金日成主席『回顧録 世紀とともに』

4 四道溝惨劇にたいする報復


 
 老黒山戦闘で勝利した朝鮮人民革命軍隊員たちに祝意を述べる金日成将軍(1935年6月)

 わたしが腰営口で遊撃区解散にかかわる指導のため多忙な日々を送っているとき、羅子溝の地下組織が連絡員をよこして、四道溝惨劇の詳報を伝えてくれた。連絡員が携えてきたレポには、聞大隊長が老黒山地方の靖安軍を引き入れて四道溝の村落を完全に焼きつくし、村民全員を虐殺したという、衝撃的ないきさつが記されていた。通報は信頼するに足るものであったが、わたしは皆目見当がつかなかった。聞大隊長がわたしとの約束を反古にして靖安軍を大虐殺へと誘導したということが信じられなかったのである。聞大隊長とわれわれの部隊とのあいだには、今日の攻守同盟に似たようなものが結ばれていた。われわれが聞大隊長と手を結んだのは羅子溝戦闘直後のことであった。

 ある日、敵地の地下組織から満州国軍部隊の牛馬車輜重隊が、羅子溝に向けて百草溝を出発したという情報がもたらされた。われわれは、鶏冠拉子付近で伏兵戦を展開した。満州国軍の輜重兵たちは、ほとんど抵抗もしないで全員が投降した。捕虜のなかには、聞大隊長配下の鉄という姓の中隊長がいた。彼は、革命軍に捕らえられたという強迫観念などみじんもなく、あたかも当然の応報だと言わんばかりに平然として笑っていた。

 「きみは将校でありながら、なぜ抵抗もせずに投降したのか」

 わたしは、このおかしな男に質問した。

 「ここは高麗紅軍の活動区域だというのに、抵抗してなにになるんですか。勝ち目のない戦をするくらいなら、手を挙げるほうが上策でしょう」

 彼も寧安地方の人たちのように、朝鮮人民革命軍を「高麗紅軍」と呼んだ。

 「それに、高麗紅軍が捕虜を殺さないというのは、満州中が知っていることではありませんか」

 貧農出身の鉄中隊長は、満州国軍の俸給がよいといううわさを聞いて、結婚費用なりともととのえるつもりで軍務に服した人間であった。あまりにも世情にうといと言う人もいたが、正しく教育すれば、満州国軍将校という表看板をかかげていても良心的に生きていける人間であった。われわれが捕虜との問答を終えて彼らを釈放すると、鉄中隊長はわたしにこう頼むのであった。

 「隊長殿、この牛馬車に積まれている荷のうち、他のものは全部持っていってもかまいませんが、お金と銃だけはなんとか返していただけませんか? 手ぶらで帰っては兵士たちに月給もやれないし… おそらくわたしらは聞大隊長に銃殺されるでしょう」

 わたしは、牛馬車の物資全量と捕虜全員を羅子溝へ行かせることにした。遊撃隊員たちは、「こっちは弾丸代ももらえず、寝そびれて骨折り損のくたびれもうけというもんだ」
と冗談を言いながら彼らを見送った。

 鉄中隊長は、李孝錫中隊長に「きみ、この千切りのかますに何発か撃ちこんでくれないか」と言って弾薬箱を一箱おろした。われわれの寛大な処分に感じ入った様子だった。李孝錫が弾薬箱を受け取らずにそのまま馬車に積み返してやると、輜重兵たちは自分たちの手で千切りのかますに何発か弾丸を撃ちこんだ。そうしてから、装てんしてあった弾丸を全部抜いてハンカチに包み、それを草むらに投げだしてそそくさと立ち去ってしまった。

 このことがあって以来、鉄中隊長は、聞大隊長から格別に信頼されるようになった。聞大隊長は、輜重隊を送り出すたびに彼の中隊に護衛の任務をまかせた。他の中隊にまかせると無一物になって帰ってくるが、鉄中隊長は一度も奪取されることなく無事に帰ってきたからである。われわれは他の輜重隊は襲撃したが、鉄中隊長の輜重隊だけは例外にした。彼は軍需物資を運びに行くたびに部下を派遣して、輜重隊の通過地点とその日時、標識などをわれわれに知らせた。そうしているうちに聞大隊長も、鉄中隊長が人民革命軍の保護と関心のもとにあることを察知するようになった。

 ある日、鉄中隊長は聞大隊長に会って「うちの中隊は羅子溝に来て人民革命軍の保護を受けていますが、いっそのこと、うちの大隊が金隊長の部隊と攻守同盟を結んで安全にすごしてはどうですか」と提言した。聞大隊長は、最初はなにごとかといわんばかりに驚くふりをして見せたが、のちには本心どおり、申し分ない保身の策だといって、その提言に快く同意した。このことが鉄中隊長を通じてわれわれに伝えられたので、われわれも満州国軍が人民の生命財産を侵害しないという条件で同盟の締結に同意するという意思を聞大隊長に伝えた。会談もなく、署名捺印もない型破りの「紳士協定」であった。われわれの部隊と聞部隊との攻守同盟は、双方が互いに協力し合って攻撃も防御もともにする同盟という本来の意味からはずれて、双方の軍事集団が互いに相手側を攻撃せずに親善を保つ同盟という別の意味をもっていた。この同盟は、双方の利益を尊重し、相互協力を強める方向でこれといった曲折もなく維持されてきた。われわれが不可侵の原則を忠実に守ったので、聞大隊長は革命軍に多量の弾薬と食糧、被服を何度も送ってよこした。ひいては、日本軍の動静と関連する重要な軍事情報まで提供してくれた。

