金日成主席『回顧録 世紀とともに』

1 荒れ狂う旋風


 試練の日々は、夢のように過ぎ去った。われわれの行く手をさえぎった険峻な雪嶺は、はるか彼方に消え去り、血潮と苦悩に彩られた遠征は勝利のうちに終わった。朝鮮の共産主義者には、この勝利にもとづいて革命の深化をはかれる新たな展望が開かれた。病躯をおして老爺嶺の頂をきわめたわたしは、隊員たちと一緒に汪清の山並みを見渡しながら歓声をあげた。数か月間、硝煙と酷寒のなかで累積した疲れが一瞬にして吹き飛び、故郷の裏山に舞いもどったような喜びで心も軽かった。だが、汪清に帰還したあとも、何日かは床に臥して高熱とたたかわなければならなかった。遠征中にわずらった傷寒の後遺症に再びさいなまれたのである。かててくわえて、「粛反」のため遊撃区が満身創痍の状態になったというただならぬうわさが、病床にまでもたらされた。「看護兵」たちも、遊撃区を修羅場に変えた極左分子の罪業を憤激して告発するのであった。

 数か月前まで革命のために汪清の谷間も狭しとばかり駆けまわっていた党員や共青員、婦女会員たちは、狂気じみた殺人台本の作成者とその執行者たちを呪い、みずからの血をもって開拓し死守してきた遊撃根拠地を捨てて四方に散っていった。わたしは、心臓が凍りつくような戦慄を覚えずにはいられなかった。宇宙のすべての動きが一瞬にして停止し、この世のすべてのものが氷河に覆われて終焉を告げるかのような絶望と挫折感にとらわれた。羅子溝台地での試練など、これに比べれば物の数ではない。わずか16名の隊伍を率いて傷寒に苦しみながら天橋嶺を越えるときの難関もやはり耐えがたいものではあったが、「民生団」問題で味わった苦しみに比べれば問題ではなかった。あのとき、遠征隊の行く手に立ちはだかる障害は明白であった。それは、敵の追撃とわたしの傷寒であった。われわれは金老人のような義人の助けで敵の封鎖を突破し、趙宅周老のような恩人のおかげで餓死、凍死、病死の陥穽からもまぬがれることができた。人民が活路を開いてくれたのである。

 ところが、間島(吉林省の東南部地域)の遊撃根拠地では、革命が革命を倒す悲劇的な事態が発生していたのである。倒す者と倒される者のあいだには、矛盾や対立などあるはずがなかった。にもかかわらず、倒す者は倒される者を敵と断じ、革命隊伍から容赦なく排除した。「粛反」の審判台に立たされた人の大多数は、それまで革命に一身をささげてきた点検ずみの闘士たちであった。だとすれば、革命が革命を倒すこの奇怪な「掃討戦」で敵と味方を判別する基準はなにかということである。誰を敵とみなし、誰を味方とみなすべきなのか。「粛反」指導部は処刑した数百数千の人たちにすべて敵という烙印を押したが、こういう判決が適正だといえるのか。もしも、その判決が適正を欠いているとすれば、「粛反」を指揮した者たちはいったいなんと規定すべきか。われわれは、誰を支持し、誰に反対すればよいのか。これは、数百数千の革命家の鮮血をあびて苦しむ東満州の現実がすべての共産主義者にただしていた問いであった。

 わたしは、心身ともに苦しめられる羽目になった。だが、腰営口には、わたしを病魔から救い出してくれるほどの名医もおらず、これといった薬材もなかった。ただ民間療法を多少心得ている隊員が代わるがわる冷湿布をしたりして誠意をつくしてくれるだけだった。小北溝の村人たちはわたしの病気を気遣って、蜂蜜とノロ鹿の血を送ってくれた。中国の老人たちも、熱い茶を沸かして見舞いにきた。そして、金司令が健康でなくては遊撃区を守ることも、抗日をつづけることもできないからくれぐれもよく看護してもらいたい、と遊撃隊員たちに頼むのであった。蜂蜜も茶もノロ鹿の血も滋養補剤としては申し分ないものであったが、わたしはそれを遠征をともにし病苦にさいなまれている戦友たちにまわした。隊員のなかには、感冒や凍傷、大腸炎、気管支炎などで苦しんでいる者もいたのである。ある日、悪寒のする体ではあったが、宋甲竜に付き添われて病床の隊員たちを見舞った。そのとき、わたしの目を痛く突いたのは、遠征をともにした戦友たちの貧相な身なりだった。硝煙にくすぶり銃弾に射ぬかれた彼らの軍服には、戦火の痕がいたいたしく残っていた。冬中、酷寒のなかで生死をともにした戦友たちに新しい服を着せ、栄養のある食べ物を十分に食べさせてやりたいという気持ちでいっぱいになった。

 わたしは裁縫隊に伝令を送った。前年の秋、北満州遠征に出発するとき、翌年に着用する部隊の夏服を仕立てておくよう全文振に指示しておいたのだが、それができていれば遠征から帰ってきた隊員たちのために、まず20着ほど持ってこさせることにしたのである。当時、裁縫隊は、大荒崴から遠く離れた松樹谷(ソルバツコル)の密林の中にあった。メンバーといっても、全文振と韓成姫をはじめ数名にすぎなかった。全文振は東寧県で洋裁を多少習ってきた古参の隊員であったが、韓成姫は腰営口で児童団の活動をしていて遊撃隊に入隊した新隊員であった。伝令と一緒に軍服を背負って腰営口にきたのは全文振ではなく、数か月間、北満州遠征隊の帰還を待ちわびながら、孤島にひとしい松樹谷の密林で妊娠中の彼女を介護していた韓成姫であった。韓成姫は病床のわたしを見るやいなや、ぽろぽろと涙をこぼした。届けられた軍服を遠征隊員たちに着替えさせてから、韓成姫を裁縫隊に送り返した。ところが翌日の朝、松樹谷に帰ったはずの韓成姫が、松の実がゆの膳をととのえて現れたのである。わたしは腑に落ちなかったので、彼女に尋ねた。

