金日成主席『回顧録 世紀とともに』

6 人民のふところ


 3重の検問所を無事に通過したわれわれが、あの運命の分かれ目となった夜に定めた宿営地は、大崴子の谷間の壁だけが焼け残っている住家の跡であった。そこで、戦友たちは夜を明かし、翌日の昼まで、わたしの介護につききった。介護といっても大勢がたき火のまわりに座り交替でわたしの手足をもむことだった。

 16人のうちの一部は、満州国に戸籍登録をせずに住んでいるという朝鮮人の家を探し出そうと、翌朝から一日中山中を歩きまわった。しかし、日本の軍警と満州国官憲の目を避け、世捨て人のように暮らしている人たちの隠れ家を見つけるのは容易でなかった。彼らは夜がかなり更けたころ、ゴヨウマツやシラカバ、トウシラベがうっそうとした老爺嶺中腹の原始林の中で、丸太小屋を探しあてた。それが朝鮮人民のあいだに大崴子の一軒家として広く知られるようになった趙宅周(チョテクチュ)老の家である。回想実記『いつまでもおすこやかに』を書いた崔日華(チェイルファ)は、趙宅周老の長男の嫁である。

 山の中腹の密林に、小川をあいだにはさんで、大きさと外形がまったく同じ1間づくりの丸太小屋が2軒立っていた。小川の北側の山すそにある小屋には、趙老人夫妻と長男の趙旭(チョウク)夫婦、孫など9人家族が、南側の小屋では次男趙景(チョギョン)の5人家族が住んでいた。軒が低く丸太小屋というよりは土窟といった感じの家だった。厚く土を盛った屋根には、小松が何本も生えていたが、それは家のありかを隠すための偽装であった。偵察班がその家を探し出せず山中をさ迷ったのも、そんな偽装のためであった。

 老爺嶺を往来する人たちは、大崴子の名も知れない山の中腹に人目をしのぶ風変わりな人生観の持ち主が住んでいることに、まったく気づかなかった。それらの家のありかを知っているのは、東満州と北満州を行き来しながら連絡任務を遂行していた3人だけだったという。

 偵察班からわけを聞いた趙宅周老は、金日成隊長が高熱に苦しんでいるそうだが、たとえ天が崩れようともその方をお救いせねばならん、早く遊撃隊員を案内してくるのだ、と息子の趙旭と孫の趙英善(チョヨンソン)をせきたてた。嫁の崔日華には、湯を沸かし、重湯をつくるようにと言いつけた。

 趙宅周老の家からわれわれのいるところまでは、近道でも8キロ以上あった。趙旭と趙英善が、偵察班と一緒にわれわれの宿営地に着いたとき、遠征隊員たちはたき火を囲んで、昏睡状態のわたしを思って飯ごうに湯を沸かしていた。彼らは意識のないわたしを背負って、趙宅周老の家に向かった。曰竜は、松の枝で足跡を消しながらしんがりをつとめた。

 幼いときから世の辛酸をなめつくした趙宅周老は、韓興権中隊長にいくつかの質問をしたあと、金隊長の病は過労と栄養失調、ひどい冷えからきた傷寒という重病だが、こじらすと命とりになる、体を暖め汗を十分に出せば、3日ほどでもちなおせるだろうといった。そして、この病気の治療には絶対に安静が必要だと付け加えた。

 「金隊長が失神して意識を取りもどせないのは、血液の循環がよくないからです。それがうまくいけば大丈夫だから、心配せずに次男の家でゆっくり休みなされ」

 老人は嫁と一緒にわたしの手足をもみながら、韓興権中隊長にこう言ったという。何日も起きあがれないわたしを囲んで憂いに沈んでいた遠征隊員たちは老人の言葉に力を得た。彼らは老人からいわれたとおり、趙英善の案内で向かいの趙景の家に行った。わたしのかたわらには、趙宅周の家族と2人の護衛兵が残った。

 趙宅周老は、熱い湯にどんぶり半分ほどの蜂蜜をとかして、わたしに飲ませたあと、枕元につきそって、ときどき額に手をのせては病状をおしはかった。しばらくして、蜂蜜をとかした重湯をわたしの口に含ませた。その夜、わたしにつきそっていた護衛兵の話によれば、その重湯を喉に通したあと、わたしの顔に少しずつ血の気がさしはじめ、昏睡状態からさめたという。うららかな春の日和の大気のように頭がすっきりし、身心ともに綿のようにふわふわ浮きあがるような心地がした。わたしの周囲には、あきあきするほどはてしなくつづく密林の雪景色も、吹雪も、寒さも、耳朶を打つ敵兵の銃声もなかった。ずきずきした頭痛や悪寒や高熱はもちろんなくなっていた。どうしたことだろう。わたしを重態に陥れてさんざん苦しめた病気がすっかり治ったのだろうか。