 こうした同盟の和平関係からしても、聞大隊長が靖安軍を四道溝の討伐に誘導したという知らせは信じがたいものだった。わたしは、鉄中隊長に連絡員を送って真相を確かめさせた。連絡員の報告により、四道溝の惨劇は事実であり、聞大隊長の裏切り行為も事実であることが確認された。聞大隊長が上司である日本人の圧力を受けて攻守同盟を破棄しようとしていると、鉄中隊長が知らせてきた。われわれは、聞大隊長の裏切りと、彼が案内役を勤めた四道溝惨劇に相応の報復をすべきであった。復しゅう戦を叫ぶ声が連日、指揮部にもたらされた。指揮官たちも四道溝人民の恨みを晴らそうと隊員たちを扇動した。狂犬は棍棒で成敗すべきだというのが、革命軍の好みの格言であった。わたしは、隊員たちの要求が正当なものだと考えた。老黒山の靖安軍部隊や羅子溝の満州国軍部隊を放置しておいては、この一帯に住んでいる人民の安全をはかることも、村ごとに根を張っている地下組織の活動を軍事的に支援することもできず、人民革命軍の北部満州進出を支障なく断行することもできなかった。遊撃区の解散に混乱をきたすことも必定であった。羅子溝は汪清、琿春地方の解散した遊撃区の人民が転住する疎開地でもあったのである。

 わたしは、靖安軍部隊と聞部隊を同時に討つことを決心し、兵員を補充するために延吉第1連隊と車廠子に行っていた独立連隊を汪清に呼集した。独立連隊は1食にパン一つという粗食で約5日間強行軍し、われわれが駐屯していた塘水河子の村に到着した。独立連隊の連隊級幹部は、連隊長であった尹昌範をはじめ、ほとんどが民生団にされて殺害され、参謀長が部隊を引率してきたのだが、指揮官を失った彼らの士気はひどく落ちていた。

 そのとき、われわれは、独立連隊、延吉第1連隊、汪清第3連隊のそれぞれの一部の兵力で転角楼戦闘を決行した。土城内に深く立てこもって悪行をほしいままにしている満州国軍と自衛団の兵力を制圧せずには、羅子溝への通路を開くことができなかったのである。転角楼戦闘を終えた革命軍は、羅子溝攻撃の作戦計画を立て、出陣基地に内定されていた四道溝と三道溝、太平溝方面への白昼行軍を敢行した。かゆをすすりながらの80余キロの行軍であったが、隊員たちの士気は高かった。

 四道溝は、もともと李泰京のような独立軍出身の老兵と義兵出身の先覚者たちが、「理想郷」として開拓したところであった。四道河子または上房子と呼ばれるこの村は、後日わたしが李光と協力して革命村につくりかえた。われわれは、李泰京老を表面に立ててこの村に反日会を組織し、農民協会や革命互済会も組織した。わたしが、足しげく四道溝に出入りしたので、当時、羅子溝とその周辺の村落の人たちは、そこを「共産党司令部」とも呼んでいた。人民革命軍にたいする土地の人たちの厚遇と愛情は格別のものであった。革命軍が来たという知らせを聞くと、取る物もとりあえず裸足で飛び出してくる彼らの情熱的な姿に感嘆させられたのは1、2度ではなかった。

 四道溝村に近い三道河子も、われわれの影響を強く受けた有名な革命村だった。三道河子村の西側の山裾には、中国人の経営する酒造所が一つあった。わたしは周保中と一緒にこの酒造所に行って、地下革命組織の幹部と人民にたびたび会ったものである。

 四道溝の人民にたいするわたしの旧情はこの土地をうるおす綏芬河の流れのごとく恋々たるものがあったが、村は焼き払われて灰じんに帰し、村人たちは塵土に埋もれた。峠の向こうの李泰京老の8間の家も焼け落ちて、残ったのは土台石だけである。そこは、われわれが1年前に羅子溝進攻戦闘を前にして、周保中をはじめ、救国軍部隊の指揮官とともに作戦会議を開いた所であった。老人は、この家の跡の近くに学校を立てて次の世代の教育に打ち込んでいた。惨劇のときの銃声と悲鳴がまだ耳から消えやらぬころ、彼は決意をかためて教育運動に力をそそいでいた。老人は、四道溝の惨劇のときかろうじて生き残った独立軍時代の同僚の息子を自宅にかくまっていた。その青年は、外出先からの帰途、四道溝が一目で見下ろせる山頂で靖安軍の蛮行を目撃したという。

 四道溝事件の発端となったのは、羅子溝市内で工作員として活動していた共青員徐日男にたいする不当な審問であった。彼は、商店の品物を盗んだという嫌疑で民生団にされて逮捕され、四道溝革命組織の責任者からいわれのない審問を受ける羽目になった。いくら調べても民生団の証拠があがらないので、徐日男を逮捕した人たちはいったん彼を釈放し、その一挙一動を監視した。家に帰った徐日男は、民生団でもない自分が民生団扱いにされ拷問をかけられたと不平をもらした。これを知った上部では再び彼を逮捕し民生団と断じて処刑しようとした。その気配を察知した徐日男は逃走して敵に寝返った。そして、自分を迫害し拷問した人間たちにたいする復しゅう心にかられ、四道溝地下革命組織の秘密をもらしてしまった。徐日男が提供した秘密は、そのとき羅子溝に来て正月祝いの準備をしていた靖安軍部隊の殺人鬼を興奮させた。100余名の討伐軍は1935年陰暦1月15日の早暁、四道溝村をまたたくまに包囲し、重機、軽機のいっせい射撃で村人を手当たり次第になぎ倒した。家々を立ちまわって火を放ち、火炎の中から飛び出してくる人は老弱男女を問わず銃剣で刺して火の中に投げ込んだ。敵はわずか1時間のあいだに村を焼け野原に変えてしまった。

