金日成主席『回顧録 世紀とともに』

3 共青の申し子たち


 青年運動は、わたしが生涯をかけて力をそそいできた大事業の一つである。わたしの革命活動が青年学生運動からはじまったということは、吉林時代の生活がよく物語っている。わたしは吉林監獄に拘禁される前にも青年学生運動にたずさわったが、出獄したのちも、地下活動の形で青年学生との活動に力を入れた。コミンテルン連絡所の活動家との最初の接触があった1930年の夏からは、吉東地区の共青責任書記に任命されて共青活動にたずさわった。もちろん、汪清時代にも青年との活動は、わたしの軍事・政治活動において基本をなす重要な構成部分の一つであった。遊撃隊の政治活動の責務をになう指揮官が、軍隊内の共青活動を指導するのは職能に合致した当然なことである。ところが、東満党指導部と汪清県党幹部の要請によって、わたしは軍隊外の共青活動にも多くの時間を割かなければならなかった。

 当時、党、共青、児童団を指して3代同盟と称していたが、ここで、共青は党につぐ重要な位置を占めていた。人びとは、共青を指して党の交替者、党の後続隊、または党の貯水池と称し、その使命と役割の重大さを強調する意味で第2の党とも呼んでいた。革命の発展にとって重要な意義をもつ戦略・戦術上の問題とその実行対策を論議する党会議には、いつも共青の書記たちが列席した。東満党は、こういう会議を指して党・団連席会議と呼んでいた。そういう会議で、共青の書記は、党員と同等の発言権と議決権までも行使した。党員がいないか、党勢の弱い地域では、共青のアクチブが中心になって大衆運動を指導した。

 南満州と北満州への進出を終えて間島にもどったのち、わたしは李光別働隊の共青書記趙東旭、汪清県の共青書記韓在春、汪清県の共青組織部長金重権などを通じて、東満州地方の共青の活動状況を全面的に調べた。当時、東満州地方の共青の活動には、共青組織の建設と革命の発展を妨げる重大な左右の偏向があらわれていた。

 汪清地方の共青の活動で最大の難事となっていたのは、有能な幹部の不足であった。武装闘争を中心とする全般的朝鮮革命がはなばなしい上昇期にあった当時の状況に即応して、活動を巧みに組織し処理できる有能な共青の幹部が絶対的に不足していた。共青員のほとんどは、非識字者か国解(国文が解読できる程度の知識水準)程度であり、中学卒業程度の学歴所有者は米の中の籾といえるほど希少であった。分派分子らは、青年運動を狭い遊撃区域の範囲に限らせ、その活動を労働者、農民階層の青年本位に進め、あたかも共青の活動は出身がよくて見識の高い特殊な少数の人だけがおこなうものであるかのように決めこんでいた。こうした傾向は、必然的に共青の建設において関門主義を生みだした。分派分子らは、共青組織の純潔と秘密保持の美名のもとに門戸をかたく閉ざし、共青への加盟を望む青年たちをあれこれの口実を設けて排斥した。学生は、年かさがいかないとか出身に問題があるといって遠ざけ、純朴な労農青年は無知だといって相手にしなかった。共青に加盟するには、少なくとも『社会主義大義』程度は精通していなければならず、『共産党宣言』や『賃労働と資本』などの古典も読んで分析できなくてはならなかった。もし、審査の過程で『共産党宣言』を読んでいないことが判明すると、「『共産党宣言』も知らずにどうして共青生活ができるのだ!」と難癖をつけるのが通例だった。大汪清のある青年は、ソビエト政府に牛を没収されたことが欠点とされ、共青の加盟申請を否決された。役牛が没収される程度の家なら資産家出身であり、ソビエトの収奪の対象になったのだから加盟適格者でないというのである。

 「左」翼関門主義者は、はなはだしくは、農民協会、反帝同盟、革命互済会、少年先鋒隊などで忠実に組織生活をしてきた青年であっても共青組織にあまり加盟させようとしなかった。極左分子らが遮断機をおろして門戸を閉ざした地域では、100余名を擁する大衆団体に共青員がせいぜい3、4名というケースがめずらしくなかった。東満党の指導部が位置している所であったせいか、汪清地方では共青の隊列を拡大するうえでも繩張りの壁が厚かった。他の県でいくら組織生活に忠実であった人でも、当該組織の移籍書類や保証文書がなければ汪清に来て共青の隊列に加わることができなかった。

 東寧県城で地下革命活動にたずさわり、軍閥の逮捕騒ぎを避けて汪清に来た全文振も、遊撃隊の裁縫隊で熱心に働いたが、移籍書類がないという理由で籍を移せないでいた。軍服を仕立ててくれたことに礼を言うつもりで裁縫隊を訪ねたわたしは、彼女がなぜかひどく意気消沈しているのを見た。その後も何回となく裁縫隊へ出向いたが、彼女は相変わらずしょげこんでいた。それである日、彼女と話をしてみた。全文振は小心な女性であったが、心の中の苦衷を正直に打ち明けた。彼女はめざす新しい土地に来て望みどおり遊撃隊には入隊したが、共青組織が受け入れてくれないので、仲間はずれにされた雁のように憂うつな日々を送っていたのである。彼女が組織問題で悩んでいることをはじめて知ったわたしは、担当者と相談して、従来どおり共青の生活がつづけられるようにはからった。

 ところが一部の共青組織では、同郷、同窓、親戚、親友などの面識や情実関係を手づるに、異分子や不純分子、偶然分子、動揺分子などが隊列内に潜りこんでくる有様であった。一部の共青活動家は、出身のみを絶対視したあまり、作男出身という言葉にまどわされ、スパイの任務を受けて遊撃区に潜入した不純分子まで共青に受け入れた。こうした左右両極のはざまで、革命的に洗練されていない一部の共青員は、難関に耐えることができず敵地に立ち去った。

 共青の活動にあらわれた偏向は、少なからぬ青年のあいだで共産主義への不信を生み、共産主義者の指導する革命運動を敬遠視させた。これは窮極的には、遊撃隊内の共青の活動と、青年学生をはじめ、各階層の愛国的人民を抗日の旗のもとに結集する統一戦線運動にも悪影響を及ぼした。

 遊撃区の共青活動にこのような左右の偏向があらわれるようになったのは、共青の幹部たちが朝鮮革命の実情と利益に即した正しい組織建設路線をもつことができず、マルクス・レーニン主義の古典を教条的に適用したり、他国の経験をまるごと直輸入したためである。

