金日成主席『回顧録 世紀とともに』

5 革命の種子を広大な地域に


 「粛反」の旋風がもたらした破滅的な結果のため東満州全土が悲嘆にくれ、進路を模索していたとき、われわれは、解放地区形態の固定した遊撃根拠地を解散して広大な地域に進出して積極的な大部隊活動を展開する新たな路線をうちだし、それを1935年3月の腰営口会議に上程した。この路線は、参会した絶対多数の軍・政幹部の全幅の支持を得た。だが、すべての人がこれに理解と共鳴を示したわけではなかった。会議に参加した共産党と共青の幹部のなかには、遊撃区の解散に反対する人もいた。「遊撃根拠地を解散するとはなんたることだ。解散させてしまう遊撃区なら、なぜ建設したのか。食べるものも食べられず、着るものもまともに着られずに、なぜこの遊撃区のために3、4年ものあいだ血を流してきたのか。これは右傾だ。投降主義だ。敗北主義だ」と言ってわれわれを猛烈に攻撃した。当時、彼らが遊撃区の解散に反対してもちだしてきた主張を、学界ではいま「遊撃区死守論」と称している。

 腰営口会議で遊撃区の死守をもっとも強硬に唱えた代表的人物は、寧安遊撃隊の創建者の一人である李光林であった。共青寧安県委員会と吉東局で青年運動にたずさわってきた李光林は、その後、汪清地方に派遣され、柴世栄、傅顕明などの反日部隊の司令たちとともに抗日連合軍を組織する準備活動に関係した。彼が腰営口会議に参加したのは、共青東満特委の臨時書記という肩書をもっていたときだったと思う。李光林は、つぎのような論拠で遊撃区の解散を主張する人たちを攻撃した。

 遊撃区を解散して革命軍が広い地域に進出すれば、人民はどう暮らしていくのか。遊撃区を解散したのちは人民を敵地へ行かせると言っているが、これは軍隊と一心同体になって生死をともにしてきた彼らを死地に追い込むことになるではないか。遊撃区という軍事的・政治的拠点をもたずに革命軍が遊撃戦を展開できるというのか。遊撃区で革命的に洗練された人民が敵地に行くというのは、われわれが手塩にかけて育てた数万名の革命大衆を失うことになるではないか。総体的には、遊撃区解散の措置が革命を1932年の原点に引きもどす結果をまねくのではないか。

 スムーズに落着するかにみえた論議は、李光林の長広舌のため、しだいに複雑な様相を呈してきた。遊撃区解散の方針に支持を表明した人たちのなかからも、彼の言葉を肯定する者があらわれてきた。会議は、遊撃区死守論と遊撃区解散論の2派に分かれて論議が交わされた。論争が極点に達すると、修養に欠けた一部の人は、人身攻撃までしながら相手を強引に抑えこもうとした。なかには、李光林の私生活まで引き合いに出して、彼の主張を論駁する者もいた。李光林は寧安県で区共青の責任者を勤めていたとき、ある女性に恋をしたことがあるという。恋慕の情はきわめて熱烈なものであったが、相手はそれを受け入れようとしなかった。彼がそそいだ情熱の代価として得たものは、出すたびに送り返されてくる恋文と、見ても見ぬふりをしてすげなく顔を背ける冷淡な態度のみだった。恋愛というものはやはり、一方の主観的欲望や情熱だけでは成立しないものである。彼は、自分に失恋の苦汁を味わせたその女性を穆棱県へ追いやって別の女性と痴情関係を結び、そのうち汪清に来たという。李光林の主張を論駁するために引き合いに出された裏話なので、ことの真偽は速断しかねた。発言者がこういう裏話までもちだすという卑劣な方法で李光林に強打を浴びせたのは、愛していた女性を他の地方に追放してしまうほど復しゅう心の強い彼のことだから、論争の相手を負かすためならどんなことでもしかねないということを証明するためであった。ある人は、李光林は、かつて朝鮮共産党満州総局管下の幹部連に熱心に追従していた「火曜派系列の残党」であることを想起させながら、遊撃区の解散に反対するのは分派病の再発とみなしてもさしつかえないのではないかと論難した。論敵の苦々しい失恋話をあばきだしたり、分派の残党というレッテルを張りつけたりするのは、どうみても野卑な振舞いであった。だが、李光林にも責任はあった。自分を人民の忠実な保護者、人民の意思と利益の徹底した代弁者に描写し、他の人たちにたいしては、右翼日和見主義者、人民にたいする裏切り、許しがたい自殺行為といったレッテルを張ってはばからなかったからである。李光林のような人たちが遊撃区の解散に必死になって反対するその気持ちの一端は、わたしにも十分理解できた。遊撃区を解散するのはわれわれにとっても苦痛であった。自分の手でうち立て、自分の血と汗で築きあげ、「天国」以上に思ってかたく守ってきた楽天地を、なんの未練も愛情もなく見捨てて逃げだす人間が果たしているだろうか。われわれは、涙をのみ、連綿たる未練と愛情に苦しめられながら、遊撃区の解散を決心したのである。李光林もやはり、われわれに劣らず遊撃区を愛したに違いない。しかし、当時の実情で解放地区形態の固定した遊撃区で膨大な軍事的潜在力をもつ強敵を相手に長期間の正面対決をするというのは、いかに公正に評価しても冒険主義としか言いようがなかった。それは、自滅をまねく道であった。

 遊撃区の生命力が絶頂にあった1933年か1934年当時には、われわれもあえて解散を口にすることはできなかった。むしろ、われわれは当時、遊撃区をオアシスや地上の天国とみなしていた。ではなぜ、1935年になっては遊撃区の解散を主張するようになったのか。これは気まぐれではないか? 違う。気まぐれでもなく、動揺でもなく、後退でもない。それはかえって一歩前進ともいえる大胆な戦略的措置であった。われわれが1935年になって遊撃区の解散をあえて決心したのは、当時の主・客観的情勢が、まさにそれを求めたからである。豆満江沿岸に建設された遊撃区は、自己に課された使命と任務をまっとうしたといえる。われわれが遊撃区の使命と任務としてうちだした最大の課題は、革命力量を保持し、育成することであり、同時に抗日武装闘争の拡大発展のための政治的軍事的・物質的技術的土台を強固に築くことであった。もちろんそのとき、われわれは任務遂行の期間を3年とか4年と見積ったわけではなかった。ただ、その期間が短ければ短いほど望ましいと考えただけである。