 三道河子の百家長が現場に駆けつけたとき、そこには九死に一生を得た8名の朝鮮人の子どもが屍の山の中で泣いていた。百家長は近隣の村人たちと、その子どもたちの養育問題を相談した。孤児になった子どもたちを一人ずつ引き取って育てることにし、百家長自身もそのうちの一人を引き取った。惨禍をまぬがれた3名の四道溝の青年はわれわれの部隊に入隊した。

 われわれは、この惨劇の一部始終を聞いて、みながみな歯がみをした。禍のきっかけとなったのはもちろん、徐日男を民生団扱いにして迫害した人間たちの極左的行為にあったことは間違いないが、それはそれとして、四道溝村を血の海に変えた靖安軍の殺人鬼をわれわれは真っ先に呪わずにはいられなかった。四道溝における大虐殺は、日本帝国主義者の差し金によってのみなしうる野獣性、悪辣さ、残忍さの最たるものであった。外国の王宮に侵入してその国の王妃を殺害し、その犯罪の跡を隠滅するため死体まで焼いてしまうという乱暴を働く強盗の後裔にしてみれば至極当然といえることであった。わたしは幼いころ、父から乙未事変(1895年)の話を聞いて痛憤を禁じえなかったことがある。王宮で殺害され、死体すら安置することができなかったというその王妃こそは、朝鮮最後の国王である純宗の生みの親明成皇后閔妃であったのである。朝鮮の国政を一手に掌握していた閔妃が、親露派の中心となって日本勢力に反対する立場に立つや、ろうばい(狼狽)した日本の統治者は朝鮮駐在の自国公使三浦(梧楼)を突撃隊に仕立て、守備隊と警察武力、それに無頼漢まで含む殺人集団を組み、彼らに景福宮を襲撃させた。日本刀で閔妃を滅多切りにした三浦の手下たちは、犯罪の跡を残さないため死体を焼き、その遺骨まで池の中に投げ込んだ。もともと閔妃は、朝鮮人にそれほど崇拝されていなかった。開国によって国を滅ぼした張本人とみなされていたからである。閔妃が王家の嫁の身でありながら、外部勢力と結託して義父の大院君を政権の座から引きずりおろしたことにたいしても悪く評価する人たちがいた。大院君によって閉ざされていた鎖国の扉があと20年か30年くらい維持されていたなら、わが国が外国の植民地にならなかっただろうと甘く考える人もいたくらいだから、閔妃を恨む国民の気持ちも理解できなくはないであろう。しかし、いくら国民に信頼されていなかった閔妃だとはいえ、あくまでも政治は政治であり、王妃は王妃である。閔妃は、朝鮮国民の一員であり、王家の主人であり、高宗を代弁して国政を司った国家権力の代表者であった。したがって、乙未事変を起こした日本支配層の野蛮な行為は、とりもなおさず朝鮮人民の自主権を強盗さながらに侵害したことになり、伝統的な王家の尊厳を傷つけたことになるのである。国民意識と尊王精神が強く、民族的自負心が人一倍強い朝鮮人が、これを容認するはずはなかった。そのうえ、断髪令まで強制的に施行されたので、民族的感情は噴火口を吹き飛ばしてはげしく爆発した。朝鮮人民は、義兵抗争によって乙未事変と断髪令の施行にこたえた。

 間島大討伐の年として知られた庚申年(1920)にも、日本軍は満州地方で朝鮮人を多数虐殺した。それは、鳳梧谷と青山里で喫した大惨敗の恥を、在満朝鮮人の非戦闘員にたいする殺りくによってそそごうとする空前の殺人ヒステリーの発作であった。シベリア出兵に失敗して南下する日本軍と、羅南を出発し満州地方へ北上していた日本軍は、行く先々で朝鮮人の村落を焼き払い、青壮年を皆殺しにした。閔妃虐殺の手口をそのまま適用し、死体は石油をふりかけて焼いてしまった。自分たちが犯した罪悪の証拠をなくしてしまおうとしたのである。

 1923年の関東大震災は、地殼変動による天災とともに、日本の国粋主義者によって朝鮮人に強要された人災も記録している。大震災を朝鮮人弾圧の好機とした無頼漢たちは、いたるところで日本刀と竹槍で朝鮮人を手当たり次第に殺害した。彼らは、大勢の人のなかから朝鮮人だけを正確により分けようとして、顔形を見ただけでは区別のつかない人には「15円50銭」という日本語をしゃべらせた。これがなめらかに言えない住民は、例外なく朝鮮人とみなされ、殺害の対象となった。この災難の最初の18日間だけでも、6000名を上まわる同胞が犠牲になった。これは、日本軍国主義者が朝鮮人民を標的にして犯した犯罪の一部であり、殺りくと略奪によって血塗られた日本近代史の一端にすぎない。その歴史の一部が四道溝という小さな村で再現されたのである。

 「村には地下組織もあったのに、どうしてそんなに無警戒だったのですか?」

 わたしは口惜しさともどかしさのあまり、李泰京老にこう尋ねた。だが、これは無益な問いだった。警戒心があったとしても、どうすることもできないではないか。常備の遊撃隊のないこの村落では、歩哨の立てようがないではないか。たとえ歩哨を立てたとしても、おびただしい兵員が夜明け前の薄闇に乗じて襲ってきたのだから、手のほどこしようがあろうはずはない。

 「将軍、わたしどもが気をゆるめすぎていたんです。わたしら老いぼれが悪かったのです。革命軍に保護されていつものんきにすごしてきたので、亡国の民だということも忘れ、独立戦争をしている国の人民だということも忘れていたようです。四道溝村の年寄り衆のなかには、ガンジーの崇拝者までいたくらいですから」

 老人は間違ったことを口走った人のように、気まずそうに笑った。わたしは、びっくりした。この山里にガンジーの崇拝者がいるというのか。

 「ご老人、その人は、どうしてガンジーを崇拝するようになったのですか?」

 「朝鮮から渡ってきたある紳士が、そのじいさんにガンジーの話をしたようです。朝鮮の新聞に載ったガンジーの手紙まで見せたそうです。それ以来、じいさんは村のたまり場に来るたびに、暴力がどうの非暴力がどうのと、無血独立論を念仏のように唱えるようになったのです」

