵は大部分が掃滅された。われわれに追いつめられた敵の将校が、野原にあった棺桶の中に死人になりすまして入っていたというエピソードは、この戦闘の後日談である。

 北満州で戦われた数々の戦闘は枚挙にいとまがない。われわれが額穆地方の開拓を熱心に進めていた1935年の秋、コミンテルンは周保中を通じて、第2軍と第5軍の共同作戦のための合同指揮部を構成したことと、その合同指揮部の政治委員兼葦河部隊の司令官にわたしを任命したことを知らせてきた。大隊と連隊、師団などの政治委員を勤めた経歴のため、コミンテルンがわたしを第2軍と第5軍の合同指揮部の政治委員に抜擢したようである。しかし、これはわたしの望むところではなかった。わたしは、職責を望んだのではなく、北満州で活動する中核的な朝鮮共産主義者との対面を切望していたのである。しかし結局は、合同指揮部の政治委員という思いもよらぬ職責がこの渇望をかなえられなくしてしまった。遠征隊の活動だけでなく、他の軍の政治活動まで主宰する重荷が負わされたからである。わたしはこの重責がさせる過重な仕事をかかえ、南湖頭会議を前後する時期まで、北満州の戦友たちとの対面をあとにまわして、二つの軍の政治活動のために、寧安とその周辺の各県を巡回しなければならなかった。しかし、その過程を通じて、中国の共産主義者との連携の基礎をさらに強化することができた。その収穫は、遠征を開始するときに予見したものよりもはるかに大きなものであった。ただ残念なのは、遠征の主要目的のうちでも最優先の項目としていた、金策、崔庸健との対面を果たせないまま、それを遠い将来のこととして残したことである。われわれは、中国共産主義者との接触を維持する日々にも、北満州の広野であらゆる辛苦に耐えて血戦を展開している朝鮮の共産主義者と愛国者をつねに忘れなかった。対面が遅れるほど、彼らへの思いはいっそう熱く燃えあがるのであった。

 東満州の朝鮮共産主義者と南満州および北満州の朝鮮共産主義者がはじめて一堂に会して紹介し合い、感動と愛情にあふれて抱擁したのは1941年の初めであった。それ以来、われわれはみな同じ密営で、同じ釜の飯を食べながら祖国解放をめざす決戦の準備を進め、解放された祖国に帰っては建国のるつぼに身を挺したのである。彼らはみな、20世紀のもっとも劇的な年代に、わたしとともに抗日戦争はもちろん、反米戦争(朝鮮戦争1950.6〜1953.7)にも参加し、民主改革と社会主義建設の苦難の峰々を営々と乗り越えてきた忠実な闘士たちである。

 北満州で戦った闘士たちは、いまもわたしとともに朝鮮式の社会主義を輝かすため苦楽を分かち合っている。半世紀を越す長い年月、わたしとわれわれの偉業を支持して変わることなき一路を歩んできたこの忠臣たちに、未来の幸福とともに清らかで美しい追憶のみが残されることを願う。



 


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