 遊撃区の活動を主宰する幹部たちが、共青の犯している偏向を克服して青年運動を革新する方途と活路を熱心に模索していた1933年3月、小汪清の馬村では共青活動家会議が招集された。この会議には、汪清地区の共青委員、児童局長、延吉からの青年代表と竜井学生代表(地下工作員)をはじめ30名ほどの青年運動関係者が参加した。いまでもわたしの記憶に残っている人としては、金重権、朴賢淑、趙東旭、朴吉松、李成一、金範洙、崔鳳松などをあげることができる。この共青活動家会議を回想するときは、なぜか会議の全期間、ひときわきらめく瞳でわたしの顔を食い入るように見つめていた朴吉松のまなざしがまざまざと思い浮かぶ。わたしがそれをことさら印象深く回想するのは、後日、彼がきらめくこの目の片方を関東軍部隊との遭遇戦で失ったせいかも知れない。26歳の若年で北満州のすぐれた遊撃隊長として最期を遂げた朴吉松は、当時はこれといった共青の職責もなく、模範共青員という資格で会議に参加したようである。

 会議を終える日、県共青の幹部と代表たちは、わたしに演説をするよう求めた。金日成という人物は、吉林で共青活動をしてきたし、間島に来てからも吉東地区の共青責任書記という肩書で青年との活動に力を入れてきたので参考になる経験があるはずだから、一度それを聞いてみようということになったらしい。彼らの一致した要請により、わたしは共青団体に提起される課題について長い演説をした。その演説のかなりの内容については、数十年前に趙東旭がくわしく回想している。

 古今東西の哲学者、政治家、教育者たちはいずれも、社会改造と変革をめざすたたかいにおける若い世代の地位と使命について多くの高見を披瀝している。マルクス主義の創始者たちはひとしく、青年を革命の橋渡し、革命の後続隊とみなした。古代哲学者アリストテレスも、国家の明日の運命は青年の教育にかかっていると喝破した。唯物論を唱える哲学者であれ、観念論を唱える哲学者であれ、また東洋の学者であれ西洋の学者であれ、未来の運命といえる若い世代にたいしては、その世代を重視する立場で大同小異の評価をくだしている。青年を未来の担い手と評価する点では、わたしももちろん彼らと見解を異にするものではない。しかしわたしは、青年の地位を革命の橋渡しや後続隊のレベルにとどめることでは決して満足できなかった。マルクス・レーニン主義の創始者や理論家は、青年が前世代に依拠し、その指導と教育を受け、補助的に革命に参加する階層であると定義づけていたが、わたしはそういう定義づけに同意することはできなかった。青年を補助的な勢力以上のものとはみなさない見解は、朝鮮革命が歩んできた路程と実情からして正当なものとは言えなかった。

 わたしはつねに、青年を革命の前衛とみなした。青年は、革命闘争と社会的運動においてもっとも困難な部門をになって立つ先鋒隊であり、主力部隊であり、未来の運命までになう根幹部隊である。これは実践によってその真理性が十分に検証されている。80の高齢に達したいまでも、わたしは革命の前衛としての青年の地位と役割についての見解を変えていない。われわれが革命運動を独自に切り開かず、前世代にのみ頼って彼らに指示されるとおり動き、彼らのあとに従うだけであったなら、日本帝国主義植民地支配のもっとも暗たんたる時期に、古い思潮と断固決別し、チュチェ思想の旗のもとに団結して朝鮮革命の新しい進路を切り開くことも、抗日遊撃隊を創建することもできなかったであろうし、民族の先鋒となって武装闘争を中心とする抗日革命全般を新しい時代の要求にそって発展させることも不可能であったにちがいない。

 わが国の民族解放闘争史をみても、その先頭にはつねに青年が立っていた。彼らは、監獄も、死も、絞首台も恐れない果敢な闘士たちであった。朝鮮の青年は3.1人民蜂起(1919)が起こったときにも先鋒決死隊となり、6.10万歳示威運動(1926)がソウルの街をゆるがしたときにも主力として登場し、愛国的なスローガンを高唱した。1929年11月の光州学生運動も、その主体は青年学生であった。誰からも指図を受けていない青年学生がみずから立ち上がり、隊伍を組んで怒涛のごとく街をうねり歩き、銃剣を蹴散らして抗争の広場に駆けつけた。新しい世代の青年共産主義者は、1920年代の中ごろから民族解放闘争の舞台に主人公として登場し、抗日革命史の新しいページを開いた。

 わたしの青年時代が共青活動からはじまったということは、前巻でもくわしく述べた。抗日革命闘争の全期間は、わたしの青年期に相当する。わたしは、その年で連隊を率い、師団を指揮し、軍団も統率した。ひところ朝鮮人民のなかには、わたしを白髪の老将と思う人もいた。しかし、平壌公設運動場で凱旋演説をしたときは34歳にみたなかった。

 遊撃戦争は、昔のように相対峙して幕営を張り、陣太鼓を打ち鳴らしながら、大将同士で一騎討ちをしたり、城壁に依拠して矢を放つような旧式の戦いでもなければ、発達した軍需機材を使い、電話や無線で戦闘を指揮する新式の戦いでもない。そういう戦いであるなら、50〜70代の老将でもゆうに指揮をとることができる。しかし遊撃戦争では、兵士と指揮官とを問わず、千辛万苦に耐えて苦汁をともに味わわなければならない。指揮官もときには機関銃を手にしなければならず、状況によっては銃剣をかざして白兵戦の場にも躍り込まなければならないのである。屈強な体力とすぐれた精神力がなくては、こういう負担に耐えることはできなかった。抗日革命に参加した闘士たちは、その大多数が20代の青年であった。楊靖宇は32歳で東北抗日連軍の第1路軍軍長となり、陳翰章は27歳のときから第3方面軍の軍長として活躍した。呉仲洽が連隊長の重責をになって戦い、戦死したのも29歳という若さであった。じつに抗日武装闘争は、青年が一手に引き受けて遂行した戦いであったといっても過言ではない。しかるに、若い世代をどうして革命の橋渡し、革命の後続隊としてのみ評価できようか。