 わたしも吉林時代に『朝鮮日報』紙上でガンジーの手紙を読み、朴素心と無抵抗主義について論評し合ったことがある。その手紙はつぎのようなものであった。


 愛する友よ! 
 わたしはあなたがたの手紙を受け取りました。わたしからのただ一つの頼みは、絶対的に真なる無抵抗の手段により朝鮮が朝鮮のものになることを願うということだけです。

1926年11月26日 サバルマチにて
M・K・ガンジー


 手紙が示しているように、ガンジーは朝鮮人に無抵抗の方法で独立を達成するよう説いている。多分、ガンジーの思想に魅力を感じたある無抵抗主義者が彼に手紙を出したのであろう。吉林の同胞青年のなかには、ガンジーの思想を自分の信条とする人は一人もいなかった。非暴力不服従運動のようなもので、暴悪かつ貪欲な日本帝国主義者から独立が与えられると考える愚かな幻想家はいるはずがなかった。しかしガンジーの思想は、武力抗争を放棄したか、独立運動の道から脱落した一部の民族運動家からある程度の共鳴と支持を受けた。イギリスの支配を呪わしく思いながらも、ただ一人のイギリス人も害する考えはないとし、イギリス政府の組織的な暴力を抑制できる力は組織化された非暴力だとしたガンジーの思想が広範なインド人民に受け入れられたのは、その思想に貫かれている人道主義精神の力にあったといえる。それが、インドの実情にどの程度合致していたのかはわからない。たとえ、それが妥当なものであったとしても、アジアとヨーロッパの相異なる強国を宗主国としていた朝鮮とインドが、同じ処方で独立運動をすることはできなかった。インドはインドであり、朝鮮は朝鮮なのである。人民革命軍の軍事・政治活動がもっともはげしく展開されていた羅子溝地区に、無血独立論に未練を残している人がいたというのは理解しがたいことだった。

 「あのじいさんは、死のまぎわになって無血独立論の間違いを悟ったはずです。それさえ悟れずに成仏したのなら、悲しいことではありませんか。日本軍は血を見たくてあばれまわっているというのに、こともあろうに無血だとは…」

 李泰京老は言葉をつぐことができず、拳を震わせた。

 「ごもっともなお言葉です。強盗に無血などとは考えられないことです。狂犬は棍棒で成敗すべきです!」

 「将軍、朝鮮人の命があまりにも安すぎます。わたしら白衣民族がいつまでこんな生き方をしなければならないのでしょうか。お願いです、四道溝の人たちの仇を討ってください。そうすれば、わたしは目をつぶって安らかに死ねます」

 老人はわたしを見送りながらも、復しゅうしてほしいと重ねて頼んだ。

 「ご老人の頼みを肝に銘じておきます。もし、われわれが四道溝人民の仇討ちをできずにもどってきたら、この家の庭先に寄せつけないでください」

 殺人鬼の頭上に鉄槌をふりおろす確固とした決心をいだいて、われわれは羅子溝進攻の途についた。

 わたしは一生、民族の尊厳のためにたたかってきた。わたしの一生は、民族の尊厳と自主性を守る闘争の歴史であったといえる。わが民族を害したり、わが国の自主権を侵す者をわたしは一度も許さなかった。朝鮮人民を見下し愚弄する輩とも妥協しなかった。われわれに友好的な人たちとは善隣関係を結んで友好的に交わり、非友好的であったり差別する人たちとは関係を断って生きてきた。相手がわれわれを討てばわれわれも相手を討ち、相手がわれわれに微笑を投げればわれわれも相手に微笑を投げた。餅には餅で報い、石には石で報いるというのが、生涯を通じてわたしが固守してきた相互主義の原則である。かつて朝鮮の無能な封建政府は、わが国に来ていた日本人に治外法権を許した。今日、南朝鮮の支配層が米軍の違法行為にたいし法を発動できず目をつぶっているように、日本人が朝鮮人の生命財産を侵害するのを目のあたりにしながらも、その加害者を朝鮮の法にもとづいて処罰することができなかった。日本人は、日本の法によってのみ裁かれるようになっていた。だが、朝鮮人民革命軍の活動区域では、そういう治外法権が許されるはずはなかった。われわれには、朝鮮民族と朝鮮の領土にたいするいかなる形の侵害も許さないという掟があった。四道溝の惨劇を引き起こした殺人者は、この掟の前で無事ではありえなかった。

 われわれは、端午の日を期して西山砲台を占領し、一挙に羅子溝市内へ突入する計画だった。琿春連隊の到着によって戦力は増強された。革命軍の縦隊が羅子溝方面への行軍をつづけているとき、市内へ偵察に行った汪清連隊の隊員たちが鉄中隊長を連れて、わたしの前に現れた。鉄中隊長が急きょ訪ねてきたのは、聞大隊長の動向を知らせるためだった。

 「大隊長は、人民革命軍が羅子溝を包囲攻撃するという情報に震えあがっています。靖安軍が押し入ってきて四道溝の位置を教えろというので、部下に教えさせたのだが、そんな惨劇が起ころうとは夢にも思わなかった、わたしに過ちがあるとすれば、日本人の圧力に負けて四道溝に靖安軍を案内したことであり、部下が住民の財産を略奪するのを制止できなかったことだけだ、こともあろうに金隊長との約束を故意に破るはずはないではないか、なんとか許してもらいたい、と言っていました」