 わたしは心を引き締めて、窓辺をすぎる風の音に耳を傾けた。ブーンと震える障子の目張りの音は、対頭拉子を発った日、老爺嶺の山頂で見た複葉機のエンジンの音を思わせた。わたしの視線は、白い毛の混じった長い眉の下からわたしをのぞいている、見知らぬ老人のいたわるようなまなざしにぶつかった。わたしの右の手首を軽く取っている老人の節くれだった手には、幼年時代、わたしの額や頬を愛撫した万景台の祖父の暖かい手と同じ感触があった。

 「ここは、どこですか?」

 わたしを見おろしている謎のような老人に、わたしは低い声で聞いた。

 その短い質問は、老人の顔に形容しがたい強い波紋を投げかけた。老人の口元にかすかにただよっていた微笑が、みるみるうちに頬と目のあたりに広がって、大地のように慈しみ深く純朴なしわだらけの顔を神秘な表情に変えた。わたしは、それほど清純で、親しみのある顔を生まれてはじめて見るような気がした。

 老人のそばにまんじりともせずに座っていた曰竜が涙をこぼしながら、遠征隊員たちが死線を越えて西扁臉子の伐採場から大崴子の谷間にたどりつくまでのいきさつを一気に話してくれた。

 「ご老人、ありがとうございます。おかげさまで命びろいをしました」

 「いやいや、金隊長は、天が下した将帥です。この丸太小屋で生き返ったのは、わしらの力ではなく、天命です」

 趙宅周老は、まるで天がわたしの命を救ったかのように頭をあげて、天井の隅の方を見あげた。老人の言葉にわたしはすっかり恐縮した。

 「ご老人、お言葉がすぎます。わたしを天が下した将帥などとおっしゃるのはおおげさです。わたしは天が下した将帥ではなく、普通の農家に生まれた人民の子であり、孫です。朝鮮の軍人として、まだ、これといって国につくしてもいないのです」

 「なんということを言われます。金隊長のりっぱな戦功を知らん者はおらんでしょう。わしは、こんな人里離れた山奥で焼き畑を起こしてやっと生きているつまらない人間ですが、東北3省のうわさだけはちゃんと聞いています。これ、この方が一昨年の秋、朝鮮の軍隊を率いて、呉司令の部隊と東寧県城を討った、あの有名な金隊長じゃ。早くおじぎをせんか」

 わたしが意識を取りもどしたという曰竜の知らせで、夜明け前に床から起き出した遊撃隊員と一緒に台所の戸口から入ってきた子や孫たちに、老人はこう高ぶった声でいった。わたしは、半ば上半身を起こし、彼らの挨拶に答えた。

 官庁の戸籍謄本にもなく、郵便配達夫も通わない深山の丸太小屋からは、ときならぬ笑い声がひとしきり流れ出た。

 「いまでは、こうして楽しく笑っているが、敵の包囲に陥って苦労したときは、目の前が真っ暗でした。もうこれで最後かと思ったほどですから」

 金択根小隊長が声をうるませていった言葉である。

 「わたしのために、ずいぶん苦労したろうな。君たちが生き残ったのはなによりだ。死ぬまで君たちの恩は忘れない」

 わたしはそのとき、涙ぐんだ目でわたしを見つめる戦友たちの顔をまぶたに刻みこんだ。いまでも50余年前の彼らの顔は、わたしの脳裏にまざまざと焼きついている。ところが、名前は半ば以上忘れてしまった。名前だけでも後世に伝えたい気持ちはやまやまなのだが、いかんながら、おぼろな記憶力がわたしの願いを裏切ってしまった。半世紀以上に及ぶ月日のあいだに、直接、間接にかかわりあいをもった数千、数万の名前が、その16人の名前に交錯して、区別がつかなくなったのである。抗日革命史の奥深く埋もれている個々の名前を掘り起こすには、史料の助けを借りなければならないのだが、残念なことに、われわれにそんな記録は残っていない。われわれは、記録を残すために抗日戦争をくりひろげたのではなく、勤労人民大衆が主人となる新しい時代を創造するために、手に武器を取って戦ったのである。

 しかし、そんな言いわけをしたところで気が休まりそうにない。いずれにせよ、わたしは、自分を死地から救ってくれた忘れがたい戦友の名を半ば以上も忘れてしまった、かつてのパルチザン隊長ではないか。

 「ご老人、こんな奥地に追われてこられて、故郷はいったいどこなんですか?」

 わたしは血管が青くふくれあがった熊手のような趙宅周老の手に自分の手を乗せて、半世紀の政治史がそのまま刻まれているような老人のしわ深い顔に、憐憫をこめたまなざしを向けた。