 武装闘争の熱風のなかで、軍隊と人民は不死烏に成長した。創建当時数十名にすぎなかった遊撃隊伍は、大規模の遊撃根拠地防御戦闘と都市攻略戦まで展開できる、膨大な力量を擁する人民革命軍に発展した。人民革命軍の軍事・政治宝庫には、生新で独創的な遊撃戦の経験が豊かに蓄積された。遊撃戦争は闘士を育てあげる溶鉱炉であり、軍・政大学であった。この溶鉱炉からは、純粋な鋼鉄だけが取りだされた。石ころ畑や地主の厩舎に転がっていたズク鉄も、この炉に入りさえすれば黒光りする鋼鉄になって出てきた。抗日軍・政大学は、貧富は手相にあり、易者の卦にあり、巫女の御託にあると考えていた農夫や日雇い人夫までも闘士につくりあげた。

 以前、わたしは、金慈麟の作男時代の話を聞いて大笑いしたことがある。笑いなしには聞けないひとこまの喜劇が、その経歴を特色づけていたからである。いつものように金慈麟は、朝早くから地主の家の牛を引いて野原に出た。彼が牛の飼葉になりそうな草を選んでせっせと鎌を使っているとき、山の角から突然汽車があらわれ、全速力で走ってきた。彼は鎌を置いて土手っぷちに座り、汽車を眺めやった。汽車のデッキでタバコをふかしている色白の紳士の姿が目にとまった。なぜかその色白の顔が無性に憎らしく見えた。それで紳士に向かって拳を振りかざした。暖衣飽食している人間にたいする一種の反発であった。紳士の方でも目をむき、拳をかざして怒鳴り返した。その拍子に紳士のパナマ帽が飛んでしまった。紳士はしまったとばかりに両手を宙に泳がせたが、あっというまに疾走する汽車とともに遠い彼方に消えてしまった。そのかわり、紳士のパナマ帽は線路のふちの池に舞い落ちた。金慈麟は池に飛び込み、パナマ帽を拾い上げて頭にかぶり、金持ちになったような気分で線路の土手に立った。彼は、運よくも土手の上で5分銀貨が包んであるハンカチを見つけた。紳士の頭からパナマ帽が吹っ飛ぶときに一緒に舞い落ちたハンカチだった。5分でなにを買ったものかと1日中思案した10代の作男金慈麟は、その晩、例のパナマ帽をかぶり、金持ちの息子たちが毎晩集まるばくち場へ行った。彼は5分の元手で、一晩のうちに金持ちの息子たちから大金をせしめた。彼はその金で地主に借金を支払い、一部は貧困と涙のうちに一生を送っている隣家のあわれな老人に恵んでやった。手元に残った金はいくらにもならなかったが、その金額なら何年かは不自由なく暮らしていけるものと思った。けれども、1年とたたないうちに、彼は再び借金に苦しめられるようになった。それで1文の金でも余計に稼ごうと牛のように働いた。一生懸命に働きさえすれば暮らしも楽になり、一身代つくって、うまくすれば出世もできるというのが、作男時代の金慈麟の世界観であった。だが、労働は、彼に富を与えず、生活改善の道も開いてくれなかった。働けど働けど、彼にめぐってくるのは貧困と蔑視だけだった。彼は聡明で力持ちであったが、金がないばかりに人間扱いをされず、動物のように扱われた。彼は、自分を侮辱し虐待する者にたいしては真っ向から対抗した。しゃくにさわると、相手の胸倉をつかんで腕力をふるうこともあった。だが、そういうやり方では、生活苦を打開することができなかった。彼はその後、王隅溝遊撃区に来て遊撃隊に入り、間島でも5本の指に入る名機関銃射手に成長した。

 朝鮮人民のあいだに不死鳥として広く知られている紅頭山戦闘の主人公李斗洙も、ひところは道端で物乞いをして歩く浮浪者であった。

 遊撃区は、数千数万を数える抗日の英雄と烈士を育てあげる源泉となった。歯がすっかり抜けた老婆でさえ遊撃区に来ては抗日を叫ぶアジテーターになった。ここでは、すべての人が働き手、哨兵、戦闘員であり、有能な組織者、宣伝者、実践家であった。趙東旭、全文振、呉振宇、朴吉松、金択根は、いずれも汪清遊撃区で鍛えられたれっきとした革命家であった。抗日の英雄たちは、その血と汗によって、この世の人が驚異の目を向ける不滅の抗争史をつくりだしたのである。

 セクト主義と同時に左右の日和見主義に反対する困難なたたかいを通じて、革命隊伍はいかなる鉄槌によっても打ちくだくことのできない一つの大家庭に統一団結した。武装闘争と党建設のための大衆的基盤も強固に築かれ、中国人民との反日共同戦線も不抜のものとなった。これらの成果は、遊撃区が生まれて3、4年のあいだに達成されたものである。はたして遊撃区という策源地をもたずに、朝中共産主義者がこれほど実り豊かな収穫をおさめることができたであろうか。遊撃区という出陣基地、兵站基地、後方基地をもたずして、抗日革命に提起された第1段階の戦略的課題をかくも徹底的に、りっぱに実現することができたであろうか。

 金明花は娘のころ、馬の毛で冠をつくって生計を立てていた最下層の女性である。彼女は遊撃区に来て人間らしい生活をするようになり、抗日大戦の熱風のなかで朝鮮人民革命軍の隊員に成長した。遊撃区でなかったら、彼女はそのような驚くべき進歩の道を歩むことができなかったであろう。進歩はおろか、肉体的生命も救えなかったはずである。

 抗日戦争が生んだ闘士のなかには、かつての猟師もいれば賤民もおり、訓導、筏流し、鍛冶屋もいた。林春秋のような薬局の主人もいれば、徐哲のような医師出身の革命家もいた。東満青総の影響から脱してきた青年がいるかと思うと、南満青総や駐中青総の傘の下から参軍してきた青年もおり、都会から出てきた白面の書生や田舎から出てきた蓬髪の青年もいた。遊撃区は、出身と生活経歴のまちまちな人間を一つの号令によって動く誠実な軍人に育て、抗日救国の戦列で祖国と民族のために決死の覚悟で奮闘する時代の寵児に育てあげた。

 間島の山岳地帯に解放地区形態の遊撃区を創設したわれわれの決断が正当で時宜にかなったものであったことは、実践を通じて十分に検証された。ところが、遊撃区の生命力がまだ残っていたそのころ、われわれは腰営口でその解散の緊迫さを新たに力説するようになったのである。その根拠はなにか? 使命と任務をまっとうした遊撃区をこれ以上死守する必要はないということである。

 1930年代中ごろの間島地方における革命情勢は、朝中共産主義者に新しい時代の流れに対応する路線上の変化を求めていた。遊撃区にとどまって決戦歌をうたい、従来どおりの方法で一定の領地を守りつづけるというのは、厳正に言って、革命をさらに深化させる意思がなく、現状維持でよいという心算だといえた。革命を流れる水にたとえるなら、遊撃区死守論者の主張は、その水が海に流れ込まず湖や貯水池に留まっていることを望むにひとしいものであった。