 わたしは、鉄中隊長の話を聞いていろいろと考えてみた。聞大隊長が部下の略奪行為を取り締まらず、部下に靖安軍の道案内をさせたのは、明らかにわれわれとの約束を破ったことになる。だが、日本人の顔色をうかがって生き延びているかいらい軍部隊の将校の仕業であるから、その罪は大目に見てやることもできる。もしも、聞大隊長を処刑するなら、どんな結果をまねくだろうか? われわれとの攻守同盟は完全に決裂するはずであり、羅子溝には、聞部隊とは比べようもなく悪質な部隊が新たに派遣されてくるだろう。われわれが望むと望まないとにかかわりなく、敵は必ずそう行動するだろう。これは第2、第3、第4の四道溝惨劇を再現させる前提となるだろう。この一帯に汪清、琿春地方の遊撃区の住民を疎開させるわれわれの努力が難関に直面するようになり、羅子溝地区を朝鮮人民革命軍の戦略的拠点として固守したいわれわれの意図もきびしい挑戦に遭遇しかねなかった。ではどうすべきか? わたしは聞大隊長を懲罰せず、われわれの側にもっと強く引き寄せることにした。そのかわり、老黒山一帯の靖安軍を討って、人民を害する者の末路がどんなものであるかを示すことにした。東寧県一帯に送り込んだ偵察兵の報告によれば、老黒山の王宝湾には増強された靖安軍1個中隊の兵力が駐屯しているが、それが四道溝を焦土に変えた殺人者の集団であるというのである。偵察兵は、この中隊が悪名高い美崎部隊所属の一派遣隊であることまで探知してきた。わたしは、鉄中隊長にわれわれの決心を伝えた。

 「人民革命軍は、羅子溝進攻の計画を保留する。聞大隊長がわれわれの信義を破ったのは事実だが、まだ彼にたいする期待を捨ててはいない。聞大隊長は攻守同盟に忠実であろうとする意思をあらためて表明してきたが、なにによってそれを保証するのか。その盟約が確かなものであるなら、まず端午の日に人民革命軍が羅子溝市内で軍民交歓運動会を催すとき、その安全を保障するのが望ましい。きみがもどって大隊長にわれわれの意思を伝えよ。ここで返答を待つ」

 軍営にもどった鉄中隊長は、聞大隊長がわれわれの要求をすべて受諾したことを知らせてよこした。われわれの各連隊は、戦闘隊形から祝祭隊形に早変わりした。羅子溝進攻の設計を受け持っていた作戦のエキスパートたちは、軍民の好みと感情に合った運動種目を選び、軍民一致の威力を示す合理的な選手団の構成におおわらわになった。敵が駐屯している城市の中心部で、革命軍討伐の使命をおびている敵軍に護衛されながら大盛況裏に開催された、戦史に例をみない羅子溝軍民交歓運動会は、こうして準備されたのである。

 運動会の当日は、地下にもぐっていた工作員たちまでが見物をした。聞部隊の兵士たちも、このものめずらしい祝祭に目を見張った。四道溝での惨劇で落ち込んだ人民の気勢は、端午の行事とともに再び高まった。軍民交歓運動会は、所属と名称にかかわりなく、人民を侵害しない軍隊とはいつでも友好関係を結ぶ用意があるというわれわれの一貫した立場と意志を内外に示した。

 われわれは、太平溝で中隊政治指導員クラス以上の軍・政幹部の指揮官会議を開き、老黒山戦闘計画を綿密に立てたのち、四道溝惨劇の犠牲者のための追悼式を厳粛に催した。この追悼式は、革命軍将兵の復しゅう心を駆り立てる格好の場となった。

 われわれが老黒山で「紅袖」を撃滅したのは、1935年の6月中旬ごろだったと思う。「紅袖」というのは、満州地方の人民が靖安軍につけたあだなである。袖に赤い腕章を巻いて歩く彼らのきざな身なりがそういうあだなを生むもとになったようである。そのとき、わが方の隊員たちは、王宝湾から敵を巧妙におびき出した。老黒山の王宝湾に駐屯していた靖安軍は、第1次北満州遠征のとき、われわれの背後を執拗に追跡してきた部隊であり、四道溝の惨劇を引き起こした悪質な部隊でもあった。われわれは最初、小部隊を派遣して靖安軍に戦いを仕掛けてみた。だが、嗅覚のするどい彼らはわれわれの部隊が来たのをどうかぎつけたのか、なかなか応戦しようとはしなかった。わたしは村人を通じて、彼らが冬期だけ遊撃隊を討伐し、夏期はなるべく革命軍との交戦を避け、山林隊や土匪だけを相手にしていることを知った。彼らを討つためには、まずその巣窟から引き出さなければならなかったので、誘引戦法を使うことにした。われわれは、敵の目につくようにわざわざ白昼に部隊を羅子溝へ撤収させた。敵をしてわれわれが他の方面に撤収したものと思い込ませる計略であった。そして、その夜のうちに、部隊をひそかに靖安軍の駐屯している王宝湾付近の樹林の中に移動させ、要撃の陣を張らせた。そして、中国語が話せる10名余りの隊員を山林隊に変装させて王宝湾へ送り込んだ。村へ行った彼らは、住民のロバを奪い、家財道具を蹴散らし、野菜畑の柵を引き抜いたりし、騒ぎを起こして引き揚げてきた。しかし、最初の日はどうしたわけか、靖安軍はその手に乗らなかった。われわれは待ち伏せの地点で簡単に腹ごしらえをして夕食に代え、蚊に刺されながらうんざりする一夜をすごした。李寛麟が張戊Mと一緒に白頭山地域を開拓するとき、蚊がひどく寄りつくので額にヨモギを巻きつけてジャガイモ畑の草取りをしたという話を聞いたことがあるが、老黒山のブヨのすさまじさもまた辟易するほどのものだった。隊員たちはしきりに頬やえり首を叩きながら、この老黒山では、ブヨまで「紅袖」に似て毒針で人を刺してくるとぼやいた。翌日も誘引班は王宝湾へ行って、山林隊の真似をしてもどってきた。少々ゆとりのありそうな家へ行って鶏を2、3羽とってコソコソと逃げ出すふりをすると、やっと靖安軍の一群が誘引班を追跡しはじめた。その日は、山林隊がまた現れたといって、住民がすごく騒いだ様子だった。実のところ、靖安軍は遊撃隊の戦法を知りつくしていた。彼らは、遊撃隊が輜重隊をどう襲撃し、城市襲撃にはどのような作戦を用いるかということまで知っていた。そういう部隊をあざむくというのは、猫の首に鈴をつけることにひとしい至難のわざだったが、誘引班が山林隊の略奪の演技を首尾よく果たしたのだろう。