 「玉鳳(オクポン)さん、どうしたんだ。なにかあったのかね?」

 玉鳳というのは韓成姫の幼名であり、そのほかにも韓英淑という別名があった。彼女は罪を犯した人のように深くうなだれた。

 「将軍、許してください…。わたしは昨日、松樹谷へ帰らなかったのです」

 一瞬、彼女の言葉が信じられなかった。児童団のころはもちろん、入隊後にも上部の命令や指示を一度もたがえたことのない、忠実で純朴かつ正直な女性であったからである。彼女がわたしの指示に従わなかったとすれば、それは一大事といえることであった。

 「帰ろうにも心残りがしてならなかったのです。将軍が床についていらっしゃるのに、帰っても文振姉さんが喜ぶはずがありません」

 わたしにたいする韓成姫の深い思いやりは、もちろんありがたかった。けれども、わたしは粟とワカメの包みを彼女の背のうに詰めてやりながら言った。

 「ここには世話をしてくれる人がいくらでもいるから、きみはわたしのことを心配せず今日中に松樹谷に帰りなさい。きみが帰らなかったら全文振さんはどうするのだ。いまちょうど臨月だというのに、ひとりでお産するわけにはいかないではないか」

 「将軍、ほかの命令ならなんでも実行しますが、これだけは…。介抱もしてあげられず裁縫隊に帰ってきたら許さないと、文振姉さんに言われたのです。わたしの立場も考えてください。将軍の容態がこんなだというのに、女性隊員が一人もいないなんて許されません」

 韓成姫はかえってわたしを説き伏せようと懸命になった。

 「成姫さん、頼むから早く帰って文振さんを介抱してあげなさい」

 そのとき、李孝錫(リヒョソク)中隊長が助太刀をして韓成姫を窮地から救いだした。

 「隊長、韓成姫がもどったところで助産婦の役はつとまりません。子どもを生んだこともない娘に、お産の手伝いができるわけはないでしょう」

 子どもを取り上げたことのある女性を選んで送ることにするという中隊長の言葉に、わたしもそれ以上言い張ることはできなかった。韓成姫は、その日から昼夜を分かたず看病してくれた。食事のたびに松の実がゆが出された。第4中隊の隊員たちが彼女に頼まれて腰営口の森林へ行き、雪に埋もれている松の実を拾い集めてきたようであった。中隊長自身も毎朝、竿をもって松の実を採りに出かけた。韓成姫は、もし自分の看護に不手際があって将軍の病気を快癒させることができなかったなら朝鮮人の資格がないといって、夜も眠らずかいがいしく面倒をみてくれた。いつか、彼女は自分の髪を切ってわたしの靴の中敷にしてくれたことがあった。わたしはそれを見て、韓成姫という女性は情ゆえに泣き、笑い、生身をそいで差し出すのも辞さないタイプの人間だと思ったものである。

 血は争えないものである。韓成姫の一家はいずれも情が厚く、人間味の豊かな革命家たちであった。父親の韓昌燮は、李光、金普A金銀植などの闘士とともに早くから北蛤蟆塘一帯で抗日革命に参加した先覚者の一人であった。大房子反日会組織の責任者として李光別働隊の軍糧米調達のため東奔西走していた彼は、1932年の春に日本軍討伐隊の軍刀で切り殺された。姉の韓玉善も火あぶりにされ、兄の韓松宇は戦場で戦死した。遊撃根拠地が解散するまで汪清でわたしと一緒に敵中活動を展開し、のちには北満州の抗日連軍部隊で支隊長として名をとどろかせた戦友の韓興権も、韓成姫の従兄である。韓興権の5兄弟は戦場で壮烈な最期を遂げた烈士たちであった。韓成姫の2人姉妹は父の仇を討とうと遊撃隊への入隊を決心した。ところが、2人とも家を発ってしまえば誰が母親に孝養をつくし、誰が家事をみるのかという問題に直面して、姉と妹のあいだで「口論」がはじまった。韓成姫は、入隊適格者でないという理由でいつも受け身に立たされた。

 「年が下だからといって、ばかにしないで。お姉さんのできることぐらいはわたしにだってやれるわ。背だってお姉さんと変わらないわ」

 韓成姫がこう言うと、姉は姉でやり返した。

 「背はそうだとしても、子どもっぽいのはどうしようもないわね。登れない木は仰ぎ見るなというたとえがあるでしょ。成姫は、家でお母さんの面倒をみながら児童団の活動に精を出しなさい」

 どちらも入隊の栄誉を譲ろうとはしなかった。寝床で2人が自分たちの明日の運命を決する深刻な論争をつづけているとき、その一端を耳にした韓成姫の母は、一張羅の木綿のチマをほぐし、夜を明かして大きさも形も同じ背のうを2つ縫いあげた。翌日には、その中にはったい粉をぎっしりと詰めた。その2つの背のうが自分たちの旅づくろいであり、わが子を思って母がととのえる嫁入り道具にひとしい物であることを姉妹が知ったのはその翌日のことであった。

 その日、韓成姫の母は、娘2人を座らせてこう言いふくめた。

 「母さんは、おまえたちの奉養に甘えたくない。国も取りもどしていないのに、孝行なんて考えたこともない。おまえたちがいなくても十分暮らしていける。だから2人ともこの足で遊撃隊に入隊しなさい」

 「お母さん!」

 2人は泣きながら母親の胸に顔を埋めた。姉妹は悲壮な誓いを立て、涙のうちに母親のもとを離れた。1934年の春、わたしは、韓成姫を指揮部直属の裁縫隊に編入させた。韓成姫は、前途有望な女性隊員だった。性格上の弱点があるとすれば、それは何事においても泰平を決めこむことであった。女性としてはあまりにも柔和で、軍人としては驚くほど素直で無警戒であった。この無警戒さのために、彼女は敵に捕らえられ、革命を中断せざるをえなかったのである。