 わたしのこうした見解と立場は、その日の演説と談話にもそのまま反映された。

 「青年は、朝鮮革命を推進する主力のうちでも基幹をなす力量である。世界各国の歴史をみても、社会改革の先頭にはつねに青年が立っていた。彼らは、山を崩し海をもせき止める大きな力をもっている。彼らを意識化し組織化して革命闘争の前列に立たせるのが、ほかならぬわれわれの青年運動である。それが、共青組織が門戸をかたく閉ざし青年大衆に背を向けているのだから、慨嘆すべきことではないか。一部の共青組織では、年がいっていないからといって優秀な青年を隊列に受け入れていないが、これこそ関門主義の典型だといえる。柳寛順は、年が多いから3.1運動が生んだ英雄として民族史に記録されているのか? 南怡将軍も、『男児20にして国を平定できずんば、後世いずくんぞますらおを知らんや』と言っている。年を問題にして10代の熱血青年を排斥したり軽視するなら、それは共青組織を青年組織ならぬ壮年組織にするという結果をまねくのみであろう。10年も20年も修養を積んで聖人賢者になってから加盟するのが共青であるなら、それがなんの青年組織といえようか」

 つぎに代表たちが関心を示したのは、共青活動家の厳守すべき活動方法と作風にかんする問題であった。わたしは、この問題についても多くのことを述べた。

 広範な青年を結集するためには、共青の活動を担当した活動家の活動方法と作風を改めなければならない。かりに、ある共青員が銃を5発撃って敵を1人も倒せなかったとしよう。遊撃隊では1発で敵1人というスローガンをかかげているのに、5発撃って1人も倒せなかったなら、過ちであることは確かだ。こういう失敗を犯した共青員に組織が批判を加え組織問題としてとりあげたとするなら、果たして正当な処置といえるだろうか? 諸君は問題をこのように単純に処理してはならない。過ちを犯したなら、まずいろいろな角度から検討すべきである。側面からも背面からも検討すべきである。武器の性能が悪いのか? 照星、照門に狂いはなかったか? 床尾を肩にあてて引き金をそっと引かなかったのではないか? 引き金を引くときの呼吸の調節はどうだったのか? このように、一つひとつ検討してみるべきである。また、身体に欠陥はないのかということも確かめてみる必要がある。近視なのか、遠視なのか? さもなければ乱視なのか? そして、大胆さに欠け、思想的に臆病なためではなかったのか? このように、あらゆる面から検討して問題を取り扱うべきであって、一律に思想が悪いとみなして思想闘争ばかりしようとしてはいけない。批判は、あくまでも同志を助けるためのものでなくてはならない。欠陥にたいしては目をつぶらずに批判すべきであるが、科学的に分析して納得できるようにしなければならない。暴露するようなやり方でとがめたり、侮辱したりしてはいけない。

 わたしはこの日の会議で、共青隊伍の組織的・思想的基礎を強化し、宣伝・扇動・教育活動を改善する問題、批判と自己批判を誠実におこなう問題、児童団を共青の後続隊に育てあげる問題、そして、過去の愛国青年の闘争からすぐれた点を取り入れる問題など、共青活動の全般的分野を包括して演説をし、また談話もした。その後も機会あるたびに、共青の幹部は、いつも大衆のなかで暮らし、活動においては大衆の先頭に立つ旗手となり、対人活動では真の母となるべきであることを強調した。

 共青活動家会議があって以来、共青幹部の活動スタイルには革新が起こった。官僚主義と関門主義、形式主義の古い枠にとらわれていた共青組織は生気にみちた組織となり、青年大衆のなかに深く入っていくようになった。

 ある日、わたしは金重権に会うつもりで共青県委を訪ねた。ところが、県委には連絡員が一人いるだけで、事務所は閑散としていた。みなどこへ行ったのかと尋ねると、区と支部の各組織に出向いているとのことだった。その話を聞いて、わたしは満足した。以前は、県共青の活動家が同盟員のなかに入ろうとせず、事務所にかまえこんで支部や区の書記を呼んでは仕事をまかせ、その結果を報告させるという安易なやり方をしていた。県共青は、どこかで牡馬が子を産んだといわれても真に受けるくらい下部の実情にうとかった。それでいながら、会議を開いてひとしきり思想戦をしてはそれで満足していた。共青団体は会議と批判さえすれば万事がうまくいくものと思っていたのである。ところが、こういう旧来の活動方法が、共青活動家の活動スタイルからいつのまにか姿を消すようになったのである。共青活動家は、遊撃隊と地方の支部組織に出向き、責任感をもって共青の活動を援助した。県委の事務所で空論と文書いじりに終始していた人たちが、下部に出向いて同盟員に会い、グループの集まりや支部の会議に参加し、共青の書記を助けて活動計画の作成もおこなった。県委の事務所に共青の幹部が集まるのは会議のある日だけだった。

 共青アクチブの隊列には、状況と条件に応じて臨機応変の活動ができる手腕家や、作風がよくて指導方法にそつのない洗練された活動家も少なくなかった。延吉県の八区共青組織部長を勤めていた金範洙は、明月溝会議にも参加した人であったが、彼の両親は自分の息子が青年から愛されている有能な共青の幹部であることを知らなかった。金範洙が小学校に通っていたとき、彼の母はひとり息子が読み書きを習っているのがあまりにも誇らしくて学校にまでおぶって送り迎えをしたほどだった。こうして、蝶よ花よと育てた息子が成人するかしないうちに、急いで結婚させた。両親は、息子が社会運動にかかわるのを恐れて、結婚させたあとも外出をきびしく取り締まった。しかし、金範洙は外出ができないかわり、自分の家の裏部屋を会合の場所にし、垣の下にひそかに犬くぐりほどの抜け穴をつくって青年たちをひんぱんに呼び入れた。両親は息子が出歩きもせず新郎らしく振舞っていると喜んでいたが、息子は夜ごと裏部屋で青年との活動に没頭し、新妻の顔を眺めるひまさえなかった。この裏部屋で、金範洙は数十名の熱心な共青員を育てあげたのである。

 県共青書記は主として遊撃隊の共青組織に入っていって青年運動を指導し、組織部長と宣伝部長は遊撃区の共青組織と敵地の共青組織との連係のもとに青年運動を指導した。県共青書記は、場合によっては、遊撃隊員とともに戦闘作戦にも直接参加しながら大衆を指導することもあった。

 馬村作戦のときだった。馬村の向かい側の台地に配置された中隊の共青支部は、県共青書記の参加のもとに非常会議を開いた。決戦を前にして、共青員たちはわれ先に火を吐くような決意を述べた。