 「わしの郷里は、茂山郡三長面です。日本人の乱暴にたまりかねて、29のとき、郷里を捨てて和竜に移ったのです」

 趙老人は沈んだ声で答えた。

 豆満江を渡った年から、老人は30年近くのあいだ小作をした。6.10万歳事件から2年後、老人一家は老爺嶺を越えて日本稲田工事に登録してある荒れ地を開墾しはじめた。

 わたしの眼前には、朝鮮の亡国とともに落ちぶれた一農家の数奇な受難の歴史が、映画のスクリーンのようにくりひろげられた。

 老爺嶺を越えた趙宅周老が、杭を打ちこみ、土台石を据えたところは、朝鮮人の家が3軒、中国人の家が5軒の大崴子という集落であった。その後、朝鮮人の家が10軒に増え、この僻村にも反日自衛隊、婦女会、少年先鋒隊、児童団などの組織がつくられた。しかし9.18事変の余震で、これらの組織は根こそぎ破壊されてしまった。討伐は、村を焼け野原に変えた。村人は、焼け跡に家を建て直し、ねばり強く暮らしていった。1933年の春、二度目の惨禍が大崴子を襲った。住家がまた火炎につつまれ住民は焼死した。

 1934年の春、趙宅周一家は、大崴子から12キロほど離れた老爺嶺の山奥に、丸太小屋を建てて引っ越した。それが、蜂蜜をとかした粟の重湯を飲んでわたしが快癒した家である。趙老人の9人家族は、そこから8キロ離れた谷間のはずれに粗末な小屋を建てて焼き畑を耕した。農繁期には、時間を借しんで家族全員が小屋で寝泊まりした。穀物は実りしだい取り入れ、人力で山小屋に運び地下壕に貯蔵したあと、踏み臼でといて口をのりした。

 素朴で原始的な自給自足の暮らしであったが、趙宅周老はそれに満足した。家族が穀物を持って寧安市街に行くのは、交換に必要なときだけであった。布地、履き物、マッチ、塩、針と糸などを求めるには、どうしても市場で取り引きしなければならなかった。そのほかには、外部との交渉がいっさいなかった。都会の文明は、道路も乗り物も電気もないこの孤立した奥地には顔をそむけた。子どもたちは教育を受けることができなかった。趙老人の訓戒が、教育を代用し、崔日華の昔話と10指にみたない歌が文学・芸術のすべてであった。

 「ご老人、人の往来のない山奥では、さぞさびしいでしょうね」

 うっぷんに近い感情に駆られて、わたしはさりげなく尋ねた。趙老人は、わびしそうに笑った。

 「さびしいが、日本人の姿を見ないだけでもせいせいします。硉島国だってうらやましくありませんよ」

 硉島国という言葉がわたしの胸を刺した。こんな僻地がどうして硉島国に比べられよう。朝鮮民族の理想がこれほどまでに惨めになったのだろうか。日本は朝鮮に移民を送りこんで沃土を取りあげているのに、わが同胞は満州の荒野に追われてきてまで、こんな日のあたらない、モグラの巣のような谷間で暮らさなければならないのか。これほどむごい監獄がまたとあろうか。そうだ。それは確かに監獄だった。普通の監獄と違うところがあるとすれば、看守がなく囲いがないだけである。この監獄の最大の看守は、日本と満州国の軍警であり、囲いは彼らの脅迫であった。趙老人が、この監獄を硉島国にたとえたのは時代錯誤の慰めにすぎなかった。

 監獄に閉じこめられていながら、それを楽園だと思う老人の考えにわたしは気落ちした。朝鮮人が趙老人のように現実に甘んずるとすれば、朝鮮はいつまでも再生の暁を迎えることができないだろう、という暗い気持ちになったのである。

 「ご老人、こんなところを硉島国と考えるようになったのでは、朝鮮人も落ちぶれたものです。流刑の地で知られた三水や甲山もここよりはましでしょう。日本人が朝鮮と満州にいるかぎり、われわれには硉島国も太平な世の中もありえません。いつかは、この山奥にも討伐隊が現れてくることを覚悟しなければなりません」

 わたしは、老人が不安に駆られるかも知れないとは思ったが、つつみ隠さずに話した。

 趙老人は眉をひくひくさせ、絶望をたたえた暗い目をじっとわたしに向けた。

 「あの鬼のようなやつらがこの山奥まで襲ってくるようなら、この世に朝鮮人の住めるところはないでしょう。わしら百姓をこんな目に合わせたのはいったい誰です。…わしは引っ越しのたびに、売国5大臣をののしっているのです」

 その日の早朝、わたしと趙宅周老が交わした話はおよそこんなことであった。

 翌日から、わたしは床を払って散歩をしたり本を読んだりした。数日後からは、軽い手仕事もした。昼は軍事・政治学習を指導し、夜は隊員たちの娯楽会に参加した。娯楽会を催すときは趙宅周老の家に泊まっている2、3人の隊員も、わたしと連れ立って小川の向こうの趙景の家に行った。この狭く暗い難民の山小屋でも、遊撃隊の日課は汪清にいたときのようにきちんと守られた。