 本隊を訪ねるようにというわたしの指令を受けて他の隊員たちとともに北上の途についた韓成姫は、寧安県二道河子の森の中で敵に包囲された。数十名の満州国軍が銃をかまえて近づいてくるのも知らず、この若い女性隊員は歌を口ずさみながら川辺で髪をすいていたのである。われわれが撫松地区に進出して新しい師団を組織しているとき、彼女は羅子溝で敵に審問されながら苦しい日々を送っていた。囚人を監視する歩哨のなかに、韓成姫にひそかに同情する良心的な朝鮮人がいた。彼はひところ革命に参加していたが、逮捕されて帰順書に署名して以来、恥辱の日々を送っている人間であった。刑吏たちが韓成姫を殺害しようとしていることを感知した彼は、脱出を勧めた。自分も銃を捨てるから、一緒に脱出して朝鮮に渡るか、深い山の中に隠れて小屋でも立てて暮らしてはどうかと言った。韓成姫はそれに同意し、彼に助けられて敵の巣窟から無事脱出した。その朝鮮人の歩哨は後日、彼女の夫になった。

 韓成姫が敵に捕らえられたという知らせを受けたとき、われわれは、みながみな悲憤慷慨した。女性隊員のなかには、口惜しさのあまり食を断つ者さえいた。実の妹のように可愛がってきた戦友を奪われたのであるから、無理もなかった。韓成姫の価値をよく知っている汪清時代の闘士たちは、いまなお彼女を美しい追憶のなかにとどめている。韓成姫の子どもたちは母親の経歴のことで非常に残念がったという。うちのお母さんも他の女性闘士たちのように祖国が解放される日までパルチザン隊伍にいたならどんなによかっただろうか、と。言うまでもなく、韓成姫が敵に捕らえられず戦いつづけることができたなら、それに越したことはない。だが、革命というものは坦々たる大路ではない。スタート音が鳴れば快速で走り、ゴールにたどりつける100メートル競走などではなおさらない。成功と失敗、前進と後退、高揚と挫折のたえまない交錯と反復のなかで勝利めざして走りつづける果てしない行路が、ほかならぬ革命であるといえる。この長い行路に曲折がないはずはない。子どもたちが父母にたいする恨み言をいうたびに、韓成姫はこう諭したという。

 「父や母の経歴に少々の汚点があるからといって、おまえたちまで悩むことはない。朝鮮労働党は両親の過ちをもってその子らを遠ざけたりはしない。両親の罪にたいし、子どもに責任を負わせることはできないというのが、金日成主席の政治だ。問題はおまえたちにかかっている。だから、つまらぬことを考えず、主席に忠誠をつくしなさい」

 子どもにたいする韓成姫の教育の仕方は正しかったと思う。彼女は、最期の瞬間まで党にたいする信頼の念をいだきつづけた誠実で潔白な女性であった。

 韓成姫がつくった松の実がゆと鹿肉入りの粟がゆのおかげで、わたしは3日目にようやく床をあげることができた。ちょうどこのころに、反民生団闘争のすさまじい旋風のさなかにある遊撃区の実態を李孝錫中隊長がくわしく伝えてくれた。彼は、どの県ではどの幹部が殺され、どの県ではどの指揮官が民生団に仕組まれて虐殺されたというように一つひとつ実例をあげて説明した。彼の話が事実であるとすれば、間島では県と区の指導的幹部と中隊級以上の遊撃隊の指揮官はほとんど粛清されたものとみなすべきだった。朝鮮人で文章を書いたり演説らしいことができる人は、すべて消されてしまった。北満州へ遠征に向かうとき汪清に残したわれわれの部隊の将兵のうちでも、中核といえる精鋭分子はすべて除去されていた。かろうじて処刑をまぬがれた人たちは、書記、会長、区委といったポストからすべてはずされていた。

 民生団の出現は、朝鮮にたいする日本帝国主義植民地支配の知能化の産物であった。日本帝国主義者が民生団を組織した目的は、謀略と権謀術数によって朝鮮革命を混迷に陥れようとするところにあった。鉄拳政治でもならず、「文化統治」のベールをまとって「内鮮一体」や「同祖同根」を唱えても効を奏さないので、骨肉相食む朝鮮人同士の争いによって革命勢力を粛清し、治安維持上の問題を解消しようとしたのである。9.18事変(1931)後、満州地方における革命情勢の急激な発展に大きな脅威を感じた朝鮮総督斎藤(実)は、間島視察班のメンバーとして東満州地方に派遣した朴錫胤と延辺自治促進会の巨頭全盛鎬(チョンソンホ)、延吉駐在満州国軍の軍事顧問朴斗栄、A級反共特務金東漢(キムドンハン)をはじめ、親日的な民族主義勢力を利用して1932年2月に延吉で民生団を組織したのであった。

 民生団は、表向きには「民族としての生存権の確保」「自由楽土の建設」「朝鮮人による間島自治」といった聞こえのよいスローガンをかかげ、あたかも朝鮮人の民生問題の解決をはかるのが最高の経綸であるかのように宣伝した。しかしこの組織の実体は、朝鮮民族の反日意識を麻痺させ、朝鮮の共産主義者を陥れて人民から孤立させ、朝中人民のあいだにくさびを打ち込んで革命隊伍を内部から瓦解させる目的で日本帝国主義がつくりだしたスパイ・謀略団体であった。民生団の反動的本質は、日本帝国主義植民地支配下での「生活の産業化」が朝鮮民族の「唯一の活路」だと説いているその「組織趣旨」や「綱領」などの文書を見てもよくわかる。日本は、朝鮮と満州にたいする植民地支配期間を「生存権の確保と拡充」に最適な「絶対的時期」、植民地支配秩序のもとで暗黒の世と化した朝鮮と満州を「自由」と「自律」の「大地」に描写する一方、間島一帯に朝鮮人の手で「自由の楽土を建設すべきである」と唱え、あたかも、朝鮮人が日本帝国主義の満州占領と植民地支配を歓迎し、間島一帯を占有する野心があるかのように印象づけることで、朝中人民と朝中共産主義者の善隣関係と革命的きずなを断ち切ろうと画策した。民生団が徹底した反共御用団体であることは、その発起人たちと、創立後、団長、副団長、理事の役職を占めた者の経歴からも容易に判断することができる。この組織の発起人として、その成立に専念してきた京城甲子倶楽部の理事゙秉相(チョビョンサン)や『毎日申報』副社長の朴錫胤、延辺自治促進会の全盛鎬、金東漢などは、いずれも愛国愛民を唱える民族主義者、革命家を自称したが、例外なく日本帝国主義者が久しい前から手なずけてきた子飼いの反逆者たちであった。