 「共青員の胸で、血潮をもってかちとったこの地を最後まで守ろう!」

 共青員の銃口からは復讐の命中弾が矢つぎ早に発射された。敵は、この戦闘だけでも数百名の死傷者を出した。救国軍とともに東寧県城と羅子溝を攻撃したときも、共青の書記はパルチザン隊伍の先鋒をつとめた。

 共青活動家会議の後も、たびたび共青の幹部たちに会って活動にかかわる諸問題を論議した。当時、共青の活動についてもっとも力点をおいて強調したのは、青年にたいする愛国主義教育、革命教育、階級的教育、反帝教育、共産主義教育、楽天主義教育、そして軍事教育を強め、共青の幹部と共青員のあいだで大衆観点を確立し、共産主義的な活動方法と作風をうち立てる問題であった。

 われわれは、共青組織がなによりも当面の政治、軍事、経済上の諸問題に注目し、その解決に総力を傾けるようにした。共青組織は、学術団体でもなければ啓蒙団体でもなく、クラブでもなかった。それは、革命の勝利のために青年大衆を教育し結集する組織であった。したがって、この組織の活動は、つねに現行の政治実践、軍事実践、経済実践に服従しなければならなかった。それでこそ、各組織が生新な組織、強力な推進器となることができるのである。

 当時、遊撃区の人民と青年のあいだには、経済問題の解決に関心を払わない偏向が生じた。遊撃区での経済問題というのは、食べて着て住まう問題を意味する。当世ふうに言えば、食・衣・住の問題といえるだろう。当時、遊撃区の人民が消費する食糧の大部分は、遊撃隊が敵を討ってろ獲した戦利品でまかなわれていた。遊撃区の地味のうすい耕地で産する穀物では、1年分の食糧にもならなかった。人民は食糧が切れると軍隊に期待をかけた。こうした過程で、少なからぬ活動家と遊撃区の住民のあいだには、遊撃隊にたいする依存心が生じた。端境期になると、当然また軍隊が敵を討って食糧を奪ってきてくれるものと思い、腕をこまぬいて営農準備さえしない人たちもいた。

 わたしは1934年の春に大荒崴に行って、第3中隊の隊員たちと一緒にメーデーを祝った。中隊の活動を指導する過程で、営農の準備状況も同時に調べてみると、それはまったくひどいものだった。当地の人たちは春耕の時期が近づいているというのに、種まきの準備もせず、その日その日を安穏にすごしていた。いったいどうしようというのだろうか? 驚いたのはわたしだけではなかった。わたしと同行した県共青書記も、こんなにも怠けていることができるだろうかと、不満の色をかくさなかった。数日後、われわれは腰営口のアジトで県共青拡大会議を招集し、春の種まきでの青年の課題について協議した。1932年の秋に収穫隊を編成して中間部の農地の取入れをおこなったように、今度は青年生産突撃隊を編成し、間島全域の遊撃区で春の種まき戦闘に突入した。この突撃隊には、共青のアクチブをはじめ、遊撃区の中核青年がすべて参加した。彼らは、すきをとって耕耘作業をするだけでなく、種子用穀物を手に入れ、農具をととのえる仕事までやってのけた。破損した農具は鍛冶場に持ちこみ、青年がみんなで取り組んで修理した。役牛の足りない地域では、つるはしやシャベルで土を掘り返してでもまんべんなく種まきをした。1934年の春の種まきは成功裏に終わった。この突撃隊の活動を通じて、遊撃区では共青の権威がいちじるしく高まり、青年の社会的地位も向上した。党組織は、共青が望み立案することであればすべて支持し、共青の幹部が青年運動を大胆に進めていけるように後押しした。人民革命政府と農民協会、婦女会などの大衆組織も共青の活動を各面から後援した。

 遊撃区の人民が共青の活動をいかに重視したかは、1934年9月の九青デーの記念行事の過程をみてもよくわかる。九青デーというのは、国際無産青年デーのことである。全世界の無産青年は1915年にはじめてこの日を記念し、それ以来、毎年九青デーの記念行事をおこなってきた。この記念行事は中国でもおこなわれ、わが国でもおこなわれた。

 汪清の人たちは、1934年の九青デーの記念行事を大々的に準備した。この行事を前にして、われわれは敵地に工作員を派遣して集落単位の参観団を招請する一方、行事当日の参観団の接待に必要な米、小麦粉、食肉などの供給物資を購入した。給養係のなかには、茶まで求めてくる人もいた。遊撃隊は、敵を襲撃して祝日の準備に必要な日用品をろ獲してきた。腰営口広場には松のアーチが立てられ、広場のまわりには遊撃隊の戦果を示す連続画が張り出された。絵と絵のあいだには、アピールに富むスローガンもかかげられた。当時、第5中隊には、驚くほど絵の上手な器用者が一人いた。ソ連帰りの人で、書道にもたけていた。彼は、広場のまわりに人民革命軍の業績を示す戦闘略図まで張り出した。彼が描いた絵は、その一つひとつがみな生きて動いているように見えた。われわれは、政府の庁舎をそっくり空けて客用の宿所をしつらえ、そこにも参観団の鑑賞に供するポスターを張り出した。

 九青デーをひかえて、鶏冠拉子、影壁拉子、天橋嶺、転角楼など、遊撃区とその周辺の村では、それぞれ代表を選出して腰営口に派遣した。敵が集団部落をつくってその出入りをきびしく取り締まっていたので、敵地からの代表は集団的に来ることができず、一人ずつ鎌やかごなどを手に野良仕事の装いで遊撃区にやってきた。当日になると、遊撃区の青年たちは人民とともに、北三岔口でろ獲した絹地やセル地で仕立てた衣服で着飾って広場に参集した。県の共青幹部たちもりゅうとした新調の背広姿で広場にあらわれ、行事を取り仕切った。折目のついた軍服を着け、隊伍を組んで整然と会場に入ってくる遊撃隊のりりしい姿は、敵地の代表たちの賛嘆を呼んだ。

 この日の行事は、延吉爆弾を爆発させてその開会宣言に代えた。ガーンという爆音を合図に数十の赤旗が広場にひるがえり、シュプレヒコール、拍手、太鼓の音が会場をゆるがす光景に参観団のメンバーは目を見張った。