 それから3、4日すぎて、わたしは隊伍に出発命令を下そうとした。14人もの大家族がひしめいているところへ、それより多い隊員が居候をして火田民の乏しい食糧をへらすのは、道義にももとる非礼な行為と考えたからである。しかし、わたしの意向は、即座に韓興権中隊長の反対にあった。傷寒を病んだあとで冷たい風にあたるのは自殺行為にひとしい、そんな無謀なことには同意できないというのである。彼は、わたしが林の中を散歩するのにも反対した。

 20人近い隊員が1日3度食べる食糧は少なくなかった。現在、食糧供給所で成人に供給する定量で計算しても、20日では4かますになる。いずれにせよ、その家の食糧はわれわれがほとんど食べつくしてしまった。しかし、趙宅周老は、われわれが負担をかけても、困惑し、顔をしかめるようなことがなかった。われわれが迷惑をかけてすまないというと、自国の軍隊を援護するのは、人民の当然の道義であり、本分である、迷惑だなんてとんでもない、といってかぶりを振るのである。彼は、じつに度量の大きい年寄りであった。

 崔日華も心のやさしい女性であった。焼き畑農作なので、米はなかったが、粟、大豆、大麦、エンバク、ジャガイモなどの雑穀で日に3度、われわれの好みに合うおいしいご飯を炊いてくれた。打ち豆や粗豆腐のみそ煮も食膳にのせた。彼女は、病みあがりのわたしに肉料理をもてなせないことを心苦しく思った。

 「人目をしのんで暮らしているので、家畜を飼わなかったのです。それが残念でなりません。せめて鶏が一羽でもあったら、さっそく将軍にもてなすのですが。10里の先からでも肉を買ってきたいのはやまやまですが、討伐隊につかまりそうで、そうもいきません。なんという世の中でしょう…」

 彼女の飾り気のない言葉には、深く温かい人情がこもっていた。

 「そういわれては恐れ入ります。わたしも小さいときから、青物や干しなっぱ汁を食べて育った普通の百姓の子です。ですから肉のないことなど気にしないでください。にがりがなくて粗豆腐のみそ煮しかつくれないとおっしゃりますが、その粗豆腐のみそ煮と打ち豆のおかげで、こんなに元気になりました」

 「平安道の男衆は気性が荒いといわれていますのに、隊長さんはなんとおやさしいんでしょう。娘がいれば平安道に嫁にやりたいくらいです。粗末なおかずですが、たくさん召し上がって、うちですっかり病気を治してください」

 わたしが食事をするときはいつも、彼女はかまどの前にうずくまって気をもんだ。食べ残しはしまいかと心配したのである。わたしは食欲がすすまないときも、彼女にすまなくて、食膳のご飯とおかずを無理してでも残らず食べた。そんなとき、彼女の口元にはかすかに微笑が浮かぶのである。

 人民のわれわれにたいする思いやりは、まったく清らかで影がなかった。それを川の流れにたとえるならば「清流」や「玉流」になぞらえたい。その思いやりは、長さでも重さでもはかれない無限のものである。

 人民の愛情につつまれて生きる人間は幸せであり、そうでない人間は不幸である。

 これはわたしが一生もちつづけている幸福観である。いまでもわたしは、人民から愛されることに最大の生きがいと幸せを感じている。人生第一の冥利はここにあるのではなかろうか。この冥利を知る人だけが、人民の真の息子になり、忠僕になれるのである。

 趙宅周一家の心づくしで健康は日一日と回復した。わたしは韓興権の反対をおしきって、たびたび散歩をした。家族たちの手助けをして、たきぎを割ったり踏み臼をといたりすることもあった。

 わたしが大崴子の谷間で趙老人一家の真心こもる看護を受けはじめてから、いつしか十数日がすぎた。わたしは遊撃区に早く帰らなければと考えた。汪清を発ってから、ずいぶん長い月日がたったような気がした。日数からすれば3か月にすぎないが、そのあいだ遊撃区はどうなっているだろうか。遠征隊が汪清に帰ったとき、遊撃区はどういう状態でわれわれを迎えるだろうか。それが気がかりだった。なぜか不吉な思いに駆られた。われわれが八道河子一帯で活動していたとき、東満州から来た連絡員はたびたび、粛反工作のあおりで、間島地方の物情が騒然としているとほのめかした。ある者は反民生団の棍棒に叩かれて革命陣地が崩壊しそうだと嘆き、ある者は粛清が本格化すれば遊撃根拠地が1、2年で壊滅するだろうともいった。遊撃区に帰って、極左的な反民生団闘争の弊害を一刻も早く取り除こうという決心は日に日にかたくなっていった。

 ある日、密林の中をそぞろ歩いていたわたしは、韓興権中隊長にそうした決心を告げようと、趙景の家に足を向けた。中隊長は、趙景の家の近くにある切り株に腰をおろし、北の空をぼんやり眺めていた。胸に両腕を十文字に組み合わせ、木彫のように黙然と座っている彼の姿には、近づきがたい哀愁が強くただよっていた。わたしの足音に気づいた韓興権は、あわてて目頭をこすって立ちあがった。わたしは、中隊長の目のふちが赤くなっているのを見て不安になった。昨夜なにかあったのではなかろうか。それとも、この大男に人知れぬ悩みでもあるのだろうか。