 16歳のときの日本留学をふりだしに親日の第1歩を踏みだした朴錫胤は、東京帝国大学の法科と大学院、ケンブリッジ大学など一流の大学で修学をした。イギリス留学当時は、朝鮮総督府の学務局から毎年3000余円という多額の学費まで支給されたという。海外留学後の彼の肩書は、それ以上にはなやかなものであった。『東亜日報』記者、『毎日申報』副社長、日本外務省嘱託満州国外交部参事官、ポーランド駐在満州国総領事など、帰国後に彼が歴任した職務と、後日、日ソ中立条約締結の日本側団長松岡洋右外相の率いる日本代表団の一員として1932年、ジュネーブで開催された国際連盟総会に参加したはなばなしい経歴は、彼が日本の支配層から厚く信頼されていたことを如実に示すものである。日本帝国主義者は、民族主義者としての朴錫胤の体面が立つように、日本の植民地支配を非難する社説を書かせたり、創氏改名に反対して朝鮮総督と対決させたりし、太平洋戦争の末期には呂運亨の主管した建国同盟にも関与させたが、民生団にからんだ怨念もあって、間島地方の朝鮮人はみな彼を嫌悪していた。解放直後、朴大愚と変名して陽徳(ヤンドン)に隠遁中、摘発され、民族反逆者として峻烈な審判を受けた朴錫胤は、法廷での陳述で、日本帝国主義支配下での朝鮮人の「民族自治」が自分の政治理念であった、朝鮮もイギリスの植民地であるカナダや南アフリカ連邦のような政治発展のコースを歩むべきだと考えた、こうした政治理念から斎藤総督と親しみ、日本の名だたる世界制覇論者で東亜連盟の精神的鼓吹者の一人である石原莞爾も崇拝したと告白した。彼はまた、民生団創立の趣旨が共産党と遊撃隊の破壊にあったことをつとめて否定し、民生団の当初の目的は純然たる「生存権の確保」にあった、この組織が日本帝国主義のスパイ・御用団体に転落したのは自分が間島を去ったのちのことである、反民生団闘争過程の悲惨な被害状況を耳にして驚いた、自分は日本人にあやつられる人形にすぎなかった、などと陳述した。彼の告白がどれほど真実であるかは歴史の判定にまつほかはない。しかし、真偽のほどはどうであれ、彼が日本帝国主義の走狗であったということは、いかなる論拠をもってしても否定できないであろう。

 民生団の組織に一役かった朴錫胤が日本の影響を多く受けた人間であるなら、民生団謀略工作の走狗金東漢はロシアの影響を多く受けた人間であった。金東漢の人生は、共産主義運動からはじまった。彼は10月革命直後に早くもロシアで共産党に入党し、高麗共産党の軍事部委員や将校団長の役職を歴任して、士官学校卒業生としての本領を遺憾なく発揮した。しかし、1920年代の初期に沿海州で日本官憲に逮捕されるや即座に転向し、反共の最前線に立つ親日特務になった。民生団が解体したのち、彼は関東軍の承認を得てその後身である間島協助会をつくりあげ、100余名の反動分子を糾合して義勇自衛隊なるものまで編制し、革命軍の「討伐」に血眼になった。彼は自らが朝鮮生まれの日本人だと思いこむほど徹底的に日本人に同化した人間であり、朝鮮民族は日本を祖国として誠心誠意をつくすべきだと高唱するほど売国反民族根性が骨の髄までしみこんだA級の逆賊であった。『満鮮日報』が伝える資料によっても、彼が帰順させた共産主義者は3800名に及ぶとのことである。金東漢の死後、日本帝国主義者は、延吉西公園に彼の銅像と間島協助会名義の顕彰碑まで建てた。

 日本帝国主義の「間島治安戦略」にもとづく思想謀略施策によって「間島省内の組織の全貌をあばきだし、約4000名を逮捕し、彼らを支持していた社会的基盤の崩壊に成功」したという「民生団戦略」の実相を剖検してみる必要がある。

 民生団が民族主義者による間島の民生解決を目的に組織されたものでないことは最初から明白であったが、日本帝国主義侵略者は当時、それを民族主義のベールで覆うことに懸命になった。日本人は民生団の看板に民生苦の解決という美しい意匠をこらして賛辞を惜しまなかったが、東満州の革命組織は、この団体の頭目らが日本領事館の裏口から足しげく出入りしているのを看破した。敵は万民の鋭い視線から、民生団の正体を隠し通すことができなかった。われわれは革命的出版物と口頭宣伝によってその正体をあばきだす一方、反民生団闘争を大衆的な運動で展開する措置を講じた。表看板にまどわされて民生団に加入した人たちはすぐにこの組織から脱退し、手先に転落して謀略工作に加担した者は大衆の手で処刑された。民生団は創立されてまもないうちに、解体の羽目に陥ってしまった。日本帝国主義は、われわれの隊内に民生団組織をほとんど扶植することができなかった。では、なぜ民生団の存在しない反民生団闘争がつづけられ、民生団員でない人間が民生団員として殺される事態が、それも党が存在し人民政権が樹立されていた間島の遊撃区で3年間も持続したのかということである。その根本的原因は、日本帝国主義の謀略にあった。斎藤朝鮮総督の全面的な支援と竜井日本領事館の積極的な背後工作によって日の目を見るようになった民生団は、1932年4月、朝鮮駐屯日本軍の間島派遣と同時に新任朝鮮総督宇垣一成の意思によって解体されたが、それは形のうえで姿を消したにすぎなかった。民生団は解散したが、それを復活させようとする運動は、金東漢、朴斗栄などを軸にして極秘裏に展開された。