 九青デーの記念報告があったのち、各界の代表は共青の業績を称賛し、反日を扇動する戦闘的な演説をした。当時は、こういう演説を感想発表といっていた。行事終了後、われわれは敵地からの参観団のために盛大な歓迎会を催した。県党と県共青の幹部の要請を受けて、わたしは人民革命軍の政治・軍事活動にたいする積極的な支援を求める演説をした。これに答辞を述べようと、敵地から来た代表の一人が発言を求めたが、感激のあまりのどをつまらせ、なにも言えずに四方に向かってしきりにお辞儀をするだけだった。九青デーの行事に参加した敵地の代表たちは、わたしの演説を聞きおえると、先を争って入隊を申し込んだ。みながみな遊撃隊に入隊したいと懇請するので、かえって思いとどまらせなければならない有様だった。われわれは、家庭の事情や仕事の関係などを考慮して、その一部だけを革命軍に入隊させた。

 その日の歓迎公演で異彩を放ったのは、第5中隊が用意した出し物だった。老黒山の地下組織での活動をへて入隊した遊撃隊員が沿海州へ行っていたころ習ったというロシア舞踊はじつに見物だった。参観団が遊撃区を離れるとき、われわれは敵地の人民のために残しておいた戦利品を持たせてやった。わたしがここで1934年の九青デー行事について詳細に言及したのは、それが遊撃区時代の青年の祝日のうちでもっとも規模が大きく印象深いものであったからである。当時、われわれは、国際的な記念日を重視し、コミンテルン、国際共青、プロフィンテルン(赤色労働組合インターナショナル)、国際農組などの国際的な組織との連係に大きな意義を付与していた。世界各国の共産党にコミンテルンという国際的な中央があったように、万国の共青にも「キム」という名称の国際的な中央が存在した。「キム」というのは、国際共産主義青年組織の略称である。われわれがハルビンヘ行き連係を保って活動した組織も国際共青傘下の組織であり、わたしにモスクワ留学を斡旋した団体もコミンテルン青年部の使命をおびていた国際共青組織であった。

 共青の綱領実行のための実践闘争の過程を通じて、青年のなかからは民族解放闘争史の1ページをりっぱに飾ったすぐれた革命家が輩出した。「13連発」「シャベル(金鳳旭)」、朴吉松、黄正海、金沢万、金忠鎮、朱春日、李信順、金範洙、李東華、李順姫、朴浩俊など、多くの抗日英雄は、いずれも組織生活を通じて育成された共青の申し子たちである。共青が生んだ名だたる英雄のなかにはパルチザンの指揮官もいれば地下工作員もおり、教育者もいた。

 腰営口のアジトで開かれた共青の会合では、敵地での活動をいっそう拡大強化する問題もあわせて討議された。そこでは、政治的、実務的に有能な共青の指導中核が不足していた。各級党組織と共青の指導的地位を占めていた極左分子らの誤った施策によって、敵の統治区域での共青の活動はないがしろにされた。こうした実情を十分に考慮して、共青の会合では、「敵の心臓部に砲台を築こう!」という戦闘的スローガンを示した。これは「敵軍のなかに革命の砲台を築こう!」というスローガンと大同小異のものであった。「敵の心臓部に砲台を築こう!」というのは、敵の心臓部にわれわれの組織体をうちかためていこうという思想である。

 この会議の決定に従い、多くの共青幹部が敵中工作の困難な任務をおびて東満州地方と朝鮮国内をはじめ、広範な地域に潜入しはじめた。東満特別区委員会の児童局長を勤めていた朴吉松も羅子溝に派遣された。彼は有能な共青アクチブたちとともに組織を拡大し、青年を実践闘争のなかで鍛えた。数多くの季節少年労働者を擁していた間島有数の羅子溝酒造所にも、彼の手による工作ネットが深く張りめぐらされていった。

 羅子溝児童局長を勤めていた崔光も、共青組織の指示でこの酒造所に入って活動した。俞某が経営していたこの酒造所では、毎年2〜5月と9〜10月に季節労働者を募集していたが、安い賃金でも多くの仕事をさせることができる少年労働者だけを採用した。工場主は、少年労働者に成人の1日分の賃金の半分にもならない3毛を支払った。それも現金ではなくて酒で支払った。3毛では酒1本分にしかならなかった。この1本の酒を稼ごうと、少年たちは早朝から夜遅くまで骨のおれる労働をした。仕事が終われば、賃金代わりにもらった酒を売るために一晩中市内を歩きまわらなければならなかった。崔光は共青組織の指導のもとに、賃上げ闘争に少年労働者を決起させた。酒造所に就職し、児童団組織に加入させた10余名の同僚たちを動員して、ストライキを呼びかける扇動活動を展開した。彼自身もバラック建ての食堂の戸口ごとに見張りを立てて扇動演説をぶった。組織生活を体験していない少年たちをストライキに立ち上がらせるのに苦労したが、彼は忍耐強く説得しつづけた。「酒1本もらうくらいでは暮らしていけない。みんなが団結して働いた分だけ金をもらおう。力を合わせさえすれば工場主を屈服させることができる!」彼のアピールにこたえて少年労働者は3日間も工場へ出勤しなかった。職を奪われるのではないかと工場に出勤していた少年工たちも、彼の話を聞いてからは心を決めてストライキに合流した。2回にわたるストライキによって、少年労働者たちは工場主を屈服させ、3毛の日給を4毛に引き上げるのに成功した。

 羅子溝の共青委員であった朴浩俊は、すぐれた組織的手腕と巧みな大衆工作によって、敵地での共青活動で多くの成果をあげた。羅子溝酒造所の少年労働者を反日組織に結集してストライキを勝利させるため背後で指導したのは、ほかならぬ朴浩俊であった。しかし、彼は工作の途中で逮捕された。彼を逮捕した敵は、もう羅子溝一帯の秘密組織を全部あばきだしたかのように快哉を叫んだ。だが、それは誤算だった。彼らは、いかなる方法によっても朴浩俊を屈服させることができなかった。ある日、敵は瀕死の状態にあった朴浩俊を懐柔してみようと、甘い言葉をかけた。

 「おまえは末頼もしい青年だ。若さが惜しくはないか。おまえを頼りにしてひとりで暮らしている母さんをかわいそうだと思わないのか。共青の組織と幹部の名前さえ教えれば、たくさんの賞金をもらってぜいたくに暮らせる。どうだ、見込みのない革命なんか夢見ずに、生きる道を求めたほうがよいのではないか」