 この戦闘にまつわるエピソードのうち、いまなお忘れられないのは、わたしが2日目の日に待ち伏せの地点で疲労のあまり居眠りをしているとき、金択根の夫人にゆすり起こされたことである。彼女は、わたしが十里坪の谷間で熱病に苦しめられていたときも、看護兵の役を果たし、夫とともにたいへん苦労をした。いわば副官の役を果たしたわけである。ある日、彼女が葉の広い草を摘んできて、食用になりそうだがなんだかわからないと、言って見せてくれた。それはシラヤマギクだった。熊の多い所に自生する草なので、わたしは、それに「熊シラヤマギク」という名をつけようと言った。解放後に大紅湍に行ったとき、そこでこの草を賞味した。

 革命軍の伏兵圏内に入ってきた敵は、「こんな所で包囲されたら大変だ」と言いながら、不安そうにあたりを見まわした。敵が全員谷間に入ってきたのを見届けてから、わたしは戦闘開始を知らせる銃声をあげた。日本人指導官に狙いを定めて1発撃つと、のけぞって倒れた。敵はまともな抵抗もできず、またたくまに壊滅に瀕した。遊撃隊のアジテーターたちは、敵が地形地物を利用して抵抗を試みる前に、中国言で呼号工作に転じた。「日本帝国主義を打倒せよ!」「銃を捨てれば命は助けてやる!」 こう呼びかけると、敵は抵抗をやめておとなしく武器を差し出した。老黒山戦闘は、われわれがおこなったはじめての代表的な誘引伏兵戦であった。このときから、日本の軍警と満州国軍はわれわれの戦法を「羅網戦法」と称した。

 われわれは老黒山戦闘で、「天下無敵」を誇り傍若無人に振舞っていた靖安軍を100余名も撃ち倒した。重機、軽機、歩兵銃、手榴弾、軍馬など多くの戦利品が手中に入った。戦利品のなかには迫撃砲もあった。敵は馬の鞍にその迫撃砲を積んで威を張っていたが、1発も発砲できずにわれわれに奪われた。わたしが趙宅周老に贈った白馬も、この戦闘でろ獲した10余頭の優良種軍馬のうちの1頭であった。われわれは、この戦闘で数匹の軍用犬も手に入れた。指揮官たちは、そのうちの何匹かを護身用として使うようわたしに勧めた。だが、わたしはそのシェパードを太平溝と石頭河子の人民にやるように命じた。ろ獲した軍用犬は役に立たないと考えたからである。大荒崴会議のときも、同志たちがわたしの護身用にと、日本軍からろ獲した犬を1匹引いてきたことがあった。非常にたけだけしく利口な犬なので、役に立つと思ったのであろう。戦友たちの気持ちはありがたかったが、わたしは、日本人に飼いならされた犬なのだからパルチザン隊長にはなつかないだろうといって受け取らなかった。案の定、その犬は後日、敵の討伐隊との交戦があったとき、日本人の臭いをかいで敵陣へ逃げ去ってしまった。わたしは白馬にはかなり世話になったが、戦利品の軍用犬には一度も世話になったことがない。

 われわれの抗日戦争史で誘引伏兵戦の典型とされている老黒山戦闘の全過程は、誘引伏兵戦こそは、遊撃戦の特性にかなったもっとも能率的な戦闘形式の一つであることを実証した。この戦闘を起点にして、われわれは後日、濛江で工藤部隊を掃滅し、長白、臨江一帯では美崎自身が率いた精鋭部隊を撃破し、最後の決戦の時期には靖安軍の後身である第1師を壊滅させる連戦連勝の痛快な記録を残した。老黒山戦闘は、固定した地域で遊撃区の防衛に主力をそそいでいた人民革命軍が、狭い解放地区の枠から脱して広大な地域に進出し、大部隊活動の威力をはじめて発揮した戦闘である。老黒山の谷間を震撼させたわが軍の銃声は、遊撃区を解散して広大な地域に進出し、積極的な大部隊活動に転ずるという腰営口会議の方針への賛歌であり、第2次北満州遠征の勝利を予告する鐘の音でもあった。老黒山戦闘の勝利によって、人民革命軍は第2次北満州遠征を成功裏に保障する準備を十分にととのえることができるようになった。

 人民革命軍の勝利のニュースは、稲妻のような速さで満州全土に伝わり、靖安軍の圧制に苦しんでいた朝中両国の労農大衆に信念を与え、彼らを闘争へと励ました。ろ獲した馬に戦利品を積んで太平溝に帰ってくるとき、地元の人民は道路の両側に長蛇の列をなして熱烈に歓迎した。三道溝の李泰京老も、われわれが休息していた新屯子村に駆けつけてきた。金廠と火焼舗の人たちも、慰問品を携えて人民革命軍を訪ねてきた。