 1934年の春、延吉憲兵隊長の加藤泊次郎(日本の敗戦当時、北中国特別警備隊司令官)と独立守備歩兵第7大隊長の鷹森孝は、朴斗栄をはじめ、親日分子とともに間島の治安問題を再協議し、民生団組織を復活させることに合意した。これによって民生団謀略工作の第2段階がはじまった。彼らは、民生団の再編が満州省委傘下の東満特委を相手にしての思想謀略施策であることを明らかにし、活動の骨子を第1に「朝鮮人遊撃隊にたいする強力な自己崩壊分断施策」、第2に「朝鮮人遊撃隊にたいする糧道遮断施策」、第3に「朝鮮人遊撃隊にたいする積極的な投降帰順勧告」、第4に「投降帰順者にたいする保護、定住監視施策」、第5に「投降帰順者にたいする職業補導、就労斡旋」におき、延吉憲兵隊に謀略活動全般を統轄させることにした。そして、1934年9月には、民生団活動の強化にともなって生まれる「帰順投降者を一括処理し、帰順者の背後関係、偽装帰順の有無調査、洗脳教育を目的」とする特殊機関として間島協助会をつくりあげ、これに民生団を統合した。金東漢を頭目とする間島協助会は、東満特委の反民生団闘争を巧妙に利用してさまざまな陰謀をめぐらした。日本の陰険な謀略家らが、共産党と抗日遊撃隊を狙っての思想謀略工作の基調とした政治的要点は、東満州抗日遊撃隊の組織構成と指揮体系における特殊性であった。彼らは、人民革命軍が朝中両国共産主義者の共同の武力であるという点を本質的な弱点の一つとみた。そして、中国人幹部は朝鮮人の党員を信用せず不断に監視しているので、朝鮮人の党員と対立していると自分の判断を下し、この特殊性を利用して朝中両国の共産主義者のあいだにくさびを打ち込もうとした。「朝鮮人が満州で血を流すのは祖国の独立と民族解放とはなんのゆかりもない。にもかかわらず、あなたがたはなんのためにやっきになって戦うのか。なぜ勢力において優勢な朝鮮人が中国人に引きまわされ、無意味な戦いで血を流すのか。早く目覚めよ。投降帰順の道は開かれている…」こういうことを吹き込むのが民生団思想謀略工作の宣伝要領とされた。

 日本帝国主義は民生団の解体後、特務と手先を用いて、遊撃区に民生団員が多数潜入しているかのようにうわさを広め、堅実な幹部と革命家を陥れ、互いに相手を疑い敬遠視させようとはかった。敵自身も「間島共産党破壊経験」という秘密文書で、最初は民生団員を10名単位の編成で遊撃隊内に送りこんだが、そのつどつかまって処刑され、それ以上潜りこめなくなったので、朝鮮人と中国人、労働者と農民、上部と下部を互いに信じられなくし、離間する戦術を使って共産主義者同士をたたかわせた、と述べている。革命隊列を内部から瓦解させる攪乱工作で日本の謀略家らが発揮した手腕には驚くべきものがあった。その術策のなかには、こういうのもあった。たとえば、東満特委のある幹部が地方巡視に出かけるとすれば、彼が通る道筋に、以前、指導のためにその地方を往来した県か区クラスの幹部宛のにせ手紙を落としておくのである。そうすれば、それを拾った特委の巡視員が手紙の受信人をどうみなすかは言わずと知れたことである。

 反民生団闘争が極左に走ったいま一つの理由は、満州省委や東満特委、各級県党および区党組織の責任ある地位を占めていた各人各様の一部の「左」翼日和見主義者と分派・事大主義者の不純な政治的野望にあった。「左」翼日和見主義者は共産主義隊列内で指導的地位を専有し、上昇一路をたどっていた朝鮮共産主義者の革命闘争を自己の政治的野望の実現に従属させようとし、反面、派閥根性から抜けきっていない事大主義者は、彼らの支持と黙認のうちに分派的目的の達成に妨げとなるすべての人を隊伍から容赦なく排除し、自派勢力の拡大にこの闘争を悪用しようとした。他人の席を横取りして座りこむ口実をつくってやったのが、ほかならぬ民生団であった。おまえは、民生団だからポストから退くべきだとか、死に値すると宣言すれば、それで万事休すであった。そういう判決には、上訴が許されず、また上訴したところで通じるものではなかった。日本帝国主義が流布した民生団浸透説は、共産党と大衆団体および軍隊の責任ある地位を自派一色でかためようとする人たちの覇権主義的で出世主義的な欲求に火をつける引火剤にひとしいものであり、彼らが民生団の名であげる上々の「粛反」実績は、遊撃区の革命勢力を圧殺しようとする謀略家らに計り知れない利益をもたらした。結局は、敵と味方が協力して遊撃区を踏みにじったようなものである。こういう奇怪な結託は、世界のいかなる革命戦争史にも見られないであろう。

 反民生団闘争が、このようにファシズム国家の軍法や中世の宗教裁判をしのぐほどでたらめで苛酷で、拙劣な方法でおこなわれるようになったのは、日本帝国主義の凶悪な謀略と、それに乗せられた東満特委(東満党特別区委員会)の一部の人の政治的・思想的暗愚さと、彼らが追求した目的の卑劣さのためであった。当時、彼らが民生団の烙印を押す決め手には制限がなかったが、それを形態別に分けてみると、じつに数百に達する。遊撃隊の炊事隊員が水加減を誤ってご飯を半煮えにしても民生団にされる理由になった。ご飯に石が混じったりご飯に水をかけて食べても、それは「遊撃区の人民に病気を起こさせようとした証拠」となり、「民生団の仕業」というレッテルが張られる根拠となった。下痢をすれば戦闘力を弱めるからと民生団、溜め息をつけば革命意識を麻痺させるからと民生団、銃が暴発すれば敵に遊撃隊の位置を知らせる合図だからと民生団、故郷が恋しいと言えば民族主義を鼓吹するからと民生団、熱心に仕事をすれば正体を隠すためのゼスチュアだからと民生団…。それこそ鼻にかければ鼻にかかり、耳にかければ耳にかかるといった有様であった。こんな基準でみるなら、民生団とかかわりのない人間は一人もいなかった。