 すると、朴浩俊は苦々しく笑ってこう言った。

 「共青の組織と幹部の名を教えるから書き取れ。わたしを指導した幹部の姓は『共』で、名前は『産党』だ」

 「共産党」という「名」を書き取って驚がくした敵を見ながら、壁にもたれて立ち上がった朴浩俊は、彼らをあざけった。

 「わたしを育ててくれたその偉大な幹部の名をおまえたちが手帳に書きこんだところで、なんの役に立つというのだ。共産党はいまにわたしの仇を討ってくれるだろう」

 こうして朴浩俊は、みずから死の道を選んだのである。胸をはって刑場へ足を運ぶ共青員の不屈の姿を思い描いてみよ。その歩き方がいかにも堂々としていたので、敵軍の兵士でさえみな、共産主義者というのは本当にすごい人間だといって、おそるおそるささやき合ったほどである。誰かが刑場に引かれていく彼の手にそっとタバコを渡してやった。娘たちは彼の足もとに花束を投げた。

 抗日革命が育てた共青の一世たちは、このように信義を守ってたたかい、いさぎよく死ぬこともできたのである。

 当時、共青の隊列で育成された共青員たちは、自分一個人の利益を組織と革命の利益に完全に服従させていた。共青員林春益もまさにそういう闘士であった。共青延吉県八区南線特別支部の書記であった林春益は、早くから地下共青団体を組織した有能な政治工作員であったが、その団体を指導中、敵に逮捕された。彼もやはり野獣じみた拷問にさらされたが、組織の秘密を最後まで守り通した。彼は、他の同志たちが担当した秘密工作までいっさい自分がしたことだと陳述した。そのおかげで、逮捕された他の同志たちは全員釈放された。彼は弱冠18歳にして壮烈な最期を遂げた。美しく気高い犠牲的精神を発揮して組織と同志たちを救い、ひとり刑場に立った18歳の共青員の高潔な人柄に敵も頭を垂れたという。

 共青員李順姫も抗日革命が生んだ不屈の闘士である。わたしが李順姫にはじめて会ったのは、1934年初めの冬だったと思う。敵の討伐で両親を失った子どもたちに会うつもりで児童団学校へ行ったときに李順姫を見た。延吉で県児童局長を勤めていた彼女が、汪清県児童局長として転任してきてまもないころだった。わたしが児童団学校の庭で子どもたちに取りかこまれていたとき、李順姫が駆けつけてきて挨拶をした。目もとがすずしくて、川辺のワスレナグサのように清楚な気品をただよわせる娘であった。学校の庭には冷たい風が吹きぬけていた。ところが、わたしを見てうれしそうにまとわりつく子どもたちのなかには、ひとえの衣服を着た子や、素足のままでわらじを履き、すりきれた短いチマをまとった子が多かった。討伐にあったときに火の中から飛び出してきたのか、顔に火傷を負った子もいた。敵の統治区域で両親を失ってやってきた児童団員たちはほとんど裸同然の身なりであった。わたしは火傷のある子どもの手をなでながら、児童団員たちを一人ひとり見つめた。きらきらする子どもたちの黒い瞳が、なにかしら切なる願いをこめてわたしを見つめているようであった。わたしは、胸を刺されるような衝撃を受けた。そして心のなかで、おまえたちを孤児にした日本軍をきっと撃滅する、とかたく誓った。わたしは気をしずめ、子どもたちに心をこめて言った。

 「おまえたちは、祖国のつぼみであり、未来の柱だ。おまえたちが明朗であればわれわれも明朗になり、おまえたちが元気に育てばわれわれも力がわいてくる。…早くすくすくと育って国のりっぱな柱になるんだよ」

 子どもたちは、にわかに明るい顔になって、「はい、そうします」と声を合わせて元気よく答え、はしゃいだが、児童局長である順姫の目からはとめどなく涙がこぼれ落ちた。

 「将軍、お許しください。共青組織はわたしに児童局長の責務を与えたのに、子どもたちがあんなふうに着るものも着られずにいるのを見ながらも…」

 順姫は、罪を犯した人のように恥じた。涙に濡れた彼女の顔には深い悔悟の色がただよっていた。

 子どもたちに服を着せられない責任がどうして李順姫にあるといえようか。事実、彼女は、子どもたちの衣服を繕い、履物の手入れをし、ノートをつくったりして、夜も寝床につくひまがなかった。李順姫との最初の出会いから受けた強い印象は、自分の活動範囲であらわれるすべての過失と不祥事の原因をつねに主観に求めるという革命家的な自己反省の態度であった。

 数日後、わたしは児童団員たちのために戦闘をおこなった。ろ獲した戦利品で、児童団学校の子どもたちに綿の布団と新品の服、そして靴、ノートなどをととのえて送り届けた。遊撃隊員の血の代償によって得た子どもたちの服にほおずりをして泣き、そして笑っていた李順姫の姿がいまも忘れられない。いつだったか、李順姫はこれに返礼しようと、児童団演芸隊を編成してわれわれを訪ねてきた。

 「将軍! 綿の布団と新しい服を送ってくださった将軍のご恩にわずかなりともお礼をさせていただこうと、子どもたちが演芸隊を組んでやってきました」

 それを聞くと、胸に熱いものがこみあげてきた。その日、わたしは、遊撃隊と根拠地の人民を集め、彼らとともに楽しい気持ちで公演を見た。その日の演芸舞台でわれわれの胸を強く打った演目の一つは口演であった。真新しい服に赤いネクタイを着けた幼い少女が登場し、わたしのお父さん、お母さんは日本軍に殺された、けれどもわたしは新しい服に赤いネクタイを着けて元気に育っている、わたしが着ているこの新しい服は遊撃隊のお姉さん、お兄さんたちが血を流して求めてくれた服だ、と前口上を述べ、火傷を負った小さな手を差し出した。

 「将軍さまは日本軍の討伐で火傷をしたこの手をなでてくださりながら、おまえたちが明朗であればわれわれも明朗になり、おまえたちが元気に育てばわれわれも力がわく、とおっしゃいました。遊撃隊のお兄さん、お姉さん! わたしたちは、明朗で元気に育っていますから喜んでください。力を出してください。将軍さまのお言葉どおり、わたしも早く大きくなって共青員のお兄さん、お姉さんのように銃をとって日本軍と戦います…」

 少女の口演に涙を流さない人はいなかった。実り豊かな稲穂から勤勉な農民の玉の汗を感じとるように、われわれはその舞台から子どもたちに傾けた李順姫の労苦を読みとることができた。