 わたしは第2次北満州遠征に先立って、琿春遊撃隊からの情報にもとづき、大荒溝に駐屯している1個中隊の満州国軍をわれわれの側につける作戦を進めた。そのとき、わたしに情報をもたらしてくれたのは、琿春遊撃隊で伝令を勤めていた黄正海だった。彼の父黄丙吉は、安重根が伊藤博文を射殺するとき、それに参画した名だたる愛国烈士である。黄正海はわたしに、大荒溝の満州国軍中隊のなかに容共思想をもつ中士(下士官クラスの階級)が一人いて、兵士によい影響を与えている、けれども彼は中隊全員を獲得しようとせず、一部の兵士だけを率いて遊撃隊に入ろうとしている、よくすれば中隊の全員を獲得できそうだが、助言をもらいたい、と言うのであった。大荒溝に駐屯している満州国軍の中隊にたいしては、わたしもすでに関心を払っていた。その1個中隊の満州国軍というのは、われわれが通う道筋に立ちはだかって、なにかと遊撃隊の活動を妨げる厄介な存在であった。われわれは、その中隊長が中国人であることや、中隊の通訳を勤めている朝鮮人がきわめて悪質であることも知っていた。

 造反工作の中心人物は、黄正海などのわれわれの工作員から指図を受けていた例の中士であった。彼は、われわれが送り込んだ工作員でもなく共産党員でもなかった。ただ、大連で労働をしていて軍隊に徴集された平凡な青年であった。彼が属していた討伐隊は、もとは熱河に駐屯していたが、そのうち討伐隊の活動舞台が間島に移されたので、彼もおのずと琿春に来て服務するようになったのである。熱河にいたころから、間島には共産党の勢力が強大だという話を聞かされてきた中士は、琿春に来てからも、周辺での共産主義者の活動に深い関心を払い、ひいては共産党と手を握って自分の運命を新たに切り開いてみようという大胆な考えまでもっていた。

 ある日、飲食店で同僚たちと話しこんでいた中士は「くそおもしろくもない、共産党と戦ってなんの得があるというんだ。あっさりやつらを一人撃ち殺して寝返ってしまおうか」と不平を鳴らした。飲食店でこれを目撃した黄正海は、直ちに、そのことを指揮官に報告した。こうして中士は、われわれが獲得すべき対象となった。折しも、琿春市内へ小部隊で工作に出かけた隊員の一人が警察に逮捕される事件が起こった。彼は朝鮮人であったが、中国語に堪能だった。警官が彼を縛りあげ、殴ったり蹴ったり怒鳴りつけたりしているとき、通りすがりにこの光景を見た例の満州国軍の中士が、逮捕された隊員を助けた。「この野郎、共産党なら共産党でかまわんじゃないか。きさまにしろ、この人間にしろ、同じようにしいたげられている立場だというのに、そんなに殴る法はないだろう」彼はこう言って警官に平手打ちを食わせて追い払ってしまい、その隊員を自分の兵営に連れていった。途中で中士はこう言った。

 「きみをここで逃がしてやることもできるが、わたしと一緒にわれわれの兵営まで行ってもらいたい。きみが勇敢な人なら、うちの部隊に一晩泊りこんで、中隊長などに共産軍の実情を話してくれ。わたしらは、それがとても知りたいのだ。うちの中隊には、日本人の指導官が1人おり、通訳をしている朝鮮人が1人いるが、2人とも悪者だ。この2人はなんとかして街へ行かせるから心配しなくてもいい」

 工作隊員は、中士がどんな思惑でそんな誘いをかけてきたのか判断がつかなかったが、どっちにしても死ぬのは同じだ、どうせなら誇り高く死のうと決心して満州国軍の兵営までついて行った。兵営に到着するとすぐ、中士は自分と仲のよい中隊長に、工作隊員を会わせた。三人がテーブルを囲んで密談を交わしているとき、突然、日本人指導官が中隊指揮部に現れ、工作隊員をうさんくさそうに見つめた。中士は指導官に疑われないように、中隊長に向かって「この人は、わたしの親友で、酒代を取りに来たのだが金がなくて困っている、酒代を都合してもらえないだろうか」と言った。中隊長もまたなに食わぬ顔をして「酒代はわたしが払ってやるから心配するな。きみの親友ならわたしの親友も同然だから手厚くもてなすべきだ。このまま帰すわけにはいかない、ここでお茶でも飲みながらゆっくり旧交を暖めて別れればいい」と、言った。指導官が街へ出かけて行ったあとで、三人はまた密談をつづけた。中士に請われて、工作隊員は共産党の宣伝をした。「遊撃隊は、朝鮮人もいれば中国人もいる朝中連合軍だ。わたしは朝鮮人だ。朝鮮人も日本軍の満州占領に反対している。きみたちの満州国軍にも愛国者がいるが、そういう人たちとは手を握る用意がある」と言って、満州国軍にたいするわれわれの政策を宣伝し、満州国軍にちなんだ歌をいくつか中国語でうたって聞かせた。工作隊員の宣伝に感化された満州国軍の中隊長は「明日、きみが帰ったら、われわれには遊撃隊と戦う考えはないということを上官に報告してほしい。たとえ、うちの部隊が討伐に出るとしても、密林のあたりで合図の銃声を何発か鳴らすから立ち退いてもらいたい」と言った。中士は中士で工作隊員を見送りながら「わたしは、今後きみと連係を結びたい。きみもわたしと連係を結んで損することはないはずだ。今日相談したことをきみの政治委員に報告してもらいたい」と語った。こうして、われわれはそのルートを通じて造反工作を進めた。わたしは、黄正海に具体的な任務を与えて大荒溝へ送り返した。黄正海は、その中士と再び連係を結び、満州国軍の中隊を造反させる工作を進めた。中士は、黄正海に「わたしらは仕方なしにこんな真似をしているのだ。人間として生まれ、他人のかいらいになることくらい恥ずべきことはない。きみらがうらやましい。中隊の全員を率いて共産軍の側に寝返る覚悟ができているから、わたしらを襲撃してくれ」と切望した。