 「高跳び」とあだなされていた反帝同盟和竜県委員会の責任者は、長仁江で政治工作中に自衛団(日本が親日分子でつくった武装治安隊)員らに逮捕され、30余名の愛国者とともに刑場に連れだされた。自衛団員らは、彼らを一列に立たせて1人ずつ打ち首にした。「高跳び」もその刑罰をまぬがれることはできなかった。ところが、彼の首は地面に落ちずに首の皮と肉がはがれて背中に垂れ下がり、全身が血まみれになった。それは死よりも苦しい重傷であった。彼が気を失って倒れているあいだに、自衛団員らは刑場から去ってしまった。夜中に意識を取りもどし、かろうじて起き上がった彼は、歯を食いしばって痛さをこらえ、背中に垂れ下がった皮膚を首にはりつけ、服を裂いて巻きつけてから、24キロ余りの険しい山を腹ばいで進み、転がるようにして、ついに漁郎村遊撃区にたどりついた。しかし、「高跳び」の傷がまだ完治しないうちに、極左分子らは彼を大衆審判の場に引きずりだした。彼が敵の手先として革命隊列内に潜伏するため、わざと首に傷をつくって遊撃区にもどってきたというのである。極左分子らは彼の「罪業」を長々と並べ立てたが、審判の場に駆り出された大衆は彼らの判決に誰一人賛成しなかった。審判の立役者たちは、彼を生かしておき、一定の期間、点検を通じて正体を明かすという判決を下したが、人知れず暗殺してしまった。

 反民生団闘争を極左の泥沼にのめりこませる度合は、このように和竜県がもっともはなはだしかった。それは、この地方で党組織の指導的地位を占めていた者たちが政治的野心を達成する方向で人びとの運命を翻弄したからである。「粛反」のほこ先は、革命実践において模範的で大衆の信望が厚い闘士たち、阿諛と屈従を知らず、不正にたいしては妥協することのない堅実な闘士たちに向けられた。朝鮮人の幹部のうちで反民生団闘争をもっとも極左的にくりひろげたのは金成道であった。東満特委が汪清に位置していたころ、金成道はそこで堕落した生活をしていた。彼は妻を連れて歩き、特委、県委の幹部たちと一緒に飲酒と花札賭博にふけった。妻がモダン女性気取りで家事をかえりみなかったので、家事いっさいは児童団員に押しつけられていた。金成道はケシの花がきれいだといって、人民を駆り出して植えさせ、その乳液を貢がせた。それでいながら、「清廉な政治」を念仏のように唱えていた。このように、私生活が薄汚い金成道が、真の革命家を民生団に追いやって排除したのは言語道断である。はなはだしくは、彼は児童団員たちにまで民生団に入ったという自白書を書くよう強要したほどである。

 政治工作で多くの功労を立てた竜井東興村アジトの責任者金根洙も、極左分子の手にかかって刑場の露と消えた。

 「わたしは民生団ではない。どうしても疑わしいというなら、たとえ両足を切り落としても命だけは生かしてくれ。両足を切ってしまえば逃げ出す恐れはないではないか。あなたたちがわたしを殺さず両足を切断するだけにしてくれれば、手で敷物を編んででも革命のためにつくしたい。革命闘争をつづけられずに死ぬのが口惜しい」

 これは、刑場で彼が最後に言った言葉である。しかし、「粛反」指導部はかえって「あれを見ろ。あいつは、死のまぎわになっても民生団の役を果たしている」とわめき、彼を棍棒で殴り殺してしまった。

 「粛反」の鉄槌は、党組織と大衆団体の範囲を越えて遊撃隊の頭上にまで打ちおろされた。「ホミ掻き」というあだなの持ち主で遊撃隊の模範戦闘員として活動した楊泰玉も、民生団のレッテルを張られて大衆審判を受けた。「罪名」は、銃の撃発装置を故意にこわしたというものである。楊泰玉に「ホミ掻き」というあだながついたのは、彼が組織の責任者とともに三蒲洞の飲食店へ行って緝私隊(密輸業者の取締り隊)の隊員の武器を奪取したときからだった。そのとき、緝私隊員のうち2人は飲食店の中でアヘンを吸い、1人は外で見張りをしていたのだが、楊泰玉はその見張りとはげしく格闘した。しかし、力のうえではかなわなかったので、腰に差していたホミ(草取り鎌)で緝私隊員の顔面を殴りつけた。緝私隊員が顔を覆って倒れたすきに銃を奪って三蒲洞の台地に駆け上った。彼は山の斜面を駆け上りながらも、銃を撃ってみたい衝動を抑えることができず、そっと引き金を引いた。どうしたわけか、彼が期待していた「バーン」という音は出なかった。安全装置がしてあったのである。彼は、ホミで撃発装置を叩いて安全装置をはずした。しかし、ホミの峰で打たれた撃発装置の傷のため、後日、彼は遊撃隊から除隊させられ、敵地に追放される羽目になった。

 極左分子と分派・事大主義者によって民生団の濡衣を着せられて極刑に処された人や、遊撃区から追放された人は、ほとんどが「ホミ掻き」のように死も恐れぬ勇敢で筋金入りの闘士たちであった。そういう闘士たちが民生団の役目を果たそうとして、にせの拳銃やホミを持って白昼に武装警官の銃を奪取するという冒険をおかすであろうか。しかるに、審判を仕組み彼らに有罪の判決を下した人間たちには、そういう熱血闘士たちが民生団に入る理由も、反革命に加担する必要もないことを判別できる能力もそなわっていないというのだろうか。いや、これは判断力の問題ではない。少なくとも革命に参加した人間でその程度の判断力さえない者はいるはずがない。