 ある日、わたしを訪ねてきた李順姫はだしぬけに、自分を敵中工作に派遣してほしいと言った。児童団活動に専念し、それにまたとない生きがいを感じていた彼女だっただけに、その突然の申し出には驚かざるをえなかった。李順姫はその後、重ねて共青組織に願い出て許しを得、朴吉松とともに羅子溝へ派遣されることになった。

 三面が険しい山並みに囲まれている羅子溝の青山と肥沃な田野には、抗日血戦の跡とともに、敵中工作の道を歩んだ勇敢な共青員たちの赤い魂が宿っている。

 わたしは、ここに李順姫の敵中工作の過程を長々と記そうとは思わない。肝心なのは、花うるわしい年で命をためらいもなくささげたその精神力がどこにあるのかということである。

 李順姫は、羅子溝からやや離れた地点の草小屋を根拠地にして活動した。寒風が吹き込み、雨漏りのするその小屋で春を迎え、夏を送り、秋を迎えた。その間、羅子溝では共青組織が拡大され、児童団組織が育った。敵の牙城に強力な革命の砲台が築かれたのである。李順姫はこの砲台を構築するため、変装をこらして軍警の銃剣と密偵の監視が常時つきまとう危険な敵地を昼夜の別なく駆けめぐった。だが、彼女は李奉文という陰険な密偵にかぎつけられ、ついに逮捕された。敵は羅子溝の地下組織をあばきだそうと、順姫を陰気な鉄窓につないでむごい拷問を加えた。地下組織の運命は、李順姫にかかっていた。彼女が口を割るようなことになれば、羅子溝に張りめぐらされていた組織網はすべて露呈し、苦労して築きあげた革命の砲台は一朝にして崩壊しかねなかった。敵は、空約束と甘言で順姫を心変わりさせようとした。しかし、彼らが李順姫からさぐりだした秘密はただ一つ、彼女が共青員であるということだけだった。彼女は、鉄格子の中で共青員という名の重みをいっそう深く感じたようである。拷問を指図していた羅子溝憲兵隊の隊長はとうとう業をにやし、順姫を銃殺するよう命じた。ところが、死刑執行の前夜に事件が発生した。銃殺命令を下した憲兵隊長が、最後にもう一度順姫の心を動かしてみようとして部下を連れて監房にあらわれた。そのとき、順姫は衣服の手入れをしていた。汗と血にまみれてずたずたになった衣服ではあったが、きちんと着て刑場に出たかったからに違いない。憲兵隊長の飼い犬のような李奉文が順姫に近づき、「おまえが生き延びられる千載一遇の機会はいましかない。おまえの若さがもったいないし、かわいそうなので言うのだが、羅子溝にある地下組織メンバーの名前を一人だけでも教えろ、そうすればおまえを生かしてやる」と言った。順姫はなんとも答えず、血がこびりついた髪をなでつけてから懐に手を入れ、小さな灰色の袋を一つ取り出した。それを見た李奉文は色を失って監房の外へ飛び出した。他の刑吏たちも悲鳴をあげて彼のあとを追った。李奉文は、順姫の取り出した小袋を手榴弾かなにかの爆発物と勘違いしたのである。だが、それは爆発物ではなく、土の入った袋であった。その小さな袋は、順姫の父が遊撃根拠地で戦死するとき娘に譲り渡したものであった。

 「あわてるな! これは、わたしの祖国の土を入れた袋だ。汚らわしいその命がそんなに惜しくて逃げるのか!」

 祖国の土を懐に秘め、鉄格子の中で解放の日を思い描いた共青員李順姫と変節漢李奉文の人格を対比して「鳳凰とカラス」と表現した人もいたが、それは決して間違った比喩ではなかったと思う。李奉文のような変節漢にその土袋の価値がわかろうはずはない。

 翌日、李順姫は刑場で革命万歳を叫んで最期を遂げた。彼女が最期の瞬間にうたった『共青歌』をここに紹介しておきたい。


  新世界の夜明け いざ迎えん
  われら無産青年 こぞって前へ
  古い社会 勇敢に打ち倒そう
  われら無産青年 無産青年らしく
  われら勤労者大衆の 青年前衛隊


 わたしはいつか李順姫と一緒に、児童団学校でオルガンを弾きながらこの歌をうたったことがある。この『共青歌』は共青員にかぎらず、共産党員や児童団員、婦女会員のあいだでも愛唱された歌である。それは、この歌のなかに新しい社会にたいする勤労者大衆の一致した憧憬と未来への熱烈な愛、新しい世界の到来を早めようとする青年の不動の意志がよく反映されていたからである。幾多の共青員が、李順姫のように断頭台でこの歌をうたった。この『共青歌』は、もともと、われわれがつくった歌ではなかった。ロシアの青年たちがうたった歌である。だが、歌詞とメロディーに流れる思想・感情は、自由を愛し正義を愛する全世界青年の心を強くとらえたのである。ウジェーヌ・ポティエの『インターナショナル』が多くの国で党歌となったように、『共青歌』もやはり国際的な青年歌として広く愛唱された。

 李順姫のような烈女を輩出したのは、疑う余地もなくその政治的生命に光を与え翼をつけた共青組織の功労といえる。組織という存在がなく、組織的鍛練という成長過程がなかったなら、果たして李順姫のようなうら若い女性が刑吏の前であれほど勇敢に振舞い、あれほど高い誇りと自負をいだいて最期の瞬間を堂々と飾ることができたであろうか。それゆえ、わたしはいまも、組織は英雄を生む家であり大学であると言っているのである。組織生活を通じて鍛えられた一人の共青員や社労青員は、100人、1000人の敵をも打ち倒せる大きな力をもっている。朝鮮人民が一当百の人民といえるのは、彼らがすべて組織生活を通じて鍛えられた人民であるからであり、わが人民軍が一当百、一騎当千の軍隊といえるのは、彼らが組織と呼ばれる溶鉱炉で自分自身を政治的、思想的に、軍事技術的にりっぱに練磨していく軍隊であるからである。