 革命は、大河の流れにたとえることができる。岸壁につきあたってはうめき、渓谷に阻まれてざわめきながらも、宙に砕け散る億万の飛沫を集めてとうとうと海にそそぐ大河にひとしいのがほかならぬ革命なのである。大海を背に、山岳に向かって逆流する大河を見たことがあるだろうか。逆流と停止は、大河の本性ではない。大河は、ただ海に向かってのみ流れる。障害物があれば突き崩し、同僚や同行者がいれば包容して、はるか彼方の終着点である海へ海へとたえまなく流れていくのである。大河の水が腐らないのは、まさに停止と休息を知らぬそのあくことなき運動のためである。もしも、大河が一瞬たりとも流れを止めるなら、その川の一隅では腐敗現象が生じるようになる。あらゆる浮遊生物が繁殖して王国を築くであろう。

 もし、革命が革新を排除し、既存方針の固守を絶対視する方向に走るなら、その革命は流れを止めた川と同じものになる。革命は自分が立てた戦略的目標を達成するために、新しい環境と条件に即応して戦術を不断に更新しなければならない。こういう更新なしには革命は沈滞をまぬがれなくなる。同じ方法が50年後にも有効であり、100年後にも絶対的価値を有すると考える人がいるとするなら、それこそ愚かな妄想家と言わざるをえない。これは、人間の自主性と創造性と意識性を無視する立場であるとしか言いようがない。戦術はあくまでも相対的意味をもっている。一瞬を代表することも、1日を代表することもでき、1か月か1・4半期、一時期を代表することもできるのがほかならぬ戦術である。一つの戦略を成功に導く過程には10種、100種の戦術がありうる。一つの戦略のために一つの処方にのみ固執するのは、革命にたいする創造的態度ではない。それはドグマである。ドグマは、自分の手足を自分で縛りあげる馬鹿げた自殺行為である。ドグマがあるところでは、生新で迫力のある政治はみられず、活力にみちたとうとうたる革命の大河にめぐり会うことはできない。革命を大河の流れのように力強いものにする力は創造と革新にある。なぜなら、創造と革新こそは、自主的に生きるためにたえまない進歩と繁栄の道を歩もうとする人民大衆本来の要求を忠実に反映しているからである。そういう意味で、創造と革新は、革命の推進器といえる。一民族の歴史の発展がどれほど速いかは、この推進器の馬力にかかっているといえる。朝鮮革命はこの推進器の力で、21世紀の門前にまで迫っている。21世紀を目前にひかえている今日、朝鮮労働党でもっとも重要な問題として論議されている政治的テーマはなにか? それは帝国主義連合の強力な封鎖のなかで、人民大衆中心の朝鮮式社会主義をいかなる方法で固守し、輝かせていくかということである。

 1世紀前にも、朝鮮半島は大国の包囲のなかにあった。仁川沖には常時、列強の軍艦が浮かんでいた。封建朝廷が鎖国に固執して斥洋斥倭の立場をとるたびに、彼らは大砲を撃って門戸開放を迫った。日本帝国主義は、親日内閣をつくりあげ、それを発動して内政改革まで強行させた。王と王妃の周囲には、日本帝国主義が差し向けた顧問や公使、密使たちが目を光らせていた。これも一種の包囲であった。

 外来侵略者と帝国主義の包囲と封鎖は、歴史的に朝鮮民族に強要されてきた試練である。わたしも朝鮮民族とともに一生この包囲と封鎖のなかで生きてきた。地政学的特殊性からくる宿命なのであろうか? もちろん、それも一因とはなるであろう。朝鮮という領土が、かりにアラスカか北極のある氷河の端についていたとすれば、わが国にたいする強大国の興味も半減していたのではなかろうか。しかし、こういう「かりに」ということなどは考えられない。どんな国がどこに位置しているのかというのは問題外である。大国に追従せず自主的に生きていく国は、地球のどこに位置していようと、つねにグリーン・ベレーの攻撃目標になるか、無数の「トリセリ法」のいけにえになりうることを覚悟しなければならないのである。それゆえ、一生自主的に生きることを決心した人は、帝国主義の封鎖をつねに覚悟すべきであり、それを突き破っていく準備をととのえなければならないのである。

 間島の抗日根拠地は、1935年にも蟻のはいでるすきもない封鎖状態におかれていた。この年の敵の封鎖は頂点に達した。われわれは路線転換をして革命を大団円にもちこもうと決心したが、敵は封鎖網を最小限にせばめ、「共匪」粛清で決定的な勝利を達成しようともくろんでいた。日本帝国主義は、数千数万に達する精鋭兵力を動員して遊撃区を幾重にも包囲し、抗日根拠地の生きとし生けるものを地上から抹殺する討伐作戦を毎日のように強行した。

 革命軍と人民との連係を断つ敵の策動のうちで基本をなすのは、集団部落政策であった。この政策によって、人民革命政府の管轄外の行政区域のすべての住民は、好むと好まざるとにかかわりなく、土城と砲台に取り囲まれた密集部落に押し込まれ、五家作統法や十家連座法といった悪法と中世的な秩序の支配のもとで、モグラのような生活を強いられた。敵が満州各地に散在する数千数万の村落と民家に火を放ち、最後通牒ともいえる退去令をくだして住民を平地の土城村へ強制移住させたのは、軍隊と警察、武装自衛団が常駐している「安民村」に居座って楽に統治しようという目的もあったが、それよりも土城、砲台、堀、囲い、探照灯、鉄条網といった人工的な障壁によって、「共匪撲滅」の最大の障害物となっていた軍民一致の血脈を永久に断ち切ってしまおうとするのが主な目的であった。遊撃隊が人民の保護者であり、人民が遊撃隊の後方であり、重要な情報源であることは、敵も十分承知していることであった。人民をすべて土城内に押し込んでおけば、道路建設や軍事施設の設置などいろいろな夫役に集団的に駆り出すことも、その秘密保持に万全を期することもでき、労働力と資金、物資の徴発を容易にすることができた。敵は集団部落の建設を契機に反共宣伝を強化し、「おまえたちが住みなれた土地で暮らせず集団部落に行くことになったのは共産党のためであり、革命軍のためだ。彼らがおまえたちと通じ合って治安を乱しているので、当局はやむをえず散在する村落をなくし、『共匪』や馬賊に苦しめられずに暮らせる『安民村』を建設することになったのだ」と強弁した。