 「韓興権らしくないね、朝からどうしたのだ」

 わたしはこういって、彼のまわりをゆっくりとまわりだした。彼はなぜか、わたしを沈んだ顔で見つめた。中隊長は、涙にうるんだ目をしばたたかせ、大きく息を吸いこんでからぽつりぽつりと語った。

 「北満州へ行くときは数十人もいたのに、生き残ったのはたった16人にすぎんのです…。あれほど苦労して組織した中隊なのに」

 わたしは、彼と一緒に第5中隊を組織したときのことを熱い思いで回想した。第5中隊は、十里坪駐屯の汪清第2中隊から分離した新設中隊であった。わたしは、第2中隊の一部の隊員を率いて羅子溝地方に行き、そこで新入隊員を補充して韓興権の指揮する第5中隊を組織したのであった。

 汪清第5中隊は、わたしが直接率いる中隊でもあった。わたしは、大隊や連隊を指揮するときも、つねに第5中隊を引き連れて敵中攪乱作戦をおこなった。汪清第5中隊は東満州遊撃隊のなかでも、もっとも戦闘力が強く、戦闘経験の豊かな精鋭部隊の一つであった。その中隊がかなりの犠牲者を出して、わずかの隊員しか遊撃区に帰れなくなったのだから、韓興権が懊悩するのは当然であった。

 「第5中隊の損失を思うと、わたしも胸が張り裂けそうだ。しかし、北満州の同志たちに有益なことをしたと自分を慰めている。確かに得るところも大きかった。われわれはむだに血を流したのではない。もういちど部隊を増強して戦友の血の代価を100倍、1000倍にして支払わせるのだ」

 これは、じつは自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。

 彼は口をかたく閉ざし、北の空をかたくなに見つめていた。そんな簡単な慰めの言葉でいやされる傷ではなかった。深さや強さをおしはかれないのが男の悲哀であろう。彼の沈黙はわたしを失望させたり、腹立たしくさせたりはせず、かえって彼にたいする信頼感を深めさせた。数日後、わたしは趙宅周老が引きとめるのを振りきって、隊伍に出発命令を下した。老人に別れの挨拶をしようと、丸太小屋の前に整列した隊員たちは厳粛な表情をしていた。

 「ご老人、わたしは隊員の背中におぶさってお宅に来ましたが、こうして歩いて遊撃区に帰れるようになりました。おかげで病気を治し命びろいをしました。このご恩はいつまでも忘れません」

 わたしは、老人一家にそんなふうにしか謝意を表せないのがもどかしかった。感情の強さと表現の乏しさは比例するものらしい。趙老人は、わたしの言葉に恐縮した。

 「ひときれの肉さえもてなせなかったわしらに、それほどまで感謝されては困ります。金隊長をもっと引きとめられないのが残念です。けれども、朝鮮のためにどうしても早く発たなければならないものなら、しいてとめようとは思いません、国が独立したら、わしらもこの山里を離れて、故国に帰ります。わしらは金隊長だけを頼りにしています」

 「みなさんが故郷を捨てて、はるばるやってこられた異国の地でも、こうして日の目を見ることができずに隠れて暮らさなければならないのは、わたしたち朝鮮の若者の責任です。けれども明るい世の中で暮らせる日はきっときます。春になれば敵の討伐がもっと激しくなり、この谷間にも銃声が聞こえるようになるでしょうから、面倒でも羅子溝方面に引っ越してはいかがでしょうか。そこは革命勢力が強いのでここよりは安全でしょう」

 わたしはこう念を押して大崴子の谷間をあとにした。

 崔日華はその日、夜通しで粟や大麦をといてこしらえた3日分の食糧、そしてシラカバの皮に包んだ唐辛子みそとにぎり飯をわれわれの背のうに入れてくれた。長男の趙英善は、老爺嶺の積雪を掻き分けて八人溝まで案内してくれた。

 その後、趙老人の家の近くで、しばしば討伐隊の銃声が響くようになった。わたしの予言が的中したのである。夜中に食糧と衣類をまとめてひそかに大崴子を発った老人一家は太平溝に移り、小作農になった。

 わたしはその年(1935年)の6月、太平溝で老人一家と再会した。老黒山で悪質な靖安軍部隊を壊滅させた東満州の遠征部隊は、そのとき太平溝の隣村の新屯子に滞在して活発な大衆工作をくりひろげていた。わたしは、太平溝村にも有能な政治工作員を派遣した。彼らは、わたしと一緒に大崴子の谷間で趙老人一家の世話になった隊員だった。彼らが道ばたで、たまたま趙宅周老に出会い、わたしに報告したのである。