 今日の青年は、社労青(社会主義労働青年同盟)という組織を通じて闘士に、英雄に、革命家に育っている。抗日戦争当時の共青組織が職業革命家を育てる学校であったとすれば、現在の社労青組織は社会主義建設の前衛部隊を育成する基地であるといえる。抗日革命の時期と同じように、今日も青年は社会主義建設のすべての戦線で先陣に立っている。社労青は、わが党がもっとも大事にしている頼もしい主力部隊である。この主力部隊が進出する所では、どこでも偉勲が輝き、奇跡が生まれている。西海閘門、北部鉄道、光復通り、メーデー・スタジアム、万景台学生少年宮殿、拳道殿堂など、わが国の万年の財宝といえる偉大な記念碑的建造物には、どれにも労働党時代の青年の貴い汗がにじんでいる。朝鮮人民が「速度戦青年突撃隊」を愛しているのもそのためである。

 現代の社労青員と青年のあいだでは、万民の賛嘆を呼ぶ共産主義的美挙があいついでいる。一度失えば二度と取りもどせないのが人間の命である。にもかかわらず、わが国の青年は、他人の生命のために自分の生命を鴻毛のごとく投げ出している。一生を戦傷栄誉軍人にささげることを決心して彼らの妻となった女性は、あまりにも多くてその名をあげきれないほどである。わが国の社労青員のなかには、未婚の身で両親を亡くした子どもたちの母親になってくれたありがたい女性もいる。他の国では、青年たちが首都の市民権を得ようと苦心しているとき、朝鮮の青年は住みなれた首都をちゅうちょなく離れ、農村へ、炭鉱へ、開発地へみずから嘆願し進出している。率直に言って、わたしはこういう青年たちを黄金の座布団に座らせたい気持ちである。

 現代の青年のあいだで発揮されている共産主義的美挙が新聞や放送で報じられるたびに、わたしは青年運動のためにつくした朝鮮共産主義者の労苦を想起し、その運動の伝統をりっぱに継承している社労青を思うのである。現代の青年のなかから世間をゆさぶる美談があいついで生まれて万人を感動させているのは、社労青の功績に帰すると評価することができる。組織生活を通じて鍛えられた青年の大部隊、それは、事実上原子爆弾よりも強力なものである。

 この世に青年運動ほどやりがいのある栄誉にみちた仕事はないであろう。もしも、わたしが人生のふりだしにもどる幸運にめぐまれ、職業を新たに選択する権利を得られるなら、わたしは吉林時代のように、断然、青年運動に身を投ずるであろう。

 遊撃区の解散を契機に、われわれは再び多くの政治工作員を敵地へ派遣した。当時われわれは、安図、敦化、撫松、長白、臨江などの各地に人を送って共青遼吉辺中心県委員会を設け、敵地での地下青年運動を強化することにした。遼吉辺というのは、遼寧、吉林、間島の辺境地帯のことである。われわれはまた、地下青年組織を、まず茂山、甲山、豊山、会寧など、朝鮮の北部国境地帯に結成し、ひいては、平壌、ソウル、釜山をはじめ朝鮮の中部地帯と南部地帯にまで拡大する遠大な構想を立てた。この構想を実現するため、汪清県共青書記の趙東旭も、共青遼吉辺中心県委員会書記の責務をになって敵地に潜入した。趙東旭は、共青の活動経験が豊富な人であった。彼は5.30暴動(1930)に参加したという理由で、吉林省第3監獄と呼ばれたハルビン監獄で1年以上の獄中生活も体験した。獄中で中国語を習得し、共青にも加盟したのだが、中学卒業者としては非常に博識で、学究肌の人だった。彼は共青寧安県委の委任により救国軍部隊に派遣され、共青の活動にたずさわった。そして1932年の9月ごろ、40名余りの武装人員を率いて汪清に移ってきた。

 わたしが趙東旭にはじめて会ったのは、その年の秋だったと記憶している。わたしは、彼を李光別働隊の共青幹事に任命し、寧安から来た武装人員をその別働隊に配属させたのち、隊員たちを北満州に派遣して彼の家族を連れてこさせた。趙東旭の継父張基燮は「共産主義じいさん」と呼ばれていた誠実な党員だった。趙東旭は、わたしと呉義成との談判を現場で目撃しただけでなく、王潤成とともに談判中のわたしを積極的に補佐してくれた人である。この談判のあとで、わたしは、彼と王潤成を羅子溝市内にあった反日部隊連合弁事処へ派遣した。趙東旭と王潤成は、各地の反日部隊から派遣されてきた連絡将校たちと義兄弟の契りを結び、中下層の将校と兵士のあいだに共産党支部と共青支部を組織した。反日部隊連合弁事処での活動を通じて、趙東旭の政治活動の手腕はいっそう洗練された。彼が敵地へ入って最初に腰をすえたのは、安図県両江口であった。彼は小さな商店をかまえて「商売」をしながら、店に出入りする満州国軍相手の工作を巧みに進め、15名の中下層将校、兵士たちと義兄弟の契りを結び、1個中隊を完全に手中におさめた。その1個中隊は、趙東旭の指示によって造反し、山中に逃走してしまった。趙東旭は、山中にたてこもったこの反乱軍と遊撃隊との連係をつけようと車廠子へ行った。ところが、極左分子らは、彼を民生団嫌疑者とみなして拘禁しようとした。後日、趙東旭は、そのときのことをつぎのように述懐している。

 「あのとき東満特委の極左分子らは、わたしに会うやいなや、『宋一は民生団であることが判明して処刑された。宋一が汪清県党の書記を勤めていたとき、おまえはその下で県共青の書記を勤めた。宋一が民生団なのだから、おまえも民生団ではないか。こちらが証拠を示す前に白状するのが身のためだ』と脅しつけるではありませんか。わたしは脱出を決心しました。食事を運んでくれていた金正淑同志もわたしの決心を支持してくれました。正淑同志は旅費にするようにとお金までくれました。その金で両江口に帰ってから、母を連れて朝鮮へ渡りました」

 その後も彼は朝鮮の各地を転々として青年運動をつづけた。

 金振の魂が李寿福によって継承され、李寿福の魂が金光哲、韓英哲によって継承されているように、共青の命脈は民青によって継承され、民青の命脈は社労青によってゆるぎなく継承されている。一部の国ぐにで青年学生が社会的に頭痛のたねとなり、反革命の手先となって祖父の代に築いた塔を崩しているとき、わが国の青年はとりでとなり盾となって、抗日革命烈士が切り開いた革命偉業をりっぱに継承しているのである。

 いま社労青隊列には、金正日組織担当書記の指導に限りなく忠実な数百万の同盟員が結集している。21世紀のわが祖国は、彼らの力によってより住みよい楽園に建設されるであろう。



 


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