 安図の闘士たちの証言によると、車廠子だけでも数百名の朝鮮人が民生団事件で虐殺されたという。東満党との連係が緊密で間島の実情に非常に明るい周保中もその回想録で、民生団事件で殺された人の数は2000名に及ぶと証言している。

 「反民生団闘争」の陣頭指揮をとった者たちは、「粛反」の実績をあげるため、共産主義者としては考えられない悪辣な方法で、党組織と大衆団体のメンバーはもちろん、児童団のアクチブにいたるすべての民生団嫌疑者に耐えがたい苦痛を与えた。「粛反」運動の先頭に立った金成道、宋一、金権一らも、最後には民生団という判決を受けて銃殺刑に処された。宋一や金権一はいずれも善良な人間であったが、主体性を確立することができず、上部に盲従して本意ならぬ過ちを犯した。わたしは、彼らが刑場で金日成同志万歳を叫んだという話を聞いて驚いた。この2人は、わたしと重要な路線上の問題で論争したこともある。遅ればせながら、彼らは刑場で理性を取りもどし、冷徹に自分自身をかえりみたのに違いない。

 朴賢淑(パクヒョンスク)といえば、汪清でも5本の指に数えられる一流クラスのモダン女性であった。目が星のようにキラキラするからと、小汪清の人たちは彼女を「明星まなこ眼」と呼んだ。芸能に造詣の深い彼女は一時期、汪清で児童局長をつとめた。年は若かったが、地下工作経験が比較的豊富な女性であった。彼女の義父崔昌元(崔ロートル)は、県の反帝同盟の責任者であった。朴賢淑がまだ崔亨俊と結婚する前、彼女の指導を受けていた牡丹川の児童団員たちは、2人のあいだを行き来しながら連絡の役目を果たした。朴賢淑から金をもらうと、児童団員たちは商店を歩いて遊撃隊に送る物資を買い入れた。それらの物資は「明星眼」の手をへて、秘密遊撃隊と別働隊の組織を急いでいた闘士たちに送られた。朴賢淑の一挙一動をひそかに監視していた警察は、彼女に逮捕令を下した。その日、彼女は同僚の結婚を祝うつもりである家に待機していたのだが、警官がその家にまで手をのばし、朴賢淑を引き渡せと乱暴を働いた。自分のために当家の主人に迷惑がかかるのを恐れて、天井裏に隠れていた彼女は「わたしはここにいる」と言って、警官の前に平然と現れた。彼女は獄につながれ、生身を切り取られるような拷問にあいながらも、節を曲げなかった。村人たちが面会に行くと、餅の器に革命歌を書き記してもどしたりして、むしろ獄外の人民と同志たちを励ました。その後、警察は彼女を釈放した。朴賢淑が崔亨俊と結婚式を挙げる日には、共産党の女がどういう嫁入りをするのか見たいという口実で、百草溝の警官が3人も割りこんできては、供応を受けながら新婦に歌まで請うた。朴賢淑は、その要請を受けて堂々と革命歌をうたった。ほろ酔い気分で新婦の歌を聞いた警官たちは、それが革命を扇動する歌であることも知らず、共産党の女がたいへんな名歌手だといってアンコールまで求めた。

 朴賢淑の夫崔亨俊も革命に忠実な人であった。家庭生活も堅実で、闘争でも模範であったが、不幸にも銃弾を受けて片足が不自由な身になった。そのために、地方工作では以前のような実績があげられなくなった。馬や車があるわけでもなかった。そんな不自由な体では、遠い道のりを行き来するのもままならず、仕事がはかどらなかった。ところが「粛反」指導部は、彼に「消極分子」というレッテルを張って民生団扱いをし、迫害し監視した。朴賢淑も民生団の妻だという理由で幹部のポストからはずされた。そして、彼女が離婚を決心したという、うわさがわたしの耳にまで届いた。それで、わたしは彼女に会ってこんこんと諭した。「民生団」問題は、一時的なものであり、いつかは解決される問題だ、崔亨俊は地下工作で実績をあげた人であり、遊撃区に来てからもりっぱに戦った人ではないか、彼は理論水準も高い革命家だ、それなのになぜ離婚するというのか、間違っている、と批判した。その後、われわれは朴賢淑をソ連に送った。彼女がいまなお生きているとすれば、反民生団の熱風に草木までうち震えた汪清時代をどんな気持ちで回想しているだろうか。

 遊撃区の人民は、老若男女を問わずすべて動揺した。革命なんてそんなものなのだ、なにかといえば内輪同士で殺し合い、無実の罪までつくりだすといったほどなのだ、朝鮮人が不毛の地にひとしい間島で耕地を開拓し革命も開拓したのに、その先駆者たちを殺害したり追放したりして、いったいどういうつもりなのだろうか、それこそ主導権を握るための粛清でなくてなんだろう、権力のためなら、かつての道義も因縁もおかまいなしに味方を殺りくするのが革命だというなら、そんな革命をしてなにになるのだ、こんなことなら、家族を引き連れて故郷へ帰って野良仕事をするか、僧侶にでもなって木鐸を叩いて歩くほうがましではないか。このように、人びとは苦々しく思うようになってしまった。反民生団闘争の狂風は、このように人びとの人生観と革命観をくもらせてしまったのである。

 意識の低い大衆は、革命を放棄し、敵地か辺地に逃避するようになった。革命を志してきて革命に排斥され宙に浮く身の上になった彼らが、羽をたたんで住みつく所はいったいどこだというのだろうか。革命は生きるためのものであって、死ぬためのものではない。人間らしく生きるためにたたかうのが革命であり、正義のために一身を惜しみなく投げだして戦いの場でいさぎよく死んで永生を得るのが革命なのである。しかし、永生などといえたものではない。革命家たちは、昨日まで同じ釜の飯を食べた人間の手によって無差別に殺されているのだ。

 それで、わたしは解放後に、反民生団闘争のために遊撃区を去って「帰順」した人たちには罪がないと宣言した。革命を志しても、それをできなくする人間たちに無念の死を強いられまいと遊撃区と決別したことがどうして罪になるのだろうか。