 わたしは、その日のうちに趙宅周老を訪ねた。半年前、失神状態で老人の家に背負われていったわたしである。あのときは、わたしのそばには、北満州の荒野で疲労困憊した16人の隊員しかいなかった。しかし、その日は16人ではなく、大部隊を率いて元気な体で老人を訪ねたのである。だが、生と死の岐路にあったわたしを、人間としてなしうる最大の誠意をつくして看護し、世話をしてくれた命の恩人たちを訪ねるにしては、荷があまりにもみすぼらしく軽かった。わたしには、いくらかの肉と1、2か月分の食糧が買える金しかなかった。そのわずかの肉や金が数十頭の家畜であり荷馬車一杯の金貨であったら、どんなにすばらしいだろうかとさえ思った。

 徳に徳で報いることのできないときのきまり悪さ、面目なさをなんと言いあらわせばよいだろうか。しかし、わたしは臆することなく胸を張って道を急いだ。なにはなくても、生きてまた会える幸運にあずかったではないか。わたしも無事だし、趙老人一家もみな達者だというから、これにこしたことはない。

 貧しさがありありと読みとれるみすぼらしい居間、そこでほころびた衣服をまとい、狭苦しくすごしている大家族。窮状はきわみに達していたが、わたしを迎えた彼らの顔に明るい笑みが浮かんだ。わたしは、土縁の石に腰をおろして老人とつもる話をした。老人は靖安軍を撃破した革命軍の戦いぶりを知りたがり、わたしは老人一家のまずしい暮らしに気をくばった。

 「ご老人、役牛もなしに、農事やたきぎの運搬はどうなさっているのです?」

 これは、わたしが大崴子に滞在していたときから気遣っていたことである。

 「人力でやっています。14人がみんなで牛や馬になって犂を引き、たきぎを運ぶのです」

 60年の生涯つきまとった貧困を意にもとめない趙宅周老が、その日、わたしの目にはことさらおおように見えた。

 「これだけの大家族を養うのは、たいへんでしょうね」

 「それはもう…。でも、土地を耕す苦労がいくら大きいといっても、金将軍の労苦に比べたら、なんでもありません。このごろは食べるものがなくても、いくら貧しくても胸を張って生きています」

 「なにか、よいことでもあったのですか」

 「金将軍の軍隊が、日本軍をこっぴどい目に合わせているので、せいせいしましてね。革命軍が連戦連勝しているうわさを聞くと、ひもじいことなんかなんでもなくなります。大崴子で金将軍を見送ったときは、目の前が真っ暗でした。わしの家族ほどにしかならない軍隊になにができようかと思いましてね。ところがきのう、老黒山から凱旋する金将軍の軍隊を見ると、何百人にもなっているじゃないですか。それでわしは心のなかで、『もう大丈夫、朝鮮は勝った』と思って膝を打ちました」

 大崴子では主に民生問題ばかり話していた趙老人が、その日は驚いたことに革命軍の戦果だけを話題にした。半年という歳月は、彼を別人に変えていた。世間に背を向けた無気力な、抵抗というものを知らない隠遁者が、みずから決別した世間に帰り、明日への希望をいだいて明るく生きる楽天家になったのである。

 (軍隊が戦いに勝つと人民も強気になる!)

 これがその日、趙老人から受けた衝撃であった。

 わたしは老人の家を出るとき、暮らしの足しにといくらかの金を置き、翌日は隊員を差し向けて、老黒山の戦いでろ獲した一頭の白馬を届けた。いくぶんやせてはいたが、よく太らせて役畜として使ってもらおうと思ったのである。老人一家がわたしにつくした誠意に比べれば、あまりにもわずかな償いであった。金や財物だけで、この一家への借りを満足に返すことができるものではない。

 波乱の多い運命のたわむれは、その後、わたしと超宅周一家を結びつけていた血縁的なきずなを断ち切ってしまった。当時、わたしの主な活動舞台は白頭山地区であった。白頭山地区に進出してからは、太平溝村には一度も行けなかった。わたしが、老人一家の行方を知ったのは1959年の秋だった。中国東北地方におもむいた抗日武装闘争戦跡地踏査団が寧安で崔日華を探し出したという報告がわたしに届いたのである。

 数十年間行方を探しつづけた大恩人が外国ではあるが健在なのだ! すぐにでも国境を越えて寧安に行って恩人たちに礼をいい、それから先達の夢が花と咲いている祖国に招いて、彼らとともに歳月の苔がむした足跡をたどり、なつかしい思い出を語り合いたかった。

 しかし、わたしとその一家のあいだには国境という障壁が横たわっていた。複雑な手続きをしなくてはかなえられない対面! そうした障害も月日とともにつのるわたしの熱望、対面を待ちわびる心を阻むことはできなかった。