 われわれは、満州国軍の兵営の付近に2個中隊か3個中隊の兵力を派遣した。それらの中隊が兵営を包囲し、満州国軍の兵士たちが、朝の体操をしているときに威嚇射撃をして呼号した。満州国軍側は、代表をよこして談判を求めたが、その代表がわれわれの影響下にあった大連出身の中士であった。中士は交戦の中止を求めたのち、わが方の代表に造反の決意を表明した。その決意のとおり、150余名の満州国軍将兵は、日本人指導官と朝鮮人の通訳を処刑し、市内の敵の物資をすべて奪って馬車に積み、ラッパを吹き鳴らしながらわれわれの遊撃区域に入ってきた。この中隊を人民革命軍にどう編入するかという問題をめぐって、琿春連隊の指揮官たちは論議を重ねた。中隊を解体して人民革命軍の新しい中隊に配置しようという意見と、中隊を解体せずにそのまま編入しようという意見とがあった。だが、この両案のうち圧倒的多数を占めたのは、解体して編入しようという主張であった。連隊指揮部は、その案をもって寝返ってきた中隊の指揮官たちと談判を重ねた。しかし彼らは、中隊の解体には容易に同意しなかった。琿春連隊の政治委員崔鳳浩は、わたしにこの問題の結論を求めてきた。わたしは満州国軍兵士の要求を正確に把握するため、彼らとじかに話し合ってみた。解体に反対する満州国軍側の態度は強硬だった。解体説のため、兵士たちは不安がっていた。捕虜でもなく、意識的に寝返ってきた人たちを、その願いに反してこの中隊、あの中隊と分散配置するというのは、正直に言って礼儀をわきまえない処遇であった。もっとも合理的な案は、彼らの要求を最大限に尊重することであった。わたしは、中隊を解体せずに編入するとして、人民革命軍の実情に即して3個の中隊に分立させ、各中隊の指揮官は造反軍人の全隊会議で民主主義的に選出するという折衷案を示し、それを討議にかけた。満州国軍側はこの折衷案を受け入れた。侯国忠連隊長と崔鳳浩政治委員もこの案に賛成した。造反工作で主動的役割を果たした中士も中隊長に選ばれた。もとの中隊長は、ソ連へ留学させることにした。わたしは寝返ってきた兵士のうち、中国関内に行くことを希望する者はソ連経由で関内へ送り、残留してわれわれとともに戦うことを志願する者は琿春遊撃隊に編入したが、北満州へ行ったとき彼らを李延禄の部隊に引き取らせた。

 敵は、羅子溝、太平溝方面に進出して積極的な軍事・政治活動を展開していた人民革命軍の大部隊を包囲せん滅しようと、関東軍、満州国軍、警察、自衛団、鉄道警護隊などの大兵力を繰り出した。討伐軍の主力は羅子溝方面から太平溝を圧迫し、一部は腰営口と百草溝一帯に散開し、人民革命軍が西南方向へ退却する場合、その一帯の狭い地域で完全に包囲せん滅する作戦準備をしていた。1935年6月20日、敵はついに太平溝への攻撃を開始した。われわれは太平溝の裏山に部隊を散開させ、迫撃砲中隊の近くに指揮部を定めた。その下方には天然の洞窟があった。敵は、船に乗って大火焼舗河を渡河しはじめた。そのとき、われわれの迫撃砲中隊が砲門を開いた。敵船が1隻こっぱみじんになった。度胆を抜かれた敵は、渡河を断念し、ほうほうの体でもとの陣地に逃げ去った。迫撃砲の砲手たちの腕は見上げたものだった。満州国軍を寝返らせ、その一部の陣容で迫撃砲中隊を編制したかいがあった。満州国軍の戦闘参加を気にしていた懐疑論者たちも、これを見ては、みずからの過失を反省せざるをえなかった。わたしは、迫撃砲中隊長を抱きかかえて勝利を祝った。満州国軍から寝返ってきた人たちを信頼しきっていなかった革命軍の一部の指揮官も、喜びをおさえきれず迫撃砲の砲座に駆けつけてきた。大火焼舖河に鳴り響いた人民革命軍の砲声は、わが国の砲兵力の誕生を告げる歴史的なここ(呱々)の声であった。その砲声に敵は震えあがり、人民は躍りあがって喜んだ。現在われわれは、この日を砲兵デーとして記念している。

 大火焼舖河の渡河を企図して迫撃砲の攻撃を受けて羅子溝へ逃げ帰った聞大隊長は、「まったく七不思議の一つが人民革命軍だ。昨日ろ獲したばかりの火砲で、今日はたった2発目に命中させる神技をもっているのだから、それにどう対抗できるというのか。人民革命軍に刃向かうというのは愚の骨頂だ。これからは、わたしの首に日本刀が飛んできても金日成部隊とは戦わない」と言ったそうである。もちろん、これも鉄中隊長からの情報だった。

 老黒山と太平溝であいついで凱歌をあげた人民革命軍の威力を背景に、われわれの革命組織は各地で生気を取りもどして活動した。羅子溝の反日会長は、人民革命軍が老黒山で靖安軍を壊滅させて以来、市内の住民は、村政府ではなく、自分の所に来て婚姻届や出生届までするようになったと自慢した。人民を害する者は赦さない! われわれは、老黒山と太平溝で朝鮮共産主義者のこの意志を再び実践によって力強く示した。だが、人民を害する者はあまりにも凶悪だった。「共産主義を撲滅せずにはわれわれが生存できない!」 これはまさに、人民の敵として登場した人間たちの信条であった。われわれは、こういう信条の持ち主となお多くの戦いをつづけなければならなかった。太平溝戦闘のとき敵が流した血は、1週間以上も大火焼舖河を濁らせていた。そのせいか、その年は例年になく多くのウグイが群をなしてこの川をさかのぼってきたという。


 


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