 非道な殺りくにより、汪清の川と古洞河の水は鮮血で染まり、間島のどの谷間でも痛哭の声が絶える日はなかった。 こうした現実に幻滅を感じたあまり、史忠恒も間島から立ち去ってしまった。彼は「わたしは行く。ここでこれ以上、血なまぐさい臭いをかいで暮らすことはできない。共産党の治下でどうしてこんなことが起こるというのか。東満党指導部が共産党の恥さらしをしている」と言って北満州へ去ってしまったのである。

 わたしは反民生団闘争の重大さを見てとり、より具体的な真相を知るため多くの人に会った。当時、腰営口の住民は敵の討伐がはげしいため、山林の中で土窟をつくって暮らし、革命軍は遊撃区の入口に兵舎を建てて生活しながら人民の保護にあたった。遊撃隊の兵舎から村までは6キロほどあった。わたしが伝令兵をともなって村へ行き、老人たちと語り合っているとき、洪慧星が話したいことがあるといって訪ねてきた。わたしは老人たちとの話を終えて彼女に会った。

 「指導部の人たちはひどすぎます。口惜しくてもう我慢できません。汪清に来て苦労に苦労を重ねながらも歯を食いしばって我慢してきましたが、この気苦労にはとても耐えられません。間島でこんなひどい目に会いながら革命活動をするくらいなら、いっそのこと国内へ行って地下闘争をした方がましです。ここでのように遊撃根拠地はつくれないにしても、地下闘争ならいくらでもできるではありませんか。必要な工作費は薬局を経営している父の財産をはたいてでも工面しますから、朝鮮へ行きましょう」

 洪慧星は唇をかみながら、涙にうるんだ目でわたしを見つめた。わたしは手振りで声を落とすよう彼女に合図した。

 「こんなときに、そんな不用意なことを口にしてはいけない」

 「将軍を信じてのことです」

 「壁に耳あり障子に目ありというではないか。言葉を慎んだほうがいい」

 わたしは洪慧星の告白を聞いてわびしい思いにとらわれた。洪慧星まで遊撃区を離れようと決心したとすれば、この汪清に残って革命をつづける人物は果たして何人いるだろうかという暗たんたる気持ちになった。彼女は、誰よりも遊撃区を熱烈に愛した女性であった。遊撃区もまた彼女に大きな愛情をそそいだ。彼女は、大胆な地下工作員であると同時に、生気はつらつとした情熱的な児童たちの教師であり、免許証はなかったが、診断と治療の上手な非専従医師でもあった。東満党指導部と汪清県党の幹部のなかには、彼女の治療で3年越しの疥癬を治した人もいた。疥癬を治してもらった人は誰もが洪慧星に礼を言った。幹部たちも彼女を逸材だとたたえた。洪慧星は、自分こそは遊撃区に必要な存在であり、ひいては、なくてはならない存在だと自負していた。そういう彼女が突然、わたしに脱出を訴えたのである。その一言だけでも、彼女は民生団として処刑されるに十分だった。彼女がわたしを信じて自分の心情を正直に告白したのはうれしかった。あれほど情熱にあふれ、闘争意欲に燃えていた洪慧星ですら脱出を決心したほどだから、遊撃区の空気がいかに殺伐としていたかは言わずもがなのことである。同志たちの屍で覆われたこの間島は、かつて彼女があれほど熱愛した別天地でも、わが家でもなかった。だが、わたしは彼女の提言を受け入れることはできなかった。

 「そんなことをしてはいけない。自分一人が生きるか死ぬかということは問題ではない。革命が滅びるか興るかというこの瀬戸際に、苦難に耐えることができず安易な道を選ぶなら、自分自身をどうして真の共産主義者といえるだろうか。たとえ苦しくおぞましくても、ここで民生団問題を収拾して闘争をつづけるべきだ。これだけが革命家の行く道であり、革命を救う道なのだ」

 わたしがこう所信を述べると、洪慧星は涙をぬぐってわたしをじっと見つめた。

 「あまりにもお先真っ暗なので弱音を吐いてしまって、許してください。わたしはこのことをお話ししたくて、将軍が北満州からお帰りになるのを待っていたのです。わたしだけではありません。みんな民生団の牢屋にいても隊長さんの帰りを心待ちにしていました。金隊長はいつ帰ってくるのか、金隊長から便りはないのか、金隊長に東満州の状況を伝える方法はないのか、といって隊長さんをどんなに待ちあぐんだかご存知ないでしょう。ところが、ここでは北満州遠征隊が全滅したといううわさが広がりました。日本人が発行する新聞にもそう出ていましたし」

 洪慧星はうっ憤をこらえきれず、両手を胸にあてた。彼女の目頭ににじむ血のしたたりのような涙を見ながら、わたしは胸が引き裂かれるような自責の念にかられた。彼女の言葉は、朝鮮の革命家としてわたしに負わされた責任を深く考えさせた。革命がこんな無惨なものに終わってしまうのか、それとも息を吹き返して再起するのかというこの厳粛なときに、数千数万の生命を脅かす「粛反」の無分別な殺人行為を阻止できないなら、わたしは朝鮮の男児という資格はおろか、この世に生き長らえる必要すらないと思った。

 それでわたしは、反民生団闘争の問題を正すための会議を招集するよう、東満党指導部に提起した。時を同じくして、満州省委(満州省党委員会)の巡視員も同じような会議の招集を発案した。数日後、わたしは一通の連絡文書を受け取った。大荒崴で東満州地方の軍・政幹部の連席会議を招集するという通知であった。出発に先立って、わたしは炊事隊の兵舎を訪ねた。数か月来、民生団の嫌疑をかけられてふさぎこんでいる洪仁淑に、北満州で手に入れた服地を贈ろうと思ったのである。民生団の嫌疑者に贈物などしては、隊長も「粛反」指導部の手にかかりかねないと戦友たちに警告されたが、わたしはそれを無視した。人道主義が罪になるというのは、話にならなかった。



 


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