 たとえ何か月でもいいから、普通の旅券を持った一市民になって、パルチザン時代のように地下足袋に脚絆、背のうといった格好でにぎり飯をほおばり、ズボンの裾をたくしあげて川を渡り、草木に埋もれた昔日の激戦場をめぐって、戦友の墓に芝生を植え、そして、わたしを命がけで助け、守ってくれた恩人たちに挨拶がしたかった。

 庶民生活へのあこがれとノスタルジアは、どの政治家にも共通した心理らしい。国家管理に責任を負った首班が一般市民の生活をうらやましがるからといって、なにも不思議なことはない。

 解放後、たびたび中国とソ連を訪問する機会があった。満州とソ連の中央アジア地方には、わたしが会いたい戦友と恩人が多かった。しかし、国家首班という公式的な職務のために、訪問日程に私事をさしはさむことができなかった。わたしの関心は、抗日、抗米の2度の大戦で破壊され、零落した祖国の再建にそそがれていたのである。

 もし、わたしが一般市民の資格で、ソ連や中国を訪問したとしたら、抗日戦争時代の縁故者と容易に会えたことであろう。わたしがおりにふれて一般市民の生活を羨望するのは、このためである。

 国家を指導する国家首班が、日常生活で束縛を感ずるといえば「そんなことがありうるだろうか?」と首をかしげる人がいるかも知れない。例えば、ある地方に現地指導に出かけようとすると「主席、その地方は天気が思わしくありません」といい、どこそこへ行って誰かに会おうとすれば「主席、そちらは沼地で車が入れません」といってとめられるのである。もちろん、わたしのためを思ってのことであるのだが、わたしにとっては、やはり束縛にならざるをえないのである。

 翌年、崔日華は、家族を連れて祖国に帰った。趙宅周老の和竜行きからはじまったこの一家の長い放浪生活は、60年のきびしい試練をへたあと、その子孫たちの平壌到着で終わりを告げた。独立した祖国、自由な祖国、廃墟の上に自立の旗をかざし立ちあがる祖国の雄大な姿を、趙氏一家はどのような心境で眺めたであろうか。

 崔日華が帰国したのは、国際世論が「資本主義から社会主義への民族の大移動」と指摘した在日同胞の帰国が実現し、全国が沸いた歴史的な激動期であった。この奔流に乗って、趙氏一家も帰国の途についたのである。当時、崔日華は67歳であった。大崴子の谷間の日陰に積もった雪が吹きよせたのか、彼女の頭は白髪におおわれていた。梁世鳳夫人もそうであったが、彼女もはじめは、わたしの手を取って泣いてばかりいた。

 「こんなうれしい日に、どうしてお泣きになるのですか。わたしたちは、生きて、こうしてまた会えたではありませんか」

 わたしが、崔日華の涙をぬぐおうとハンカチを取り出すと、彼女は目頭をチョゴリの付け紐で押さえた。

 「首相さまが、傷寒で苦労されたことを思い出したのです」

 「わたしの苦労はなんでもありません。苦労はあなたや趙宅周老がなさったのです。わたしはその恩が忘れられず、祖国解放後も満州に人を送ってご家族を探しつづけました。太平溝でお別れしたのは確か1935年の夏でしたね。討伐が激しくなって寧安に行かれたそうですが、その後はどうすごしてこられましたか」

 「いただいた白馬でたきぎを運び出し、それを売って命をつなぎました。首相さまが白馬を下さらなかったら、わたしたちは飢え死にしたに違いありません」

 「白馬が役に立ってわたしもうれしく思います。趙宅周老は1953年に亡くなられたそうですね」

 「はい、義父は生前よく首相さまのことを話していました。アメリカの飛行機が平壌を空襲したと聞いては、『金日成将軍が無事であってほしいものだ』『将軍はたいへんな苦労をされている』といって、夜もおちおち眠りませんでした」

 趙宅周老が最後までわたしを忘れず、わたしの健康を案じたという彼女の言葉に、わたしは胸が熱くなった。

 いつまでも変わらないのは、人民の情であった。この世の中のすべてが変わっても、われわれにたいする人民の愛は変わらなかった。その愛は、きのうからきょうに受け継がれ、さらに明日に昇華して、どんな逆境や災難にあっても、色あせることなく、宝玉のようにいつまでも光を放つのである。

 「7年だけもっと長生きされていたら、祖国にお帰りになれたのに、残念です。わたしは、いまでもときどき大崴子の丸太小屋を思い出します。そこに行かれたことがありますか?」

 「行けませんでした。いまでは、とてもあんな山奥に住めそうもありません」

 「もう、そんな山里に住むようなことはないでしょう。一生苦労されたのですから、これからは、お子さんの世話になって安らかに余生をすごすのです。わたしが、住宅を選んで差し上げましょう」