 敵は土城を四角に築き、一区画の土城に100戸ないし200戸ずつ押し込んだ。家は軍警の監視に便利に、今日の工場地区の社宅のように並べて建てた。同じ村の人でも、いったん集団部落に来ると軒を連ねて住めないように分離し、親戚や近しい人たちですら、前後左右に隣接させず、東西南北に配置した。それは、気の合う人同士が治安維持の妨げになる謀議をはかったり、秘密結社を企図できないようにするための措置であった。敵が集団部落の住民の分裂と離間をいかに悪辣にはかったかということは、五家作統法一つをとってみてもよくわかる。敵は5所帯で一つの組をつくり、そのうちの1軒でも遊撃隊と内通した事実がわかれば、その組の所帯全部に同じ処罰を加え、はなはだしい場合はその五所帯の住民を全員虐殺した。これが悪名高い5家作統法である。

 集団部落を統治する行政官吏と武装軍警は、人民革命軍の手中に1升の米も渡らないように、食糧統制をきびしくした。彼らは、住民が土城の外へ働きにいくたびに、「共匪」に渡す余分の飯がありはしないかと、弁当包みまで調べた。弁当箱に1人分以上の飯がつめてあると、うむを言わせず奪った。集団部落の農民は、野良仕事が忙しくて早朝から作業に出ようとしても、夜が明ける前には城外に出ることができず、そのうえ日が暮れる前に帰ってこなければならなかった。こういう状態なので、革命軍は集団部落の住民からの食糧の援助はほとんど期待できなかった。

 遊撃区内で収穫する穀物では、軍民の食糧をまかなうことができなかった。そればかりか、敵は執拗に農作を妨害した。彼らは、人間と同じように農作物も焦土化の対象とした。発芽する作物は軍靴で踏みにじり、生育期の作物は火を放って焼き払い、実った穀物は武装隊が牛馬車ですべて運び去った。これは、銃砲で全滅できない遊撃区域の軍隊と人民を完全に餓死させようとする卑劣きわまる飢餓作戦であり、首を締めあげる封鎖作戦であった。

 民生団は解体したが、革命隊伍を内と外の両面から分裂、瓦解させる敵の破壊作戦は、従前に比べていっそう悪辣な様相を呈するようになった。投降を勧めるビラには、美人の裸体写真や安物の春画まで登場した。金で買収された美女たちが、ローザ・ルクセンブルクやジャンヌ・ダルクの仮面をつけてわれわれの隊伍に入りこみ、軍・政幹部の魂を奪い警察署や憲兵隊につきだすための切り崩し工作を展開した。これらは、間島の遊撃区を人間の世界から完全に隔離された絶海の孤島に変え、それを徹底的に焦土化し窒息させようとする大殺人劇であった。

 こういう大勢を見ようともせず、すでに包囲されている遊撃区の防衛にのみ没頭するなら、結局革命軍は軍事的に守勢に立たされ、敵とのたえまない消耗戦に引きずりこまれて多年にわたって育成した革命力量の保持はおろか、その壊滅をまねく恐れすらあった。狭い遊撃区の死守にのみきゅうきゅうとするのは、つまるところ赤色区域の軍民すべてを立体戦によって圧殺しようと狂奔する敵のもくろみに歩調を合わせる結果をまねくのみであった。

 会議参加者の過半数が、遊撃区死守論を冒険主義として批判したのは正当なことであった。いまでもわたしが不思議に思うのは、あのとき腰営口会議で遊撃区死守論に固執した人たちの大部分が、日常生活においてドグマのはなはだしい、極左がかった独善的な人間であったということである。奇異なことに、彼らは創造的で革新的な立場の人たちを敬遠視しただけでなく、なにかをよく考案する人、発起する人、夢とファンタジーに富む人までよく思わなかった。だが、われわれは腰営口会議で、この過激で自尊心の強い男たちをとうとう説き伏せてしまった。コミンテルンに提訴することにした反民生団闘争の問題とは異なり、遊撃区解散の問題は会議で決定として採択された。これは、われわれが極左冒険主義との闘争でおさめたいま一つの成果であった。腰営口会議は、人民革命軍が遊撃区域を死守するという戦略的防御から戦略的攻撃の新たな段階へ移行する転機となった。この会議の決定により、われわれは遊撃区域の狭い範囲から脱して、東北と朝鮮の広大な版図で積極的な大部隊遊撃戦を巧みに展開できる洋々たる時代を迎えることになった。間島の5県に限られていた人民革命軍の活動舞台は数十倍に拡大された。活動舞台が広くなればなるほど、限定された地域の封鎖にのみ没頭していた敵が苦境に陥って右往左往するようになることは目に見えていた。5つの県を包囲するのは比較的容易なことといえようが、その他の東北の多数の省となると問題は簡単でない。これまで彼らは、遊撃区を封鎖しておき、固定した地域に駐留して口笛を吹きながら楽々とすごしてきたが、これからは人民革命軍を追いまわし、前例もなければ規範にもない戦いをしなければならなくなった。

 敵は、われわれの遊撃区解散の措置を「皇軍の分散配置による徹底的な討伐の結果」として「間島共匪の衰退を意味するもの」と描写しながらも、それが広範な遊撃運動へ移行するための新戦術にもとづいた自発的な行動であり、進攻の措置であると認めざるをえなかった。この新たな戦略的措置は、敵に不安と恐怖を与えた。遊撃区解散の措置がとられるという情報を入手した敵は、その解散をさまざまな手口で妨害してきた。軍隊と人民が遊撃区の外に抜け出せないように軍事的封鎖を強める一方、赤色区域の撤廃は武装闘争の終末を意味するだの、共産主義者が遊撃区を解散するのは、とりもなおさず遊撃運動の放棄を意味するだのと世論をまどわせ、民心を動揺させる思想攻勢を各面から強化した。こうした敵の策動は、遊撃区解散での第一の難関となった。難関は、それだけではなかった。もっとも気になったのは、人民が遊撃区の解散を喜ばなかったことである。李光林のような軍・政幹部でさえ賛成しなかった新しい路線を、人民がなんの心理的苦衷もなく素直に受け入れるはずはなかった。昨日まで「天国」だと宣伝していた根拠地であるのに、今日になってはなぜ急になくせなくて焦っているのか、一体全体どうするというんだ、と言って遊撃区を解散しないでほしいと哀願する人たちもいた。呉泰熙老は十里坪の住民を代表して、遊撃区解散の取り消しを求める陳情書までよこした。