 1961年4月15日、わたしの誕生49周年を祝って、わたしの家を訪れた崔日華は、わたしに一本の万年筆を贈ってくれた。彼女は、はにかみがちに記念品の説明をした。

 「首相さまがくださった白馬が、この万年筆になったのです。首相さまからいわれたとおり、白馬を太らせて野良仕事につかいましたが、軍馬に徴発されそうなので、牛に替えました。一家はその牛を頼りに生きのびることができたのです。解放後、その牛を合作社に出しました。祖国に帰るとき牛の代金をもらい、この万年筆を買ったのです。首相さまが、お仕事に実りをあげ、万年長寿なさるよう願って、この万年筆を差し上げます。どうかわたしの気持ちをくみとっておおさめください」

 わたしは、白馬が万年筆に変わるまでの趙宅周一家の歩みに凝縮された、朝鮮人民の受難の民族史を感慨深くふりかえった。

 「ありがとうございます。あなたがおっしゃったように、長生きして、人民のためにつくしたいと思います」

 その年の8月15日、全国の家庭が光復節16周年を祝っているとき、わたしは大同江畔の崔日華の家を訪れた。新世帯らしく清新な感じが強くただよう部屋に、祝日を楽しむ子どもたちの明るい笑い声があふれていた。その家は、作家や抗日革命闘士のために、わたしが場所を選定し、設計図を見たうえで建てたアパートであった。そのころは、平壌にそれだけりっぱなアパートはほかになかった。

 平壌市民は、崔日華の住宅があるこの慶上洞一帯を平壌の都心と見ていた。

 「どうです、家が気に入りますか」

 「もちろんですとも。こんなりっぱな家に住むのははじめてです」

 彼女は、新居からの眺めを自慢したかったのか、大同江に面した窓を開け放った。涼しい川風が吹きこんで、労苦の日々をしのばせる彼女の白髪をやさしくなでた。

 「一生山奥で暮らしてこられたあなたのために川辺の家を選んだのですが、山がなつかしくありませんか」

 「いいえ、わたしは、あの大同江を見るほうが好きです。川辺で暮らすと体も丈夫になるような気がします」

 「それでも、山が恋しくなるときがあるかも知れません。大崴子は人の住めない僻地ですが、それでも空気は澄んでいましたね。山の空気がなつかしくなったら、牡丹峰に登ってください。山をなつかしがるだろうと思って、牡丹峰の近くに住宅を選んだのですから、散歩もなさってください。この先もっとよい家が建ったら、新しい家に越すことにしましょう」

 「首相さま、わたしたちはこの家で満足です。ただ、首相さまのおそば近くに住むことができるのですから、それで結構です」

 崔日華は、玄関の外まで見送ってくれた。別れの挨拶をしようと手を差し出すと、彼女は、その手を取って、思いつめたように尋ねた。

 「首相さま、おそばにりっぱなお医者さんがおりますか」

 わたしは、だしぬけにそんな質問をされてとまどった。

 「医者は大勢います。なぜですか」

 「首相さまが傷寒で苦労されたことが思い出されたのです。あんなたちの悪い病気にかかったら、たいへんですから」

 「それはご心配なく。わたしは元気です。それに、そんな重病にかかっても、こわくありません。傷寒を上手に治す崔日華さんが近くにいらっしゃるじゃありませんか」

 彼女と別れたわたしは、深い思いにとらわれ、祝日の雰囲気でにぎわう首都の中心街を長いあいだ見てまわった。2万所帯建設運動ののろしがあがった勝利通り、人民軍通りとともに、平壌の中心街は趣のある公共建築物や高層アパートが立ち並んで、街づくりが完成されつつあった。戦後8年のあいだに数万の首都市民が壕舎を引き払い、復興建設の槌音高い首都の新築アパートに引っ越した。

 しかし、建設事業は、まだスタートしたばかりであった。首都市民の大半は、まだ文明以前のみすぼらしい壕舎や1間の家に住んでいた。彼らは抗日、抗米の戦火の中で、地球上のどの民族も経験したことのない、悲惨な犠牲と苦痛を強いられた人たちである。朝鮮人民ほど血を多く流し、寒さに震え、飢えに苦しんだ人民がほかにあろうか。彼らにりっぱな住宅と織物をもっと多くあてがい、充実した学校、休養所、病院をさらに建てよう。そして、祖国にあこがれる海外同胞をもっと多く帰国させよう。これが、わたしを傷寒から救い、生命を救った人民のために、わたしのなすべき畢生の仕事ではなかろうか。わたしは夜通しまんじりともせず、こう考えた。

 崔日華は、数年前故人となり、愛国烈士陵に眠っている。われわれを八人溝まで案内した彼女の息子趙英善と水を汲んでくれた娘はすでに70代の老人になっている。彼らが解放された祖国で、後半生を送っているのは幸いなことである。

 平壌から大崴子までは、数百里の道程である。豪雪に閉ざされたあの閑寂な谷間に別れを告げたときから、いつしか60年近い歳月が流れた。しかし、きびしい寒風から趙老人の山小屋を守ってくれたあの密林のそよぎは、いまもわたしの耳に休みなく聞こえてくるのである。



 


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