 さまざまな解釈と判断が、遊撃区に乱れ飛んだ。一晩過ぎると、出所不明の不吉なうわさがいくつか伝えられ、人びとを驚かせた。革命軍が赤色区域を撤廃するのは民衆保護の負担をはぶくためだとか、朝鮮の狼林山にこもって、国内で遊撃戦を展開しようとして間島を放棄するのだといううわさもあった。なかには、革命軍が疲労困憊したのでソ連か中国関内などに深く入って少し骨休めをしてから、隊伍を一挙に拡大して間島にもどってくるのだと言う人もいた。こうした憶測のうえに、敵の宣撫工作隊が広める流言飛語まで重なって、遊撃区の世論は収拾しがたい混乱状態に陥った。

 われわれは腰営口で軍民連合大会を開き、遊撃区解散の緊迫さと正当さを根気よく説明した。東満州の各県と各革命組織区に出向いた特派員たちも、同じような性格の大会を開いて軍隊と人民を説得した。民衆は解散しなければ自滅するほかないという道理を理解し、それを正当な戦略的措置として受け入れた。ところが解散を実行する実務的段階に入ると、大多数の人民が敵地へは行かないといって座り込んでしまった。ここで草を食んでもよいし、獣の皮を煮つめて食べてもよい、敵地へ行くくらいなら、いっそのこと遊撃区で飢え死にした方がましだ、どうして敵地へ行き日本軍に苦しめられて生きていけるというのか、死んでも遊撃区を枕にして死ぬからわれわれを行かせないでくれ、と哀訴するのだった。

 われわれは「説得し説得し、また説得しよう!」という合言葉のもとに毎日のように住民の家を訪ねまわった。各区別の集いを開いたり組織別の会議を開いたりして説明に説明を重ねたが、少なからぬ住民が敵地へは行かないといってねばりつづけた。わたしは、共産主義者の宣伝と扇動がいかに偉大な力を生むものであるかをよく知っている人間の一人である。その力は無限大だという人もいる。しかし、それはどの場合にも適合する言葉であるとはいえない。それは、多くの住民が敵地へ行かず、深い山の中に入っていった事実を見ただけでもよくわかる。一部の住民は敵地での生活をまぬがれようと、参軍を要請した。入隊適齢期に達していない児童団員や少年先鋒隊員たちも、革命軍に従軍するといって聞かなかった。黄順姫はそのとき、自分を連れて行けないなら銃で撃ち殺してくれとまで言って遊撃隊員にすがりつき強情をはった。それで、延吉遊撃隊では彼女の参軍を許した。黄順姫がその小づくりな、かよわい体で、武装闘争の苦しい試練に耐え、幾百千もの死線を乗り越えて今日まで革命闘士としてりっぱに生き抜いてくることができたのは、あの強情さのおかげだったのかも知れない。太炳烈、崔順山も遊撃区の解散と同時に革命軍に入隊した闘士たちである。

 われわれは当時、多くの青少年を遊撃隊に受け入れた。遊撃区で数年間、人民とともにあらゆる試練を乗り越えてきた党活動家と共青活動家、人民革命政府の活動家も武器を手にしてわれわれの隊伍に加わった。裁縫隊や兵器廠、病院の一員になって、革命軍に従軍したいと嘆願する人たちもいた。遊撃区解散の過程を通じて人民革命軍の隊伍はこのように急速に拡大した。

 人民革命軍部隊は、人民の熱烈な支持声援のもとに、広い地域での遊撃活動に必要な準備と補給物資の確保、武装装備の改善に最大の努力を払った。婦女会員たちは長びつの中にしまってあった布地を全部取り出し、遊撃区を発つ革命軍隊員のために軍服を仕立て、背のうやハンカチ、脚絆、タバコ入れなどをまごころをこめてつくった。われわれも疎開地へ行く人民のために最大の奉仕をした。この奉仕で基本をなすのは、疎開民の要望と実情に合わせて移動準備を急ぐことであったが、それがどれほど緻密に着実に進められたかは、間島の各遊撃区で住民の疎開に先立って作成された戸口調査表一つを見てもよくわかる。その調査表には、遊撃区から他の土地に行く人たちの姓名、年齢、職業、親戚と親友の住所、姓名、担当工作、知識、技術の有無、行く先、保有食糧などの事項がいっさい記載されていた。遊撃区の幹部たちは、この戸口調査表にもとづいて、ある住民は敵地や朝鮮国内に送り、ある住民は深い山中に送って農作を営ませた。また、親戚のあてがある人とない人、身寄りのない子どもや病人を区分して隊列を編成し、その各隊列に武装グループをつけて目的地まで責任をもって護送するようにさせた。

 遊撃区を離れて敵地や朝鮮国内、深い山中に入っていく家庭には、所帯当たり平均30〜50元程度の生活補助金が支給され、布地、靴、器などの各種必需品と炊事道具が供給された。人民に分けてやる金額と物資を確保するために、われわれは戦闘も何回かおこなった。それらの戦闘のうちでいまでもわたしの記憶に印象深く残っているのは、呉白竜が実の叔父をひどい目に会わせたハプニングと劇的にからみ合っている大汪清集団部落襲撃戦闘である。

 呉白竜が叔父にびんたを食わせたのは、受難にみちたわが民族史が生んだ一種の悲喜劇でもあった。われわれは、そのとき集団部落を襲撃して大量の物資をろ獲した。20余挺の38式歩兵銃、40余頭の牛馬、数十袋の米と小麦粉、数万元の貨幣…。じつに、軍人だけの力では運搬しきれない莫大な戦利品だった。指揮官たちは、戦闘現場から500〜600メートル先の村落へ行って住民を連れてきた。急襲と迅速な離脱は遊撃戦の重要な戦術的原則の一つであり、戦利品を迅速に処理しなければ部隊の撤収が遅れ、敵に反撃の機会を与える恐れがあった。こういう寸刻を争うときに、口ひげをはやした1人の農民が荷をかつごうとせず、不平がましく振舞った。そして「みなの衆、パルチザンの荷をかついだらどんな目に会うかわからないぞ。先のことを考えても軽はずみなことはしない方がいい!」と言って、他人にまで荷をかつがせなかった。たまりかねた呉白竜は、「荷をかつぎたくなければ帰ってもかまわんです」と言った。それでも口ひげの農民は帰ろうとせず、荷をかついだらえらいことになる、とわめきつづけた。呉白竜はとうとう自制心を失い、その農民にピシャリと平手打ちを食らわせた。そして、遠縁の親戚に「あいつは反動分子ではないのですか?」と尋ねた。

 「あれはあんたの叔父の呉春三だよ」

 呉白竜はこう言われて、ぎくりとした。叔父が朝鮮人らしく協力もせず、半人足の真似をしているのも驚くべきことであったが、それよりも自分が20を越すこの年になるまで叔父の顔も知らずに過ごしてきたという事実には、ぞっとするほど驚いた。呉春三は、呉白竜がまだ物心もつかないうちに家を離れ、浮き草のような生活をしていた。そのため、叔父も呉白竜を知らず、呉白竜もまた叔父を知らなかったのである。呉白竜が革命家に成長するあいだに、呉春三は革命を恐れる軟弱な人間になっていた。そのときの叔父は、自分が革命に参加しないばかりか、息子たちが革命に参加することさえ喜ばない小心で卑怯な男であった。呉白竜は、叔父に手出しをしたことを後悔したが、謝るすべがなかった。それで、その遠縁の親戚に短い手紙を託した。

 「叔父さん、わたしが叔父とも知らず無礼を働きましたが、知らずにしたことですから、水に流してください。若い者にないがしろにされたくなかったら、叔父さんもこれから革命に参加してください」

 その後、呉春三は、甥の勧めを受けて家族全員を革命化した。自分自身も革命家になったが、妻子まで抗日運動に参加するよう導いた。彼の息子呉奎男は、闘争の道で青春をささげた。

 「甥の平手打ちが、結局はわたしの一生を叩き直してくれたのだ」

 呉春三は機会があるたびに、知人にこんなことを言ったという。

 軍民関係にひびを入れるようなことをした呉白竜がきびしく批判されたのは言うまでもない。叔父といえば親のつぎに数えられる親族であるが、人民革命軍の観点からすれば呉春三も民衆の一員であった。笑うに笑えぬ悲喜劇のひとこまが演じられはしたが、呉白竜が人民を動員して運んできた戦利品は、遊撃区を離れる住民の以後の生活に少なからぬ助けとなる大事なものであった。

 遊撃区解散措置の正当さは、1930年代の後半期に高揚一路をたどっていた抗日革命にいっそうの高揚をもたらし、祖国解放の大団円をめざして力強く前進していた反日民族解放闘争史の全般的発展過程が生き生きと実証している。

 遊撃区域の主動的解散とあいまって、人民革命軍部隊の広大な地域への進出により、われわれの抗争力量を間島の狭い山岳地帯に追い込んで窒息させようとした敵の企図は完全に挫折した。人民革命軍の大小の部隊は、南満州と北満州、北部朝鮮の広大な地域で、数量上、技術上優勢な敵を果敢に撃破していった。人民革命軍が解放地区形態の遊撃区を解散して広大な地域へ進出したのは、谷間から広野に出た快挙といえた。武装闘争という強力な背景のもとに遊撃区を離れた人民は、広野に根をおろして組織を拡大し、広大な地域に革命の種子をまきはじめた。帰順文書に捺印したごく少数の人物を除いては、すべてが大陸を燃やす一つ一つの火種となり発火剤となった。政治工作員も敵地を攪乱した。

 1935年5月にはじまった遊撃区解散の仕事は、その年の11月初、車廠子遊撃区域の解散を最後に完了した。車廠子での遊撃区解散が他に比べて半年ほど長引いたのは、まずこの根拠地周辺に2重、3重の包囲網をめぐらし、住民全員が餓死するのを待っていた敵の執拗な封鎖作戦のためであり、この区域の生活に責任を負っていた幹部の無責任さと無能さのためであった。

 明月溝会議で遊撃区の候補地を選定するとき、車廠子を適地としてもっとも強く主張したのは和竜県出身の人たちであった。安図県代表の金正竜も、車廠子を適地だと言った。土地が肥え、山林がうっそうとしており、山容の険しいこの一帯は、彼我ともに目をつけていた天然の要害であった。車廠子は、間島の他の土地と少しも変わらぬ寂しい山里であったが、遊撃戦争の過程で多少軍事に通じていたハイカラな陰陽師(おんようじ)のおかげで地価がぐんと上がった。地名の由来も、軍事と関係のある神秘なものではない。土地の人の話によると、車廠子というのは荷車をつくる所という意味だそうである。和竜の人たちは、車廠子が遊撃隊の軍事要衝になりうることを証明しようとして、洪範図部隊が日本軍を古洞河の岸辺に誘引し青山里で掃滅したのも、この一帯の特異な魅力のためであったからだろうと言った。

 われわれは車廠子遊撃区域の建設を武力によって支援するため、1934年の春に独立連隊を安図地方へ派遣した。金日煥、金一などの政治工作員も車廠子へ行った。独立連隊は、車廠子の付近に駐屯していた満州国軍1個中隊を追い払って、この土地の新しい主人になった。この武力を背景にして漁郎村遊撃区の住民が、車廠子になだれこんで古洞河の向かい側に和竜県人民革命政府の建物を建て、そのあとを追うようにして王隅溝と三道湾の住民が神仙洞をへてつぎつぎとここに集まり、東南岔の谷間の入口に延吉県人民革命政府の旗をかかげた。こうして、車廠子には、二つの県から移ってきた人民革命政府が同時に存在するという奇異な現象が1年も持続した。車廠子遊撃区域は、あたかも2基のエンジンをもった車か、白馬をつないだ二頭立ての馬車のように気勢も高くばく進した。最初のころは食糧事情もそれほど困窮してはいなかった。

 腰営口会議の決定により、車廠子遊撃区域解散の指導は、安図から派遣されてきた党指導部が担当することになっていた。ところが、そのメンバーは、軍隊と人民に遊撃区解散の方針を知らせようともせず、さらには車廠子に駐在した特派員を民生団と断じて処刑しようとまでした。のちにこの知らせを受けたわたしは、驚かざるをえなかった。車廠子は、間島の革命的大衆、とくに延吉、和竜、安図地方の革命的大衆が最後のよりどころとしていた拠点であった。そういうことから、この地区の解散を担当した幹部たちが優柔不断な態度をとるのもありうることだった。息づまる封鎖のなかで、車廠子の人民が軍隊とともに1935年11月まで遊撃区を守り通したのは、じつに驚嘆に値することである。先にも少しふれたが、当時の車廠子の空気は平穏ではなかった。極左分子が反民生団闘争にかこつけて遊撃区を無法地帯に変えたうえに、飢餓のために多数の革命的大衆が四苦八苦していた。われわれが白頭山地区で大部隊連合作戦を展開しはじめたころ、金平、柳京守、呉白竜、朴永純などは、車廠子で体験した飢餓についてしばしば回想した。金明花、金正淑、黄順姫、金戊M、全姫などの女性たちは、解放後にも食卓を囲むと車廠子のころを思い出して涙を流したものである。金明花と金正淑は当時、軍指揮部で炊事隊の任務を遂行していた。

 この遊撃区の状況は、軍指揮部の食卓にもそのまま反映された。王徳泰をはじめ指揮官たちのために、炊事隊員たちは毎日朝から山に登って松の皮をはいだ。ひとかかえほどの松の内皮を二束はいできても、指揮部の1日分の食糧にしかならなかった。それを灰汁(あく)につけて3時間以上煮てやわらかくなったのをすくいだして川の水でゆすぎ、石の上できぬた棒で叩く。そして、それをまた水で洗うのである。夕方までこういうことを何回となく繰り返し、米糠をまぜてかゆを炊いたり、餅をつくったりするのである。これが、車廠子随一の食べ物であった。この餅を食べると便がかたくなった。そのため、子どもたちは用便のたびにたいへん苦労した。そのたびに、母親たちは涙ながらに串を使って便をほじくりだした。大人たちもたびたび苦しい思いをした。それでいて、つぎの日になるとまたそれを食べるのだ。塩がなくて味もないものをそのままのどに通した。かゆや餅などはそれでも我慢できたが、山菜や菜汁などは塩なしではのどを通らなかった。ときおり車廠子に立ち寄る連絡員たちが携帯用の小袋から塩の粒をいくつかおいていった。大粒の塩を何人もの人が順番に一回ずつ舌の先につけてはそれをつぎの人にまわすのであるが、それこそのどをもてあます始末であった。松の内皮まで切れると、水車小屋から糠を持ってきてかゆを炊き、それをすすった。それでも、糠がゆは古草のかゆよりはずっとのどに通しやすかったという。古草のかゆは固くてざらざらし、のどに通すたびにちくりちくりとした。そんなかゆさへ食べられなくて飢え死にする人が続出した。

 人びとはみな、もどかしげに春を待った。3月になれば慈悲深く豊饒な大地があわれな人間たちを飢餓から救ってくれるものと信じていたのである。しかし、春も餓死から救ってくれなかった。春が人びとに恵んでくれたのは、雪の下からはいでるわずかな新芽だけだった。その若芽だけでは、遊撃区の住民の命をつなぎとめることができなかった。人びとは冬眠から覚めていない蛇を捕りはじめた。そのつぎはネズミを捕って食べた。車廠子では齧歯類(げっしるい)が絶滅した。蛙とその卵も住民の食用とされた。蛙の卵を煮るとキビ飯のようにねばり気があってとても美味だったという金戊Mの回想談を聞かされたとき、わたしは、ねばねばするその食べ物がのどにからみつくように思われて気分が悪くなったものである。隊員たちとともにさまざまな雑食をしてきたわたしではあったが、煮た蛙の卵の味というものには、とてもなじめそうにもなかった。種まきのときに履く田ぐつも釜に入れられた。遊撃区の住民は、田ぐつを煮たやや塩辛い汁を一杯ずつ飲んでは、ほふく前進する兵士のように腹ばいになって春の種まきをした。ところが、今日まいた種を2日とたたぬうちに掘り出して食べてしまうのである。人民革命政府と大衆団体は、種まきの終わった畑に歩哨を立ててそれを防ごうとした。だが、その歩哨でさえ飢えに耐えきれず、人目をしのんで種を掘り出しては食べてしまうのである。晩になると、子どもたちが軍指揮部の台所にそっと忍びこんできた。軍長以下そうそうたる幹部たちが食事をする所だから、残飯でもあるのではないかと思ってのことだった。それは期待はずれだった。彼らは、自分たちが飢えれば王徳泰も飢えていることを知らなかった。けれども、軍指揮部の台所におこげくらいはあるだろうという望みすらもてなかったなら、子どもたちは絶望に陥って死ぬことを考えたであろう。炊事隊員がおこげをやると、子どもたちはすすり泣きをしながらその場でたいらげてしまうのである。そして羞恥心から、「もう来ません、二度と来ません」と誓うのである。しかし、翌日も炊事隊員は、台所の前で食べ物をあさっているがんぜない子どもたちを見かけるのであった。こうした飢餓のなかで、車廠子の人たちは畑のうねまをはうようにして草取りをした。手で土を掻いては倒れ、倒れてはまた起き上がり、爪がすりへるほど土を掻いた。二番草まで終えると麦の穂が出た。まだ実も入っていない水分だけの粒を夢中になって食べた。立ち上がって歩く気力すらなく、うねまに腹ばいになったまま、やっとのことで麦の茎をたぐり寄せては、一粒二粒と口に入れて噛んだ。

 車廠子の人たちがこういう餓死の境にありながらも、純粋な人間でありつづけることができたのは、幾年ものあいだその思考と行動を支配してきた共産主義的理念、集団のために自分を犠牲にする共産主義的道徳が間島のすべての革命的大衆を「聖人君子」にしてくれたおかげだといえる。人間が人間の手足を切り取って食べるような人倫に反する行為は、車廠子ではおよそ考えることすらできなかった。

 春の端境期になると、まず子どもたちが飢餓に耐えられず、1人2人と死んでいった。そのつぎは男子のなかから餓死する者が続出した。自分自身は飢えながらも、夫と子どもたちのために最後の瞬間まで最善をつくすべき義務を担ってこの世に生まれた女性たちには、それより大きな不幸がめぐってきた。彼女たちは、飢え死にした夫と子どもたちを棺に納めることもできず枯れ葉で包み、その屍の前で全身を焦がして灰になるほど号泣したくても、その気力すらなく、涙さえ流せない最悪の苦しみを味わわなければならなかったのである。

 車廠子を襲った飢餓は、もっぱらこの区域を封鎖して野獣じみた討伐を重ねた日本侵略軍のためであった。遊撃区の責任ある幹部たちも、人民を生かすための必死の努力を傾けなかった。指揮部に潜入した反動分子と不純分子は「腹がすいても耐え抜かなければならない。絶対に屈服するな! 死ぬのは投降だ!」という超革命的な言辞によって大衆を愚弄した。車廠子の人民は、民生団にされて殺され、飢え死にしながらも、敵地へ行かず最後まで遊撃区を守って戦った。彼らが発揮した堅忍不抜の心と不屈の革命的気概は、半世紀が過ぎた今日になっても、われわれの胸を強く打っている。

 遊撃区の解散問題が日程にのぼった1935年10月に、金一、南昌洙、李桂筍、権一洙などの一家をはじめ20余名の民生団連累者家族は統合所帯というのをつくり、東南岔谷間の行き止まりで1936年の夏までたたかいつづけた。そうしてでも、民生団の濡衣を脱ぎ捨てようとしたのである。統合所帯というのは、いくつもの家庭が一つの所帯になって生活を維持し、闘争もしていく特異な生活方式のことである。彼らは1棟の丸太小屋に家財道具を集め、責任者を定めて、毎日、毎週、毎月、各人に適した任務を分担し、その遂行状況を総括しながら組織的な生活をした。この統合所帯に加わった家庭は、車廠子を守り通した最後の防衛者たちであった。

 敵は数千の兵力を動員し、軍警による従前の焦土化式討伐一点張りの戦術から、軍事、政治、経済などの各分野にわたる総合的な大封鎖戦術に移行し、車廠子を完全に圧殺しようと討伐に討伐を重ねたが、そのたびに惨敗を喫した。1935年10月の大討伐には、数千の敵が投入された。車廠子の勇敢な防衛者たちは、そのときも敵の侵攻を英雄的に撃退した。彼らは、遊撃区を空襲する飛行機まで狙撃兵器で撃ち落とす戦功を記録した。その年の11月、車廠子の人民は遊撃区を解散し、軍隊とともに大部分が内島山方面に移動した。敵の封鎖のなかでも長いあいだ人民とともに飢餓と病苦と戦闘を体験した車廠子防衛者の一人である白鶴林は、いまなおこう語っている。

 「車廠子の人たちが体験した抗日戦争時期の惨状を知らないなら、なんらかの生活難についてあえて口にするな。車廠子の軍民が封鎖のなかで、どのように飢餓に耐え、寒さに耐え、敵の討伐に耐えたのかを知らないなら、なんらかの困難の克服についてもあえて自慢しようとするな!」

 われわれは遊撃区解散の手配とその実行過程を通じて、朝鮮人民の組織性と鉄のような規律性、革命にたいする忠実性と不屈の精神をいっそう深く悟ると同時に、そういう人民を正しく動員し指導するなら、いかに困難な状況のもとでも十分勝利することができるという限りない自信をいだくようになった。いかなる人民であれ、いったん死を覚悟し、不正を討つためにこぞって決起するなら、そういう人民にたいする封鎖や焦土化は絶対に成功するものではない。それは、国際共産主義運動の歴史が示している一つの力強い教訓である。新生ロシアにたいする14か国の武力干渉者の国際的封鎖がどんな結果に終わったかは、全世界の人民がいまなおはっきりと記憶しているはずである。ヒトラー・ドイツもレニングラードの封鎖に成功しなかった。爆弾が雨あられと降りそそぐ困難な状況のもとでも、レニングラードの防衛者たちは、パンを焼き、戦車をつくり、生産に励んだ。全世界のブルジョアジーがレニングラードは陥落するだろうと宣伝していた1943年に、この都市の勤労者は前年に比べて生産性をいっそう高める奇跡を起こした。中国の抗日根拠地にたいする蒋介石軍の数回にわたる封鎖と討伐も、やはり惨敗を重ねた。30年間も持続しているキューバにたいするアメリカの封鎖ももちろん成功していない。アメリカはこの小さな島国の封鎖に莫大な力をつぎこんでいるが、その努力はそれほど功を奏していない。最近では、トリセリ法を排撃するキューバの決議案が国連総会で採択された。国際社会が、アメリカの時代錯誤的な封鎖政策に冷笑を浴びせたわけである。カストロは、「危険な瞬間に直面するとき、人体内ではより多量のアドレナリンが分泌されるものだ」と明言している。アドレナリンは、心臓の機能を強めるホルモンである。これは、キューバの共産主義者の楽天主義を象徴している。

 アメリカや日本などの現代帝国主義者は、いまわが国を政治的、経済的、軍事的に封鎖している。しかし、朝鮮の共産主義者にも、その封鎖をみごとに撃破できるチュチェの活力素がいくらでもある。朝鮮労働党と朝鮮民主主義人民共和国と朝鮮人民を軍事的に征服したり、政治的、経済的に窒息させることができると考えるのは、卵で岩を砕こうとする妄想にすぎない。

 遊撃区が解散したのち、小部隊と政治工作員の国内進出は積極化した。革命の種子は、満州と朝鮮の広大な地域に無数にまかれた。遊撃区が解散されたあとも、わたしはつねに汪清を忘れず、間島をおろそかにしなかった。遊撃区は解散したが、間島の5県はその後も依然としてわれわれの重視する基幹的な抗日戦区となっていた。崔賢部隊をはじめ、人民革命軍の大小部隊は、汪清一帯だけでも、北蛤蟆塘の上村集団部落襲撃戦闘、四道河子襲撃戦闘、百草溝の仲坪村襲撃戦闘、大梨樹溝襲撃戦闘、張家店要撃戦闘、上八人溝襲撃戦闘、太陽村襲撃戦闘、大荒崴襲撃戦闘、夾皮溝要撃戦闘、小百草溝の湧邱村襲撃戦闘、十里坪採木工事場襲撃戦闘、春芳村の石頭河戦闘、羅子溝の上老母猪河襲撃戦闘など多くの戦闘をおこなって敵に甚大な打撃を与えた。

 敵は、神出鬼没の抗日遊撃隊の攻撃を防ごうと全力をつくした。間島地方の主要幹線鉄道では、軍用列車と客車運行の安全を保つため、重武装した装甲列車がつねに先行した。客車が夜間に山間地帯を通過するときは、車窓ごとに遮光幕をおろして徹底した灯火管制を布き、憲兵、私服警官、鉄道警護隊が、車両ごとに立って乗客を監視し取り締まった。遮光幕を上げてちらりと車窓の外をのぞくだけでも、通匪分子だとして殴打された。敵は、集団部落の警備を強化し、人民を強制的に警備に動員した。さらに、ある開拓民村では、革命軍の襲撃に備えて、木銃や発火管のついた爆発物まで住民に与えた。人民革命軍の猛烈な軍事活動に敵がどれほど恐怖心をいだいていたかは、日本人警察官たちが集団部落の夜間警備を中国人と朝鮮人の自衛団員たちにまかせきり、毎晩寝場所を変えていたという事実からも十分にうかがうことができる。日本人警察官と満州国の自衛団員のなかからは、厭戦厭軍思想に染まったアヘン中毒者が続出した。石地方で発生した「松村事件」一つをみても、1930年代中期の日本帝国主義の敗北ぶりがどんなものであったかをおし測ることができる。松村という人物は、日本で教師を勤め、赤色教組事件に連座して亡命してきたインテリであった。彼は、前金2000円をもらって日本人の経営する白頭山伐採場の現場監督になった。彼が現場監督になって数か月目に、われわれの部隊がその伐採場を襲撃した。松村は革命軍の戦利品を背負ってわれわれの部隊に同行し、わたしにも会い、演芸公演も見た。そして、革命軍の威力がよくわかったといって伐採場にもどり、主人に辞表を出して帰郷してしまった。日本の敗戦は、時間の問題だと判断したわけである。

 遊撃区の影響を受けた伐採労働者たちによって、汪清とその周辺では列車転覆事故が頻発した。遊撃区は解散したが、その精神は間島で消えることなく、敵を恐怖におののかせた。



 


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